2020年1月14日 (火)

「アンナ・カレーニナの原則」

『サピエンス全史』『ホモ・デウス』で、現代の「知の巨人」の地位を獲得したともいえるユヴァル・ノア・ハラリ。新著『21 Lessons』(河出書房新社)でハラリは、今日の主権国家が受け容れている単一の政治パラダイムとして、議会、人権、国際法などを挙げて、次のように述べる。(同書「文明」の章)

世界にはさまざまな種類の「機能不全国家」が散在しているかもしれないが、国家としてうまく機能するためのパラダイムは一つしかない。このようにグローバルな政治は、「アンナ・カレーニナの原則」に従っている。すなわち、機能している国家は互いにみなよく似ているが、機能不全の国家のそれぞれが、主要な政治パッケージの要素のどれかを欠いているために、独自の形で機能していないのだ。

・・・「アンナ・カレーニナの原則」というのは、トルストイの小説「アンナ・カレーニナ」に出てくる言葉、「幸福な家庭は似たり寄ったりだが、不幸な家庭はそれぞれに違う」を元にした半分洒落の造語かと思ったんだけど、検索してみると、ジャレド・ダイアモンドが『銃・病原菌・鉄』の中で書いているらしい。ただしそれは、家畜化できた動物には共通の特徴があり、家畜化できない動物はそうではない、ということを言い表すために使っているようだ。

ある程度の人生経験があれば、不幸な家庭における不幸の有り様や理由は実に様々であると推測できる。幸福な家庭の有り様は一般的にイメージしやすいのに対して、不幸な家庭の事情は外からは分かりづらい。それゆえ不幸な家庭は恐ろしく孤独だといえる。自分も、どちらかといえば不幸な家庭で育ったという記憶があるものだから、「アンナ・カレーニナ」の言葉は結構切実に感じられるのです。

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2019年11月22日 (金)

冷戦終結と「ハプスブルク」

ベルリンの壁崩壊から30年が過ぎたということで、最近の欧米における右傾化、ポピュリズムの席巻と絡めて状況の変化を論評する向きが、このところ目に付いたように思う。冷戦終結時にそこそこ流行った「歴史の終わり」(フランシス・フクヤマ)という思想は、自由な民主主義が社会主義やファシズムに勝利した、と考えていたが、30年後の現実は、その自由な民主主義が危機的な状況にあることを示している、というものだ。

30年前の当時について、少し別なことを思い出す。東西冷戦の終わりと共に「中欧」の復活が言われたことだ。それはかつて中欧を支配したハプスブルクの版図の記憶が浮上する、ということだ。実際、「冷戦の終結は、ハプスブルク史研究を大々的に活性化した」(『ハプスブルク帝国』岩﨑周一・著、講談社現代新書 2017年)のである。以下、同書からメモする。

「鉄のカーテン」の消滅は、旧ハプスブルク圏の全面的な交流を可能とした。またマルクス主義史学の影響力の減退により、王権、宮廷、そして貴族を扱った研究が活発になった。
ヨーロッパ統合の進展――とりわけEUの発足と(東方)拡大――は、ハプスブルク君主国をこれと関連づけて考察する動きをもたらした。
近代化と国民国家を理想ないし規範とする見方に疑問が呈され、複合的国制など、「前近代的」とされてきた事象に対する認識が刷新された。またこれに関連して、かつてはもっぱら否定的な概念として用いられてきた「帝国」を、多種多様な国・地域・民族を包含する超域的な政治的枠組みと意味づけ、その可能性を探る議論も、今日「連邦制」や「統合」などをキーワードとして、活況を呈している。

・・・冷戦終結後の経済のグローバル化及び国民国家の存在感の低下と共に、ハプスブルク帝国に新たな光が当てられたようにも見える。近年、グローバル化に対するポピュリズム的抵抗運動(右サイドからの疑似ナショナリズム、左サイドからの反資本主義的な格差是正の要求)が高まっているだけに、ハプスブルクの歴史に学ぶことで、多民族が共存する、多様性を活かす社会体制構築のヒントを得られる・・・かもしれないけど、岩﨑先生は、ハプスブルクを多民族共存のモデルケースとみるのは多分に美化され単純化された見方である、と釘を刺してもいる。

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2019年10月24日 (木)

