2020年2月 3日 (月)

ニーチェは「プラグマティスト」!?

アメリカにおけるニーチェ受容の分水嶺は、第二次世界大戦後のウォルター・カウフマンによる翻訳の登場である。『アメリカのニーチェ』(J・ラトナー=ローゼンハーゲン・著、岸正樹・訳、法政大学出版局)の「訳者あとがき」からメモする。

カウフマンの翻訳が顕在化させたものは何であろうか。それは「プラグマティスト」ニーチェである。
(1)反基礎づけ主義、(2)多元的視点、(3)影響や効果の重視という、プラグマティズムの本質的特性を有する点で、カウフマン(の翻訳)が生み出したニーチェは、紛れもなくプラグマティストである。プラグマティストとしてのニーチェを顕在化させたからこそ、ニーチェが「高い汎用性」に基づいてさまざまに利用されるようになった。

カウフマンの翻訳は、ウィリアム・ジェイムズと比較考察することによって、ニーチェの「プラグマティズム」を浮き彫りにしたが、同時にジェイムズのプラグマティズムの本質を、アメリカの読者に感じ取らせることにもなった。その本質とは、ルイ・メナンドの言葉を借りれば、プロテスタントの宗教改革にも匹敵するほどの「アメリカ文化の中の脱制度的衝動――あらゆる社会制度の偶然性の洞察や制度、画一性への敵意――を現わしている」ものである。まさにこのジェイムズが、ニーチェのもつ反制度性、反体系性ならびに自己主権性に対する理解を容易にしたのである。

フランス現代思想の受容において「哲学を文学化」したように、アメリカ受容の「メカニズム」は、分かりにくいニーチェ哲学を「反基礎づけ主義のプラグマティズム」として、すなわち「なじみ深い」言葉遣いの哲学者として普及させていく。

・・・こうして「プラグマティスト」である「アメリカ化したニーチェ」が誕生した。ニーチェ哲学とプラグマティズムは、大雑把に言えばどちらも「相対主義」の思考であると見なすことはできる。しかしながら、ニーチェ哲学の背景にはヨーロッパ大陸の合理主義、普遍主義的思考との対決と緊張がある。それゆえに、ニーチェは最初の徹底的なニヒリストであると自称した。これに対して、アメリカ的プラグマティズムはヨーロッパ大陸の伝統的思考とはほぼ無縁といえるだろう。ということで、両者の「類似」は当然ながら表面的なものだと言うほかはないのだが、それはそれとして、アメリカ人がニーチェをプラグマティストとして理解したという事情を見ると、結局人は物事を自分の理解しやすいような形で理解するしかないのだな、と改めて思う。

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2020年2月 2日 (日)

フランス現代思想とアメリカ

アメリカにおけるフランス現代思想の受容には二つの特徴がある。と、フランソワ・キュセは『フレンチ・セオリー』(邦訳・NTT出版)の中で述べているとのこと。『アメリカのニーチェ』(J・ラトナー=ローゼンハーゲン・著、岸正樹・訳、法政大学出版局)の「訳者あとがき」からメモする。

キュセはアメリカにおける受容の第一の特徴として「哲学の文学化」を挙げる。他の学問の領域を文学の領域に取り込んでゆき、「文学」の領域が拡大してゆく。それはポストモダン的相対主義の普及であった。

第二の特徴は「アメリカ式の翻訳のメカニズム」。フーコーやデリダたちはそのテクストにおいてきわめて独特の、翻訳の困難な用語を次々と創案しては駆使するため、翻訳者はつねに用語・文献解説者の役目を負わざるを得ない。そこでは、原テクストの錯綜する主題群、諸問題を「忠実に」再現するのがきわめて困難なので、複雑なテクストを断片化し、単純化し、再編集して、それを汎用性の高いものに作り変える。作り変えられた「汎用性の高い」テクスト、言い換えれば、新しくアメリカナイズされたテクストは豊かで多様な解釈を付与することが可能なテクストに変わる。「フレンチ・セオリー」はその結果、さまざまな領域への普及、浸透が容易になる。元のテクストよりも大きな波及力、影響力をもたらすようになる。

