2024年4月21日 (日)

石垣原古戦場

1600年(慶長五年)9月13日に黒田・細川軍と大友軍が戦った「石垣原の戦い」。「九州の関ヶ原」とも言われる(関ヶ原本戦は9月15日)。

石垣原って、別府にあるのか。「石垣原の戦い」って、「別府の戦い」だったんだな、知らなかった。(苦笑)

ということで先日、別府を訪れた。目的は温泉ではなく、古戦場。(苦笑)

今は市街地となっている戦場の広い範囲に散らばっている陣跡を見て回る・・・程の気持ちは無い(苦笑)ので、とりあえず黒田・細川軍の陣地である実相寺山を訪ねておくことにした。別府駅(西口)からバスに10分程乗り、「光の園前」下車。そのまま前進して15分程歩くと、ゴルフ場入り口の看板があるので、そこを入って山頂へ。下の写真は、山頂からの古戦場の眺め。向かいの左手の山の麓辺りに、大友軍の陣地があったという。

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戦いはまず、黒田・細川軍が大友軍の陣地前まで攻め込んだが、大友軍が反撃して逆に実相寺山の陣地まで押し返した。黒田・細川軍は追加の兵力を投入する大激戦の結果、黒田・細川軍が大友軍を破り、戦いは決着した。

ところで実相寺山の山頂には大きな仏舎利塔がある。広島、熊本でも、山の上に同じような塔があるのを新幹線の中から見たことがあるので、「あれは何」という感じだったが、ある宗教団体のものらしい。まあ良いとも悪いとも何とも言えないんですがね。

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2024年4月20日 (土)

杵築の城下町

3月の春分の日前後に初めて大分県に行き、岡城、中津城、昭和の町を見て回ったが、もう少し見ておきたい所が出てきたので、先日大分を再訪。

杵築は「坂の城下町」として知られている所。というか自分は知らなかったわけだが(苦笑)。武家屋敷や寺町、商人の町などのエリアがある。

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杵築城のエリアから、北台武家屋敷に通じる勘定場の坂。

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酢屋の坂。向かい側にある塩屋の坂から見た眺め。

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「きつき城下町資料館」付近から、杵築城(模擬天守)方面を見る。

1600年(慶長五年)当時の木付(現・杵築)は細川忠興の領地であり、細川家の重臣松井康之と有吉立行が城を守っていた。「関ヶ原」の争乱が始まると、旧領の回復を目指す大友義統が西軍側として9月10日、東軍側である細川氏の木付城を攻めたが直ぐに撤退。細川は黒田からの援軍と共に9月13日、「石垣原の戦い」で大友軍を破った。

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2024年4月 1日 (月)

「幻の天守閣」現る(福岡城)

先週末、福岡城に行った。今は「舞鶴公園」ということだが、結構広い城跡で立派な石垣が残っている。見ると天守台の上に、足場やパイプで組み立てられたと思われる天守型の構築物が。何でも5月31日までの予定で夜の6時から10時、「幻の天守閣ライトアップ」を行っているという。期間限定のイベント用「あやしい天守閣」が出現したという感じ。

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福岡城「幻の天守閣」(天守台南側からの眺め)

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「福岡城さくらまつり」も開催中。(天守台北側からの眺め)

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城の西側にある下之橋御門と櫓。

そもそも、福岡城には天守閣(大天守)は無かった、とされていたが、大天守はあったとする説も最近出ているとのこと。大天守の有無を巡る説は、概ね以下の4つに分けられる。(『九州の名城を歩く・福岡編』、吉川弘文館発行)

①建設された大天守が何らかの事情によって取り壊された。
②当初から大天守は存在しなかった。
③大天守の建造計画はあったが実行されなかった。
④建築の途中で取り壊された。

ということで、大天守があったとしても、ごく短い期間だったようだ。それにしても「幻の天守閣」イベントからは、イメージだけでも天守閣を「再現」したいという、日本人の城に対する思い入れを感じられるな。

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2024年3月23日 (土)

中津城に行く

先日、中津城(大分県)を訪ねた。黒田官兵衛が築城に着手、細川氏が整備した城である。

コンクリート製の模擬天守と聞いていたので、あんまり期待してなかったのだが、見た目は黒板張りで結構雰囲気出ていた。それから石垣は、昔のままということで、ここはかなり見どころのある感じ。ロケーションも、城の側を流れる川を使ってすぐ海に出れる場所であり、瀬戸内海ルートによる上方までのアクセスを確保していたということで、さすが黒田官兵衛、目の付け所が違う。

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「天守閣の外観は、萩城の天守の古写真をもとにデザインされた。下見板張りをつけたことによって古風な雰囲気を醸し出している。模擬天守だが完成度は高い。」(『あやしい天守閣ベスト100城+α』イカロス出版)

