2022年8月15日 (月)

問題は二項対立か相対主義か

新著『現代思想入門』が好評の哲学者・千葉雅也と、80年代に『構造と力』で現代思想ブームを巻き起こした浅田彰。両者の対談記事(今なぜ現代思想か)が『文藝春秋』9月号に掲載。以下にメモする。

千葉:今度の拙著の中でも資本主義が発展していく中で、価値観が多様化し、共通の理想が失われた時代、それがポストモダンの時代だと説明しています。そんな時代に生まれた現代思想は、「目指すべき正しいもの」がもたらす抑圧に注意を向け、多様な観点を認める相対主義の傾向がある。しかし現在、世間を見渡すと、相対主義を斥けて、何でも二項対立で考える風潮が高まっている。白か黒か、善か悪か。だからこの本では、そもそも、なぜ二項対立が生じているのか、状況を俯瞰して冷静に考える知性こそが重要だと書いています。
浅田:多文化主義という表層の背後のグローバル資本主義がすべてを支配する状況になり、儲かるかどうか、役に立つかどうかのプラグマティックな〇✕式思考が広まってしまった。80年代初頭に僕が考えていたのは、旧左翼や新左翼の失敗を清算することで、かえってマルクスを初めとする左翼思想を自由に読み替える可能性が出てきたということだった。ところが実際には、左翼はすべて✕、資本主義が〇という方向に動いてしまったんですね。ドゥルーズとガタリの共著『アンチ・オイディプス』などにヒントを得ながら、資本主義から逃走するための地図を描きたかった。それが『構造と力』や『逃走論』に結実しました。旧左翼・新左翼のように資本主義を批判するより、資本主義の大波に乗りながら、微妙に方向をずらして新しい空間に向かうこともできるんじゃないか、と。
千葉:ただ、『構造と力』が出た時代は資本主義や左翼思想など、打ち破るべき強固なドグマや権威があったわけですよね。今の時代は戦うべき強固な相手がいなくなってしまったのが実情です。
浅田:1980年代初頭には、「右手に朝日ジャーナル、左手に平凡パンチ(または少年マガジン)」という形で教養主義が辛うじて生き残っていた。それがなければ『構造と力』もブームにならなかったかもしれない。
千葉:権威的な知と、ポップカルチャーの融合ですね。ところが、時代を経て権威的な知が批判され尽くすと、もはやぶつかるべき相手もいなくなり、すべての教養やカルチャーがフラット化してしまう。
浅田:相対主義的多文化主義の背後には、価格だけが唯一の尺度というグローバル資本主義があるわけですね。
千葉:多様性とは言っても、資本主義のもとで消費される商品として展開しているだけなんですね。
浅田:その種の相対主義が蔓延して、教養が衰退していったんだと思います。

・・・相対主義の別名は「自由」かもしれない。しかし、人は自分が自由であるのは認めても、他者全てが自由である、とは認め難いのかもしれない。すべて自由であることに耐えられない、そこに二項対立が発生する素地があるのだろう。

|

2022年5月 8日 (日)

カント哲学とラカン理論

近代ドイツ哲学の巨人カントと、現代フランス思想の大家ラカン。一見、何の繋がりもないように見えるが、講談社現代新書『現代思想入門』(千葉雅也・著)によれば、二者の「認識論」には共通するものがあるという。以下に同書からメモする。

時代は18世紀末、カントは『純粋理性批判』において、哲学とは「世界がどういうものか」を解明するのではなく、「人間が世界をどう経験しているか」、「人間には世界がどう見えているか」を解明するものだ、と近代哲学の向きを定めました。

人間に認識されているものを「現象」と言います。現象を超えた、「世界がそれ自体としてどうであるか」はわからない。それ自体としての存在を、カントは「物自体」と呼びました。
人間はまず、いろんな刺激を「感性」で受け取って知覚し、それを「悟性」=概念を使って意味づける。この感性+悟性によって成り立っている現象の認識では、物自体は捉えていません。しかしそれでも物自体を目指そうとするのが「理性」である。感性、悟性、理性という三つが絡み合うのがカントOS(WindowsやMacOS) です。

