2023年3月14日 (火)

「帝国」と「帝国主義」

「世界戦争は不可避的である」と、柄谷行人は1990年頃から考えていたという。『文藝春秋』4月号掲載のインタビュー記事からメモする。

その時期、ソ連の崩壊によって冷戦が終結し、世界は民主化するという「歴史の終焉」という説が話題になりましたけど、私はそれに反対でした。
要するに、この時期に終わったのは、第二次世界大戦のあとの均衡状態であり、その後に生じるのは、世界大戦の反復です。

私は、帝国と帝国主義を区別したい。
私は以前に、『帝国の構造』という本で、帝国主義とは異なる「帝国」について書きました。たとえば、ペルシア帝国、ローマ帝国、モンゴル帝国ほかの帝国では、異なる民族が、お互いのアイデンティティーを保ったまま、平和的に共存できた。
帝国は古代と中世にあったものであり、帝国主義は、資本主義以後に生じたものにすぎないのです。そして、帝国主義は、帝国を否定するものです。

帝国は、遊牧社会にあった、国家や部族による差異・区分を超えて生きる思想を受け継ぎ、多数の民族・国家を統合する原理を持つにいたった。それに対して、近世以後の国民国家には、このような原理がない。したがって、自国中心主義、そして、民族紛争に傾きやすく、国家間の戦争が避けられないのです。

旧帝国は近代以降の帝国主義とは異なる。その意味で、今のアメリカやロシア、中国は帝国的ではないが、帝国主義的なのです。

・・・もうだいぶ前になるが、国家という枠組みを超えて運動するグローバル経済が生み出す秩序を「帝国」と呼ぶ議論があった。そして、その秩序の中心にあるのは、アメリカと言って良かった。しかしグローバル経済は、アメリカ国内にも格差と分断を生み出し、トランプ前政権は自国優先主義的な動きを強めた。その一方では、グローバル経済の恩恵を受けて世界第2位の経済大国となった中国が、自国中心主義的な振る舞いを拡大させている。グローバル経済=「帝国」秩序は、「帝国主義」の大きな挑戦を受けていると言ってよいだろう。

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2023年3月10日 (金)

関ヶ原「布陣図」の謎

関ヶ原合戦といえば、有名な東西両軍の布陣図を思い浮かべる向きも多いだろう。しかし、あの図がどこまで正しいのか、充分な検討がなされたとはいえない。徳川家康の虚像と実像を分析する『家康徹底解読』(堀新、井上泰至・編、文学通信・発行)から、以下にメモする。

合戦が具体的にどのようなものであったのかは、ほとんどわからない。合戦の説明の際に必ずといってよいほど示される「布陣図」も要注意である。白峰旬が指摘したように、一般に知られている布陣図は明治期に参謀本部編『日本戦史関原役』が作成した歴史的根拠の乏しいものである。江戸時代に作られはじめる布陣図もやはり創作である。白峰は、布陣図による先入観を排し、それ以外の各種の史料の検討により関ヶ原エリア・山中エリアの二段階で戦闘が行われたと推定している。これについて小池絵千花は、当初は戦闘があったのは山中だと考えられていたが、のちに関ヶ原であると改められた、つまり地名の認識の変化によるものだと指摘している。そして、翌年には作成されはじめる太田牛一の『内府公軍記』の記載を重視すべきだとする。

・・・上記で言及されている小池氏の論文(「関ヶ原合戦の布陣地に関する考察」、『地方史研究』411号、2021年6月)を読んでみると、徳川家康は決戦日当日、吉川広家は二日後の書状で「山中」の地名を使っていたが、その後は使っていないと指摘。また、合戦から最も早い時期に成立した『内府公軍記』をベースに、後から情報が付加されていき、現在に至るまでの「関ヶ原合戦像」が形成されていったと述べている。

『内府公軍記』によれば、石田・小西・島津が関ヶ原に、宇喜多・大谷が山中に布陣したという。太田牛一は『信長公記』の作者でもあるから、信頼できる史料なのだろう。でもそうなると、「山中主戦場」説が依拠する島津家家臣史料の記述と、どう整合性を取ればいいのか。素人には分からない。困る。

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2023年2月26日 (日)

