2023年6月18日 (日)

子を持つ=人生の意味?

子供を持たない人に、人生の意味はあるか。日経新聞電子版6/16発信、生命哲学を研究する森岡正博・早稲田大学教授のインタビュー記事からメモする。

人類は古代から世界中でそれ(人生の意味)を考えてきた。最近では20世紀中ごろにフランスのサルトルらが「実存主義」という観点から、社会の中で生きる意味を問いかけ、学生運動などに大きな影響を与えた。その後やや下火になっていたが、この10年ほどまた、「人生の意味の哲学」が活発になってきた。

人は大きな流れの中に位置づけられると意味を感じやすいというのは、共感する人も多いのではないか。祖父母、親、自分、子供、孫というような血筋の流れに組み込まれることは人生の意味になるという考えだ。ただ、それに反対する考えもたくさんある。

哲学というのは結構極端なことも含め、理詰めで考える学問だ。哲学の次元で話をすれば、本来は「なぜ少子化を解決しなくてはいけないのか」という問いがあってもいいはずだ。日本人が減っても、他の国が栄えれば人類としてはそれで構わないのではないか。また人類はそもそも存在すべきなのか。急な変化は困るかもしれないが、ゆっくりとなら人類は消滅してもいいのでは。そう考えることもできる。人類は消滅しても構わないという話に比べれば、個人の(産む産まないといった)実存的な悩みは目の前が真っ暗になるほどの話じゃないな、とも思える。

人生の意味の考え方は多種多様であり、哲学者たちも人生の意味の哲学という分野をいま作っているところだ。

・・・人間に、これだという本質は無い。人間は、自分で自分を作る実存だ。「実存主義」の流行は遥か昔のことだけど、たぶん現代人は自分で意識するしないに関わらず、「実存主義者」なのだと思う。最近は「自分らしく」生きる、などと割と簡単に言うのだが、要するに自分の人生の意味は自分で作るしかないと、今では誰もが了解しているのではないか。であれば、子供を持つことを自分の人生の意味とするのもしないのも、当人の考え方次第ということになる。

もちろん意味が無くても、生きていくことはできる。しかし、なぜかそれでは満足できない、つまらない、空しいと感じる自分がいる。けれども、空しいと思うことを前向きに理由付けすれば、人間はただ生きるのではなく、よく生きることを求めているからだ、と考えてもいい。よく生きる。何だか古代ギリシャ哲学に戻る感じだが、結局そういうことなのかな、と思う。

|

2023年5月28日 (日)

『ニーチェのふんどし』

近未来の社会は、ますます弱者救済が大義となる社会。だからニーチェの思想を知っておく必要があるのです、と言うのは藤森かよこ先生。新著『ニーチェのふんどし』(秀和システム発行)から、以下にメモする。

歴史は、「弱者救済」と「ユートピア構築(この世に天国を作ること)」を大義にして進んできた。「弱者救済」と「ユートピア構築」が人類の大義となったのは、キリスト教組織が生まれたからだ。

キリスト教組織の大義である「弱者救済」と「ユートピア構築」は、キリスト教の分派のイスラム教は言うまでもなく、根本的にキリスト教の発想から離れられない西洋のさまざまな思想に浸透し、今日にいたっている。社会主義も共産主義も人権思想も、みんなキリスト教の亜流だ。

今の私たちが生きている世界が表層で謳う共通善は「弱者救済」であり、大義は「弱者を大事にするユートピア構築」である。それらの道徳や大義の底にあるのは、自己の力で生きることを引き受けることができる真の高貴な者や強者に対する弱者の嫉妬や恨みの気持ち(ルサンチマン)であると、ニーチェは示唆する。

ルサンチマンから生まれた道徳は、強い者への復讐心なのだ。ニーチェによると、この奴隷道徳こそが、近代精神の賤民主義、民主主義を生み出した。弱者救済とか、弱い者も生きて行けるこの世のユートピア構築という大義は、この奴隷道徳の産物だ。それが、ヨーロッパを席巻し、非ヨーロッパ世界に拡大されたのが近代以降の歴史だった。

・・・昔、少しだけ読んだ『道徳の系譜学』で覚えているのは、強者の観点は「優良」(グート)対「劣悪」(シュレヒト)だが、弱者はそれを引っ繰り返して、劣悪が「善」(グート)で、優良が「悪」(ベーゼ)とする。端的に言って、弱者が善で強者が悪だとする。これが奴隷道徳、強者に対する弱者のルサンチマンの現れだ。

