2019年5月18日 (土)

「哲学対話」のチカラ

今週の日経新聞に掲載されたシリーズ形式の記事「キセキの高校」には感心した。とても大事なことに取り組んでいる人たちがいる、と感じた。5月16日付連載3回目の記事からメモする。

東京大教授の梶谷真司(52)は、受験偏差値では都立高で最低に近い大山高校(板橋区)で「哲学対話」が始まるきっかけをつくった。1つのテーマを決め、互いに問いと答えを繰り返すことで、生徒は気づいていない本来の力を取り戻す。

◎哲学対話のルール(大山高校の場合)
①なにを言ってもいい②人の言うことに否定的な態度をとらない③話を聞いているだけでもOK④質問しあう⑤本で知った知識・聴いた話ではなく、自分の経験で話す⑥まとめない⑦意見が変わってもOK⑧分からなくなってもよい

梶谷は2012年、ハワイの高校で哲学対話に出合った。十数人の生徒が輪になり目を輝かせて質問し、意見を言い合っていた。「こんなにも自由に語り合う場があるとは」と梶谷は衝撃を受けた。日本でも広める決意をし活動を始めた。小学校の教室、母親サークル、過疎の自治体など大学の外にどんどん出向いた。子供から大人まで参加者を広げた。
問い、語り合うことは「日常の前提から離れて自由になること」という信念を梶谷は持つようになる。15年ごろ、学校や教師の支援を手掛ける非営利団体の関係者から大山高を紹介された。哲学対話が始まって以来、大山高では公立大や難関私大への合格者が出るようになった。学校関係者は喜ぶが、梶谷は冷静だ。合格より、生徒が問い、語り、考え、自由になることが大切だからだ。

・・・あるテーマについて他人と問いかけ合い、考えることにより得た明確な認識を、自分の為すべき行動の具体化まで落とし込む。「哲学対話」の方法は、自分の生きる方向性を見出そうと模索する若い人たちへの効果が大きいと思われる。また、ビジネスにも応用できる感じがする。

哲学とはまさに日常の前提から離れる行いだ。つまり日常の当たり前を改めて問い直す営みだ。でも、あんまり哲学に深入りすると日常に戻ってこれなくなる恐れがある(苦笑)ので、適当なところで納得して日常に帰ってくるのが賢明かな。

自由についてふと思った。社会の中で自分の自由を確保するにはどうしたらよいのか。とりあえず自分が他人から大事にされるような人になる。そして自分も他人を大事にする。お互いがお互いを大事にすることが、結局は社会の中でみんなが自由に生きるための近道ではないか。とか。

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2019年5月11日 (土)

深井教授、著作に虚偽の不可解

(本日付日経新聞社会面より)
東洋英和女学院(東京・港)は10日、深井智朗院長(54)の著書などの内容に極めて悪質な捏造や盗用があり、同日付で院長と東洋英和女子学院大教授の職について懲戒解雇したと発表した。著書で取り上げた人物とその論文はいずれも実在せず、捏造と認定した。
同大の調査委員会によると、著書は2012年刊行の「ヴァイマールの聖なる政治的精神」(岩波書店)。神学者「カール・レーフラー」とその論文に触れているが、この人物の実在を裏付ける資料はなかった。
18年10月、キリスト教関係者向けの新聞に疑義を指摘する記事が掲載され、同大が調査委を設置した。ドイツ思想史などが専門の深井氏は16年4月に同大教授となり、17年10月から院長。「プロテスタンティズム」(中公新書)が18年の読売・吉野作造賞を受賞した。

・・・この件は昨秋、週刊誌ネタになっていたのは承知していたが、このたび公式に捏造が認定されたことになる。問題の書となった『ヴァイマールの~』だが、自分は何か面白そうだと思って買ったし、カルチャーセンター講座で深井先生ご本人を見ていたこともあり、頭も良く人柄もソフトな感じで神学ジャンルでは要チェックの先生だと思っていたから、今回の出来事については「なぜ?」という感想しか出てこない。