二・二六事件

NHK・BS1スペシャル「全貌 二・二六事件」を観た。ちょうど3年前に放送した番組の再放送とのこと。

昭和11年(1936年)2月26日に起きた二・二六事件。陸軍「皇道派」の青年将校たちが天皇を中心とする軍事政権の樹立を目指し、政府要人数名を暗殺して国会議事堂などを占拠したクーデター事件である。当時、海軍軍令部が事件の推移を綿密に記録した極秘文書が見つかり、それを基に番組は事件の4日間を辿る。そして最後に、事件の一週間前に海軍は、陸軍皇道派の決起計画の概要を把握していたことが示される。

事件発生当時、決起部隊の動機や思想に、陸軍の一部が理解を示し、他の部隊がさらに合流する可能性もあったという。それだけでなく海軍にも同調する者がいたようだ。しかし天皇は早くから海軍に鎮圧を期待していた。海軍の陸上戦闘部隊である陸戦隊が出動する。さらに芝浦沖の海上から、国会議事堂に艦砲射撃を加える計画もあったという。

2月28日、天皇は反乱鎮圧の意思を示す奉勅命令を出す。陸海軍の鎮圧部隊と決起部隊は一触即発、東京が戦場となる内戦寸前の状態に。翌29日(うるう年なのですね)午前中に決起部隊の投降が始まり、午後1時に反乱は平定された。

「昭和維新」を目指した青年将校たちは軍法会議の裁判で処刑されたものの、その後の日本は、天皇を頂点とする軍国主義に突き進んでいった。それは結局は青年将校たちが望んでいた国家の姿だったと言ってもいい。

二・二六事件から9年半後の昭和20年(1945年)8月、日本が降伏して戦争は終わった。時の首相は鈴木貫太郎。二・二六事件の際に重傷を負ったが一命は取り留めた鈴木侍従長その人が、天皇と共に終戦工作を何とかやり遂げたというのも、歴史の不思議な巡り合わせだと思える。

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2023年2月19日 (日)

熊本城炎上

今日2月19日は、今から146年前の明治10年(1877)、熊本城天守が焼失した日。

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熊本市の西南戦争資料館では、「企画展 熊本籠城戦」の展示を行っている。その内容は、「デジタル展示」でも見ることができる(熊本市ホームページの「熊本市田原坂西南戦争資料館へ行こう!!」)。その中から「熊本城炎上の謎」の文章を、以下にメモする。

征討令が発せられた2月19日、熊本城天守・本丸御殿などが炎上する。
① 国家財産が焼失したにも関わらず、その正式報告が無い。
② 現場にいた参謀児玉源太郎が後に語った内容には虚偽が多く、 事実を隠蔽する意図があったと想像される。
③ 電信記録は、火災発生直後には「鎮台自焼セリ」と打電しているが、後になると「怪火」など原因が不明となっている。
④ 本丸御殿=鎮台本営の発掘出土品(被熱資料)の偏在性から、火元は司令部と考えられる。奥まった位置にあり、限られた者しか出入りできない場所である。
以上から、鎮台が自焼し、これを隠匿した可能性が高い。薩摩軍に怯える籠城兵を背水の陣に追い込み、また、近代戦においては砲撃目標となるだけの天守を焼却して籠城準備の仕上げとしたのであろう。

・・・熊本城天守は西南戦争の時に焼けてしまった、と聞いた時は最初、戦争だから仕方ないかと思っていたが、かなり後になって、戦闘が始まる前に焼け落ちたと知った時は「はあ?どおゆうこと??」と思った。

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先日、西南戦争資料館を見学し、合わせて熊本城内にある熊本博物館の企画展「熊本城と明治維新」にも足を運んだ。明治維新当時、熊本藩知事の細川護久は、熊本城の破却を決心していた。廃城予定として一般開放すると、大勢の人が見物に来たという。その一方で城の破却に反対する人も、もちろんいた(久冨才七郎意見書)。

当時はお城は前時代の遺物というか、無用の長物と見なされつつあったのだろう。そういう意識もあり、西南戦争の際には戦闘開始前に、あっさり天守は焼かれちゃったのかと思う。いやはや。天守焼失3日後、2月22日に薩摩軍の総攻撃が始まる。熊本城に籠る政府軍3300人は、最大1万人の薩摩軍に包囲される中、4月14日まで50日余りの籠城戦を戦い抜いた。西郷隆盛は「(加藤)清正公に負けた」と言ったとか。江戸時代の太平の世を過ごした熊本城が、明治維新後の戦争で難攻不落ぶりを発揮したというのも、何だか妙な巡り合わせではあるなあ。

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2023年2月18日 (土)

