2017年3月12日 (日)

応仁の乱は時代の転換点

新聞広告に「28万部」の文字。中公新書『応仁の乱』(呉座勇一・著)が、教養書としては破格の売れ行きだ。中央公論4月号(特集「歴史力で乱世を生き抜く」)掲載の対談記事から、呉座先生の発言の一部をメモする。
 
(応仁の乱を時代の転換点と見る理由として)最も大きいのは、応仁の乱を契機に、延々と続いてきた、京都を中心とした政治体制・政治秩序が崩壊したことです。いわゆる戦国大名が各地に出現し、地方の時代が始まる。戦国大名の乱立は、江戸時代に幕藩体制に再編成され、明治維新によって中央集権国家となるまで、地方自治的に社会が動いていく。その出発点が応仁の乱なのです。
 
応仁の乱が始まるまでは、細川、山名、畠山、斯波といった有力な守護大名たちの勢力均衡によって、一定の政治的な安定が実現していました。ところが、応仁の乱によって、それまでの勢力均衡が崩れ、新興勢力が擡頭する。これが、いわゆる戦国大名です。
 
守護大名は幕府の家来ですが、特に南北朝時代は南朝という幕府の不倶戴天の敵がいることによって、不満を持った大名が南朝と結び付いて叛乱を起こすことが続きます。そうさせないために、有力な守護大名たちを京都に集め、彼らが地方軍閥化することを防いだのです。
この体制がうまくいったのは1400年代初頭からの20~30年間です。京都に集められた守護大名は、合議によって各々の利害調整を行いました。
 
ところが、六代将軍足利義教がこの合議をやめてしまう。大名たちが全会一致で決めたことを将軍が覆すことができないため、将軍にとっては非常に邪魔な存在だったわけです。義教は問題が起きた時には、個別に大名に諮問を行いました。その結果、大名たちの横のつながりが断たれた。短期的には将軍優位の体制になりましたが、幕府が非常に不安定になった。その後、義教が暗殺されてしまうと、後はもう勢力均衡でやっていくしかない。その勢力均衡ですら崩れてしまった結果起きたのが、応仁の乱なのです。
 
・・・応仁の乱勃発(1467年)の背景を考えるためには、まず室町幕府の権力構造(教科書的にいう「守護大名の連合政権」)を再認識する必要がある。そして六代将軍足利義教の暗殺(嘉吉の変、1441年)以降、権力構造の求心力が低下していく推移の帰結として、応仁の乱が起きる。この結果、足利将軍と室町幕府の権威は地に落ちたことが誰の目にも明らかになった、ということなのだろう。

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2017年2月19日 (日)

『応仁の乱』に注目

中公新書『応仁の乱』(呉座勇一・著)が、販売部数10万部を超える注目の本に。同書は、先日発表された「新書大賞」(中央公論新社主催)でも、昨年発行の新書ランキング5位の評価を獲得している。毎日新聞サイト本日付発信記事(「不人気」応仁の乱、異例のヒット)から以下にメモ。
 
本書の読みどころは、広く知られた定説を覆すところにある。
まずはこれまでの説をおさらいしてみよう。銀閣寺(京都)を建てたことで知られる室町幕府八代将軍の足利義政が文化に力を入れるあまり政治に関心を示さなくなり、弟義視(よしみ)を後継者に決めた。しかし、「悪妻」とされる日野富子が、その後産んだ義尚(よしひさ)を後継ぎにしようと「ごり押し」したことで、それぞれの後見である細川勝元(東軍)と山名持豊(宗全、西軍)をはじめとする有力大名が争った――と伝えられることが多かった。
 
しかし、呉座さんは「日野富子の悪女説は(歴史上の合戦を題材にした文芸作品である)軍記物『応仁記』が起源です。近年の研究で虚構性が指摘され、歴史学界での富子への評価は、経済面から幕府を支えた存在に変わりつつある」と解説する。きちんとした史料には、富子が直接的に開戦に関与した形跡は見当たらず、義政も政治に無頓着なわけではなかったという。
開戦の直接的なきっかけは、有力大名だった畠山氏の家督争いだが、さまざまな思惑を持って多くの大名が戦乱に参加し、京都は焼け野原になってしまう。
1467年に始まった戦乱は1477年まで延々と続く。そして結局、勝者も敗者もはっきりしないままに終戦を迎えた。一言で言えば「ぐだぐだ」である。

