2023年2月18日 (土)

西南戦争資料館へ行く

先日、熊本市田原坂西南戦争資料館に行ってみた。西南戦争が始まったのは明治10年(1877)の2月、熊本城攻防戦から、3月は田原坂の戦いと、激戦が続いた。昨秋から、戦争の行われた季節に訪ねてみようと考えていて、実行した次第。

九州は、東京からだと飛行機使うけど、名古屋からだと新幹線に乗ってれば着く、という感じ。朝8時前に名古屋駅を出発。新幹線車中では、雑誌「歴史群像」2018年12月号掲載「作戦分析・田原坂の戦い」を読んで予習。「田原坂の戦い」とは、田原坂含む植木台地に陣取った薩軍に対して、政府軍は田原坂の西にある二俣台地から砲撃。最後は、田原坂の南にある横平山という重要拠点を抑えた政府軍の攻撃により、薩軍が撤退する、という戦いのおおよそのイメージをつかむ。お昼12時過ぎには熊本駅に着き、そこから折り返す格好で、今度は鹿児島本線を北上して田原坂駅(無人駅)で降りる。写真は田原坂駅の説明板。

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資料館のホームぺージには、資料館までの徒歩ルート、田原坂駅と隣の木葉(このは)駅からの二つを示した「てくてくマップ」が載っていて、田原坂駅からは2.2kmで30~40分、木葉駅からは3.8kmで50分とあったので、少しでも短い方を選択(ただし実際に田原坂を歩くのは、木葉駅ルートです。何か変だな~)。とにかくマップを頼りに歩くこと40分余りで、資料館に辿り着いた。館内に入ると、くまモンが目に付いて、ついつい写してしまう。

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小一時間ほど館内を見学した後、帰りは田原坂を通って木葉駅に至るルートを歩くことにした。坂道をゆっくり下って資料館から30分程で「一の坂」の入り口に到着。

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そこから程なく国道に出て歩き始めたが、やはり交通量が多い。大型トラックも結構走っている。歩くのはちょっと恐いなと思っていたら、バス停に出くわした。停留所名は産交バスの「境木」。15分程待てば来るタイミングだったので、バス待ちを選択。平日に休みを取って来ていたので、日中のバスの本数が多少多めだったのが幸いした。乗車時間3分程で、木葉駅前に到着して任務終了。下の写真は木葉駅の説明板。当日は熊本で一泊して、翌日名古屋に戻った。

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もし、西南戦争資料館にタクシーを使わないで行こうという人がいるなら、木葉駅からのルートが分かりやすいし、田原坂そのものを通るだけによろしいかと思う。とはいえ国道を歩くのは最小限にしたいものだなと、産交バスの時刻表を調べた結果、「木葉駅前」平日8時30分頃または9時過ぎ、土休日8時30分頃または9時30分頃のバスに乗り、「境木」で降りる。資料館まで往復の徒歩と見学の時間の合計2時間半~3時間と見て、「境木」11時台または12時台のバスに乗って「木葉駅前」まで戻る、という「午前中勝負」が一番無駄のない感じです。

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2022年10月 9日 (日)

新幹線「かもめ」に乗る

9月23日に開業した西九州新幹線。これで博多から長崎まで(途中半分以上はリレー特急ですが)、新幹線を使って行ける格好になった。

九州に行くなら、東京からだと飛行機使っちゃうわけだが、名古屋からなら新幹線で行こうという気分に(自分は)なる。なので名古屋にいる今、とにかく乗るだけ乗っておこうと思って、昨日10月8日土曜日行ってきました。

前日7日の夜に博多に入って、翌8日朝に出発。博多駅でリレー特急に乗るため在来線改札(新幹線改札ではない。考えてみりゃ当然だけど)から入る。在来線の武雄温泉駅で、同じホーム向かい側にいる新幹線「かもめ」に乗り換える運用。自分は自由席(6両編成の4、5、6号車。後半部分になる)利用なので、リレー特急も後ろの自由席車両に乗る。武雄温泉到着の直前、乗客の多くは下車支度開始。自由席に乗り換えとなると、やはり行動は早めになりますね。実際、乗り換え完了、出発時には自由席車両は満員に。座れずに立つ客も目に付いた。