西南戦争資料館へ行く

先日、熊本市田原坂西南戦争資料館に行ってみた。西南戦争が始まったのは明治10年(1877)の2月、熊本城攻防戦から、3月は田原坂の戦いと、激戦が続いた。昨秋から、戦争の行われた季節に訪ねてみようと考えていて、実行した次第。

九州は、東京からだと飛行機使うけど、名古屋からだと新幹線に乗ってれば着く、という感じ。朝8時前に名古屋駅を出発。新幹線車中では、雑誌「歴史群像」2018年12月号掲載「作戦分析・田原坂の戦い」を読んで予習。「田原坂の戦い」とは、田原坂含む植木台地に陣取った薩軍に対して、政府軍は田原坂の西にある二俣台地から砲撃。最後は、田原坂の南にある横平山という重要拠点を抑えた政府軍の攻撃により、薩軍が撤退する、という戦いのおおよそのイメージをつかむ。お昼12時過ぎには熊本駅に着き、そこから折り返す格好で、今度は鹿児島本線を北上して田原坂駅(無人駅)で降りる。写真は田原坂駅の説明板。

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資料館のホームぺージには、資料館までの徒歩ルート、田原坂駅と隣の木葉(このは)駅からの二つを示した「てくてくマップ」が載っていて、田原坂駅からは2.2kmで30~40分、木葉駅からは3.8kmで50分とあったので、少しでも短い方を選択(ただし実際に田原坂を歩くのは、木葉駅ルートです。何か変だな~)。とにかくマップを頼りに歩くこと40分余りで、資料館に辿り着いた。館内に入ると、くまモンが目に付いて、ついつい写してしまう。

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小一時間ほど館内を見学した後、帰りは田原坂を通って木葉駅に至るルートを歩くことにした。坂道をゆっくり下って資料館から30分程で「一の坂」の入り口に到着。

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そこから程なく国道に出て歩き始めたが、やはり交通量が多い。大型トラックも結構走っている。歩くのはちょっと恐いなと思っていたら、バス停に出くわした。停留所名は産交バスの「境木」。15分程待てば来るタイミングだったので、バス待ちを選択。平日に休みを取って来ていたので、日中のバスの本数が多少多めだったのが幸いした。乗車時間3分程で、木葉駅前に到着して任務終了。下の写真は木葉駅の説明板。当日は熊本で一泊して、翌日名古屋に戻った。

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もし、西南戦争資料館にタクシーを使わないで行こうという人がいるなら、木葉駅からのルートが分かりやすいし、田原坂そのものを通るだけによろしいかと思う。とはいえ国道を歩くのは最小限にしたいものだなと、産交バスの時刻表を調べた結果、「木葉駅前」平日8時30分頃または9時過ぎ、土休日8時30分頃または9時30分頃のバスに乗り、「境木」で降りる。資料館まで往復の徒歩と見学の時間の合計2時間半~3時間と見て、「境木」11時台または12時台のバスに乗って「木葉駅前」まで戻る、という「午前中勝負」が一番無駄のない感じです。

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2023年2月 5日 (日)

NHK「決戦!関ヶ原Ⅱ」

昨夜放映のNHKBS番組「決戦!関ヶ原Ⅱ」。当時の戦国武将の書状500通の調査分析から、関ヶ原の決戦(1600年9月15日)に至るまでの「情報戦」が勝敗を左右したことを描き出す。最近の「新説」に寄せている部分もあり、興味深かった。

西軍の総大将とされる毛利輝元は、通説では石田三成らによって祭り上げられた、ということになっているが、7月15日に三成挙兵の知らせを受け取るや否や広島を出発、海路を使って2日後の7月17日に大阪に到着するなど、やる気満々で「西軍」結成に参画した。輝元には、「西国全体を支配して(祖父の)元就を超えてやるんだという思い」(光成準治先生)があったのではないかという。

番組では、上杉と伊達が連合して、江戸攻撃に乗り出す可能性があったとしているが、これはとりあえず聞いておきますという話かな。(苦笑)

小山評定(7月25日)で、徳川家康は何とか「東軍」を立ち上げたが、評定4日後に届いた西軍の家康弾劾状「内府ちかひの条々」を見て、自分が豊臣政権に対する「謀反人」の扱いとなったことを知り愕然。「どうする家康」状態に。番組が分析した書状数西軍169通、東軍312通(うち家康171通)が示すように、小山評定後の8月の一ヵ月間、家康は手紙作戦に没頭。

