2018年1月27日 (土)

福島正則が造った堀川

慶長14年(1609)、徳川家康が名古屋城築城を命令、その翌年2月に着工。ほぼ同時期の慶長15年6月、堀川の開削が始まる。城と町造りが一体化して進められたことがうかがえる。開削の責任者は福島正則。『地図と地形で楽しむ 名古屋歴史散歩』(都市研究会編、洋泉社歴史新書)から以下にメモ。
 
福島正則といえば、加藤清正と並ぶ豊臣秀吉子飼いの武将としてしられています。賤ヶ岳の戦いで「賤ヶ岳七本槍」とよばれる活躍を見せて出世し、文禄4年(1595)には尾張24万石で清須城主となっています。関ヶ原合戦では東軍につき先鋒をつとめ、広島藩約50万石の大大名となりました。史実では決して清正に優るとも劣らない英雄です。
 
かつての領地だった名古屋城の築城では、堀川の開削担当奉行(責任者)となりました。
堀川の別名は正則(左衛門太夫)にちなんで「太夫掘」と呼ばれたこともありましたが、清正人気におされて、段々とその功績は忘れられていきました。ようやく最近になって、堀川の産みの親として、正則も再評価される動きも出ています。今は堀川にかかる納屋橋の欄干に福島氏の家紋「中貫十文字」がひっそり刻まれているのです。
また、堀川の河口部にあった貯木場と堀川を結ぶ掘の一部(名古屋市熱田区)が「太夫掘」の名で残っています。
 
・・・秀吉とその軍団の武将は土木工事が得意、というイメージがあるなあ。でもなんで、正則と清正の知名度に大きな差がついてしまったんだろう。酒好きで人情に厚い、いかにも豪傑らしい福島正則。関ヶ原の戦功による大出世の後、豊臣氏の滅亡を見届け、最後は自らもお家取り潰しの憂き目にあう悲劇の人でもある。こんな正則さんに、歴史好きの関心がもっと向けられても良いように思う。

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2018年1月 7日 (日)

「関ヶ原」新説、BS番組で特集

6日のBS-TBS番組「諸説あり!」は「関ヶ原の戦いスペシャル」と題して、関ヶ原合戦(慶長5年9月15日)の新説を特集。戦国軍事史の専門家・乃至政彦氏をスタジオに迎えて、一次史料に基づく新研究をリードする白峰旬(別府大学教授)、高橋陽介(東海古城研究会)の両氏がビデオ出演。要点を以下に。
 
(1)主戦場は関ヶ原ではなかった。戦いは2時間で終わった。
関ヶ原の西、地名「山中」が主戦場。午前10時頃戦闘開始、正午には終了。
根拠①《合戦当時の書状》
慶長五年九月十五日付伊達政宗宛徳川家康書状、慶長五年九月十七日付毛利輝元宛吉川広家書状案などに「山中」の記載がある。
根拠②《古戦場の発掘調査》
昭和50年代に「開戦地」付近を調査。陣地などの遺構は見つからなかった。
根拠③《布陣図(「日本戦史」明治26年参謀本部作成)の信憑性は低い》
 
白峰氏は、「島津家家臣史料(神戸五兵衛覚書)」を中心に合戦を再構成している。当日の早朝、西軍の大谷吉継の兵は関ヶ原の最前線に進出していたが、東軍と小早川秀秋軍に挟撃されて全滅。続いて10時頃から山中地区の西軍と、東軍の戦闘が始まる。東軍の猛攻を受けて、西軍は短時間で総崩れとなった。
 
