2019年5月23日 (木)

歴史を学ぶ意義

呉座勇一・国際日本文化研究センター助教の語る、歴史を学ぶ意義とは。本日付日経新聞文化面記事(令和の知をひらく)から以下にメモ。

歴史に限らず「唯一絶対の正解があり、そこに必ずたどり着ける」と考える人は多いが、現在の複雑な社会で、簡単に結論の出る問題はない。
ネットを通じ、情報の入手自体は簡単になった。それをいかに分析し、価値あるものを選び出していくか。歴史学の根幹はこの「史料批判」にある。リテラシーを身につけるひとつの手段として、歴史学の研究成果に親しんでもらえたらと思う。

歴史を学ぶ意義は大きく2つある。1つは現代の相対化だ。かつて、いま我々がいる社会とは全く違う仕組みの社会が存在した。異なる常識で動いていた社会を知ることが、我々の価値観を疑ったり「絶対に変えてはいけないものなのか」と問いかけたりするきっかけになる。

もう1つは、社会の仕組みが異なっても変わらない部分を知ること。親子や兄弟の絆、宗教的観念などは、時代を超えて今につながるものがある。この両面を通して、我々はこれからどう生きるべきか、ヒントを引き出せるのではないか。

・・・違う時代の違う国のことを学べば、現代日本社会の価値観を相対的に見ることができる。すると、この社会における支配的な価値観に全面的に付き合う必要などないのだ、ということが了解できるだろう。

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2019年5月 9日 (木)

歴史は変わる、昭和史も変わる

昭和史については、新しい実証研究の成果に基づく新しい解釈が生まれているにも関わらず、それらが人々の間に充分共有されているとはいえない――本日付日経新聞オピニオン面のコラム記事(昭和の教訓、生かす時代に)からメモする。

近年来の昭和史ブームのなか、たくさんの本が刊行され、読者を得ている。これ自体は歓迎すべきだが、筒井清忠・帝京大教授はこう指摘する。
「一般向けの昭和史本には最新の研究成果を踏まえず、過去の俗説や誤りがそのままになっている書物が氾濫している。このままでは複雑な過程をたどった昭和史への理解が深まらず、単純な歴史観が横行してしまう。危うい状況と言わざるを得ない」

では、どうすればよいのだろう。広がる読者の需要に応えようと、歴史研究を専門としないジャーナリストや作家、識者らが次々と参入し、昭和史本を刊行している。書き手のすそ野が広がるのは良いことだが、執筆にあたっては入念に最新の学説を洗い出し、反映する努力をさらに尽くす必要があるだろう。

状況を改めるうえで、歴史研究者が果たせる役割も大きい。そのひとつが、個々の専門領域から一歩踏み出し、一般の読者にもわかりやすい近現代の通史を、もっと手がけることだと思う。

・・・昭和史に限らず、新たな研究と解釈により、歴史の通説が変わっていくことは、例えば日本史教科書の内容が昭和と平成で違うということにも現れている。歴史の見方が変化していく中で、極端に言うとジャーナリズムの人は自分の推理も含めて不確かなことを書き散らし、アカデミズムの人は狭い専門の内に留まり確かなこと以外は語らない。最近も週刊ポスト誌上で井沢元彦氏と呉座勇一氏の「論争」があったりして、作家と学者のすれ違いは今に始まったことではないが、とにかく新しい学問的成果を分かりやすく一般人に伝える仕事を担う人材が、もっともっと必要かもしれない。

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2019年5月 8日 (水)

謎多き平将門の反乱

平将門と天慶の乱』(乃至政彦・著、講談社現代新書)を題材とした、堀井憲一郎のコラム記事(サイト「現代ビジネス」5月7日発信)から以下にメモする。

平将門はずいぶん古い時代の人である。武士の原型のような人ではあるけれど、武士として生まれて武士として育つ、という時代の人ではない。貴族時代の人である。

平将門のドラマは私は一回しか見たことがない。1976年のNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』である。加藤剛が将門を演じていた。まあ、時代が昔すぎて細かいことがわからないというのもあるが、日本史上、類のない反逆者である将門は、なかなかドラマ化されない。

