2024年12月 5日 (木)

読み、書き、ブログする

みんなが読みたがる文章』(ナムグン・ヨンフン著、日経BP)から、以下にメモする。

(本の内容を覚えるためにするべきことの)ひとつがアウトプットです。具体的には習ったことを暗唱、要約、討論、発表、関連する文章を書くのです。文章を書くことは読んだことを頭の中で再配列して加工し吐き出す、もっとも代表的なアウトプット方法です。文章を書く過程を通じて、加工した知識がすべて自分のものとして残ります。

読書と文章を書くことはともに進まなければなりません。書くために読み、読むために書かなければなりません。書くために読めば、読みの密度が変わります。

読みながら線を引き、目次ごとに感じた点をメモし、最後に書評を書く。「目次書きと書評書き」は読書しながら文章の練習もできて、本の内容を長く記憶できる、もっとも効果的な方法です。本を読み、書評を書き、ブログにアップしましょう

(Facebook、Instagram、YouTubeなどに比べて)ブログはテーマを決め、ゆっくり企画して文章を書けるため、個人の私生活の露出を避け、気軽に自分の感情を吐き出すことができます。

・・・今はとにかくインスタやユーチューブ全盛の、「画像の時代」という感じだが、文章を志向しつつ、インプットとアウトプットを繰り返して考える人、要するに読み書きする人は、ブログで行くしかないなあと思う。

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2024年12月 1日 (日)

極東ブログの復活

このSNS全盛時代に、「ブログ界隈」というものは存在しないのかもしれないが、最近のブログ界隈の注目ニュースといえるのは、極東ブログの完全復活だろう。この10月、11月は毎日更新だった。この後も、このペースで続くのかどうか、かなり気になる。

さらにネット上に、finalvent氏のおそらく実名と顔写真が出ているのを発見した時も、へぇーという感じがした。しかも佐藤さん、おいらと同じだ。そりゃ佐藤さんは多いから、finalvent氏が佐藤さんでもおかしくないのかも知れないが、広い意味で物書きの人にあんまり佐藤さんっていない感じ(すぐ思い浮かぶのは佐藤優くらいかな)でもあり、何か意外だった。

とにかく今は「画像の時代」だなあと思う。チックトックだ、インスタグラムだ、何だかんだの時代の中で、まあブログというのはコミュニケーションツールとしては殆ど当てにされてない感じではあるが、まあそれはそれで、ブロガーそれぞれが語りたいことを語るという落ち着いた世界を作っていると思えばいいような気もする。

いずれにせよ極東ブログの復活に、ブログ界隈の人間はちょっと心強いものを感じるのだな。

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2024年11月30日 (土)

愛岐トンネル2024秋の公開

きのうの金曜日、愛岐トンネル群・秋の特別公開に出かけた。自分が行くのは10年ぶり。その時は東京在住、日経新聞の文化面掲載の記事を見て、春の特別公開を見るため遠征した。今は名古屋にいるし、リタイア者なので思い立ったら平日でもすぐ行ける。ということで、そんなに人はいないだろうと思っていたら、全くそんなことはなく、JR定光寺駅で中高年中心に降りる人多数。世の中を甘く見ておりました。(汗)

定光寺駅を下車して川沿いに5分程歩いたところにある入口階段を上ると、3号トンネルが目の前に現れる。ここがスタート地点。3号(76ⅿ)、4号(75ⅿ)、5号(99ⅿ)の三つのトンネルを経て、最後に最長の6号トンネル(333m)まで、全長1.7kmの散策ルートである。

3号トンネルの春日井口(南側。北側は多治見口)

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4号トンネルの多治見口。今年の紅葉の進み具合は遅いようである。

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5号トンネルの春日井口

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6号トンネルの多治見口。ここが散策ルートの終点。ここから先は岐阜県になる。

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2024年11月29日 (金)

