2021年4月11日 (日)

今城、久々利城、美濃金山城

昨日10日、旅行社のツアーを利用して、名古屋から日帰りで岐阜県可児市の山城巡りに出かけた。可児は2019年の山城サミット大会開催地。山城の調査研究や整備に熱心に取り組んでいる。今回のツアーで回ったのは今、久々利、美濃金山、あとオマケ的に明智(長山)を加えた4城。城郭研究者の加藤理文氏が同行。やっぱり解説付きは有難いです。写真はまず今城(本丸の土塁)。

Photo_20210411162401

今城は、もともと地元豪族の小池氏が築いた城だったが、美濃金山城の城主となった森氏が改修を施して支城にしたと考えられている。全体はごく小規模ながら桝形虎口、切岸、土塁等を備えて、戦国の城の基本的なパーツは揃っている、まさに戦国山城の入門的なお城。次の写真は久々利城。

Photo_20210411162402

久々利氏は土岐氏の一族ながら詳細は不明。写真の右上に見えるのが本丸だが、本丸の向こうのさらに高い場所に小さい曲輪がある。地形上の都合らしいが、本丸が一番高い場所に無いことが、この城の特長。次の写真は美濃金山城。

Photo_20210411162501

美濃金山城を最初に築いた斎藤大納言妙春は、久々利氏に暗殺された。その後1565年、織田信長の家臣、森可成が城主に。以後長可、乱丸、忠政が城主になったが、1601年頃城は破却された。城内には石垣破壊の跡があちこちに残る。それはそれで廃墟感が増して味わい深い。

最後は明智城(市指定史跡名称「長山城」)に行きましたが、ここは戦うための城ではないらしいので、他の3城に比べれば見どころは乏しいです。

|

2021年3月27日 (土)

鳥羽城に行く

今日は、鳥羽城を訪ねた。亀山、津、松坂、伊勢上野そして鳥羽、これで三重県5城巡り(スタンプラリー)は完結。

鳥羽は5城の中で、名古屋から一番遠方だと思われるが、電車(JR利用)だと一本で行けるので、行き方としては簡単。名古屋から快速電車に2時間乗れば終点の鳥羽駅。お城は駅から10分程歩いたところにある。

築城主は九鬼嘉隆。戦国時代、織田信長や豊臣秀吉の下で嘉隆率いる九鬼水軍は大活躍、その名を轟かせた。鳥羽城も当時は四方を海に囲まれた「海城」だったと伝わる。
写真は上から三の丸広場、本丸石垣、本丸からの眺め。お城の向かいには鳥羽水族館がある。奥に見える島は、手前がミキモト真珠島、中央が答志島。

Photo_20210409210401
Photo_20210409210501
Photo_20210409210601

関ヶ原の戦いでは嘉隆は西軍、息子の守隆は東軍と、父子が敵味方に分かれ鳥羽城を巡って戦った。関ヶ原本戦の結果は西軍敗北となり、嘉隆は答志島に逃れる。守隆は父の助命を訴えて認められたが、その知らせが伝わる前に嘉隆は自害した。享年59歳。

|

2021年3月14日 (日)

伊賀上野城に行く

今日は、三重県5城巡りの第2回目を実行。最初に松坂、津、亀山の3城を一日で回った後に続く、4つめの目的地として、伊賀上野城を選んだ。

自分は基本、電車利用の旅なのだが、伊賀上野城は最寄りの駅まで何度か乗り換えが必要なので、先に考えておかないといけない。ということで選択したルートは、行きはJRで名古屋から亀山、亀山から伊賀上野、そこから伊賀鉄道で伊賀上野から上野市駅。乗り換えはあるが、とにかく駅まで来れば、お城は駅前にあるので容易にたどり着ける。帰りは伊賀鉄道で上野市から伊賀神戸、そこから近鉄で伊賀神戸から伊勢中川、伊勢中川から名古屋に至るというコース。