ラカンは大きく三つの領域で精神を捉えています。第一の「想像界」はイメージの領域、第二の「象徴界」は言語(あるいは記号)の領域で、この二つが合わさって認識を成り立たせている。ものがイメージとして知覚され(視聴覚的に、また触覚的に)、それが言語によって区別されるわけです。このことを認識と呼びましょう。第三の「現実界」は、イメージでも言語でも捉えられない、つまり認識から逃れる領域です。この区別はカントの『純粋理性批判』に似ていないでしょうか。実はラカンの理論はカントOSの現代版と言えるものなのです(想像界→感性、象徴界→悟性、現実界→物自体という対応になっている)。

このようなX(捉えられない「本当のもの」)に牽引される構造について、日本の現代思想では「否定神学的」という言い方をします。否定神学とは、神を決して捉えられない絶対的なものとして、無限に遠いものとして否定的に定義するような神学です。我々は否定神学的なXを追い続けては失敗することを繰り返して生きているわけです。

ラカンにおける、現実界が認識から逃れ続けるということが、否定神学システムの一番明らかな例なのです。
カントまで遡るなら、否定神学的なXは「物自体」に相当すると言えます。
否定神学システムとは、事物「それ自体」に到達したくてもできない、という近代的有限性の別名なのです。

・・・カントとラカン、その認識論の構図は相似形であり、「否定神学的」アプローチも共有している。とりあえずラカンの例であるが、近代批判の色濃い現代思想といえども、近代哲学を承継している部分を見出すことができるというのは、とても面白いと感じる。

|

2022年5月 7日 (土)

ディオニュソス対アポロン

講談社現代新書『現代思想入門』(千葉雅也・著)から、以下にメモする。

哲学とは長らく、世界に秩序を見出そうとすることでした。混乱つまり非理性を言祝ぐ挙措を哲学史において最初にはっきりと打ち出したのは、やはりニーチェだと思います。

『悲劇の誕生』(1872)という著作において、ニーチェは、秩序の側とその外部、つまりヤバいもの、カオス的なもののダブルバインドを提示したと言えます。古代ギリシアにおいて秩序を志向するのは「アポロン的なもの」であり、他方、混乱=ヤバいものは「ディオニュソス的なもの」であるという二元論です。

ギリシアには酒の神であるディオニュソスを奉じる狂乱の祭があった。アポロン的なものというのは形式あるいはカタであって、そのなかにヤバい(ディオニュソス的)エネルギーが押し込められ、カタと溢れ出そうとするエネルギーとが拮抗し合うような状態になる。そのような拮抗の状態がギリシアの「悲劇」という芸術だ、というわけです。

この(アポロンとディオニュソスという対立の)図式は、哲学史的に遡ると、「形相」と「質料」という対立に行き着きます。要するにかたちと素材ですね。かたちは秩序を付与するものであり、素材はそれを受け入れる変化可能なものです。この形相と質料の区別がアリストテレスにおいてまず理論化されました。あくまでも質料は形相の支配下にあります。

ところが、ずっと時代を飛ばしますが、ニーチェあたりになると、秩序づけられる質料の側が、何か暴れ出すようなものになってきて、その暴発するエネルギーにこそ価値が置かれるようになります。つまり、形相と質料の主導権が逆転するのです。

・・・ニーチェの「アポロンとディオニュソス」が、アリストテレスの「形相と質料」以来の哲学的伝統に連なる概念として位置づけられると共に、ニーチェにおいて秩序優位から非秩序優位への逆転が行われたとする著者の見方は、とても興味深いものに思われる。

|

2022年5月 5日 (木)

ドゥルーズの元気になる思想

ポストモダンと言えば、批判的思想としてはとても魅力的だったけど、結局は相対主義に陥り建設的な思考は打ち出せないまま消えていった、という印象が強いかもしれない。それだけに、今改めてポストモダン思想を考える時には、そのポジティブな面を取り出すことが肝要なのではないかと思う。以下に、講談社現代新書『現代思想入門』(千葉雅也・著)からメモする。

