2021年3月 2日 (火)

ドリアは日本で発案

ドリアって日本で考え出されたのか!日経電子版2/28発信記事「ドリアは日本発」を読んで知る驚きの事実。言われてみれば、ごはんの料理ではあるけれど・・・よもやよもやの日本生まれとは。同記事から以下にメモ。

ドリアはファミリーレストランでも人気のメニューであり、西洋の料理のようにも思えるが、実は日本生まれ。

これが誕生したのは横浜市にある老舗のホテルだ。
「ドリアはホテルニューグランド発祥のメニューでございます。誕生した年度は定かではございません。開業が1927年で、1935年のメニューには記載がございますので、おそらく1930年ごろではないかと推測しております」(ホテルニューグランド営業企画部)

生みの親は初代総料理長のサリー・ワイル氏。同ホテル開業時にパリから招へいされたスイス人シェフで、フランス料理が専門だが、普段から国籍も多様な客からのリクエストに応え、さまざまな料理を作っては提供していたそうだ。あるとき、外国人客からの「体調が良くないので、のど越しの良いものを」との要望を受け、即興で作ったものがドリア。バターライスにエビのクリーム煮をのせ、グラタンソースにチーズをかけてオーブンで焼いたものだった。これが好評を博し、ホテルのレギュラーメニューに。さらにワイル氏の弟子たちによってほかのホテルや街の洋食店でも提供されるようになり、全国に広まっていった。今ではファミレスやコンビニ弁当のメニューにもなるほど一般的なメニューである。この「元祖ドリア」、今でもホテルニューグランドで当時のままの味をいただける。

・・・ごはんの国ニッポンでスイス人シェフが発明したドリア。食の和洋折衷と思えば、カレーライスに近いかも。「洋食」という名の日本食、その革新性に改めて感心してしまう。
記事によれば、レストランチェーン「サイゼリヤ」の提供する「ミラノ風ドリア」も、お店の「賄い料理」が1983年にメニュー化されたものだという。なのでミラノにミラノ風ドリアは無い。イタリアにスパゲッティナポリタンが無いのは知っていたが、ミラノ風ドリアも無いのだな。(笑)

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2020年12月19日 (土)

欧米人の「マスク拒否症」

日本の新型コロナウイルス感染者数が比較的少ないのは結局、みんな大人しくマスクをしてるから、ということになるのかな。『世界のニュースを日本人は何も知らない2』(谷本真由美・著、ワニブックスPLUS新書)から以下にメモ。

日本人にはもともと「マスクをする」という習慣があり、インフルエンザが流行る時期や花粉症の季節にはマスクをする人が街中に溢れます。
ところが海外は違います。台湾や中国では、マスクはめずらしくありませんが、アメリカや欧州、オセアニアでは、マスクは真っ向から否定されていて、身につける習慣があるのは医療関係者だけでした。
彼らにはもともとマスクをつける習慣がありませんから、新型コロナで死者が大量に出ても、マスク着用を頑固に否定する国が多かったのです。

そもそも、彼らはマスクに対して大変な抵抗感があるのです。なぜかというと、「マスクをする人=異常な病気にかかった人」というイメージがあるからです。
さらに、マスクは弱者は病気の象徴であり、目にするだけで不気味だという考え方もあります。
英語圏の映画やドラマなどを観ると、口元を隠しているのは悪役や異常な行動をする人など、要するにヤバいキャラばかりです。
なぜ口元を隠すことがヤバい人の象徴なのか? それは他人と話すとき、英語圏の人々は相手の口元を見て、その人の感情や心を読みとっているからです。ですから口を隠すということは「自分の本心を隠す」ということ。

マスク騒動でわかるのが、一見合理的にみえる欧米の人々でも、実は日本人以上に科学を軽視し習慣や因習にとらわれる側面がある、ということです。

・・・自分も、マスク好きなど日本人の清潔感覚は度を過ぎていると思うこともあるのだが、その感覚が有利に働いたということであれば、今回のコロナ騒動では日本人でよかったという感じだ。

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2020年11月30日 (月)

