2019年2月16日 (土)

歴史本の読者は何を求めるか

本日付日経新聞コラム記事「日本史ひと模様」(執筆者は歴史学者の本郷和人)から以下にメモする。

いま中世史研究者の注目の的は、『応仁の乱』で大ヒットをとばされた呉座勇一さんに尽きる。47万部を売り上げたというその偉業に、みんなが瞠目した。
応仁の乱は、細川氏を中心とする70年来の勝ち組に、山名氏をリーダーとする負け組が再挑戦したもの。結果は再び細川グループの勝利。ぼくは以前からそう説明していたが見向きもされない。これに対して呉座さんは「この戦いはよく分からないものである」とされ、社会の支持を得た。
この戦いは何であるか。その意義は何か。そう問いかけること自体が賢しらな振る舞いで、否定されるべきなのだ。分からないものは分からないまま丁寧に描写する。その謙虚な姿勢こそが大切なのだ。

・・・と、本郷先生は言うのだが、自分は『応仁の乱』(中公新書2016年10月発行)成功の理由は、歴史好きの読者の関心を幅広いレベルで集めたことではないかと推測する。まず、応仁の乱の名前を知っていても、どういう戦いだったっけ?と思う素朴なレベルの人が、とりあえずこの本を手に取る。もう少し知っている人は、足利将軍家の後継争いを原因とする通説的なストーリーとは違う乱の姿に、興味を深めるだろう。さらに上級者には、分かりにくい乱の全体像を理解しようというチャレンジな気持ちを呼び起こすかもしれない。

付け加えると、乱の本質・意義についても、細川と山名二つの大名連合の激突であるとして、乱の結果、守護在京制は崩壊したと解説されている。この本では、細川と山名の勝ち負けの判定は分からないのかも知れないが、乱そのものが分からないものとして提示されているわけではない。

このほか歴史に関心の無い人の中にも、版元の広告に登場した呉座先生のルックスに注目して、本を買った人がいるかも知れない。(苦笑)

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2019年2月 8日 (金)

宗教と自由主義のせめぎ合い

日本人は、一神教の宗教観である法としての宗教、政治共同体の絆としての宗教という考え方を理解していないため、国際政治における宗教の影響をうまく捉えられていない――本日付日経新聞「経済教室」(宗教と国際政治、執筆者は池内 恵・東京大学教授)からメモ。

宗教信仰が個々人の内面に限定され、国家や政治への影響力を弱める世俗化と政教分離のプロセスこそが、近代化の主要で不可欠な要素という考え方は広く普及した。しかし現在、非西欧の諸地域が経済発展を成し遂げても、それが世俗化や政教分離に結びつかず、宗教が根強く人々の社会生活と政治を規定し続け、宗教原理主義の台頭を招く場合すらあることが目撃されている。

人間社会の規範は誰がどのように定めるのかという究極の問題に対し、人間を超越した絶対的な神が律法を啓示するのか、それとも個々の人間の理性が自由に思考・議論して規範を発見し合意するのか、すなわち「理性と啓示」の対立は、古代の中東と地中海世界で問題化され発展し、言語で理論化・体系化された。この対立の中でユダヤ教・キリスト教・イスラム教と連なる「セム的一神教」が生まれ、他方でギリシャ哲学を淵源とする科学が発展し、いずれも世界に広がった。

宗教と科学の対立は、中東と地中海世界の政治・社会・経済の発展の不可欠の要素と言ってよく、近代西欧文明もここに淵源を持つ。近代西欧の発展は、個々の人間が宗教規範の支配から脱し、自由に規範を選び作っていくという、人間主義と個人主義の優位に大きく振れた。

これは、近代国家の政治や経済の原則として広まったリベラリズムの根拠である。リベラリズムは、人間が自律した意志で自由に選択する能力を持つという人間観・世界観を前提にしており、宗教を時代遅れのものとみなす世俗主義を重要な要素とする。

米国でトランプ現象が、西欧諸国で移民への拒絶反応が起き、中東諸国で過激派組織「イスラム国」(IS)の台頭や宗派共同体間の紛争が生じるなど、様々な事象の根底には、リベラリズムへの信頼の低下あるいは明確な反発がある。これは宗教の政治への影響力の増大と軌を一にした、同根の現象と見るべきである。

・・・単なる世俗国家である日本は、一神教もリベラリズムも根本的には理解できないのかも知れない。とはいえ昨今の国際政治の様相は、日本人に一神教への理解を深めるよう求めているのは確かだろう。