平将門は桓武天皇の5世の孫である。朝廷がしっかり支配できていない遠国を、安定支配するよう現地にて努力している「辺境軍事貴族」という立場だ。将門は武士の棟梁を目指していたわけではない。彼が求めていたのは「辺境ながらも貴族」としてのしっかりした地位の保証であった。でも彼は無位無冠のままに終わる。

相続すべき土地や軍事機関などを叔父たちに奪われそうになったので、戦いはじめると鬼神のごとき働きをみせ、連戦連勝、名を馳せ、自分の土地を守りきる。戦さが重なり、京都の朝廷の出先機関を襲い、中央から派遣された国司を追い出し、関東一円を支配した。

将門は、自分の地元だけを治めようとしただけで、関東エリア全域を独立させ、別国家の樹立を考えてなぞいなかっただろう、という研究者もいる。でもどう考えたって、「おれたちは日本から独立して、おれたちだけの関東の王国を作る」という話のほうがロマンに満ちている。

・・・確かに平将門は昔の人だ。源頼朝の250年も前になる。関東の出来事だし、将門は何となく頼朝の先駆者かと思えたけど、将門は武士ではなく「軍事貴族」だというから、どうも違うみたいだ。結局、将門の反乱とは何だったのか、大昔のことだしよく分からないという感じ。

乃至本を読むだけでは当時のイメージがわかないので、大河ドラマ(総集編)のDVDも見た。昔の大河で自分が熱心に見たのは、将門ドラマの3年前の『国盗り物語』。あの頃の大河ドラマは演出に一貫性があったなと思う。

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2019年3月22日 (金)

「世界史のリテラシー」

『サピエンス全史』が話題など世界史ブームの裏側には、「世界史のリテラシー」への渇望があると言うのは、山下範久・立命館大学教授。「世界史のリテラシー」とは、歴史のディテールや物語性の裏側を見通す力、「歴史がそのように書かれているのはなぜか」を適切に問う力だという。東洋経済オンライン本日付発信記事から、山下先生の話の一部を以下にメモする。

歴史は過去の再現ですが、過去のすべてを完全に再現することはできません。書かれたもの(あるいは語られたもの)としての歴史には必ず事実の取捨があります。意味のある、筋の通った歴史であればあるほど、その取捨にはなんらかの論理を具えた枠組みがあります。例えば清教徒革命やフランス革命が世界史の重要な事件とされる背後には、議会制民主主義の成立を近代社会の本質として歴史を見る枠組みがあります。

協調を志向するリベラルな国際秩序、議会制民主主義、経済成長を前提とした豊かな社会、理性的行為者として平等な「人間」など、私たちがなじんできた「世界史」の主題や基調は、こうした「近代」の達成の物語を描く枠組みに深く埋め込まれています。

しかし実際には、その枠組みの前提で「近代」の「達成」とされているものが、まさに今揺らいでいるわけです。このことは、ただちに近代が終わったとか、近代的な価値がただのイデオロギーでしかなかったということを意味するわけではありません。しかし、これまでの枠組みを、さらに広い視野やさらに深い次元に開いて位置づけ直す必要が出てきたと言うことはできるでしょう。

(世界史の本が読まれるのは、)深い次元での世界史への枠組みへの関心、つまり「世界史のリテラシー」を鍛え直したいという願望が読者の皆さんに潜在的に共有されているからだと思います。危機の時代とは、「世界史のリテラシー」への飢えが高まる時代なのです。

・・・どうやら、世界史を考えるとは近代を捉え直すということのようだ。近代批判のムーブメントは、80年代の半ばに「ポストモダン現代思想」ブームとして現われたが、昨今は思想よりもっと具体的な、歴史的事象の捉え方を問い直す「世界史ブーム」として現われているようにも思える。(最近の柄谷行人が「世界史」の本を書いているのも納得、という感じだ)

