2009年3月15日 (日)

カントとニーチェ

人生に生きる価値はない』(新潮社)と題された中島義道の哲学的エッセイ集を読む。なかなか面白い。書名もそうだが、とにかく実も蓋も無い書き方が中島先生の真骨頂。例えば、「すべての人は、ごまかし通すのでない限り、常に自分が死ぬことに怯え、何が正しいか悪いかもわからず、生きている意味も見出せず、虚しさを呑み込んで死ぬだけ」(「哲学と心の病」)、という按配だ。

そんな中島先生は最近、突如としてニーチェの思想が腑に落ちた、らしい。

私のニーチェとの「出会い」は、「永遠回帰」の思想がある時はっとわかったからである。それは、単純この上ない真理であって、この世の何ものもいかなる意味(目的)もない、ということ。すべては偶然である、いや偶然とは必然との関係においてある用語だから、すべてはただ生ずるだけなのだ。

だが、ほとんどの人はこのことを承認しようとしない。打ち消そうとしても、気がつくと人生に何かしらの意味=目的を求めてしまっている。そうした弱さを完全に拒否すること、それをニーチェは延々と言い続けているだけである。(「ニーチェの季節」)

そして中島先生によれば、カントはニーチェに近い、らしい。

カントが教えてくれることは、すべての「目的」は、人間理性が自然に持ち込んだものにすぎないということ。自然にも、歴史にも目的なんぞ片鱗も含まれていない。ただ、われわれ人間の眼にはあたかも目的があるかのように見えてしまうだけ。これは、もうほとんどニーチェである。

じつは、カントは一般に考えられているよりはるかにニーチェに近い。カントは神を半殺しにし、ニーチェは神を完全に殺した、とはよく言われることであるが、カントは神に致命傷を負わせ、「殺した」のではなく、「死ぬにまかせ」たのだ。

「明るいニヒリズム」は、カントとニーチェを結ぶところに発生する。それは、まずわれわれ人間に降りかかるこの世のあるいはこの世を越えるすべての事象が完全に無意味であることを認めること、とりわけわれわれが最も関心を持つ超越的対象(神、魂、自由)の意味の確定はわれわれ人間の能力を超えていることを潔く認めることなのだ。(「明るいニヒリズム」)

・・・昔、哲学を少し齧っていた頃、カント~ショーペンハウアー~キルケゴール~ウィトゲンシュタインという「系譜」説を何かで見た覚えがある。いずれも人間(理性)が確実に知ることができる限界を見定めようとした哲学者、という繋がりだ。ここでショーペンハウアー≒ニーチェとすれば、カント~ニーチェ~キルケゴール~ウィトゲンシュタインと並べるのもありかな、と思う。まあ何にしても、分かることと分からないことの境界すら分からないまま死んでいくのが人間なのかな、という気もするけど。

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2008年12月20日 (土)

「現代思想」の時代

80年代ポストモダン、ニューアカデミズムのブームを準備した雑誌『現代思想』。70年代の『現代思想』のスタンスについて、当時の編集長である三浦雅士が語る。以下は、『戦後日本スタディーズ3 80・90年代』(紀伊国屋書店)に収められたインタビュー「現代思想の時代」からのメモ。

1970年代の一番大きな問題は、その段階では漠然としたままであったにせよ、マルクス主義は終わったということ、そしてポストマルクス主義といったときに何がありうるかということだったと思います。

趨勢としては構造主義だということははっきりしていた。構造主義というのは、バルトでありフーコーでありラカンであり、そして中心はもちろんレヴィ=ストロースだというふうになっていた。それで人類学も脚光を浴びたわけですが、それは実存主義に対するアンチテーゼだったわけで、その場合の実存主義というのはサルトル的な実存主義、つまり実存主義的マルクス主義だった。それが終焉を迎えていたわけです。

