2009年8月23日 (日)

映画「バラキ」(DVD)

マフィア映画「バラキ」のDVDが新たにリマスター版で登場。

自分にとってマフィア映画といえば、少年の頃にほぼリアルタイムで見た70年代前半の「ゴッドファーザー」「バラキ」「コーザ・ノストラ」3作品に尽きる。このうち「ゴッドファーザー」はフィクションだが、あとの2作は実録物で、特に「バラキ」はマフィアの歴史の映像化として価値があると思う。しかも今回の新商品には、日本語吹き替え音声が収録されているのだが、それが何と当時のテレビ「土曜映画劇場」放映時のもの(ほぼ完全版)なのだ。個人的にも「バラキ」は映画館でなくテレビで見たので、「良く残ってたな~」と結構感慨モノなのである。ビデオの無い時代、テレビの映画劇場全盛(毎日夜9時どこかの局でやってたって感じ)の頃には、洋画の吹き替えでは主な役者に特定の声優さんが当てられていて、その一人がチャールズ・ブロンソンの声=大塚周夫。この映画でもバラキを演じるブロンソンの声は大塚さん。大ボスのジェノベーゼ(リノ・バンチュラ)の声は森山周一郎。森山さんの代表作はジャン・ギャバンか。いずれにしても渋い。この他にも羽佐間道夫、小林清志など名前に覚えのある声優さんが集結して、それぞれの特徴ある声で「男の世界」が繰り広げられているので、マフィア映画ファンならば買っておいて損はない。

マフィアという犯罪組織の歴史は、たぶんバラキの告白によって明らかになった部分も多いと思うのだが、その最も重要な時期は1931年の4月から9月にかけての半年間だろう。マッセリア射殺による内部抗争(カステラマレーゼ戦争)の終結、そしてその勝者であったマランツァーノを殺害してマフィア組織を近代化したルチアーノ。「バラキ」ではこの経緯が割とじっくり描かれている。(この辺は、「コーザ・ノストラ」では開巻5分程であっさり終わってしまう。加えて全体的に地味なストーリー展開なので、何というか、マフィア映画としては正直物足りないのだよな。でも、この映画のジャン・マリア・ボロンテ演じるルチアーノは実にハマリ役。)

「バラキ」のバイオレンス・シーンで強烈なのは、アナスタジアが床屋で射殺される場面だろう。血で赤く染まるシーツ、最後に止めの一発、マフィアの容赦ない仕打ちに恐怖を通り越して呆気にとられるばかりだ。
もうひとつ、ボスの女に手を出した男の末路もまさに「ぎゃあああ~」って感じでしたよ。

マフィアは自分たちの目的を達成するためには、暴力という手段も積極的に採用する極端な集団だ。しかしながらマフィア、ナチス、新選組など「極端な集団」は、その極端さゆえに人間の集団の本質を見せてくれるような気がする・・・ということで、この危険な男たちに関心を寄せてしまうワタシであった。

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2009年8月20日 (木)

「意志の勝利」(シアターN渋谷)

先週土曜日(8/15付)日経新聞の一面コラムを読んで「あれっ」と思った。映画「意志の勝利」が東京で公開中、と書かれていたからだ。丁度一年前にDVD(英語字幕)を購入して(時価4000円弱)観ちゃったよ、「意志の勝利」。だって何時やるか分かんないんだもん。去年は神戸、金沢で上映されたみたいだけど。一年後に東京で上映すると分かっていたらDVDは買わなかったのになあ。などとアホなことを思いつつ、とりあえず日本語字幕を見ようかと、昨夜、上映館である渋谷のシアターNに足を運んだ。

水曜日は当館のサービスデー、入場料1,000円ということもあるだろうけど、夜9時10分からのレイトショーでも100席程度の小さなハコは満席状態だった。

で、基本的には良く出来た記録映画だなという感想は変わらない。しかしながら、暗いハコの中で人々の拍手や歓呼の声に包まれながら画面を見ていると、何か自分もちょっと右手を真っ直ぐ上げたくなってくるんだな、これが(苦笑)。明るい部屋の中でDVDを見るのとは、気持ちに働きかける力が違うなと。なるほどこれぞ「プロパガンダ」映画というのか、当時のドイツ人に訴えかけた力をいくばくかは理解できたような。まさに歴史的な熱気と高揚を見事にパッケージした作品であると、強く感じた。