弱者救済やら平等実現やらが、もともとはキリスト教的価値観に根差すものであるならば、アンチクリストを標榜したニーチェの思想は、現代世界の「弱者のユートピア」を目指す動きが行き過ぎた時には、「解毒」作用をもたらすものになり得るだろう。

|

2023年4月15日 (土)

人生に効くカミュの本

『文藝春秋』5月号で「私の人生を決めた本」を開陳する56人のうち、カミュの『シーシュポスの神話』を挙げている方を2名発見。山根基世氏(フリーアナウンサー)と庄司紗矢香氏(ヴァイオリニスト)。最近の日経新聞(2/4付)の読書欄でも、藤野英人氏(レオス・キャピタルワークス会長兼社長)が同書について語っていた。お三方のカミュ評を、以下にメモする。

神々の怒りをかったシジフォスは、間断なく岩を山頂に運び上げるという刑罰を科せられる。山頂に達すると、岩はその重みで又転がり落ちる。再び運び上げる。永劫に続くその繰り返し。全身全霊で運び上げても決して達成することのない労働。だが、それを承知でなお、自分の意志で一歩一歩岩を運び上げるシジフォス。無駄に思えるその一歩にこそ意味があると、私は受けとめ深く頷いた。(山根氏、書名は『シジフォスの神話』表記)

自分の頭で考えて理解できない事に同調はできない。『シーシュポスの神話』は、何も日本に限らず、同調を重んじる「社会」で生きていくことの困難に対し、逃避せず、真実を熟考し、疑問を凝視する勇気をくれた本だ。(庄司氏)

カミュの『シーシュポスの神話』が示す通り、賽の河原で石を積み上げているのが人生です。目標に達したと思った瞬間、スタートに戻る。無限の罰を生きることこそが無限の命であり、徒労の中に輝きがあるのだと思います。(藤野氏)

・・・今年はカミュ生誕110年。最近はコロナ禍で小説『ペスト』が読まれた、なんてことも思い出される。カミュの文学のキーワードは「不条理」とされるが、哲学的エッセイである『シーシュポスの神話』で語られるのは、不条理な世界と無意味な人生に立ち向かう覚悟、というところか。

カミュやサルトルの「実存主義」文学の流行は遠い昔のことではあるが、最近世の中で、何かにつけて「自分らしく」生きるとか言われるのを見聞きすると、何となく今はライトな実存主義の時代なのかな、と思ったりする。

|

2023年3月13日 (月)

「交換」を生み出す「謎の力」

先頃、「バーグルエン哲学・文化賞」を受賞した柄谷行人。何でも「哲学のノーベル賞」との触れ込みで、賞金も100万ドルという破格の金額。文芸評論家から出発し、80年代には現代思想ブームの一翼を担った柄谷氏は、今や大思想家になったのだなあ。近年、柄谷氏は「交換」という視点から社会システムの歴史を分析。以下は、『文藝春秋』4月号のインタビュー記事からのメモ。

現在の世界は、貨幣による市場経済(交換様式C)によって立つ資本主義、そして国家(交換様式B)の二つが巨大な力を持っています。そのため、互酬交換(交換様式A)の力が非常に弱くなってきている。

ただ、この資本主義と国民国家が大きな力を持つ近代以降の世界(「資本=ネーション(国民)=国家」)は、そろそろ限界に近づいているのではないかと私は思っています。

一方、私が未来の社会として考える交換様式Dというのは、A(贈与と返礼)が高次元で実現される、つまり共同体的拘束はないけれども、助け合いがあるような、自由で平等な社会です。

マルクスは〈交換は共同体と共同体の「間」で始まる〉と書いています。つまり交換とは共同体の内部ではなく、本来、見知らぬ不気味な他者との交換であり、それが成立するためには相手に交換を強制するような「力」が必要なのです。

最近になって気がついたのですが、私は、文芸評論や哲学的エッセイ『探究』を書いていた若い頃から、ずっと交換の問題を考えていたんですね。たとえば、言語の問題に取り組んでいたときも、言語によるコミュニケーションを、一種の「交換」としてとらえていた。

コミュニケーションとは、お互いを見通せない中でなされる不透明なもので、それが成立するにあたって、個人の意識を超えて「人間を突き動かす謎の力」が働いている。私はこの「謎の力」を考え続けていた。そして、その鍵は常に「交換」にあった。