こうしたアメリカ的受容の「メカニズム」のもたらす帰結は(アメリカ文化産業の介在によるが)たしかに汎用性を備えたフレンチ・セオリーの商品化であり、世界化である。それは新しいものを積極的に開発し、普及させてゆこうとする原動力でもある。英訳されたフレンチ・セオリーはアメリカ国内で独自の思想を生み出しただけでなく、カルチュラル・スタディーズ、ポストコロニアリズムへ移行、発展しながら、世界的な広がりをもってゆく。

・・・30年以上も昔の、日本におけるポストモダンの流行も、事情は似たようなものだったという覚えがある。日本では、特に浅田彰の『構造と力』が突出して「汎用性の高い」テクストであったという印象だ。ただしその後、日本独自の思想が生まれたということはなく、結局一時的なブームに終わったな、という感じ。残念ながら。

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2019年6月 4日 (火)

哲学シンキング!

先月中旬の日経新聞で「哲学対話」がある公立高校を変えた、という記事を読んで感心していたら、今度はビジネス雑誌で、企業が「哲学シンキング」を導入、という記事が目に止まり、「むむむ。いったい何が起きているのだ」という気分になったぞ。今週の「週刊ダイヤモンド」(6/8号)からメモする。

日本では耳慣れない「哲学コンサルティング」企業、クロス・フィロソフィーズの吉田幸司社長は言う。「人文学不要論が叫ばれる一方、ビジネスでも答えのない問題が次々に出てきている。そのような難問に有効なのが哲学だ」と。

哲学シンキングと呼ばれるワークショップ(体験型講座)は、従来のブレストや会議とどこが違うのか?
「ロジカルシンキングやクリティカルシンキングの基盤である論理も哲学がつくったが、合理的な議論だけでは物事を分析できてもイノベーションを起こせない。このメソッドの柱は「問い」にある。問いに問いを重ね、前提をさかのぼることで課題の本質に迫れるだけでなく、議題の過程で別の視点や突拍子もない意見が出ることにより合理的な議論が“脱臼”(破綻)し、議論が再構築されてクリエーティブな発想が生まれる」

哲学シンキングは5つのステップから成るが、その前段階でファシリテーターはワークショップのテーマ選びを行う。ワークショップ当日は、ステップ0として「場の設計」を行う。参加者の人数は初心者であれば6~8人が理想だ。ステップ1は「問いの収集」だ。続くステップ2で、集まった問いをグルーピング。ステップ3でさらに問いに問いを重ね、グループを越境しながら議論を体系化する。そして、ステップ4で、それまでの議論を振り返り、核心/革新的な問いや課題の本質を参加者と発見していく。

・・・先の日経記事にも登場していた吉田社長は哲学博士にして起業家、36歳とまだ若い。それにしても短期間に「哲学対話」やら「哲学シンキング」やらの話を目にすると、先日初めて哲学カフェに身を置いてみたオイラも、もう少し参加しておいた方が良いかなという気になる。

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2019年5月25日 (土)

「春の哲学カフェ祭り2019」

哲学カフェというものがあることは知っていた。あの、半分タレント教授みたいな小川仁志先生がやってるやつだな、くらいの認識だ。ところが今月中旬の日経新聞記事「キセキの高校」を読んで、じわっと興味がわいた。梶谷真司先生の「哲学対話」を導入した高校の生徒に、ポジティブな変化が起こった、という実話に心を動かされて、まずは「哲学対話」「哲学カフェ」を検索してみれば、意外とあちこちでやってるものなのだなと思いつつ、目に付いたのが「春の哲学カフェ祭り」。10以上のテーマ別哲学カフェを開催するイベントだ。猛暑日一歩手前の暑さとなった本日、開催場所の南山大学に足を運んだ。