思想の全体を眺めた場合、19世紀が自然科学においても人文科学においても実体的なものを追究したとすれば、20世紀は関係的なものを追究してきたわけです。現象学、解釈学、言語論、記号論、科学史、美術史、もっとも典型的なものは動物行動学ですね。動物行動学というのは動物とともに生きてみる、動物の眼で世界を見てみるというもので、明らかに意味の科学であり、関係をめぐる理論なわけで、実体をめぐる理論ではない。現象学の親類みたいなものだ。一方ではどんなふうにマルクス主義は終わろうとしているのか、マルクス主義が終わった後にはどうなるのかを考えていくこと、それが、70年代にしなければならないと思っていたことだったと思います。

・・・戦後から間もない社会全般が貧しく荒々しい時期は、革命を意識するマルクス主義と、ニヒリスティックな実存主義が人々を惹きつけたが、その後経済的豊かさと産業社会的秩序の確立がある程度実現された段階で、構造主義が登場してきたという印象はある。さらに西洋哲学史的に見れば、マルクス主義と実存主義が共有していた主体概念(まさにサルトル)を、否定してみせた(ニーチェの「神は死んだ」に倣って、フーコーは「人間は死んだ」と告げる)のが構造主義・・・なのだろう。さらにポスト構造主義というと、構造主義と別物という訳でもなく、構造主義の新たな展開という感じ。まあ何にせよ、レヴィ=ストロース100歳は凄いとしても、フーコーもドゥルーズもデリダも既に亡く、やっぱり「現代思想」の時代は遠くなりにけり、だなあ。

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2007年12月29日 (土)

『反哲学入門』

哲学者・木田元の新刊『反哲学入門』(新潮社)は、著者がこの10年程の間に繰り返し取り上げている「反哲学」というテーマについて、あらためて分かりやすく呈示することを目指した本。まずは第一章「哲学は欧米人だけの思考法である」からメモ。

「存在するものの全体」を「自然」と呼ぶとすると、自分がそうした自然を超えた「超自然的な存在」だと思うか、少なくともそうした「超自然的存在」と関わりをもちうる特別な存在だと思わなければ、存在するものの全体がなんであるかなどという問いは立てられないでしょう。自分が自然のなかにすっぽり包まれて生きていると信じ切っていた日本人には、そんな問いは立てられないし、立てる必要もありませんでした。

プラトン以来、西洋という文化圏では、超自然的な原理(イデア、神、理性、精神、等々)を参照にして自然を見るという特異な思考様式が伝統になりました。その発想法が哲学と呼ばれ、西洋における文化形成の軸になってきたわけです。
19世紀後半、ニーチェがこのことに気づきました。ニーチェは、西欧文化形成の根底に据
えられたそうした思考法が無効になったということを「神は死せり」という言葉で宣言しました。ここでは、「神」とは「超自然的原理」を意味しています。

超自然的思考としての「哲学」には決定的に分からないところがあるが、ニーチェ以降の「哲学批判」「反哲学」ならわれわれ日本人にもよく分かる。といっても、いわゆる表現の問題ではなく、考え方の根本に関してなのですが。

・・・この本では後半に語られている、近代哲学における超自然的原理としての「理性」という概念の展開、すなわちデカルトに始まりイギリス経験論の批判を受けて、さらにカントからヘーゲルに至る辺りの話は、まあ日本人には決定的に分からない点があるにしても(汗)、とても興味深いものがあるし、この「理性」を中心とした流れを押さえておけば、たぶん一般人としては、近代哲学は分かったつもりになれるんじゃないかなー、と思ったりする。

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2007年12月15日 (土)

『精神現象学』対談講座

『完全解読 精神現象学』(講談社)の出版を機に、共著者である竹田青嗣と西研の対談講座「ヘーゲル『精神現象学』と近代の可能性」が行われたので(12日、朝日カルチャーセンター)、小生も参加してみた。

ナマ竹田とナマ西を初めて見たのだが、お二人ともソフトで和やかなキャラであった。話としては「自己意識」「自由」「相互承認」などの用語を手がかりに展開された訳だが、特に強調されたのが「ことそのもの」という概念。とりあえず教室で配布された講談社のPR誌「本」12月号掲載の対談記事からメモしてみる。