老舗政党、「オワコン」の危機

日経新聞電子版の本日付発信記事「老舗政党は衆院選なぜ苦戦」から、以下にメモする。

結党して半世紀以上を超す「老舗政党」が10月の衆院選で苦戦した。政党の基礎体力といえる比例代表の得票をみると、支援者や党員の結束の強さで知られる公明、共産両党の減少傾向が止まらない。2012年の政権復帰後は一強状態だった自民党も比例票を大きく減らした。

結党60年を迎えた公明党は8議席減の24議席にとどまった。比例得票数は596万票となり、1996年以降の現行制度で最低を記録した。支持者の高齢化の影響が指摘される。

102年の歴史を持つ共産党は10議席から8議席に減らした。比例票は336万票で、14年衆院選と比べ半分近くまで落ち込んだ。議席数はれいわ新選組を下回った。同党も党員や支持者の高齢化に悩む。衆院選で自民党派閥の政治資金問題が大きな争点となった。党の機関紙「しんぶん赤旗」は問題を広く知られる前から報じていた。田村氏は「赤旗が共産党の機関紙だと知らない若い人が少なくない」と語る。「裏金問題をスクープしたことはさらに知られていない」とも話した。攻め手をつくったが自民党批判の受け皿になれず、悔やむ気持ちを隠せない。

25年で結党70年を迎える自民党は比較第1党で政権の座を守ったものの、少数与党になり厳しい政権運営を迫られる。比例票は1458万票となり、現行の選挙制度に切り替わった1996年以降で最少となった。

自民党に限らず老舗政党はなぜ票が出せなくなったのか。日本人の組織に対する帰属意識の低下も要因の一つとして考えられる。

2025年は昭和100年。平成生まれの筆者にとり自民、公明、共産各党は歴史をつくってきた一方で昭和の香りがする。日本社会のあちこちで組織に縛られず生きる人が増える。老舗の変わらぬ良さを生かしつつオープンな組織のあり方を模索しないと時代に取り残される。

・・・日経の若い記者が老舗政党に「昭和の香り」がする、というのも分かる気がする。特に公明党と共産党については、宗教学者・島田裕巳先生の見方が納得できる。つまり、創価学会=公明党と共産党は、高度経済成長期に地方から都市に出てきた若者をターゲットに拡大を図った組織であり、両者の歴史的役割は終わった、ということだ。要するに公明党と共産党は「オワコン」である。「昭和の香り」3党の中でも、政権与党経験の長い自民党はまだまだしぶとさを発揮するだろうが、与党としての公明党そして野党としての共産党、両党の存在意義は事実上消滅している。

そして昭和的選挙戦術と言えば「組織票」。その影が、今年の選挙では大層薄くなった。先の総選挙で、公明党が現有議席を確保できなかったのは驚きだったし、およそ40%の低投票率だった名古屋市長選でも、既存政党相乗り支援の候補が敗れた。一方で、都知事選や兵庫県知事選では、SNSの影響力の強さがあれこれ取り沙汰されることにもなった。とはいえ、自分が時代の変わり目を強く感じたのは、やはり「組織票の終わり」といえる事象である。

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2024年11月25日 (月)

『SHOGUN 将軍』劇場公開

先週、期間限定で劇場公開された『SHOGUN 将軍』(第1話と第2話)を観た。

言うまでもない、アメリカのエミー賞受賞作品。今年9月に作品賞、主演男優賞、主演女優賞ほか、史上最多の18部門を受賞したドラマシリーズである。主演の真田広之がプロデューサーも兼ねて、日本文化を正しく伝える時代劇を目指して作り上げた作品が、まさに歴史的快挙を成し遂げたとして、日本のエンタメ界を大いに賑わせたニュースだったのは記憶に新しい。

