2020年12月15日 (火)

「岸見哲学」の幸福論

大ベストセラー『嫌われる勇気』の著者、岸見一郎先生の新刊、『これからの哲学入門 未来を捨てて生きよ』(幻冬舎)から以下にメモする。

生きる目標は何か。それは端的にいえば、幸福であることです。

どんな時に仕事をしていて楽しく感じられるのかといえば、自分が仕事によって他者に貢献していると思える時です。

他者に貢献していると思えればこそ、生きがいを感じることができます。人は仕事をするために働いているのではなく、生きるために働くというのは、仕事をすることで生きがいを感じられるということであり、生きがいを感じられることができればこそ幸福に生きることができるのです。

どんな時に人は自分に価値があると思えるかといえば、自分が何らかの仕方で他者に貢献していると感じられる時です。ただし、仕事をすることによってしか貢献できないわけではありません。
子どもがただ生きているだけでまわりの人に幸福を与えられるように、私たちもまた生きていることで他者に貢献し、幸福を与えることができる。そう考えていけないわけはないのです。

人生の目標を成功ではなく幸福に据えなければなりません。人は未来に何かを達成するかどうかに関係なく、「今ここ」で幸福であることができます。このことに気づく人が増えれば、世界は大きく変わり始めるでしょう。

・・・人生の目標は成功ではなく幸福である。幸福とは他者に貢献できることである。そして貢献の仕方は仕事だけではない。生きているだけでも他者に貢献できる。すなわち生きているだけで幸福である。

ということらしいのだが、とりあえず「貢献」のレベル感は、どれくらいなのかなと思う。まあ子どもは生きているだけで人を幸福にするかもしれないが、大人はそうはいかないような。日々の生活の中で、人に貢献しているという実感を持てるかというと、自分的にはなかなか難しいという感じがします。

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2020年12月14日 (月)

「社会主義」の可能性

いまこそ「社会主義」』(朝日新書)は、池上彰と的場昭弘、ジャーナリストと哲学者の対談本。以下に的場先生の発言からメモする。

社会主義の挫折というときに、ついソ連のような共産党一党独裁タイプの社会主義、つまり国家主義的な社会主義の失敗を想起しがちですが、そうではない社会主義もあったということを忘れてはいけない。
別の社会主義、つまり、民主主義を前提にして、人々の自由な運営によって実現しようという社会主義もありました。プルードンはアナキスト(無政府主義者)と紹介されることが多いのですが、人々の自由な運営を重視した社会主義者でもありました。

19世紀に国家主義的な社会主義の思想が誕生した理由は、資本主義は無政府的で、貧富の格差を増大させ、貧困層はなくならない、という認識があったからです。国家が介入すれば、それをなくせる、と考えたわけです。

資本主義と比較して社会主義に大きな欠点があるとすれば、どうしてもドグマ(教義)というのがあって、そのドグマが権威を生み、それがさまざまな発展を止めてしまう傾向がある。
資本主義は、私たちの現実の暮らしのなかから出てきて、理論はあとから付けられたものです。社会主義は現実に存在しなかったので、頭の中で考え出されたがゆえに、極めて理論的な側面がある。原理・原則主義があって、それが破られないように政府が規制していく。そして、私たちの自由な発想が削がれていく。問題は、その部分です。
自由を担保した社会主義を、どうやってつくっていくかが課題となります。

・・・「極めて理論的」であるがゆえに、社会主義は「観念論」に陥りやすいのだと思われる。マルクスはヘーゲルの歴史哲学を観念論的倒錯である、つまり現実認識としておかしいと批判したのだが、マルクス主義もまた結局「観念論」だったというのは実に皮肉な感じがする。実際、社会主義国家や計画経済は失敗に終わった。簡単に言って人間は自由を求めるからだ。しかし自由な資本主義は格差を生む。その格差を是正するための再分配は国家が行う。ということで、平等を志向する社会主義は、国家主義に傾きやすい面もあると思われる。では、国家主義でない社会主義は現実に可能か。的場先生は、民主主義的な合意に基づく地方分権型社会主義を構想する。格差と分断が世界を覆う中で、社会主義の可能性を改めて追求する様々な試みが現われてくるのかも知れない。

