2021年1月11日 (月)

織田政権と本能寺の変

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」は来月の2月7日が最終回。だからだろう、雑誌『歴史街道』と『歴史道』の最新号は、いずれも「本能寺の変」を特集。本能寺の変を、天下統一の最終段階における織田政権内の重臣間の派閥抗争の帰結とみるのは藤田達生・三重大学教授。以下に『歴史道』掲載の論考からメモする。

天正十年の毛利氏や長宗我部氏との戦争の後、信長の領国を拡大するため、宿老層は最前線の遠国へと国替が命じられる可能性が高かった。これに対して、嫡男織田信忠以下の一門衆は畿内近国で城主となっていたが、さらに加増などを受けて政権運営上も重要な役割を期待されることになっていたとみられる。

ここで重要なのが、近習である。信長の薫陶を受けた若い俊英たちは、年齢に見合わないほどの重職を果たすようになった。
従来のように、光秀ら宿老層を使って重要政策を執行するのか、経験を積みつつあった若い一門・近習を中心とする専制的かつ集権的な国家を創出するのか、政権を分裂させかねない対立があった。天下統一を目前に控えた時期、信長は専制化と政権中枢の世代交代を進めるべく、後者に大きく舵を切ろうとしていた。
筆頭宿老的立場の光秀は、畿内近国支配をめぐり一門・近習たちとライバルの関係にあった。しかも、信長の専制化によって最も被害をこうむる立場にあり、将来に希望をもてなくなったしまったといってよい。

信長の中国・四国攻撃の後に光秀に国替が待っていたことも、本能寺の変の重要な前提だった。信用度の低い史料ではあるが、『明智軍記』には中国出兵に際して、光秀が信長から出雲・石見への国替を命ぜられたと記す。

・・・この織田権力論の中に本能寺の変を位置づける見方は非常に興味深い。光秀の謀反の動機は、政権の外部からは窺い知れないということ。だからこそ怨恨や野望など、分かりやすい理由が面白おかしく語られたのだと思われる。

ただ藤田先生は足利義昭の関与に固執している。四国を巡る主導権争いにおける羽柴秀吉・三好康長VS明智光秀・長宗我部元親の構図、そこに足利義昭が光秀に働きかけて、元親も含めた三者が奇跡的に結びつき、未曽有のクーデターが実現したという。しかし、光秀と義昭を無理に結びつける必要があるとは思えない。織田権力の内部闘争だけでも、光秀謀反の動機を充分説明できる印象だ。

強敵の武田氏を滅亡させた後、織田権力は新たな段階に移行する過渡期、不安定な時期にあった。信長が息子たちに権力を譲り、一門で畿内を押さえようと考えるのは自然だし、となれば光秀が領地召し上げの憂き目に遭う可能性は高かったといえる。変の数年前には、宿老の佐久間信盛らが追放されている。お役御免となれば、畿内から遠国に国替えになるかもしれないと、光秀は心中モヤモヤしていたのではないか。そこに突如として訪れた絶好のチャンス。信長信忠親子が殆ど無防備で京都にいる。織田軍団の司令官たちは各方面の前線で敵と戦っている。まさに今、自分が信長の生殺与奪の権を握っている。こんな機会は二度とない。光秀は考える。この先信長がいるのといないのとでは、どっちが自身と明智家にとって得か。あるいはリスクが小さいか。答えを出した光秀の軍勢の向かう先は京都、本能寺だった。ということではないだろうか。

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2021年1月 5日 (火)

明智光秀は本能寺から離れて待機

織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変。1582年に起きた日本史上最大の謀反だが、映画やドラマでは光秀自身が本能寺襲撃を指揮する場面があったりする。しかしそれが史実というわけではなく、新たな史料研究によれば、光秀本隊は京都郊外で待機していたらしい。本日付日経新聞社会面記事からメモする。

金沢市に現存する古文書に、光秀は本能寺から8キロ離れた鳥羽(京都市南部)に控えていたとの家臣の証言があることが、富山市郷土博物館の萩原大輔主査学芸員(日本中世史)の調査で4日までに判明した。

