2022年7月25日 (月)

「小山評定」は在ったのか

慶長5年(1600)7月、上杉氏討伐のため徳川家康は軍勢を率いて会津に向けて進んでいた。しかし毛利輝元・石田三成ら「西軍」の挙兵を知り、指揮下の諸将と合議して上方へ反転することを決める。この、いわゆる「小山評定」(通説では7月25日)により「東軍」が結成され、ここから9月15日の関ヶ原合戦まで、決戦を目指す両軍の動きが加速していく。(写真は小山市役所敷地内の石碑)

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関ヶ原合戦については近年、通説の見直しが盛んである。今までの通説的ストーリーは、後世に成立した「軍記物」はじめ二次史料の記述に拠っていて史料的裏付けに乏しいというのが、見直しの大きな動機及び基本的スタンスになっている。既に「問鉄砲」は否定されているし、小早川秀秋も合戦当初から東軍側という話になっていて、さらに「小山評定」も無かったという説が出ている。以下に、『関ヶ原合戦全史』(渡邊大門・著、2021年)からメモする。

「小山評定はなかった」という説を最初に提起したのは、光成準治氏であった。光成氏に続いて、同様の説を展開したのは白峰旬氏である。
白峰氏は一次史料を駆使して、7月25日に家康が小山にいたのかを徹底的に検証した。その結果、同日に家康が小山にいたとの確証が得られなかった。
問題となるのは、7月中旬から8月頃にかけての時期における武将間の書状には、小山評定があったことを明確に示したものがなく、二次史料しか残っていないことである。
しかし、これまでのさまざまな検討を踏まえた場合、家康が小山評定で諸大名に会津征伐の中止、そして輝元・三成らの挙兵を伝え、方針転換を伝えた可能性は高い。やはり小山評定は開催されたと考えるのが妥当なようである。ただし、通説のように、劇的な展開があったか否かは別の問題である。
多くの編纂物では、小山評定をドラマティックに描いているが、それは家康を賛美するために脚色されたと考えてよいだろう。

・・・一次史料は無いので結局、家康の「軍事指揮権」の在り方などから考えた合理的な推論によって、小山評定と呼べる会議はあった可能性が大きいとは言える。んだろうけど、黒田長政が根回しして福島正則が打倒石田宣言をする、というドラマ的展開はフィクションの産物、なんだろうなあ。

ところで白峰先生の研究によれば、前田利家死去直後に石田三成が危機に陥った「七将襲撃事件」も、襲撃ではなく訴えを起こしたのであるという。白峰先生の手にかかると、問鉄砲も小山評定も七将襲撃も、みんな無くなっちゃう。通説打破の勢いが止まりません。

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2022年6月27日 (月)

しょうけい館

昨日、東京・九段下にある「しょうけい館」(戦傷病者史料館)を訪ねた。(気候はほぼ梅雨明け状態の猛暑日)

九段郵便局の近く、路地を入ったところにある建物。入り口には、おお、水木しげるの画が。戦争中、南方の島のジャングルの中をさまよい歩く、左腕を失いマラリアでふらふらの武良茂(本名)を描いた「自画像」。なるほど水木しげるは傷痍軍人、それも超有名な傷痍軍人なのだった。

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館内に入ると、1階にも水木しげる関係の展示が。「武良茂(水木しげる)の人生」のタイトルで、戦争中の水木しげるの従軍経験を物語る個人資料などが展示されている。
水木サンは昭和18年に21歳で召集されて、南方のニューブリテン島(ラバウル)に派遣。部隊は全滅し、爆撃で左腕を失い、マラリアに苦しめられるという悲惨な目にあいながらも、胃腸の調子はすこぶるよく、現地人トライ族から食べ物を分けてもらったりしていたという。笑ってしまう。終戦時には、島に永住のために戻ることをトライ族と約束して、水木サンは日本に帰国した。後に、土人の生活は一番楽しい生活ではないか、と語っている。やっぱり何か人間離れしているなぁ。

