2019年7月 6日 (土)

福島正則はリアリストだ(推測)

福島正則の「暴れ者」イメージは正しいのか?と問うのは本郷和人先生。新刊『怪しい戦国史』(産経新聞出版)から以下にメモする。

正則は無類の暴れ者だったけれど、一方では誰よりも豊臣家に対して忠誠心をもっていた。そこで徳川家康は正則の「石田三成嫌い」の部分をこれでもか、と刺激し続けた。そのクライマックスが、三成挙兵の報を受けて開かれた「小山評定」。正則はいの一番に「徳川内府にお味方をし、にっくき三成めを成敗する」と獅子吼。ここに「東軍」が誕生した、というストーリーがしばしば描かれています。これは、正則は「三成憎し」の怨念にとらわれた、という見方ですね。家康は「正則の単細胞っぷり」につけ込み、結局、関ヶ原で勝利した、ということになります。

本当でしょうか? ぼくにはそうは思えません。正則は堂々たる一国一城の主、つまり多くの家臣たちの生活に責任をもつ大企業の経営者なのです。自分の感情だけで去就を決するとは思えない。それに彼は「弱肉強食」の戦国の様子、より具体的に言えば、羽柴秀吉が織田家の天下を奪い取るさまを現場で見ている。家康が勝利すれば、三成が滅ぶだけでなく、豊臣の天下が終わることも十分に分かっていた。それでも「福島家」が生き残り、より繁栄することを目指して、家康に味方したのではないでしょうか。

・・・福島正則はリアリストだった、と推測する。幾多の戦国大名の栄枯盛衰を見ていた正則は、ここでは家康に味方するのが福島家にとって最善と判断したのだろう。そして家康も、自軍の勝利のために正則を最も必要としていた。「小山評定」以降、関ヶ原合戦に至るまで、家康が最も多く書状を出した相手は正則だったことからも、そのことが窺える。要するに、正則と家康は利害が一致していた。こう考えると、「三成憎し」の理由は後付けの感が強くなる。

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2019年6月23日 (日)

「関ヶ原」シンポジウム in 小倉

本日は九州・小倉で開催された歴史シンポジウム「関ヶ原の戦いを再検討する」(佐賀戦国研究会の主催)に足を運んだ。はるばる遠征したのは、講演者の顔ぶれに引きつけられたからだ。関ヶ原新説をリードする白峰旬、高橋陽介、乃至政彦の3氏が揃い踏みなのである。名古屋からだと新幹線で3時間乗れば着くから日帰りでOK。転勤で名古屋在住である我が身を有り難いと思った。

会場のKOKURAホールは、小倉駅から徒歩10分程度の場所にある。ビルの中の大きめの会議室という感じで、参加者はざっと50名程度か。シンポジウムの進行は、白峰先生(豊臣七将襲撃事件はあったのか)、高橋先生(「九州の関ヶ原」と加藤清正)、乃至先生(上杉景勝の用兵思想と政変戦略)の順に、各40分程度講演。その後3氏が互いの発表内容について意見交換を行った。

白峰先生は既に「問い鉄砲」「小山評定」は無かった(フィクションである)と主張しているのに続いて、豊臣武断派武将の石田三成襲撃事件もフィクションとの説を提示。白峰先生の手にかかると、関ヶ原の「見せ場」はみんな無くなっちゃう(笑)。でも、言われてみれば現実の動きはそんなに劇的な展開であるはずもないよな、と納得してしまう。

このほか、加藤清正という人物は過大評価されているとか、上杉景勝が徳川家康との戦いを決意した動機を探るべき、との興味深い観点も出された。確かに歴史上の人物は、その行動は把握できても、何を考えていたかまではなかなか分からない。