やはり、日本語字幕で演説内容の意味がすぐ分かるのは良い。ヒトラーはじめナチ党幹部面々のどのような言葉に、拍手と歓声、ジークハイルの合唱など人々が反応しているかが了解できる。

当時のヒトラーはまさしく救世主として、ドイツの人々に受け入れられていたことが伝わってくる。これを今の時点から、邪悪なファシズムに人々が陶酔していたと見るのは、おそらく適当ではない。第一次大戦の敗戦国であるドイツを惨めな状態から立ち直らせた実績が、ヒトラーにはあった。いわば国家的なコンプレックスを解消してくれたリーダーに、人々は熱狂した。

そういうリーダーが求められるのは、今の日本でも変わらない。もちろん今の与野党党首が、国家的コンプレックスを解消してくれるリーダーになれるとは思わない。例えば、アメリカと対等の外交を実行してみせるリーダーが現れれば、人々は圧倒的に支持するだろう。その場合、過剰な期待が社会の進む方向を誤らせる危うさも当然のように孕むだろうから、同時に日本の民主主義の成熟度があらためて試されるだろうとは思うが。

それにしてもなぜ今「意志の勝利」なのか。かつて世界大恐慌の10年後に世界大戦が勃発した。昨今の金融・経済危機の中で、グローバル秩序としての「帝国」から「新・帝国主義」への変化が語られたりすることも背景にあるかも知れない。1930年代を振り返ることで、そこから何かしら教訓を得ようということだろうか。

しかしながら世の中の動きは速い。もうすぐ「リーマン・ショック」から一年になろうとしている。あらためていろいろなことが言われるのだろうが、あれだけ大騒ぎした金融危機も既に過去の出来事になりつつある気配がする。すべては移ろいゆく。そして肝心なことは放ったらかしのままになっている。ような気がしちゃうんだよね、何か。

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2009年4月15日 (水)

映画「レッドクリフPartⅡ」

先日、「レッドクリフPartⅡ」を観てきた。三国志オンチのワタシは、前作と同様、日本語吹き替え版での鑑賞。

決戦が始まるまでは少し長いかなと感じたが、戦いが始まってからはもう炎、炎、炎の中の戦闘スペクタクルがふんだんに盛り込まれて、一気呵成にクライマックスまで進んでいく。こいつ死んじゃうんだろうな~と思ってるとやっぱり死んじゃったりする(苦笑)とか、最後に主要登場人物が一同に会して対決するとか、いかにも映画らしい展開も用意されている。しかし人物描写という点では、二人のヒロインが前半と後半に、それぞれの使命と覚悟を胸に秘めて一人で敵陣に乗り込んだりするものだから、今回は周瑜と孔明の印象がやや薄いような気がしないでもない。とりあえず、カッコイイ人であるトニー・レオンと金城武がキスでもしそうなくらい接近して言葉を交わすから、「男の友情」の絵にはなっているんだけどねえ。

まあ何というのか、感動したとか傑作だとか言うよりは、映画を観たなあ~、言い足すと映画館の大スクリーンで観るべき映画を観たなあ~って感じではあった。

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2009年3月30日 (月)

映画「ワルキューレ」

ヒトラー暗殺未遂事件を描いた映画「ワルキューレ」を観た。昨秋、予告編を見た時には、有名な事件の本格的な映画化という印象から期待感もかなり高まると共に、トム・クルーズ主演のハリウッド映画ということで、どこまで脚色が入るものか少々懸念めいた思いも抱いていたが、実際見てみるとかなりマジメな作り方になっていて、その辺はやや意外というか安心したというか。

この事件の映画というと、自分はソ連映画「ヨーロッパの解放」の中で映像化されたものしか観たことがない。独ソ戦を「再現」したこの映画は、自分には基本的な参照資料となっていて、ナチスドイツ関係の映画(最近では「ヒトラー最期の12日間」)が公開されると、まず比較対照する作品だ。「解放」(DVD全3巻のⅡ・大包囲撃滅作戦)では、全篇130分のうち後半の30分で1944年7月20日当日の事件を再現。主要な戦闘場面よりも見所になっていると思う。今回の「ワルキューレ」は、暗殺実行者のシュタウフェンベルク大佐に焦点を当てながら、周辺人物も含めて、より詳細に事件の経緯を描き出している。暗殺失敗という結末は史実として分かっている観客にも、反乱者たちの緊張が同時進行的に伝わってくる仕上がりだ。