ついつい水木しげるの戦争体験に目が向いてしまうわけだが、2階の常設展の内容も充実している。なかでも野戦病院の情景を等身大の人形を使って再現しているジオラマコーナーは結構悲惨な感じの仕上がりで、音声も出せるようになっているのだが、聞いてみようとは思わなかったなぁ。

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2022年5月14日 (土)

「聖大公」ウォロディーミル1世

本日付日経新聞コラム記事「王の綽名」(作家・佐藤賢一)からメモする。

東スラヴ人の国家、キーウ公国のリューリク朝だが、始祖となったリューリクはノルマン人で、つまりはヴァイキングだった。最初は北方、バルト海から内陸に入るノブゴロドに拠点を構えたが、それを9世紀末、オレフ公のときに、ドニエプル河沿いを南に進んだキーウに移した。このキーウ公国、さらに大公国の最盛期をなしたのが、ウォロディーミル1世(在位978~1015年)である。

988年、大公は東ローマ皇帝(ビザンツ皇帝)バシレイオス2世に援軍を頼まれた。ウォロディーミルは、そのかわり皇帝のアンナと結婚したいと申し入れ、キリスト教徒になると告げて、クリミア半島にある皇帝の拠点、ケルソネソスで洗礼を受け、そのまま皇女アンナと結婚、意気揚々とキーウに戻ると、以後はキリスト教を国教にするとも宣言したのだ。

このキリスト教だが、ギリシャ正教である。キリスト教を受け入れたウォロディーミル1世のキーウ大公国は、西ヨーロッパにおけるフランク王国に相当する。5世紀と10世紀で時代は大きく違うが、歴史の流れに占める位置としては、始祖クロヴィスがカトリックの洗礼を受けたメロヴィング朝と、全く同じなのである。

これがゲルマン世界の本流なら、スラヴ世界の本流はキーウ大公国である。この国こそ現在のウクライナの原型であり、モスクワなど亜流にすぎない、ロシアなにするものぞといった気概も、俄かに頷けるものとなる。

ところが、ロシアの側にいわせると、ウォロディーミル1世の時代には、モスクワそのものがなかった。モスクワ公国の成立が、ようやく13世紀のことで、大公になったのが14世紀、これがロシア皇帝を称するのが15世紀なのである。聖大公は後に発展する全ての東スラブ人、ギリシャ正教を受け入れた全ての民のルーツなのだということで、名前も人気だが、ただロシア語では「ウラジーミル」になる。ロシア大統領プーチンの名前がウラジーミルな通りだ。が、これに断固立ち向かうウクライナ大統領、ゼレンスキーの名前もウォロディーミルなのだ。

・・・ロシアとウクライナは「兄弟国」と聞くと、大国ロシアが兄かと思うが、歴史から考えれば年長のウクライナが兄、ロシアは図体のデカい弟というところか。「同名」の大統領を戴く「兄弟国」の対決は、今のところ決着が見えない。

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2022年4月 2日 (土)

20世紀のロシアとウクライナ

かつての20世紀、共にソビエト連邦を構成していたロシアとウクライナは、民族的にも文化的にも近い国だと言われる。しかしソ連時代も、この「兄弟国」の関係は決して麗しいと呼べるものではなかった。以下に、「週刊東洋経済」(4/2号)掲載記事(執筆者は名越健郎・拓殖大学教授)からメモする。

1917年のロシア革命後、ウクライナはレーニン率いるボリシェビキの支配下に入り、ソ連邦第2の共和国になったが、ソビエト体制下では苦難の連続だった。スターリンは農業集団化を断行し、ウクライナの富農を粛清。外国から武器を購入するため食糧を強引に徴収した結果、「ホロドモール」と呼ばれる人工的な大飢饉が30年代初めに発生し、死者は1000万人に上ったという。30年代後半、スターリンは反体制派を弾圧する大粛清を行い、ウクライナ共産党幹部が真っ先に逮捕され処刑された。