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城の北側の石垣には、斜めに区切られた境目の部分がある(上の写真、右下の石垣の辺り)。向かって右の部分が黒田時代の石垣、左が細川時代に後から自然石を積んだ石垣。黒田が加工石の積み上げなので、時代があべこべの感じがするのだが、黒田の石垣は、川の上流にある古代山城から運んできた石を使っているのだという。既に古代から、石を加工する技術はあったのだなと感心する。それからコンクリ天守閣は、本来建っていない場所に作られたため、石垣の境目部分の斜め方向とはチグハグな建て付けになっている。

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2024年3月22日 (金)

岡城に行く

春分の日の20日に九州の名城、岡城を訪ねた。前日に大分に入り、当日JRで豊後竹田(ぶんごたけた)駅へ。駅から徒歩30分というので何とか行けるだろうと、町中をてくてく歩く。町が途切れる辺りから坂道に。上りきったところで駐車場&入城受付所に着く。坂道の距離が比較的短かくて助かった。入城料300円を払って城山を上り、大手門跡から城内に入る。この数日間の陽気は冬に逆戻りしていて、当日の天気は概ね晴れではあったが、風が強いし冷たい。そんな中で、石垣のひしめく広大な城跡を歩き回る。阿蘇山がよく見えるスポットもある。山城に行くといつも思うのだが、こんな高いところにどうやって石垣積み上げたのだろうか。何か人間ってすごい。

以前は、岡城って石垣凄いらしいけど、何か遠い所にあるなーとか思って、余り行こうという気にならなかった。それが今回行くきっかけになったのは、今年の2月から日経新聞で連載が始まった、岡城主中川久清を主人公とする小説(「登山大名」、諸田玲子・作)。岡城のことが小説になるとは意外だったし、おかげで「とにかく一回行っとくか」という気持ちにもなった。それにしても関連史料が多いとも思えないのに、それでお話を作ってしまう小説家ってすごい。

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岡城の主郭部分。向かい側の屋敷跡の曲輪から見た眺め。建物は休憩所。

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三の丸の高石垣。

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三の丸跡から見る本丸の石垣。

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一番東の端にある下原門(しもばるもん)跡の石垣。

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2024年3月 4日 (月)

柳川城跡

先日、福岡県の柳川を訪れた。「水郷柳川」の風景を見て、立花家史料館で戦国武将の立花宗茂について学び、鰻せいろを食べ、柳川城跡を見る、という旅。柳川城は明治の初めに焼失。今は柳城中学校に近接する公園の形で、僅かに石垣が残っている。

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2024年2月26日 (月)

知覧特攻平和会館

先週23日の祝日、鹿児島県にある知覧特攻平和会館を初めて訪れた。まあホントは、もっと若い時に行かなきゃいけない(自分は既に60歳を超えている)ところなんだろうけど・・・。

なぜ今、行くことにしたのか。自分的な流れの説明。年末に「ゴジラ-1.0(マイナスワン)」を観た。映画の中に出てくる戦闘機「震電」の実物大模型が、福岡県の大刀洗平和記念館にあると聞いた。行ってみた。「震電」を見た。特攻に関する展示もあった。大刀洗には陸軍飛行学校があり、その分校が知覧にあったと知る。そうか知覧か。という流れで、とにかく一回行っておこうと決心し、実行した次第。

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鹿児島中央駅から路線バスで1時間半。思ったより、山の中にあるのだなあと感じた。休みの日でもあり、結構入場者多数である。メインの展示は特攻隊員1000名余りの写真、多数の遺書。飛行機の展示は、陸軍の「隼」が実物大模型、同じく「疾風」は復元された現存機体。ボロボロになった海軍の「零戦」もある。海中から引き揚げられた機体とのこと。実際の特攻では、九七式戦闘機など旧式機も多く使われたという。

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展示されている遺書の内容は、父上様母上様有難うございました。敵艦一撃必殺。概ねそういう感じのものが多数。まあ当然ですかね。

その中で、ちょっと他とは違う感じがするのは、上原良司の「遺書」。「自由主義者」の思想表明とでも言うべきもので、これは泣けた。いつだったか何かで、この話を聞いたなと思い出した。後で調べると、割と有名な遺書(「所感」と題されている)ということなので、上原さんの名前をちゃんと覚えておこうと思った。なぜか上原さんの遺書は、メインのフロアではなく、「戦史資料室」という別室に展示されていた。やはり他の大部分の遺書とは異質、あるいは別格ということなのだろうか。

特攻を考え出し実行した日本人。「国を守る」ためとはいえ、当時なぜそこまで極端なことができたのか、根本的に理解するのは怖ろしく困難であると感じる。

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2024年2月12日 (月)

