2024年7月 8日 (月)

ワイマール共和国の崩壊

先週放映されたNHK番組「ワイマール ヒトラーを生んだ自由な国」(映像の世紀 バタフライエフェクト)は、1920年代のドイツで起きた出来事を簡潔にまとめた内容だった。最も進歩的な憲法から独裁政治が生まれたとか、民主主義により独裁者が選ばれたとか、面白おかしく言われたりするのだが、やはり当時のドイツの置かれた状況も理解する必要があるのだと改めて思わされた。

第一次世界大戦のドイツ敗戦後、1919年8月に公布されたワイマール憲法には、先進的な項目が並んだ。全国民の平等、男女平等、言論・出版の自由、芸術・学問自由、労働者の団結権、今でいう「生存権」が全ての人に認められた。一方で、革命後の混乱を鎮めるために盛り込まれた「緊急事態条項」(第48条大統領緊急令:公共の安全及び秩序を回復させるため、国民の基本権の全部または一部を暫定的に停止することができる)は、後にナチスの独裁を許し、ワイマール共和国の崩壊に繋がる条項となった。

やがて敗戦国ドイツはハイパーインフレに襲われる。1923年8月に首相兼外相に就任したグスタフ・シュトレーゼマンは、全権委任法(授験法)を成立させた。これは、経済と財政に限り、国会の審議を経ずに首相が法律を制定できるようにする時限立法だった。シュトレーゼマンは、レンテンマルクを発行し、ハイパーインフレを終息させた。さらにシュトレーゼンマンはアメリカに接近、アメリカから投資資金をドイツに呼び寄せることに成功した。ワイマール共和国は、「黄金の20年代」と呼ばれる安定期に入った。

1929年10月3日、シュトレーゼマン急死。同じ月の24日、アメリカ・ウォール街の株価大暴落(暗黒の木曜日)。世界恐慌が始まり、アメリカ資本が引き上げられてドイツも大不況に。政治の混乱が続く中、強い指導者が待望される。

1932年7月31日、ナチ党が第一党に。1933年1月30日、ヒトラーが首相就任。翌2月27日、国会議事堂炎上事件発生。ナチ政権は、大統領緊急令を根拠に大量の共産党員を逮捕した。本来はワイマール共和国の秩序を守るための条項を、ヒトラーは独裁のために利用した。続いてヒトラーは、シュトレーゼマンが経済・財政に限っていた全権委任法の対象をあらゆる分野に広げた。法案成立に必要な3分の2以上の賛成を得るため、ヒトラーは国会の議場前に突撃隊・親衛隊を動員し圧力をかけた。ヒトラーは民主主義の手続きを守る体裁を取り繕いながら、独裁体制を完成。こうしてワイマール共和国は14年余りで崩壊した。

・・・第一次世界大戦後の敗戦国ドイツの不安定な社会情勢の中で、ナチ党と共産党が台頭。保守勢力と組んで政権を成立させたヒトラーは、権力を握るや否や、共産党を壊滅させ、暴力行使も匂わせながら「民主主義」的手続きを進めて、一気呵成に独裁体制を確立した。

先日のフランス総選挙では極右政党が第一党になるかと思われたが、決戦投票の結果、左派連合が最大勢力に。ヨーロッパの分断は深まっている。第一次大戦とスペイン風邪がウクライナ戦争と新型コロナ感染症に、ワイマール時代のドイツがマクロンのフランスに、100年前と現在がダブって見える。歴史は繰り返す、または韻を踏むというが、歴史に学びつつ現在を考える必要を強く感じる。

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2024年6月22日 (土)

「豊後の王」大友宗麟

先日のNHK番組「歴史探偵」で、戦国大名大友宗麟が取り上げられていた。当時日本に来ていたキリスト教宣教師は、「豊後の王」として記録を残していた。豊後の国は、九州全土であると考えられていたらしい。

大友宗麟は、来日したイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルと対面し、キリスト教の布教を認め、教会を建てる土地まで与えた。ザビエル、感激である。宗麟の名はヨーロッパまで伝わり、後にはザビエルと宗麟の出会いの場面の想像画がいくつか描かれて、現在も残っている。何しろ想像画なので、宗麟の姿はヨーロッパの王様風なのだが。