番組では福島正則が、キーマンの一人とされていた。小山評定で「石田を討つ」と宣言しちゃったけど、家康が謀反人だとすれば、どうすればいいのかと悩む正則。結局「自分たちは戦って勝つしかない」と決意する。この扱いは結構目新しい感じ。見直されてほしいぞ福島正則。

ところでNHKは、2年前の「決戦!関ヶ原」に続くこの番組でも、関ヶ原西方にある山城「玉城」に、豊臣秀頼や毛利輝元を迎え入れるつもりだったと言ってるけど、これもとりあえず聞いておきますという話。

決戦の前日の9月14日、小早川秀秋が松尾山城に入り、同日に徳川家康も、西軍の籠る大垣城の北に到着した。西軍は同日夜に大垣城から関ヶ原に移動。これも通説的には、関ヶ原で東軍を迎え撃つためとされるが、別の理由が考えられるという。「石田三成たちが大垣から関ヶ原に転進したのは、松尾山にいる小早川を西軍に呼び戻す、あるいは壊滅させる」(光成先生)意図があったようだ。

この見方は、在野の研究者高橋陽介氏の説に近い。小早川と戦うために石田方は関ヶ原に向かったというのが、高橋先生の見方。

さて、南宮山にいる毛利軍。これが東軍の西進を抑えてくれると思っていたから、三成たちは大垣城を出て小早川攻撃のために関ヶ原に向かった。ところが、ここで「最後の情報戦」が行われる。9月14日の夜、毛利家の重臣吉川広家と東軍黒田長政が「不戦の密約」を交わしたのだ。毛利が動かなかったため、東軍は関ヶ原に進出できた。これを見た小早川も東軍として参戦し、西軍は敗れた。

この番組では、東軍の関ヶ原進出が、西軍の予想外の事態として描かれた。このポイントは大きい。通説では、東軍の動きを予想して西軍は動いたわけだから。今後の歴史番組が、白峰旬先生や高橋先生のリードする関ヶ原新説にさらに寄せていくならば、戦いの実態はおそらく、松尾山の麓に移動した直後の西軍の態勢がまだ整わないうちに、東と南の2方向から、東軍と小早川軍が急襲。西軍はグダグダになって短時間で敗北した、というところになるのではないかと思う。

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2023年1月14日 (土)

「ブラッディ・メアリー」

日経新聞毎週土曜日掲載「王の綽名」、執筆者は作家の佐藤賢一。本日分はイングランド女王メアリー1世、「ブラッディ・メアリー」。以下にメモする。

どうして「血塗れ女王」かといえば、283人ものプロテスタントを処刑したからである。西欧の16世紀、それは宗教改革の時代だった。キリスト教の教団組織は、従来ローマ教皇に従うカトリックだけだったが、そこからプロテスタントが分かれた。

メアリー1世の父はイングランド王ヘンリー8世である。母がカタリーナ王妃で、こちらはスペインの「カトリック両王」の末娘だ。父王には男子に後を継がせたい思いもあった。あるいは若い愛人、アン・ブーリンに結婚をせがまれたのが先か、とにかくローマ教皇クレメンス7世に王妃との結婚の無効取消を申し立てた。それが認められないとなると、イングランドはプロテスタントの国になると宣言、1534年に国教会なる新たな教団を設立したのだ。

アン・ブーリンはといえば、王の期待通りに妊娠したが、生まれたのが女子のエリザベスだった。最後まで男子は生めず、あっさり処刑されてしまう。次の王妃がジェーン・シーモアで、ようやく男子が生まれた。が、そのエドワード王子が病弱だった。47年にエドワード6世として即位したが、やはり身体が弱く、僅か15歳で死没した。53年の話だが、このとき陰謀家ノーサンバランド公が、ジェーン・グレイという王家の親族を女王にせんと試みたが、うまくいくはずがない。メアリーが即位したが、新女王にすれば、今こそ復讐のときである。

メアリーはイングランドにローマ教皇の教会を復活させたのだ。従わないプロテスタントの指導者らを処刑したのも一環である。それで綽名が「血塗れ女王」だが、ちょっと待て。

殺した283人を少ないとはいわないが、それをいうならヘンリー8世やエドワード6世もカトリックを弾圧した。なかんずく多くを処罰したのが次のエリザベス1世だった。58年、メアリーの没後に即位すると、この妹はイングランドを再びプロテスタントの国にしたのだ。メアリーが恐ろしげにも「血塗れ女王」と呼ばれるのは、実はエリザベスの時代からなのだ。