萩原主査学芸員によると、古文書は金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵の「乙夜之書物」。加賀藩の兵学者関屋政春が、本能寺の変から87年後の江戸時代に記した。本能寺を襲った光秀軍を率いたとされる斎藤利三の三男で、自らも従軍した利宗が、加賀藩士のおいに語った証言として「光秀ハ鳥羽ニヒカエタリ」と記されていた。

古文書には光秀軍の兵士たちが京都市の桂川の河原で夜中に休憩を取っていた際に、本能寺へ向かうことを初めて告げられたことや、襲撃された信長が乱れ髪で白い帷子を着て光秀軍を迎え撃った様子の記述もあった。

萩原主査学芸員は「事件に参加し重要情報に触れる立場の人物の話で、後世の加筆の跡も見られないため、信頼性は高いと考えられる」と指摘。本能寺にいた信長側の家臣は数が少なく、光秀の本隊が出向く必要はなかったと分析した。研究をまとめた論文を近く発表する。

・・・これまでも、明智軍1万3000の全軍が京都の町中に展開できるはずもなく、本能寺を囲んだのは斎藤利三率いる兵力3000程度の攻撃実行部隊との合理的な推測はあった。ので、その推測を裏付ける可能性のある史料の記述が見いだされたことになる。

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2020年12月20日 (日)

関ヶ原の西軍、幻の決戦計画

昨日19日夜のNHKBSプレミアム「決戦!関ヶ原」は、最近見直しの動きが盛んな関ヶ原合戦について、いろいろ考えるネタを提供してくれる番組だった。副題に「空からのスクープ 幻の巨大山城」とあるように、航空レーザー測量という方法を使い、樹木を取り払った姿で地形そのものを写し取る「赤色立体地図」により、関ヶ原周辺にある山城の全体像を把握。その結果、西軍の幻の決戦計画が見えてきた、というのが番組内容の骨子。専門家は小和田哲男先生、千田嘉博先生、外岡慎一郎先生がスタジオ出演。

「幻の巨大山城」の名は玉城といい、関ヶ原の西に位置している。今回その全貌がCG再現されると共に、西軍総大将である毛利輝元、さらには天下人である豊臣秀頼を迎え入れるための城だったのではないか、という見方が千田先生から示されていた。

(この玉城は、自分が最近目にした出版物では『歴史REAL 関ヶ原』(洋泉社MOOK、2017年)の中で、「玉の城山」という名称で紹介されている。同誌には城の縄張り図も掲載されており、大津城攻めや丹後田辺城攻めの軍勢の合流など、西軍大集結を想定した陣城とされている)

番組では、決戦当日の西軍の布陣についても、西から順に、玉城に石田三成が入り、松尾山の麓で大谷吉継が小早川秀秋の裏切りに備え、さらに南宮山の毛利勢が関ヶ原入り口で東軍を牽制する配置を提示。しかし毛利が敵の大軍との衝突を回避したため、東軍はやすやすと中山道を西に進み、決戦当日の朝、まず最前線にいた大谷を攻め、間もなく小早川も裏切り、その後西軍は壊滅したという。

・・・のだが、もし玉城に西軍主力(石田、小西、宇喜多、島津)が入っていたとしたら、戦いが半日で終わることはなかっただろう。三成は三河尾張国境、岐阜、大垣と、いくつかの防衛ラインを想定して戦略を立てていたという。だから決戦前日に大垣城から関ヶ原方面へ移動したのも、あらかじめ防衛拠点として築いていた玉城を目指していたと考えてもおかしくはない。でも戦いが短時間で終わったことから見ると、結局のところ玉城に達する手前の山中地区で、東軍の急襲を受けて西軍は崩壊したというのが、番組を見終わった後の自分のとりあえずのイメージ。つまり玉城は築かれたものの使われなかった城、だから文献にも出てこない「幻の城」になってしまった。という「残念な城」、かな。