ポテサラはロシア生まれ

日経新聞電子版(日経スタイル)の11月29日付記事から以下にメモ。

日本人なら誰でも好きなポテトサラダ。そのポテトサラダの起源はいかに? 日本では「ポテトサラダ」といえば、一般的にゆでてつぶしたジャガイモに野菜やハムなどの具材を合わせて、マヨネーズであえたものをいう。ということで、1925年に日本初のマヨネーズを発売し、ポテトサラダに関しても長年にわたり研究を重ねてきたキユーピーにうかがった。

「ポテトサラダの起源は、諸説ある中でも、19世紀にモスクワのレストラン『エルミタージュ』のシェフ、リュシアン・オリヴィエが考案したオリヴィエ・サラダ説が有力です」(キユーピー広報・グループコミュニケーション室)
FAOSTAT(国際連合食糧農業機関統計データベース)によると、2018年度のジャガイモの世界生産量は、1位中国、2位インド、3位ウクライナで、ロシアはそれに続く世界第4位のジャガイモ大国だ。

ロシア発祥のポテトサラダは世界各国に広がり、国ごとに独自のレシピを発展させたという。日本ではどう発展したのだろう。「日本では、大正時代に帝国ホテルでポテトサラダが考案されました。当時はハイカラな高級料理だったと想像できますが、戦後日本人の食生活ががらりと変わるなかで、学校給食にもキャベツ入りポテトサラダが登場するにいたり、日本独自の味に進化していきます」。

・・・加えてキューピーマヨネーズのコクのある味も、日本人のポテサラ好きを後押ししたようなのだが、それはともかく、ポテサラがロシア生まれだったいう、そのことが一番へぇ~って感じだった。

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2020年10月13日 (火)

「人・本・旅」のススメ

世界史好きの経営者として知られる出口治明氏。これまで日本の会社員は長時間労働を強いられ、特に男性は「飯・風呂・寝る」の生活に追いやられ、「学び直し」の時間を作ることも難しかったが、テレワークの広がりを機に「人・本・旅」の生活に転換してほしい、という。今週の「週刊東洋経済」(10/17号)掲載のインタビュー記事からメモ。

おいしい人生は知識×考える力だ。よくどんな本を読めばいいかと聞かれるが、自分が好きな本に決まっている。
付き合う人についても同様だ。どういう人と付き合えばいいかと聞かれるが、相性がよければ付き合えばいい。
旅については、ただ遠くに行くだけが旅ではない。近所においしいパン屋ができたと聞いたら、実際に行って食べてみる。それこそが「旅」で、そうした行動の蓄積が人間を形づくっていく。

・・・「人・本・旅」は出口さんが常々言ってることで、自分も同感する。その生活を実践する方法も、好きな本を読む、相性の良い人と付き合う、知らない場所に行ってみる、と実にシンプルだ。結局人間のやっておくべきことは、仕事を除けば「人・本・旅」になると思う。「人・本・旅」から多くのことを、人は学ぶことができる。学ぶことにより、人は自らを変化させる。ということは、「人・本・旅」は、自分が昨日と違う自分になるための手段である。
仕事をやめてリタイアした後に、やりたいことが見つけられない時は、それこそ「人・本・旅」をやっときゃいいんだと思う。

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2020年10月12日 (月)

五木寛之の語る「苦」

仏教でいう「苦」とは何か。今週の「週刊東洋経済」(10/17号)掲載の、作家・五木寛之のインタビュー記事からメモする。

世の中というのは、不合理で、矛盾していて、努力しても必ずしも報われるとは限らない。そういうことが積み重なっていく不条理な状態をブッダは「苦」と表現しました。
「苦」というのは苦しいのではなく、思ったとおりにいかないということ。不条理という言葉がぴったりなんです。人生は不条理なものだと。その中で何とか生きていくためにはどうすればいいのかということを、論理的に教えたのがブッダという人物でした。
人間の一生というのはつらいことの連続です。そう思っていると、違うことに触れたときの喜びが大きい。虚無的というのか、不条理を肯定する。ブッダが言う「苦から出発する」「人が生きることは苦だ」「人間の世界は苦の世界だ」という考え方は、非常に合理的なのです。