41年6月に勃発した独ソ戦は、広大なウクライナの平原が戦場となり、ウクライナ人の死者は民間人を含めて700万人で、4人に1人が死亡したとされる。
その際、スターリンの恐怖政治におびえたウクライナ西部の住民はドイツ軍を「解放軍」として歓迎し、蜂起軍を結成。これに対し、東部のウクライナ人はソ連軍として戦い、ウクライナ人同士が戦場で衝突した。
大戦初期、ウクライナを制圧したドイツ軍は、ユダヤ系住民の大量虐殺を行った。ドイツ軍が敗走すると、伯耆軍はソ連に徹底弾圧された。こうして、ウクライナは第2次世界大戦で最も激しい戦場となり、国土は疲弊した。

スターリン後に政権を掌握したフルシチョフとブレジネフは、ウクライナたたき上げの指導者で、ウクライナを優遇し、農工業が発展した。フルシチョフにより54年、クリミア半島はロシアからウクライナ共和国に編入された。

改革派指導者ゴルバチョフが85年に登場し、ペレストロイカ(再編)を進めると、ウクライナ語復権の動きや見直し運動が高まった。

91年8月、ソ連の保守派が決起し、失敗に終わったクーデター事件の直後、ウクライナ議会はいち早くソ連からの独立を宣言した。12月1日には、独立の是非を問う国民投票が実施され、90%の支持で承認された。第2の共和国であるウクライナの独立で、連邦継続が困難とみたロシア、ウクライナ、ベラルーシ3首脳はソ連邦崩壊を宣言。ゴルバチョフは辞任し、ウクライナは史上初めて、悲願の独立を果たした。

・・・ソ連時代のロシアとウクライナの関係を見ると、「兄弟国」の戦争にも歴史的な背景はあるのだと思える。しかしそれでもやはり、21世紀の大規模戦争勃発という現実を充分に理解するのは難しい、という困惑にも似た思いは残る。

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2022年1月15日 (土)

玉城、関ヶ原合戦とは無関係

今日は、先日の雪が残る関ヶ原まで出かけた。お目当ては、当地で行われる中井均・滋賀大学名誉教授の講演会である。演題は「関ヶ原合戦と岐阜県の山城」。小早川秀秋が陣取ったことで有名な松尾山城を中心に、関ヶ原周辺の城跡について、中井先生お得意の縄張図を用いて解説してくれた。先生は、最近NHK番組で取り上げられていた「玉城」についても言及。NHK番組では、関ヶ原の西方に位置する新発見の巨大山城として、CGによる復元画像も使って紹介されていた玉城。西軍の最後の砦となるはずの城であり、豊臣秀頼を迎え入れる可能性もあった、などと千田嘉博先生が熱く語っていた。

しかし実のところ、玉城は以前から存在が知られていた城跡で、「新発見」ではない。そして中井先生によれば、「豊臣秀頼の本陣として築かれたなどあり得ない」。そもそも縄張り(城の構造)から見ると、西側に巨大な堀切があり、関ヶ原のある東側を防御する作りではない。また、山の頂上部には土塁や虎口が認められない。これは、関ヶ原合戦当時よりも古い縄張り構造であることを示している。また、城の規模も、松尾山城(これはもともと西軍総大将である毛利輝元が入る予定の城だったと考えられる)より小さいし、そもそも関ヶ原合戦自体が、豊臣秀頼と徳川家康の戦いではないのだから、大坂から秀頼が出陣して玉城に入ることはありえないのだ。結論的に言えば、玉城は「元亀元年(1570)以後に近江と美濃の国境を監視するため、織田信長によって築かれた山城である可能性が大きい」とのことである。

玉城についてはNHKと千田先生、ちょっと話を盛りすぎちゃったよなあ。

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2022年1月 3日 (月)