売れ行きは好調だが、決して易しい本ではない。開戦26年前の六代将軍・義教(よしのり)暗殺(嘉吉の乱)など戦乱に至るまでの背景も丹念に描き、巻末の人名索引は約300人もの名前を掲載する。入り組んだ人間関係を過度に図式化することは避け、興福寺(奈良)の高僧が残した日記などを基に「同時進行ドキュメント」のような一冊にしたのは、呉座さんが「この先に何が起こるのか知るよしもない当時の人々の視点から、乱を描きたかった」ためだ。

・・・確かに、応仁の乱は「ぐだぐだ」ゆえによく分からない戦いだから「不人気」であるのだと思う。でもだからこそ知りたいという潜在的欲求があり、それに応えたのがこの本であるということなんだろう。でも店頭でぱらぱら見たけど、確かに簡単に読める本じゃないんだよね。ということで、自分はとりあえずもう少しやさしめな『戦国時代前夜 応仁の乱がすごくよくわかる本』(じっぴコンパクト新書)を買いました。(苦笑)

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2016年12月25日 (日)

16世紀という「画期」

歴史家のブローデルと社会学者のウォーラーステイン、二人の学説にとって16世紀は画期的な時代である。以下に『仕事に効く教養としての「世界史」Ⅱ』(出口治明・著、祥伝社)からメモ。
 
最初にブローデル。彼は歴史という大河を「長波」、「中波」、「短波」の三層構造で捉えました。歴史の表層に登場する個人やさまざまな出来事がありますが、これを「短波」と考えました。次にもう少しゆっくり変化していくもの、たとえば王朝の興亡や長期にわたる戦争、宗教の発展やイデオロギーがらみの紛争などを「中波」と呼びました。それらの「短波」や「中波」の深層にある人為的に変えることが難しいもの、自然環境や地理的条件や気候、さらには人間の日常生活を精神的に支えている死生観や人情のように非常にゆっくりした変化しか起こさないものを「長波」と呼びました。
 
ブローデルは、歴史は「中波」と「短波」が重なり合って、さまざまな変化を生み出すように見えるけれども、時代が大きく変化していくときには、その深層にある「長波」の動きがあることを忘れてはならないと指摘しています。
ブローデルはそのような歴史観に立って、大著『フェリペ二世時代の地中海と地中海世界』を執筆しました。
 
次に社会学者であるウォーラーステインは「世界システム」という、世界を一体的に捉える概念を提唱しました。
彼はまず、「世界帝国」と「世界経済」を区別します。世界帝国とは、たとえば地中海世界やイスラム世界のように、一定の領域内に言語の異なる複数民族が暮らしている地域的なまとまりのことです。
さらにウォーラーステインは、世界経済という概念を提唱し、以下のように定義しました。それは「資本主義によって結ばれている世界である」と。資本主義や世界経済と言いましたが、それは交易や分業を中心とする、経済的な結びつきによって成立している世界の意味です。
このような経済的関係によって構成される地域の結びつきを、ウォーラーステインは、世界システムと呼びました。世界システムは、世界を中央・半周辺・周辺と区分し、それらの分業体制によって世界が成立しているという概念であり、このような世界的な分業システムが、より強固になった16世紀以降をウォーラーステインは、「近代世界システム」と呼んでいます。
 
世界史を短波・中波・長波という3つの異なる時間軸の合成として見つめ直すこと。また世界は中央・半周辺・周辺という分業システムで動いていると一体的に捉えること。ブローデルとウォーラーステインがともに16世紀を中心に自らの学説を展開したのは、16世紀が時代を画する世紀であったからに他なりません。
 
