2020年6月20日 (土)

「近衛前久書状」にみる関ヶ原合戦

戦国時代の関白、近衛前久(このえさきひさ)といえば、上杉謙信や織田信長との親交で知られる「武闘派」の公家。近年、その前久が関ヶ原合戦直後に戦況を記した書状(慶長5年9月20日付)が注目されている。『関ヶ原大乱、本当の勝者』(朝日新書)に収められた白峰旬先生の論考から、前久書状のポイントを以下にメモする。

前久書状における重要なポイントは三点ある。まず一点目は、大垣城から移動した石田三成、島津義弘、小西行長などの主力諸将が布陣した場所についての記述として「山へあがった」としている点である。このことは、これらの主力諸将が平坦な地形である関ヶ原エリアに布陣したのではなく、地形的に山地である山中エリアに布陣したことを意味している。よって、主戦が行われたエリアは「山中」エリアであったことがわかるので、従来の通説では平地での両軍の戦い(激突)というイメージが持たれてきたが、この認識は改めなければならないだろう。

二点目は、戦闘経過として、家康方の軍勢が即時に攻撃して大勝利であったとしている点である。この記載は「吉川広家自筆書状案」に、「山中のことは即時に乗り崩され、ことごとく討ち果たされた」「(九月)十五日に家康はすぐに山中へ押し寄せて合戦に及び、即時に(敵を)討ち果たした」と記されている点と一致する。このことからすると、山中エリアに布陣していた石田方の主力諸将は、一方的に家康方の軍勢に攻め込まれて「即時」に敗北したのが事実であった。この点は、通説による戦闘経過の説明を大きく訂正しなければならない部分である。

三点目は、現在の毛利輝元の知行分をすべて広家にもらえることを条件に、広家が家康に味方したとする記載内容である。現在では、この家康側からの提示は文書として確認できないが、毛利輝元の陣営を必死に切り崩そうとした家康が、こうした破格の条件で吉川広家を一本釣りして味方につけようとしたことは容易に想像できる。

・・・白峰先生の示す関ヶ原合戦の新たな姿からは、吉川広家の動きが戦いの勝敗を決めたという印象が強くなる。広家の属する毛利軍が南宮山から動かなかったことにより、東軍は何の障害もなく中山道を西に進み、松尾山の麓の山中エリアにいた西軍主力を急襲することができたのである。

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2020年6月14日 (日)

「関ヶ原大乱」の歴史的意味

関ヶ原大乱、本当の勝者』(朝日新書)は、武将研究家たちの一般向け論文集。同書を企画した白峰旬・別府大学教授は、関ヶ原合戦の見直しをリードしており、学問的用語として「慶長庚子の大乱」を提唱。その一般的な名称を「関ヶ原大乱」とした。その意味するところは、豊臣秀吉の死以来の徳川家康VS反家康の権力闘争が招いた長期的全国的な争乱、その帰結として関ヶ原合戦を考える、というものである。同書の「序章」の中で白峰先生は、関ヶ原合戦をマクロで見た場合、桐野作人氏が指摘した「私戦」の復活と「惣無事」体制の無効という視点は、洞察に富む卓見である、と評価する。そこでまず桐野先生の『謎解き関ヶ原合戦』(アスキー新書)からメモしてみる。

この合戦の全過程は、あくまで豊臣政権の主導権を誰が、どの勢力が握るかをめぐる政治的・軍事的な闘争として展開された。「惣無事」と呼ばれて豊臣政権の重要政策だった私戦禁止令が政権分裂による東西対立に伴って効力を失い、それまで抑圧されていた諸大名間の「私戦」が公然と復活した。このことが諸大名の領土拡張欲を刺激し、しかも、むき出しの「私戦」ではなく、東西両軍がそれぞれ標榜する「公儀」への「奉公」の手段として正当化されたのである。

・・・この桐野先生の考え方を基本的に認めながら、白峰先生は「惣無事体制の崩壊と公然たる私戦の復活」という、より混沌状況的な見方を示している。ここでもう一つ、本郷和人先生が『戦国武将の明暗』(新潮新書)で書いていることも、以下にメモしよう。