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2020年8月24日 (月)

ハイデガーの反ユダヤ思想

全体主義の克服』(集英社新書)は、マルクス・ガブリエルと中島隆博、哲学者同士の対談本。以下に、ガブリエルがハイデガーの「黒ノート」について語っている部分からメモする。

「黒ノート」で衝撃的なのは、戦争が始まってから、1940年代の末にかけて書かれた部分です。ハイデガーは、はっきりこう信じていました。技術的な疎外(技術によって人間が駆り立てられることで疎外されていくこと)の知的かつ歴史的な起源は、ユダヤ人およびユダヤ的精神であると。
というのも、ユダヤ人が世界を脱呪術化させたとハイデガーは考えていたからです。脱呪術化という考え方はマックス・ウェーバーの社会学から学んだものです。ウェーバーはユダヤ人が技術と近代、そして合理主義を発明したと主張するために、聖書の考え方を取り上げました。

「黒ノート」を書き始める以前に発表された論考では、自然を数学的に理解することは、デカルトやデカルト主義に結びつけられていました。しかし、「黒ノート」では、デカルト主義がユダヤ人に置き換わったのです。
ハイデガーによるデカルト主義批判は、公式には、フッサールの『デカルト的省察』(1931年)への批判として現れました。そうすると、フッサールがユダヤ人であるということで、デカルト主義とユダヤ人は互いに置き換えることができることになります。

ハイデガーが『存在と時間』を「尊敬と友情の念を込めて」フッサールに捧げたことは有名な話ですが、ナチスが政権を掌握し、ハイデガーがフライブルク大学の総長になると、うってかわって、1942年に刊行された第五版では、その献辞そのものを削除しました。
これは非常に恐ろしいことです。フッサールがユダヤ人であるというだけで、ハイデガーはフッサールを攻撃しているのですから。彼は、筋金入りの反ユダヤ主義信者でした。

(「黒ノート」の中身が)ここまでひどいとは誰も予想していなかったでしょう。ハイデガーは本物のナチです。ナチに単に幻想を抱いた愚か者ではありません。

・・・ハイデガー=ナチ問題は哲学業界では大問題なんだろうけど、一般人にはほぼどうでもいい話としか思えない。ハイデガーの何を評価するかと言えば、とりあえず自分としては、「哲学史家としてのハイデガー」を重視する木田元先生に倣っておけば良いと考えています。

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2020年2月 3日 (月)

ニーチェは「プラグマティスト」!?

アメリカにおけるニーチェ受容の分水嶺は、第二次世界大戦後のウォルター・カウフマンによる翻訳の登場である。『アメリカのニーチェ』(J・ラトナー=ローゼンハーゲン・著、岸正樹・訳、法政大学出版局)の「訳者あとがき」からメモする。

カウフマンの翻訳が顕在化させたものは何であろうか。それは「プラグマティスト」ニーチェである。
(1)反基礎づけ主義、(2)多元的視点、(3)影響や効果の重視という、プラグマティズムの本質的特性を有する点で、カウフマン(の翻訳)が生み出したニーチェは、紛れもなくプラグマティストである。プラグマティストとしてのニーチェを顕在化させたからこそ、ニーチェが「高い汎用性」に基づいてさまざまに利用されるようになった。

カウフマンの翻訳は、ウィリアム・ジェイムズと比較考察することによって、ニーチェの「プラグマティズム」を浮き彫りにしたが、同時にジェイムズのプラグマティズムの本質を、アメリカの読者に感じ取らせることにもなった。その本質とは、ルイ・メナンドの言葉を借りれば、プロテスタントの宗教改革にも匹敵するほどの「アメリカ文化の中の脱制度的衝動――あらゆる社会制度の偶然性の洞察や制度、画一性への敵意――を現わしている」ものである。まさにこのジェイムズが、ニーチェのもつ反制度性、反体系性ならびに自己主権性に対する理解を容易にしたのである。

