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2012年3月20日 (火)

ミュールベルクの戦い

以下は、『カール5世 中世ヨーロッパ最後の栄光』(江村洋・著、東京書籍、1992)より。

1547年3月、ニュールンベルクを発したカール5世の皇帝軍約1万6千は北上、一路ザクセンを目指した。マイセンに布陣していたザクセン選帝候ヨーハン・フリードリヒは、エルベ河を舟で下り20キロほど川下のミュールベルクに移動、エルベ河右岸に陣を布いた。このあたりではエルベは大河のごとく、川幅も広く水深もかなりある。土手は高く、守るには絶好地といえた。ここを一万を超える軍隊が徒渉するのは、容易ではあるまい。そう確信した選帝候は、岸辺に若干の分遣隊を見張りに残しただけで、自分自身と護衛の者は河畔から数キロ離れた所に幕営したのだった。

4月23日、皇帝軍は彼方にミュールベルクの町が望見される岸辺に到達。こうして選帝候軍はエルベ河の右岸に、皇帝軍は左岸に対陣したのである。

普通の常識からいえば、寝食も満足に取らずにザクセンの山野を進軍してきた将兵らに休養を与え、作戦会議を開いてエルベ渡河の策を慎重に検討し、よく態勢を整えてから実行に移すところであろう。しかし皇帝は、召集した将軍たちを前にして言った。「明朝、早暁のうちに攻撃に移る。しかるべく準備せよ!」

自軍の将官たちでさえが、「まさか戦場に駆けつけたその翌日が突撃の日とは」と驚愕したほどなのだから、敵にとってはなおさらのことだったであろう。案の定、選帝候側はいずれ激突は回避できないにせよ、早くてもせいぜい1ヵ月後のことと楽観し、すっかり油断していた。

1547年4月24日、エルベ河には深い霧が垂れこめていた。まだ夜明けには遠いころながら、全軍に攻撃命令が下された。やがてあたり一帯に殷々たる砲声が轟き始める。4月とはいえ、朝まだきの大河の水は凍えるように冷たい。だが兵士たちはそのような寒さなどものともせずに、少しでも対岸に近づこうと、一歩また一歩と前進する。皇帝軍の当面の課題は、小船をつないで船橋を作ることにある。選帝候側も、予想もしなかった相手の突然の出撃に驚愕しつつも、時々は小高い丘の上から大砲をぶっ放した。だが、深い霧のために狙いが定まらず、砲弾は大河にむなしく水煙をあげるばかりだった。できあがった船橋を伝って、長い槍を手にした歩兵が一団となって殺到する。そのころにはすでに浅瀬を選んだ騎兵隊は、水深1.5メートルのエルベの奔流のなかにざんぶと駒を乗り入れ、渡河しつつあった。何百、何千という馬が鎧兜に身を固めた騎士たちの手綱さばきのもとに大河を渡る。

早春のエルベの流れに真っ先に駒を進めたのは、47歳のカール5世自身だった。皇帝に負けじとローマ王フェルディナント、その王子マクシミリアン、モーリッツ公も突撃する。時の流れは完全に、士気の高い皇帝側にあった。選帝候側にはそれを阻止する力はなかった。かくして皇帝軍はほとんど無傷のまま、困難を予想されたエルベ渡河に成功した。

ザクセン公は、捕われの身となった。プロテスタントの総帥と自他ともに任じ、十数年来、カール5世に逆らい続けてきた選帝候にしては、あっけない敗北だった。

ミュールベルクの決戦は、皇帝側の完勝というに近い結果で局を結んだ。失った兵はわずか50名に対し、ザクセンの新教徒軍は1200名に上った。この戦いを陣頭に立って指揮するカール5世の雄姿は、ティチアンの不滅の画筆で後世に伝えられた。

・・・カール5世、やっぱり「信長」っぽい。この大勝の5年後、「光秀」モーリッツの裏切りに遭い、皇帝は敗走の屈辱を味わう。そして1555年、アウクスブルクの和議で、諸侯にプロテスタント信仰の自由が認められる。シュマルカルデン戦争からアウクスブルクの和議まで、この辺のヨーロッパ中世史も、か~なり面白い。

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