2017年2月12日 (日)

『1984年』、米国で再読気運

新宿の書店「ブック・ファースト」で、最近アメリカで売れている小説として、ジョージ・オーウェルの『1984年』がディスプレイされているのを見て「へぇ」と思っていたら、今朝のTBS「サンデーモーニング」でも、その話が取り上げられていて、ますます「へぇ~」という感じだった。
 
1949年に出たというこの小説を、自分は読んでないけど、とりあえず鮎川信夫の晩年の名コラム「時代を読む」から1983年末に書かれた文章(「オーウェル『一九八四年』」)の一部をメモしてみる。
 
(『一九八四年』は)六十二ヵ国に訳され、何千万の人に読まれたというから、迫りくる全体主義国家の恐怖のイメージは、世界じゅうの人たちに悪夢を植えつづけてきたといってよいだろう。
オーウェルの描いた全体主義国家の像は、明らかにスターリン体制をモデルにしている。偉大な兄弟(ビッグ・ブラザー)はスターリンだし、人民の敵ゴールドスタインは、トロツキーである。党の三大スローガンは、戦争は平和である、自由は屈従である、無知は力であるだが、一党独裁の国家なら、これぐらいの詭弁は朝飯前のことだろう。党員は、テレスクリーンや隠しマイクで看視されていて、偉大な兄弟や党に反逆すれば、容赦なく粛清される。
完全な虚構(フィクション)であり、極度に劇画化されているが、これはどうみてもスターリン体制以外のものではない。
歴史も、現実も、人間も、スターリン体制下では、いかようにも変造可能である。こうしたオーウェルの認識は、きわめてペシミスティックで、暗い。洗脳されて、考えることをやめた主人公は、最後には偉大な兄弟を、本当に愛するようになってしまうのである。
 
・・・『1984年』は概ね、超管理社会、全体主義、国家による洗脳を描いた物語だと思われるが、アメリカにおける関心の高まりは、「オルタナティブ・ファクト」(もう一つの事実)や「ポスト・トゥルース」(脱真実)という言葉が流通する昨今の社会状況が背景にあるんだろうから、ひとまず「洗脳」に対する理解の手がかりとして注目されているような感じ。
 
最近、目に付いた指摘によれば、SNSに熱心な人は自分の意見と同様の意見を集める傾向があるという。そうだとすると今は自分で自分を「洗脳」するような感じになるのかな。まあとにかく、いつでも自分とは異なる意見に接してものを考えないといかんね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年2月11日 (土)

大統領令の威力

TPP離脱、メキシコ国境に壁を建設、イスラム圏からの入国制限等々・・・トランプ大統領が次々に打ち出す大統領令の威力はどれほどのものなのか。本日付日経新聞の「親子スクール」(米国の大統領令って何?)から以下にメモする。
 
憲法は大統領の幅広い権限を認めている。大統領が出す命令、大統領令は法律と同じ力を持っている。
米国の議会は二院制で、法律は上院、下院の賛成を得て、大統領の署名によって成立する。でも、例えばオバマ前大統領は民主党だけど、議会は野党議員が過半数の「ねじれ」状態だった。法律が通りにくいから、オバマ前大統領も大統領令を出すことはあった。
トランプ大統領は共和党出身で、いまは議会も共和党が過半数を占めている。法律を通しにくい状況とも言えない中で、大統領令を出すのは、有権者へのアピールと見られている。大統領令を使って、公約を本当にやるという意志を見せているのだ。
そもそも、米国では法律をつくるのは議員の仕事で、大統領じゃない。だから法律をつくるには議会にお願いするしかない。「一般教書演説」は、大統領がこれからやりたい政策を挙げて、そのための法律をつくるよう議会に訴えかけているのだ。
議会は大統領令を覆す法律をつくれる。また、最高裁判所が「この大統領令は憲法違反」と判断すれば、無効となる。トランプ大統領の思い通りになるかは分からない。
 
・・・いちおう司法や立法のチェックも働く仕組みになっているから、大統領令がすべて完全に実現するとは限らないとはいえ、大統領が就任直後から選挙公約をすぐさま「実行」に移すことは、確かに支持者には大いに満足感を与えるだろうなと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年1月13日 (金)

グローバル経済か国内優先か

アメリカの経済学者ダニ・ロドリックは、グローバル化、国家主権、民主主義のトリレンマ(3つ同時に成り立たない)を唱えている。昨日12日付日経新聞「ニュース複眼」面掲載のインタビュー記事からメモする。
 