自分が参加した哲学カフェの内容は、昨年の小泉信三賞全国高校生小論文コンテストの受賞者、稲垣早佑梨さんが受賞論文(「文学は社会の役に立つか」と問う社会を問う)の内容をプレゼンして、それを基に参加者が対話する、というもの。稲垣さんは地元愛知の聖霊高校の生徒。あどけない感じすらある女子高生で、発表の様子も初々しかったが、2年生の時に書いた受賞論文の内容はとても確りしていて、自分が高校2年生の時にこんな論文は書けないなあと思われた。しかし10代の子が吉本隆明や日野啓三を引用しているのは、かなり意外な感じがした。

参加者は約20名。比較的若い人が多いが年配の人もいる。男女は半々くらいか。前半の1時間程度は稲垣さんの論文内容プレゼンと、それに対する参加者の疑問や感想などを書いた「つぶやきメモ」を集めて整理する時間。後半1時間は対話の時間。今回は自分はとりあえず人の意見を聞いておこうというスタンスで時間を過ごした。

ということで哲学カフェ、参加してみましたという感じ。ひとまずは、知らない人と真面目な話をする場である、と認識した。今後テーマで何か気になるものがあれば、また行ってみようかと思う。

梶谷先生の『考えるとはどういうことか』(幻冬舎新書)も読んでみた。考えるとは、他者に対して語ることである。それが根本的であると了解した。

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2019年5月18日 (土)

「哲学対話」のチカラ

今週の日経新聞に掲載されたシリーズ形式の記事「キセキの高校」には心を動かされた。とても大事なことに取り組んでいる人たちがいる、と感じた。5月16日付連載3回目の記事からメモする。

東京大教授の梶谷真司(52)は、受験偏差値では都立高で最低に近い大山高校(板橋区)で「哲学対話」が始まるきっかけをつくった。1つのテーマを決め、互いに問いと答えを繰り返すことで、生徒は気づいていない本来の力を取り戻す。

◎哲学対話のルール(大山高校の場合)
①なにを言ってもいい②人の言うことに否定的な態度をとらない③話を聞いているだけでもOK④質問しあう⑤本で知った知識・聴いた話ではなく、自分の経験で話す⑥まとめない⑦意見が変わってもOK⑧分からなくなってもよい

梶谷は2012年、ハワイの高校で哲学対話に出合った。十数人の生徒が輪になり目を輝かせて質問し、意見を言い合っていた。「こんなにも自由に語り合う場があるとは」と梶谷は衝撃を受けた。日本でも広める決意をし活動を始めた。小学校の教室、母親サークル、過疎の自治体など大学の外にどんどん出向いた。子供から大人まで参加者を広げた。
問い、語り合うことは「日常の前提から離れて自由になること」という信念を梶谷は持つようになる。15年ごろ、学校や教師の支援を手掛ける非営利団体の関係者から大山高を紹介された。哲学対話が始まって以来、大山高では公立大や難関私大への合格者が出るようになった。学校関係者は喜ぶが、梶谷は冷静だ。合格より、生徒が問い、語り、考え、自由になることが大切だからだ。

・・・あるテーマについて他人と問いかけ合い、考えることにより得た明確な認識を、自分の為すべき行動の具体化まで落とし込む。「哲学対話」の方法は、自分の生きる方向性を見出そうと模索する若い人たちへの効果が大きいと思われる。また、ビジネスのプロセスにも応用できる感じがする。

哲学とはまさに日常の前提から離れる行いだ。つまり日常の当たり前を改めて問い直す営みだ。でも、あんまり哲学に深入りすると日常に戻ってこれなくなる恐れがある(苦笑)ので、適当なところで納得して日常に帰ってくるのが賢明だろうな。

自由についてふと思った。社会の中で自分の自由を確保するにはどうしたらよいのか。とりあえず自分が他人から大事にされるような人になる。そして自分も他人を大事にする。お互いがお互いを大事にすることが、結局は社会の中でみんなが自由に生きるための近道ではないか・・・甘っちょろいかな。