・・・80年代に浅田彰や岸田秀が広めたポストモダン的人間観として、「ホモ・デメンス」(狂ったサル)という考え方がある。人間は狂っている(本能が壊れている)からこそ、秩序を求める生き物である。とすれば交換を成立させる力とは、秩序への意志なのではないか。ニーチェの言うアポロとディオニソスみたいだけど。

|

2022年8月15日 (月)

問題は二項対立か相対主義か

新著『現代思想入門』が好評の哲学者・千葉雅也と、80年代に『構造と力』で現代思想ブームを巻き起こした浅田彰。両者の対談記事(今なぜ現代思想か)が『文藝春秋』9月号に掲載。以下にメモする。

千葉:今度の拙著の中でも資本主義が発展していく中で、価値観が多様化し、共通の理想が失われた時代、それがポストモダンの時代だと説明しています。そんな時代に生まれた現代思想は、「目指すべき正しいもの」がもたらす抑圧に注意を向け、多様な観点を認める相対主義の傾向がある。しかし現在、世間を見渡すと、相対主義を斥けて、何でも二項対立で考える風潮が高まっている。白か黒か、善か悪か。だからこの本では、そもそも、なぜ二項対立が生じているのか、状況を俯瞰して冷静に考える知性こそが重要だと書いています。
浅田:多文化主義という表層の背後のグローバル資本主義がすべてを支配する状況になり、儲かるかどうか、役に立つかどうかのプラグマティックな〇✕式思考が広まってしまった。80年代初頭に僕が考えていたのは、旧左翼や新左翼の失敗を清算することで、かえってマルクスを初めとする左翼思想を自由に読み替える可能性が出てきたということだった。ところが実際には、左翼はすべて✕、資本主義が〇という方向に動いてしまったんですね。だからこそ、ドゥルーズとガタリの共著『アンチ・オイディプス』などにヒントを得ながら、資本主義から逃走するための地図を描きたかった。それが『構造と力』や『逃走論』に結実しました。旧左翼・新左翼のように資本主義を批判するより、資本主義の大波に乗りながら、微妙に方向をずらして新しい空間に向かうこともできるんじゃないか、と。
千葉:ただ、『構造と力』が出た時代は資本主義や左翼思想など、打ち破るべき強固なドグマや権威があったわけですよね。今の時代は戦うべき強固な相手がいなくなってしまったのが実情です。
浅田:1980年代初頭には、「右手に朝日ジャーナル、左手に平凡パンチ(左手に少年マガジンでもいい)」という形で教養主義が辛うじて生き残っていた。それがなければ『構造と力』もブームにならなかったかもしれない。
千葉:権威的な知と、ポップカルチャーの融合ですね。ところが、時代を経て権威的な知が批判され尽くすと、もはやぶつかるべき相手もいなくなり、すべての教養やカルチャーがフラット化してしまう。
浅田:相対主義的多文化主義の背後には、価格だけが唯一の尺度というグローバル資本主義があるわけですね。
千葉:多様性とは言っても、資本主義のもとで消費される商品として展開しているだけなんですね。
浅田:その種の相対主義が蔓延して、教養が衰退していったんだと思います。

・・・千葉先生の本を読んで、浅田先生から40年、現代思想も随分こなれた感じになったものだなーという感慨を抱いた。さて、相対主義の別名はリベラル化、と言えるかもしれない。しかし、人は自分の自由は認めても、他者の自由は簡単には認めない傾向があるように思う。なので寛容であること、その余裕を持つこともなかなか難しいようであるし、逆に言うと、そういう余裕の無さから二項対立というか、「分断」が発生するという面もあるのかも、と思ったりする。

|

2022年5月 8日 (日)

カント哲学とラカン理論

近代ドイツ哲学の巨人カントと、現代フランス思想の大家ラカン。一見、何の繋がりもないように見えるが、講談社現代新書『現代思想入門』(千葉雅也・著)によれば、二者の「認識論」には共通するものがあるという。以下に同書からメモする。

時代は18世紀末、カントは『純粋理性批判』において、哲学とは「世界がどういうものか」を解明するのではなく、「人間が世界をどう経験しているか」、「人間には世界がどう見えているか」を解明するものだ、と近代哲学の向きを定めました。