関ヶ原だと自分は、福島正則が何を考えていたかが結構気になる。豊臣秀吉子飼いの武将である正則は、なぜ徳川家康に味方したのか。石田三成憎しから? そんな単純な話じゃないだろう。家康が一番多く手紙を出した相手は正則だった。いつ手のひらを返すか、気が気でなかったらしい。実際、関ヶ原では最後まで東軍先鋒を務めた正則の動きが、戦局の行方を大きく左右したわけだし。加藤清正が過大評価される一方で、福島正則は過小評価されていると思う。

それはそうと、本日のシンポジウムでは、関ヶ原合戦の白峰説、高橋説の相違点についてストレートな議論があるかも、と期待してたけど、それは無し。そこは少し残念な感じでした。

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2019年5月23日 (木)

歴史を学ぶ意義

呉座勇一・国際日本文化研究センター助教の語る、歴史を学ぶ意義とは。本日付日経新聞文化面記事(令和の知をひらく)から以下にメモ。

歴史に限らず「唯一絶対の正解があり、そこに必ずたどり着ける」と考える人は多いが、現在の複雑な社会で、簡単に結論の出る問題はない。
ネットを通じ、情報の入手自体は簡単になった。それをいかに分析し、価値あるものを選び出していくか。歴史学の根幹はこの「史料批判」にある。リテラシーを身につけるひとつの手段として、歴史学の研究成果に親しんでもらえたらと思う。

歴史を学ぶ意義は大きく2つある。1つは現代の相対化だ。かつて、いま我々がいる社会とは全く違う仕組みの社会が存在した。異なる常識で動いていた社会を知ることが、我々の価値観を疑ったり「絶対に変えてはいけないものなのか」と問いかけたりするきっかけになる。

もう1つは、社会の仕組みが異なっても変わらない部分を知ること。親子や兄弟の絆、宗教的観念などは、時代を超えて今につながるものがある。この両面を通して、我々はこれからどう生きるべきか、ヒントを引き出せるのではないか。

・・・違う時代の違う国のことを学べば、現代日本社会の価値観を相対的に見ることができる。すると、この社会における支配的な価値観に全面的に付き合う必要などないのだ、ということが了解できるだろう。

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2019年5月 9日 (木)

歴史は変わる、昭和史も変わる

昭和史については、新しい実証研究の成果に基づく新しい解釈が生まれているにも関わらず、それらが人々の間に充分共有されているとはいえない――本日付日経新聞オピニオン面のコラム記事(昭和の教訓、生かす時代に)からメモする。

近年来の昭和史ブームのなか、たくさんの本が刊行され、読者を得ている。これ自体は歓迎すべきだが、筒井清忠・帝京大教授はこう指摘する。
「一般向けの昭和史本には最新の研究成果を踏まえず、過去の俗説や誤りがそのままになっている書物が氾濫している。このままでは複雑な過程をたどった昭和史への理解が深まらず、単純な歴史観が横行してしまう。危うい状況と言わざるを得ない」

では、どうすればよいのだろう。広がる読者の需要に応えようと、歴史研究を専門としないジャーナリストや作家、識者らが次々と参入し、昭和史本を刊行している。書き手のすそ野が広がるのは良いことだが、執筆にあたっては入念に最新の学説を洗い出し、反映する努力をさらに尽くす必要があるだろう。

状況を改めるうえで、歴史研究者が果たせる役割も大きい。そのひとつが、個々の専門領域から一歩踏み出し、一般の読者にもわかりやすい近現代の通史を、もっと手がけることだと思う。

・・・昭和史に限らず、新たな研究と解釈により、歴史の通説が変わっていくことは、例えば日本史教科書の内容が昭和と平成で違うということにも現れている。歴史の見方が変化していく中で、極端に言うとジャーナリズムの人は自分の推理も含めて不確かなことを書き散らし、アカデミズムの人は狭い専門の内に留まり確かなこと以外は語らない。最近も週刊ポスト誌上で井沢元彦氏と呉座勇一氏の「論争」があったりして、作家と学者のすれ違いは今に始まったことではないが、とにかく新しい学問的成果を分かりやすく一般人に伝える仕事を担う人材が、もっともっと必要かもしれない。