・・・「宗教改革」が西欧社会の中に生み出した激しい対立は、殺し合いにまで至る。日本人にはどうにも不可解である。妻を処刑するヘンリー8世の残酷、「怖い絵」で知られているであろうジェーン・グレイの最期(処刑)も悲惨。16世紀イギリスは、いろいろ怖い。

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2023年1月 7日 (土)

「狂女王」と「美男公」

日経新聞毎週土曜日掲載「王の綽名」、執筆者は作家の佐藤賢一。本日分(「狂女王」スペイン王フワナ1世)から以下にメモする。

フワナ1世は、「カトリック両王」と呼ばれたカスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェランド2世の娘である。1504年に母親の王位を、16年には父親の王位も継いで、今日と同じ国土に君臨した。記念すべき初の「スペイン王」だが、その綽名がスペイン語で「ラ・ロカ」、英語で「ザ・マッド」、つまりは「狂女王」である。フワナは内向的な性格で、静かに本ばかり読んでいる、いわば文学少女だった。王女だし、次女だし、それでよいと、16歳で嫁に出された。相手はハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアンの長子、18歳のブールゴーニュ公フィリップだった。

このフィリップにも綽名があって、フランス語で「ル・ボ―」、英語で「ザ・ハンサム」、つまりは「美男公」である。実際、フワナは結婚このかた、夫しかみえなくなった。

いくらかたつと、浮気が始まった。それも一度や二度でなく、ほぼ常に愛人がいた。それをフワナは許せなかった。フワナは夫に、あるいは夫の愛人に対しても、癇癪を起こすようになった。と思えば底なしに落ち込んで、すでに鬱病だったともされるが、本当だろうか。

(「美男公」の急死後、)フワナはフィリップの埋葬を許さなかった。ただ眠っているだけだと、棺を馬車に乗せたまま、8カ月もスペイン各地をさまよった。もはや完全に精神に異常を来したと、これで「狂女王」の綽名が確定した。

・・・精神を病んだフワナがカスティーリャ王に即位する時、夫のフィリップが王位を求めたが果たせず、父のフェランド2世が摂政に。フワナはアラゴン王位も得たが、長男のシャルルが16歳で「スペイン王カルロス1世」に即位。「共同統治者」フワナは、修道院に軟禁されたという。夫も父も息子も、フワナが「狂女王」である方が都合が良かったのかもしれない、と佐藤氏は示唆する。

自分は「スペイン王カルロス1世」すなわち「神聖ローマ皇帝カール5世」は、ハプスブルク家出身の、正々堂々の君主というイメージを持っている。なので少なくともカールは、そんな都合は毛頭考えなかったものと思いたい。

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2023年1月 6日 (金)

川崎大師は「初詣」のパイオニア

今夜の「チコちゃんに叱られる」で「お題」の一つだった「初詣」。大分以前から一部メディアで取り上げられていたネタではあるが、NHKの力で、今後さらに「常識」として広がるのかな。自分が以前メモしたことを改めて記してみる。

◆2006年12月30日付日経新聞記事からのメモ
 研究者によると、いまのような初詣は明治時代以降の習慣だという。国立歴史民俗博物館教授の新谷尚紀さんは、日本古来の正月について「元日は家族そろって家にこもり、年神(歳徳神)がやって来るのを静かに待つのが習わしだった」と説明する。年神とは一年の幸福を年初にもたらす福の神だ。こうした正月の習わしが初詣に変化する過程で、三つのポイントがあった。
 最初は江戸時代後期の19世紀。年神のいる方角を「恵方」といい、毎年変わる。その年の恵方にある寺社に参拝する「恵方参り」が、町の庶民の間で流行し始めた。
 第二のポイントは明治時代に鉄道ができたことだ。郊外の寺社に足を伸ばせるようになった。川崎市の川崎大師は1872年、新橋―横浜間に鉄道が開通したことで、東京からの参拝者が増えた。初詣という言葉が新聞で確認できるのも、明治中期から。川崎大師関連の記事がほとんどという。明治中期以降は、各地で民間鉄道が相次ぎ誕生。
 そして第三のポイントは、この鉄道が沿線の寺社への初詣を広告に使い、集客に利用し始めたことだ。関西では1907年12月に南海鉄道が、1908年1月には阪神電気鉄道が新聞広告で初詣を活用。関東では1909年12月に成田鉄道が新聞広告を出している。