それにしても「ヒトラー最期の12日間」に続き、今回のゲッベルスも何か違うな~って感じ。インテリっぽくなきゃダメだよ。やっぱり「解放」のゲッベルスさんがベストだな。

最初の方のアフリカ戦線シーンにドイツ4号戦車が置いてあって、本物みたいに見えるんだけど、既存戦車の改造らしい(こちらのサイト参照)。確かに本物よりキャタピラが幅広になってるけど、全体的によく出来てる。

終わり近くの裁判シーンでは、映画「白バラの祈り」でも登場した人物、フライスラー裁判長が例によって強い口調で被告を責め立てていました。

「白バラ」抵抗運動の学生たちも、「7月20日事件」のクーデター首謀者たちも、愛国的な信念から行動を起こしたものの不運にも失敗し、新しいドイツを見ることなく命を奪われた。その無念と絶望の深さは、我々の想像などはるかに及ばないものだろう。

この暗殺・クーデターが成功していたら、当然ヨーロッパの戦争終結は早まり、日本の戦争遂行意欲にも影響を与えたに違いない。もしかすると、日本に原爆が落ちることもなかったのではないかと考えると、この事件に対して無関心ではいられない。

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2009年2月23日 (月)

怪獣映画のトラウマ

P1020588_4 先日、「ガメラ対ギャオス」をスクリーンで見た。場所は京橋の東京国立近代美術館フィルムセンター。企画プログラム「怪獣・SF映画特集」の中の一本である(上映は終了)。この作品を見たのは40年ぶりだが、やはり怪獣は大画面で見るのが良い。出現シーンは結構どきどきするね。(子供かいな)

しかしギャオスは怖い怪獣である。何しろ人を食べる。考えてみれば、大概の怪獣は街の破壊を行うものだが、人を食べるという設定は稀なのだ。怪獣が人命を奪うのは、大いなる破壊の結果であるのが通常なので、食べるという余りにも直截的な形で人間に危害を加える怪獣はむしろ例外的。そしてその直截的な恐怖を与える怪獣が大映のギャオスであり、東宝のガイラなのだ。

子供の頃、丁度怪獣映画を見始めた時期に「サンダ対ガイラ」「ガメラ対ギャオス」に出会ってしまった。おかげで、ギャオスとガイラはトラウマに。特にガイラ。まだしもギャオスはカッコイイと言えるけど、ガイラはもう怖えーとしか言いようがない。子供の頃の記憶。場所はビアガーデンだろうか(もちろん親と一緒)、暮れなずむ夕方、山の向こうからガイラがやってくるような気がして、ひどく落ち着かなくなってしまった。あれはお話だと分かっているのに、それでもガイラが現れるような気がしてしまう、あれは不思議な心持ちだった。もう一つ、人食い怪獣ではないトラウマがある。それはサソリ。「ガメラ対バルゴン」の話の初めの方で、人がサソリに刺されて苦しみ悶える場面がある。これがまた怖かった。日本にサソリがいなくて良かったと心から思ったものだ。

今回のフィルムセンターの企画では、東宝、大映、松竹、日活などの製作した昭和の怪獣・SF映画44本が上映された。そのプログラムの中には「サンダ対ガイラ」も「ガメラ対バルゴン」も入っていたけど、また見てみよう・・・という気にはならなかったな。(苦笑)
とりあえずガメラシリーズのベストワン、怪獣映画というジャンル全体で見ても五本の指に入る傑作であろう「ガメラ対ギャオス」をスクリーンで見て満足いたしました。

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2008年11月14日 (金)

「三国志」と「ヒトラー」と

って、何のこっちゃだが、映画「レッドクリフ」を観に行ったら、ヒトラー暗殺未遂事件を描く映画の予告編を見せられて「へえ~」って感じだった、そんなようなことです。三国志とヒトラーとの間に何か関係があるはず無いよね。(苦笑)