人間に認識されているものを「現象」と言います。現象を超えた、「世界がそれ自体としてどうであるか」はわからない。それ自体としての存在を、カントは「物自体」と呼びました。
人間はまず、いろんな刺激を「感性」で受け取って知覚し、それを「悟性」=概念を使って意味づける。この感性+悟性によって成り立っている現象の認識では、物自体は捉えていません。しかしそれでも物自体を目指そうとするのが「理性」である。感性、悟性、理性という三つが絡み合うのがカントOS(WindowsやMacOS) です。

ラカンは大きく三つの領域で精神を捉えています。第一の「想像界」はイメージの領域、第二の「象徴界」は言語(あるいは記号)の領域で、この二つが合わさって認識を成り立たせている。ものがイメージとして知覚され(視聴覚的に、また触覚的に)、それが言語によって区別されるわけです。このことを認識と呼びましょう。第三の「現実界」は、イメージでも言語でも捉えられない、つまり認識から逃れる領域です。この区別はカントの『純粋理性批判』に似ていないでしょうか。実はラカンの理論はカントOSの現代版と言えるものなのです(想像界→感性、象徴界→悟性、現実界→物自体という対応になっている)。

このようなX(捉えられない「本当のもの」)に牽引される構造について、日本の現代思想では「否定神学的」という言い方をします。否定神学とは、神を決して捉えられない絶対的なものとして、無限に遠いものとして否定的に定義するような神学です。我々は否定神学的なXを追い続けては失敗することを繰り返して生きているわけです。

ラカンにおける、現実界が認識から逃れ続けるということが、否定神学システムの一番明らかな例なのです。
カントまで遡るなら、否定神学的なXは「物自体」に相当すると言えます。
否定神学システムとは、事物「それ自体」に到達したくてもできない、という近代的有限性の別名なのです。

・・・カントとラカン、その認識論の構図は相似形であり、「否定神学的」アプローチも共有している。とりあえずラカンの例であるが、近代批判の色濃い現代思想といえども、近代哲学を承継している部分を見出すことができるというのは、とても面白いと感じる。

|

2022年5月 7日 (土)

ディオニュソス対アポロン

講談社現代新書『現代思想入門』(千葉雅也・著)から、以下にメモする。

哲学とは長らく、世界に秩序を見出そうとすることでした。混乱つまり非理性を言祝ぐ挙措を哲学史において最初にはっきりと打ち出したのは、やはりニーチェだと思います。

『悲劇の誕生』(1872)という著作において、ニーチェは、秩序の側とその外部、つまりヤバいもの、カオス的なもののダブルバインドを提示したと言えます。古代ギリシアにおいて秩序を志向するのは「アポロン的なもの」であり、他方、混乱=ヤバいものは「ディオニュソス的なもの」であるという二元論です。

ギリシアには酒の神であるディオニュソスを奉じる狂乱の祭があった。アポロン的なものというのは形式あるいはカタであって、そのなかにヤバい(ディオニュソス的)エネルギーが押し込められ、カタと溢れ出そうとするエネルギーとが拮抗し合うような状態になる。そのような拮抗の状態がギリシアの「悲劇」という芸術だ、というわけです。

この(アポロンとディオニュソスという対立の)図式は、哲学史的に遡ると、「形相」と「質料」という対立に行き着きます。要するにかたちと素材ですね。かたちは秩序を付与するものであり、素材はそれを受け入れる変化可能なものです。この形相と質料の区別がアリストテレスにおいてまず理論化されました。あくまでも質料は形相の支配下にあります。

ところが、ずっと時代を飛ばしますが、ニーチェあたりになると、秩序づけられる質料の側が、何か暴れ出すようなものになってきて、その暴発するエネルギーにこそ価値が置かれるようになります。つまり、形相と質料の主導権が逆転するのです。

・・・ニーチェの「アポロンとディオニュソス」が、アリストテレスの「形相と質料」以来の哲学的伝統に連なる概念として位置づけられると共に、ニーチェにおいて秩序優位から非秩序優位への逆転が行われたとする著者の見方は、とても興味深いものに思われる。

|

2022年5月 5日 (木)

ドゥルーズの元気になる思想

ポストモダンと言えば、批判的思想としてはとても魅力的だったけど、結局は相対主義に陥り建設的な思考は打ち出せないまま消えていった、という印象が強いかもしれない。それだけに、今改めてポストモダン思想を考える時には、そのポジティブな面を取り出すことが肝要なのではないかと思う。以下に、講談社現代新書『現代思想入門』(千葉雅也・著)からメモする。