フランス現代思想の受容において「哲学を文学化」したように、アメリカ受容の「メカニズム」は、分かりにくいニーチェ哲学を「反基礎づけ主義のプラグマティズム」として、すなわち「なじみ深い」言葉遣いの哲学者として普及させていく。

・・・こうして「プラグマティスト」である「アメリカ化したニーチェ」が誕生した。ニーチェ哲学とプラグマティズムは、大雑把に言えばどちらも「相対主義」の思考であると見なすことはできる。しかしながら、ニーチェ哲学の背景にはヨーロッパ大陸の合理主義、普遍主義的思考との対決と緊張がある。それゆえに、ニーチェは最初の徹底的なニヒリストであると自称した。これに対して、アメリカ的プラグマティズムはヨーロッパ大陸の伝統的思考とはほぼ無縁といえるだろう。ということで、両者の「類似」は当然ながら表面的なものだと言うほかはないのだが、それはそれとして、アメリカ人がニーチェをプラグマティストとして理解したという事情を見ると、結局人は物事を自分の理解しやすいような形で理解するしかないのだな、と改めて思う。

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2020年2月 2日 (日)

フランス現代思想とアメリカ

アメリカにおけるフランス現代思想の受容には二つの特徴がある。と、フランソワ・キュセは『フレンチ・セオリー』(邦訳・NTT出版)の中で述べているとのこと。『アメリカのニーチェ』(J・ラトナー=ローゼンハーゲン・著、岸正樹・訳、法政大学出版局)の「訳者あとがき」からメモする。

キュセはアメリカにおける受容の第一の特徴として「哲学の文学化」を挙げる。他の学問の領域を文学の領域に取り込んでゆき、「文学」の領域が拡大してゆく。それはポストモダン的相対主義の普及であった。

第二の特徴は「アメリカ式の翻訳のメカニズム」。フーコーやデリダたちはそのテクストにおいてきわめて独特の、翻訳の困難な用語を次々と創案しては駆使するため、翻訳者はつねに用語・文献解説者の役目を負わざるを得ない。そこでは、原テクストの錯綜する主題群、諸問題を「忠実に」再現するのがきわめて困難なので、複雑なテクストを断片化し、単純化し、再編集して、それを汎用性の高いものに作り変える。作り変えられた「汎用性の高い」テクスト、言い換えれば、新しくアメリカナイズされたテクストは豊かで多様な解釈を付与することが可能なテクストに変わる。「フレンチ・セオリー」はその結果、さまざまな領域への普及、浸透が容易になる。元のテクストよりも大きな波及力、影響力をもたらすようになる。

こうしたアメリカ的受容の「メカニズム」のもたらす帰結は(アメリカ文化産業の介在によるが)たしかに汎用性を備えたフレンチ・セオリーの商品化であり、世界化である。それは新しいものを積極的に開発し、普及させてゆこうとする原動力でもある。英訳されたフレンチ・セオリーはアメリカ国内で独自の思想を生み出しただけでなく、カルチュラル・スタディーズ、ポストコロニアリズムへ移行、発展しながら、世界的な広がりをもってゆく。

・・・30年以上も昔の、日本におけるポストモダンの流行も、事情は似たようなものだったという覚えがある。日本では、特に浅田彰の『構造と力』が突出して「汎用性の高い」テクストであったという印象だ。ただしその後、日本独自の思想が生まれたということはなく、結局一時的なブームに終わったな、という感じ。残念ながら。

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2019年6月 4日 (火)

哲学シンキング!