宣教師は、スポンサーであるポルトガルの国に対して布教の成果を誇るため、大友宗麟を「豊後の王」であると喧伝したようだ。当時の若きポルトガル王セバスティアン1世も宗麟に大いに興味を持ち、キリシタンへの改宗を強く促す手紙を宗麟宛てに送った。

当時はポルトガルとスペインが勝手に世界を2分割して、それぞれの支配地と見なそうとしていた時代。ポルトガル国王にも、日本の支配や日本との貿易をやりやすくしたいとの思惑があったようだ。

宗麟は宗麟で、改宗を匂わせながら、南蛮貿易を盛んにして大砲や鉛(鉄砲の玉を作る)を入手することに腐心していた。

最終的に1578年、宗麟はキリシタンとなる(洗礼名はザビエル由来のフランシスコ)が、家臣団の動揺を招き、島津氏との戦いに大敗。宗麟は現実には九州の「王」にはなれなかった。(写真はJR大分駅前の大友宗麟像。2024年3月撮影)

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「歴史探偵」では、今回「戦国ご当地大名シリーズ」第一弾として大友宗麟を取り上げたが、今後三好長慶や長宗我部元親などが予定されているという。「ご当地」に含まれる意味は「限定」というか、知っている人は知っているくらいの感じだろうか。確かに信長、秀吉、家康の「天下人」は大メジャーだし、武田信玄や上杉謙信、伊達政宗、毛利元就も知名度は全国区だろう。でも、「天下人」以外は、戦国大名というのは基本的に「ご当地」のものだと思う。つまり、地方が地方として相対的に独立したのが戦国時代であり、その地方がその地方である礎を築いたのが戦国大名であるということだ。そういう意味で、それぞれの地方における戦国大名の重要性は計り知れない。

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2024年6月10日 (月)

宇土櫓解体修理現場

現在、解体修理中の熊本城・宇土櫓。工事作業の広いスペースを確保するため、素屋根と呼ばれる大きな囲いで櫓全体が覆われている。その素屋根内部の見学が、今年4月から出来るようになっている(自分もつい最近知りました)。4月は14日日曜日、5月は祝日の3、4、5日が公開日だった。基本は毎月一回、第2日曜日の設定なので、6月は9日日曜日。今後も公開を続ける予定とのことなのだが、何しろ解体である。建物がいったんは消えてしまうわけだから、まずは早めに行かなきゃいかんと思って、6月9日の見学を決めて昨日実行した。

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巨大な素屋根内部に入り、宇土櫓の屋根瓦や白壁を目の前にすると、瓦は割れたり崩れたり、壁は所々剥がれ落ちたりひび割れたり、という具合。地震後の宇土櫓は、遠目に見ても傷んだ感じではあったけど、間近に見るともうボロボロと言える状態。いったん解体も止む無しというのは納得する。櫓最上階は既に瓦が降ろされ壁が外され、骨組みだけになっているらしい。

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写真は、上から宇土櫓の南東側、南西側、西側、北西側。考えてみれば、巨大石垣の上にある建物だから、ホントは自分がドローンにでもならないと、こんな間近で見ることはできないのだよなあ。下の写真は宇土櫓のシャチホコ。雄の口が「あ」、雌の口が「うん」で阿吽の呼吸というやつ。

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素屋根の中から熊本城天守閣を見る。

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工事終了は2032年度の予定。年度だから2033年3月として、ざっと9年かかる。長いとは思うが、じっくりと取り組んで頂く方が良いと思って、待つしかない。(自分は現在64歳、宇土櫓再建まで生きてるとは思うんだけど、自信という程のものもないなあ)

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2024年4月21日 (日)

石垣原古戦場

1600年(慶長五年)9月13日に黒田・細川軍と大友軍が戦った「石垣原の戦い」。「九州の関ヶ原」とも言われる(関ヶ原本戦は9月15日)。

石垣原って、別府にあるのか。別府って古戦場なんだ、知らなかった。(苦笑)

ということで先日、別府を訪れた。目的は温泉ではなく、古戦場。(苦笑)

今は市街地となっている古戦場の、広い範囲に散らばっている陣跡等を見て回る・・・程の強い気持ちは無い(苦笑)ので、とりあえず黒田・細川軍の陣地である実相寺山を訪ねておくことにした。別府駅(西口)からバスに10分程乗り、「光の園前」下車。そのまま前進して15分程歩くと、ゴルフ場入り口の看板があるので、そこを入って山頂へ。下の写真は、山頂からの古戦場の眺め。向かいの左手の山の麓辺りに、大友軍の陣地があったという。