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2019年2月 5日 (火)

「平成」と「中世」

平成の30年間とはどんな時代だったのか。『応仁の乱』の著者・呉座勇一先生から見れば、もちろん中世に似ている時代、である。本日付日経新聞のインタビュー記事「平成って」からメモ。

「日本の歴史を振り返ると、『平成』は『中世』と一番近いかもしれない」

武士が台頭し、鎌倉幕府を経て戦国時代へ向かう中世は、武士、朝廷、寺社勢力が入り乱れて覇権を争った。「先が見えず、つかみどころがない時代だった」という。
平成はバブル経済の絶頂期に幕開けし、その崩壊によるリストラの嵐、出口の見えない不況が続いた。自殺者は一時期3万人を超え、オウム真理教事件など無差別テロも起きた。「戦争こそなかったが、何が起きるかわからない混沌とした雰囲気があった」

中世で「応永の平和」と呼ばれる時期がある。戦乱が比較的少なく、社会が安定した。その応永(1394~1428年)は約35年間続き、明治以前では最も長い。「ほぼ平成と同じ期間だが、応永の平和は問題を先送りして、もめ事が起きないようにして保たれた。その矛盾が噴出したのが応仁の乱だとも言える」

・・・応永の時代は、足利義満(3代将軍)、義持(4代)による相対的安定期。その後、義教(6代)は暗殺され、義政(8代)は応仁の乱を招いた。
日経新聞紙上では今年の初め、五木寛之も平成について同様の認識を示していた。「平成とは、問題をなし崩しに先送りしている中での相対的な安定期だったのではないか。(次の時代は)改めて激しい対立や激動が起こると思う」。ポスト平成は波乱の時代となる予感?

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2019年1月16日 (水)

歴史は科学か文学か

1月12日付日経新聞コラム記事「半歩遅れの読書術」(執筆者は国際政治学者の国分良成)では、E・H・カーの『歴史とは何か』、岡田英弘『歴史とはなにか』が取り上げられている。以下にメモする。

カーは、歴史上のさまざまな事象の原因についての仮説を立て、あらゆる過去の史料を駆使してそれを検証し、そうした作業の中から一定の法則性を見いだし一般化することが、現在と将来への教訓として役立つと考える。この点で、歴史は科学であり、理性を通して人類の進歩に貢献しうると主張する。

「歴史は物語であり、文学である。言いかえれば、歴史は科学ではない」と、岡田氏は言い切る。歴史は「ことばで組み立てるもので」、人間による現実の政治支配を正統化することから始まっており、結局のところ、歴史の中心を成すのは政治史だという。しかも歴史には古代史と現代(=近代)史の2つしかなく、「中世」というような進化論的な発展段階を入れるのは誤りで、現代史は19世紀に「国民国家」が成立し、「国民」の概念が歴史に挿入されてから始まったというのである。

しかし、この2人の泰斗には本質的な部分で共通点がある。両者ともに、歴史は歴史家によって組み立てられ、歴史的事実の解明には史料の精査・読解とそれに対する広い視野からの意味づけが必要であり、そして歴史ほど面白く人生を豊かにさせるものはない、という立場で一貫している。

・・・歴史学は科学である。その方法は史料の批判的検討。ただしさすがに今では、法則を見出すことまでは目的としていないだろうな。
歴史学の始まりは、国民国家の自己正当化のストーリー、だと思われるけど、今はそれこそグローバルヒストリーで、国民国家の来歴を超える同時代の地域横断的なストーリーが探求されている、ということなんだろうな。

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2019年1月15日 (火)

福島正則の転封

1月12日付日経新聞コラム記事「日本史ひと模様」(執筆者は歴史学者の本郷和人)に、豊臣秀吉子飼いの武将・福島正則が江戸時代の初め、将軍・徳川秀忠に事実上改易された事件の顛末について書かれているので、以下にメモする。

元和5年(1619年)、安芸・備後の太守・福島家は台風で破壊された広島城を修繕したが、これが居城の作事は必ず公儀へ届け出よ、とする『武家諸法度』違反に問われた。藩主の正則は2ヵ月前に言上したつもりだったが、幕府はそれを公的な届けと認めず、正式な許可を出していなかった。