いま欧米で起きているのは、明らかにグローバル主義やグローバル化への反発といえる。
メッセージは「自分たちの問題に注意を払うリーダーが欲しい」ということだ。グローバルな組織や経済勢力を最重視せず、自国の問題に自国の政策で対応する。グローバル経済が自分たちを苦しめるのではなく、役に立つものになってほしい。言い換えれば、政策の優先順位の再調整だ。

具体的にはグローバルな組織や経済統治を改善する努力と、国内経済や社会を改善する努力を再調整することだ。摩擦を生むならグローバル化の優先順位を下げなければならない。
開かれたグローバル経済を繁栄させる最善の道は、国内経済を繁栄させることだ。国内経済がうまく機能しないのなら、健全なグローバル経済など望めない。その状況で自由貿易協定を締結し、より良い国際経済の協調体制をつくっても国内経済の助けにはならない。

市場がトランプ氏の政策に対する期待に沸いたことは意外ではない。選挙でたくさんの約束をするポピュリストが経済刺激への期待を生むことはよくある。

トランプ氏は国内政策の余地をつくろうとしているが、国内優先がすべて正しいわけではない。彼は権威を攻撃し中間層に寄り添うとアピールしながら、政権中枢に金融専門家や大富豪を据え、富裕層の減税を口にしている。(米国で進む)脱工業化の問題も、単にメキシコや中国からの輸入品に高関税をかけても対処できない。彼の政策は目標を実現するようには設計されていない。

・・・経済政策においては、グローバル対応と国内対応のバランスが大事。と言葉では簡単に言えちゃうが、本質的かつ有効な政策を作って実行するのは難しいよなあ~と思う。「我が国に工場を作れ」と、次期大統領がツイッターで強権的に?つぶやくだけで上手くいくのかどうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年1月12日 (木)

新たな保護主義の時代?

フランスの歴史人口学者、エマニュエル・トッドは、「先進世界では保護主義と開国、つまり自由貿易が代わる代わるやってきた。」「今始まろうとしているのは一つの時代だ」と指摘する。本日付日経新聞「ニュース複眼」面掲載のインタビュー記事から以下にメモ。
 
(米大統領選のトランプ氏勝利、英国のEU離脱決定について)これはポピュリズムではなく民主主義が正常に機能した結果だ。ポピュリズムから民主主義を守ると言っていたエスタブリッシュメントの人々は、実際は少数の権力者の代表としてみられるようになった。

私は資本主義に反対しない。大衆の利益を考慮したエリートが管理する合理的な資本主義に賛成だ。
 
グローバル化は特に英米で途方もない格差を生み、日仏独にもある。この格差は資本の移動の自由と、低賃金の労働力を使うことで生まれた。

自由貿易は絶対的な自由貿易しかない。しかし保護主義にはいくつもの種類がある。ばからしいものも節度あるものもあるのだ。
自由貿易が利益になる段階はあるが、行き過ぎると格差が生まれ、最先進国での工員の給与を抑制し、最終的に世界的な需要不足につながる。
行き過ぎた自由貿易は経済を停滞させる。ドイツや日本、韓国の低い出生率は自由貿易と関連がある。経済的な生き残りに必死になると、子供をつくる時間がない。

自由貿易は忘れねばならない。我々の前にあるのは良い保護主義と悪い保護主義の議論だ。給与水準を守ったり、内需を刺激したりする合理的な保護主義は貿易を活発にする。保護主義が国家間紛争になるというのは嘘だ。保護主義は協力的で敵対を意味しない。

・・・保護主義があれこれ取り沙汰される昨今。しかしグローバル化が進み相互依存が深まる世界の中で、そもそも保護主義なるものが可能なのか。何となく疑わしいんだけど。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年1月 3日 (火)

「ポピュリズム」というレッテル

「週刊エコノミスト」(1/3・10合併号)掲載のコラム記事「リベラルの罪」(英国在住のブレイディみかこ執筆)から、以下にメモする。
 
現代のメディアや知識人、政治家などに使用されるときの「ポピュリズム」は、デマゴギー(虚偽宣伝)やレイシズム(人種差別)といったネガティブな要素を多分に含んだ「脅威」の同義語になっている。欧米のリベラルにとって、ポピュリストとは、洗練されていない低学歴の人々のことであり、メディア人や知識人、政治家は、こうしたポピュリストを諸悪の根源であるかのようにレッテル貼りする。
 