いわば「本物の時代劇」を目指した『将軍』だが、第1話と第2話を見る限りでは、本物感がそれほど強い印象ではなかった。というのは、ストーリーは日本に漂着したイギリス人の船乗りを中心に進むし、当時の日本に広まっていたキリスト教カトリックの国(ポルトガル、スペイン)と、後からやってきたプロテスタントの国(オランダ、イギリス)の対立を強調する場面がいやに目立っていたからだ。さらに、主人公の武将「吉井虎永」とそのライバル「石堂和成」を含む「五大老」、つまり日本の最高クラスの権力者たち5人のうち2人がキリシタン大名。そのカトリックの2大名が、プロテスタントのイギリス人を速やかに抹殺するよう求めるなど、当時のヨーロッパの新教と旧教の対立が日本にも持ち込まれているという、何だかかなり妙な感じのするストーリーなのだった。お話のベースとしているのは、1600年の「関ヶ原の戦い」直前の時代で、確かに16世紀のヨーロッパは宗教改革の時代であり、その結果としてカトリックのイエズス会が日本にキリスト教を伝えたようなものだけど、日本のキリシタンにプロテスタントを目の敵にする気持ちがあったとは思えないわけで。その辺はキリスト教ベースの西洋人にも入りやすいストーリーにしているのかもしれないが、日本人にはやや奇妙な感じのする「時代劇」になっているというのが、正直な感想。

「インスパイアされた」という言い方になっているが、登場人物にはモデルがあり、吉井虎永は徳川家康、石堂和成は石田三成。フィクションなので別にいいけど、石堂は五大老のひとり(史実は五奉行)で、虎永とほぼ対等感のある人物にグレードアップ。五大老のひとりに、大谷吉継にインスパイアされたと思われる武将がいるが、なぜかキリシタン大名で、ハンセン病が重くなって見た目がグロい感じになっているのが、ちょっと嫌だな。(汗)

もしかすると第3話以降、より本格的な時代劇になっていくのかも知れないが、今のところ配信で見る気もあんまりしないなあ。

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2024年11月24日 (日)

天守は木造復元すれば本物?

名古屋の前市長である河村たかし氏は、名古屋城天守の木造復元計画を進めてきた。その前提には、河村前市長の「木造で復元すれば本物」という考えがあるという。はたして、その考えは妥当なのか。『名古屋城・天守木造復元の落とし穴』(毛利和雄・著、新泉社)からメモする。

河村市長は、復元した木造建物が本物になるのは、三条件(元あった場所に、元の材料の木を使って、資料どおりに)をみたして復元した場合だとして、「奈良文書」と文化庁の「史跡等における歴史的建造物の復元等に関する基準」をあげる。

「奈良文書」とは、ユネスコの世界遺産の基準となっている1964年の「ヴェニス憲章」を補完するもので、1994年に奈良市で開かれた国際会議で採択された。

日本の木造建築は解体修理が行われ、傷んだ木材を継ぎはぎしたり、取り替えたりするが、そうした伝統的なやり方の修理でも本物であることは維持されるとする。日本では、解体修理で、もし創建当初の姿がわかれば、それに復することを「復原」と呼び、燃えたりしてまったくなくなったものを再現した場合には、「復元」と呼び分けてきた。

「奈良文書」は、本物が存続している文化遺産のオーセンティシティ(真正性)の属性として、形態や意匠、材料と材質、用途と機能、伝統と技術などをあげているので、すでに本物がなくなってしまっている場合に、それらの属性を踏襲して復元しても、それはあくまでも複製品(レプリカ)であって本物ではない。

名古屋城の場合、(史資料面から)質の高い復元ができる条件はそろっている。名古屋市は、「天守の木造復元は、オーセンティシティを担保するものと積極的に評価することが可能と考える」とする。ただし、その場合でも、復元された名古屋城の木造天守は、特別史跡名古屋城跡の本質的価値を構成する要素ではなく、「本質的価値の理解を促進」させる要素だ。

・・・名古屋城の石垣は江戸時代に作られた本物であり、名古屋城跡の本質的価値を構成する。一方、天守は復元である限り、コンクリートだろうが、木造だろうが、レプリカであり本物ではない。つまり名古屋城跡の本質的価値を構成する要素ではない。現状、木造復元計画は石垣保全との兼ね合いのほか、バリアフリーでもモメているが、これも人権に鈍感というより、前市長の認識としては、「本物」の天守にエレベーターは要らない、程度の印象。とすれば、たとえ木造でも所詮復元天守なのだから、エレベーターくらい付けろよ、という話だろう。