そもそも自慢じゃないが「三国志」オンチだ。魏と呉と蜀の時代で、孔明という軍師がいて・・・もう後は知らない。(汗)
しかし「レッドクリフ」、これだけ宣伝している話題の大作であるし、とりあえず見ておけば勉強にもなるだろうとシネコンに足を運んだ。何しろ「三国志」オンチですから、目指すは日本語吹き替え版。(苦笑)
観ている時も、「これはシューユ、これはソウソウ、これはリュービ、チョーウン、カンウ、チョーヒ・・・」と心の中で確かめながら人物を追う。(汗)
映画のかなりの部分は戦の場面で、もちろん馬も走り回るし、とにかく鎧を着けた人がたくさん出てきて、基本的に槍を使うチャンバラというのか、突いたり殴ったりで血の雨が降るというような、いやもう激しい程にダイナミックです。

さて、ヒトラー暗殺未遂事件の映画のタイトルは「ワルキューレ」。この事件の作戦名ですね。主演はトム・クルーズ。暗殺実行者のシュタウフェンベルク大佐を演じる。ネットで少し調べてみると、年末に全米公開、来年のアカデミー賞レースに参加するらしい。

この事件が映画化されることには興味を持つけど、それがトム・クルーズのハリウッド映画というのはビミョーな感じもする。しかしナチス関連では最近、「ヒトラー最期の12日間」「白バラの祈り」(いずれもドイツ映画)も観たので、この作品も観るだろうな。

「レッドクリフ」パートⅡの公開は来年春、「ワルキューレ」もその頃までには観れるのだろう。どちらの作品にもいちおう期待しておきませう。

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2008年8月23日 (土)

映画「意志の勝利」(DVD)

先日、勤め先の近くにある東京国立近代美術館フィルムセンターの前を通ったら、現在上映中のヨーロッパ映画特集(9月28日まで)の作品とスケジュールが掲示されていて、「禁じられた遊び」「第三の男」などの名作と共に、レニ・リーフェンシュタールの「民族の祭典」「美の祭典」もプログラムされているのが目に付いた。「オリンピア」2部作――例のベルリン・オリンピックの記録映画である。

で、レニ・リーフェンシュタールといえば、もろナチス映画があったっけという感じで、思い出したのが「意志の勝利」。ナチスのプロパガンダ映画とされてドイツでは上映禁止という、いわくつきの作品だけど、「オリンピア」よりはこっちを見たいなという気持ちになった。でも、これからいつどこで上映するかなんて分からない。日本でもなぜか商品化されてない作品だが、気になりだすと気になり続けるもので、結局3,965円也を払う決心をして、アマゾンからアメリカ版DVDを取り寄せたのだった。

内容は、1934年9月ニュルンベルクにおけるナチス党大会の模様だが、今となっては良く出来た記録映画というほかない。プロパガンダ映画という程、あざとい演出が為されている様には見えない。変に期待したせいか、やや拍子抜けした感じ・・・。ずいぶんたくさんの撮影カメラをあちこちから回しているなあとは思ったけど、後は編集作業の腕で見せているという印象。基本的にナチスそのものが宣伝について心得ていた、自己演出力の高い組織だった、そのことをこの映画は正攻法で記録したように思われる。

ナチスが提供する様々なスペクタクル――巨大なスタジアム、その会場を埋め尽くす人々及び旗の群れ、終りが無いかの様に整然と続く行進等々。その中心にいる「主役」ヒトラー総統が、党大会の終わりに締めくくりの演説を行う。ドイツ語は演説に一番向いている言葉ではないかと思わせる、ヒトラーの声、身振り、手振り。湧き上がる喚声と熱狂。ただの人が独裁者となりおおせた、ある時代のドイツの記録として、遺しておかなければならない映画。

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2008年8月17日 (日)

マフィア映画に学ぶこと

雑誌「サピオ」(8/20・9/3合併号)掲載の企画、「マフィア・ヤクザ映画」ベスト50の第一位は「ゴッドファーザー」。以下「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」「アンタッチャブル」「俺たちに明日はない」「仁義なき戦い」と続くが、「ゴッドファーザー」は圧倒的支持とのことで、マフィア映画という枠を超えた名作の地位を確立しているのは疑いない。