伊賀上野城は慶長13年(1608)、藤堂高虎が城主となって大拡張工事を実施。本丸を高さ30メートルの「超」高石垣で囲んだ。一方、当時の天守は工事中に暴風雨で倒壊。その後長らく天守は築かれなかったが、昭和10年(1935)に地元の名士が私財を投じて新たに建てられたとのこと。

Photo_20210314213601
Photo_20210314213602

ところで伊賀は言うまでもなく忍者の里ですが、個人的にはあんまり興味がないので、今回は関係施設はスルーでした。

|

2021年2月28日 (日)

織田信孝の菩提寺 in 関宿

先日、三重県にある関宿に行ったら、当地に織田信孝(信長の三男)の菩提寺があるのを見つけて「へぇ~」って感じだった。
(写真上が関宿風景、下が織田信孝のお墓)

Photo_20210227214901
Photo_20210227202601

お寺の名前は福蔵寺。説明板によると、このお墓は400年忌の際に建てられたもの。歴史上の人物だけど、お墓は新しいということで。
同じ説明板によると、福蔵寺はもともとは信孝が父信長の冥福を祈るために建て始めたお寺。ところが信孝が信長の死後一年もしないうちに死んだため、信孝自身の菩提寺になってしまったという、何だか戦国の世の無常を感じる顛末。

天正10年(1582)6月2日、本能寺の変勃発時、信孝は四国攻めの軍勢の大将として堺にいた。ところが変の知らせを受けて兵は四散。中国から取って返した羽柴秀吉の軍に合流して、信孝は父の仇である明智光秀を滅ぼしたものの、やがて秀吉は信雄(信長の二男)と連携。信孝は柴田勝家に付くが、翌年4月賤ケ岳の戦いで勝家は敗北。信孝は捕らえられ、岐阜から尾張内海に送られる。そして5月2日、信雄の命により、大御堂寺において信孝は切腹。享年26歳。

|

2021年2月23日 (火)

明智光秀謀反の謎

今日の午後は、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」総集編を流し見していた。

明智光秀はなぜ謀反を起こしたのか。ドラマでは、織田信長と二人三脚で「大きな国」を作るため奮闘してきた光秀が、信長が横暴極まりない支配者になりつつあることに失望して、最終的に信長を無きものにすることを決意して本能寺の変を起こす――という描かれ方だった。
このストーリーは、ドラマの時代考証を担当する小和田哲男先生の「非道阻止説」に近いが、それほど説得的とはいえない。本当に信長が暴走気味の「非道」な振る舞いをしていたのならば、変の後、みなこぞって光秀に味方しただろう。

また、帰蝶の語る、斎藤道三と明智光秀が織田信長を作った、ならば作った者が始末をする、というセリフからは、イエズス会黒幕説の組み立て方に類似した印象も受ける。これは、当初信長を支援していたイエズス会が、コントロールできなくなった信長を光秀を使って滅ぼしたというトンデモ説ではあるが。
まあ何の説を取るにせよ、ドラマで光秀の謀反の理由を説得的に描くのは、そもそも難しいとは思う。ドラマを分かりやすくするためには謀反の動機を多かれ少なかれ単純化しなければならない。でもそうすると、謀反という一大事を決意する理由としては、いまひとつ弱いなあと感じてしまう。
まあそれもこれも、光秀本人の語った謀反の理由が残ってないから、どうしようもないけど。変の直後に人にあてた手紙の中では、「娘婿を取り立てるためにやった」とか「信長父子の非道は天下のためにならない」とか書いてるわけだが、それも人を味方に付けるために言ってるのだから、とても本音とは思えない。
結局根拠となる史料が乏しい中では、野望説も怨恨説も推測や憶測に近くなるし、様々な黒幕説も検証が一巡。最近は新史料発見から四国攻めとの関連が改めて注目されているが、それも決定的とはいえない状況。