先月中旬の日経新聞で「哲学対話」がある公立高校を変えた、という記事を読んで感心していたら、今度はビジネス雑誌で、企業が「哲学シンキング」を導入、という記事が目に止まり、「むむむ。いったい何が起きているのだ」という気分になったぞ。今週の「週刊ダイヤモンド」(6/8号)からメモする。

日本では耳慣れない「哲学コンサルティング」企業、クロス・フィロソフィーズの吉田幸司社長は言う。「人文学不要論が叫ばれる一方、ビジネスでも答えのない問題が次々に出てきている。そのような難問に有効なのが哲学だ」と。

哲学シンキングと呼ばれるワークショップ(体験型講座)は、従来のブレストや会議とどこが違うのか?
「ロジカルシンキングやクリティカルシンキングの基盤である論理も哲学がつくったが、合理的な議論だけでは物事を分析できてもイノベーションを起こせない。このメソッドの柱は「問い」にある。問いに問いを重ね、前提をさかのぼることで課題の本質に迫れるだけでなく、議題の過程で別の視点や突拍子もない意見が出ることにより合理的な議論が“脱臼”(破綻)し、議論が再構築されてクリエーティブな発想が生まれる」

哲学シンキングは5つのステップから成るが、その前段階でファシリテーターはワークショップのテーマ選びを行う。ワークショップ当日は、ステップ0として「場の設計」を行う。参加者の人数は初心者であれば6~8人が理想だ。ステップ1は「問いの収集」だ。続くステップ2で、集まった問いをグルーピング。ステップ3でさらに問いに問いを重ね、グループを越境しながら議論を体系化する。そして、ステップ4で、それまでの議論を振り返り、核心/革新的な問いや課題の本質を参加者と発見していく。

・・・先の日経記事にも登場していた吉田社長は哲学博士にして起業家、36歳とまだ若い。それにしても短期間に「哲学対話」やら「哲学シンキング」やらの話を目にすると、先日初めて哲学カフェに身を置いてみたオイラも、もう少し参加しておいた方が良いかなという気になる。

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2019年5月25日 (土)

「春の哲学カフェ祭り2019」

哲学カフェというものがあることは知っていた。あの、半分タレント教授みたいな小川仁志先生がやってるやつだな、くらいの認識だ。ところが今月中旬の日経新聞記事「キセキの高校」を読んで、じわっと興味がわいた。梶谷真司先生の「哲学対話」を導入した高校の生徒に、ポジティブな変化が起こった、という実話に心を動かされて、まずは「哲学対話」「哲学カフェ」を検索してみれば、意外とあちこちでやってるものなのだなと思いつつ、目に付いたのが「春の哲学カフェ祭り」。10以上のテーマ別哲学カフェを開催するイベントだ。猛暑日一歩手前の暑さとなった本日、開催場所の南山大学に足を運んだ。

自分が参加した哲学カフェの内容は、昨年の小泉信三賞全国高校生小論文コンテストの受賞者、稲垣早佑梨さんが受賞論文(「文学は社会の役に立つか」と問う社会を問う)の内容をプレゼンして、それを基に参加者が対話する、というもの。稲垣さんは地元愛知の聖霊高校の生徒。あどけない感じすらある女子高生で、発表の様子も初々しかったが、2年生の時に書いた受賞論文の内容はとても確りしていて、自分が高校2年生の時にこんな論文は書けないなあと思われた。しかし10代の子が吉本隆明や日野啓三を引用しているのは、かなり意外な感じがした。

参加者は約20名。比較的若い人が多いが年配の人もいる。男女は半々くらいか。前半の1時間程度は稲垣さんの論文内容プレゼンと、それに対する参加者の疑問や感想などを書いた「つぶやきメモ」を集めて整理する時間。後半1時間は対話の時間。今回は自分はとりあえず人の意見を聞いておこうというスタンスで時間を過ごした。

ということで哲学カフェ、参加してみましたという感じ。ひとまずは、知らない人と真面目な話をする場である、と認識した。今後テーマで何か気になるものがあれば、また行ってみようかと思う。