博多から長崎まで1時間30分、うち新幹線に乗ってる時間は30分程度。景色も、大村湾の辺りで海が見えるくらいで、トンネルが多め。それでも、やっぱり新幹線に乗って遠くまで行けるというのはいいね、と感じる。

10時半に長崎到着。駅の東口は工事中。あの特徴的な大屋根が無くなっちゃってるが、完成予定図にはちゃんと付いてるので、完工の暁には復活するのだろう。

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例年は今頃やってるであろう「長崎くんち」は、今年も中止とのこと。お祭りを一人で見に行く気もないけれど、それでも少々寂しい感じはする。

今回は新幹線に乗るのが第一の目的なので、当地にいたのは4時間程度。とりあえず駅から近い歴史文化博物館に行き見学(すいてる)、駅に戻って駅ナカ施設内の洋食店「ニッキー・アースティン」でトルコライスを食べて、帰途についた。行きはバタバタしていたので、帰りに「かもめ」を撮影。

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さて、リレー特急の区間はいつ新幹線になるのか。佐賀県はメリット少ないとして前向きではないらしいけど・・・国が実質的に全部金出すしかないかな。

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2021年11月13日 (土)

「関ヶ原」西軍陣地巡り

本日はJR東海さわやかウォーキング参加のため関ケ原へ。ほぼ定番の開催地だが、コース設定は様々ある。今回は主に西軍武将の陣地跡を巡るコースで、関ケ原駅をスタートして、まずJR線南側を西に向かう。東軍武将の藤堂高虎、福島正則の陣跡を通り、さらに不破関を過ぎて、JR線の北側に入ってからは西軍陣地を歩く。大谷吉継、宇喜多秀家、小西行長、島津義弘、そして最後は石田三成。そこから駅の方向に進み、岐阜関ケ原古戦場記念館がゴールだ。

大谷吉継陣跡

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宇喜多秀家陣跡

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小西行長陣跡

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島津義弘陣跡

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石田三成陣跡

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笹尾山全景。石田三成が高所(上の旗)、その前に(下の旗)島左近。

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・・・とまあ、いちおうは巡ってみたわけですが、関ヶ原合戦については最近の研究から、通説的ストーリーは8割方フィクション、みたいな感じになっているので、これらの陣地跡も、史実の裏付けがあるとは言い難くなっていることは、頭に入れておいたほうがいいでしょう。

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2021年11月 3日 (水)

石見銀山に行く

昨日2日、休暇を取って世界遺産石見銀山を訪ねた。名古屋からでも結構遠い感じなので、どう行くか少し迷ったが、とにかく行ってみようという感じで、なるたけ単純なルートを選ぶことにした。広島から高速バスで往復する方法である。

1日の夜、広島に入り一泊。翌日10時、広島駅北口(新幹線口)から高速バス「石見銀山号」に乗車。12時40分「(石見銀山)世界遺産センター」、45分「大森」と通過して、47分「大森代官所跡」で降りる。次は「ぎんざんカート」(観光用カート車、1日12~14便程度運行)を利用。バス停に近接するレンタサイクル店から13時出発便に乗り、13時24分に「龍源寺間歩入口」に到着。間歩(まぶ)は坑道のことで、石見銀山には大小600以上の間歩があるという。龍源寺間歩は常時公開。坑道を通り抜けして内部を見るだけなので、見学の時間はそんなにかからない。

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帰りは大森の町まで歩いて戻ることにする。龍源寺間歩と大森の町の間のルートは二つ、舗装道路と遊歩道があり、帰り道は遊歩道を選択。途中、明治時代の「清水谷製錬所跡」も見る。石垣の山が圧巻の遺跡。山城ファン、石垣好きには、間歩よりもインパクトあるぞ。

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大森の町に戻り、街並みを見ながら、大森代官所跡バス停まで歩く。

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そこから世界遺産センターに向かう。15時13分または18分のバスに乗ればOK。世界遺産センターで、おおよそ40分から50分見学。その後、当地を16時27分に出発する広島行き高速バスに乗車。19時少し過ぎに広島駅に戻る。後は新幹線で、夜10時頃名古屋到着。ということで当日の乗り物に乗ってる時間は、バスが途中休憩を除いても2時間30分×2、新幹線片道2時間20分で、合計7時間以上。やっぱり長かったな。