ポストモダン思想、ポストモダニズムは、「目指すべき正しいものなんてない」、「すべては相対的だ」、という「相対主義」だとよく言われます。
確かに現代思想には相対主義的な面があります。ですが、そこには、他者に向き合ってその他者性=固有性を尊重するという倫理があるし、また、共に生きるための秩序を仮に維持するということが裏テーマとして存在しています。いったん徹底的に既成の秩序を疑うからこそ、ラディカルに「共」の可能性を考え直すことができるのだ、というのが現代思想のスタンスなのです。

1980年代の日本では、べストセラーになった浅田彰『構造と力』の影響もあり、ドゥルーズ、およびドゥルーズ+ガタリが注目されました。
80年代、バブル期の日本におけるドゥルーズの紹介は、時代の雰囲気とマッチしていました。資本主義が可能にしていく新たな関係性を活用して、資本主義を内側から変えていくという可能性が言われた時代です。
有名な概念ですが、横につながっていく多方向的な関係性のことを、ドゥルーズ+ガタリは「リゾーム」と呼びました。

リゾームはあちこちに広がっていくと同時に、あちこちで途切れることもある。つまり、すべてがつながり合うと同時に、すべてが無関係でもありうる。
ドゥルーズおよびドゥルーズ+ガタリでは、ひとつの求心的な全体性から逃れる自由な関係を言う場面がいろいろあって、自由な関係が増殖するのがクリエイティブであると言うのと同時に、その関係は自由であるからこそ全体化されず、つねに断片的でつくり替え可能であることが強調されます。全体性から逃れていく動きは「逃走線」と呼ばれます。

あらかじめ「これが最も正しい関係性のあり方だ」という答えが決まっているわけではありません。すべての関係性は生成変化の途上にあるのです。
そういう意味で、接続と切断のバランスをケース・バイ・ケースで判断するという、一見とても当たり前で世俗的な問題が、ドゥルーズにおいては真剣に、世界とあるいは存在とどう向き合うかという根本問題として問われているのです。

ドゥルーズ+ガタリが考えているのは、ある種の芸術的、準芸術的な実践です。自分自身の生活のなかで独自の居場所となるような、自分独自の安定性を確保するための活動をいろいろ作り出していこう、と。いろんなことをやろうじゃないか、いろんなことをやっているうちにどうにかなるよ、というわけです。ドゥルーズ+ガタリの思想は、そのように楽観的で、人を行動へと後押ししてくれる思想なんです。

・・・1978年生まれの千葉先生は、難解な現代思想をきれいに整理していて、80年代に20代だった自分から見ても、当時訳の分からないまま丸飲みしていた言葉の意味するところについて、「そういうことだったのか」と教えられることが多い。本を読みながら、当時の浅田彰の「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」とかドゥルーズ的な「逃走」、ラカン的な「最初に過剰があった」、あるいは岸田秀の「人間は本能が壊れた動物」とか思い出しました。

|

2022年2月25日 (金)

哲学史で「思考の鋳型」を学ぶ

哲学思想史』(淡野安太郎・著、角川ソフィア文庫)は、西洋哲学史の本。親本は1949年刊行(新版62年)で、新しい本というわけではないが、作家の佐藤優が評価するなど「発掘」して、今回文庫本による復刊が実現したようだ。以下に、同文庫末尾の解説文(佐藤氏が執筆)からメモする。

中世の黄金時代とは、ヘブライズム(ユダヤ・キリスト教)、ヘレニズム(ギリシア古典哲学)、ラティズム(ローマ法体系)が融合した文化総合の時代である。「コルプス・クリスティアヌム」(キリスト教共同体)と呼ばれた文化総合が世俗化していく過程が近代なのだ。中世の文化総合が解体する過程で、学問、国家(政治)、宗教がそれぞれ分化してくるのである。

理性を用いて、学問は断片的な知識ではなく、知を総合化する方向に向かった。そこで、19世紀後半から20世紀初頭にかけて難問が生じた。実験が可能で法則を見出すことができる科学と、実験ができず、思考に依存することの多い人文・社会科学を同じ科学という範疇で括ることが妥当かという問題だ。

この二つの科学(自然科学と人文・社会科学)をどう統合するか。その際に重要になるのが共通の言語だ。
私は、その共通の言語になるのが哲学だと考える。特に、哲学史を学ぶことによって、過去にあった思考の鋳型を知ることができる。この思考の鋳型と類比しながら、現在、自分が行っている専門的研究について語ることは可能である。