ポストモダン思想、ポストモダニズムは、「目指すべき正しいものなんてない」、「すべては相対的だ」、という「相対主義」だとよく言われます。
確かに現代思想には相対主義的な面があります。ですが、そこには、他者に向き合ってその他者性=固有性を尊重するという倫理があるし、また、共に生きるための秩序を仮に維持するということが裏テーマとして存在しています。いったん徹底的に既成の秩序を疑うからこそ、ラディカルに「共」の可能性を考え直すことができるのだ、というのが現代思想のスタンスなのです。

1980年代の日本では、べストセラーになった浅田彰『構造と力』の影響もあり、ドゥルーズ、およびドゥルーズ+ガタリが注目されました。
80年代、バブル期の日本におけるドゥルーズの紹介は、時代の雰囲気とマッチしていました。資本主義が可能にしていく新たな関係性を活用して、資本主義を内側から変えていくという可能性が言われた時代です。
有名な概念ですが、横につながっていく多方向的な関係性のことを、ドゥルーズ+ガタリは「リゾーム」と呼びました。

リゾームはあちこちに広がっていくと同時に、あちこちで途切れることもある。つまり、すべてがつながり合うと同時に、すべてが無関係でもありうる。
ドゥルーズおよびドゥルーズ+ガタリでは、ひとつの求心的な全体性から逃れる自由な関係を言う場面がいろいろあって、自由な関係が増殖するのがクリエイティブであると言うのと同時に、その関係は自由であるからこそ全体化されず、つねに断片的でつくり替え可能であることが強調されます。全体性から逃れていく動きは「逃走線」と呼ばれます。

あらかじめ「これが最も正しい関係性のあり方だ」という答えが決まっているわけではありません。すべての関係性は生成変化の途上にあるのです。
そういう意味で、接続と切断のバランスをケース・バイ・ケースで判断するという、一見とても当たり前で世俗的な問題が、ドゥルーズにおいては真剣に、世界とあるいは存在とどう向き合うかという根本問題として問われているのです。

ドゥルーズ+ガタリが考えているのは、ある種の芸術的、準芸術的な実践です。自分自身の生活のなかで独自の居場所となるような、自分独自の安定性を確保するための活動をいろいろ作り出していこう、と。いろんなことをやろうじゃないか、いろんなことをやっているうちにどうにかなるよ、というわけです。ドゥルーズ+ガタリの思想は、そのように楽観的で、人を行動へと後押ししてくれる思想なんです。

・・・1978年生まれの千葉先生は、難解な現代思想をきれいに整理していて、80年代に20代だった自分から見ても、当時訳の分からないまま丸飲みしていた言葉の意味するところについて、「そういうことだったのか」と教えられることが多い。本を読みながら、当時の浅田彰の「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」とかドゥルーズ的な「逃走」、ラカン的な「最初に過剰があった」、あるいは岸田秀の「人間は本能が壊れた動物」とか思い出しました。

|

2022年2月25日 (金)

哲学史で「思考の鋳型」を学ぶ

哲学思想史』(淡野安太郎・著、角川ソフィア文庫)は、西洋哲学史の本。親本は1949年刊行(新版62年)で、新しい本というわけではないが、作家の佐藤優が評価するなど「発掘」して、今回文庫本による復刊が実現したようだ。以下に、同文庫末尾の解説文(佐藤氏が執筆)からメモする。

中世の黄金時代とは、ヘブライズム(ユダヤ・キリスト教)、ヘレニズム(ギリシア古典哲学)、ラティズム(ローマ法体系)が融合した文化総合の時代である。「コルプス・クリスティアヌム」(キリスト教共同体)と呼ばれた文化総合が世俗化していく過程が近代なのだ。中世の文化総合が解体する過程で、学問、国家(政治)、宗教がそれぞれ分化してくるのである。

理性を用いて、学問は断片的な知識ではなく、知を総合化する方向に向かった。そこで、19世紀後半から20世紀初頭にかけて難問が生じた。実験が可能で法則を見出すことができる科学と、実験ができず、思考に依存することの多い人文・社会科学を同じ科学という範疇で括ることが妥当かという問題だ。