梶谷先生の『考えるとはどういうことか』(幻冬舎新書)も読んでみた。考えるとは、他者に対して語ることである。それが根本的であると了解した。

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2019年5月18日 (土)

「哲学対話」のチカラ

今週の日経新聞に掲載されたシリーズ形式の記事「キセキの高校」には心を動かされた。とても大事なことに取り組んでいる人たちがいる、と感じた。5月16日付連載3回目の記事からメモする。

東京大教授の梶谷真司(52)は、受験偏差値では都立高で最低に近い大山高校(板橋区)で「哲学対話」が始まるきっかけをつくった。1つのテーマを決め、互いに問いと答えを繰り返すことで、生徒は気づいていない本来の力を取り戻す。

◎哲学対話のルール(大山高校の場合)
①なにを言ってもいい②人の言うことに否定的な態度をとらない③話を聞いているだけでもOK④質問しあう⑤本で知った知識・聴いた話ではなく、自分の経験で話す⑥まとめない⑦意見が変わってもOK⑧分からなくなってもよい

梶谷は2012年、ハワイの高校で哲学対話に出合った。十数人の生徒が輪になり目を輝かせて質問し、意見を言い合っていた。「こんなにも自由に語り合う場があるとは」と梶谷は衝撃を受けた。日本でも広める決意をし活動を始めた。小学校の教室、母親サークル、過疎の自治体など大学の外にどんどん出向いた。子供から大人まで参加者を広げた。
問い、語り合うことは「日常の前提から離れて自由になること」という信念を梶谷は持つようになる。15年ごろ、学校や教師の支援を手掛ける非営利団体の関係者から大山高を紹介された。哲学対話が始まって以来、大山高では公立大や難関私大への合格者が出るようになった。学校関係者は喜ぶが、梶谷は冷静だ。合格より、生徒が問い、語り、考え、自由になることが大切だからだ。

・・・あるテーマについて他人と問いかけ合い、考えることにより得た明確な認識を、自分の為すべき行動の具体化まで落とし込む。「哲学対話」の方法は、自分の生きる方向性を見出そうと模索する若い人たちへの効果が大きいと思われる。また、ビジネスのプロセスにも応用できる感じがする。

哲学とはまさに日常の前提から離れる行いだ。つまり日常の当たり前を改めて問い直す営みだ。でも、あんまり哲学に深入りすると日常に戻ってこれなくなる恐れがある(苦笑)ので、適当なところで納得して日常に帰ってくるのが賢明だろうな。

自由についてふと思った。社会の中で自分の自由を確保するにはどうしたらよいのか。とりあえず自分が他人から大事にされるような人になる。そして自分も他人を大事にする。お互いがお互いを大事にすることが、結局は社会の中でみんなが自由に生きるための近道ではないか・・・甘っちょろいかな。

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2019年5月11日 (土)

深井教授、著作に虚偽の不可解

(本日付日経新聞社会面より)
東洋英和女学院(東京・港)は10日、深井智朗院長(54)の著書などの内容に極めて悪質な捏造や盗用があり、同日付で院長と東洋英和女子学院大教授の職について懲戒解雇したと発表した。著書で取り上げた人物とその論文はいずれも実在せず、捏造と認定した。
同大の調査委員会によると、著書は2012年刊行の「ヴァイマールの聖なる政治的精神」(岩波書店)。神学者「カール・レーフラー」とその論文に触れているが、この人物の実在を裏付ける資料はなかった。
18年10月、キリスト教関係者向けの新聞に疑義を指摘する記事が掲載され、同大が調査委を設置した。ドイツ思想史などが専門の深井氏は16年4月に同大教授となり、17年10月から院長。「プロテスタンティズム」(中公新書)が18年の読売・吉野作造賞を受賞した。