件の「カール・レーフラー」という人物については、『ヴァイマールの~』「第4章ニーチェは神学を救うのか」の中でこう述べられている。

神学者カール・レーフラーは、1924年に書かれた「今日の神学にとってのニーチェ」という論文の中で、ニーチェのキリスト教批判を分析した上で、(中略)ニーチェの批判によってカール・バルトの神学は消滅するという議論を展開している。

正直このニーチェと神学という逆説的な取り合わせに魅せられて第4章だけでも読むかと思って、この高価な本を買ったので、ここに虚偽の部分があるならば「参ったなあ」という感じしかしない。岩波書店の編集者は何をやっていたのだと思ったりもするけど、そもそもフェイクに手を染める必要なんか全くない才能豊かな先生であると思われるので、とにかく不可解というほかない。

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2019年4月25日 (木)

哲学はロックなのである

哲学を語るコンサルタントとして知られる山口周氏。サイト「NewsPicks」4/16発信記事「ビジネスで武器になる哲学」から、氏の話を以下にメモする。

哲学者はロックンローラー。世の中に対して「それって違うんじゃない?」という批判的なまなざしを、常に提示し続けてきた人々です。

「自由はキツイですよ」と説いたのが、ドイツの哲学者フロムです。例えば、ナチスドイツで発生したファシズム。「自由」はもともと市民が頑張って手に入れた権利ですが、人々はそれに伴う孤独と重い責任に耐えられなくなり、こうした全体主義に傾倒するようになったと、フロムは言います。自由に耐え得る強い人とは、自分の力で考えることができる人です。自由になるとは「年収が高い方がいい」とか「学歴が高い方がいい」とか、こうあるべきという他の人の物差しからどんどん外れること。そんな中で、無規範に陥らずに、自分の規範でしっかり生きることができるのか。そういう強い人だけが、本当の意味で自由を謳歌することができるのです。

不良と優等生、世界を悪い方に導くのはどちらでしょうか。それは「無批判な優等生」と答えたのが、哲学者のハンナ・アーレントです。彼女はナチスドイツでユダヤ人虐殺計画において、大きな役割を果たしたアドルフ・アイヒマンについて本にまとめています。彼はナチス党で出世するために自分の任務を一生懸命こなした結果、恐ろしい犯罪を犯すに至った。つまり、悪とは「システムを無批判に受け入れること」なのだと、アーレントは分析しています。

人間には、アイデンティティに偏執するパラノ(パラノイア)型と、直感の赴くまま柔軟に生きるスキゾ型がいる。そう考えたのが、フランスの哲学者ドゥルーズです。パラノ型は時代や環境の変化に弱い。それに対して、スキゾ型はしなやかに時代の変化に対応していけます。ここはやばそうだと直感的に感じたら、さっさと逃げる。物事が目まぐるしく変化する現代では、逃げる勇気を持ったスキゾ型の生き方こそが必要となってくると思います。

「無批判な優等生が世界を悪くする」というお話をしましたが、哲学者は「真面目な不良」だと言えます。おかしなルールには従わないけれど、人が幸せに生きるということにかけては真面目な人々なのです。ビジネスの世界で活躍しながらも、優等生にならず「不良の魂」は失わない。そんなしなやかな精神が、今後はさらに求められてゆくでしょう。

・・・自分にとっては「スキゾ」と「パラノ」といえば浅田彰なんだよなあ。「逃走論」という本もあったっけ。とりあえず社会システムに従いつつも、時に批判し、逃げるというやり方で反抗する。自分の規範を持って反抗する、それが哲学すなわちロック、だと思う。

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2019年3月31日 (日)

死は「一巻の終わり」

『「死」とは何か』(文響社)という本がよく売れているとか。著者は米イェール大学のシェリー・ケーガン教授。中日新聞(3/28付)掲載のインタビュー記事から以下にメモする。

(死を考えないより、考えて生きる方がいいのか)
悲しい、あらがうことができない、重苦しい。いろんな理由で死を考えたがらない人が多いが、誤りだ。チェコ出身の作家フランツ・カフカは「人生の意味は、それが終わることにある」と言った。重要なのは、死はまさに一巻の終わりという事実に気づき、人生の尊さを知ることだ。二度目がないからこそ、どう生きるか、何が正しいかを見極めなければならない。