このスケジュールだと、現地にいる時間は4時間に満たない。広島発高速バスが、朝9時とか9時半には出て欲しいなと思う。滞在時間が限られているので、とにかく最初から昼ご飯抜きのつもりで行動した。ていうか現地は、「食べる」「買う」の店は目立たない、「見る」中心の観光地という印象だったけど。やっぱり世界遺産としては、地味というか渋いというか、そういう場所だった。

かつて黄金の国と呼ばれたジパング、すなわち日本は、実際には銀の国だったわけで、銀山を狙う戦国大名の激しい争奪戦も繰り返し起きた。今も銀山周辺には、山吹城はじめ、いくつかの城跡があるとのこと。しっかり「御城印」も用意されているようで、現在「六つの御城印Get Project」なんて企画もやってるのだな。山城ファンも、石見銀山エリアに要注目と思われる。

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2021年10月31日 (日)

旧国鉄篠ノ井線廃線敷

昨日30日土曜日、長野県の松本のもう少し先、明科(あかしな)まで出かけた。例によってJR東海さわやかウォーキング参加のため。目的地は、旧国鉄篠ノ井線廃線敷、いわゆる廃線跡を訪ねるってやつだ。現地ではハロウィーンイベントもあり、JR東日本の「駅からハイキング」も同時開催されていた。というか、さわやかウォーキングが越境開催されてるわけですが。

明科駅から15分程歩くと、廃線敷遊歩道入り口に到着。さらに5分程歩くと三五山(さごやま)トンネルが現れる。そこから先は、いかにも廃線跡という感じの砂利道が続く。三五山トンネルから3km程先にある漆久保トンネルまで進んだ所で折り返し、再び駅まで戻ってくるという往復8km超のコース設定。・・・なぜかしら、廃線跡は人の心を惹き付けるのだなあ。

写真は上から三五山トンネル、遊歩道、踏切の信号機、漆久保トンネル。

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2021年10月11日 (月)

白川郷を歩く

昨日10日の日曜日、世界遺産白川郷に出かけた。例によって、当地で「JR東海さわやかウォーキング」が開催されたことによる。知らないところに行ってみるのに、さわやかウォーキングの「案内」はとても便利だよなあと思う。

飛騨高山は結構遠い。まず高山駅まで名古屋から特急で2時間半。そこから白川郷までは高速バスで50分。今回のウォーキングコースは5㎞程度と長くはない。ので、当日朝から移動して昼頃から当地を歩くスケジュールでも良いのだが、結局前日に高山で一泊することにした。翌朝、白川郷行きバスに乗り込み、10時前には白川郷に到着。集落内外のコース歩き、状態の良い合掌造りを集めた「民家園」の散策などを含めて3時間程滞在した。

写真は、まずウォーキングコースのポイントとなっていた荻町城跡展望台、その近くの土塁と空堀跡。(山城ファン目線の写真)

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展望台付近から見た白川郷の全景。

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集落内の小振りな合掌造り。(「カワイイ」って感じ?)

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2021年5月15日 (土)

丸子城へ行く

今日は静岡県にある丸子城(まりこじょう)を訪ねた。移動の制限というか自粛というか、いろいろ動きにくい御時世ではあるが、今年は梅雨入りが早いとの話もあり、やっぱり気候のいい今のうちにお出かけしたいよなあ。(言いわけ?)

静岡駅北口バス乗り場7番から藤枝駅行バスに乗りおよそ30分、「吐月峰駿府宿入口」で下車。そこから5分程歩いたところに登山口がある。細い道は階段状に設えてはあるが結構急な上りになる。城の入り口に着くまで15~20分程度なので、そんなに長い時間はかからないにしても、なるほど山城は体を使わないと辿り着かないのだと実感する・・・のはいつものこと。

写真は上から、北曲輪、堀切(二の曲輪と本曲輪の間)、本曲輪(本丸)、本曲輪の案内板。


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『戦国の山城を極める』(学研プラス、2019年発行)では、丸子城について加藤理文先生が解説。城が今の形になった時期について、以下のような説明がある。

丸子城は、武田系山城の水準の高さを示す好例である。武田氏の後、城の支配者は徳川氏に移るが、武田時代から徳川時代を通じて、駿府へ至る街道を押さえる役割を担っていたことは間違いない。
羽柴秀吉と並ぶ実力を保持した徳川家康は、上方からの侵入を想定し、領内の街道筋の諸城の整備改修を進めた。丸子城の改修も、駿府城の西側防備の要として実施されたのである。改修年代は、家康が豊臣支配下に入る以前、天正10年から14年(1582~86)までのことになると考えられる。