・・・世界は激動している。というのが挨拶代わりのような現代。はたして16世紀と同様、歴史の転換期なのか。とはいえ「近代世界システム」に大きな揺らぎはないように見える。では「長波」の動きはどうか――といっても「長波」の動きなんか分からんよなあ。

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2016年12月24日 (土)

イエスとキリスト教の謎

仁義なきキリスト教史』(架神恭介・著、ちくま文庫)の各章に付された「解説」(第1章~第5章)から以下にメモする。
 
当時、民衆の間に流布していたのが黙示思想である。これはいずれ終末(天地異変や破局的な惨劇)が訪れ、メシア(キリスト)が現れて選ばれた者たちを救い、義(ただ)しい者が復活、「神の国」が実現する、というものであった。

イエスの師匠格である洗礼者ヨハネも終末思想を説く宗教家であったと思われる。無論、弟子のイエスも師の影響を受けたことであろう。

イエスが実際に何をしていたかというと、これははっきりしない。ほぼ唯一の資料である福音書は伝説と脚色にまみれており、そこから史実のイエス像を抽出することは難しい。ある程度、信憑性を持って言えることはイエスが病治(やまいなお)し活動をしていたということだ。
 
イエスが処刑された理由もよく分からない。
推測の域を出ないが、イエスが求心力を持っていたこと、それ自体が問題視されたのではないだろうか。ユダヤ人の王を僭称しローマに対し反乱を企てた扇動者として処刑されたのだろう。

イエスの死後、遺された彼の取り巻き――弟子たちは活動を継続した。なぜだか彼らは活動を続けたのである。如何なる心理が彼らにそうさせたのかは分からない。
 
イエスの死後、彼こそが待望していたメシア(キリスト)であったと考える一派が現れ、彼らがキリスト教と呼ばれるようになる。ユダヤ教との最大の違いは、ユダヤ教徒はイエスのことをキリストだと認めていない点にある。
 
もうじきキリストが現れ終末が訪れるというのは、当時の一般的な思想傾向であったし、そのキリストが死んだはずのイエスだというのも、奇矯なアイデアではあるがまだ理解できる。だが、イエスを神に類するものと見なし始めたのは理解に苦しむ現象である。
 
当たり前だが、キリスト教も当時は新興宗教である。よく分からないので根も葉もない噂が飛び交い、彼らは迫害を受ける。

キリスト教の迫害が終結したのはコンスタンティヌス帝の時代。313年のミラノ勅令にて公認されたのがターニングポイントと一般に理解されている。なぜコンスタンティヌスがキリスト教を公認したのか、明確な理由は分からない。
 
・・・392年にキリスト教はローマ帝国の国教となる。長い時間をかけて歴史的に形成されてきた宗教であるキリスト教。しかしそのプロセスは謎だらけ。ふしぎなふしぎなキリスト教である。
 

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2016年12月23日 (金)

「正統と異端」の謎

仁義なきキリスト教史』(架神恭介・著、ちくま文庫)は、キリスト教の歴史をやくざの抗争に見立てた小説風読み物。ケレン味たっぷりながら、各章に付された「解説」を読めば、相当な勉強の上に書かれていることが窺える。以下のメモは第5章「ローマ帝国に忍び寄るやくざの影」の「解説」より。
 
ニカイア公会議に関して簡単に解説すると、これはイエスのキャラ設定の問題である。アレイオスの主張によると、イエスはヤハウェにより一番最初に創造された被造物であった。一方、アレクサンドロスの主張では、イエスは創造されておらず最初からヤハウェと一緒にいたのである。アレイオスから見れば、アレクサンドロスの主張は神が二人いるようなものなので多神教になってしまうし、アレクサンドロスから見れば、アレイオスの主張ではイエスはただの「創られたもの」なのだから拝んではいけないことになってしまう。なので、彼らは自説を譲らず互いに争った。
 
我々部外者からすれば全くもってどうでもいい問題である。元々が意味不明なのだから当然正解も不正解もない。
 
だから、彼らはただどちらの理屈が面白いかで戦っているのである。
ニカイア公会議ではアレクサンドロス派が勝利したのであるが、所詮正解も不正解もない問題なので、皇帝が代替わりして支持する派閥が変わるごとに、あっちが正解になったりこっちが正解になったりする。キリスト教の言う正統、異端というのはこの程度の違いである。異端だから悪いとか間違っているとか、そういうものでもない。
 