本日、投開票が行われた名古屋市長選挙では、前市長の後継者との触れ込みで立候補した広沢一郎氏が当選した。前市長の政策をすべて継承するということだが、名古屋城天守の木造復元については、まずは石垣の保全という順序、さらにバリアフリーの実現という課題について、前市長の短兵急かつ頑なな姿勢を修正して、計画を着実に前に進めてもらいたいものだと思う。

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2024年11月23日 (土)

信長と義昭の接近そして離反

今日は岐阜駅前にある「じゅうろくプラザホール」に出かけた。開催イベントは「第18回信長学フォーラム」、テーマは「安土城からみた岐阜」。目当ては、中井均先生の講演だったわけだが、もう一人の講演者、松下浩氏(滋賀県文化スポーツ部、城郭調査の専門家)のお話も、最近の信長研究を踏まえたと思われる分かりやすいものだったので、配布資料も参照しながら、以下にメモする。

当時、「天下」の意味するところは、京都を中心とする伝統的秩序の領域、そして「天下人」とは天下を静謐にする人(とりあえず室町将軍)だった。織田信長といえば、「天下布武」の印章、ハンコが有名。これはかつては、天下(日本全国)を武力で統一するという宣言として受け取られていた。しかし、天下=京都(畿内)であるならば、この理解は誤り。永禄11年(1568)9月、信長は足利義昭を伴って上洛。義昭は室町幕府15代将軍となったことから、「天下布武」とは、室町幕府の再興を意味すると考えられる。

信長上洛の100年前、応仁の乱で将軍権威は失墜。さらに明応2年(1493)に起きた明応の政変以降、将軍家は分裂し、管領の細川家も後継者争いが続いた。政争に敗れた将軍は京都を追われ、有力大名を頼って京都復帰を目指すというパターンが繰り返される(足利義材(義稙)と大内氏、足利義晴・義輝と六角氏など)。ということで、義昭と信長がタッグを組んだこともこの流れの中にある。

義昭は信長の傀儡ではなかった。信長は義昭から「天下之儀」を任されてはいたが、あくまで天下人は足利将軍であり、信長はその代理人である。天下人の責務である天下静謐は、天下人の代理人である信長の戦争の大義となる。義昭の存在は、信長が天下静謐実現のために戦う前提だった。

しかし義昭は何を思ったか、信長から武田信玄に乗り換えようとする。その理由は明らかではない。信長からは、義昭は天下人の務めを果たしていないように見えたらしく、あれこれ義昭を「指導」していたということはある。とにかく、元亀4年(1573)7月、義昭と信長は決別に至る。天正4年(1576)、義昭は毛利氏を頼って備後鞆に移り、今度は義昭が毛利氏に支援されて、京都に帰ってくる可能性も出てきた。

義昭追放により、天下静謐実現の前提を失った信長は、朝廷からの官位を受けるなど、天皇との結び付きを強めようとする。安土への天皇行幸を計画し、安土城内に行幸御殿を作る。安土城は総石垣作りで高い天守を持つ、それまで無かった城であり、信長自らが天下人であることを示す城だった。

・・・義昭を追放した後、信長は新たな足利将軍を立てずに、天下静謐という大義の源を天皇に求めた。さらに、自らが天下人であることを示そうとした。その理由は何か、史料がないと分からないとしても、なかなか興味深いところだ。それはそれとして、改めて戦国時代の足利将軍、8代義政から後の将軍(いろいろややこしい展開だけど)の本を読み直してみようと思った。

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2024年11月22日 (金)

積読(つんどく)の「美学」

本を読む人にとって悩ましいのが、積読(つんどく)。いつの間にやら部屋の中に本が積まれていると、自分の趣味は「読書」じゃなくて「買書」だな、とか思う(苦笑)。誰か、買うだけで内容が頭の中に入る本を発明してくれないか(また苦笑)。