(2)石田三成陣は笹尾山ではなかった。
根拠①《笹尾山である信憑性は低い》
一次史料に記載がない。笹尾山に陣地の遺構は見つからない。
根拠②《東軍武将・生駒利豊の書状(戦況報告)》
戦いの場は「たうげ」(とうげ)との記載。関ヶ原の西に「藤下」(とうげ)の地名がある。
根拠③《東軍武将・戸田氏鉄の回想録》
石田三成は「自害が岡」に布陣したとの記述がある。これは現在の藤下地区にある自害峰という場所であると推定される(壬申の乱で自害した大友皇子の首が埋められた場所だという)。現地に赴いた高橋氏は、陣地の遺構(削平、切岸、土塁、堀切など)を確認。なお高橋氏は、西軍が大垣城から山中・藤下に陣替えした理由は、松尾山の小早川軍を攻撃するためだと主張している。
 
(3)徳川家康陣は桃配山ではなかった。
一次史料に記載された、関ヶ原に進出した東軍勢の中に、徳川軍武将の名前は見当たらない。上記吉川広家書状案には、「南宮山に備えたのは井伊直政・本多忠勝・家康馬廻り」、「東軍の先陣が出陣しその場所に家康が入った」との記述がある。この「家康が入った」場所とは美濃赤坂。西軍の籠もる大垣城の北に位置する。白峰氏によれば、家康の狙いは大垣城攻略だった。一方、大垣城の西にある南宮山には、西軍の毛利勢1万5千が布陣。しかし家康本隊3万の大軍が美濃赤坂に入ると、毛利軍の吉川広家は急遽、東軍と不戦の密約を結んだ。実質的に降参したものと見られる。関ヶ原合戦の前日のことだった。
 
・・・白峰氏と高橋氏の考える合戦の姿に違いはあるものの、いずれにしても従来の通説的ストーリーとは全く異なる姿が提示されている。一次史料中心にどこまで合戦の真の姿に迫れるか、さらなる研究の進展を期待したい。
 
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2017年12月31日 (日)

存在感高まる「中世都市」

29日付日経新聞の「私見卓見」コラム(グローバル化で復権する中世都市)からメモする。筆者は今年、『ポピュリズムとは何か』(中公新書)が話題になった、水島治郎・千葉大学教授。

ルターが始めた宗教改革はカトリック教会という普遍的な権威を失墜させ、それぞれの領土の中で国家が絶対的な権限を独占する主権国家が主役を張る近代への道を開いた。

2017年は国民国家の礎を築いた宗教改革から500年の節目だったが、逆に国民国家モデルの揺らぎが目に付いた。このモデルの本家といえる欧州では、スペイン・カタルーニャ州の分離独立問題をはじめ、地方による自立の動きが活発だ。10月にはイタリアの北部2州で自治権拡大を求める住民投票が行われ、スコットランドでも独立問題が再燃している。偶然の一致ではない。
注目すべきはいずれも中世以来の有力都市が中心になっている点だ。伊ロンバルディア州はミラノ、ベネト州はベネチアを抱える。近年、分権派が躍進するベルギー北部フランドルも、アントワープなどの自立した都市が欧州広域の経済圏を掌握して発展した。

中世の都市復活の背景にあるのはグローバル化だ。国家が独占管理してきたヒト、モノ、カネが国家の枠を超えて動き始め、さらにインターネットの登場で情報も国境を越えるようになった。国家の枠が緩むことで、押さえこまれてきた都市のアイデンティティーが再び頭をもたげてきたとみるべきだろう。

EUは地域や都市を直接支援するなど、地域分権を推進してきた。地域と超国家体が国家をバイパスして結び付く姿は、教会や皇帝といった普遍的権威が自治都市と併存した中世と重なり、「新しい中世」ともいえる。

・・・コラムは、過去500年の国民国家モデルに捕われることなく、現代社会の変動に向き合う姿勢の大切さを示唆しているが、ルターの宗教改革開始から、ウェストファリア条約締結による主権国家体制確立まで130年間。現在が歴史の転換期であるとしても、新しい社会モデル――「新しい中世」の他にも、ポストモダンやポスト資本主義など呼び名は様々だが――の姿が見えるまでは、まだ相当時間がかかりそうだ。