・・・キリスト教には「三位一体」という特にワケの分からない教義があるけど、とにかく難解な説明の方が有り難みがあるというか、そんな程度の理由で「正統」が決まってるんじゃないかと、部外者は疑ってしまう。正統が正統である根拠は薄弱であるとすれば、だからこそ、正統派からの異端に対する弾圧は苛烈を極めたのではないか、という気がする。

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2016年8月28日 (日)

ワイマール的混沌

昨今は「解釈改憲」批判と絡めてドイツのワイマール共和国、ヒトラー登場の時代について語る向きもちらほら目に付くなか、たとえば「先進的な憲法と民主主義的な選挙から独裁者ヒトラーは生まれた」という見方は、いささか誇張された物言いではなかろうか。『デモクラシーは、仁義である』(岡田憲治・著、角川新書)からメモする。

アドルフ・ヒットラーは、第一次世界大戦後の混乱期にミュンヘンで無鉄砲な実力蜂起未遂事件を起こす危険人物とされました。しかし、その後国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)を再建し、選挙のたびに躍進と没落を繰り返しつつも、他の自由主義、保守主義政治家が「あんなキワモノは私どもが管理しますから大丈夫です」と高をくくってヒンデンブルク大統領に言ってしまったことや、社会民主党と共産党の左派勢力の内ゲバも手伝って、1933年1月には政権の座に就いてしまいました。
間髪を容れず授権法という「すべての権力をヒットラー個人に授ける」、民主政治を即死させる法律を本当にわずかな審議で可決させ、以後ドイツとヨーロッパを暗黒の世界へと導いていきます。

ヒットラーが全権を握り、地獄への道に轍をつけ始める直前に、ドイツは当時の世界ではもっとも先進的な憲法である、ワイマール憲法を持っていました。このドイツの憲法は「権力の制限」という立憲主義にくわえて、人権規定からもう一歩踏み込み、社会権すら盛り込んだものでした。
しかし、どれだけ立派な統治の設計図(憲法)があっても、「でもそんなの関係ねぇ!」と誰かが言って、それを放置するなら、絵に描いた餅です。

ヒットラーは政権についてすぐに「憲法を停止してあらゆる権限を行政に与える」という、ワイマール憲法のアキレス腱である「緊急事態条項」を多用します。ナチスやヒットラーに批判的だった言論人、政党人、政治家が2万5000人以上も牢獄に入れられたことも忘れてはなりません。そして、その力でついにあの「授権法」が作られます。

言い換えれば、ナチスの台頭を招いたのはもっぱらワイマール憲法「だったから」ではありません。その制度をきちんと運用して、立憲政治を命がけで守ろうとするエリートの危機感が足らず、最後までヒットラーとナチスを「キワモノ」扱いをしたという、民主政治の具体的「運営」だったということです。

・・・独裁者ヒトラーは、いわば「政局」の産物だった。ドイツの保守的エスタブリッシュメント層が、台頭するナチスと共産党、二つの勢力から「よりまし」な方を選んだにすぎない。ところが、ナチスが簡単に手懐けられると思ったのは、大きな見込み違いだった。保守層はナチスを甘く見ていたというほかない。
さらに当時のドイツ国内外の政治経済状況を見れば、敗戦と帝国崩壊、左右両勢力の衝突、ヴェルサイユ体制、ハイパーインフレ、そしてアメリカ発大恐慌と、まさに大事件が積み重なる歴史的「混沌」状況の中から、独裁者が生まれたと考えるべきだろう。
そんなこんなで、「民主的憲法から独裁者が生まれた」というのは、面白おかしい言い回しとしては有りだと思うけど、歴史認識として正確かと言えば、それはないだろうと。

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2016年7月12日 (火)