・・・自然科学と人文・社会科学をつなげる云々はともかく、何となくだけど小生も、たまに西洋哲学史を通覧してみることは、思考の基礎トレーニングとして大事だなという気がしている。佐藤氏の「思考の鋳型を知る」というのは、思考の組み立てのパターンを学ぶということかと思うのだが、例えば哲学史では「プラトン・カント的」思考と「アリストテレス・ヘーゲル的」思考つまり、「普遍的理念重視」と「個別的現実重視」のパターンが交互に現われるとか、中世哲学がキリスト教哲学ならば、古代哲学は非キリスト教的、近代哲学は脱キリスト教的、現代哲学は反キリスト教的とか・・・デカルトの大陸合理論とイギリス経験論、その二つがカント哲学において総合される、という基本的な流れもしっかり押さえておきたい。(と、最近思うようになりました。)

|

2022年1月 2日 (日)

冷戦を知らない世代の「社会主義」

昨夜のNHKBS番組「欲望の資本主義2022」で、経済思想家の斎藤幸平とチェコ出身の経済学者セドラチェクが対話。議論が余り嚙み合わない様子を見ていて思い出したのは、最近の日経新聞読書面で読んだ斎藤先生執筆の記事。1987年生まれの斎藤先生は、いわば「冷戦を知らない子供たち」ということになる。以下に、日経新聞2021年12月4日付記事(半歩遅れの読書術)からメモ。

「今さら、どうしてマルクスですか」。昨年に、『人新世の「資本論」』(集英社新書)を出してからも、何度この質問を受けただろうか。先日も、旧社会主義国出身の経済学者と議論した際、「ソ連の悪夢を繰り返そうなんてお前はなんて愚かなんだ」と呆れられた。

私は1987年生まれで、冷戦の記憶がない。だから、ソ連の恐ろしさは「知らない」。一方で、バブルも、高度経済成長も私にとっては歴史上の出来事にすぎない。むしろ、リアルなのは、今も広がり続ける経済格差、雇用の不安定化、環境破壊といった問題だ。そして、これこそマルクスが批判した資本主義の矛盾であった。

けれども、資本主義の矛盾の解決策が「共産主義」と言うと人々は拒絶反応を示す。私だって、ソ連は最悪だと思う。マルクスとソ連は違うはずだ。でもどう違うのか。この問いが学生時代の私を悩ませた。実は、「共産主義」が何を意味するかは、その擁護者も批判者も、曖昧なことが大半だったからである。

悩んでいた私にヒントをくれたのが、田畑稔『マルクスとアソシエーション』(新泉社)だった。実は、マルクスは「共産主義」や「社会主義」という言葉を稀にしか使っていない。将来社会を描くときは、労働者たちの「自発的結社」を意味する「アソシエーション」を一貫して用いたと田畑は言う。

田畑の本を読むと、ソ連の見方は一変する。「計画経済」という名のもとでの党や国家官僚による独占・支配は、人々の自発的結社とはかけ離れている。「国家資本主義」とでもいうべきものだ。マルクスによれば、そのような支配を打ち破った先にある富の共同管理にこそ、自由な将来社会がある。その担い手は、党や労働組合だけでなく、非政府組織(NGO)や協同組合、様々な社会運動を含む。

・・・もっと自由で楽しそうな「コミュニズム」がある、と確信した斎藤先生は、ソ連とは全く違う21世紀型のコモン社会=コミュニズムを模索する。まさに「冷戦を知らない子供たち」は、「社会主義」に先入観なく向き合えるのだが、それが良いのか悪いのか、自分には正直分からない。冷戦もソ連も記憶のある人間には、社会主義と聞けば、終わった、失敗した、ダメな思想としか思えないので・・・。アソシエーションって、柄谷行人も言ってた話だと思うけど、結局自分には何だかよく分からない。昔から人文学者系の人(今なら内田樹とか)は、「若い時にマルクスを読め」みたいなことを言うけど、何でなんだろうか。失敗したのはソ連型社会主義であり、今一度マルクスに立ち戻って社会主義の可能性を追求しよう、という話だったら、そんなことに今更付き合う気にはならないし。NHK番組では最後に、シュンペーターの「資本主義、社会主義、民主主義」の三題噺?を提示していたけど、これを改めて考えろってことなのか。このところ民主主義危うしの声も大きくなっているので、さらに国家とか市民社会とかポピュリズムも考えろなんて言われたら、もう頭グチャグチャになる~。

|

より以前の記事一覧