思い出せば昔のこと、漫画日本の歴史(カゴ直利の画)で光秀の最期を見て、子供心に暗い驚きを覚えた。やがて、本能寺の変の原因が分からないと死んでも死にきれないと思うようになった。しかし年月が経ってみると、やっぱり分からない、分からないまま死ぬなあという感じになってきた。最近では、織田権力内部の動きに関連付けた説明にリアリティを感じてはいるけど、まあ状況証拠の積み重ねと合理的な推測により、謀反の動機を朧気ながら掴むというところで満足しなきゃならんかな、という感じである。

|

2021年1月11日 (月)

織田政権と本能寺の変

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」は来月の2月7日が最終回。だからだろう、雑誌『歴史街道』と『歴史道』の最新号は、いずれも「本能寺の変」を特集。本能寺の変を、天下統一の最終段階における織田政権内の重臣間の派閥抗争の帰結とみるのは藤田達生・三重大学教授。以下に『歴史道』掲載の論考からメモする。

天正十年の毛利氏や長宗我部氏との戦争の後、信長の領国を拡大するため、宿老層は最前線の遠国へと国替が命じられる可能性が高かった。これに対して、嫡男織田信忠以下の一門衆は畿内近国で城主となっていたが、さらに加増などを受けて政権運営上も重要な役割を期待されることになっていたとみられる。

ここで重要なのが、近習である。信長の薫陶を受けた若い俊英たちは、年齢に見合わないほどの重職を果たすようになった。
従来のように、光秀ら宿老層を使って重要政策を執行するのか、経験を積みつつあった若い一門・近習を中心とする専制的かつ集権的な国家を創出するのか、政権を分裂させかねない対立があった。天下統一を目前に控えた時期、信長は専制化と政権中枢の世代交代を進めるべく、後者に大きく舵を切ろうとしていた。
筆頭宿老的立場の光秀は、畿内近国支配をめぐり一門・近習たちとライバルの関係にあった。しかも、信長の専制化によって最も被害をこうむる立場にあり、将来に希望をもてなくなったしまったといってよい。

信長の中国・四国攻撃の後に光秀に国替が待っていたことも、本能寺の変の重要な前提だった。信用度の低い史料ではあるが、『明智軍記』には中国出兵に際して、光秀が信長から出雲・石見への国替を命ぜられたと記す。

・・・この織田権力論の中に本能寺の変を位置づける見方は非常に興味深い。光秀の謀反の動機は、政権の外部からは窺い知れないということ。だからこそ怨恨や野望など、分かりやすい理由が面白おかしく語られたのだと思われる。

ただ藤田先生は足利義昭の関与に固執している。四国を巡る主導権争いにおける羽柴秀吉・三好康長VS明智光秀・長宗我部元親の構図、そこに足利義昭が光秀に働きかけて、元親も含めた三者が奇跡的に結びつき、未曽有のクーデターが実現したという。しかし、光秀と義昭を無理に結びつける必要があるとは思えない。織田権力の内部闘争だけでも、光秀謀反の動機を充分説明できる印象だ。

強敵の武田氏を滅亡させた後、織田権力は新たな段階に移行する過渡期、不安定な時期にあった。信長が息子たちに権力を譲り、一門で畿内を押さえようと考えるのは自然だし、となれば光秀が領地召し上げの憂き目に遭う可能性は高かったといえる。変の数年前には、宿老の佐久間信盛らが追放されている。お役御免となれば、畿内から遠国に国替えになるかもしれないと、光秀の心中はモヤモヤしていただろう。そこに突如として訪れた絶好のチャンス。信長信忠親子が殆ど無防備で京都にいる。織田軍団の司令官たちは各方面の前線で敵と戦っている。まさに今、自分が信長の生殺与奪の権を握っている。こんな機会は二度とない。光秀は考える。この先信長がいるのといないのとでは、どっちが自身と明智家にとって得か。あるいはリスクが小さいか。答えを出した光秀の軍勢の向かう先は京都、本能寺だった。ということではないだろうか。

|

2021年1月 5日 (火)