西:『精神現象学』のおいしいところはいくつもあります。「精神」章の最後が「良心」で、「理性」章の最後が「ことそのもの」という不思議な名前が出てくるところです。「ことそのもの」という話は、おそらく、学問や芸術や小説を想定していますね。自分の言いたいことがたまってきてそれを言ってみると、人から批評も受けるし理解もされる。自分の表現でありながらそれが多くのほかの人々ともつながっていくという可能性が、「表現のゲーム」にはあるわけです。そういうゲームの中で、「これぞ本物」というものが信じられる。「ことそのもの」とはそういう意味です。

竹田:ヘーゲルの体系では「世界とは何か」というと、至上者、絶対精神、精神です。人間は絶対精神から分化して出てきた主体としての個別的精神です。でもあらゆる精神は精神の本質を持っていて、「精神の本質は自由だ」とヘーゲルは言います。
人間の内的な精神の自由という本質が、最もよく発現しうる社会をいかに作り出すかが近代の課題です。その核となる条件が「ことそのもの」のゲームとしてある。最終的には各人の表現は、内的な個性の外化で、その相互関係の中で「普遍性」のゲームが成り立つ。もし近代の中で「ことそのもの」ゲームが栄えるならば、そこには精神の自由という本質が沸き立っていることになる。

・・・社会の構成員がお互いに様々な意見を出し合う中で、普遍的な物事が浮かび上がるのが「ことそのもの」のゲームだとしたら、それは学問や芸術の世界で成立しても、他の分野、例えば政治の世界で成立するのかどうか。また、精神の本質である自由が、歴史や社会を発展させる根本動因であるのかどうか。やっぱり経済的物質的基盤が整うのが先じゃないかなあと、マルクス的異議を持ち出したくもなるのであった。

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2007年12月 5日 (水)

ヘーゲル的精神とは

今年はヘーゲル『精神現象学』刊行200年とのこと。本日付日経新聞夕刊に掲載されている、『精神現象学』の翻訳で高い評価を得た在野の哲学者、長谷川宏のインタビューからメモ。

19世紀のドイツの哲学者ヘーゲルは、生命本能を超えた人と人との関係を「精神」と呼んだ。ヘーゲルの基本的関心は何よりも人と人との関係を問うところにある。

鋭気あふれる『精神現象学』はヘーゲルの若書きで、人間の知の根拠を人間の意識の「主体」性に求めている。精神世界も含め至るところに生じる対立、分裂、否定などを正視し、その激動と混乱を超える全体的な知を獲得する精神の運動を示している。

ヘーゲルは市民革命、産業革命が起きた欧州の近代社会に生きる自由な人間の在り方を、精神面、物質面で総合的にとらえている。今の日本の社会はまだ、個人の生き方として自由な近代精神がきちんと根付いてないと思う。ヘーゲルの原理的な考え方に戻って考える価値はある。

・・・主体、全体的な知、自由な人間の在り方とか、いかにも19世紀的ロマン主義の匂いがするし、20年前に一度は「ポストモダン」まで突っ走った我々には、近代精神というのも何か色褪せて見えたりするものだから、今の日本でヘーゲルを考える価値があると言われても、あまり心を動かされる感じはしないのだなあ。もちろん『精神現象学』を平易な日本語に訳した業績そのものには敬服しておりますが。

来週、ヘーゲルについての対談(竹田青嗣と西研)を聴きに行くので、何か自分の心に引っかかるものがあればいいなと思います。

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2007年6月 9日 (土)

懐かしのスキゾ・キッズ

〈ポストモダン〉とは何だったのか』(本上まもる・著、PHP新書)の著者は1970年生まれ。80年代のポストモダン・ブームをリアルタイムでは受け止めていないと思われる。そういう若い人がポストモダンをどう論じているのかと思って読んでみたら、全体的に割りとオーソドックスな構えだったので、少々物足りない感じがした。

著者は、80年代前半に『構造と力』が10万部以上も売れた理由はよくわからない、としながらも、時代の空気は知的なものとポップなものの融合を目指していた、と記す。
自分の記憶では、浅田彰にははっきりしたスタイルがあったと思う。思想という難解で重くて深刻なものを、スピードと強度を備えた軽やかな文体により明快なチャートとして提示してみせたこと。それが時代の空気を表していたのかどうかは別にしても、読者の範囲を大きく広げるパワーになったのだと思われる。
浅田に比べると、東浩紀はテクニカルな作家という印象で(著者は絶賛しているが)、その影響力は広がりには欠けていたと思う(一般人が、デリダやラカンをより深く理解してどうする?)。今の東がオタク文化評論家みたいになっているのも、もともと限定的な場所で才能を発揮するタイプなんだろうな、という感じ。