現代の我々には、「日本は一つ」であることが当たり前。でも、当時の人々には、豊臣秀吉が成し遂げた天下統一=「日本は一つ」は希有な事態であり、むしろ「群雄割拠」の方が普通である。
全国を挙げての争乱状態になってしまったら、「一つの日本」はご破算。「群雄割拠」の状態に戻ってしまう。だったら、少しでも領土を広げよう。そこで上杉軍は徳川の本拠である江戸を衝かず、北の最上を攻めた。
(九州の戦乱の主役である)黒田如水も「群雄割拠」への復帰を念頭に、領地の拡大を目指していたと考えるのが適当だと思います。

・・・本郷先生はさらに、当時の日本は「畿内・中国・四国・中部」と「関東・東北・九州」の二つの地域に区別されていた、という。いわば「中心」地域と「周縁」地域だ。この見方も組み合わせると、「中心」では「公儀のため」として正当化された「私戦」が、「周縁」ではむき出しの「私戦」が、起きていたと見てもよいだろう。いずれにせよ、長い戦乱の時代を経て日本に出現した織豊の天下統一政権が、秀吉の死により結局は一時的なものに終わるだろうと見る大名がいた、と想定するのはリアルな感じがする。おそらく当時は、天下統一が保たれるのか瓦解するのか、どっちに転んでもおかしくない状況だったのだろう。それでも「関ヶ原大乱」の結果、豊臣から徳川へとトップが入れ替わりながら統一政権の基盤がより強固になる方向へと進んでいくのだから、やっぱり、時代の必然に近い流れというのはあるのかなと思ったりするのです。

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2020年5月15日 (金)

「信長と光秀の時代」展、開催延期

「信長と光秀の時代」展(滋賀県の安土城考古博物館)の開催が延期された。当初は4月末からの「春季特別展」として予定されていたものが、緊急事態宣言を受けてストップ。結局、開催の時期そのものが秋に変更された。特別展に合わせて5月下旬に予定されていたフォーラム「検証!本能寺の変」も中止。このフォーラム開催、自分が気がついた時には事前参加申込期間を過ぎていた。しまった、と思ったわけだが、多分、こちらも秋にやることになるんだろうから、次は忘れずにチェックしておこう。(苦笑)

で、とりあえず展覧会図録を郵送で取り寄せた。その図録の冒頭にある解説文によれば、博物館では以前、2001年に「本能寺の変」に係る特別展を開催し、変の原因諸説を検証。その後20年近く経過したのだが、「実のところ、変に関する研究の結論は、そこからほとんど進んでいない」のだという。しかしながら、「興味本位の黒幕説や陰謀論は否定され、信長や光秀の人物像も転換された。織田政権のあり方や内部矛盾が原因の一つとして議論されている研究現状は、今後の展開が大いに期待できる」、とのことである。

確かに明智光秀が織田信長を討った理由については、光秀の背後に首謀者として公家、足利義昭、イエズス会などを想定する、いわゆる「黒幕説」が一時盛り上がったものの、裏付け史料の乏しさや強引な解釈などから急速に支持を失い、その後は四国政策を巡る信長と光秀の軋轢の可能性が改めてクローズアップされてはいるが、やはり決定打に欠けるという具合で、残念ながら今もなお、光秀の謀反の理由は明確には分からないと言うほかない。

とはいえ、最近の研究動向は、信長と光秀の人物像を捉え直すとか、畿内平定後の織田政権内部における権力の危ういバランスに着目するとか、歴史的リアルを地道に追求している感じもする。例えば信長の革新性とは違う保守的な面にも目を向けるとか、光秀の文化人的な印象とは別の戦国武将らしい強かな振る舞いに注目するとか。光秀の年齢について、個人的にはあんまり賛成できないけど、享年55歳ではなく67歳説もあったりする。そこから、佐久間信盛や林通勝の老臣追放を目撃して、光秀は先行き不安を感じたであろうとか、あるいは信長はいずれ光秀の領地を取り上げて自分の息子たちに与えるつもりだったのではないか等々、光秀の置かれた立場と抱いた思いを合理的に推測することにより、光秀が謀反を決意した道筋が見えてくる。ような気がする。