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戦いはまず、黒田・細川軍が大友軍の陣地前まで攻め込んだが、大友軍が反撃して逆に実相寺山の陣地まで押し返した。黒田・細川軍は追加の兵力を投入する大激戦の結果、黒田・細川軍が大友軍を破り、戦いは決着した。

ところで実相寺山の山頂には大きな仏舎利塔がある。広島、熊本でも、山の上に同じような塔があるのを新幹線の中から見たことがあるので、「あれは何」という感じだったが、ある宗教団体のものらしい。まあ良いとも悪いとも、何とも言えないんですがね。

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2024年4月20日 (土)

杵築の城下町

3月の春分の日前後に初めて大分県に行き、岡城、中津城、「昭和の町」を見て回ったが、もう少し見ておきたい所が出てきたので、先日大分を再訪。

杵築は「坂の城下町」として知られている所。というか自分は知らなかったわけだが(苦笑)。武家屋敷や寺町、商人の町などのエリアがある。

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杵築城のエリアから、北台武家屋敷に通じる勘定場の坂。

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酢屋の坂。向かい側にある塩屋の坂から見た眺め。

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「きつき城下町資料館」付近から、杵築城(模擬天守)方面を見る。

1600年(慶長五年)当時の木付(現・杵築)は細川忠興の領地であり、細川家の重臣松井康之と有吉立行が城を守っていた。「関ヶ原」の争乱が始まると、旧領の回復を目指す大友義統が西軍側として9月10日、東軍側である細川氏の木付城を攻めたが直ぐに撤退。細川は黒田からの援軍と共に9月13日、「石垣原の戦い」で大友軍を破った。

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2024年4月 1日 (月)

「幻の天守閣」現る(福岡城)

先週末、福岡城に行った。今は「舞鶴公園」ということだが、結構広い城跡で立派な石垣が残っている。見ると天守台の上に、足場やパイプで組み立てられたと思われる天守型の構築物が。何でも5月31日までの予定で夜の6時から10時、「幻の天守閣ライトアップ」を行っているという。期間限定のイベント用「あやしい天守閣」が出現したという感じ。

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福岡城「幻の天守閣」(天守台南側からの眺め)

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「福岡城さくらまつり」も開催中。(天守台北側からの眺め)

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城の西側にある下之橋御門と櫓。

そもそも、福岡城には天守閣(大天守)は無かった、とされていたが、大天守はあったとする説も最近出ているとのこと。大天守の有無を巡る説は、概ね以下の4つに分けられる。(『九州の名城を歩く・福岡編』、吉川弘文館発行)

①建設された大天守が何らかの事情によって取り壊された。
②当初から大天守は存在しなかった。
③大天守の建造計画はあったが実行されなかった。
④建築の途中で取り壊された。

ということで、大天守があったとしても、ごく短い期間だったようだ。それにしても「幻の天守閣」イベントからは、イメージだけでも天守閣を「再現」したいという、日本人の城に対する思い入れを感じられるな。

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2024年3月23日 (土)

中津城に行く

先日、中津城(大分県)を訪ねた。黒田官兵衛が築城に着手、細川氏が整備した城である。

コンクリート製の模擬天守と聞いていたので、あんまり期待してなかったのだが、見た目は黒板張りで結構雰囲気出ていた。それから石垣は、昔のままということで、ここはかなり見どころのある感じ。ロケーションも、城の側を流れる川を使ってすぐ海に出れる場所であり、瀬戸内海ルートによる上方までのアクセスを確保していたということで、さすが黒田官兵衛、目の付け所が違う。

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「天守閣の外観は、萩城の天守の古写真をもとにデザインされた。下見板張りをつけたことによって古風な雰囲気を醸し出している。模擬天守だが完成度は高い。」(『あやしい天守閣ベスト100城+α』イカロス出版)

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城の北側の石垣には、斜めに区切られた境目の部分がある(上の写真、右下の石垣の辺り)。向かって右の部分が黒田時代の石垣、左が細川時代に後から自然石を積んだ石垣。黒田が加工石の積み上げなので、時代があべこべの感じがするのだが、黒田の石垣は、川の上流にある古代山城から運んできた石を使っているのだという。既に古代から、石を加工する技術はあったのだなと感心する。それからコンクリ天守閣は、本来建っていない場所に作られたため、石垣の境目部分の斜め方向とはチグハグな建て付けになっている。