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2019年5月11日 (土)

深井教授、著作に虚偽の不可解

(本日付日経新聞社会面より)
東洋英和女学院(東京・港)は10日、深井智朗院長(54)の著書などの内容に極めて悪質な捏造や盗用があり、同日付で院長と東洋英和女子学院大教授の職について懲戒解雇したと発表した。著書で取り上げた人物とその論文はいずれも実在せず、捏造と認定した。
同大の調査委員会によると、著書は2012年刊行の「ヴァイマールの聖なる政治的精神」(岩波書店)。神学者「カール・レーフラー」とその論文に触れているが、この人物の実在を裏付ける資料はなかった。
18年10月、キリスト教関係者向けの新聞に疑義を指摘する記事が掲載され、同大が調査委を設置した。ドイツ思想史などが専門の深井氏は16年4月に同大教授となり、17年10月から院長。「プロテスタンティズム」(中公新書)が18年の読売・吉野作造賞を受賞した。

・・・この件は昨秋、週刊誌ネタになっていたのは承知していたが、このたび公式に捏造が認定されたことになる。問題の書となった『ヴァイマールの~』だが、自分は何か面白そうだと思って買ったし、カルチャーセンター講座で深井先生ご本人を見ていたこともあり、頭も良く人柄もソフトな感じで神学ジャンルでは要チェックの先生だと思っていたから、今回の出来事については「なぜ?」という感想しか出てこない。

件の「カール・レーフラー」という人物については、『ヴァイマールの~』「第4章ニーチェは神学を救うのか」の中でこう述べられている。

神学者カール・レーフラーは、1924年に書かれた「今日の神学にとってのニーチェ」という論文の中で、ニーチェのキリスト教批判を分析した上で、(中略)ニーチェの批判によってカール・バルトの神学は消滅するという議論を展開している。

正直このニーチェと神学という逆説的な取り合わせに魅せられて第4章だけでも読むかと思って、この高価な本を買ったので、ここに虚偽の部分があるならば「参ったなあ」という感じしかしない。岩波書店の編集者は何をやっていたのだと思ったりもするけど、そもそもフェイクに手を染める必要なんか全くない才能豊かな先生であると思われるので、とにかく不可解というほかない。

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2019年4月25日 (木)

哲学はロックなのである

哲学を語るコンサルタントとして知られる山口周氏。サイト「NewsPicks」4/16発信記事「ビジネスで武器になる哲学」から、氏の話を以下にメモする。

哲学者はロックンローラー。世の中に対して「それって違うんじゃない?」という批判的なまなざしを、常に提示し続けてきた人々です。

「自由はキツイですよ」と説いたのが、ドイツの哲学者フロムです。例えば、ナチスドイツで発生したファシズム。「自由」はもともと市民が頑張って手に入れた権利ですが、人々はそれに伴う孤独と重い責任に耐えられなくなり、こうした全体主義に傾倒するようになったと、フロムは言います。自由に耐え得る強い人とは、自分の力で考えることができる人です。自由になるとは「年収が高い方がいい」とか「学歴が高い方がいい」とか、こうあるべきという他の人の物差しからどんどん外れること。そんな中で、無規範に陥らずに、自分の規範でしっかり生きることができるのか。そういう強い人だけが、本当の意味で自由を謳歌することができるのです。

不良と優等生、世界を悪い方に導くのはどちらでしょうか。それは「無批判な優等生」と答えたのが、哲学者のハンナ・アーレントです。彼女はナチスドイツでユダヤ人虐殺計画において、大きな役割を果たしたアドルフ・アイヒマンについて本にまとめています。彼はナチス党で出世するために自分の任務を一生懸命こなした結果、恐ろしい犯罪を犯すに至った。つまり、悪とは「システムを無批判に受け入れること」なのだと、アーレントは分析しています。