戦国の世を生きる人間のリアル感覚に地道に迫る試みが、本能寺の変のリアルなストーリーの組み立てに寄与することを、自分も大いに期待したい。

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2020年5月11日 (月)

『国盗り物語』読書

普段、小説は読まないのだが、外出自粛のゴールデンウィークという今年の特殊事情から、この機会に長いものを読んでみるかと思い立って、選んだのは司馬遼太郎の『国盗り物語』。

この小説を原作とした1973年NHK大河ドラマ『国盗り物語』は、自分にとっては戦国ドラマの最高作。って、これ47年も前の作品なんだな。驚くなあ。とにかく自分にとっては、この作品は、その後の戦国ドラマを評価する際の規準になっている。が、結局今のところ、この作品及び同じ司馬遼太郎原作の1981年TBS大型ドラマ『関ヶ原』を超える戦国ドラマはない。と思っている。

今回、原作小説を読んでおくかという気になった理由は、もちろん今年の大河ドラマ『麒麟がくる』の内容と話がダブるということもある。しかし明智光秀が主人公だなんて、昔だったら考えられないな。でも『国盗り』も、明智光秀は準主役の扱いだったけどね。『麒麟』は今のところ、主人公は誰?みたいな感じだし、やっぱり光秀は『国盗り』くらいのポジションが良いのかな、と思ったりする。

小説『国盗り物語』では、明智光秀は室町幕府再興のために奔走する「志士」的人物として、また自らの能力は織田信長に劣らないと自負する、それゆえに信長に対する批評的視線も持つ人物として描かれている。そして本能寺の変に至る間接的要因として、信長の何事にも容赦のない性格、特に家臣を道具として使い切るという苛酷な態度が示され、さらに信長からの国替えの命令を直接的な要因として、光秀は謀反を決意することになる。

当初は斎藤道三の一代記を想定していた司馬だったが、道三の「弟子」である信長と光秀が本能寺で激突するところまで書けば、小説の主題が完結すると考えて、信長の話も書き継いだという。なるほど。とは思うのだが、個人的には道三というのは評価の難しい人物だなという感じ。最近では、美濃の国盗りも道三とその父、親子二代の仕事と見られているので、「油屋から一代で国主」という物語も、当時の研究レベルを前提に書かれたものと承知しておきたい。

昨日放送の『麒麟』では、斎藤道三が戦死した。本木雅弘の道三は割と評判が良いみたいだが、道三はやっぱり『国盗り』の平幹二朗だな。しかしヒラミキも故人かあ。『国盗り』の出演者で故人は宍戸錠(柴田勝家)、米倉斉加年(竹中半兵衛)、林隆三(雑賀孫市)、東野英心(山内一豊)などなど。林の孫市はカッコ良かった。原作の小説『国盗り』には出てこない人物で、同じ司馬作品『尻啖え孫市』の主人公。大河『国盗り』は、司馬の他の戦国時代作品もストーリーに取り入れて、ドラマを厚みのあるものにしていた。

小説『国盗り』の「あとがき」で司馬は、本能寺の変で光秀と袂を分かった細川幽斎について語り足している。「幽斎は、その一代で、足利、織田、豊臣、徳川の四時代に生き」た、「もはや至芸といっていい生き方の名人」であろう、と。そうか。大河ドラマも明智光秀じゃなくって、細川幽斎を主人公にして作る方が良かったんじゃないか。と思ってしまいました。

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2020年4月16日 (木)

スペイン・インフルエンザ

およそ100年前に起きた人類史上最悪のパンデミック、「スペイン風邪」。15日付日経新聞記事「忘れられたパンデミック」から、以下にメモする。

それは1918年3月、米国カンザス州の陸軍基地で始まった。インフルエンザの症状を訴える兵士が続出。その後も米国各地の兵舎、学校、工場などで集団感染が発生した。春には世界各地でも同様の感染が見られた。第1波といわれる感染爆発だが、真の発生地は米国以外の可能性もあり、不明のままだ。