明智光秀は本能寺から離れて待機

織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変。1582年に起きた日本史上最大の謀反だが、映画やドラマでは光秀自身が本能寺襲撃を指揮する場面があったりする。しかしそれが史実というわけではなく、新たな史料研究によれば、光秀本隊は京都郊外で待機していたらしい。本日付日経新聞社会面記事からメモする。

金沢市に現存する古文書に、光秀は本能寺から8キロ離れた鳥羽(京都市南部)に控えていたとの家臣の証言があることが、富山市郷土博物館の萩原大輔主査学芸員(日本中世史)の調査で4日までに判明した。

萩原主査学芸員によると、古文書は金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵の「乙夜之書物」。加賀藩の兵学者関屋政春が、本能寺の変から87年後の江戸時代に記した。本能寺を襲った光秀軍を率いたとされる斎藤利三の三男で、自らも従軍した利宗が、加賀藩士のおいに語った証言として「光秀ハ鳥羽ニヒカエタリ」と記されていた。

古文書には光秀軍の兵士たちが京都市の桂川の河原で夜中に休憩を取っていた際に、本能寺へ向かうことを初めて告げられたことや、襲撃された信長が乱れ髪で白い帷子を着て光秀軍を迎え撃った様子の記述もあった。

萩原主査学芸員は「事件に参加し重要情報に触れる立場の人物の話で、後世の加筆の跡も見られないため、信頼性は高いと考えられる」と指摘。本能寺にいた信長側の家臣は数が少なく、光秀の本隊が出向く必要はなかったと分析した。研究をまとめた論文を近く発表する。

・・・これまでも、明智軍1万3000の全軍が京都の町中に展開できるはずもなく、本能寺を囲んだのは斎藤利三率いる兵力3000程度の攻撃実行部隊との合理的な推測はあった。ので、その推測を裏付ける可能性のある史料の記述が見いだされたことになる。

|

2020年12月20日 (日)

関ヶ原の西軍、幻の決戦計画

昨日19日夜のNHKBSプレミアム「決戦!関ヶ原」は、最近見直しの動きが盛んな関ヶ原合戦について、いろいろ考えるネタを提供してくれる番組だった。副題に「空からのスクープ 幻の巨大山城」とあるように、航空レーザー測量という方法を使い、樹木を取り払った姿で地形そのものを写し取る「赤色立体地図」により、関ヶ原周辺にある山城の全体像を把握。その結果、西軍の幻の決戦計画が見えてきた、というのが番組内容の骨子。専門家は小和田哲男先生、千田嘉博先生、外岡慎一郎先生がスタジオ出演。

「幻の巨大山城」の名は玉城といい、関ヶ原の西に位置している。今回その全貌がCG再現されると共に、西軍総大将である毛利輝元、さらには天下人である豊臣秀頼を迎え入れるための城だったのではないか、という見方が千田先生から示されていた。

(この玉城は、自分が最近目にした出版物では『歴史REAL 関ヶ原』(洋泉社MOOK、2017年)の中で、「玉の城山」という名称で紹介されている。同誌には城の縄張り図も掲載されており、大津城攻めや丹後田辺城攻めの軍勢の合流など、西軍大集結を想定した陣城とされている)

番組では、決戦当日の西軍の布陣についても、西から順に、玉城に石田三成が入り、松尾山の麓で大谷吉継が小早川秀秋の裏切りに備え、さらに南宮山の毛利勢が関ヶ原入り口で東軍を牽制する配置を提示。しかし毛利が敵の大軍との衝突を回避したため、東軍はやすやすと中山道を西に進み、決戦当日の朝、まず最前線にいた大谷を攻め、間もなく小早川も裏切り、その後西軍は壊滅したという。