福島側の言い分としては、城の防御力を高める工事ではない。雨漏りする部分を修繕しただけ。江戸にいた正則が自ら謝罪し、修繕部分を破却するという条件で騒ぎは一旦は収まったのだが、幕府が要求した「本丸以外の修繕分も破却」という条件に対し、正則は本丸のみ破却をおこない、二の丸・三の丸の修繕分は放置した。

これを知った将軍・秀忠は「破却が不十分である」と厳しく咎め立てた。結果、安芸・備後50万石は没収、一時話が出ていた弘前ではなく、信濃・川中島の高井郡など4万5千石(高井野藩)に減転封の命が出された。

こうした経緯を見ると、幕府は豊臣子飼いである正則の左遷を、虎視眈々と狙っていたと見るべきだろう。
移封後、正則は嫡男・忠勝に家督を譲ったが、その忠勝は翌年、早世した。寛永元年(1624年)、正則は高井野(長野県高山村)で死去した。享年は64。すっかりやる気を無くしていたかと思えばさにあらず、領主であった5年間に、領内の総検地、用水の設置と新田開発、治水工事などの功績を残している。

・・・豊臣恩顧の大名ながら、関ヶ原の戦いでは徳川家康側に付いて奮戦した福島正則。大大名に出世し、豊臣氏滅亡も見届けた後の急転落だったが、めげることなく晩年も治世に励んでいたとは、男気を見せたというところか。戦国武将好きには、加藤清正や石田三成の方が人気があるようだが、福島正則ももっと関心を持たれても良い人物だと思う。

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2018年12月23日 (日)

『徳川家康の江戸プロジェクト』

直木賞作家、門井慶喜の小説『家康、江戸を建てる』がNHKでドラマ化、新年正月に放映される。門井氏の講演を元に纏められた『徳川家康の江戸プロジェクト』(祥伝社新書)を読んで、学んだこと考えたことなどを以下に記す。

そもそも徳川家康はなぜ江戸を関東の首都に定めたのか、そこからもう謎なのだ。豊臣秀吉の小田原征伐による北条氏滅亡の後、関東を新たな領地として与えられた家康は、小田原ではなく江戸を首都に選び、大規模な開発に取り組んだのである。小説家である著者は、家康の心中には「まっさらな新天地に理想の徳川ランドを作る」という思いがあったのではないか、と考える。この推察が正しいとしたら、当時50歳近い家康の、都市建設を一から始めようと決意したベンチャー精神そして旺盛なエネルギーには頭が下がる思いしかない。

さて、その江戸の都市開発において、家康がまず着手したのは大規模土木事業である。当時の江戸は、関東平野を流れる大小の河川が流れ込む湿地帯だったが、これを埋め立てる造成工事を行い、住居を建てられる土地を拡大した。江戸には入り江があり(現在の日比谷近辺)、この海も埋め立てて陸地を広げた。さらに当時、北から南に流れてきていた利根川の向きを、段階的に東に変える大工事が長期にわたり進められた。また、当時の物流の中心は水運であったことから、江戸では早い時期に運河を作り物流のルートを整備。さらに江戸の住民が増加すると、飲み水不足に対応するため、神田上水と玉川上水の二つの上水道を建設。このような土木事業の継続が、江戸の都市基盤を堅固なものとした。そして江戸城には巨大な天守が出現する。この天守は、新しい時代の到来を示す象徴として建てられたと著者は見る。こうして家光の頃までには、江戸は城下町としての姿を整えたのである。

江戸幕府が始まり50年が過ぎた1657年、明暦の大火が起きる。江戸城の天守も焼失したが、再建は断念された。この理由については費用対効果の面に加えて、著者は、天守は雷が落ちやすく火事の原因になる可能性があること、つまり防災の観点から天守は不要とされたと見ている。既に戦国の世は過去のものになっており、天守再建の放棄は、人々の意識が戦争から防災へシフトしたこと、すなわち平和な時代の定着を示しているという。

以後も江戸の町は拡大を続け、1700年前後には人口100万人という世界有数の大都市へと成長した。家康の「江戸プロジェクト」は、開始から100年後には大きな実を結んだのである。ここまで江戸が大発展するとは、さすがの家康も想像していなかっただろう。

かつて東洋史学者の内藤湖南は、「応仁の乱以後が、今につながる日本の歴史である」と喝破した。ということは、戦乱の中から最初に国の秩序を打ち立てた信長・秀吉・家康が、今につながる日本のファウンダーなのであり、歴史的に見れば400年後の今も、日本は三英傑の事業の影響下にあると言ってよいのだろう。特に三大都市について見れば、徳川が東京(江戸)と名古屋、豊臣が大阪を作り上げたわけだから、なおさらその感を深くする。