12人の作家・読書家へのインタビューで構成されている『積ん読の本』(石井千湖・著、主婦と生活社)は、本が溢れる各人の自宅などのカラー写真付き。以下に、3者の発言からメモしてみる。

「本は自分の関心事が物の形をとった、知識のインデックスみたいなものなので、必要になったときに読めばいい。だから私は積ん読がいくら増えても気にしません。むしろ積まなくてどうするという感じです(笑)。(背表紙を並べれば)非常に効率よく知識を編集できるんですよね。なるべく目的の本を探しやすい積み方を心がけています。空間を使って、知識や創作物のマップを作っている感じです。」(山本貴光、文筆家・ゲーム作家)

「社会学者の服部恵典さんの言葉がしっくりきたんです。〈積読っていうのは、「読まない本を買ってる」んじゃなくて「自分のための図書館を建ててる」んですよね〉という。自分専用の図書館を作ってると思えば、急いで読まなくてもいいんじゃないかなって。今読まなくてもすぐ手に取れる場所にあるというのは自分にとってはだいじですね。」(柴崎友香、作家)

「本は書いた人の世界がパッケージになったもの。本がここにあるということは〈自分じゃない人の世界がここにある〉ということだと思います。私はできるかぎり、積ん読をしたほうがいいと思うんです。読んでない本があると、世界は外に広がっている。未知の世界に自分が開かれているんです。」(辻山良雄、書店主)

・・・なるほど。積ん読とは、自分の図書館を作ること。あるいは自分が向き合う知識の世界を作ること。と考えて、積ん読に励むとしようか。それにしても、私の部屋の広さの限界が、私の積ん読の世界の限界である、のが悩ましい。(苦笑)

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2024年11月18日 (月)

70年代司馬遼太郎ブームの背景

「日経MJ」17日付発信の文芸評論家・三宅香帆(『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』著者)インタビュー記事の中で、聞き手である中村直文・編集委員が以下のように発言していた。

(著者は)1994年生まれなのにまるで時代を見てきたように書いています。すごい読書量なんでしょうね。 著書内容の大半は同意しますが、司馬遼太郎作品については異論があって。1970年代に会社員らが60年代のノスタルジーとして読んだのでは、と書いていましたが、80年代に読んだ身としては、「まだまだ日本はいける」前提で読んでいました。

・・・年若い著者が、1970年代の司馬遼太郎ブームについて考察しているのは凄いなあと感心したのだが、自分も中村氏同様、そのブームは60年代のノスタルジーだったという見方は、違うと思った。70年代の時点で60年代を振り返ってノスタルジーの対象にするのは、さすがに早すぎるだろうと。じゃあ司馬遼太郎ブームとは何だったのかと問われると、年寄りの自分もすぐには答えが出てこない。(苦笑)

自分は司馬遼太郎をまともに読んだことが殆どない。小説は「国盗り物語」「燃えよ剣」を読んだくらい、それも割と最近の話。司馬作品のど真ん中という感じの「竜馬がゆく」「坂の上の雲」は読んでない。あとは、エッセイやテレビでの断片的な発言を聞きかじりしていた程度だ。

で、いわゆる「司馬史観」もイメージしか持ってないが、軍隊経験のある作家は、とにかく戦時中の日本に違和感ありまくりだったので、何で日本はこんなにおかしくなったのか、昔の日本人はもっとまともだったはずだと考えて歴史小説を書き始めた、という話だったと思う。つまり明治維新から、日清・日露戦争までの40年間は輝かしい時代、その後の大東亜戦争終結までの40年間は暗黒の時代であった、と。なので基本的に、日本と日本人の輝かしい時代を描いているのが司馬作品という印象。

日本の1970年代は、前半の石油ショックを乗り越えて、先進国サミットに非西洋国として参加し、70年代末には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」との声も出た。1960年代の高度成長は終わっていたが、経済大国としての自信は確かなものになっていたと思う。そういう時代に、輝かしい日本を描く司馬作品はフィットしたという感じがする。