(なぜ人は死を恐れるのか)
死に関して最も悲しいことは、生きている限り享受できたであろう楽しいことを得られなくなることだ。しかし、死を恐れることは、筋が通らないと思う。死は必ず訪れるからだ。
少なくとも私は死を恐れるより、自分の人生を生きてきて、愛すべき家族がいて、哲学の知見を人々と共有できたことに感謝するだろう。

(結局、死とは何か)
私は身体が朽ちても魂は生き続けるという考え方に賛成しない。考えたり、恋をしたり、創造したりといったことは、物体にはない私たちの身体機能の一部だ。死とは、身体が壊れ、こうした機能も果たせなくなること。それが全てだ。だからこそ、死を考えることは、どうすれば人生の価値を高められるかを考えることにつながる。

・・・死とは身体が壊れること。変な感想になるけど、「銀河鉄道999」の機械の身体を求めて宇宙を旅するという話が、若い時にはピンとこなかった。なんで機械の身体なんか求めるの?と。しかし年を取ると、そういう感じも結構分かってくる。何しろ身体は壊れる。というか年を取ると壊れてくる。機械は壊れても修理できるから、そっちの方が良いのかな。と思えてくるのだね。

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2019年3月26日 (火)

哲学は「転回」する

今週の『週刊東洋経済』(3/30号)の特集記事「世界のエリートはなぜ哲学を学ぶのか」から、現代哲学の議論の流れ(岡本裕一朗・玉川大学教授の解説)についてメモする。

近代哲学は17世紀後半から「認識論的転回」と呼ばれる議論が展開されてきた。それは「人間の人間たるゆえんは心や意識といった主観の中にある」とする考えだ。

しかし、19世紀末から20世紀に入る頃、哲学の議論は「言語論的転回」へと大きく舵を切った。
人間は物事の理解や世界の認識を、すべて言語を通して行っているという考えに基づく哲学。意識のあり方を規定しているのは言語であり「言語を分析することこそが人の真理や考え方に近づくことになる」という考え方だ。
20世紀後半に現れたジャック・デリダらのポストモダンも言語論的転回と結び付いたものだ。文化や歴史が異なれば、善悪や正義に関しても普遍的な真理はなく(異なる言語ゲームは共約不可能である)、多様な解釈があるだけになる。

21世紀に入る前後から、改めて他者同士の相互理解に取り組む哲学の潮流が現れた。互いの違いを認めつつ「共通の正しいことを誰しも相互理解できる領域があるのでは」と模索する、ポスト言語論的転回といえる3つの潮流だ。

1つは「自然主義的転回」だ。これは近年発達した脳科学や認知科学といった自然科学を積極的に取り入れながら「意識とは“脳”のメカニズムを分析することで解明できる」というアプローチだ。
2つ目が「メディア・技術論的転回」である。これは音声や映像、あるいは文字といったメディアによって「物事の伝わり方が変わる」ことに立脚した分析だ。
そして最後が「実在論的転回」。実際の物理的な対象に加え、それに関する思想や心、感情、空想まですべて存在している、と考える哲学的な分析だ。

・・・「真の相互理解」が成立可能な知的基盤を求める哲学者たちの模索は今も続いている、とのことだが、個人的には言語論的転回=ポストモダンの衝撃が強すぎて、もはや哲学にそんなに新たな展開は期待できないような気がしている。自分が思うのは、ヴィトゲンシュタインの言う「私の言語の限界が私の世界の限界」、「語り得ぬものについては沈黙」という認識論的かつ倫理的な命題を心得ておけばよい、ということだ。

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2017年7月17日 (月)