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2018年12月15日 (土)

「安土大阪」時代

たしかに安土桃山時代という呼び名は、自分も子供の頃から何かヘンだなと感じていた・・・以下に『大阪的』(井上章一・著、幻冬舎新書)からメモする。(なお井上先生は、近世以前は「大坂」表記が通例だが、近現代の「大阪」で表記して構わないとしている)

「安土桃山」時代という言い方がある。織田信長が足利義昭とともに入京してから、豊臣秀吉が亡くなるまでの時代をさす。
基本的には、信長が天下をめざし、秀吉が天下人となった時代を意味している。「安土桃山」の「安土」は、信長のきずいた安土城に由来するだろう。「桃山」は、秀吉の居城となった伏見城が桃山にあったことから、そう名ざされた。

信長の時代を「安土」時代とよぶことに、私も反対はしない。しかし、「桃山」時代には、どうしてもひっかかる。

秀吉が自らの拠点として、その造営に心血をそそいだのは大阪城であった。のちには天下の台所と言われる大阪という街を、ほとんど一からこしらえた。
信長の足跡を「安土」でしめすのなら、秀吉の業績は「大阪」であらわすべきだろう。信長秀吉時代、いわゆる織豊時代の呼び名には、「安土大阪」時代こそがふさわしい。かつて、歴史家の脇田修はそう喝破したが、私もそのとおりだと思う。

だが、歴史教育のあり方を東京で左右する人びとは、「大阪」時代をみとめない。

・・・以前の著作で井上先生は、新しい時代が関東から始まる(鎌倉時代、江戸時代)見方を批判していた。平家から、織田豊臣から、新しい時代が始まったと見るのが妥当ではないかと。「東大史観」対「京大史観」という言葉も使っていた覚えがある。『大阪的』では、古墳時代を「河内時代」と呼んでもいいのでは、とも述べている。歴史学においては、関西や大阪が不当な扱いを受けているという主張には、頷けるものがある。大体、日本という国は西から発展し、西が中心であった時代が長いわけだしね。

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2018年10月24日 (水)

桃配山と笹尾山

先週末、垂井から関ヶ原まで歩くJR東海さわやかウォーキングに参加。コースのポイントとなっていた徳川家康陣(桃配山)と、石田三成陣(笹尾山)を久々に訪ねた。(写真上は桃配山、下が笹尾山。撮影日2018年10月20日)Photo

Photo_2 最近は関ヶ原の戦いを巡る新説があれこれ取り沙汰されている中で、それぞれの陣地に立つと、関ヶ原の決戦当日、おそらくここには家康も三成もいなかったんだろうな~と妙な感慨を覚えてしまう。

実際にはどこにいたかというと、高橋陽介氏の説に倣えば、家康は決戦の前日に到着した大垣の北、美濃赤坂の岡山という場所に決戦当日も留まっていたであろうし、三成は松尾山の麓にある藤下地区の自害峰に布陣していた、ということになる。

高橋氏や白峰旬氏の説を参照しながら、自分なりに関ヶ原の戦いの史実を思い描いてみると・・・慶長5年9月14日昼、西軍(宇喜多・石田・島津)の籠る大垣城の北、美濃赤坂の東軍陣地に徳川家康軍が到着。大垣城の西、南宮山にいた毛利勢は、家康が到来するやいなや、吉川広家主導で東軍と和睦(事実上の降伏)した。家康軍は引き続き赤坂に留まり、南宮山の毛利に睨みを利かす。やはり同日昼、関ヶ原を見下ろす松尾山に小早川秀秋軍が布陣。小早川の東軍合流を恐れた西軍は、毛利の降伏を知らないまま、夜間に大垣城を出て移動開始。西軍を追って、東軍の先手勢(福島、黒田)も関ヶ原に向かう。翌15日未明に西軍は松尾山の麓、山中・藤下地区に着陣、小早川の動きを牽制しようとした。しかし早朝、関ヶ原で警戒行動中の大谷吉継隊を、福島、黒田の軍勢が襲う。同時に小早川軍も松尾山を駆け下り戦闘に参加、大谷隊は全滅。東軍はさらに、山中・藤下の西軍目がけて猛攻を加え、これを崩壊させた。