ところで「中世都市」復権と、ポピュリズム台頭はどう絡むのかと考えてみると、グローバル化に適合する「中世都市」含む大都市VSグローバル化に抵抗する地方という図式になり、ポピュリズム(疑似ナショナリズム)は後者から強く現れているという感じかな。

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2017年10月31日 (火)

宗教改革の意義

今から500年前の1517年10月31日、ルターが「95箇条の提題」を世に問うた時から、中世ヨーロッパ世界を激動の中に投げ込む「宗教改革」運動が始まった。読売新聞10/26付記事「宗教改革500年 識者に聞く」からメモする。
 
ルターは宗教改革をしようと思ったわけではなく、カトリックのほころびを修復しようという意識が強かったのだと思う。
そして、聖書こそが権威だとする彼の主張は、教皇を頂点としたそれまでのピラミッド型の一元的な社会を壊した。一方で、聖書は読む人によって解釈が違い、宗派が分裂していくことにつながる。
分裂を繰り返すプロテスタントとは、ヨーロッパが初めて経験した多元化だ。宗教改革以降500年の歴史は、分裂し、争いを続けるグループ同士が、何とか共存していける作法を模索してきた歴史ともいえる。相互理解や他者理解を考える上で、そこから学べるものはあるはずだ。
プロテスタンティズムは近代社会の深層構造ともいえる。欧米の文化を無視して生きられない現代、我々が生きる近代の世界を理解するためにも、プロテスタンティズムを知ることは日本人にも大きな意味がある。(深井智朗・東洋英和女学院大教授
 
ルターは「信仰のみ」「(神の)恩寵のみ」「聖書のみ」という三つの「のみ」を打ち出した。それ以前からあったカトリック教会では「信仰と行為」「信仰と理性」「恩寵と自由意志」「聖書と教会の伝統」のそれぞれを重視し、バランスを取っていくのが正統的だった。その意味で、ルターは一方を極端に強調したといえる。
一連の宗教改革で、結果的に「個人が自分の良心に基づいて宗教を選択する」という、現代人にとっての基本条件が作られた。その意味で宗教改革は価値あることだった。
とはいえ、宗教改革以前に学ぶべきものは多く、批判するだけではもったいない。例えば中世は信仰と共に理性や哲学を重んじたが、「神と世界の関係をどう捉えるか」といったことを理性的に考えていくと、イスラム教やユダヤ教とも同じ土俵が形成される。(自分が信じる宗教の)神のみ、聖典のみでは、他宗教と共通の土俵に立ちにくい。(山本芳久・東京大准教授
 
・・・宗教改革以前のヨーロッパにおいては、カトリック教会が社会体制と一体化していた。ルターの改革から生まれたプロテスタンティズムは、宗教を体制から切り離して、基本的に個人のものとした。現在もカトリック信者はキリスト教の最大多数勢力であるが、教会組織は国家社会体制の中の一部を占めるものでしかない。現状から見れば、ルターに始まる宗教改革は結局、世俗化社会における宗教の在り方を形成したということになる。

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2017年9月18日 (月)

関ヶ原合戦のリアル(その3)

関ヶ原合戦の布陣図というと、明治時代の陸軍参謀本部作成の資料図が利用されることが多い。しかし、その図に史料的根拠は全く無いという。白峰先生の想定では、石田方本隊は山中に密集した形で東向きに布陣。先に山中に着陣していた大谷隊は関ヶ原まで前進。また小早川隊は松尾山の麓に降りていた可能性がある。家康方主力も関ヶ原に進出、ついに決戦が始まる――雑誌『歴史群像』10月号、白峰旬先生寄稿「関ヶ原合戦の真実」からのメモを続ける。
 
伊達政宗書状には「15日未明、家康方軍勢は山中に布陣する石田方軍勢に対して無二に切りかかって押し崩し」とある。吉川広家自筆書状案でも「家康方軍勢が山中へ押し寄せて合戦に及び、即時に討ち果たした」とあり、近衛前久も「家康方軍勢が即時に切りかかって大勝利であった」と記している。通説と異なり、石田方本隊が開戦から短時間で壊滅したことは間違いない。
 