リベラリズムと「全体性なき全体」

『新潮』8月号掲載「特別鼎談 浅田彰+東浩紀+千葉雅也 ポスト・トゥルース時代の現代思想」、リベラリズムについての東の発言をメモしてみる。
 
アメリカでは、リベラリズムの問題がジョン・ロールズの『正義論』で頂点に達するわけですね。しかしロールズの『正義論』が出たあとに、ロバート・ノージックとマイケル・サンデルから別々の形で批判が提出される。リベラリズムというものが、あそこでリバタリアニズムとコミュニタリアニズムに枝分かれするわけです。
現代におけるグローバリズムとナショナリズムの対立は、70年代から80年代にかけてのリベラリズムの分裂によってすでに政治思想的には表現されていたと言えるのであって、そこで普遍的な人類というものがなくなり、個人と共同体の問題へと分かれたんですね。
 
結局、何が問題なのかと言うと、もともとカントまで遡ったときのリベラリズムのプロジェクトは、個人が社会に出る、社会が国家をつくる、そして国家のあと人類まで至るという「上昇」の秩序の連鎖で考えられていた。ヘーゲルの弁証法がその完成形です。けれど、現実にはわれわれは国家まで到達しても、その次にある人類というレヴェルにまでは行けないんですね。なぜかというと、これは基本的にカール・シュミットの分析が正しくて、要は、国家は「敵」がいるからまとまれるのだということ。
 
われわれはネーション-ステートまでは自分の想像力を拡大できるけれども、人類までは行けない。なぜならば人類には敵がいないからです。こうした限界が見えたのが、70年代だったと思います。それが政治思想的には、リベラリズムがコミュニタリアニズムとリバタリアニズムに分裂するという形で表れ、現実ではナショナリズムとグローバリズムの分裂という形で出てきている。
 
ポストモダンの思想は全体性ではない全体性という概念についてやたらと語ってきた。ちょっと位相が変わった「全体ではない全体」として人類というものを捉え直す必要があるんではないか。個人が家族に拡張され、家族が村落共同体に拡張され、それが国家に拡張される、そこまではいいけれど、それと同じ形では、国家を人類まで拡張することはできないんです。国家から人類への拡張には別のルートを作らなきゃいけない。だから、ぼくは「観光客の哲学」というものを考え、そのプロセスを観光客や郵便という言葉で呼んでいる。
 
・・・やっぱり、宇宙人が侵略してこないと、人類は一つにまとまれないですかね。(苦笑)
 
さて東の思考はさらに「偶然性に開かれた実存哲学」や、「偶然性をベースにした連帯」の原理を模索しているという。このほか浅田がアーレントを語る中で述べた「全体性なき共同性」、千葉の「有限性」の問題など、鼎談において提出された様々な概念について具体的に考えてみることにより、リベラリズムを改めてリアルなものに仕立て直す試みが準備される・・・かも知れない。

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2016年5月26日 (木)

「超解説」カントとヘーゲル

近頃、分かりやすさを謳う類の「世界史本」がいろいろ出ている。その書き手として名前を多く目にするのは祝田秀全、関真興、茂木誠といった、予備校講師の経歴を持つ先生方だ。歴史の流れを整理してストーリー化する、その語り口が巧みなのは、さすがだなと思っていたら、今度は予備校で「倫理」科目を教える先生の書いた「分かりやすい」思想の本が出た。『世界を動かす「宗教」と「思想」が2時間でわかる』(蔭山克秀・著、青春新書)から、カントとヘーゲルの解説をメモしてみる。

ドイツ観念論といえばカントだ。カントは人間の理性を、自然科学を扱う「理論理性」と道徳や哲学を扱う「実践理性」とに分けた。カントは、自分のめざすよりよい世界を「道徳的な世界」と考え、そういう世界をめざす意志を「善意志」と呼んだ。そして実践理性とは、その善意志に対して、道徳的な命令を発する理性のことだ。
みんなが自由に自らの実践理性の道徳命令に従って動
くことができるようになれば、そこには理想の道徳社会が実現するはずだ。これがカントのめざした「目的の王国」だ。
しかしよくよく考えたら、カント哲学はキリスト教となじみやすいな。「神=実践理性/神の国=目的の王国/神の声=定言命法」と考えれば、カント哲学はほぼ「別表現でのキリスト教」だ。