ときは第1次世界大戦のさなか。米国から毎月数十万人の兵士が欧州に渡っており、感染者を含む軍隊は「ウイルスの運び屋」となった。5月ごろから西部戦線、夏には欧州全域で感染が広がった。

感染はアジア、アフリカ、南半球に飛び火し、秋以降に世界的なパンデミックになる。第2波である。軽症者の多かった第1波より格段に致死率が高かった。

大戦の総戦死者の6割(約1000万人)が戦病死で、その3分の1がインフルエンザが原因とされており、戦争の終結を早めたといわれている。交戦国は感染爆発を秘匿し、中立国のスペインに関する報道が先行したため、「スペイン・インフルエンザ(日本では一部新聞が風邪と表記)」と呼ばれた。

第2波は12月には収束したが、1919年初頭から春にかけて第3波が襲いかかり、世界をなめ尽くした。各地の死者は欧州で230万人、インド1850万人、米国68万人、アフリカ238万人、中国400万~950万人、日本39万~45万人といわれている。

パンデミックは翌20年まで続いたが、感染者数と致死率は格段に縮小し、季節性のインフルエンザとなった。当時はウイルスを抑え込む特効薬もワクチンもなく、終息は多くの人が一定程度の免疫を獲得したためともいわれているが、確かなことはよく分かっていない。

・・・記事では、スペイン風邪に命を奪われた学者・文化人としてマックス・ウェーバー、アポリネール、クリムトが挙げられている。しかしスペイン風邪と聞いて、自分が真っ先に思い出すのはエゴン・シーレ。クリムトの弟子でもある画家は28歳の若さで病に倒れたこともあり、その特異な画風と相まって、天才の夭折という印象は強烈である。
(しかしスペイン風邪の終息の理由がよく分からないのも不思議だな)

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2020年3月20日 (金)

中世のダイナミズムに学ぶ

「文藝春秋」4月号に、出口治明氏と呉座勇一氏の対談(「なぜ?」を問わない歴史教育の愚)が載っている。出口氏はビジネスマン出身の大学学長、世界史関係の著書多数。呉座氏は歴史学者、ベストセラー『応仁の乱』の著者。以下に対談記事からメモする。

出口:ドイツの宰相・ビスマルクの「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉は歴史を学ぶ意義を象徴していると思います。
僕が歴史を学ぶ意義がよくわかると思うのは、呉座さんが研究されている中世です。中世はめちゃくちゃ面白い時代ですね。

呉座:中世は下克上、すなわち実力主義の時代です。今こそ、ダイナミズムに溢れた中世社会の姿を知ってほしい。
私たちは「日本人は、こうあるべきだ」という固定的な自画像に囚われがちです。例えば、「日本人は閉鎖的な島国の中で秩序を重んじて生きてきた保守的な民族だ」と。でも、中世社会を見ると全然そんなことはありません。
歴史を学び、現代の常識が中世の非常識であることを知る。そうやって歴史という「他者」に出会うことではじめて、現代社会の価値観や常識を相対化できる。出口さんがおっしゃったように、まさに「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というわけです。

・・・歴史学はヨーロッパで、近代国家の自己正当化のストーリーとして生まれた。そこには、古代から中世そして近代へと時代は進歩する、そしてあらゆる国はこのコースを辿って近代国家となる、という暗黙の前提があった。しかし今では、ヨーロッパ由来の「進歩」や「普遍」の概念に疑いの目が向けられており、この状況の中で中世を学ぶことは、近現代の価値観を相対化する視点を獲得することにもつながる。それはポストモダン的感覚からの近代批判と、シンクロする場面もあるように思う。

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2020年2月 9日 (日)

「天下布武」そして「天下静謐」

織田信長といえば、「破壊的革新的」な歴史上の人物として思い浮かぶのではないか。しかし最近の研究は、そんな信長のイメージを大きく修正しつつある。という話は自分も仄聞していましたが、『虚像の織田信長』(渡邊大門・編、柏書房)は、信長研究の新たな成果を一般向けにまとめてくれた有り難い一冊。とりあえず「天下布武」の意味するところについてメモします。