ついでに言うと、70年代は日本人論が流行った頃で、これもアジアの中でいち早く近代化、西欧化して、戦争には負けたが高度成長を達成した日本とはどういう国であるのか、日本人とは何かという問いに、日本人自身が大きく関心を寄せたものと見える。つまり日本の70年代とは、経済大国という自信の裏に、内省的な意識も芽生えていた時代ということになる。

そんな時代背景から、日本や日本人を問う作家の姿勢も含めて、司馬作品が70年代の日本の社会状況と共鳴したのではなかろうか。

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2024年11月17日 (日)

政治家の「経済オンチ」は罪深い

日本の政党の掲げる経済政策は妥当性が疑われるものばかり。日経新聞電子版15日発信のコラム記事(自民・国民民主・れいわ「経済オンチ」は一体だれか?)からメモする。

石破首相(自民党総裁)は衆院選で「最優先すべきはデフレからの完全脱却だ」と主張した。一方でそのために掲げたのは「物価高を克服するための経済対策」だった。
デフレなのか物価高なのか。消費者物価指数の上昇率は、インフレ目標である2%を2年半にわたって上回り続けている。生活者の物価感をデフレかインフレかの二択で示せば、今はインフレだろう。ところがデフレという単語は曖昧に解釈できる。「デフレ=経済停滞」と広義にとらえれば、ガソリン補助金のような物価高対策に大義名分が生まれ、有権者にアピールする財政出動に道が開ける。

国民民主の玉木代表は「賃金デフレ」という言葉を使う。それが指すのは「1996年をピークに下がり続けている実質賃金」だという。
実質賃金は、実際に生活者が受け取る賃金(名目賃金)から物価上昇分を差し引いて計算する。2023年の実質賃金は前年から2.5%も下落した。ただ、実質賃金が下がった最大の理由は手取りが減ったからではなく、消費者物価(持ち家の帰属家賃を除く総合)が3.8%も上がったからだ。現状は円安を起点に賃金上昇を上回るインフレ圧力がかかっている。本来なら引き締め的な円安対策を講じるのが王道だ。玉木氏はそれを「賃金デフレ」と言い換えることで、所得税の非課税枠拡大といった大幅減税案で有権者の歓心を買うことに成功した。

衆院選で議席を増やしたれいわの山本代表は「30年不況」という厳しい言葉を繰り返す。
経済論議の中で「不況」とは通常、景気循環上の悪化局面を指す。実際の日本経済は、1993年から2020年までの5回の景気循環の中で拡張期は245カ月、後退期は74カ月と成長期の方が大幅に長い。長期トレンドとして「低成長」の状態にあるが、マイナス成長を続けているわけではない。不況期であれば、失業者の増加を防ぐ即効性のある財政出動と金融緩和が必要になる。山本氏がいう「消費税減税」も検討対象の一つになるかもしれない。

経済状態が不況でなく低成長であれば処方箋は変わる。成長企業に働き手を移す労働市場改革や国際競争力の高いハイテク産業の育成など、複雑な構造改革こそ求められる。野党のように「減税」の一言で政策を語ることはできなくなる。二大政党制と異なり少数野党が乱立する日本の政治は、バラマキ的な公約合戦につながりやすい。政権を担う意志がなければ、財源も副作用も気にする必要はない。

30年の長期停滞でわかったのは、日本経済に一発逆転劇をもたらす「魔法の杖」は見当たらないことだ。レトリックではなく、息の長い地道な改革を説く責任政党はどこなのか。有権者一人一人に政治の幻惑を見破る高い読解能力が求められている。

・・・「デフレ」とか「不況」とか、政治家は言葉を何だかテキトーに使っているなあという印象。政権担当能力のない野党は、経済政策も無責任なことばかり言うだけだ。日本経済を変える「魔法の杖」はないし、地道な構造改革しかないのも分かり切った話。しかし当然ながら、構造改革は言うは易く行うのは難し。はたして今の日本に、地道な構造改革をやり切る胆力のある政治家はいるのだろうか。

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