とりあえず本書の結論部分をみると、ポストモダンの高度大衆情報化資本主義社会における4つの人格類型が提示されている。スキゾフレニー、パラノイア、ニューロティック、動物である。哲学的形象で言えばスキゾはニーチェ的超人、パラノはヘーゲル的主人、ニューロはハイデガー的世人、動物はニーチェ的末人に当たる。これらのうち最も対立的に示される「スキゾ」と「動物」についてメモしてみる。

「動物」とは、情報テクノロジーに囲い込まれたなかで、ただそのときの欲求にしたがって、「ヤりたいときにヤる」だけの人格類型のことである。
「動物」は「超越」や「崇高」、「不可能なもの」等について考えることはなく、そもそも世界観としての体系的表象を立てることができない。表象を立てないということは理念がないということであり、理念がないということはもはや人間ではないということに等しい。その場その場
での刺激に対して、そのつど反応しているだけだ。

「スキゾ」は超越への志向を持ちながら、もはや全体性を表象しえないことを承知している。超越的なものは実体としては存在しないが、体系的世界観の構築自体を放棄するわけではない。体系は築かれるが、ただちに破壊される。スキゾの世界観はこうしたダイナミックな破壊と創造のプロセスとしてある。構造としてきわめて不安定であるが、変化には対応しやすい。
「スキゾ」とは絶えざる解体と統合のプロセスを生きることだ。両義性あるいは分裂情況そのものを生きること。自己同一性を解体しつつ、変化していくことだ。

「ポストモダン思想はスキゾの革命思想であったのに、動物の現状肯定になってしまった」と現状を憂える著者は、「西洋哲学史の総体を引き受けたうえで、批判的に乗り越え、近代の理念の徹底のうちに近代の限界を乗り越えようとする」ポストモダン思想の地平を再度確認しなければならない、と訴える。

ポストモダンはただのブームだったのか、あるいはそれは速やかに社会の中に織り込まれた(価値相対主義として?)ということなのか。いつのまにか世の中は、「近代の限界を乗り越える」作業無しに、グダグダに「ポストモダン」化していて、上記のポストモダン思想の地平そのものが無用になってしまったのかも知れないが。

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2007年3月 3日 (土)

マックス・ウェーバーの名著

日経新聞「やさしい経済学」(2/20~23、2/26~3/1)で、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が取り上げられていた(執筆者は岡崎哲二・東京大学教授)ので、この偉大な古典についてメモしてみる。

1905年に刊行された『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、ウェーバーが宗教社会学についてもっとも早期に書いた著作である。ウェーバーは、プロテスタンティズムの内面的特質の中に経済活動を促す要因があるという仮説を提示し、この仮説を深く追究した。

「資本主義の精神」(生涯所得の最大化を倫理的な義務と考える心的態度)は、プロテスタンティズムとどのような関係にあるのだろうか。この点に関し、ウェーバーは逆説を強調する。現世における欲望を敵視し、「禁欲」を求めたプロテスタンティズムの倫理が「資本主義の精神」を生み出したというのである。

プロテスタンティズムの教義のうち、ウェーバーは、特にカルヴァンの「予定説」を重視する。予定説は、神は救済の対象となる人々とそれ以外の人々をあらかじめ定めており、その決定は、人間がどのように善行や祈とうなどを行ったとしても変わることがないという教説である。

ウェーバーが考える予定説の役割は、次の二点にまとめることができる。第一は「呪術からの解放」である。予定説から、前近代の社会に広く浸透していた呪術的な行為がいっさい無効であるという考え方が自然に導かれる。「呪術からの解放」は、人々による自然と社会に関する合理的な認識と合理的な行動の基礎となった。第二に、予定説は「世俗内禁欲」の倫理を生み出した。予定説を受け入れた人々は、自分が神に選ばれたものであるという「救いの確信」を希求するようになった。そして、人々が救いの確信を得るための手段となったのが、職業労働であった。この考え方を媒介したのは、「天職」の概念である。カルヴァン派においては、職業労働は神の栄光のための行為であり、職業労働に禁欲的に打ち込み、そこで成功して富を得ることが「救いの確信」をもたらすものであった。