石田方本隊の大垣からの転進と山中布陣の目的が、南宮山の毛利勢と連携して家康方を挟撃する態勢を取ることにあったとすれば、家康方主力が15日早朝に関ヶ原へ展開し、開戦となったことは想定外であり、不意を突かれた石田方は一方的に攻め込まれ、短時間で敗北してしまったのだろう。
また、小早川秀秋の裏切りのタイミングについても『16・7世紀イエズス会日本報告書』には、開戦と同時に行われたと明記されており、一進一退の攻防戦が秀秋の裏切りで一気に決したというのも後世の俗説なのである。
 
(合戦の概要)
9月15日早朝、家康方軍勢は関ヶ原にまで進出。福島正則・黒田長政の手組を先備とする家康方先手勢は山中の石田方本隊の前面に展開し、徳川本隊はその後方で大谷吉継隊と相対して布陣した。そして夜明けとともに、徳川本隊が攻撃を仕掛け、大谷隊は必死に応戦。だが、ほどなく、小早川秀秋隊が背後から突如として大谷隊を攻撃。大谷隊は殲滅され、吉継は戦死を遂げた。
そして、午前10時頃、家康方先手勢も山中の石田方本隊の宇喜多隊・石田隊に対して攻撃を開始する。2時間ほど経った昼12時頃までには宇喜多・石田両隊は追い崩され、ある程度密集して布陣していた石田方本隊の各備は、ドミノ倒しのように次々と各陣を突き崩されてしまう。
石田方本隊の先備は壊滅し、二番備の島津義弘勢は退却を決意。家康方先手勢の「猛勢の真中へ」攻めかかり、東側への突破を図る。義弘主従はからくも突破に成功し、残った家臣と共に、そのまま伊勢街道から撤退していった。
 
・・・このように可能な限り関ヶ原合戦の姿をリアルに描き直して提示されると、確かに今までの通説は単なるストーリーでしかないな、という感じになる。一次史料の制約の中で史実を復元するのも容易ではないと思われるけど、今後も白峰先生ほか専門家の方々のさらなる研究の進展を期待するばかりだ。
 

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2017年9月17日 (日)

関ヶ原合戦のリアル(その2)

石田方本隊は大垣城を出て関ヶ原へ向かう。しかし徳川3万の軍勢到着に怖じ気づいた毛利勢が、早々と家康に「降伏」していたことは、石田三成にとって大いなる誤算だった。雑誌『歴史群像』10月号、白峰旬先生寄稿「関ヶ原合戦の真実」からのメモを続ける。
 
一方、美濃口の石田方本隊、すなわち石田三成ら大垣籠城衆にとっても、すぐ北に現れた大軍は脅威であった。
14日の夜、戦況は大きく動き出した。石田方本隊が突如大垣城を出て「外曲輪」(そとぐるわ)を焼き払い、関ヶ原方面へ移動を開始したのである。
 
伊達政宗は石田方の転進について「大垣城への『助衆』(南宮山の毛利勢)に対して合戦を仕掛けるため、家康が14日に赤坂近辺へ陣を進めたところ、大垣城に籠城していた衆が夜陰に紛れて(大垣城を出て転進し)美濃の『山中』というところへ打ち返して陣取りをした」と家臣に説明している。
この「山中」とは関ヶ原盆地の南西、現在の岐阜県不破郡関ヶ原町山中一帯を指す地名である。
 
14日時点の家康の作戦は、福島正則・池田輝政らの家康方先手勢が大垣城の攻囲を続けつつ、家康自身(徳川本隊)が大垣城の後詰で来援した南宮山の毛利勢を撃破するというものである。その点を考慮して石田方の意図を考える必要がある。
山中に布陣した石田方本隊は、家康が南宮山の毛利勢に対して攻撃を仕掛ければ、その背後もしくは側面に回り込み、徳川勢を南宮山の毛利勢と挟撃するつもりだったのではないだろうか。
 