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2019年5月 8日 (水)

謎多き平将門の反乱

平将門と天慶の乱』(乃至政彦・著、講談社現代新書)を題材とした、堀井憲一郎のコラム記事(サイト「現代ビジネス」5月7日発信)から以下にメモする。

平将門はずいぶん古い時代の人である。武士の原型のような人ではあるけれど、武士として生まれて武士として育つ、という時代の人ではない。貴族時代の人である。

平将門のドラマは私は一回しか見たことがない。1976年のNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』である。加藤剛が将門を演じていた。まあ、時代が昔すぎて細かいことがわからないというのもあるが、日本史上、類のない反逆者である将門は、なかなかドラマ化されない。

平将門は桓武天皇の5世の孫である。朝廷がしっかり支配できていない遠国を、安定支配するよう現地にて努力している「辺境軍事貴族」という立場だ。将門は武士の棟梁を目指していたわけではない。彼が求めていたのは「辺境ながらも貴族」としてのしっかりした地位の保証であった。でも彼は無位無冠のままに終わる。

相続すべき土地や軍事機関などを叔父たちに奪われそうになったので、戦いはじめると鬼神のごとき働きをみせ、連戦連勝、名を馳せ、自分の土地を守りきる。戦さが重なり、京都の朝廷の出先機関を襲い、中央から派遣された国司を追い出し、関東一円を支配した。

将門は、自分の地元だけを治めようとしただけで、関東エリア全域を独立させ、別国家の樹立を考えてなぞいなかっただろう、という研究者もいる。でもどう考えたって、「おれたちは日本から独立して、おれたちだけの関東の王国を作る」という話のほうがロマンに満ちている。

・・・確かに平将門は大昔の人と言って良い。源頼朝の250年も前になる。関東の出来事だし、将門は何となく頼朝の先駆者かと思えたけど、将門は武士ではなく「軍事貴族」だというから、どうも違うみたいだ。結局、将門の反乱とは何だったのか、大昔のことだしよく分からないという感じ。

乃至本を読むだけでは当時のイメージがわかないので、大河ドラマ(総集編)のDVDも見た。昔の大河で自分が熱心に見たのは、将門ドラマの3年前の『国盗り物語』。あの頃の大河ドラマは演出に一貫性があったなと思う。

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2019年3月22日 (金)

「世界史のリテラシー」

『サピエンス全史』が話題など世界史ブームの裏側には、「世界史のリテラシー」への渇望があると言うのは、山下範久・立命館大学教授。「世界史のリテラシー」とは、歴史のディテールや物語性の裏側を見通す力、「歴史がそのように書かれているのはなぜか」を適切に問う力だという。東洋経済オンライン本日付発信記事から、山下先生の話の一部を以下にメモする。

歴史は過去の再現ですが、過去のすべてを完全に再現することはできません。書かれたもの(あるいは語られたもの)としての歴史には必ず事実の取捨があります。意味のある、筋の通った歴史であればあるほど、その取捨にはなんらかの論理を具えた枠組みがあります。例えば清教徒革命やフランス革命が世界史の重要な事件とされる背後には、議会制民主主義の成立を近代社会の本質として歴史を見る枠組みがあります。

協調を志向するリベラルな国際秩序、議会制民主主義、経済成長を前提とした豊かな社会、理性的行為者として平等な「人間」など、私たちがなじんできた「世界史」の主題や基調は、こうした「近代」の達成の物語を描く枠組みに深く埋め込まれています。

しかし実際には、その枠組みの前提で「近代」の「達成」とされているものが、まさに今揺らいでいるわけです。このことは、ただちに近代が終わったとか、近代的な価値がただのイデオロギーでしかなかったということを意味するわけではありません。しかし、これまでの枠組みを、さらに広い視野やさらに深い次元に開いて位置づけ直す必要が出てきたと言うことはできるでしょう。

