2019年9月16日 (月)

東海古城研究会見学会に参加

昨日9月15日、東海古城研究会の見学会「高橋陽介氏と行く新説・関ヶ原古戦場」に参加した。高橋氏は、白峰旬・別府大学教授と共に、関ヶ原合戦の通説見直しをリードする在野の歴史研究者。その当人が同行し現地で解説するバスツアーに、非会員も参加可能ということだったので、行って参りました。

当日朝8時30分に一宮駅に約50人が集合し、大型バスで出発。南宮山に程近い垂井城跡を経て関ヶ原・笹尾山(石田三成陣)に到着。島津義弘陣、小西行長陣、徳川家康最後陣を回り、関ケ原町歴史民俗資料館を見学。9月15日は関ヶ原合戦当日(旧暦)ということもあるのだろう、陣跡界隈や資料館では、旅行会社の団体ツアーと覚しき人々も多数行動していた。

Photo_20190916194401 昼食後、関ケ原駅から西に向かって進む。この日の最高気温は34度、強い日射しが照りつける中で藤堂高虎陣、福島正則陣と回った後は、いよいよ高橋説の「西軍陣地」である藤下(とうげ)及び山中地区に入る。いくつかのポイントで高橋氏の解説が行われ、山中にある(通説の)大谷吉継陣の付近で今回の古戦場巡りを終了。不破関資料館で待つバスに乗り、夕方5時30分頃一宮駅に戻った。写真は、藤古川付近で参加者と話す高橋氏(右端)。後方にある山は、高橋説の西軍陣地(自害峰)。

これで今年は、中日文化センター講座(名古屋、5・6・7月)、佐賀戦国研究会シンポジウム(小倉、6月)、そして今回バスツアーと、自分的には高橋イヤーになっている。ちょっと前は、呉座勇一先生の話を聞きに京都へ何度か足を運んだりしていたので、転勤で今名古屋にいるのも自分的には結構便利というか妙にタイミングが合ってるというか。

「応仁の乱」にしても「関ヶ原合戦」にしても、後世に書かれた軍記物をベースにした通説的ストーリーを、当時の当事者が書き残した書状や日記など一次史料を基に見直すというトレンドの中にあるわけで、これから先もどんな新説が現れて過去が更新されるのだろうかと楽しみに感じる。

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2019年9月 8日 (日)

南宮山(毛利秀元陣跡)に上る

先日、岐阜県垂井の南宮山に上った。関ヶ原合戦時、毛利秀元を大将とする毛利軍が陣を置いた山である。

垂井駅の南、タクシーで5分程度走ったところにある南宮大社の脇から、ハイキングコースとして整備された道を上っていく。スタート地点には安国寺恵瓊の陣地跡がある。自分が上り始めたのは朝9時半頃だったが、上から下りてくる人と何人かすれ違った。随分早い時間から上る人がいるのだな。

いちおう事前にネットで見たりして、頂上近くの毛利秀元陣跡まで1時間程度の道のりとは承知していたのだが、丸木の階段が延々と続く急な坂道を上るのは結構しんどかった。行けども行けども急な上りが続き、口からは「暑い」「ちくしょー」「もうだめだー」等々文句しか出てこない。

ゴールはまだかまだかと思いながらひたすら歩いていると、突如目の前にシカが現われた。山道の真ん中で行く手を遮るようにシカは横向きで立ち、顔はこちらに向けていた。自分も思わず足を止めて、普段は目にしない野生動物に見入るばかりだった。シカは特に慌てる様子もなく、道から外れて草木の中に分け入っていった。いやあ~びっくりした~というか、こんなことあるんだ。(クマじゃなくてよかった)

Photo_20190913211901 とにかくひいひいはあはあ言いながら、ついに展望台(毛利秀元陣跡)に到着。草むらに足を踏み入れるとバッタが何匹も飛び立った。いちおう事前の目処のとおり1時間余りのハイキングではあったが、ようやく辿り着いたというのが実感。

展望台の東屋に置かれたクリアケースには、ノートや資料コピーが入っていた。その資料コピーによると、毛利秀元の陣城は慶長5年(1600)9月7日より15日の決戦当日までの間に構築されたものである。陣跡は南宮山の東方、404mの峰に位置している。関ヶ原方面は見ることができない。逆に大垣方面は一望のもとに見渡せる。城郭の構造からも、大垣を正面として意識した築城であることがわかる。とのことで、コピー元は何の本か分からないが、執筆者と縄張図の作成者は「中井」とあり、おそらく中井均先生の手になるものと思われる。