ランキングに並ぶギャング映画が題材にしている人種や舞台は様々。ユダヤ系やアイルランド系、香港やパリ・・・。しかしマフィアといえば、やっぱり「ゴッドファーザー」の描く、ニューヨークのイタリア系ギャングが「本家」だろう。実在の大ボスで有名なのは、ラッキー・ルチアーノ。1930年代の初めに、マフィアの「近代化」を成し遂げた男である。

当時、ニューヨーク暗黒街では、マッセリアとマランツァーノの対立が激化していた。「カステラマレーゼ戦争」と呼ばれたこの争いで、ルチアーノはマッセリア側に属していた。1931年4月15日、マッセリアはレストランで射殺される。食後にトランプの相手をしていたルチアーノがトイレに立った時、何者かに襲われたのだった。ルチアーノがマランツァーノに通じて、取引したといわれる。そして半年後、「ボスの中のボス」として振る舞うマランツァーノに、自分を始末する意図があることを察知したルチアーノは、先手を打つ。1931年9月10日、マランツァーノは事務所で殺害される。警察官を装った殺し屋たちの仕業だった。古い世代の代表者を葬ったルチアーノは、有力なボスたちの集団指導制で動く組織として、マフィアを近代化した。(参考:「マフィア経由アメリカ行」常盤新平)

この辺の経緯を描いた映画としては、「ゴッドファーザー」と同時期に作られた実録物の「バラキ」、「コーザ・ノストラ」がある。また、若き日のルチアーノを主人公とした「モブスターズ/青春の群像」(1991年公開)も、二人の大物ボスの間で立ち回りのし上がる男の物語。今月発売の廉価版DVDを見ると、実録物というよりはもう少し軽い、かなりフィクションを織り交ぜたTVドラマ的な作り方。銃撃とか流血とかは結構派手だったりする。

「ゴッドファーザー」を大人になってから観ると、人間社会の様々な場面に現れる「政治」の映画なのだと思える。(・・・最近は繰り返し観たくなる映画が少なくなりました。映画そのものをあんまり見なくなっているし・・・)
マフィアという組織は、暴力という手段を積極的に採用して自らの目的を達成しようとする極端な集団ではあるけれど、その極端さゆえにかえって、人間の集団や組織の本質をストレートに示しているような気がする。マフィア映画に学ぶところがある所以だ。

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2007年8月20日 (月)

記録映画「東京裁判」

先週、東京裁判関連のNHK特集2本を見て、未読だった『パール判事』(中島岳志・著)に目を通して、更にDVDで所有している記録映画「東京裁判」(小林正樹監督、1983年)を久々に見た。

この映画を見るといつも、裁判開始早々のブレークニー弁護人の発言に圧倒される。裁判管轄権に関する動議、いわば裁判の正当性を問う審理において、ブレークニーは戦争は合法的な殺人であることを指摘して、原爆投下についても触れる。

「我々はヒロシマに原爆を投下した者、投下を計画した参謀長、その国の元首について承知している。彼らは殺人罪を意識していたか。してはいまい。それは彼らの戦闘行為が正義で敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからです。何の罪科で、いかなる証拠で、戦争による殺人が違法なのか。原爆を投下した者がいる!この投下を計画し、その実行を命じ、それを黙認した者がいる!その人達が裁いているのです」

映画の中でも「法廷の日本人を驚かせた」とナレーションされるが、被告たちの弁護をアメリカ人がまともにやってくれるのかと疑わしく思っていた人々もブッ飛んだことだろう。裁判の公正を保とうとするその強い意思と姿勢に、アメリカという国の凄さをつくづく感じる。映画の後半でも、日米開戦やソ連の対日参戦の審議で活躍しているものだから、ブレークニーさんってホントに凄い人だな~と改めて感心しきり状態になってしまう。