番組では、白峰旬先生もビデオ出演して、史料から西軍は山中地区にある玉城に上ったと解釈できるとコメントしていた。でもそうなると、白峰先生が自説の根拠としている島津家の覚書(合戦の回想録)と話が違ってくるんじゃないかなあと思ったりして、番組内容に意図的に寄せたコメントではないかと感じる。
また、小和田先生は笹尾山は石田陣と見てよいとコメント。立体地図に陣跡が見当たらないのは、急いで布陣したからだと述べていた。まあ小和田先生も新しくできた関ケ原古戦場記念館の館長だしなあ。従来ストーリーを簡単には否定できない立場からの、ポジショントークのようにも聞こえてしまう。(苦笑)

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2020年11月 3日 (火)

宇土櫓、復旧まで長い道のり

11月1日日曜日、熊本城を訪ねた。テレビで千田嘉博先生が熊本城を案内する番組を見て、地震後の城内見学コースができていることを知り、行ってみようと思い立った。あと、宇土櫓が解体復旧の方針と聞いて、一度「見納め」しておこう、という気にもなった。

実際に行ってみると、かなりのダメージを受けていると思われる宇土櫓の姿がそこにあった。解体復旧も止むなしという感じである。

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扉や窓が閉められていると、何だかお城が目を閉じて、眠りについているようにも見える。(子供みたいな感想)
以下に、熊本日日新聞の記事(2019年12月6日付)から一部を引用してみる。

本丸の西北側にある宇土櫓は、築城当時の姿を保っている貴重な建物で、国指定の重要文化財です。文化庁の「国指定重要文化財等データベース」には、「桃山時代初期の天守の様式を示している。」と、その価値が記されています。
明治10(1877)年の西南戦争や明治22(1889)年の地震も乗り越えた宇土櫓。平成28年熊本地震でも、倒壊を免れました。しかし、建物内部の損傷は大きく、1・2階のしっくい壁がひどく剥落、床が大きく傾き、2階の鉄骨製の補強材が1カ所たわむなどの被害が生じました。
宇土櫓は国の重要文化財なので、その価値を守るべく、丁寧に調査しながらじっくりと工事を進める計画になっています。

・・・宇土櫓の調査、解体復旧には10年以上、下手すりゃ20年近くかかるかも知れない。ので、再建された宇土櫓の姿を、還暦過ぎた自分がまた見ることができるのかどうか、自信が有るような無いような・・・。(苦笑)

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2020年11月 2日 (月)

熊本城「特別公開」

11月1日日曜日に熊本城を訪ねた。4年半前の地震により相当な被害を受けた熊本城では、現在、地上から5~7ⅿの高さがある特別見学通路を設けて、城内の復旧の様子や被害の状況を見ることのできる「特別公開」を行っている。見学通路は、「飯田丸」から本丸の南側を通り、「本丸御殿」地下の通路を経て「天守閣」に至るコース。途中、巨大な石垣にさらに追加の石垣が重ねて築かれた、いわゆる「二様の石垣」も、ちょっとパノラマ的に眺められる。

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特別見学通路は毎日公開。この空中通路の「南ルート」のほか、「天守閣」と「宇土櫓」の側を通る「北ルート」もあり、こちらは日曜・祝日のみ通行可能。できれば日曜・祝日に行って、両方歩く方がよろしいですね。

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2020年10月24日 (土)

関ヶ原古戦場記念館

今月21日にオープンした関ヶ原古戦場記念館。行ってみたら、凄い立派な建物。JR関ケ原駅から徒歩5分程度、建物の上部は駅からも見える。

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入館すると、まず床面スクリーンの映像マップで東西両軍の戦いの推移(語りは神田伯山)を、次に大画面シアターで軍勢の走り回る戦闘再現アニメを見る。次に2階に上がり、鎧兜や文書や肖像画など資料展示のフロアを見学する。そして最後にエレベーターで最上階の5階に上がると、そこは古戦場全体を360度見渡せるガラス張りの展望室。とりあえず笹尾山(石田三成陣)方面を写す。

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このほか、施設内のショップでは戦国グッズや土産品などを販売。カフェもあり、観光施設としては申し分ない内容。