この二つの科学(自然科学と人文・社会科学)をどう統合するか。その際に重要になるのが共通の言語だ。
私は、その共通の言語になるのが哲学だと考える。特に、哲学史を学ぶことによって、過去にあった思考の鋳型を知ることができる。この思考の鋳型と類比しながら、現在、自分が行っている専門的研究について語ることは可能である。

・・・自然科学と人文・社会科学をつなげる云々はともかく、何となくだけど小生も、たまに西洋哲学史を通覧してみることは、思考の基礎トレーニングとして大事だなという気がしている。佐藤氏の「思考の鋳型を知る」というのは、思考の組み立てのパターンを学ぶということかと思うのだが、例えば哲学史では「プラトン・カント的」思考と「アリストテレス・ヘーゲル的」思考つまり、「普遍的理念重視」と「個別的現実重視」のパターンが交互に現われるとか、中世哲学がキリスト教哲学ならば、古代哲学は非キリスト教的、近代哲学は脱キリスト教的、現代哲学は反キリスト教的とか・・・デカルトの大陸合理論とイギリス経験論、その二つがカント哲学において総合される、という基本的な流れもしっかり押さえておきたい。(と、最近思うようになりました。)

|

2022年1月 2日 (日)

冷戦を知らない世代の「社会主義」

昨夜のNHKBS番組「欲望の資本主義2022」で、経済思想家の斎藤幸平とチェコ出身の経済学者セドラチェクが対話。議論が余り嚙み合わない様子を見ていて思い出したのは、最近の日経新聞読書面で読んだ斎藤先生執筆の記事。1987年生まれの斎藤先生は、いわば「冷戦を知らない子供たち」ということになる。以下に、日経新聞2021年12月4日付記事(半歩遅れの読書術)からメモ。

「今さら、どうしてマルクスですか」。昨年に、『人新世の「資本論」』(集英社新書)を出してからも、何度この質問を受けただろうか。先日も、旧社会主義国出身の経済学者と議論した際、「ソ連の悪夢を繰り返そうなんてお前はなんて愚かなんだ」と呆れられた。

私は1987年生まれで、冷戦の記憶がない。だから、ソ連の恐ろしさは「知らない」。一方で、バブルも、高度経済成長も私にとっては歴史上の出来事にすぎない。むしろ、リアルなのは、今も広がり続ける経済格差、雇用の不安定化、環境破壊といった問題だ。そして、これこそマルクスが批判した資本主義の矛盾であった。

けれども、資本主義の矛盾の解決策が「共産主義」と言うと人々は拒絶反応を示す。私だって、ソ連は最悪だと思う。マルクスとソ連は違うはずだ。でもどう違うのか。この問いが学生時代の私を悩ませた。実は、「共産主義」が何を意味するかは、その擁護者も批判者も、曖昧なことが大半だったからである。

悩んでいた私にヒントをくれたのが、田畑稔『マルクスとアソシエーション』(新泉社)だった。実は、マルクスは「共産主義」や「社会主義」という言葉を稀にしか使っていない。将来社会を描くときは、労働者たちの「自発的結社」を意味する「アソシエーション」を一貫して用いたと田畑は言う。

田畑の本を読むと、ソ連の見方は一変する。「計画経済」という名のもとでの党や国家官僚による独占・支配は、人々の自発的結社とはかけ離れている。「国家資本主義」とでもいうべきものだ。マルクスによれば、そのような支配を打ち破った先にある富の共同管理にこそ、自由な将来社会がある。その担い手は、党や労働組合だけでなく、非政府組織(NGO)や協同組合、様々な社会運動を含む。