・・・仏教でいう「苦」は、苦しみではない。そのとおりだと思う。例えば四苦八苦の四苦、生老病死は、一見「苦しみ」に見えるかもしれないが、むしろ自分の意志では変えることのできない、いわば純然たる身体的出来事である、と考える方が正確ではないだろうか。このほか、愛する人と別れてしまうこと、憎む人と出会ってしまうことも、四苦八苦に含まれている。これはいわば物理的な出来事だ。身体的物理的、つまりフィジカルな出来事は、自分の心ではどうすることもできない、ということを「苦」は意味しているのだと思う。そして、この世の根本は苦だと割り切れば、むしろ心は平安を得られるという、逆説的な認識を得ることも可能だろう。

付け加えると、昭和7年生まれの作家は、自分たちの親世代の人である。つまり少年少女時代の戦争の経験を記憶している。同じ記事の中で、作家はこう語っている。「僕は敗戦の年から、ずっと同じ考え方なんです。あの価値変動の中で、国も政府も全部ひっくるめて、すべて信用できない」。自分はいつも、作家の言葉を親世代の言葉として聞いている。

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2018年10月20日 (土)

三英傑、マナーポスターに

最近、名古屋の地下鉄で見かけるのが写真のポスター。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の「三英傑」が社内マナーを訴える、名古屋市交通局の広告である。今日は、社内吊りその他すべてがこのマナー広告という電車に乗り合わせてびっくりした。(笑)

Photo_2   

信長は「混むならばまわりに気づかえそのリュック」で、「たーぎゃーにしなかんゾ たぁーけモンがー」と怒り爆発。
秀吉は「歩くならしまっておこうスマートフォン」で、「ところかまわずはダチかんわぁ」と戯けるように嘆いてみせる。
家康は「ゆずるなら迷わずゆずろう優先席」で、「ぜったゃあゆずったれせんわ!」と力む若き日の自らの画像(例の「しかみ」像が元ネタと思われる)を前に、「でぇえらぁ若かったもんでかんわ・・・」と反省口調。

なかなかベタに名古屋っぽいのも悪くないな。

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2018年8月 4日 (土)

「読書感想文」で思考力アップ

東洋経済オンライン8月3日配信記事「東大生が断言!「読書感想文」の凄すぎる効能」から、以下にメモする。この記事の執筆者である東大3年生の西岡壱誠さんは、自らの読書法をまとめた本も出している。

みなさんは、夏休みの宿題によくある「読書感想文」は好きでしたか?
実は、「読んだ本の感想を言語化してみる」というのは、とても学習効果の高いことなのです。

読書感想文の1番のポイントは、「アウトプットである」ということです。
読書という行為は「インプット」でしかありません。記憶に残し、次に活かせるようにするためには、「アウトプット」が必要なんです。
実は人間の脳は、「アウトプット」したほうが暗記できるように作られていると言われていま
す。
そして、「感想を書く」という行為はアウトプットにほかなりません。
インプットした内容を頭の中で整理して言語化するのが「感想を書く」ということです。
「なんとなくよかった」ではなく「ここが、こういう点で、こんなふうによかった」と言語化することで、本の内容を忘れなくなるのです。

さらに、読書感想文のために本を読むことで、「アウトプットが前提のインプット」をすることができます。
「あとで感想を書かなきゃ」と考えていると、「ただ漫然と読んで何も考えない読書」から脱して、「何かを発信することを前提とした、何かを考えながらの読書」をすることができるようになります。いつもの受け身的な本の読み方から、能動的な本の読み方へと読書の質が変わるのです。

・・・全くその通りだと思う。実は今、たまたま歴史をテーマとした新書の新刊を読んで、A4一枚の読書記録を作ることをやっているので、ここで言われていることは実感として分かる。「書くために読む」というのは、読書を非常に意識的な行為にする、ということなんだな。

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2018年4月27日 (金)

雑誌「angle」の頃、40年前の東京

『あのころangle』という雑誌が出ていることを教えてくれたのは、今月24日付の日経新聞コラム「春秋」。以下に要約的にメモしてみる。

文字のびっしり詰まった精密な手書き地図と、とことん歩いて得た情報。1977年に主婦と生活社が創刊した雑誌「angle」が消えたのは85年、バブルが始まる時期だ。むさ苦しい若者が減り、おしゃれな場所が増えていった。そんな世の流れと無関係ではなかったかもしれない。