・・・なんだけど、どうしても自分の頭に浮かぶのは、学問的には今、関ヶ原合戦の見直しが急速に進んでいること。そういうタイミングで、従来の通説的ストーリーのイメージを全面展開する施設が完成したというのは、ちょっと皮肉な感じがしないでもない。

とはいえ、その辺はBS番組で乃至政彦先生が言ってたように、「物語の合戦」と「史実の合戦」の両立を図るということでいいんだろう。長い間に作り上げられてきた関ヶ原合戦のストーリーを、一次史料から認められる史実とは異なるからと言って、無碍に否定するのも野暮というもの。関ヶ原合戦のドラマはドラマとして楽しむのが、「大人の対応」なんだろうな。

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2020年10月11日 (日)

ナチスの「T4作戦」

先日、ドイツ映画「ある画家の数奇な運命」を観た。ナチス時代に少年期を過ごし、東ドイツそして西ドイツで自らの芸術を追求する若者のドラマを描く、上映時間3時間を超える作品。まず最初の1時間が重い。ナチスの障害者「安楽死」政策が描かれるからだ。子供の頃の主人公に影響を与えた若く美しい叔母が精神を病んだ結果、この政策の犠牲者になる。

ナチスの犯罪といえば条件反射的にホロコーストを思い浮かべるが、ユダヤ人だけでなく障害者も虐殺していた。ということを自分は、2015年のNHK番組で知った。ナチスドイツは戦争中、「T4作戦」(ベルリン市内のティアガルテン4番地に作戦本部があった)と呼ばれる障害者安楽死計画を実行していた。以下は、NHK番組で案内役を務めていた藤井克徳さんの著作『わたしで最後にしてーナチスの障害者虐殺と優生思想』(2018年、合同出版)を参考にする。

T4作戦実行による障害者の殺害が始まったのは1940年1月。ドイツ国内の6つの施設のガス室に、障害者たちが次々に送り込まれた。作戦は1941年8月に表向きは終了。キリスト教会からの抗議があったことなどによる。しかし実際には、その後も「作戦」は続行していた。中央からの指令は出されなくなったが、地方自治体が命令を出し、戦争が終わるまで殺害は実行されていた。犠牲者数は41年8月までに7万人、それ以降終戦まで13万人、合計で少なくとも20万人という。

優生思想に基づき「生きる価値のない命」を抹殺する。ナチスのT4作戦は、まさしくユダヤ人大虐殺のリハーサルだった。T4作戦には、医療関係者も自主的かつ積極的に加担したという。あのアイヒマンのように、自らの職務として進んで組織的殺人に取り組んでいたのだろうか。

自分はアウシュビッツを訪ねてみたこともある。けれども結局のところ、ユダヤ人の虐殺がなぜ起きたのか、日本人には分からないという感覚が残っている。しかし障害者の虐殺については「同胞」を殺すことでもあり、ひどく不気味なものを感じる。これは決して他人事とは言えない。優生思想の厄介なところは、論理的には正しく見えることではないか。完全に否定するのは難しいような気がする。しかしながら、だからといって優生思想を殺人実行につなげるのは飛躍があると感じる。いかなる思想も、殺人を正当化することはできない。

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2020年9月27日 (日)

義昭・信長、「二重政権」の綻び

書店で目に付いた『戦国期足利将軍研究の最前線』(山川出版社)が、なぜか気になり購入。今年5月発行のまだ新しい本。編者である山田康弘先生が執筆している序章は、応仁の乱の後の足利将軍(9代~15代)7人についての、簡潔で分かりやすい解説。さらに山田先生の単著『戦国時代の足利将軍』(吉川弘文館、2011年)も、アマゾンで古本を購入。こちらも読みやすい本だった。呉座先生の『応仁の乱』がヒットする前に、こういう「室町本」が出ていたのだな。