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2019年3月17日 (日)

関ヶ原合戦研究の難しさ

先頃、呉座勇一先生が関ヶ原合戦新説の整理と批判を行う講座に、2回参加した(2月4日中日文化センター・栄、3月16日NHK文化センター・京都)。

呉座先生の評価は、近年の新説が主に依拠する吉川広家書状案など覚書類は、後世の軍記物より信頼できるとはいえ、あくまで「回顧録」であり、覚書類で合戦の姿がどこまで復元できるかは慎重に見たい。関ヶ原合戦研究の難しさは、史料が非常に少ないところにある。通説は崩れているが、それに代わる確かな合戦の姿を示すのも難しい、というものでした。

まあ学問的にはそういうことなんだろうな、と了解する。信頼できる史料の批判に基づき、過去の事実を復元する、という歴史学の基本的なアプローチからすれば、白峰、高橋両先生がリードする関ヶ原新説はいろいろ推測が入ってくるので、どこまでホントなのか分からないと言えば分からない。正確性を第一に求めるならば、史料のないことは分からないというのが、学問的には正しいのだろう、とは思う。

とは思いながらも、関ヶ原合戦はもともと史料が少ないところで、時間の経過と共にあれやこれやストーリーが作られ加えられてきて、今見るような通説になったしまったわけだから、それはさっさと「お話」として脇に置いて、改めて史実は何か、あえて合理的推測も加えて踏み込んで考えないと、歴史の理解は進まないという感じもする。

呉座先生のほかには、桐野作人先生は関ヶ原新説をどう評価しているのか気になりますね。

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2019年2月16日 (土)

歴史本の読者が求めるもの

本日付日経新聞コラム記事「日本史ひと模様」(執筆者は歴史学者の本郷和人)から以下にメモする。

いま中世史研究者の注目の的は、『応仁の乱』で大ヒットをとばされた呉座勇一さんに尽きる。47万部を売り上げたというその偉業に、みんなが瞠目した。
応仁の乱は、細川氏を中心とする70年来の勝ち組に、山名氏をリーダーとする負け組が再挑戦したもの。結果は再び細川グループの勝利。ぼくは以前からそう説明していたが見向きもされない。これに対して呉座さんは「この戦いはよく分からないものである」とされ、社会の支持を得た。
この戦いは何であるか。その意義は何か。そう問いかけること自体が賢しらな振る舞いで、否定されるべきなのだ。分からないものは分からないまま丁寧に描写する。その謙虚な姿勢こそが大切なのだ。

・・・と、本郷先生は言うのだが、自分は『応仁の乱』(中公新書2016年10月発行)成功の理由は、歴史好きの読者の関心を幅広いレベルで集めたことではないかと推測する。まず、応仁の乱の名前を知っていても、どういう戦いだったっけ?と思う素朴なレベルの人が、とりあえずこの本を手に取る。もう少し知っている人は、足利将軍家の後継争いを原因とする通説的なストーリーとは違う乱の姿に、興味を深めるだろう。さらに上級者には、分かりにくい乱の全体像を理解しようというチャレンジな気持ちを呼び起こすかもしれない。

付け加えると、乱の本質・意義についても、細川と山名二つの大名連合の激突であるとして、乱の結果、守護在京制は崩壊したと解説されている。この本では、細川と山名の勝ち負けの判定は分からないのかも知れないが、乱そのものが分からないものとして提示されているわけではない。

このほか歴史に関心の無い人の中にも、版元の広告に登場した呉座先生のルックスに注目して、本を買った人がいるかも知れない。(苦笑)

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2019年2月 8日 (金)

宗教と自由主義のせめぎ合い

日本人は、一神教の宗教観である法としての宗教、政治共同体の絆としての宗教という考え方を理解していないため、国際政治における宗教の影響をうまく捉えられていない――本日付日経新聞「経済教室」(宗教と国際政治、執筆者は池内 恵・東京大学教授)からメモ。