16世紀という転換期

今週の「週刊ダイヤモンド」(7/16号)の特集は「大経済史」。現在は、16世紀以来の大きな歴史的転換期にある、という。記事からメモする。

『資本主義の終焉と歴史の危機』を執筆した法政大学教授の水野和夫氏は、16世紀の大転換と同じことが今、起こっていると説く。
具体的には、16世紀に中世封建システムから近代資本主義システムへの転換が起こった。歴史家フェルナン・ブローデルはこの転換期を「長い16世紀」と呼んだ。

16世紀に経済の覇権を握っていたイタリア・ジェノバでは金や銀があふれ返っていた。あまりにだぶついたマネーは次の投資先を求めてさまよい、このことが次の覇権国家を生み、世界のシステムを変えた。
英国が全世界の海洋を支配すると、16~17世紀の資本家たちは、投資先をオランダと英国に変えた。この動きが資本主義の誕生へとつながっていったのだ。

こうした経済の仕組みのみならず、国家という枠組み、新たな宗教の波など、その後に生まれるこれら全てのための、16世紀は長い苦しみの世紀だった。

その到達点ともいえるのが、1648年に結ばれた、ウェストファリア条約だ。この条約は、マルティン・ルターの宗教改革に端を発し、1618年に起こったカトリックとプロテスタントの「三十年戦争」を終結させた条約だ。

作家の佐藤優氏は「私たちはいまなお、ウェストファリア条約で形成された近代システムの延長を生きている」と著書『世界史の極意』で述べる。というのも、ウェストファリア条約により、欧州ではそれぞれの国が内政権と外交権を有する主権国家体制が確立されたからだ。この条約こそが「まさに中世と近代を画する結節点となった」のだ。

・・・資本主義と近代国家を両輪とする近代システムの基礎が形作られた16世紀。およそ500年を経過して、そのシステムの終わりが近づいているのか。そうだとしても、新しいシステムの姿はいまだ見えない。

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2016年5月27日 (金)

トルーマン、軽すぎる大統領

アメリカ軍指導者の多くが原爆の使用を否定的に見る中、トルーマン大統領の判断は、まず原爆投下ありき、だったようだ。『オリバー・ストーンの告発 語られなかったアメリカ史』(『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』の青少年向けリライト版、あすなろ書房)の第2巻からメモ。

統領トルーマン、国務長官バーンズ、マンハッタン計画責任者グローヴスの三人が、原爆の実戦使用に躊躇していたことを示す記録はない。
しかし、陸軍長官ヘンリー・スティムソンは違った。原爆は単なる新兵器ではなく「われわれ全員を食らうフランケンシュタインのような怪物」と考えていたのだ。

大半のアメリカ人は、軍の最高指導者の多くが、原爆投下は軍事的に不要だった、あるいは人道にもとるものだと考えていたことを知らされていなかった。

第二次世界大戦中に、大将より上位の〝元帥〟へ昇進した五つ星将官七人のうち、最先任ジョージ・マーシャルをのぞく、陸軍大将マッカーサー、アイゼンハワー、アーノルド、海軍大将リーヒ、キング、ニミッツの六人が、戦争終結には原爆が必要である、という考えに反対していたのだ。

アイゼンハワーはこう述べている。「スティムソンから意見を求められて、私は二つの理由で原爆使用には反対だと答えた。第一に、日本は降伏する気なのだから、そのように破壊的な兵器で攻撃する必要はなかったからだ。第二に、わが国が、核兵器を使用する最初の国になるのを見たくない、と感じたからである」

マッカーサーは、原爆を「軍事的にはまったくの不要物」と考えており、政府がそれを使用する意向だと知るや、怒ると同時に失望した。

リーヒは述べた。「広島と長崎での残忍な兵器使用は、対日戦争において、なんら実質的な貢献となっていない。戦争であのような手段を使ってもよい、と教えられたことはない。戦争とは、婦女子を殺傷して勝利すべきものではないのだ」

歴史家の多くもまた、広島や長崎を灰燼に帰す必要はなかったという、元帥たちの見解に賛同している。
ところが、日本本土上陸によって多数のアメリカ兵が命を失うことなく、戦争を終結させられたのは原爆のおかげであるという〝神話〟が、トルーマンやスティムソンらによって広められた。