ところが、そこに予想外の事態が起きる。土壇場で吉川広家が家康に対して「降伏」に近い形で攻撃中止を取り付けたのである。当面、南宮山の毛利勢との戦闘を回避した家康は、大垣城の石田本隊が関ヶ原方面へ転進したという報に接すると、石田方本隊の捕捉・撃滅に作戦を変更、大垣城攻囲中の先手勢も含めた家康方主力を関ヶ原方面へ向かわせたのだ。南宮山の毛利勢がすでに家康方に「降伏」しているなど考えもしていない三成らにとって、家康方主力が関ヶ原に進出してきたのは想定外の事態であったに違いない。
 
・・・石田方が大垣城を出た理由は、通説では西進する気配を見せた家康方を関ヶ原で迎え撃つため。なのだが、白峰先生の説によれば、家康の南宮山(毛利)攻めに備えた動きということになる。

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2017年9月16日 (土)

関ヶ原合戦のリアル(その1)

主に軍記物をベースに組み立てられた関ヶ原合戦の「通説」に対して、一次史料による見直しを進めている白峰旬先生。雑誌『歴史群像』10月号への寄稿「関ヶ原合戦の真実」の中で、合戦の新たな姿を提示している。まず決戦当日(1600年9月15日)直前の、家康方と毛利勢の動きについてメモする。
 
東海道を西上していた家康率いる徳川本隊は9月11日に清須へ着陣した。
この時点での家康の具体的な作戦については、関ヶ原合戦後の9月26日頃に書かれたと推定される伊達政宗の書状に詳しい。このなかで政宗は、家康方の作戦について、「(石田方本隊が籠もる)大垣城への押さえに以前から岐阜表に陣取りをしている衆(福島正則・池田輝政など)を差し向け、南宮山の毛利勢は家康自身(徳川本隊)が討ち果たすつもりである」と述べている。
 
毛利勢の撃破という明確な意図の下、家康は美濃へ軍を進め、13日には岐阜へ、翌14日、すなわち決戦の前日には、大垣の北に位置する赤坂へ進出した。この家康の着陣が石田方に大きな動揺をもたらすことになる。
 
まずは毛利勢である。家康方先手勢に攻囲された大垣城の救援のため、ひとまず南宮山に布陣したが、家康率いる徳川の大軍の出現という想定外の危機に陥る。その兵力差は歴然で、正面から対戦するのは圧倒的に不利な状況であった。そのため、家康との決戦を回避しようと動いたのが吉川広家である。
 
通説では、かねてより家康方と内通していた広家が9月14日に起請文を提出して毛利勢の合戦不参加を申し入れ、15日の合戦では広家のサボタージュ行為により、毛利勢は参戦できなかったとされている。
しかし、実際のところ、広家が行ったのは南宮山の毛利勢への攻撃中止を求める工作に過ぎない。端的に言えば、家康直率の徳川本隊の攻撃を恐れて家康に「命乞い」をしたのであり、とても対等な立場で交渉したと言えるものではなかった。
 
・・・南宮山は大垣城の西、中山道の垂井の南に位置する。さらに垂井から西に進むと関ヶ原である。家康は自ら徳川の大軍3万を率いて、南宮山に布陣した毛利勢を攻める予定だった。この「家康の後詰決戦構想」は、白峰先生が上記寄稿で初めて示したとのことである。

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2017年9月10日 (日)

ルドルフ一世の志

ハプスブルク王朝の「始祖」として後世に記憶される、ドイツ王ルドルフ一世(1218-1291)だが、当人の意識としては、皇帝フリードリヒ二世(1194-1250)の後継者たらんとしていたという。『ハプスブルク帝国』(岩﨑周一・著、講談社現代新書)からメモする。
 