Photo_20190913212501 慶長5年の9月14日時点では、大垣城とその西にある南宮山が、東軍と西軍の主戦場と想定されていたが、14日の夜に大垣城の西軍主力が関ヶ原に移動し、翌15日に戦いが起きた。南宮山の毛利軍は、重臣の吉川広家が東軍に内通したこともあり、結局その場を動くことなく終わった。

南宮山の毛利陣地は、大垣城の西軍主力と連携した陣地であることを納得して下山。所々でカエルやトカゲなどを目撃しながら、石のたくさん転がる急な坂道をゆっくりと下った。結局下りも1時間以上かかった。南宮山の上り下りはとにかくきつい。脚は痛くなったし、「疲れた」のほかに言うことなし。

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2019年8月31日 (土)

二重公儀論と大坂の陣

新刊『新視点関ヶ原合戦』(平凡社)の中で著者の白峰旬先生は、「徳川と豊臣を対等の関係で見ないと、大坂の陣というのは政治的に正しく理解できない」と記す。同書の「エピローグ」からメモする。

そもそも、なぜ徳川家康は、豊臣秀頼を改易できなかったのか、改易で済めば、わざわざ戦争(大坂の陣)をする必要はなかったはずである。
笠谷和比古氏による二重公儀論に立脚すれば、豊臣公儀と徳川公儀は対等であることがわかるので、大坂の陣は、両者の政治的交渉の失敗から戦争に発展した、という見方が正しいと思われる。
徳川家康が豊臣秀頼を改易できなかった理由は、一方の公儀(徳川公儀)が他方の公儀(豊臣公儀)を改易することはできなかったからであり、戦争で決着するしかなかったからである。
大坂の陣は、私見では、幕府VS.大名という見方ではなく、徳川公儀と豊臣公儀の決戦であった、と考えられる。

・・・ところで二重公儀論に否定的なのは本郷和人先生。『怪しい戦国史』(産経新聞出版)からメモする。

ぼくは「二重公儀体制論」が理解できない。従者は主人に戦いへの参加など、命を賭けての奉公をする。主人は恩賞(主に土地)を以てそれに報いる。かかる社会契約が「主従制」です。そして、すべての武士を理念的に従者として編成する存在が将軍であり、公儀なのです。
大坂の陣が起きたときに、徳川幕府に出仕する現役の大名は誰一人、大坂方に与同しなかった。彼らに領地を与えているのは徳川将軍家なのですから、その旗の下に参陣するのが従者としての義務なのです。この実に単純明快な事実は、何よりも雄弁に「二重公儀体制」を否定すると思うのですが、どうでしょうか。

・・・ネットで検索したら出てきたのは、渡邊大門先生の「二重公儀体制」説に対する評価(雑誌「歴史街道」2014年12月号より)。渡邊先生は、「二重公儀体制」も完璧な説ではなく、形式的な側面からのアプローチになっており、実態からの分析が十分ではない、と見ている。

関ヶ原合戦の後、家康が秀頼を改易しないまま10年以上経過したのは、豊臣が公儀であったがための結果なのか、それとも別の理由があったのか。はたして「豊臣公儀」はどこまで実態を伴うものなのか。大坂の陣における豊臣方の兵は牢人の寄せ集めだったことを思えば「公儀」と呼ぶのは疑問に感じるし、本当に公儀対公儀の決戦だったとしたら、大坂に留まらず全国規模の争乱になったのではないかと思う。

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2019年8月30日 (金)

復元「大坂冬の陣図屏風」の謎

先日、徳川美術館で公開されている「大坂冬の陣図屏風」を見た(特別展「合戦図」、9月8日まで)。

Photo_20190829214601

これは、現存していない屏風を、残された模本(模写)を元に彩色を施すことにより「デジタル復元」したもの。巨大城郭大坂城に押し寄せる徳川方の大軍、真田丸の攻防など、戦国時代最後の大戦の有り様が精密に描かれている。

この屏風を見に行こうと思ったのは、NHKBSプレミアム番組を見て興味を持ったから(「英雄たちの選択」謎の屏風が語り出す~復元推理 大坂冬の陣図屏風~)。
番組では、作者、発注者共に不明である「大坂冬の陣図屏風」について、磯田道史、小和田哲男、千田嘉博ほかの先生方が謎の発注者を推理。
まずはとにかく大坂城が綺麗に正確に描かれていることや、豊臣方が戦いの主役としてクローズアップされていることなどから、①豊臣家にシンパシーを持つ人物、②豊臣大坂城をよく知る人物、そして③屏風を作らせる財力がある人物(城持ち大名クラス、最低でも3万~5万石)を条件に、真田信之、伊達政宗、徳川秀忠、蜂須賀至鎮(よししげ)、そして千姫が発注者の候補として挙げられた。