日本が認める国の数は195

本日付日経新聞政治面記事からメモ。

天皇陛下が即位を国内外に宣明した22日の「即位礼正殿の儀」には186ヵ国の代表者が参列した。日本政府は国家として承認する195ヵ国のうちシリアを除いて招待し、9割超が出席した。国連加盟国は193ヵ国で、日本と日本が承認する国の計196ヵ国より3ヵ国少ない。

日本は国連未加盟のバチカンやコソボ、クック諸島、ニウエの4ヵ国を承認する。一方、91年に韓国と同時に国連に加盟した北朝鮮を国家とは認めていない。
国際法上では一般的「国家」は①領域②国民③主権――の3要素を満たすことが要件とされる。ただある国が別の国を国家として認めるかは、あくまでも各国個別の判断に委ねられる。
日本は国を承認する際、相手国に「国際法を順守する意思と能力」があるかも考慮に入れている。3要件を満たすと考えられる北朝鮮を承認しないのもそのためだ。

国家承認と密接に関わる概念に「国交」や「外交関係」がある。各国の判断に委ねられる国家承認とは異なり、外交関係をひらくには相手国との相互同意が必要だ。
かつて冷戦下では米ソが自らの陣営への囲い込みを進めた。冷戦が終わると日本なども承認する国の数を増やした。
承認する国家の数の変化は国際情勢と不可分な関係にある。

・・・グローバル化の中で国境の壁は低くなった――とはいえ、主権国家の相互承認で成り立つ国際社会の基本構造は、1648年のウェストファリア条約成立以来変わっていない。ということなんだろう。

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2019年7月20日 (土)

「日本青年党(仮)」を待望する

本日付日経新聞市況欄コラム「大機小機」(参議院は本当に必要か)から以下にメモする。

3年に1度の参院選は「政治の安定」を主張する与党と、「変化」を求めるだけの野党との間の不毛な論争で盛り上がりを欠いている。

二院制度はチェック・アンド・バランスのためと教科書にはある。しかし、衆参で過半数の政党が異なるねじれ国会では重要な政策は決められない。他方で同一政党が過半数を占めれば、同じ審議を繰り返すだけである。

本来は高齢化社会での社会保障のあり方など、長期的な課題を議論することが参院の役割にふさわしい。しかし、そのための大事な情報である年金の財政試算の公表は、従来の6月から選挙後に先送りされた。年金制度の問題点を明らかにして波風を立てたくない与党と、明確な改革案なしに批判するだけの野党との間で、参院選の意義はますます低下していく。

高齢化が進む日本では、投票率の低い若年層の声が軽視されるシルバー民主主義の弊害が深刻になる。

年金制度改革の争点の一つは世代間格差の是正である。仮にこれを訴える「青年党」が登場すれば選挙も活性化するだろう。

・・・二大政党制の元で、今の野党はバラバラで弱すぎる、与党に対抗できる大きな塊が必要、というのはよく聞く話。とはいえ今の野党が一緒になるのは、どうみても無理がある。しかし各野党から40代以下の人が集まって「日本青年党(仮)」を作り、与党からも参加者を募れば大きな塊を作ることは可能だろう。思うに、今の日本では政策やイデオロギーよりも、世代間の利害対立こそが最も大きな政治的争点になり得るからだ。

若年層の投票率が低いらしい。と言っても、票を入れたい人がいなければ、ましな人に入れよう、というのもやっぱり限界がある。とにかく今、政治の世界は需要と供給のミスマッチが甚だしい。若い世代の利害を代表する政党が登場すれば、当然ながら若年層の投票率も上がるだろう。

ついでに言えば、憲法改正は自衛隊の明記じゃなくて、それこそ参議院を廃止するための改正を掲げてくれれば、個人的にはポジティブに受け止められるんだけどね。

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2019年2月 8日 (金)

宗教と自由主義のせめぎ合い

日本人は、一神教の宗教観である法としての宗教、政治共同体の絆としての宗教という考え方を理解していないため、国際政治における宗教の影響をうまく捉えられていない――本日付日経新聞「経済教室」(宗教と国際政治、執筆者は池内 恵・東京大学教授)からメモ。