・・・そして、キリスト教的禁欲の精神が生み出した資本主義の精神からは宗教的基礎が失われ、いったん形成された資本主義的経済秩序は、人々に職業人であることを強制するようになった。つまり西欧が生み出した「普遍的な意義と妥当性をもつ」文化的諸現象の一つとなった。ということなんだけど、このウェーバーの説を聞くといつも、「予定説」という奇っ怪な教えを何でヨーロッパ人は受け入れたんだろう、と思う。まあ何にせよ、宗教的禁欲の倫理が資本主義精神を生み出す逆説を説いた、この魅力的な古典を一度はまともに読まなきゃと思いつつ、つい入門書や解説の類ですましてしまう安易なワタシであります。

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2007年1月 9日 (火)

「公的領域」と「実存的交わり」

ウェブ人間論』(新潮新書)の中で、平野啓一郎はアレントを援用しながら、「人間が自分自身を表現するための場所として、いわば新しい公的領域として出現したのが、実は現代のウェブ社会なんじゃないか」と語っている。

ということで、イラスト付思想解説本「フォー・ビギナーズ」シリーズ最新刊の『ハンナ・アーレント』から、まず「公的領域」を生み出す「活動」概念について少しメモしてみる。

「活動」とは、複数の人々との関係性において成り立つ自発的行為の様式である。それは常に集合的行為であり、他者の存在が不可欠となる。また「活動」は言論と不可分の関係を持つ。人々が自分が誰であるかを開示しうるのは、他の人々が見聞きすることのできる具体的な言語行為の中であり、この言葉と行為によって、互いに差異のある存在として生きるという複数性が現実化される。

この対話的な言語行為によって織り成されるのが公共性の領域である、とされる。ところでアーレントは、ハイデガーとヤスパースという「実存哲学」の両巨頭から人間的にも思想的にも影響を受けている(ハイデガーとは恋愛関係にあったが、後にハイデガーはナチズムに加担し、ユダヤ人であるアーレントは亡命する)が、「活動」概念の源泉にはヤスパースの「実存的交わり」があるようだ。『ハンナ・アーレント』から更にメモ。

ヤスパースは実存的交わりのために必要なこととして三つの条件をあげる。一つは互いを公開することの重要性である。二つ目は他者に対して利己的ではなく関与する必要性であり、三つ目は他者の原則的な同等性を是認することである。

アーレントはヤスパースの哲学の中から他者との関わりの重要性を学んでいく。実存そのものは、その本性からして孤立していない。実存の本質は他の実存とのコミュニケーションに、また、他の実存を知ることにある。思考は真理に達しようとするならコミュニケーションを目指すものであり、その限りで思考は実践的になる。思考は個人が単独で行うパフォーマンスではなく、人々の間で遂行される実践である。

アーレントやヤスパースの概念で適切かどうかは別として、ウェブ社会について哲学的に考えてみることも必要だし、結構面白い試みになるんじゃないかと思う。

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2007年1月 8日 (月)

「ポストモダン」の変質

「ポストモダン」華やかなりし頃から既に20年以上が過ぎ、社会情勢も大きく変化して、昨今の「現代思想」を巡る状況はお寒い限りのようである。『集中講義!日本の現代思想』(仲正昌樹・著、NHKブックス)の第4章(「現代思想」の左転回)からメモ。

1980年代末頃から「現代思想」はあまり流行らなくなった。世界的に見ると、哲学・思想のトレンドの中心が、フランスの構造主義/ポスト構造主義から、英米系の分析哲学や科学哲学、リベラリズムをベースにした正義論、責任論などにシフト。これらの英米系の議論のほとんどは、近代的な知の枠組みに収まっていると言える。「西欧近代」の依拠する「普遍的理性」それ自体を自己解体に追い込むような、「近代思想」とは違う理論的な枠組みとしての「現代思想」を追求するということはあまり流行らなくなった。