ベアテ・シロタと日本国憲法

昨年末の日経新聞「私の履歴書」(赤松良子・日本ユニセフ協会会長)で紹介されていたベアテ・シロタ・ゴードン(1923~2012)。5歳から15歳まで日本在住、22歳の時に連合国軍総司令部(GHQ)の職員として日本国憲法の草案作りに参加した女性である。以下に、池上彰の『世界を変えた10人の女性』(文春文庫、2016年)からメモする。

GHQの占領政策の中で、日本の民主化を主導したのは民政局です。民政局が担当したのは、公職追放、選挙制度改革、公務員制度改革、地方自治など、いわば政治機構のインフラづくりです。ベアテさんはそういう部局に配属されました。

当時民政局にいたのは、「ニューディーラー」と呼ばれる人たちでした。ニューディール政策にちなんだニューディーラーです。日本を民主的な国にしようとした民政局のスタッフは、民主党のニューディール政策、つまり「大きな政府でもいい。社会保障を充実させよう。国がさまざまな責任を持つべきだ」と考えた人たちだったということです。そういう人たちによって、戦後の日本のさまざまな仕組みができていきました。

アメリカは当然、(新しい憲法は)日本人がつくるべきものだと考えていました。それを受け、日本側は新しい憲法をつくり始めます。1946年2月1日、その試案が毎日新聞にスクープされます。それまでの明治憲法(大日本帝国憲法)とほとんど変わらず、「あまりに保守的、現状維持的」といった論評付きでした。

マッカーサーはこれを知って激怒します。日本を民主化しようとしていたのに、日本人に任せると結局たいしたものにならない。こうなったらアメリカでとにかく草案をつくってしまったほうが早いと、見切りをつけます。マッカーサーは2月3日、懐刀である民政局長に草案作成に取りかかるように命じます。局長は翌4日の月曜日朝、民政局の面々を会議室に集め、2月12日までに憲法の草案をつくるように命令を下します。会議室に呼ばれたメンバーは25人でした。七つの小委員会に分かれ、それぞれ立法、司法、行政、人権、地方行政などを担当することになりました。ベアテさんは人権に関する委員会の三人のうちの一人に任命されます。

この任務は、トップシークレットでした。憲法というのは日本人が自らつくったということにしなければいけない。ですから、彼女はこの秘密を守り、50年近く経ってから、もういいだろうというので、いろいろ話すようになり、1990年代半ばくらいから彼女の果たした役割がわかってきたということです。

・・・ベアテさんは、女性の権利や教育の自由について草案を作った。参考にしたのはワイマール憲法とソビエト憲法という。法律の専門家ではなかったので、草案にあれこれ盛り込み過ぎて、後で削られた部分も多かったとのことだが、池上本によれば、男女平等や男女同権、社会福祉や社会保障、教育を受ける権利などが、日本国憲法の中に落とし込まれた「ベアテ理念」だという。

戦後日本の国家の大本を作ったのは民主党政権下のアメリカ人、日本に縁のあるベアテさんを含む「ニューディーラー」たちだった。殆ど偶然ともいえるような出来事が後々まで影響を長く及ぼす、歴史にはそういうことがしばしば起こる。

しかし要するに、当時の日本人に、進歩的な憲法を作るセンスは無かったのだな・・・「押し付けられた」憲法などと文句は言えないわな。

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2021年12月 6日 (月)

毛利輝元、しくじる

関ケ原町では古戦場記念館の開館一周年を記念して、11月から特別講演会を毎月開催中。12月の講演会「毛利一族~不戦の代償~」(講師は光成準治先生)は昨日5日行われた。会場で配布されたレジュメを元に、以下にメモする。