宗教信仰が個々人の内面に限定され、国家や政治への影響力を弱める世俗化と政教分離のプロセスこそが、近代化の主要で不可欠な要素という考え方は広く普及した。しかし現在、非西欧の諸地域が経済発展を成し遂げても、それが世俗化や政教分離に結びつかず、宗教が根強く人々の社会生活と政治を規定し続け、宗教原理主義の台頭を招く場合すらあることが目撃されている。

人間社会の規範は誰がどのように定めるのかという究極の問題に対し、人間を超越した絶対的な神が律法を啓示するのか、それとも個々の人間の理性が自由に思考・議論して規範を発見し合意するのか、すなわち「理性と啓示」の対立は、古代の中東と地中海世界で問題化され発展し、言語で理論化・体系化された。この対立の中でユダヤ教・キリスト教・イスラム教と連なる「セム的一神教」が生まれ、他方でギリシャ哲学を淵源とする科学が発展し、いずれも世界に広がった。

宗教と科学の対立は、中東と地中海世界の政治・社会・経済の発展の不可欠の要素と言ってよく、近代西欧文明もここに淵源を持つ。近代西欧の発展は、個々の人間が宗教規範の支配から脱し、自由に規範を選び作っていくという、人間主義と個人主義の優位に大きく振れた。

これは、近代国家の政治や経済の原則として広まったリベラリズムの根拠である。リベラリズムは、人間が自律した意志で自由に選択する能力を持つという人間観・世界観を前提にしており、宗教を時代遅れのものとみなす世俗主義を重要な要素とする。

米国でトランプ現象が、西欧諸国で移民への拒絶反応が起き、中東諸国で過激派組織「イスラム国」(IS)の台頭や宗派共同体間の紛争が生じるなど、様々な事象の根底には、リベラリズムへの信頼の低下あるいは明確な反発がある。これは宗教の政治への影響力の増大と軌を一にした、同根の現象と見るべきである。

・・・単なる世俗国家である日本は、一神教もリベラリズムも根本的には理解できないのかも知れない。とはいえ昨今の国際政治の様相は、日本人に一神教への理解を深めるよう求めているのは確かだろう。

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2018年7月 7日 (土)

「死刑あり」は日米中など56ヵ国

本日付日経新聞「きょうのことば」(死刑制度)からメモ。

死刑制度なし(106ヵ国)
オーストラリア、オーストリア、ベルギー、カナダ、デンマーク、フィンランド、フランス、ドイツ、アイスランド、イタリア、メキシコ、モンゴル、オランダ、スイス、英国など

通常犯罪で廃止(7ヵ国)
ブラジル、チリ、イスラエルなど

事実上廃止(29ヵ国)
ミャンマー、ロシア、韓国、スリランカなど

死刑制度あり(56ヵ国・地域)
日本、米国、中国、北朝鮮、台湾、ベトナム、タイ、アラブ首長国連邦、インド、イラン、イラク、シンガポールなど
(2017年12月末時点)

国際人権団体「アムネスティ・インターナショナル」によると、17年の死刑廃止国は00年に比べ1.4倍の106ヵ国に増えた。一方、17年に死刑を執行したのは23ヵ国にとどまる。主要国では日本や米国、中国などわずかだ。日本は国連から廃止勧告を受けるなど、国際社会から厳しい視線が注がれている。

・・・日本国内では、死刑制度について「やむを得ない」という意見が8割を占める(内閣府調査、14年)という。

6日にオウム死刑囚7人の死刑が執行された。ここまでくれば教祖はやむを得ないとしても、教団幹部6人を一度に処刑したことに対しては、すんなりとは受け入れがたい感覚がある。

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2018年1月15日 (月)

「チェコのトランプ」は日系人

日本生まれの外国人では、ノーベル賞作家カズオ・イシグロが今一番注目の人物なんだろう。じゃあその次はというと、チェコの日系人政治家トミオ・オカムラかも知れない。反EU、反イスラム主義を打ち出すオカムラは、「チェコのトランプ」と呼ばれているそうだ。昨年、日経新聞(11/18付)記事で知り、「こういう人がいるんだ、へぇ~」みたいな感じだったが、小学館の雑誌「サピオ」最新号にもインタビュー記事が掲載されたので、以下にメモする。