現代のメディアにおける「Pワード」(ポピュリズム)の氾濫を見ていると、それは「間違った考え方」を象徴する言葉になり、メディアも政治家もそれと戦うことに躍起になっているように見える。
これほど欧米がPワードを恐ろしがるのは、それが欧州におけるファシズムの台頭を思い起こさせるからだろう。1920年代と30年代の大恐慌の時代に、大衆を喜ばせる言葉を発し、広報による情報操作戦略で権力を握ったヒトラーやムソリーニの時代を彷彿とさせられるからだ。
 
キャメロン前首相とEU残留派を負かしたのは、すべての政党とエスタブリッシュメントたちに、自分のささやかな希望や不安を無視されてきたと感じている「取り残された人たち」だ。
欧米の民主主義は、国家の枠組みや帰属意識、共同体意識、安定した仕事を原則として築かれたものだ。だが、近年のエリートやリベラルは、時としてこれらの原則を痛烈に批判する。国境をなくし何ものにも帰属せず、コミュニティーに頼ったり、仕事に安定を求めたりせず、グローバルに生き抜くのが"プログレッシブ"(進歩的)な人間なのだと彼らは啓蒙する。
しかし、世の中にはそういう生き方をしたくない人々もいる。「取り残された人たち」は、リベラリズム(とそれを奉ずるエリートたち)こそが彼らを生きにくくした原因だと考えている。
 
欧州や米国で起きた出来事をPワードという言葉で切り捨てることは、実質賃金の低下や、記録的水準に達そうとしている格差への人々の怒りから目をそらすことにほかならない。
 
・・・このところメディアでは、「ポスト・トゥルース」という直輸入ワードを見たり聞いたりする。これは、客観的事実よりも感情へのアピールが世論形成に大きく影響する状況を指す言葉らしい。なので「ポピュリズム」の関連用語という感じではある。といってこれを、トゥルースはエリートの側にあり、大衆は感情的に動くだけ、という図式にしてしまうと、見逃してしまう事柄も多くなるのではないだろうか。結局はエリート層にも、「取り残された人たち」にも、それぞれの「トゥルース」があり、困難ではあっても両者の調停を図りながら、合意形成していくほかないように思われる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月29日 (金)

先進国労働者の「反乱」

EU離脱を決めたイギリスの国民投票は、「現代は先進国リスクの時代である」ことを示した――昨日28日付日経新聞「経済教室」(EUは生き残れるか)、遠藤乾・北海道大学教授の寄稿からメモ。

英国の欧州連合(EU)離脱は世界史的な意味を持つ。
勝利した離脱派は三つの主張の合成であった。一つ目は主権的な自決意識。様々な決定が欧州の首都ブリュッセルでなされることに対して「自国のことは自国で決める」という民主主義的な精神の発露である。
二つ目は移民とそれを可能にするEUへの反感である。
三つ目はグローバル化や欧州統合に置き去りにされ、実質所得が伸び悩み、雇用が脅かされたという労働者の意識である。移民は再びそのシンボルとされた。本来は、移民は英国民と競合しない産業で働き、経済はそれで潤っていたのだが、そうした数字は反エリート主義とも結びつき、もはや意味をなさない。

グローバル化で途上国・新興国の労働者と先進国の上位所得者1%が潤う一方、先進国の労働者が相対的に沈む。
近年の政治的動乱の震源地は、この先進国の労働者だ。穏健中道政党は、グローバル化に連なるエリートとみなされ、この層をすくいとれない。それを左右両極から挟撃するのが新興政治勢力である。

米国で共和党を右から乗っ取ったトランプ現象、左からクリントン候補を追撃したサンダース現象。仏社会党も支持者を極右の国民戦線に奪われている。EUにそっぽを向いた英労働党支持者は、今や英国独立党の草刈り場となった。みなグローバル化や欧州統合により、相対的に所得が落ち込んだ層からの反乱だ。

・・・グローバル化のもたらす利益の多くは、政治経済のリーダーやエリート層が取り込み、労働者の大多数は利益とは無縁。グローバル化する経済がひたすら効率化を追求する道の行き着く先は、結局のところ格差の拡大であり、果てしない競争の中で中間層は疲弊している。エリート層の唱える、グローバル化に適合して生き残れ、というタテマエにはもはや付いていけないと、先進国労働者は遂に「反乱」の狼煙を上げた。冷戦後、グローバル経済、新自由主義・・・呼び方は様々だが、1980年代以降の時代の流れは、まず2008年リーマン・ショック、そして今年2016年のブレグジットで大きな曲がり角を迎えたような気がする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月 6日 (水)