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2021年4月25日 (日)

黒井城に行く

昨日24日、黒井城を訪ねた。明智光秀の丹波攻略の激戦地である。自分の旅は列車の旅。名古屋から新幹線で京都、京都から山陰本線の特急で福知山、そこから福知山線に乗り換えて3つ目の駅が目的地の黒井。

黒井駅前から見える山の天辺に石垣。あれかぁ、けっこう高いところにあるなぁと思いつつ、駅から山を目指して歩くこと約15分。小学校の脇の道を上っていくと登城口に着く。登山コースは「ゆるやか」と「急坂」と2つある。シニアの自分はおとなしく「ゆるやか」を選んだ・・・んだけど、所々割と急なところもあって、少々しんどかった。適当に休憩しながら登ること50分くらいで、主郭部の入り口に到着。「東曲輪跡」の石垣が出迎えてくれる。
写真は上から東曲輪跡の石垣、本丸周辺の石垣(2枚)、駅前から見た黒井城。

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光秀の丹波攻略完了後、黒井城には明智家の重臣、斎藤利三が入った。当地で生まれた利三の娘・お福は、のちに徳川家光の乳母・春日局となる。駅前にはお福の像が立つ。

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2021年4月11日 (日)

今城、久々利城、美濃金山城

昨日10日、旅行社のツアーを利用して、名古屋から日帰りで岐阜県可児市の山城巡りに出かけた。可児は2019年の山城サミット大会開催地。山城の調査研究や整備に熱心に取り組んでいる。今回のツアーで回ったのは今、久々利、美濃金山、あとオマケ的に明智(長山)を加えた4城。城郭研究者の加藤理文氏が同行。やっぱり解説付きは有難いです。写真はまず今城(本丸の土塁)。

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今城は、もともと地元豪族の小池氏が築いた城だったが、美濃金山城の城主となった森氏が改修を施して支城にしたと考えられている。全体はごく小規模ながら桝形虎口、切岸、土塁等を備えて、戦国の城の基本的なパーツは揃っている、まさに戦国山城の入門的なお城。次の写真は久々利城。

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久々利氏は土岐氏の一族ながら詳細は不明。写真の右上に見えるのが本丸だが、本丸の向こうのさらに高い場所に小さい曲輪がある。地形上の都合らしいが、本丸が一番高い場所に無いことが、この城の特長。次の写真は美濃金山城。

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美濃金山城を最初に築いた斎藤大納言妙春は、久々利氏に暗殺された。その後1565年、織田信長の家臣、森可成が城主に。以後長可、乱丸、忠政が城主になったが、1601年頃城は破却された。城内には石垣破壊の跡があちこちに残る。それはそれで廃墟感が増して味わい深い。

最後は明智城(市指定史跡名称「長山城」)に行きましたが、ここは戦うための城ではないらしいので、他の3城に比べれば見どころは乏しいです。

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2021年3月27日 (土)

鳥羽城に行く

今日は、鳥羽城を訪ねた。亀山、津、松坂、伊勢上野そして鳥羽、これで三重県5城巡り(スタンプラリー)は完結。

鳥羽は5城の中で、名古屋から一番遠方だと思われるが、電車(JR利用)だと一本で行けるので、行き方としては簡単。名古屋から快速電車に2時間乗れば終点の鳥羽駅。お城は駅から10分程歩いたところにある。

築城主は九鬼嘉隆。戦国時代、織田信長や豊臣秀吉の下で嘉隆率いる九鬼水軍は大活躍、その名を轟かせた。鳥羽城も当時は四方を海に囲まれた「海城」だったと伝わる。
写真は上から三の丸広場、本丸石垣、本丸からの眺め。お城の向かいには鳥羽水族館がある。奥に見える島は、手前がミキモト真珠島、中央が答志島。

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関ヶ原の戦いでは嘉隆は西軍、息子の守隆は東軍と、父子が敵味方に分かれ鳥羽城を巡って戦った。関ヶ原本戦の結果は西軍敗北となり、嘉隆は答志島に逃れる。守隆は父の助命を訴えて認められたが、その知らせが伝わる前に嘉隆は自害した。享年59歳。

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