トミオ・オカムラ(日本名:岡村富夫)/チェコの第三党「自由と直接民主主義」(SPD)党首。1972年、東京生まれ。5歳でチェコに移住。18歳で日本に渡るも、3年半でチェコに帰国。その後、日本語教室や日本人観光客向けのガイドで成功。2012年に無所属で上院議員選挙に当選。15年にSPD創設。

(オカムラ氏の話)
「チェコ人によるチェコ人のための国」。ここに、私の目指す政治がある。われわれ(人口1057万人)は、EU離脱をもっとも強く願う国民だ。

建前上、EUは多様性を求めているが、現実は難民や移民による治安悪化は免れない。さらには、チェコ人から仕事が奪われている。それはおかしい。そんなごく当たり前のことを、私は提言しているに過ぎない。

様々な誤解が広まっているが、SPDが掲げる要の政策が「直接国民投票」だ。国の政策は国民が決める。これこそ、私が理想とする社会であり、チェコ共和国の姿である。国民の85%がEUに不満を抱いてる。これを実現できれば、チェコは、自ずと“チェグジット”(チェコのEU離脱)に向かうだろう。

私には大統領になりたいという野心はない。今はチェコ人のための政策を一歩一歩進めるだけである。

・・・経済優先主義により、労働力として移民を受け入れると、国民生活の社会的安全性が損なわれるという不安や反発から、ヨーロッパの「右傾化」現象は強まっているようだ。

島国ニッポンは、移民問題にまともに向き合っているとはいえないが、遠くない将来、人口減少から経済が移民なしには成り立っていかない状況に直面した時、移民との関わりは避けることのできない問題として現れてくるのだろう。そう考えると、ヨーロッパの右傾化問題も他人事とは言えなくなる。

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2018年1月13日 (土)

グローバル化の「反動現象」

NHK-BS1「欲望の資本主義2018」(1月3日放送)、チェコの経済学者トマス・セドラチェクとドイツの哲学者マルクス・ガブリエルの対話の場面から以下にメモ。

ガブリエル:皆がポピュリズムと言うが、それは無意味で的外れな診断だ。これはグローバリゼーションに対する抵抗の一種じゃないかな。グローバリゼーションは基本的に経済プロセスだから、起きていることを経済的に説明しなくてはならない。政治的にではなくね。ドイツの人口の12.6%が排外主義に目覚めて投票を決めたわけではない。そうではなく、むしろ地球のあちこちで不公平を目にするようになったためと考えた方が良い。

セドラチェク:この状況を表すうまい言葉が見つからないが、もう人々が「いい人」でいられなくなったのかもしれない。「なぜ私が助けなきゃいけない?」とね。「私のことは助けてくれてないのに」ってね。何というか・・・キリスト教文化の反応は、イスラム教の国々の反応よりも極端に経済的なものだった。イスラム教の国々は実際はるかに多くの数の難民を受け入れている。

ガブリエル:悪というものを今一度考えてみる必要がありそうだね。どんな組織もどんなシステムも時間を経て自身を維持するためには、他のシステムを排除しなければならない。外部がないシステムは、内部に「異質なもの」を作り出さなければならない。これが悪のダイナミクスだ。確かにグローバリゼーションは、新たな悪を生み出したのかもしれないね。資本主義は国家というよりも経済的な帝国だが、帝国は内部から悪を作り出すのだ。これが「ナショナリズム」などが復活している背景なのだろう。

・・・グローバル化の中で強まる「ポピュリズム」「右傾化」「ナショナリズム」とは結局、グローバル化の「反動現象」以上の意味は持たないように見える。グローバル経済のもたらす競争や格差の中で、一部の大金持ちを除く大部分の人々から余裕が失われて、誰もが「いい人」でいることは難しくなり、「自国ファースト」「自分ファースト」になっているということか。

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2017年12月31日 (日)

存在感高まる「中世都市」

29日付日経新聞の「私見卓見」コラム(グローバル化で復権する中世都市)からメモする。筆者は今年、『ポピュリズムとは何か』(中公新書)が話題になった、水島治郎・千葉大学教授。