改憲して参議院廃止。とか。

今回の参院選で改憲勢力が3分の2を超すと、衆院ともども憲法改正を発議できるようになる。しかし「憲法論争が、足りない。『9条』に限らない」と危惧するのは、本日付日経新聞市況欄コラム「大機小機」(「参院選と憲法」もっと語れ)。以下にメモする。

(参議院を形容するのに)「再考の府」や「良識の府」があてはまったのは、無所属議員で結成した院内会派「緑風会」が多数派だった、戦後も初期のころだ。政党化が進んで、多数派が衆院と同じだと、衆院の「カーボンコピー」、多数派が異なる〝ねじれ〟だと、政権を揺すぶる「政局の府」となってきた。 

第二院の参院が衆院とほぼ同等の権能を持つことが問題の根源で、「同じものが2つ」を突き詰めると、「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」という憲法43条の適否にも行き着く。

主要先進国では、イタリアも両院の権限が対等で、日伊両国は、首相がひんぱんに替わることで知られている。そのイタリアは、上院の権限、議員数を大幅に削る憲法改正案を、10月に国民投票にかけるという。 

望ましい二院制、とりわけ参院のあり方を論じるのに参院選は得難い機会なのに、与野党とも語らない。

・・・憲法改正すなわち9条というのは、何だかなぁ~という感じ。憲法を改正して参議院を廃止してもらいたい。と、個人的には思う。少なくとも憲法改正の発議くらいできるようにしておいてもよいだろうという感じはある。決着は国民投票なんだし。でも最近イギリスのEU離脱決定以来、国民投票の評判はあんまりよろしくないけどね。(苦笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月27日 (金)

トルーマン、軽すぎる大統領

アメリカ軍指導者の多くが原爆の使用を否定的に見る中、トルーマン大統領の判断は、まず原爆投下ありき、だったようだ。『オリバー・ストーンの告発 語られなかったアメリカ史』(『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』の青少年向けリライト版、あすなろ書房)の第2巻からメモ。

統領トルーマン、国務長官バーンズ、マンハッタン計画責任者グローヴスの三人が、原爆の実戦使用に躊躇していたことを示す記録はない。
しかし、陸軍長官ヘンリー・スティムソンは違った。原爆は単なる新兵器ではなく「われわれ全員を食らうフランケンシュタインのような怪物」と考えていたのだ。

大半のアメリカ人は、軍の最高指導者の多くが、原爆投下は軍事的に不要だった、あるいは人道にもとるものだと考えていたことを知らされていなかった。

第二次世界大戦中に、大将より上位の〝元帥〟へ昇進した五つ星将官七人のうち、最先任ジョージ・マーシャルをのぞく、陸軍大将マッカーサー、アイゼンハワー、アーノルド、海軍大将リーヒ、キング、ニミッツの六人が、戦争終結には原爆が必要である、という考えに反対していたのだ。

アイゼンハワーはこう述べている。「スティムソンから意見を求められて、私は二つの理由で原爆使用には反対だと答えた。第一に、日本は降伏する気なのだから、そのように破壊的な兵器で攻撃する必要はなかったからだ。第二に、わが国が、核兵器を使用する最初の国になるのを見たくない、と感じたからである」

マッカーサーは、原爆を「軍事的にはまったくの不要物」と考えており、政府がそれを使用する意向だと知るや、怒ると同時に失望した。

リーヒは述べた。「広島と長崎での残忍な兵器使用は、対日戦争において、なんら実質的な貢献となっていない。戦争であのような手段を使ってもよい、と教えられたことはない。戦争とは、婦女子を殺傷して勝利すべきものではないのだ」

歴史家の多くもまた、広島や長崎を灰燼に帰す必要はなかったという、元帥たちの見解に賛同している。
ところが、日本本土上陸によって多数のアメリカ兵が命を失うことなく、戦争を終結させられたのは原爆のおかげであるという〝神話〟が、トルーマンやスティムソンらによって広められた。

トルーマンは、原爆投下について良心が痛んだことはない、と主張しつづけ、「そのことを考えて眠れなかったことは一度もない」と自慢げに言い放った。
あるテレビ番組でトルーマンは「(後悔したことは)ないよ、全然。ほんのちょっぴりだってね」と答えた。「すぐに決められたよ。ほーら、こんなふうに・・・・・・」と言って、得意げに指をパチンと鳴らしてみせた。