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2024年3月22日 (金)

岡城に行く

春分の日の20日に九州の名城、岡城を訪ねた。前日に大分に入り、当日JRで豊後竹田(ぶんごたけた)駅へ。駅から徒歩30分というので何とか行けるだろうと、町中をてくてく歩く。町が途切れる辺りから坂道に。上りきったところで駐車場&入城受付所に着く。坂道の距離が比較的短かくて助かった。入城料300円を払って城山を上り、大手門跡から城内に入る。この数日間の陽気は冬に逆戻りしていて、当日の天気は概ね晴れではあったが、風が強いし冷たい。そんな中で、石垣のひしめく広大な城跡を歩き回る。阿蘇山がよく見えるスポットもある。山城に行くといつも思うのだが、こんな高いところにどうやって石垣積み上げたのだろうか。何か人間ってすごい。

以前は、岡城って石垣凄いらしいけど、何か遠い所にあるなーとか思って、余り行こうという気にならなかった。それが今回行くきっかけになったのは、今年の2月から日経新聞で連載が始まった、岡城主中川久清を主人公とする小説(「登山大名」、諸田玲子・作)。岡城のことが小説になるとは意外だったし、おかげで「とにかく一回行っとくか」という気持ちにもなった。それにしても関連史料が多いとも思えないのに、それでお話を作ってしまう小説家ってすごい。

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岡城の主郭部分。向かい側の屋敷跡の曲輪から見た眺め。建物は休憩所。

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三の丸の高石垣。

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三の丸跡から見る本丸の石垣。

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一番東の端にある下原門(しもばるもん)跡の石垣。

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2024年3月 4日 (月)

柳川城跡

先日、福岡県の柳川を訪れた。「水郷柳川」の風景を見て、立花家史料館で戦国武将の立花宗茂について学び、鰻せいろを食べ、柳川城跡を見る、という旅。柳川城は明治の初めに焼失。今は柳城中学校に近接する公園の形で、僅かに石垣が残っている。

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2024年2月26日 (月)

知覧特攻平和会館

先週23日の祝日、鹿児島県にある知覧特攻平和会館を初めて訪れた。まあホントは、もっと若い時に行かなきゃいけない(自分は既に60歳を超えている)ところなんだろうけど・・・。

なぜ今、行くことにしたのか。自分的な流れの説明。年末に「ゴジラ-1.0(マイナスワン)」を観た。映画の中に出てくる戦闘機「震電」の実物大模型が、福岡県の大刀洗平和記念館にあると聞いた。行ってみた。「震電」を見た。特攻に関する展示もあった。大刀洗には陸軍飛行学校があり、その分校が知覧にあったと知る。そうか知覧か。という流れで、とにかく一回行っておこうと決心し、実行した次第。

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鹿児島中央駅から路線バスで1時間半。思ったより、山の中にあるのだなあと感じた。休みの日でもあり、結構入場者多数である。メインの展示は特攻隊員1000名余りの写真、多数の遺書。飛行機の展示は、陸軍の「隼」が実物大模型、同じく「疾風」は復元された現存機体。ボロボロになった海軍の「零戦」もある。海中から引き揚げられた機体とのこと。実際の特攻では、九七式戦闘機など旧式機も多く使われたという。

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展示されている遺書の内容は、父上様母上様有難うございました。敵艦一撃必殺。概ねそういう感じのものが多数。まあ当然ですかね。

その中で、ちょっと他とは違う感じがするのは、上原良司の「遺書」。「自由主義者」の思想表明とでも言うべきもので、これは泣けた。いつだったか何かで、この話を聞いたなと思い出した。後で調べると、割と有名な遺書(「所感」と題されている)ということなので、上原さんの名前をちゃんと覚えておこうと思った。なぜか上原さんの遺書は、メインのフロアではなく、「戦史資料室」という別室に展示されていた。やはり他の大部分の遺書とは異質、あるいは別格ということなのだろうか。

特攻を考え出し実行した日本人。「国を守る」ためとはいえ、当時なぜそこまで極端なことができたのか、根本的に理解するのは怖ろしく困難であると感じる。

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