ヘーゲルといえば「絶対精神」と「弁証法」だ。
絶対精神とは自由を本質とする神のような存在で、ヘーゲルはその絶対精神が人間(特に歴史上の「英雄」たち)を操ることで、世の中に自由と合理性が拡大し、社会や歴史は発展すると考えた。
そして、その絶対精神の運動法則にあたるものが「弁証法」だ。
じゃ弁証法とは何かというと、それはズバリ「対立」だ。もっとちゃんと言うと、あるもの(テーゼ)と別のもの(アンチテーゼ)が対立することで、よりよいもの(ジンテーゼ)をつくり出すという運動だ。
社会や歴史も、ルネサンスや市民革命といった〝対立〟があったからこそ発展し、その結果、世の中の自由と合理性が拡大した。これは自由を本質とする「絶対精神の自己実現」ともいえるし、社会や歴史の弁証法的発展ともいえることなんだ。

・・・カントの「実践理性」にしても、ヘーゲルの「絶対精神」にしても、良くも悪くも何となく「神」って感じだよなあ。キリスト教文化の中のヨーロッパ哲学は、そう簡単には「神」と縁を切れなかったものと見える。

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2016年3月28日 (月)

デカルト的「精神」は近代的「魂」

哲学のメガネ』(三好由紀彦・著、河出書房新社)第3章「死を経験したものは誰もいない?」からメモする。

デカルトは、「私は考える、ゆえに私はある」という命題の完全性、絶対性はどこから由来するのかを引き続き探求しようとする。デカルトは次のように語る。

当の観念は、私よりも完全でかつ私が考えうるあらゆる完全性をみずからのうちにもつところの存在者、すなわちひとことでいえば、神であるところの存在者、によって、私のうちにおかれたものである、というほかはなかった。(「方法序説」)

デカルトは、この「われ思う、ゆえにわれあり」の根拠をけっきょくはキリスト教の神、すなわち死後の世界の神に求めざるを得なかった。ゆえに彼にとって「われ=精神」とはあくまでも「死後の経験=霊魂」と同じものだったのである。

デカルトは人間的自我を目覚めさせ、近代哲学の扉を開けたものとされているが、その物心二元論によってむしろキリスト教的世界観は強化され、また彼の自我の背後には神がしっかりと仕込まれていたのである。

・・・デカルト的物心二元論における実体とは、精神と物体である。人間の理性は神の理性の分有であるならば、理性を持つ精神は、「魂」の近代バージョンと思えばいいんだろうな。

正直なところ「我思う故に我在り」というフレーズ、どうもこれだけでは分かるような分からんような、と昔から感じていた。近頃思うのは、哲学も歴史的産物というか、時代背景も見た方がいいな、ということ。西洋哲学はやはりキリスト教的な思考のバイアスがかかっているわけだし、デカルトが生きていたのは三十年戦争の時代。宗教分裂により混乱する社会の中で、確実なものを求めたデカルトは「我思う故に我在り」に辿り着いた。ということなんだろう。

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2016年1月13日 (水)

「世界資本主義」と歴史の反復

ヘゲモニー国家不在の中、世界戦争が勃発する?――『パリ同時テロ事件を考える』(白水社)所収の座談会「テロと戦争の時代を生きる」、柄谷行人の発言からメモする。

私は(歴史的段階の)循環的な側面に注目します。それを示すのが、「世界資本主義の段階」です。60年周期で、帝国主義的な段階と自由主義的な段階が交互に来ている。ただし、ここで使っている「帝国主義」「自由主義」という言葉は、一般に使われている意味とは違います。ここで「自由主義的」というのは、ヘゲモニー国家が存在する状態を意味しています。1810年から1870年のイギリス、1930年から1990年のアメリカがそうです。1750年以前のオランダもそうでした。「自由主義的」というのは、このヘゲモニー国家の経済政策のことなんです。