戦国時代の足利将軍といえば、最後の15代義昭を思い出す人が割と多いのではないか。しかしその人物イメージは、織田信長の支援を受けて将軍になったものの、結局は傀儡というか、あたかも「天下布武」実現のための道具として使われたような感じ。でも山田先生は『戦国時代の足利将軍』の中で、義昭と信長の関係について、「将軍と大名とが相互に補完しあうというこのような『二重政権』構造は、義昭以前の歴代将軍においても一般的にみられたのであり」、義昭と信長の「二重政権」についても「前代からの連続性という面にもっと注目すべきである」、と興味深い指摘を行っている。

もともと室町幕府は、将軍と守護大名の連合政権という性格が強かった。応仁の乱以後、幕府の権力の及ぶ範囲が畿内周辺にスケールダウンする中でも、将軍と細川氏あるいは三好氏などサポート役の大名が、お互いに利用し利用されるという関係が続いていた。従って信長も上洛後、ひとまず細川や三好のポジションを占めたという見方もできる。

だが「信長の一つの特徴はその旺盛な勢力拡大欲」であり、そこが前代のサポート役の大名と大きく異なる点だった。当時の戦国大名は、「どの大名も優越的な地位を占めないように大名同士で頻繁に同盟関係を組み替えながら力のバランスを保っていく」という「バランス・オブ・パワー(勢力均衡)」を行動原理として持っていた。従って信長勢力の急速な強大化は、当然のように畿内周辺大名の反発を招き、激しい戦いが続く中で、さらに多くの大名が参加して信長勢力の抑え込みを図ることになる。

このいわゆる「反信長包囲網」は、義昭にとってもメリットのあるものだった。「そもそも戦国時代の歴代将軍は『危険性の分散』をはかるため、幅広い複数の在京大名に支えられる、という体制の再構築を目指し」ていたのであり、義昭もまた、自らのサポートを信長だけに依存するのはリスクが大きいと見ていたと思われる。従って義昭にとって、「信長以外の幅広い大名たちと積極的に連携していくことは自身の安全保障上どうしても必要なことだった」のである。

この義昭の諸大名との連携の動きは、ひたすら勢力拡大を志向する信長の目には、敵対的に映ったであろうことは想像に難くない。この辺の思惑の違いが、信長と義昭の関係が協調から対立に変化し、さらに決裂につながる一つの要因になったようだ。

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2020年6月20日 (土)

「近衛前久書状」にみる関ヶ原合戦

戦国時代の関白、近衛前久(このえさきひさ)といえば、上杉謙信や織田信長との親交で知られる「武闘派」の公家。近年、その前久が関ヶ原合戦直後に戦況を記した書状(慶長5年9月20日付)が注目されている。『関ヶ原大乱、本当の勝者』(朝日新書)に収められた白峰旬先生の論考から、前久書状のポイントを以下にメモする。

前久書状における重要なポイントは三点ある。まず一点目は、大垣城から移動した石田三成、島津義弘、小西行長などの主力諸将が布陣した場所についての記述として「山へあがった」としている点である。このことは、これらの主力諸将が平坦な地形である関ヶ原エリアに布陣したのではなく、地形的に山地である山中エリアに布陣したことを意味している。よって、主戦が行われたエリアは「山中」エリアであったことがわかるので、従来の通説では平地での両軍の戦い(激突)というイメージが持たれてきたが、この認識は改めなければならないだろう。

二点目は、戦闘経過として、家康方の軍勢が即時に攻撃して大勝利であったとしている点である。この記載は「吉川広家自筆書状案」に、「山中のことは即時に乗り崩され、ことごとく討ち果たされた」「(九月)十五日に家康はすぐに山中へ押し寄せて合戦に及び、即時に(敵を)討ち果たした」と記されている点と一致する。このことからすると、山中エリアに布陣していた石田方の主力諸将は、一方的に家康方の軍勢に攻め込まれて「即時」に敗北したのが事実であった。この点は、通説による戦闘経過の説明を大きく訂正しなければならない部分である。

三点目は、現在の毛利輝元の知行分をすべて広家にもらえることを条件に、広家が家康に味方したとする記載内容である。現在では、この家康側からの提示は文書として確認できないが、毛利輝元の陣営を必死に切り崩そうとした家康が、こうした破格の条件で吉川広家を一本釣りして味方につけようとしたことは容易に想像できる。