・・・もっと自由で楽しそうな「コミュニズム」がある、と確信した斎藤先生は、ソ連とは全く違う21世紀型のコモン社会=コミュニズムを模索する。まさに「冷戦を知らない子供たち」は、「社会主義」に先入観なく向き合えるのだが、それが良いのか悪いのか、自分には正直分からない。冷戦もソ連も記憶のある人間には、社会主義と聞けば、終わった、失敗した、ダメな思想としか思えないので・・・。アソシエーションって、柄谷行人も言ってた話だと思うけど、結局自分には何だかよく分からない。昔から人文学者系の人(今なら内田樹とか)は、「若い時にマルクスを読め」みたいなことを言うけど、何でなんだろうか。失敗したのはソ連型社会主義であり、今一度マルクスに立ち戻って社会主義の可能性を追求しよう、という話だったら、そんなことに今更付き合う気にはならないし。NHK番組では最後に、シュンペーターの「資本主義、社会主義、民主主義」の三題噺?を提示していたけど、これを改めて考えろってことなのか。このところ民主主義危うしの声も大きくなっているので、さらに国家とか市民社会とかポピュリズムも考えろなんて言われたら、もう頭グチャグチャになる~。

|

2021年11月29日 (月)

コヘレトの言葉

すべてには時がある』(若松英輔と小友聡の共著、NHK出版)は、旧約聖書「コヘレトの言葉」を取り上げたEテレ「それでも生きる」(NHKこころの時代)放送終了後に、番組内の対話を書籍化したもの。同番組は現在再放送中であり、もしかして「コヘレト」の静かなプチブームが起きているのかも・・・。

さて、NHK番組の「コヘレト」の取り上げ方は、当然ながら真面目だ。NHK本の各章のタイトルを見ても、「価値」が反転する書、「束の間」を生きる、「時」を待つ、「つながり」を感じる、「言葉」を託す、という具合で、かなり真面目感が強い。自分が「コヘレト」に関心を持ったのは、『「バカダークファンタジー」としての聖書入門』(架神恭介・著、イースト・プレス発行、2015年)なので、余計にそう思う。架神本は語り口が軽やかな(不真面目ではない)ところに好感する。以下に「コーヘレト」(架神本の表記)紹介部分をメモしてみる。

旧約で、もっともカッコイイのはこのコーヘレト。何を言ってるのか分からない。でもカッコイイ。いや、分からないからカッコイイのか。
このコーヘレトさん、やたらと空しい空しい言ってます。
彼の根底にあるのは「死ねばオワリ」という「空」の感覚。

全ての者に訪れる「死」を見据えたコーヘレトさん。彼には全てが空しい。不条理や社会悪にも直面し、彼の心はまた空しくなる。

でも、そんな空しい気持ちになっててもメシを食えば旨いと思うし、お酒を飲んだら楽しくなっちゃうわけです。知恵もまあ役に立つよね、と思ってるし、お金があると何でも買えるなあ、とか思ってる。だけど、ある時ふと、「空しいな・・・」と思っちゃう。空しいんだけど、じゃあ、どうすればいいのか? うーん・・・と考えて、コーヘレトさん。
「・・・やっぱメシ食って酒飲むか」
そう、この書はリアルなんですよ! こんな経験、僕たちにだってあるでしょう? 「死」を見据え、世界の空しさを感じても、それはそれとしてメシは旨い! 逆に未来が無価値、無意味だからこそ、今の一瞬の楽しさに意義を感じてしまう。その楽しみもまた空だとしても!

というわけで、この書はとってもデカダンだけどリアルでカッコイイ作品だと思います。

・・・コヘレトの言葉はデカダンでリアルでカッコイイという架神本の評価、なるほどなと思いつつ、NHK本を読んで真面目な見方も学ぶとするか。

|

2021年8月28日 (土)

不条理との闘い(反抗、自由、情熱)

なぜ今『カミュ伝』(中条省平・著、集英社インターナショナル新書)が出るのかな。まあ昨年の、小説『ペスト』のヒットということはあるにしても、だ。まあ何にせよ、カミュといえば「青春の哲学」という感じがする。本書の中で、哲学エッセー『シーシュポスの神話』について解説している部分からメモする。