徳川家康の存在感が意図的に抑えられているように見えるのも、ちょっと不思議なところ。家康の陣は端っこに小さく描かれているし、家康が戦場に持ち込んだ大砲や鉄の楯も見当たらない。秀吉の死後、家康が大坂城西の丸に作った天守も雲に隠されている、という具合だ。

番組の中で提出された「発注者」の中では、自分は伊達政宗かなと思う。豊臣へのシンパシーは無いと思うけど、徳川権力に対する反骨心が屏風に現れているような気がする。

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2019年7月 6日 (土)

福島正則はリアリストだ(推測)

福島正則の「暴れ者」イメージは正しいのか?と問うのは本郷和人先生。新刊『怪しい戦国史』(産経新聞出版)から以下にメモする。

正則は無類の暴れ者だったけれど、一方では誰よりも豊臣家に対して忠誠心をもっていた。そこで徳川家康は正則の「石田三成嫌い」の部分をこれでもか、と刺激し続けた。そのクライマックスが、三成挙兵の報を受けて開かれた「小山評定」。正則はいの一番に「徳川内府にお味方をし、にっくき三成めを成敗する」と獅子吼。ここに「東軍」が誕生した、というストーリーがしばしば描かれています。これは、正則は「三成憎し」の怨念にとらわれた、という見方ですね。家康は「正則の単細胞っぷり」につけ込み、結局、関ヶ原で勝利した、ということになります。

本当でしょうか? ぼくにはそうは思えません。正則は堂々たる一国一城の主、つまり多くの家臣たちの生活に責任をもつ大企業の経営者なのです。自分の感情だけで去就を決するとは思えない。それに彼は「弱肉強食」の戦国の様子、より具体的に言えば、羽柴秀吉が織田家の天下を奪い取るさまを現場で見ている。家康が勝利すれば、三成が滅ぶだけでなく、豊臣の天下が終わることも十分に分かっていた。それでも「福島家」が生き残り、より繁栄することを目指して、家康に味方したのではないでしょうか。

・・・福島正則はリアリストだった、と推測する。幾多の戦国大名の栄枯盛衰を見ていた正則は、ここでは家康に味方するのが福島家にとって最善と判断したのだろう。そして家康も、自軍の勝利のために正則を最も必要としていた。「小山評定」以降、関ヶ原合戦に至るまで、家康が最も多く書状を出した相手は正則だったことからも、そのことが窺える。要するに、正則と家康は利害が一致していた。こう考えると、「三成憎し」の理由は後付けの感が強くなる。

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2019年6月23日 (日)

「関ヶ原」シンポジウム in 小倉

本日は九州・小倉で開催された歴史シンポジウム「関ヶ原の戦いを再検討する」(佐賀戦国研究会の主催)に足を運んだ。はるばる遠征したのは、講演者の顔ぶれに引きつけられたからだ。関ヶ原新説をリードする白峰旬、高橋陽介、乃至政彦の3氏が揃い踏みなのである。名古屋からだと新幹線で3時間乗れば着くから日帰りでOK。転勤で名古屋在住である我が身を有り難いと思った。

会場のKOKURAホールは、小倉駅から徒歩10分程度の場所にある。ビルの中の大きめの会議室という感じで、参加者はざっと50名程度か。シンポジウムの進行は、白峰先生(豊臣七将襲撃事件はあったのか)、高橋先生(「九州の関ヶ原」と加藤清正)、乃至先生(上杉景勝の用兵思想と政変戦略)の順に、各40分程度講演。その後3氏が互いの発表内容について意見交換を行った。

白峰先生は既に「問い鉄砲」「小山評定」は無かった(フィクションである)と主張しているのに続いて、豊臣武断派武将の石田三成襲撃事件もフィクションとの説を提示。白峰先生の手にかかると、関ヶ原の「見せ場」はみんな無くなっちゃう(笑)。でも、言われてみれば現実の動きはそんなに劇的な展開であるはずもないよな、と納得してしまう。