人間には、アイデンティティに偏執するパラノ(パラノイア)型と、直感の赴くまま柔軟に生きるスキゾ型がいる。そう考えたのが、フランスの哲学者ドゥルーズです。パラノ型は時代や環境の変化に弱い。それに対して、スキゾ型はしなやかに時代の変化に対応していけます。ここはやばそうだと直感的に感じたら、さっさと逃げる。物事が目まぐるしく変化する現代では、逃げる勇気を持ったスキゾ型の生き方こそが必要となってくると思います。

「無批判な優等生が世界を悪くする」というお話をしましたが、哲学者は「真面目な不良」だと言えます。おかしなルールには従わないけれど、人が幸せに生きるということにかけては真面目な人々なのです。ビジネスの世界で活躍しながらも、優等生にならず「不良の魂」は失わない。そんなしなやかな精神が、今後はさらに求められてゆくでしょう。

・・・自分にとっては「スキゾ」と「パラノ」といえば浅田彰なんだよなあ。「逃走論」という本もあったっけ。とりあえず社会システムに従いつつも、時に批判し、逃げるというやり方で反抗する。自分の規範を持って反抗する、それが哲学すなわちロック、だと思う。

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2019年3月31日 (日)

死は「一巻の終わり」

『「死」とは何か』(文響社)という本がよく売れているとか。著者は米イェール大学のシェリー・ケーガン教授。中日新聞(3/28付)掲載のインタビュー記事から以下にメモする。

(死を考えないより、考えて生きる方がいいのか)
悲しい、あらがうことができない、重苦しい。いろんな理由で死を考えたがらない人が多いが、誤りだ。チェコ出身の作家フランツ・カフカは「人生の意味は、それが終わることにある」と言った。重要なのは、死はまさに一巻の終わりという事実に気づき、人生の尊さを知ることだ。二度目がないからこそ、どう生きるか、何が正しいかを見極めなければならない。

(なぜ人は死を恐れるのか)
死に関して最も悲しいことは、生きている限り享受できたであろう楽しいことを得られなくなることだ。しかし、死を恐れることは、筋が通らないと思う。死は必ず訪れるからだ。
少なくとも私は死を恐れるより、自分の人生を生きてきて、愛すべき家族がいて、哲学の知見を人々と共有できたことに感謝するだろう。

(結局、死とは何か)
私は身体が朽ちても魂は生き続けるという考え方に賛成しない。考えたり、恋をしたり、創造したりといったことは、物体にはない私たちの身体機能の一部だ。死とは、身体が壊れ、こうした機能も果たせなくなること。それが全てだ。だからこそ、死を考えることは、どうすれば人生の価値を高められるかを考えることにつながる。

・・・死とは身体が壊れること。変な感想になるけど、「銀河鉄道999」の機械の身体を求めて宇宙を旅するという話が、若い時にはピンとこなかった。なんで機械の身体なんか求めるの?と。しかし年を取ると、そういう感じも結構分かってくる。何しろ身体は壊れる。というか年を取ると壊れてくる。機械は壊れても修理できるから、そっちの方が良いのかな。と思えてくるのだね。

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2019年3月26日 (火)

哲学は「転回」する

今週の『週刊東洋経済』(3/30号)の特集記事「世界のエリートはなぜ哲学を学ぶのか」から、現代哲学の議論の流れ(岡本裕一朗・玉川大学教授の解説)についてメモする。

近代哲学は17世紀後半から「認識論的転回」と呼ばれる議論が展開されてきた。それは「人間の人間たるゆえんは心や意識といった主観の中にある」とする考えだ。

しかし、19世紀末から20世紀に入る頃、哲学の議論は「言語論的転回」へと大きく舵を切った。
人間は物事の理解や世界の認識を、すべて言語を通して行っているという考えに基づく哲学。意識のあり方を規定しているのは言語であり「言語を分析することこそが人の真理や考え方に近づくことになる」という考え方だ。
20世紀後半に現れたジャック・デリダらのポストモダンも言語論的転回と結び付いたものだ。文化や歴史が異なれば、善悪や正義に関しても普遍的な真理はなく(異なる言語ゲームは共約不可能である)、多様な解釈があるだけになる。