従来、ルードルフ一世のドイツ王としての活動に対する評価は低かった。しかし今日では、ルードルフがシュタウフェン朝、とりわけ皇帝フリードリヒ二世の後継者たることを自任し、帝国の再建に尽力したことが明らかにされている。
 
ルードルフ一世は、「巡幸王権」のスタイルを踏襲した。これは、特定の首都をおくことなく各地を王が移動し、諸侯・貴族・都市などの諸勢力と個別に関係を取り結びながら統治するもので、中世ヨーロッパ王権の基本的な統治スタイルである。ルードルフはこうして各地を巡り、権利関係を整理して「大空位時代」に失われた帝国領の回復に努め、王権を強化した。
 
ルードルフは歴代のドイツ王が葬られている大聖堂がそびえるシュパイアーで最期を迎えることを望み、シュタウフェン家のドイツ王フィリップの棺の隣に自身の棺を安置すること等を遺言した後、73歳でその生涯を閉じた。死を悟ってからのこの一連の行動は、ルードルフが正統なるシュタウフェン朝の後継者であることをいかに強く意識していたかをよく示している。
 
ルードルフは、かつてのシュタウフェン朝の地位にハプスブルク家を引き上げることこそが神意であると信じ、その生涯を送ったのであった。
 
・・・ルドルフのドイツ王選出の経緯については、フリードリヒ二世亡き後、皇帝の「大空位時代」が続いたドイツにおいて、選帝侯が自分たちの御しやすい皇帝として選んだ結果であると通説的に語られてきたのだが、その見方も修正されつつあるという。つまり、決して弱小貧乏伯ではなく、経歴と手腕から見て、充分王に相応しい人物として選ばれた、ということである。
またそれ以上に興味深く感じるのは、ハプスブルク王朝の始祖がフリードリヒ二世をリスペクトしていたという「つながり」である。おそらくルドルフにも、フリードリヒ二世は偉大な君主として強く記憶されていたのだろう。
 

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2017年8月28日 (月)

宗教改革と神聖ローマ帝国

1517年、ルターの「95箇条の提題」によるカトリック批判は、ルター自身の意図を大きく超えて、ローマ教皇及びドイツ皇帝VSドイツ諸領邦の政治闘争を顕在化させる結果をもたらした――『文藝春秋SPECIAL 世界近現代史入門』(2017秋号)掲載「ルターにも想定外だった宗教改革」(深井智朗・東洋英和女学院大学教授)から以下にメモする。
 
ルターは自らがプロテスタントだと言ったことはないし、プロテスタントという新しい宗派を立ち上げたと宣言したこともない。
ルターが考えていたことは、新しい宗派の立ち上げではなく、制度疲労を起こしている教会の救済システムの修理や立て直しであった。
 
ところがルターの発言は、彼の意図に反して、この時代の教会のみならず、神聖ローマ皇帝や帝国を構成する各領邦の領主たちを巻き込んだ大論争に発展した。その理由ははっきりしている。ルターが教皇も公会議も誤る可能性があると述べたからだ。
 
ルターは、教皇の権威を相対化してしまった。
教皇でないなら何が権威をもつのか。ルターは聖書だと言った。正確に言えばルターは教皇も公会議も誤るのであるから、教皇も含めみな聖書に基づいて判断しなければならないと主張した。それがいわゆる「聖書のみ」というルターの考えである。
 
この時代の神聖ローマ帝国は、帝国というよりは、300以上あったと言われている領邦や帝国自由都市の集合体であった。領主や自由都市は経済的な発展に伴い、皇帝や教皇に対して、自ら手にした経済力にふさわしい政治的権利も要求するようになり、皇帝の側では帝国維持のためにさまざまな譲歩を繰り返していた。
そのような中で領主や帝国自由都市は、従来は皇帝に属するはずの国の宗教の決定という問題を自らの権力のひとつと考えるようになった。そして、このままカトリックにとどまることと、ルターたちの改革を受け入れるのとどちらが自らの統治に資することになるかを、宗教的にではなく、政治的に判断し、決定した。
この時代、ルター派を選んだ領主たちは政治的にも経済的にもローマ教会の支配を脱したいと考えた。
 