・・・という感じでしょうか。BS番組で乃至政彦氏が「物語と史実の両立」を語っていたように、これからの関ヶ原は史実を追求しつつ物語も排除しない姿勢で楽しむのが良いかな。

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2018年10月21日 (日)

豊臣武将の駿府城、発掘

駿府城と言えば、徳川家康が晩年を過ごした「大御所」の城として知られているわけだが、その天守台の発掘調査において、家康時代の前の、豊臣秀吉配下の武将・中村一氏時代の天守台が発見された。この土日に現場が公開されると聞いて、本日行ってみました。

Photo

石垣はいわゆる野面積み。写真の奥の方、天守台の部分で調査員の方が、集まった見学者に説明をしている。
天守台の大きさは33m×37m。徳川の天守台が61m×68mなので、その3割程度の広さではあるが、金箔の瓦が大量に見つかっており、豪華絢爛な造りの城だったらしい。
大坂城も豊臣氏の滅亡後に、徳川が当時の城跡を埋めた上に再建したわけで、そのパターンを既に駿府城でやっていたことになる。

今回は発表直後の特別公開。今後は見学路の整備や案内板の作成を行い、11月22日木曜日から通常公開を始める。金箔瓦も展示予定とのこと。

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2018年8月17日 (金)

『大坂堂島米市場』

大坂堂島米市場』(高槻泰郎・著、講談社現代新書)を読んで、学んだことなどを以下に書いてみる。

17世紀の半ばに大坂で形成された米市は、ごく初期の段階から米そのものを売買する市場ではなくなり、手形を売買する市場になっていた。大名の蔵屋敷から米を落札した者は、代銀(=代金)を払って米の引換券である「米手形」を受け取る。落札者はこの手形を、米市で第三者に転売していた。一方で大名は実際の米の在庫量以上に米手形を発行して、米市で資金調達を行っていた。代銀の一部の支払いで発行される米手形の売買は、やがて代銀の全額支払い後に発行される「米切手」の売買に移行。この正米商い(しょうまいあきない)にほぼ並行して、一種の先物取引である帳合米商い(ちょうあいまいあきない)17世紀末頃に現われる。この取引では現金と米切手を遣り取りしない。まず自由に売りと買いの約束を取り交わす。同時に売り(買い)と反対の買い(売り)の約束も取り交わして、帳簿上だけで売りと買いを付き合わせる。満期日までに反対売買を行い、差金決済により取引は終了する。この取引は、現代の日経225先物やTOPIX先物のような株価指数先物取引に近いものだ。


堂島米市場のことをよく知らない人々から見ると、取引の様子は数百人が寄り集まって喧嘩をしているようであり、そこで飛び交う言葉も、訳が分からなかったと伝わる。この辺の感じは、立会場があった頃の証券取引所の様子の記憶がある者には、似たようなものなんだなと思われるところだ。堂島米市場の正米商いは約30の銘柄を売買した。これに対して、帳合米商いでは「立物米(たてものまい)」を取引の対象とした。立物米とは、年間を三期に区切った取引期間ごとに、大量に取引される銘柄の中から選び出される、名目上の銘柄である。帳合米商いでは、帳簿上だけで取引する(実体のない)銘柄である立物米を売買し、定められた満期日までに売りと買いの注文を相殺する。米切手は基本的に米との交換を約束する証券であるから、米の作柄がその価格に大きく影響した。江戸時代の人々も、米切手の価格変動をヘッジする手段として、先物取引を利用したということである。


大名は資金を調達するため、蔵にない米についても米切手を発行していた。このため米切手が過剰に発行されると、市場における信用不安を惹起し、米切手の価格下落を招く可能性があった。当時、米との交換が延期ないし拒否される米切手のことを「空米切手(からまいきって)」と呼んだ。18世紀中後期にかけて、江戸幕府は空米切手問題に対処するため、米切手の統制策を立て続けに打ち出す。宝暦11(1761)12月に発令された、空米切手停止令(ちょうじれい)により、「全ての米切手は、たとえ蔵米の裏付けなく発行されたものであっても、蔵米の裏付けのある米切手として処理されねばならない」という原則が確立したという。


「世界最初の先物市場」である堂島米市場の仕組みと、それを考え出した江戸時代の大坂商人、そして市場の信用秩序維持を図る江戸幕府、いずれについても驚き感心するばかりだ。

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