このほか、加藤清正という人物は過大評価されているとか、上杉景勝が徳川家康との戦いを決意した動機を探るべき、との興味深い観点も出された。確かに歴史上の人物は、その行動は把握できても、何を考えていたかまではなかなか分からない。

関ヶ原だと自分は、福島正則が何を考えていたかが結構気になる。豊臣秀吉子飼いの武将である正則は、なぜ徳川家康に味方したのか。石田三成憎しから? そんな単純な話じゃないだろう。家康が一番多く手紙を出した相手は正則だった。いつ手のひらを返すか、気が気でなかったらしい。実際、関ヶ原では最後まで東軍先鋒を務めた正則の動きが、戦局の行方を大きく左右したわけだし。加藤清正が過大評価される一方で、福島正則は過小評価されていると思う。

それはそうと、本日のシンポジウムでは、関ヶ原合戦の白峰説、高橋説の相違点についてストレートな議論があるかも、と期待してたけど、それは無し。そこは少し残念な感じでした。

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2019年5月23日 (木)

歴史を学ぶ意義

呉座勇一・国際日本文化研究センター助教の語る、歴史を学ぶ意義とは。本日付日経新聞文化面記事(令和の知をひらく)から以下にメモ。

歴史に限らず「唯一絶対の正解があり、そこに必ずたどり着ける」と考える人は多いが、現在の複雑な社会で、簡単に結論の出る問題はない。
ネットを通じ、情報の入手自体は簡単になった。それをいかに分析し、価値あるものを選び出していくか。歴史学の根幹はこの「史料批判」にある。リテラシーを身につけるひとつの手段として、歴史学の研究成果に親しんでもらえたらと思う。

歴史を学ぶ意義は大きく2つある。1つは現代の相対化だ。かつて、いま我々がいる社会とは全く違う仕組みの社会が存在した。異なる常識で動いていた社会を知ることが、我々の価値観を疑ったり「絶対に変えてはいけないものなのか」と問いかけたりするきっかけになる。

もう1つは、社会の仕組みが異なっても変わらない部分を知ること。親子や兄弟の絆、宗教的観念などは、時代を超えて今につながるものがある。この両面を通して、我々はこれからどう生きるべきか、ヒントを引き出せるのではないか。

・・・違う時代の違う国のことを学べば、現代日本社会の価値観を相対的に見ることができる。すると、この社会における支配的な価値観に全面的に付き合う必要などないのだ、ということが了解できるだろう。

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2019年5月 9日 (木)

歴史は変わる、昭和史も変わる

昭和史については、新しい実証研究の成果に基づく新しい解釈が生まれているにも関わらず、それらが人々の間に充分共有されているとはいえない――本日付日経新聞オピニオン面のコラム記事(昭和の教訓、生かす時代に)からメモする。

近年来の昭和史ブームのなか、たくさんの本が刊行され、読者を得ている。これ自体は歓迎すべきだが、筒井清忠・帝京大教授はこう指摘する。
「一般向けの昭和史本には最新の研究成果を踏まえず、過去の俗説や誤りがそのままになっている書物が氾濫している。このままでは複雑な過程をたどった昭和史への理解が深まらず、単純な歴史観が横行してしまう。危うい状況と言わざるを得ない」

では、どうすればよいのだろう。広がる読者の需要に応えようと、歴史研究を専門としないジャーナリストや作家、識者らが次々と参入し、昭和史本を刊行している。書き手のすそ野が広がるのは良いことだが、執筆にあたっては入念に最新の学説を洗い出し、反映する努力をさらに尽くす必要があるだろう。

状況を改めるうえで、歴史研究者が果たせる役割も大きい。そのひとつが、個々の専門領域から一歩踏み出し、一般の読者にもわかりやすい近現代の通史を、もっと手がけることだと思う。

・・・昭和史に限らず、新たな研究と解釈により、歴史の通説が変わっていくことは、例えば日本史教科書の内容が昭和と平成で違うということにも現れている。歴史の見方が変化していく中で、極端に言うとジャーナリズムの人は自分の推理も含めて不確かなことを書き散らし、アカデミズムの人は狭い専門の内に留まり確かなこと以外は語らない。最近も週刊ポスト誌上で井沢元彦氏と呉座勇一氏の「論争」があったりして、作家と学者のすれ違いは今に始まったことではないが、とにかく新しい学問的成果を分かりやすく一般人に伝える仕事を担う人材が、もっともっと必要かもしれない。

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2019年5月 8日 (水)