カミュが強調しているのは、人生は不条理で、つまり、筋が通らず、ばかげていて、人間は時間という檻の中ではじめから死の刑罰を下された存在だということです。

カミュは人間にあたえられた不条理という根源的条件のなかで、その暗黒に耐えられず、神や超越的存在に救済を求めることを「飛躍」と呼んで拒否します。
人間は最初から死を宣告された死刑囚ではあるが、自分の死から目をそらすことなく、その自分の存在様態をつねに鋭く意識し、それに反抗することによって真に生きることができる、というのがカミュの考えです。
カミュは、この世界のありようを、不条理という暗黒と、それを明るく見きわめようとする人間の意志との不断の対決の場だと見なしています。
カミュはこういいます。「肝心なことは、もっともよく生きることではなく、もっとも多く生きることだ」。もっとも多く生きることとは、あたえられたいっさいを汲みつくそうとする情熱にほかなりません。不条理である現実に反抗し、自由を求めつつ、もっとも多く生きることを支えるのは、情熱なのです。

反抗と、自由と、情熱。あまりにもロマンティックな帰結? いいえ、そうではありません。不条理のほうが圧倒的にリアルな世界と人間のありようなのです。しかし、現実を明るく見きわめようとする意識のなかで、不条理と人間との果てしない闘争が続きます。そのけっして勝利することのない闘い(シーシュポスの労働)に耐えるためには、あたえられた条件に反抗し、たえず行動の自由を求め、情熱を燃やしつづけるほかない、ということです。

・・・中条先生は、カミュの思考の帰結はロマンティックなものではない、と断ってはいるが、敗北が定められている闘いを断固として続ける、その意志と行動は十分にロマンティックではないかと思う。ということで、やっぱり「青春の哲学」だなという感じです。

|

2021年6月20日 (日)

「ポスト産業社会」の知

雑誌『現代思想』6月号の特集は「いまなぜポストモダンか」。檜垣立哉・大阪大学大学院教授の寄稿「リオタール『ポスト・モダンの条件』再読」から、以下にメモする。

この書物(『ポスト・モダンの条件』1979年)は、確かにポスト・インダストリー時代における大学制度論や教育論であり、さらに現代社会論でもあり、そこでは情報化社会やネオ・リベラル社会、あるいはグローバリゼーションという、広くいえば現在のわれわれにまで連続する「現状」が分析されている。

大学が「思弁的」機能を失い、大学における活動の中心が「学際的」なものへと移行していく事態、そこで「予算権」を奪われ「自治」の根拠を喪失した教授会、古典的エリート自由人(とりわけ人文学者の院生)が数に数えられない失業者になる時代、古典的教養の基盤をなくした場面では「教授」がただの機械や「記憶回路」と交換可能になってしまうという記述などは、ほぼそのまま40数年後の現在においても通用するとおもわれる。

ここで描かれていることは色あせているわけでないどころか、激化しているようにもおもわれる。
「おおきな物語」が崩れ、それを支えてきた教育システムと、経済システムや知の総体的近代システムが「不信」にさらされ、知識がもはや貨幣と同様に、ネットワークのなかでだけやりとりされる世界。「学際」や「イノベーション」がますますかけ声として重視され、基礎学問が軽視される現状。そうした教養的な後ろ盾を失った世界においては、誰もが「とるにたらぬもの」としての「自己」になるのだが、とはいえそうした「とるにたらない」自己は、「孤立」するという以上に、ネットワーク的なコミュニケーション回路の「結び目」としてくみこまれ、そこで自己を定位しなければならない。

・・・こうしたリオタールの記述から、現在と当時との明らかな連続性に驚かざるをえない、と檜垣先生は述べている。

確かに現代社会における学問というか知識の変容は著しい。とりわけ人文知の没落の度合いは甚だしくて、大学における関連部門の居場所も狭まる一方だ。むしろビジネス分野で「リベラル・アーツ」の復権が唱えられたりしているけど、こういう成り行きも喜んで良いのか悪いのか分からない。『ポスト・モダンの条件』発刊から既に40年以上が過ぎたが、ポスト産業社会における知の在り方を「ポスト・モダン」状況と呼ぶならば、この状況は基本的に今でも変わらないというか、インターネット環境の中で人間も知識もパーツ化していくような社会の有り様は、むしろ「ポスト・モダン」状況の全面展開と言えるだろう。

|

2021年5月31日 (月)