・・・この件は昨秋、週刊誌ネタになっていたのは承知していたが、このたび公式に捏造が認定されたことになる。問題の書となった『ヴァイマールの~』だが、自分は何か面白そうだと思って買ったし、カルチャーセンター講座で深井先生ご本人を見ていたこともあり、頭も良く人柄もソフトな感じで神学ジャンルでは要チェックの先生だと思っていたから、今回の出来事については「なぜ?」という感想しか出てこない。

件の「カール・レーフラー」という人物については、『ヴァイマールの~』「第4章ニーチェは神学を救うのか」の中でこう述べられている。

神学者カール・レーフラーは、1924年に書かれた「今日の神学にとってのニーチェ」という論文の中で、ニーチェのキリスト教批判を分析した上で、(中略)ニーチェの批判によってカール・バルトの神学は消滅するという議論を展開している。

正直このニーチェと神学という逆説的な取り合わせに魅せられて第4章だけでも読むかと思って、この高価な本を買ったので、ここに虚偽の部分があるならば「参ったなあ」という感じしかしない。岩波書店の編集者は何をやっていたのだと思ったりもするけど、そもそもフェイクに手を染める必要なんか全くない才能豊かな先生であると思われるので、とにかく不可解というほかない。

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2019年4月25日 (木)

哲学はロックなのである

哲学を語るコンサルタントとして知られる山口周氏。サイト「NewsPicks」4/16発信記事「ビジネスで武器になる哲学」から、氏の話を以下にメモする。

哲学者はロックンローラー。世の中に対して「それって違うんじゃない?」という批判的なまなざしを、常に提示し続けてきた人々です。

「自由はキツイですよ」と説いたのが、ドイツの哲学者フロムです。例えば、ナチスドイツで発生したファシズム。「自由」はもともと市民が頑張って手に入れた権利ですが、人々はそれに伴う孤独と重い責任に耐えられなくなり、こうした全体主義に傾倒するようになったと、フロムは言います。自由に耐え得る強い人とは、自分の力で考えることができる人です。自由になるとは「年収が高い方がいい」とか「学歴が高い方がいい」とか、こうあるべきという他の人の物差しからどんどん外れること。そんな中で、無規範に陥らずに、自分の規範でしっかり生きることができるのか。そういう強い人だけが、本当の意味で自由を謳歌することができるのです。

不良と優等生、世界を悪い方に導くのはどちらでしょうか。それは「無批判な優等生」と答えたのが、哲学者のハンナ・アーレントです。彼女はナチスドイツでユダヤ人虐殺計画において、大きな役割を果たしたアドルフ・アイヒマンについて本にまとめています。彼はナチス党で出世するために自分の任務を一生懸命こなした結果、恐ろしい犯罪を犯すに至った。つまり、悪とは「システムを無批判に受け入れること」なのだと、アーレントは分析しています。

人間には、アイデンティティに偏執するパラノ(パラノイア)型と、直感の赴くまま柔軟に生きるスキゾ型がいる。そう考えたのが、フランスの哲学者ドゥルーズです。パラノ型は時代や環境の変化に弱い。それに対して、スキゾ型はしなやかに時代の変化に対応していけます。ここはやばそうだと直感的に感じたら、さっさと逃げる。物事が目まぐるしく変化する現代では、逃げる勇気を持ったスキゾ型の生き方こそが必要となってくると思います。

「無批判な優等生が世界を悪くする」というお話をしましたが、哲学者は「真面目な不良」だと言えます。おかしなルールには従わないけれど、人が幸せに生きるということにかけては真面目な人々なのです。ビジネスの世界で活躍しながらも、優等生にならず「不良の魂」は失わない。そんなしなやかな精神が、今後はさらに求められてゆくでしょう。

・・・自分にとっては「スキゾ」と「パラノ」といえば浅田彰なんだよなあ。「逃走論」という本もあったっけ。とりあえず社会システムに従いつつも、時に批判し、逃げるというやり方で反抗する。自分の規範を持って反抗する、それが哲学すなわちロック、だと思う。

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