坂本城跡現地説明会に行く

滋賀県大津市の坂本城跡で石垣が新たに発見されて、去る10日11日、土日の2日間、現地説明会が開かれた。ニュースを見てしまった以上、行かねばならぬと心に決めて、自分も10日朝、名古屋から出陣した。

説明会参加には入場整理券が必要で、当日はJR比叡山坂本駅前の公園で午前11時から配布開始。こういうのって、どれくらい人が来るのか見当も付かなくて、30分前位でいいかな、1時間前に行って待つのもキツイかなとか思いつつ、10時15分位に現地に着いたら、さほど大きくもない公園は既に人でいっぱい。行列の長さは公園を二周して、さらに公園の外にはみ出して伸びる事態に。11時の配布開始から、配るだけでさらに時間がかかり、ようやく12時頃に整理券ゲット。当日の説明会は12時30分、13時45分、15時丁度の3回で、自分は2回目に入れた。一回の定員はその場で増員された模様だが、自分の到着時には、既に150~200人以上が並んでいたことになる。恐るべし、お城ファン、戦国ファン。

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上の写真は、坂本石積みの郷公園で整理券配布を待つ人たちの行列。
下の写真は発掘現場。石垣と堀、遺構の一部。

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発掘現場は、駅から南に20分程歩いた、住宅地の只中にある。何でも、宅地造成に係る調査で発見されたとか。今回石垣と堀が見つかったほか、礎石建物、瓦も出土していることから、城郭の一部と考えてよいとのこと。すなわち、坂本城の遺構であり、「三の丸」の一部ではないかという。

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説明する大津市文化財保護課担当者(右端の人)。石垣発見を伝えるテレビニュースの中で「(今回の発見は)正直やべえなと思いました」との発言が流れて、後で言葉使いを上司に叱られたらしいです。(笑)

(追記)2月20日に、大津市長が史跡として保存する方針を明らかにした。なんと迅速な決定であろうか。開発業者も保存のため工事中止を決めたという。みんなで残そう大事な石垣。

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2023年12月17日 (日)

黒田長興(秋月藩初代藩主)

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先日、秋月城下町(福岡県朝倉市)を訪れた際、当地にある秋月博物館で「藩祖黒田長興」展を見学した。黒田長興は、黒田長政の三男。黒田孝高(官兵衛)の孫である。以下、展覧会図録の解説文からメモする。

元和九年(1623)、戦国時代を駆け抜けた福岡藩初代藩主黒田長政が没する。生前、言動や素行に問題があった嫡男忠之の将来を案じた長政は、優秀の誉れが高い三男の長興に跡を託したいと考えるが、家老達の反対に合い断念した。

しかし、長興の才を惜しんだ長政は、死に際して秋月を含む下座郡、夜須郡、嘉麻郡の内五万石を与え、福岡藩支藩とすることを遺言する。元和九年(1623)、この遺言に基づき、秋月藩が成立した。

長興は、幕府から独立した藩として認めてもらうために、将軍拝謁を目論んだ。長興を家臣として遇し、福岡藩の一部としたい忠之から妨害を受けたが、寛永三年(1626)に前将軍の台徳院(秀忠)に拝謁し、朝廷から従五位下甲斐守に任じられる。その後も江戸幕府に忠勤を尽くし、寛永十一年(1634)に本領安堵の朱印状を得て、独立藩としての地位を固めた。

寛永十四年(1637)10月、島原・天草一揆(島原の乱)勃発。翌年1月、一揆軍が立て籠る原城攻撃のため、秋月藩は福岡藩と共に出陣。2月の幕府軍総攻撃で秋月藩も奮戦、原城を攻め落とした。

大坂城や江戸城天守台の普請、朝鮮通信使饗応、長崎警備など、幕府に貢献する働きを続けた長興は、寛文五年(1665)に数え年56歳で死去。

・・・福岡藩主となった早々、忠之は家老と対立し、お家騒動に発展。長政の遺言により、長興を藩主とする秋月藩が作られたのも、長政の先を見通す力の現れだったのだろう。

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2023年12月16日 (土)

秋月城下町

先日、秋月城下町(福岡県朝倉市)を訪れた。博多からJRで基山へ、そこから甘木鉄道に乗り換えて終点の甘木まで乗り、甘木駅からはバスを使って20分くらい。博多駅から、所要時間1時間半程で当地に着く。

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上の写真は黒門(県指定有形文化財)、紅葉は殆ど落ちちゃってました。(12月9日撮影、以下同じ)
下の写真は順に旧田代家住宅(市指定有形文化財)、石田家住宅(県指定有形文化財)、町並みの眺め。国の重要伝統的建造物群保存地区だそうだが、電線地中化を実行してもらいたいね。

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