信長と「天下」といえば「天下布武」という印章が有名である。現在のところ「天下布武」印章の初出文書は永禄10年(1567)11月付けの「織田信長朱印状」である。永禄10年といえば、信長がようやく尾張と美濃の二国を平定した直後である。彼は本当にこの段階で「天下」を「武」で統一するつもりだったのだろうか。

神田千里氏は、「天下布武」という言葉の解釈として今まで考えられてきた、「天下」=日本全国を武力で統一する、という解釈を誤っているとした。神田氏は「天下」について、将軍にかかわる概念であるとした上で、①将軍が体現し、維持すべき秩序、②京都、③「国」とは異なる領域、という側面を指摘、信長にとっての「天下布武」とは、将軍足利義昭による五畿内平定であると唱えた。

神田説に則れば、足利義昭を擁立して上洛した信長はこの段階ですでに「天下布武」を成し遂げたことになる。では、「天下布武」後の信長の政治理念は何だったのか? このことを検討した金子拓氏は、それを「天下静謐」だったとする。「天下静謐」を維持することを自らの使命とした信長は、その「天下静謐」を妨害する勢力を討伐し、「天下静謐」の状態を保たなければならなかった、というのである。

永禄10年、美濃の攻略によって初めて信長は義昭を擁立して上洛するための準備が整ったのである。「天下布武」の印章はこの時期に使われ始めた。ここから「天下=将軍の支配すべき畿内」を「平定し幕府を再興する」という意味であることが納得できる。

・・・1990年代以降、信長像は革命的英雄から現実的な政治家へと見直しが進んでいるという。まさに信長像のコペルニクス的転回だあ。

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2020年1月 4日 (土)

明智光秀が示す「理性の狡知」

雑誌「現代思想」増刊号の特集は「明智光秀」。って、何で「現代思想」で明智光秀なの? 往年の三浦雅士編集長時代も遠い昔だが、それにしても明智光秀の特集とは、目が点になる(古い)ばかりだ。以下に、現代思想っぽいところで、大澤真幸の論考(理性の狡知――本能寺の変における)からメモする。

(桃崎有一郞の説によれば)武士は、結局、「王臣子孫」と「伝統的現地豪族」の合成によって(摂関時代の平安期に)生まれた。「武士は、地方社会に中央の貴姓の血が振りかけられた結果発生した創発の産物として、地方で生まれ、中央と地方の双方の拠点を行き来しながら成長した」。

さて、そうだとすると、武士は、天皇(朝廷)を原点にして遠心力と求心力との両方が作用しており、両者が独特の均衡をとったときに生まれる、ということがわかる。地方豪族の王臣子孫への関係の中には、天皇への従属を支える(天皇への)求心力と、天皇から離れようとする遠心力が、同時に作用していることになる。

武家政権は、天皇制を排除したり、皇室関係者を全員殺害したりすることは、できなかった。武士が武士たりうるための一つの要件が、天皇への求心力の中に入ることだったからである。

こう見てきたとき、信長が例外的な武士であったことに気づく。信長は、天皇への求心力に従わず、それを全面的に相対化した最初にして最後の武士である。信長を継いだ秀吉も家康も、旧に復し、それまでの武士と同様に、天皇の求心力の中で活動することになる。

武士を成り立たせている最初の前提は、朝廷からの独立性の方にある。その意味では、遠心力の方が基礎である。この基底的な遠心力が強くなり、ついに求心力との間の均衡を維持できなくなったとき、信長が出現したのである。

しかし、列島の歴史の理性は、こうした逸脱を許容しなかった。まるでヘーゲルの歴史哲学を例証するかのように、理性の狡知が鮮やかに作用し、光秀は信長を葬り去ったのである。

・・・信長の目指していたのは、それまでの武士を超えた存在、あるいは朝廷を完全に排除した純然たる武家政権だったのか。永遠の謎である。

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2020年1月 3日 (金)

大和、武蔵、信濃

大晦日12月31日の午後、NHKBSでは、いずれも再放送で「巨大戦艦・大和」(2012年8月)、「戦艦武蔵の最期」(2017年1月)、「幻の巨大空母信濃」(2019年8月)の3本、合計7時間を一挙放送。しかし何で大晦日に、大和、武蔵、信濃なんだろ・・・と思いつつ、雑感を少々。