ルターが始めた宗教改革はカトリック教会という普遍的な権威を失墜させ、それぞれの領土の中で国家が絶対的な権限を独占する主権国家が主役を張る近代への道を開いた。

2017年は国民国家の礎を築いた宗教改革から500年の節目だったが、逆に国民国家モデルの揺らぎが目に付いた。このモデルの本家といえる欧州では、スペイン・カタルーニャ州の分離独立問題をはじめ、地方による自立の動きが活発だ。10月にはイタリアの北部2州で自治権拡大を求める住民投票が行われ、スコットランドでも独立問題が再燃している。偶然の一致ではない。
注目すべきはいずれも中世以来の有力都市が中心になっている点だ。伊ロンバルディア州はミラノ、ベネト州はベネチアを抱える。近年、分権派が躍進するベルギー北部フランドルも、アントワープなどの自立した都市が欧州広域の経済圏を掌握して発展した。

中世の都市復活の背景にあるのはグローバル化だ。国家が独占管理してきたヒト、モノ、カネが国家の枠を超えて動き始め、さらにインターネットの登場で情報も国境を越えるようになった。国家の枠が緩むことで、押さえこまれてきた都市のアイデンティティーが再び頭をもたげてきたとみるべきだろう。

EUは地域や都市を直接支援するなど、地域分権を推進してきた。地域と超国家体が国家をバイパスして結び付く姿は、教会や皇帝といった普遍的権威が自治都市と併存した中世と重なり、「新しい中世」ともいえる。

・・・コラムは、過去500年の国民国家モデルに捕われることなく、現代社会の変動に向き合う姿勢の大切さを示唆しているが、ルターの宗教改革開始から、ウェストファリア条約締結による主権国家体制確立まで130年間。現在が歴史の転換期であるとしても、新しい社会モデル――「新しい中世」の他にも、ポストモダンやポスト資本主義など呼び名は様々だが――の姿が見えるまでは、まだ相当時間がかかりそうだ。

ところで「中世都市」復権と、ポピュリズム台頭はどう絡むのかと考えてみると、グローバル化に適合する「中世都市」含む大都市VSグローバル化に抵抗する地方という図式になり、ポピュリズム(疑似ナショナリズム)は後者から強く現れているという感じかな。

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2017年10月20日 (金)

保守とリベラル、何が何だか

「政治の世界で使われる保守やリベラルという言葉の定義は必ずしも明確ではない。なかでも使う人や文脈によって意味が変わり、中身が分かりにくいのがリベラルという言葉だ」――19日付日経新聞政治面記事(「保守」「リベラル」曖昧)が指摘している通りだな、と思う。同記事から、保守とリベラルの定義についての識者の意見をメモする。

保守やリベラルは定義が曖昧で、時代とともに変わっている。保守は伝統や手続きを重んじ、自民党が掲げてきた。リベラルは冷戦終結後に保守と革新の対立が成立しなくなり、自民党の保守の対抗概念として打ち出されたものだ。
本来、リベラルは個人の自由を重んじ国家の役割を小さくする立場。日本では憲法改正反対などがリベラルとされており、本来の意味とは少し異なった使われ方をしている部分もある。(岩井奉信・日本大教授

リベラルは権力を持つ人間から価値観を押しつけられない、干渉されないという立場だ。
保守は常識や経験知、慣習などを重んじる考え方を指す。原点はフランス革命を疑ったことにある。
合理主義を進めれば良い社会になるという近代主義的な左派の思想を疑い「常に人間は間違える可能性がある」と考える。(中島岳志・東京工業大教授

経済政策での「保守」は、政府の関与を抑えて市場に委ねる小さな政府をめざすことを、「リベラル」は政府主導で需要をつくる大きな政府を志向することを、それぞれ意味する。自民党は保守政党とされるが、政府主導で賃上げや働き方改革を促しており、経済政策ではリベラルの色が濃い。野党も希望の党が掲げる企業の内部留保の活用や、日本維新の会が持論とする教育無償化など、リベラルな政策は多い。(小峰隆夫・大正大教授

・・・「自主憲法制定」を結党以来の党是とする自民党。「保守」を掲げる政党が改憲を志向するのに対抗して、護憲を打ち出す政党は「リベラル」となる。というのも分かるような分からんような。
経済政策では、財政出動や社会福祉などに積極的な、大きな政府を志向するのは「リベラル」。政府の役割は小さくして市場に任せるのが「保守」ということだが、これが「市場原理主義」まで突き進むと「ネオリベラリズム」(新自由主義)と呼ばれたりする。どうも「リベラル」と「リベラリスム」は別物らしい。こうなるともう何が何だか。(苦笑)

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