(世界史の本が読まれるのは、)深い次元での世界史への枠組みへの関心、つまり「世界史のリテラシー」を鍛え直したいという願望が読者の皆さんに潜在的に共有されているからだと思います。危機の時代とは、「世界史のリテラシー」への飢えが高まる時代なのです。

・・・どうやら、世界史を考えるとは近代を捉え直すということのようだ。近代批判のムーブメントは、80年代の半ばに「ポストモダン現代思想」ブームとして現われたが、昨今は思想よりもっと具体的な、歴史的事象の捉え方を問い直す「世界史ブーム」として現われているようにも思える。(最近の柄谷行人が「世界史」の本を書いているのも納得、という感じだ)

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2019年3月17日 (日)

関ヶ原合戦研究の難しさ

先頃、呉座勇一先生が関ヶ原合戦新説の整理と批判を行う講座に、2回参加した(2月4日中日文化センター・栄、3月16日NHK文化センター・京都)。

呉座先生の評価は、近年の新説が主に依拠する吉川広家書状案など覚書類は、後世の軍記物より信頼できるとはいえ、あくまで「回顧録」であり、覚書類で合戦の姿がどこまで復元できるかは慎重に見たい。関ヶ原合戦研究の難しさは、史料が非常に少ないところにある。通説は崩れているが、それに代わる確かな合戦の姿を示すのも難しい、というものでした。

まあ学問的にはそういうことなんだろうな、と了解する。信頼できる史料の批判に基づき、過去の事実を復元する、という歴史学の基本的なアプローチからすれば、白峰、高橋両先生がリードする関ヶ原新説はいろいろ推測が入ってくるので、どこまでホントなのか分からないと言えば分からない。正確性を第一に求めるならば、史料のないことは分からないというのが、学問的には正しいのだろう、とは思う。

とは思いながらも、関ヶ原合戦はもともと史料が少ないところで、時間の経過と共にあれやこれやストーリーが作られ加えられてきて、今見るような通説になったしまったわけだから、それはさっさと「お話」として脇に置いて、改めて史実は何か、あえて合理的推測も加えて踏み込んで考えないと、歴史の理解は進まないという感じもする。

呉座先生のほかには、桐野作人先生は関ヶ原新説をどう評価しているのか気になりますね。

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2019年2月16日 (土)

歴史本の読者が求めるもの

本日付日経新聞コラム記事「日本史ひと模様」(執筆者は歴史学者の本郷和人)から以下にメモする。

いま中世史研究者の注目の的は、『応仁の乱』で大ヒットをとばされた呉座勇一さんに尽きる。47万部を売り上げたというその偉業に、みんなが瞠目した。
応仁の乱は、細川氏を中心とする70年来の勝ち組に、山名氏をリーダーとする負け組が再挑戦したもの。結果は再び細川グループの勝利。ぼくは以前からそう説明していたが見向きもされない。これに対して呉座さんは「この戦いはよく分からないものである」とされ、社会の支持を得た。
この戦いは何であるか。その意義は何か。そう問いかけること自体が賢しらな振る舞いで、否定されるべきなのだ。分からないものは分からないまま丁寧に描写する。その謙虚な姿勢こそが大切なのだ。

・・・と、本郷先生は言うのだが、自分は『応仁の乱』(中公新書2016年10月発行)成功の理由は、歴史好きの読者の関心を幅広いレベルで集めたことではないかと推測する。まず、応仁の乱の名前を知っていても、どういう戦いだったっけ?と思う素朴なレベルの人が、とりあえずこの本を手に取る。もう少し知っている人は、足利将軍家の後継争いを原因とする通説的なストーリーとは違う乱の姿に、興味を深めるだろう。さらに上級者には、分かりにくい乱の全体像を理解しようというチャレンジな気持ちを呼び起こすかもしれない。