トルーマンは、原爆投下について良心が痛んだことはない、と主張しつづけ、「そのことを考えて眠れなかったことは一度もない」と自慢げに言い放った。
あるテレビ番組でトルーマンは「(後悔したことは)ないよ、全然。ほんのちょっぴりだってね」と答えた。「すぐに決められたよ。ほーら、こんなふうに・・・・・・」と言って、得意げに指をパチンと鳴らしてみせた。

・・・歴史のイフは考えても無益なのかも知れないが、日本人である自分の心の中から、トルーマンでなければなあ、という思いが消えることはないだろう。しかし今日、遂にアメリカ大統領が広島を訪問した。原爆投下から71年、ようやくという思いがある一方、これだけの時間が必要だったのだろうと了解したいし、何よりオバマ大統領だからこそ実現したという感は強い。

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2016年4月23日 (土)

ビール純粋令500年

今日の日経新聞を開いたら、「2016年4月23日ビール純粋令500周年」との文字が目に飛び込んできた。1516年にドイツで制定された「ビール純粋令」、すなわちビールの原材料は「麦芽、ホップ、水、酵母のみ」と定めた法律を守るビールを提供しています、との某外食企業が出した全面広告でありました。

16世紀のドイツは、領邦と呼ばれる地域国家の連合体「神聖ローマ帝国」の時代。件の広告を見て、ああそういえば、と思い出したのが朝日カルチャーセンター講座(皆川卓先生)で聞いた話。以下はそのレジュメ資料から。

帝国屈指の有力な領邦君主であるバイエルン公ヴィルヘルム4世(1488~1550)は、ビールが多く造られるバイエルン公国の君主であったが、都のミュンヘンが田舎の城下町から大都市に変わっていく中、ビールに安い混ぜものがされることが原因で起こる業者と消費者のトラブルを数多く抱えていた。そこでバイエルン公は、1516年にミュンヘンをはじめバイエルン全土で、水・大麦・ホップ以外の材料をビール製造に使うことを禁止する法律を出した。

おりしも1530年にアウクスブルクで開かれた帝国議会では、一般住民の経済や生活にかかわる法律を一括して出す計画が進められていた。そこで帝国議会に出席したバイエルン公は、この法令を手本にする提案を行った。同じトラブルに悩まされていた皇帝カール5世や他の領邦君主、自由都市も納得し、新しい帝国法にこのビール純粋令(Reinheitsgebot)を盛り込んだ。

この法令は、添加物によらず自然の温度や湿度を利用して味も色も全く異なるビールを作り出す技術を生み出し、ドイツ連邦にもドイツ帝国にもドイツ連邦共和国にも引き継がれて、現在に至るまでドイツビールの質を最高水準に保っている。

・・・500年も前に作られた法律を今も頑固に守り続けているのがドイツらしいと思える一方、そういう制約があったからこそ様々な工夫が生まれたとも考えられるわけで、それもまた研究熱心というか道を究めるドイツ人気質の現われなのかと。

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2016年4月13日 (水)

石川数正の「出奔」

石川数正というと、松本城を築いた人。であることが、自分にはとりあえず思い出されるわけだが、この数正、もともと徳川家康の家臣だったものが、あるとき徳川を捨てて羽柴秀吉の下に走っちゃった人でもある。ということを、竹橋の国立公文書館で開催中の特別展「徳川家康」の展示、さらに先日の大河ドラマ「真田丸」を見て、よくよく認識することになった。

石川数正の出奔は、小牧・長久手の戦いの後、秀吉が家康を何とか臣従させようと外交攻勢をかけていた時期の出来事で、数正は秀吉に取り込まれたとの見方がある一方、何らかの理由で徳川家中における数正の地位が脅かされていたのではないか、といった見方もある。

家康に重用されていた数正は徳川家の軍制にも通じていた。いわば「企業秘密」を握る人物が出奔してしまった痛手は大きく、この後徳川の軍制は武田流に改められたと言われるほどである。

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