関ヶ原合戦時の西軍総大将、毛利輝元には「天下三分」という野望があった。すなわち東は徳川家康、西は輝元、そして中央は豊臣政権という支配体制を思い描いていた。この野望を実現するためには、東軍と西軍の、美濃方面における戦いは長期化することが望ましい。戦いが長期化している間に、輝元は西国の東軍勢力を一掃し、その後で家康と石田三成らの講和を仲介する。さらに予め家康と不戦協定を締結しておけば、万が一、三成らが敗北した場合でも、家康との講和に持ち込み、家康と「天下二分」することができる。

吉川広家らの工作により、実際に不戦協定は締結された。ところが、小早川秀秋の西軍からの離反によって危機に陥った大谷吉継を救援するために、大垣城の西軍が関ヶ原に移動した結果、9月15日に突発的に戦いが勃発した。美濃方面における戦闘の長期化を予想していた輝元は、南宮山の毛利勢に対して、眼前で戦闘が始まった際の行動を指示していなかった。現地の毛利秀元には全軍の軍事指揮権は与えられておらず、全軍を指揮できる輝元が大坂城にいたため、毛利勢は行動を起こすことはなかった。

吉川広家らの事前交渉の通り、毛利氏分国は安堵されるとの認識から、西軍の敗北後に輝元は抵抗することなく大坂城から退去。しかし、これは家康のワナであり、所領安堵を約束して輝元を大坂城から退去させた後、減封するという作戦だった。

反徳川闘争決起から不戦の密約に至るまで、毛利輝元は祖父元就譲りの策略を駆使したが、自らは前線に赴かず、大阪城での抗戦も放棄するという、二代目ゆえのひ弱さに基づく自己保身行動が、減封という結果を招いたのである。

・・・毛利輝元が反徳川家康の側に立った目的は、自らの勢力拡大であり、打倒家康の覚悟については石田三成らと相当の温度差があったと考えられる。関ヶ原の戦いは、通説のような大会戦ではなく、突発的に起こり瞬時に決着した。これにより、輝元の戦争長期化予想は外れて西国支配も叶わず、さらに戦後は領国安堵も反故にされた。こうして、輝元の抱いた「天下三分」の野望は夢幻のように消えたのである。

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2021年11月20日 (土)

松尾山城に行く

今日は松尾山城に行った。自分が松尾山に上るのは14年ぶり3回目。今回は地元関ケ原町主催の「史跡ガイドウォーキング」参加である。先週、「JR東海さわやかウォーキング」で関ヶ原を歩いたので、2週続けて週末は関ヶ原に出向くことになった。というか、先週のウォーキングの際、古戦場記念館でこのイベントのチラシを見て、申し込んだ次第です。

朝9時に関ヶ原古戦場記念館集合。バスで松尾山登山口まで行き、そこから約40分の山歩き。頂上付近で主な遺構を見て回り、下山。12時過ぎに古戦場記念館に戻った。写真下は、松尾山の山頂から関ヶ原方面を望む。

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頂上には「小早川秀秋陣」の立派な説明板もある。

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このイベントは、松尾山城の散策マップ発行等に伴う企画とのこと。確かに自分も、松尾山って上ったことあるけど、「山」じゃなくて「山城」なの?って感じだったので、認識を改めた。散策マップの縄張図(例によって、中井均先生の監修)によると、主郭があって、土塁や桝形虎口があって、曲輪がいくつかあって、その他空堀、堀切、竪堀と一通り山城の遺構が確認される。単なる山じゃなくて、立派な山城だったのだなあ。

散策マップに書いてある松尾山城の歴史によると、戦国時代においては、まず浅井長政勢力の、次は織田信長勢力の城となる。しかし天正7年(1579)、廃城に(「南西の曲輪」が浅井時代の遺構とされる)。そして慶長5年(1600)8月、大垣城に西軍主力を率いる石田三成が入り、城主の伊藤盛正には松尾山の守備を命じたという。現地で盛正は新たに造成を行い、山城を復活させた。現在の遺構の大部分は、この時のものだ。しかし9月14日に小早川秀秋の軍勢が松尾山に押し寄せて城を占拠。翌15日の合戦で西軍は大敗した。二度も城を追い出された盛正。戦国最大の決戦の裏で、理不尽な目にあった脇役武将の運命に悲哀を感じる。