21世紀に入る前後から、改めて他者同士の相互理解に取り組む哲学の潮流が現れた。互いの違いを認めつつ「共通の正しいことを誰しも相互理解できる領域があるのでは」と模索する、ポスト言語論的転回といえる3つの潮流だ。

1つは「自然主義的転回」だ。これは近年発達した脳科学や認知科学といった自然科学を積極的に取り入れながら「意識とは“脳”のメカニズムを分析することで解明できる」というアプローチだ。
2つ目が「メディア・技術論的転回」である。これは音声や映像、あるいは文字といったメディアによって「物事の伝わり方が変わる」ことに立脚した分析だ。
そして最後が「実在論的転回」。実際の物理的な対象に加え、それに関する思想や心、感情、空想まですべて存在している、と考える哲学的な分析だ。

・・・「真の相互理解」が成立可能な知的基盤を求める哲学者たちの模索は今も続いている、とのことだが、個人的には言語論的転回=ポストモダンの衝撃が強すぎて、もはや哲学にそんなに新たな展開は期待できないような気がしている。自分が思うのは、ヴィトゲンシュタインの言う「私の言語の限界が私の世界の限界」、「語り得ぬものについては沈黙」という認識論的かつ倫理的な命題を心得ておけばよい、ということだ。

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2016年5月26日 (木)

「超解説」カントとヘーゲル

近頃、分かりやすさを謳う類の「世界史本」がいろいろ出ている。その書き手として名前を多く目にするのは祝田秀全、関真興、茂木誠といった、予備校講師の経歴を持つ先生方だ。歴史の流れを整理してストーリー化する、その語り口が巧みなのは、さすがだなと思っていたら、今度は予備校で「倫理」科目を教える先生の書いた「分かりやすい」思想の本が出た。『世界を動かす「宗教」と「思想」が2時間でわかる』(蔭山克秀・著、青春新書)から、カントとヘーゲルの解説をメモしてみる。

ドイツ観念論といえばカントだ。カントは人間の理性を、自然科学を扱う「理論理性」と道徳や哲学を扱う「実践理性」とに分けた。カントは、自分のめざすよりよい世界を「道徳的な世界」と考え、そういう世界をめざす意志を「善意志」と呼んだ。そして実践理性とは、その善意志に対して、道徳的な命令を発する理性のことだ。
みんなが自由に自らの実践理性の道徳命令に従って動
くことができるようになれば、そこには理想の道徳社会が実現するはずだ。これがカントのめざした「目的の王国」だ。
しかしよくよく考えたら、カント哲学はキリスト教となじみやすいな。「神=実践理性/神の国=目的の王国/神の声=定言命法」と考えれば、カント哲学はほぼ「別表現でのキリスト教」だ。

ヘーゲルといえば「絶対精神」と「弁証法」だ。
絶対精神とは自由を本質とする神のような存在で、ヘーゲルはその絶対精神が人間(特に歴史上の「英雄」たち)を操ることで、世の中に自由と合理性が拡大し、社会や歴史は発展すると考えた。
そして、その絶対精神の運動法則にあたるものが「弁証法」だ。
じゃ弁証法とは何かというと、それはズバリ「対立」だ。もっとちゃんと言うと、あるもの(テーゼ)と別のもの(アンチテーゼ)が対立することで、よりよいもの(ジンテーゼ)をつくり出すという運動だ。
社会や歴史も、ルネサンスや市民革命といった〝対立〟があったからこそ発展し、その結果、世の中の自由と合理性が拡大した。これは自由を本質とする「絶対精神の自己実現」ともいえるし、社会や歴史の弁証法的発展ともいえることなんだ。

・・・カントの「実践理性」にしても、ヘーゲルの「絶対精神」にしても、良くも悪くも何となく「神」って感じだよなあ。キリスト教文化の中のヨーロッパ哲学は、そう簡単には「神」と縁を切れなかったものと見える。

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