一方、「帝国主義的」というのは、ヘゲモニー国家が存在していない状態です。そして、次のヘゲモニーを得るために主要国家が争いあう。だから世界戦争が起こる。たとえば、1750年から1810年が帝国主義的段階ですが、その最後に世界戦争があった。それがナポレオン戦争です。このあと、イギリスはヘゲモニーを確立しました。それが自由主義的段階です。19世紀末にイギリスが没落するにつれて、帝国主義的段階になった。それが一般に使われている意味での帝国主義の時代ですね。その最後に起こったのが第一次大戦で、その後にアメリカがヘゲモニーを確立した。そして、自由主義的段階に移行した。つぎに、1980年ぐらいにアメリカの没落とともに、再び帝国主義的段階に移った。そのように、一つの段階はおおよそ60年続き、120年で一回りします。したがって、似たような様相が出てきます。

1917年にロシア革命が起こって、1920年に国際連盟ができた。これは、第一次世界大戦の最中、および、その後に起こった出来事です。まさに前の帝国主義の終わり頃に起こったんですね。通常、この二つはまったく異なることだと考えられています。一方は、マルクス、他方はカントによるものだから。しかし、カントは市民革命は一国だけではできないから、諸国家連合が必要だと考えた人だし、マルクスも社会主義革命は「世界同時革命」でしかありえないと考えていた。つまり、永遠平和と社会革命は切り離せないものです。第一次大戦の後では、この二つが別々に起こった。だから、両方とも駄目になったのです。
現在の「帝国主義的」状況から、世界戦争が起こった場合、その戦争のあとには、革命と国連という問題が再び出てきます。その意味で、歴史の反復性を考えておく必要があります。

・・・「帝国主義」と「自由主義」のトレンドが交互に現れる「世界資本主義」のサイクル――歴史の反復とは、相場のトレンドとサイクルにも通じる考え方だなあ。と、証券会社社員であるワタシは思う(苦笑)。それはそれとして、カントとマルクス、永遠平和に世界同時革命と、柄谷節全開のお話。ですな。

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2015年11月28日 (土)

柄谷行人の宗教論

ニュースがわかる! 世界三大宗教』(文藝春秋SPECIAL冬号)掲載の、柄谷行人・語り下ろし宗教論から以下にメモ。

私はここ十年以上、歴史を四つの交換様式から構造的に考える仕事を続けてきました。宗教についての考察もそこに含まれます。 

一つ目の交換様式Aは「互酬」です。
二つ目の交換様式Bは「略取と再分配」です。
三つ目の交換様式Cは「商品交換」です。
国家が成立する以前の氏族社会ではA、専制国家や封建的国家のような国家社会ではB、近代資本制社会ではCが支配的です。

「A・B・Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式Dの実現を目指す社会運動。それを私は「普遍宗教」と呼びます。
D=普遍宗教が出現する条件は、非常に発展したA・B・Cが社会に浸透していることです。
歴史的に見ると、その条件は「世界帝国」の出現によって満たされました。具体的に言えば、ペルシア帝国、ローマ帝国、モンゴル帝国などがそれにあたります。

D=普遍宗教は、自由な個人のアソシエーションとして相互扶助的な共同体を創り出すことを目指します。ですから、Dは共同体的拘束や国家が強いる服従に抵抗します。つまり、AとBを批判し、否定します。また、階級分化と貧富の格差を必然的にもたらすCを批判し、否定します。これこそが、D=普遍宗教は「A・B・Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式である、ということの意味です。
キリスト教、イスラム教、仏教などは当初、このような「普遍宗教」として出現したと考えられます。

これらの普遍宗教は、当初は弾圧されましたが、いずれも世界帝国の宗教、すなわち「世界宗教」となりました。キリスト教はローマ帝国で、イスラム教はイスラム帝国で、仏教は唐王朝で、「国教」となりました。

しかし、普遍宗教は「国教」になると、これまで批判してきたはずの王=祭司を頂点とする国家体制の支配の道具に成り果てました。普遍宗教は世界宗教となることで、「堕落」したのです。

・・・歴史的に帝国の周辺から社会運動として現われた「普遍宗教」は、やがて帝国に取り込まれ「世界宗教」として体制化された。当初の社会運動の性格が失われてしまえば、体制化は「堕落」であると見なされても仕方がないのだろう。

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