・・・歴史のイフは考えても無益なのかも知れないが、日本人である自分の心の中から、トルーマンでなければなあ、という思いが消えることはないだろう。しかし今日、遂にアメリカ大統領が広島を訪問した。原爆投下から71年、ようやくという思いがある一方、これだけの時間が必要だったのだろうと了解したいし、何よりオバマ大統領だからこそ実現したという感は強い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月15日 (日)

柳澤協二氏のお話を聞いた

今日は、新浦安駅に近接する「ショッパーズプラザ新浦安」内、浦安市民プラザに出向いた。目指すは映画「天皇と軍隊」の上映会。なんだけど、実は映画自体は既に昨年夏に見ていた。ので、今回は上映後のトークイベントのゲストである柳澤協二氏の話を聞くことが一番の目的、ということになる。元防衛官僚ながら現政権の安保法制に反対する柳澤氏のお話の一部を以下にメモする。

安保法制の問題のひとつ。自衛隊員の武器の使用が認められたが、それは軍の武力行使ではない。自衛隊は軍隊ではないのだから。すると人を殺した場合、それは武器を使用した個人が殺人罪に問われることを意味する。

自衛隊の位置付けについて、改憲ではっきりさせるというのは解りやすい。しかしこれまで自衛隊が積み上げてきたものをどう評価するか。国内では災害時の救援活動を行い、国外の平和維持活動では人を殺していない自衛隊を、国民の90%が支持している。自衛隊60年の歩みを振り返りつつ、自衛隊の在り方についても時間をかけて議論するべきだろう。

憲法改正を進めようとする側、止めようとする側、どちらもエネルギーが足りない。改憲派も護憲派も、戦争を知らない人が多くなっているからだろう。殺し合いであるという現実、戦うための価値観とは何かも含めて、戦争というものをどう捉えるか、あらためて議論する必要があるだろう。

・・・ということで柳澤氏自身も、戦争について考えることを当面の課題としたい、とのことだった。およそ一時間の話の内容、話しぶりからも、この人は信用できる人だな、と思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年1月27日 (水)

『わが闘争』ドイツで出版

ドイツで発禁本扱いだったヒトラー『わが闘争』が、70年ぶりに出版されたそうだ。ただし学術研究書として。今月8日に現代史研究所(ミュンヘン)から発行されている。「日経ビジネスオンライン」の本日付発信記事から以下にメモする。

ヒトラーが1920年代に著した『わが闘争』は、33年にヒトラーが権力を掌握して以降、全体主義と反ユダヤ主義を掲げるナチズムを推進する支柱となり、ドイツ敗戦の45年までに発行部数は実に1200万部にも達したという。

敗戦に伴い占領軍としてミュンヘンに駐留した米国軍は、ヒトラーの当時の私的住所がミュンヘンにあったことから、『わが闘争』の著作権を地元バイエルン州政府に移すことで同著出版の道を封じた。同州政府が以来、ドイツ語による出版を全て拒絶してきたのだ。

しかし、ドイツの著作権法では著者の死後70年で著作権の保護期間が切れる。『わが闘争』の著作権も2015年末で消失し、誰でも再出版できるようになることが分かっていた。そのため、ドイツでは何年も前から『わが闘争』の再出版問題にどう対応するか、様々な議論が重ねられてきた

その結果、各連邦州政府の司法当局は、ドイツの「反扇動法」を根拠に無批判なまま同著を出版することを禁じることで合意。その一方で進められてきたのが、現代史研究所による注釈付き学術版である『わが闘争』の出版だ。

現代史研究所は、ナチズムがなぜ台頭するに至ったかを研究すべく1949年に設立された。同研究所の歴史家5人が3年の歳月をかけ、3500以上に上る学術的注釈を加えながら編集した新版は上下2巻、計約2000ページに及ぶ。

『わが闘争』の書店からの注文が予想より多かったため、現代史研究所は発行部数を当初の4000部から急遽1万6000部に拡大した。独アマゾンでは8日、数時間で完売したという。

・・・ナチズム研究はピークを過ぎた。という話を聞いたことがある。確かに、これから新たな事実や新しい視点が出てくるというのも想像しにくい。となれば、ここでナチズムの「原点」である『わが闘争』の研究書版を世に送り出すのも、充分意義のある仕事だと思われる。これはもうとにかく純然たる歴史研究の資料として扱えば良い訳だし。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