・・・白峰先生の示す関ヶ原合戦の新たな姿からは、吉川広家の動きが戦いの勝敗を決めたという印象が強くなる。広家の属する毛利軍が南宮山から動かなかったことにより、東軍は垂井辺りから何の障害もなく、中山道を西に関ヶ原方面へ進むことができた。そして、前夜に大垣城を出て当日の早朝、松尾山の麓の山中エリアに集まったばかりの、おそらくは陣形を充分に整えていなかったであろう西軍主力を急襲し短時間で壊滅させたのである。

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2020年6月14日 (日)

「関ヶ原大乱」の歴史的意味

関ヶ原大乱、本当の勝者』(朝日新書)は、武将研究家たちの一般向け論文集。同書を企画した白峰旬・別府大学教授は、関ヶ原合戦の見直しをリードしており、学問的用語として「慶長庚子の大乱」を提唱。その一般的な名称を「関ヶ原大乱」とした。その意味するところは、豊臣秀吉の死以来の徳川家康VS反家康の権力闘争が招いた長期的全国的な争乱、その帰結として関ヶ原合戦を考える、というものである。同書の「序章」の中で白峰先生は、関ヶ原合戦をマクロで見た場合、桐野作人氏が指摘した「私戦」の復活と「惣無事」体制の無効という視点は、洞察に富む卓見である、と評価する。そこでまず桐野先生の『謎解き関ヶ原合戦』(アスキー新書)からメモしてみる。

この合戦の全過程は、あくまで豊臣政権の主導権を誰が、どの勢力が握るかをめぐる政治的・軍事的な闘争として展開された。「惣無事」と呼ばれて豊臣政権の重要政策だった私戦禁止令が政権分裂による東西対立に伴って効力を失い、それまで抑圧されていた諸大名間の「私戦」が公然と復活した。このことが諸大名の領土拡張欲を刺激し、しかも、むき出しの「私戦」ではなく、東西両軍がそれぞれ標榜する「公儀」への「奉公」の手段として正当化されたのである。

・・・この桐野先生の考え方を基本的に認めながら、白峰先生は「惣無事体制の崩壊と公然たる私戦の復活」という、より混沌状況的な見方を示している。ここでもう一つ、本郷和人先生が『戦国武将の明暗』(新潮新書)で書いていることも、以下にメモしよう。

現代の我々には、「日本は一つ」であることが当たり前。でも、当時の人々には、豊臣秀吉が成し遂げた天下統一=「日本は一つ」は希有な事態であり、むしろ「群雄割拠」の方が普通である。
全国を挙げての争乱状態になってしまったら、「一つの日本」はご破算。「群雄割拠」の状態に戻ってしまう。だったら、少しでも領土を広げよう。そこで上杉軍は徳川の本拠である江戸を衝かず、北の最上を攻めた。
(九州の戦乱の主役である)黒田如水も「群雄割拠」への復帰を念頭に、領地の拡大を目指していたと考えるのが適当だと思います。

・・・本郷先生はさらに、当時の日本は「畿内・中国・四国・中部」と「関東・東北・九州」の二つの地域に区別されていた、という。いわば「中心」地域と「周縁」地域だ。この見方も組み合わせると、「中心」では「公儀のため」として正当化された「私戦」が、「周縁」ではむき出しの「私戦」が、起きていたと見てもよいだろう。いずれにせよ、長い戦乱の時代を経て日本に出現した織豊の天下統一政権が、秀吉の死により結局は一時的なものに終わるだろうと見る大名がいた、と想定するのはリアルな感じがする。おそらく当時は、天下統一が保たれるのか瓦解するのか、どっちに転んでもおかしくない状況だったのだろう。それでも「関ヶ原大乱」の結果、豊臣から徳川へとトップが入れ替わりながら統一政権の基盤がより強固になる方向へと進んでいくのだから、やっぱり、時代の必然に近い流れというのはあるのかなと思ったりするのです。

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