宗教信仰が個々人の内面に限定され、国家や政治への影響力を弱める世俗化と政教分離のプロセスこそが、近代化の主要で不可欠な要素という考え方は広く普及した。しかし現在、非西欧の諸地域が経済発展を成し遂げても、それが世俗化や政教分離に結びつかず、宗教が根強く人々の社会生活と政治を規定し続け、宗教原理主義の台頭を招く場合すらあることが目撃されている。

人間社会の規範は誰がどのように定めるのかという究極の問題に対し、人間を超越した絶対的な神が律法を啓示するのか、それとも個々の人間の理性が自由に思考・議論して規範を発見し合意するのか、すなわち「理性と啓示」の対立は、古代の中東と地中海世界で問題化され発展し、言語で理論化・体系化された。この対立の中でユダヤ教・キリスト教・イスラム教と連なる「セム的一神教」が生まれ、他方でギリシャ哲学を淵源とする科学が発展し、いずれも世界に広がった。

宗教と科学の対立は、中東と地中海世界の政治・社会・経済の発展の不可欠の要素と言ってよく、近代西欧文明もここに淵源を持つ。近代西欧の発展は、個々の人間が宗教規範の支配から脱し、自由に規範を選び作っていくという、人間主義と個人主義の優位に大きく振れた。

これは、近代国家の政治や経済の原則として広まったリベラリズムの根拠である。リベラリズムは、人間が自律した意志で自由に選択する能力を持つという人間観・世界観を前提にしており、宗教を時代遅れのものとみなす世俗主義を重要な要素とする。

米国でトランプ現象が、西欧諸国で移民への拒絶反応が起き、中東諸国で過激派組織「イスラム国」(IS)の台頭や宗派共同体間の紛争が生じるなど、様々な事象の根底には、リベラリズムへの信頼の低下あるいは明確な反発がある。これは宗教の政治への影響力の増大と軌を一にした、同根の現象と見るべきである。

・・・単なる世俗国家である日本は、一神教もリベラリズムも根本的には理解できないのかも知れない。とはいえ昨今の国際政治の様相は、日本人に一神教への理解を深めるよう求めているのは確かだろう。

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2019年2月 5日 (火)

「平成」と「中世」

平成の30年間とはどんな時代だったのか。『応仁の乱』の著者・呉座勇一先生から見れば、もちろん中世に似ている時代、である。本日付日経新聞のインタビュー記事「平成って」からメモ。

「日本の歴史を振り返ると、『平成』は『中世』と一番近いかもしれない」

武士が台頭し、鎌倉幕府を経て戦国時代へ向かう中世は、武士、朝廷、寺社勢力が入り乱れて覇権を争った。「先が見えず、つかみどころがない時代だった」という。
平成はバブル経済の絶頂期に幕開けし、その崩壊によるリストラの嵐、出口の見えない不況が続いた。自殺者は一時期3万人を超え、オウム真理教事件など無差別テロも起きた。「戦争こそなかったが、何が起きるかわからない混沌とした雰囲気があった」

中世で「応永の平和」と呼ばれる時期がある。戦乱が比較的少なく、社会が安定した。その応永(1394~1428年)は約35年間続き、明治以前では最も長い。「ほぼ平成と同じ期間だが、応永の平和は問題を先送りして、もめ事が起きないようにして保たれた。その矛盾が噴出したのが応仁の乱だとも言える」

・・・応永の時代は、足利義満(3代将軍)、義持(4代)による相対的安定期。その後、義教(6代)は暗殺され、義政(8代)は応仁の乱を招き、戦国の世が到来する。

日経新聞紙上では今年の初め、五木寛之も平成について同様の認識を示していた。「平成とは、問題をなし崩しに先送りしている中での相対的な安定期だったのではないか。(次の時代は)改めて激しい対立や激動が起こると思う」。ポスト平成は波乱の時代となる予感?