付け加えると、乱の本質・意義についても、細川と山名二つの大名連合の激突であるとして、乱の結果、守護在京制は崩壊したと解説されている。この本では、細川と山名の勝ち負けの判定は分からないのかも知れないが、乱そのものが分からないものとして提示されているわけではない。

このほか歴史に関心の無い人の中にも、版元の広告に登場した呉座先生のルックスに注目して、本を買った人がいるかも知れない。(苦笑)

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2019年2月 5日 (火)

「平成」と「中世」

平成の30年間とはどんな時代だったのか。『応仁の乱』の著者・呉座勇一先生から見れば、もちろん中世に似ている時代、である。本日付日経新聞のインタビュー記事「平成って」からメモ。

「日本の歴史を振り返ると、『平成』は『中世』と一番近いかもしれない」

武士が台頭し、鎌倉幕府を経て戦国時代へ向かう中世は、武士、朝廷、寺社勢力が入り乱れて覇権を争った。「先が見えず、つかみどころがない時代だった」という。
平成はバブル経済の絶頂期に幕開けし、その崩壊によるリストラの嵐、出口の見えない不況が続いた。自殺者は一時期3万人を超え、オウム真理教事件など無差別テロも起きた。「戦争こそなかったが、何が起きるかわからない混沌とした雰囲気があった」

中世で「応永の平和」と呼ばれる時期がある。戦乱が比較的少なく、社会が安定した。その応永(1394~1428年)は約35年間続き、明治以前では最も長い。「ほぼ平成と同じ期間だが、応永の平和は問題を先送りして、もめ事が起きないようにして保たれた。その矛盾が噴出したのが応仁の乱だとも言える」

・・・応永の時代は、足利義満(3代将軍)、義持(4代)による相対的安定期。その後、義教(6代)は暗殺され、義政(8代)は応仁の乱を招き、戦国の世が到来する。

日経新聞紙上では今年の初め、五木寛之も平成について同様の認識を示していた。「平成とは、問題をなし崩しに先送りしている中での相対的な安定期だったのではないか。(次の時代は)改めて激しい対立や激動が起こると思う」。ポスト平成は波乱の時代となる予感?

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2019年1月16日 (水)

歴史は科学か文学か

1月12日付日経新聞コラム記事「半歩遅れの読書術」(執筆者は国際政治学者の国分良成)では、E・H・カーの『歴史とは何か』、岡田英弘『歴史とはなにか』が取り上げられている。以下にメモする。

カーは、歴史上のさまざまな事象の原因についての仮説を立て、あらゆる過去の史料を駆使してそれを検証し、そうした作業の中から一定の法則性を見いだし一般化することが、現在と将来への教訓として役立つと考える。この点で、歴史は科学であり、理性を通して人類の進歩に貢献しうると主張する。

「歴史は物語であり、文学である。言いかえれば、歴史は科学ではない」と、岡田氏は言い切る。歴史は「ことばで組み立てるもので」、人間による現実の政治支配を正統化することから始まっており、結局のところ、歴史の中心を成すのは政治史だという。しかも歴史には古代史と現代(=近代)史の2つしかなく、「中世」というような進化論的な発展段階を入れるのは誤りで、現代史は19世紀に「国民国家」が成立し、「国民」の概念が歴史に挿入されてから始まったというのである。

しかし、この2人の泰斗には本質的な部分で共通点がある。両者ともに、歴史は歴史家によって組み立てられ、歴史的事実の解明には史料の精査・読解とそれに対する広い視野からの意味づけが必要であり、そして歴史ほど面白く人生を豊かにさせるものはない、という立場で一貫している。

・・・歴史学は科学である。その方法は史料の批判的検討。ただしさすがに今では、法則を見出すことまでは目的としていないだろうな。
歴史学の始まりは、国民国家の自己正当化のストーリー、だと思われるけど、今はそれこそグローバルヒストリーで、国民国家の来歴を超える同時代の地域横断的なストーリーが探求されている、ということなんだろうな。

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