存命の元乗組員の年齢は80代後半から90歳台の超高齢者。でも元気な人はすごい元気。大和は沈没時乗組員3,300名超のうち生存者は1割以下の276名。武蔵は同じく2,400名のうち戦死が1,000名以上。生存者のうち640名はその後、地上戦に投入された。だから、存命の方の証言はとにかく貴重。(しかし大和と武蔵は同型艦なのに、沈没時の乗組員数にかなり差があるのはなんでだろう)

大和も武蔵も戦闘時、手足の千切れた死体が山となり甲板は血の海と化していた、という証言には身が震える思いがする。そんな話を聞いてしまったら、もう大和や武蔵のプラモデルは作れないな。

フィリピンのシブヤン海に沈む武蔵発見時(2015年3月)の映像記録の分析により、このドキュメンタリーが作られたわけだけど、あの武蔵を発見するプロジェクトって、金持ちの道楽にしてもケタはずれというか、よくやるな~と思う。何でやったのか、ちょっと不思議。

大和型戦艦3番艦から計画変更されて、空母として誕生した信濃。完成直後に、母港横須賀から呉に移動する処女航海の途中、米潜水艦の魚雷攻撃を受けてあえなく沈没してしまった「幻の巨大空母」だ。番組内では、横須賀で信濃について人に尋ねても、「知らない」という答えが返ってきていたが、確かにプラモデルを作る人くらいしか知らない船だろうと思う。(苦笑)

番組を見ると、とにかく信濃は突貫工事で「完成」させて、船体構造に不安を抱えたまま出港したことが語られていた。とはいえ、無事だったとしても、信濃が活躍する機会があったとは思えない。信濃が沈没したのは1944年11月。そのひと月前に武蔵が撃沈されたレイテ海戦では、神風特攻隊が初出撃していた。既に日本には、まともな航空兵力は残っていなかった。ハード(空母)を一生懸命作っても、ソフト(航空兵)が揃えられない状況だった。

沖縄を目指した大和が沈んだのは1945年4月。この時点で日本は降伏すれば良かったのに。と言ってもしょうがないけど。

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2019年12月10日 (火)

明智光秀の人物像と謀反の動機

雑誌「歴史道」最新号の特集は「明智光秀」。同誌掲載の磯田道史と呉座勇一、両先生の対談から、呉座発言の一部をメモする。

明智光秀はどういう人物だったのか。なぜ謀反を起こしたのか。この二つは実は密接にからまっているのではないかと、私は思っています。もし巷間いわれるように、光秀が保守的な人物だったという前提に立つならば、信長の改革路線についていけなくなり、いわゆる路線対立によって謀反に至ったという解釈も成り立ちます。足利義昭が黒幕だとか、朝廷が黒幕だという「陰謀論」も、こういった捉え方に親和的だと思います。

しかし、ルイス・フロイスなどの記述によると、光秀は裏切りや策謀を好む人間であったといいます。そうなると、天下取りの野心のために謀反を起こしたという解釈になります。つまり、非常に大雑把に分けるならば、光秀が保守的であったか進歩的であったかが、本能寺の変の動機を規定する重要な要素となっているわけです。これは視点を変えれば、光秀が信長と正反対の人物だったとみるか、比較的近い人物だったかという違いでもあります。

おそらく光秀の人物を、現在知られているような伝統的・教養的・道徳的な人物として作り上げていったのは、信長や秀吉のイメージと鮮やかなコントラストを描きたかったからでしょう。
あくまでも史料に即して歴史を描く歴史学者としては、どこかで見直しを図る必要もあると思います。

・・・この対談のテーマは明智光秀のため、織田信長については詳しく言及されてはいないが、最近は信長についても、革新的人物というイメージに対する批判が提出されている。すると今までの光秀=保守的、信長=革新的という対比が、逆転とまでは言わないにしても、かなりの修正を迫られるかもしれない。そうすると、本能寺の変の原因についても、また違った角度からの見方も出てくる、ということになるのだろう。

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