・・・のだが、もし玉城に西軍主力(石田、小西、宇喜多、島津)が入っていたとしたら、戦いが半日で終わることはなかっただろう。三成は三河尾張国境、岐阜、大垣と、いくつかの防衛ラインを想定して戦略を立てていたという。だから決戦前日に大垣城から関ヶ原方面へ移動したのも、あらかじめ防衛拠点として築いていた玉城を目指していたと考えてもおかしくはない。でも戦いが短時間で終わったことから見ると、結局のところ玉城に達する手前の山中地区で、東軍の急襲を受けて西軍は崩壊したというのが、番組を見終わった後の自分のとりあえずのイメージ。つまり玉城は築かれたものの使われなかった城、だから文献にも出てこない「幻の城」になってしまった。という「残念な城」、かな。

番組では、白峰旬先生もビデオ出演して、史料から西軍は山中地区にある玉城に上ったと解釈できるとコメントしていた。でもそうなると、白峰先生が自説の根拠としている島津家の覚書(合戦の回想録)と話が違ってくるんじゃないかなあと思ったりして、番組内容に意図的に寄せたコメントではないかと感じる。
また、小和田先生は笹尾山は石田陣と見てよいとコメント。立体地図に陣跡が見当たらないのは、急いで布陣したからだと述べていた。まあ小和田先生も新しくできた関ケ原古戦場記念館の館長だしなあ。従来ストーリーを簡単には否定できない立場からの、ポジショントークのようにも聞こえてしまう。(苦笑)

|

2020年11月 3日 (火)

宇土櫓、復旧まで長い道のり

11月1日日曜日、熊本城を訪ねた。テレビで千田嘉博先生が熊本城を案内する番組を見て、地震後の城内見学コースができていることを知り、行ってみようと思い立った。あと、宇土櫓が解体復旧の方針と聞いて、一度「見納め」しておこう、という気にもなった。

実際に行ってみると、かなりのダメージを受けていると思われる宇土櫓の姿がそこにあった。解体復旧も止むなしという感じである。

20201101

扉や窓が閉められていると、何だかお城が目を閉じて、眠りについているようにも見える。(子供みたいな感想)
以下に、熊本日日新聞の記事(2019年12月6日付)から一部を引用してみる。

本丸の西北側にある宇土櫓は、築城当時の姿を保っている貴重な建物で、国指定の重要文化財です。文化庁の「国指定重要文化財等データベース」には、「桃山時代初期の天守の様式を示している。」と、その価値が記されています。
明治10(1877)年の西南戦争や明治22(1889)年の地震も乗り越えた宇土櫓。平成28年熊本地震でも、倒壊を免れました。しかし、建物内部の損傷は大きく、1・2階のしっくい壁がひどく剥落、床が大きく傾き、2階の鉄骨製の補強材が1カ所たわむなどの被害が生じました。
宇土櫓は国の重要文化財なので、その価値を守るべく、丁寧に調査しながらじっくりと工事を進める計画になっています。

・・・宇土櫓の調査、解体復旧には10年以上、下手すりゃ20年近くかかるかも知れない。ので、再建された宇土櫓の姿を、還暦過ぎた自分がまた見ることができるのかどうか、自信が有るような無いような・・・。(苦笑)

|

2020年11月 2日 (月)

熊本城「特別公開」

11月1日日曜日に熊本城を訪ねた。4年半前の地震により相当な被害を受けた熊本城では、現在、地上から5~7ⅿの高さがある特別見学通路を設けて、城内の復旧の様子や被害の状況を見ることのできる「特別公開」を行っている。見学通路は、「飯田丸」から本丸の南側を通り、「本丸御殿」地下の通路を経て「天守閣」に至るコース。途中、巨大な石垣にさらに追加の石垣が重ねて築かれた、いわゆる「二様の石垣」も、ちょっとパノラマ的に眺められる。

Photo_20201103143101 

特別見学通路は毎日公開。この空中通路の「南ルート」のほか、「天守閣」と「宇土櫓」の側を通る「北ルート」もあり、こちらは日曜・祝日のみ通行可能。できれば日曜・祝日に行って、両方歩く方がよろしいですね。

|

より以前の記事一覧