◆「明治期東京における『初詣』の形成過程」論文
(平山昇、雑誌「日本歴史」2005年12月号)の要旨
 明治期を通じて東京の市街地における正月参詣は、初縁日参詣と元日の恵方詣が中心だった。ところが、東京南郊にある川崎大師平間寺では、縁日・恵方にこだわらない元日参詣、後に「初詣」と呼ばれる新しい参詣が盛んになる。
 明治5年6月、我が国最初の鉄道路線(品川―横浜間)の途中に川崎停車場が設けられてから、川崎大師も次第に東京の人々の恵方詣の対象となっていった。しかし、川崎大師が東京市内の諸寺社と異なっていたのは、恵方に当たっている年もそうでない年も(要するに毎年)、元日に大勢の参詣客で賑わうようになった事である。
 川崎大師はいちはやく鉄道によるアクセスを得たことによって、汽車に乗って手軽に郊外散策ができるという、東京市内の諸寺社にはない行楽的な魅力を持つ仏閣となった。そして、特に明治20年代に、縁起よりも行楽を重視する参詣客が増えるなかで、この行楽的魅力に惹かれて川崎大師に参詣する者が増え、毎年恵方に関わらず元日に参詣客で賑わうという「初詣」が定着したと考えられる。

・・・「チコちゃん」では、「初詣」は「京急電鉄」が強力推進したものと強調されていた。まあとにかく、江戸時代の寺社参拝は既に行楽的性格を帯びており、明治に入ると鉄道の発達が寺社参拝の行楽化を加速させた。ということで、「初詣」は近代的習慣なのだなあ。

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2022年11月 1日 (火)

ウクライナ戦争、捩じれた「独ソ戦」

新しく出たムック『独ソ戦のすべて』(晋遊舎発行)から、メモしてみる。

第二次世界大戦、ことに欧州での戦争に興味をもつ人にとっては、この(ロシア・ウクライナ)戦争はある種の感慨を抱かせるものであった。キエフ(キーウ)やハリコフ(ハルキウ)、サポロジェ(ザポリージャ)といった地名は、第二次世界大戦や近現代史の愛好家にとって、歴史上の地名であって、現代の紛争地帯の地名として再浮上するとは想像していなかったからだ。

・・・まさに、かつてT34戦車やタイガー戦車などのプラモデルを作り、「ヨーロッパの解放」などの映画を観て20世紀の「独ソ戦」を学んだ世代にとって、21世紀にハリコフやキエフが再び戦場になるという現実は、既視感と違和感を同時に覚えるものだ。しかも戦争当事者はお互いに旧ソ連を構成していた国なのだから、この事態をどう理解していいのやらである。

このムックを読んでいると、ロシア・ウクライナ戦争は裏返しのというか、捩じれた「独ソ戦」というイメージが浮かんでくる。ロシアのプーチン大統領の頭の中にあるのは、ソ連が侵略者ナチス・ドイツを撃退した「大祖国戦争」だと思える。現在の敵は「ナチス」政権に支配されたウクライナである。そしてロシア・ベラルーシ・ウクライナは「一体」であると、プーチンは見なしている。であれば、「ナチス」政権に浸食されたロシアの「領土」を「解放」(奪還)し、ウクライナの「ナチス」政権を支援する西側NATO諸国と対抗し続けることが、ロシアの正義であると、プーチンは考えているのかもしれない。

かつてのナチス・ドイツの侵略のベースには、優秀なゲルマン民族が劣等民族スラブ人を支配してもよいという差別思考があったと思われる。プーチンの戦争にも、ウクライナ人に対する差別意識がないとは言えないだろう。そんな印象からも、ロシア・ウクライナ戦争は捩じれた独ソ戦、という思いが強くなる。何をどう言ってみても、現実に侵略したのはロシアなのだから、プーチンはヒトラーと同類だと単純に言えるだろう。

戦争初期の段階で、ロシアは首都キーウの短期攻略に失敗。ウクライナ第2の都市ハルキウでも頑強な抵抗に遭い撤退。東部ドンバス地方の完全制圧も達成していない。ここからさらに人員を投入して戦争を継続しても、ロシアは4州「併合」以上の「成果」を手にすることは難しいだろう。ロシアの戦う動機は弱まりつつある一方、領土奪還を目指すウクライナは戦いを止める理由はない。という非対称の状態で今のところ、停戦のきっかけすら見出せない憂うべき状況だ。

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