・・・歴史上の人物と出来事との関連についてよく思うのは、例えば「宗教改革」であれば、ルターが登場したから世の中が変わったのか、それとも既に世の中が変わりつつあったからルターの考えが広く受け入れられたのか。あるいはルターがいなくても別の「ルター」が現れて世の中は変わったのか、というようなことである。ルターの100年前にはヤン・フスがいたことを思えば、人々の意識の変化、さらに活版印刷の発明という技術面も含めて、世の中の変化が進んでいたと考える方が良いのだろう。そしてルターの「宗教改革」以後ヨーロッパ中で宗教戦争が多発し、100年余り後にはドイツ三十年戦争を経てウェストファリア条約で「主権国家体制」が確立するという、この歴史の驚くべきマジックというか、目を瞠るダイナミズムには非常に興味深いものがある。

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2017年7月30日 (日)

山名宗全の「クーデター」

昨日29日、ベストセラー『応仁の乱』(中公新書)の著者、呉座勇一先生の講義を聴きに行った(於:京都駅前の「メルパルク京都」)。
 
呉座先生が応仁の乱に係わるテーマとして「足軽」の話をすると、余りウケないとか。で、多くの人の関心が向くのは「日野富子・悪女論」。応仁の乱が起きたのは、室町幕府八代将軍足利義政の妻である日野富子の振る舞いが大きく影響している、という見方は正しいのか。当日の話もこの辺が中心だった。
 
結論的に言えば、足利将軍の後継者問題と、有力守護大名の勢力争いを結びつけて応仁の乱の要因とする理解、つまり義視(義政の弟)を支援する細川勝元VS義尚(義政の子)の母である日野富子が頼った山名宗全という図式は、事実を映したものとは言い難いということだ。
 
まず以下のような事情がある。
足利義視の妻は日野富子の妹である。(富子と義視は義理の姉弟)
細川勝元の妻は山名宗全の養女である。(勝元と宗全は婿と舅の関係)
山名宗全は次期将軍候補である足利義視に早くから接近していた。
という状況から、各人の関係は悪いものではなく、将軍職の継承についても足利義政→義視→義尚の順番はほぼ既定路線として了解されていたという。
 
むしろ義尚の養育係である伊勢貞親(義政の側近)が、義視の排除を義政に働きかけて、これに山名宗全、細川勝元が強く反発。逆に貞親ら側近たちが失脚する事態となった(文正の政変)。政変後も足利義政は将軍職に止まり、これを細川勝元と管領の畠山政長が支える政権の形となったのだが、この細川派優位の体制に宗全は不満を感じていた。
 
そこで宗全は巻き返しを図る。文正元年(1466)年末から翌年正月にかけて、畠山政長のライバル畠山義就に上洛を呼びかけると共に、義政に働きかけて、畠山家の当主を政長から義就に、さらに管領も政長から斯波義廉(宗全の娘婿)に代えることに成功。政権の中枢を山名派で占める宗全の「クーデター」である。畠山政長は上御霊社に陣を敷き抵抗の姿勢を示したが、畠山義就軍に攻められて京都から撤退(御霊合戦)。
 
もちろん細川勝元も黙っていない。同じ年(1467)、改元後の応仁元年5月、細川派が反撃を開始して、以降10年以上に及ぶ戦乱が始まる。
 
というわけで、将軍後継「問題」は乱の主要因ではないし、日野富子がその中心にいたわけでもない、というお話。
 
呉座先生は8月は静岡、浜松、東京で話をする予定(いずれもカルチャーセンターの講座)。自分も浜松にまた話を聞きに行くつもり。別に呉座先生の追っかけをやってるわけではないが(苦笑)、とりあえず今年は「応仁の乱の年」だなと思って、この「ブーム」に付き合うって感じ。

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