人生を意味あるものにする

世界一しあわせなフィンランド人は、幸福を追い求めない』(ハーパーコリンズ・ジャパン発行)は、書名は何だか北欧ファン向けの読み物っぽいが、内容は、著者であるフィンランド出身の哲学者、フランク・マルテラが人生の意味を考察する「哲学書」。以下は自分なりの内容まとめ。

自分はただ、偶然にこの世界に生まれただけで、生きていることに特別な意味など何もない。人間の人生は、この広い宇宙の中では本質的に何の価値もないのだと気づいてしまったら、後戻りはできない。

かつては、人生を賭けるに値するような目的があると思えたのだが、今では幸福が人生の最大の目的となった。「今を楽しく生きる」という考えは、もはや強迫観念に近い。ただ困ったことに幸福は結局、単なる感情だ。人生に永続的な意味を与えてくれるものではない。

西洋哲学においては、1000年以上にわたり「人間の目的とは何か」が問われてきた。古代から中世までの哲学者たちは、人間の目的や根本的な存在理由を探求した。しかし科学的世界観の普及と共に、その問いは重要でなくなった。代わって「人生の意味とは何か」という問いが始まった。

「人生に意味はあるのか」と問う時、人は普遍的な意味、つまりあらゆる人の人生に共通する意味を知りたいと思っている。だが、人生にはもう1つの「意味」がある。それはもっと個人的な意味だ。自分の人生を「意義深い」と感じさせてくれるもののことである。自分が今、何に、どうすることに価値を感じているかを知り、常に新しく何かを学び、さらに成長を目指す。それこそが、意味のある人生を歩む道だろう。

人生そのものに普遍的な意味はないが、一人ひとりが自分の人生を意味深いものにすることはできる。そのためには、自分の存在を他人にとって意味あるものにする必要がある。自分の存在が他人にとって意味があると感じられた時、私たちは自分の人生に価値を見出すことができる。

他人とのつながりも大切だが、同じくらい自分自身とのつながりも大切だ。自分自身とつながる、というのは、自分自身の選んだとおりに生きる、自分自身で選んだ行動を取るということだ。自分に正直になり、自分の価値観や関心に従うことが、真に活き活きと生きることにつながる。

人生を意味にあるものにする方法は2つ。1つは他者とつながること、もう1つは自分自身とつながることだ。自分自身とつながるとは、自分らしく生き、能力を高めることである。他者とつながるとは、他者と緊密な関係を築き、その人に良い貢献をすることだ。大切なのは、たとえ今、どこで何をしていたとしても、自分に正直でいること、自分の価値観、関心に忠実でいること、他者と良い関係を築くことだ。それが人生に意味を与えてくれる。

普遍的な人生の意味を考えるのではなく、自分自身の人生に個人的な意味を与えることを考える。自分の人生を――そして愛する人たちの人生を――どうすればより意味深いものにできるかだけを考える。単純すぎるようだが、意味ある人生を送るにはそれ以外に方法がない。

・・・誰にでも当てはまる人生の意味は無い。しかしあなたにはあなたの、私には私の、人生の意味がある(だろう)。かつては、宗教や共同体が人間に人生の意味を与えていたかも知れない。しかし今や人間は宗教や共同体から解放されているので、人生の意味をそこから受け取ることは望めない。良くも悪くも自由になった人間は、何だかんだ言っても実存的に生きるほかない。だから、自分の人生の意味も自分で設定するしかない。そこで忘れてはいけないのは、おそらく人間は自分だけのために生きていくようにはできていない、ことだ・・・こんな具合につらつら思う私は、マルテラ先生の言うことに概ね同意するものです。

付け加えると、この本の最初と最後にカミュの言葉が置かれているのは、自分的には至極当然に思えた。このテーマを率直に語る際に援用される作家として、おそらくカミュほど相応しい人物はいないだろう。

|

より以前の記事一覧