80年代に「現代思想」と「ニュー・アカデミズム」の主要な担い手になった年配の哲学者・思想家たちは、衰退の一途を辿る(旧)マルクス主義派に“代わって”、改憲を目指すナショナリズムの台頭や“市場原理主義”的な経済政策に対抗して、反権力的な動きをするようになった。ポストモダンの「左転回」と言うべき現象である。

日本における「ポストモダン左派」の登場は、冷戦構造の解体とグローバリゼーションをめぐる、西欧諸国における左派的な言説の復活とも連動している。90年代に入った頃から、デリダを中心とするフランスのポスト構造主義派が、フランクフルト学派のハーバマスなどの近代主義的なリベラル左派と政治的に連帯して、アメリカの一極支配を批判。また、英米の新左翼思想と、フランス系のポスト構造主義が接近し、一部融合するようになった。

かつての「現代思想」の旗手たちは、旧来の左派といつのまにか“合流”し、“新自由主義者”や“ナショナリスト”などの「右」の勢力と正面から対峙するようになった。そのため、今や「思想」業界は、1970年代以前のわかりやすい「左/右」の二項対立状況に戻ったかのような様相を呈している。

・・・単に昔に戻ったのならば、(苦笑)で済ませられるかも知れないが、その対立状況の内実は、急速に変化する世界情勢の先行きを見通すこともままならないなか、思想家が「タレント」化し、言説が「紋切り型」になっているというから、(汗)である。著者がいみじくも「業界」という言葉を使っているように、この言論状況に関心を持てる人の範囲はかなり限定的で、一般人には殆ど無縁ではないかと思う。かつての「現代思想」、80年代ポストモダンの影響はかなり広範囲に及んだ印象があるのにね。

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2006年1月14日 (土)

『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』

自分的には、「ツチヤ教授」の本で「言語ゲーム」を学んだ年末からの流れということで、最近新たに出版されていた『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』を読んでみた。「死後42年たって新発見された幻の日記」ということで、かなりの量の注釈も付いていますが、とりあえず本文から少し引用してみます。

本当に我々の時代はあらゆる価値の価値転倒の時代である。ニーチェは今起こっていることを目論んでいたのか、それとも彼の功績はこれを先んじて予感し、それに対する言葉を見つけたことにあるのか?

ものを書く技法とは、その背後で心が自分の顔を好きなように切り整える、一種の仮面である。

何か考えがお前に浮かぶというのは天の贈り物である。しかし問題は、それを用いてお前が何をするかだ。

私の言葉はうまく訓練されていない(あるいは、全く訓練されていない)。つまりしつけが良くないのだ。――恐らくはたいていの人間の言葉がそうであるように。

臆病さからではなく、正義感から、あるいは他人への配慮から正しくありたいと思う者は幸福である。――私が正しくする場合、私の正しさはたいてい臆病さに由来する。

人が違ったように生きると、違ったように話すのである。新しい生とともに、人は新しい言語ゲームを学ぶのである。例えば死についてもっと考えてみよ。それでもお前が新しい観念、新しい言葉の領域を知るようにならないのなら、それは異常なことであろう。

「信じる」という言葉によって恐ろしいほどたくさんの災いが宗教に引き起こされたと私は信じる。歴史的事実の永遠の意味という「パラドックス」やそれに類することに関するあらゆる込み入った思考がそうだ。「キリストを信じよ」という代わりに「キリストを愛せ」というなら、パラドックス、つまり悟性をいらだたせるものは消滅する。

「お前は何にもまして完全な者を愛さねばならない、そうすればお前は幸福である」。私にはこれがキリスト教の教えの総まとめであるように思われる。

「日記」の特に後半部分では、「正しい生き方」に悩むウィトゲンさんという感じで思考や感情が吐露されていく。ウィトゲンさんは哲学者だが、広い意味で「作家」が書いた日記やノート、手記の類には、時に人を強くひきつけるものがある。自分は若い頃、カミュの「カイエ」を真似て、その日に思ったこと考えたことなどをノートに書きつけていた覚えもあるな。

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