休刊から30年あまり。版元のシニア編集者らが集まって、79年刊行の別冊「街と地図の大特集」を復刻させた。かつて愛読者の学生だったり、駆け出し社員だったりした面々もすでに還暦前後である。平成も終わりが近づくなかで、昭和の東京とそれを伝えた媒体の息づかいを記録にとどめようと企画がまとまったという。

「この雑誌は『面』としての街の魅力にこだわっていた」と復刻に携わった森本泉(60)さんは言う。何でも検索のネット時代が見失った、探索の醍醐味がそこにはある。

しばし復刻版を眺めれば、池袋をブクロ、吉祥寺をジョージなどとしきりに愛称で呼んでいる。気恥ずかしさを覚えつつ、人間の匂いのした街を思う。

・・・「angle」はまさに、「東京」を「読む」タウンガイドだったと言える。思えば「街と地図の大特集」が出た79年、僕は「ジョージ」をうろつく20歳の大学生だった。あれから40年近い時が流れたのだ――といっても実はそれ程の感慨はない。あるのは、とまどいにも似た薄い驚きの感覚というか。むしろ「angle」復刻版という媒体を目の前にすることによって、自分は確かに40年前の東京にいたのだ、という実感を与えられているような気がする。

それはさておき、今の東京はどうもおしゃれになりすぎている感もある。歩いていて何となく疲れるような。それこそ自分の年令のせいかもしれないが。でも昭和の東京には、楽しい人、つまんない人、いろんな人の思いをそのまま受け止めてくれる、そんな街の温もりがあったのかもしれない。などと思ったりする。

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2018年3月31日 (土)

「最後の晩餐」何にする?

本日付日経新聞プラス1(土曜版)記事「食の履歴書」から、タレントの関根勤が希望する「最後の晩餐」をメモする。

アジの開きか塩ジャケにのりやみそ汁がついた、旅館で出てくるような朝食がいいかな。実家でよく出てきたわけではないけれど、幼かったころを思い出させてくれる、日本文化の原点のような気がする。青い静かな海が一望できる場所で食べてみたいですね。

・・・「最後の晩餐」は、有名人インタビュー質問のネタの一つという感じで、いろんな人のいろんな意見があるんだろうけど、自分と同じ意見の有名人を見たのは初めてかも知れない。

思うに「最後の晩餐」は、特別なものよりは当たり前のものの方がいい。となれば、やっぱりニッポンの朝ごはんでしょう。焼き魚に海苔、そして卵かけごはんだな。味噌汁は豆腐かな。とにかく、関根さんに同感です。

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2017年6月23日 (金)

岐阜羽島駅の謎

先日の新幹線の架線事故による運転停止の際、岐阜羽島駅に停車中の新幹線車内で「近くにはコンビニもありません」とのアナウンスが流れたらしくて、これがネット上で話題になったとか。降りたことないけど、確かに岐阜羽島駅って、何にもない感じだよねぇ。何でこんなところに駅があるのか? 本日配信の「乗りものニュース」からメモしてみる。

この岐阜羽島駅は、「政治家の力によって駅ができた」という噂も存在しました。駅前には岐阜羽島駅の誘致に尽力したとされる地元選出の政治家、大野伴睦夫妻の銅像も建っています。

岐阜羽島駅は1964(昭和39)年、東海道新幹線(東京~新大阪)開業時に新横浜、小田原、熱海、静岡、浜松、豊橋、名古屋、米原、京都の各駅とともに設けられた途中駅のひとつです。

実はこの駅、ある役割をもってつくられました。

JR東海の元会長である須田寛さんの著書『東海道新幹線Ⅱ』(JTBパブリッシング)によると、「関ケ原付近の積雪に備えて名古屋、米原の中間に除雪車両の基地、除雪列車(機械)の折返し設備が必要であり、たまたま岐阜県下にも一駅を設ける要請があってそこに駅を併設した」とあります。

また公益財団法人交通協力会『新幹線50年史』によると、「この駅は関ヶ原の急勾配区間を控えていることから、故障車の留置線を2線設置できるように考慮」とあります。

このように、岐阜羽島は関ヶ原の雪や異常時のことも想定しつくられた駅で、東海道新幹線の中間駅としては規模が大きく、4列車までホームに停車可能。大雪や、また今回のような異常時における列車の留置などに対応できます。

・・・乗降客よりも鉄道会社の都合というか、相当テクニカルな理由で作られた駅なのね。

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