謎多き平将門の反乱

平将門と天慶の乱』(乃至政彦・著、講談社現代新書)を題材とした、堀井憲一郎のコラム記事(サイト「現代ビジネス」5月7日発信)から以下にメモする。

平将門はずいぶん古い時代の人である。武士の原型のような人ではあるけれど、武士として生まれて武士として育つ、という時代の人ではない。貴族時代の人である。

平将門のドラマは私は一回しか見たことがない。1976年のNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』である。加藤剛が将門を演じていた。まあ、時代が昔すぎて細かいことがわからないというのもあるが、日本史上、類のない反逆者である将門は、なかなかドラマ化されない。

平将門は桓武天皇の5世の孫である。朝廷がしっかり支配できていない遠国を、安定支配するよう現地にて努力している「辺境軍事貴族」という立場だ。将門は武士の棟梁を目指していたわけではない。彼が求めていたのは「辺境ながらも貴族」としてのしっかりした地位の保証であった。でも彼は無位無冠のままに終わる。

相続すべき土地や軍事機関などを叔父たちに奪われそうになったので、戦いはじめると鬼神のごとき働きをみせ、連戦連勝、名を馳せ、自分の土地を守りきる。戦さが重なり、京都の朝廷の出先機関を襲い、中央から派遣された国司を追い出し、関東一円を支配した。

将門は、自分の地元だけを治めようとしただけで、関東エリア全域を独立させ、別国家の樹立を考えてなぞいなかっただろう、という研究者もいる。でもどう考えたって、「おれたちは日本から独立して、おれたちだけの関東の王国を作る」という話のほうがロマンに満ちている。

・・・確かに平将門は大昔の人と言って良い。源頼朝の250年も前になる。関東の出来事だし、将門は何となく頼朝の先駆者かと思えたけど、将門は武士ではなく「軍事貴族」だというから、どうも違うみたいだ。結局、将門の反乱とは何だったのか、大昔のことだしよく分からないという感じ。

乃至本を読むだけでは当時のイメージがわかないので、大河ドラマ(総集編)のDVDも見た。昔の大河で自分が熱心に見たのは、将門ドラマの3年前の『国盗り物語』。あの頃の大河ドラマは演出に一貫性があったなと思う。

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2019年3月22日 (金)

「世界史のリテラシー」

『サピエンス全史』が話題など世界史ブームの裏側には、「世界史のリテラシー」への渇望があると言うのは、山下範久・立命館大学教授。「世界史のリテラシー」とは、歴史のディテールや物語性の裏側を見通す力、「歴史がそのように書かれているのはなぜか」を適切に問う力だという。東洋経済オンライン本日付発信記事から、山下先生の話の一部を以下にメモする。

歴史は過去の再現ですが、過去のすべてを完全に再現することはできません。書かれたもの(あるいは語られたもの)としての歴史には必ず事実の取捨があります。意味のある、筋の通った歴史であればあるほど、その取捨にはなんらかの論理を具えた枠組みがあります。例えば清教徒革命やフランス革命が世界史の重要な事件とされる背後には、議会制民主主義の成立を近代社会の本質として歴史を見る枠組みがあります。

協調を志向するリベラルな国際秩序、議会制民主主義、経済成長を前提とした豊かな社会、理性的行為者として平等な「人間」など、私たちがなじんできた「世界史」の主題や基調は、こうした「近代」の達成の物語を描く枠組みに深く埋め込まれています。

しかし実際には、その枠組みの前提で「近代」の「達成」とされているものが、まさに今揺らいでいるわけです。このことは、ただちに近代が終わったとか、近代的な価値がただのイデオロギーでしかなかったということを意味するわけではありません。しかし、これまでの枠組みを、さらに広い視野やさらに深い次元に開いて位置づけ直す必要が出てきたと言うことはできるでしょう。

(世界史の本が読まれるのは、)深い次元での世界史への枠組みへの関心、つまり「世界史のリテラシー」を鍛え直したいという願望が読者の皆さんに潜在的に共有されているからだと思います。危機の時代とは、「世界史のリテラシー」への飢えが高まる時代なのです。

・・・どうやら、世界史を考えるとは近代を捉え直すということのようだ。近代批判のムーブメントは、80年代の半ばに「ポストモダン現代思想」ブームとして現われたが、昨今は思想よりもっと具体的な、歴史的事象の捉え方を問い直す「世界史ブーム」として現われているようにも思える。(最近の柄谷行人が「世界史」の本を書いているのも納得、という感じだ)

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