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2021年11月13日 (土)

「関ヶ原」西軍陣地巡り

本日はJR東海さわやかウォーキング参加のため関ケ原へ。ほぼ定番の開催地だが、コース設定は様々ある。今回は主に西軍武将の陣地跡を巡るコースで、関ケ原駅をスタートして、まずJR線南側を西に向かう。東軍武将の藤堂高虎、福島正則の陣跡を通り、さらに不破関を過ぎて、JR線の北側に入ってからは西軍陣地を歩く。大谷吉継、宇喜多秀家、小西行長、島津義弘、そして最後は石田三成。そこから駅の方向に進み、岐阜関ケ原古戦場記念館がゴールだ。

大谷吉継陣跡

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宇喜多秀家陣跡

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小西行長陣跡

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島津義弘陣跡

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石田三成陣跡

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笹尾山全景。石田三成が高所(上の旗)、その前に(下の旗)島左近。

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・・・とまあ、いちおうは巡ってみたわけですが、関ヶ原合戦については最近の研究から、通説的ストーリーは8割方フィクション、みたいな感じになっているので、これらの陣地跡も、史実の裏付けがあるとは言い難くなっていることは、頭に入れておいたほうがいいでしょう。

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2021年8月10日 (火)

明治維新へのアンビバレントな思い

社会学者の大澤真幸は、明治維新によって「日本が近代化し、植民地にもならずにすんだ」にも係わらず、「明治維新に対して、全面肯定的には語られず、どこかに否定的な自重する気分が日本人にはある」、という。その理由はおそらく、明治維新という「革命」の性格に由来するもののようである。『むずかしい天皇制』(大澤真幸、木村草太の共著、晶文社)からメモする。

大澤:(明治維新が)何を達成したのかもよくわからないし、どこで達成したのかもわからない・・・。
維新で達成できなかったもののほうが良かったんじゃないの?という気分がする。しかし、現代の日本人は、開国はもちろんですが、倒幕したことも正解だったと思っている人が圧倒的に多いでしょう。しかし、にもかかわらず、その「正解」に対して手放しのポジティブな感情を持ち切れていない。
明治全体が終わってみれば、議会がつくられ、市民革命的なものが起きたように思えます。しかし、王権・天皇制ということに着目したとき、ヨーロッパの中世・近世の王権というのは、他にはない特徴があった。それは、議会というものとセットになっていたということです。身分制議会と王権の間に依存関係と緊張関係の両方があった。
ヨーロッパの市民革命というのは、王対議会の対立の中で、議会的なもののほうが勝っていく過程だと見なすことができます。
しかし日本の場合の天皇制は、もちろん、議会とは関係がない。

大澤:日本の場合には、維新の達成と憲法の間に断絶があるのではないか。明治維新から20年ほどかかって、憲法ができていますよね。
木村:確かに、制定までにかなり時間がかかっています。当時の政府は民権勢力を抑えられるように、君主制原理に基づく憲法を作った。政治権力はすべて天皇に属することとして、議会が力を引き出せないような仕組みにしたのです。
大澤:民主主義革命のようなものが起きて作られた憲法とは違っている。
木村:そうですね。モデルになったプロイセン憲法は、議会と君主が綱引きをしているときに、議会権限を限定する思考で作られたものです。

・・・とにかく西欧列強に対抗するため、大急ぎで近代化を成し遂げた日本ではあったが、いわゆる「外圧による変化」「上からの革命」により急造された近代国家であっただけに、「議会」や「憲法」に市民革命的な実質が伴っていないなど、体制の歪みもいろいろあったということで、それが日本人の明治維新に対する、アンビバレントな思いの元になっているように思う。

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