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2019年1月16日 (水)

歴史は科学か文学か

1月12日付日経新聞コラム記事「半歩遅れの読書術」(執筆者は国際政治学者の国分良成)では、E・H・カーの『歴史とは何か』、岡田英弘『歴史とはなにか』が取り上げられている。以下にメモする。

カーは、歴史上のさまざまな事象の原因についての仮説を立て、あらゆる過去の史料を駆使してそれを検証し、そうした作業の中から一定の法則性を見いだし一般化することが、現在と将来への教訓として役立つと考える。この点で、歴史は科学であり、理性を通して人類の進歩に貢献しうると主張する。

「歴史は物語であり、文学である。言いかえれば、歴史は科学ではない」と、岡田氏は言い切る。歴史は「ことばで組み立てるもので」、人間による現実の政治支配を正統化することから始まっており、結局のところ、歴史の中心を成すのは政治史だという。しかも歴史には古代史と現代(=近代)史の2つしかなく、「中世」というような進化論的な発展段階を入れるのは誤りで、現代史は19世紀に「国民国家」が成立し、「国民」の概念が歴史に挿入されてから始まったというのである。

しかし、この2人の泰斗には本質的な部分で共通点がある。両者ともに、歴史は歴史家によって組み立てられ、歴史的事実の解明には史料の精査・読解とそれに対する広い視野からの意味づけが必要であり、そして歴史ほど面白く人生を豊かにさせるものはない、という立場で一貫している。

・・・歴史学は科学である。その方法は史料の批判的検討。ただしさすがに今では、法則を見出すことまでは目的としていないだろうな。
歴史学の始まりは、国民国家の自己正当化のストーリー、だと思われるけど、今はそれこそグローバルヒストリーで、国民国家の来歴を超える同時代の地域横断的なストーリーが探求されている、ということなんだろうな。

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2019年1月15日 (火)

福島正則の転封

1月12日付日経新聞コラム記事「日本史ひと模様」(執筆者は歴史学者の本郷和人)に、豊臣秀吉子飼いの武将・福島正則が江戸時代の初め、将軍・徳川秀忠に事実上改易された事件の顛末について書かれているので、以下にメモする。

元和5年(1619年)、安芸・備後の太守・福島家は台風で破壊された広島城を修繕したが、これが居城の作事は必ず公儀へ届け出よ、とする『武家諸法度』違反に問われた。藩主の正則は2ヵ月前に言上したつもりだったが、幕府はそれを公的な届けと認めず、正式な許可を出していなかった。

福島側の言い分としては、城の防御力を高める工事ではない。雨漏りする部分を修繕しただけ。江戸にいた正則が自ら謝罪し、修繕部分を破却するという条件で騒ぎは一旦は収まったのだが、幕府が要求した「本丸以外の修繕分も破却」という条件に対し、正則は本丸のみ破却をおこない、二の丸・三の丸の修繕分は放置した。

これを知った将軍・秀忠は「破却が不十分である」と厳しく咎め立てた。結果、安芸・備後50万石は没収、一時話が出ていた弘前ではなく、信濃・川中島の高井郡など4万5千石(高井野藩)に減転封の命が出された。

こうした経緯を見ると、幕府は豊臣子飼いである正則の左遷を、虎視眈々と狙っていたと見るべきだろう。
移封後、正則は嫡男・忠勝に家督を譲ったが、その忠勝は翌年、早世した。寛永元年(1624年)、正則は高井野(長野県高山村)で死去した。享年は64。すっかりやる気を無くしていたかと思えばさにあらず、領主であった5年間に、領内の総検地、用水の設置と新田開発、治水工事などの功績を残している。

・・・豊臣恩顧の大名ながら、関ヶ原の戦いでは徳川家康側に付いて奮戦した福島正則。大大名に出世し、豊臣氏滅亡も見届けた後の急転落だったが、めげることなく晩年も治世に励んでいたとは、男気を見せたというところか。戦国武将好きには、加藤清正や石田三成の方が人気があるようだが、福島正則ももっと関心を持たれても良い人物だと思う。

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