裁判は被告たちが「共同謀議」により「侵略戦争」を行ったという前提で進められていくのだが、この「共同謀議」の概念は被告たちにも違和感があったと推測される。以下は映画の中でナレーションされる賀屋興宣(かやおきのり)被告の感想。
「ナチと一緒に挙国一致、超党派的に侵略計画を立てたという。そんなことはない。軍部は突っ走ると言い、政治家は止まると言い、北だ南だと国内はガタガタで、おかげでろくに計画もできず戦争になってしまった。それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」

本当に濡れ衣というのか買い被りというのか、明確な意志と目的を持って日本の戦争が遂行されたとは全く思えない。大した見通しも無いまま軍部が暴走し暴発した結果、戦禍が拡大したとしか見えないわけで・・・。軍部の暴走は統帥権の濫用が大きな原因という話も出てくるが、そうなると昭和の戦争というのも、幕末に挫折した尊皇攘夷運動の大々的な復活とも思えてくる。明治の40年間が青雲の時代で、その後の40年間が暗黒の時代なのかも知れないが、それは結局は日本の近代化の表裏で、二つの40年間を切り離して考えることはできないのだろう。

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2007年2月12日 (月)

映画「バブルへGO!!」

公開中の映画「バブルへGO!!タイムマシンはドラム式」は、「バブルは崩壊して初めてバブルとわかる」という、グリーンスパン前FRB議長の言葉が映し出されて始まる。確かに、振り返れば日本の1980年代後半、バブルの渦中にある人々が「これはバブルだから、みんな踊っちゃおうぜ~」とか言ってた訳じゃないのだな。「何か知らないけど、物凄く景気いいじゃん」てな感じだったように思う。まさに「はじける」とか「崩壊」とかした後に、「あ~、あれはバブルだったんだ~」と、事後的に分かるということなのです。

しかしこの映画、コメディと聞いていたが、結構シリアスな感じ。最後の方では陰謀論的な味付けもされて、ちょっとした活劇ものになったりする。でも上映時間2時間はキツイ。前半はテンポがちょっとかったるいし、全体的にもう少し短くして欲しかったな~。薬師丸ひろ子は「メガネ萌え~」って感じするのはイイけど。

バブル崩壊を食い止めるために、主人公たちがタイムマシンでバブルのピーク、1990年3月の日本に戻り、不動産融資総量規制を撤回させるというのが物語の軸になっているのだが、その大蔵省通達がなければバブル崩壊を防げたかといえば、そういうことはないだろうな。前年から日銀が金融引き締め姿勢に転換して、公定歩合を段階的に引き上げていたし。また、不動産と共にバブルの主役だった株は、90年3月の時点で既に暴落が始まっていた。

経済現象としてのバブルは、ファンダメンタルズから大きく乖離した部分とされる。あるいは、経済的「期待」(予想)の部分が非現実的とも言えるまでに過大に膨らむ、という感じだろうか。とはいえ、その現象もいったん起きてしまえば紛れも無い現実。ということで、バブルは現実認識の問題、予想を繰り込みながら形成されていく人間社会の現実をいかに認識したら良いのかという問いかけを、我々に残しているという気がする。

ま、それはそれとして、バブルというと何で夜遊びの話ばかり出てくるのかね。ディスコ、パーティ、ファッション等々、映画的に分かりやすいと言えばそれまでだけど。派手な夜遊びだけでないバブル時代の雰囲気を感じられる映画といえば、自分が思い浮かべるのは「マルサの女2」(伊丹十三監督、1988年1月公開)だな。

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2007年2月 4日 (日)

映画「不都合な真実」

記録的な暖冬である。やはり地球温暖化だ。てな感じで映画「不都合な真実」を見に行く。場所はTOHOシネマズ名古屋ベイシティ。この映画の「主役」、アメリカの元副大統領アル・ゴアも来日して、あちこちのテレビ番組に出演していた。また先日、国際的な専門機関から、21世紀末には地球の平均気温が最大6.4度上がり、北極では夏に氷がなくなる可能性がある等の予測が報告されたばかりでもある。本日は「エコサンデー」と銘打たれたキャンペーンのため、500円で鑑賞可能。行ってみれば満員の盛況だった。

内容はもう基本的に、地球温暖化問題をライフワークとしているゴアの講演記録といって良い。スライドを次々に提示しながら、強い信念を持って問題の深刻さを訴えるゴアの姿に感銘を覚える一方、英語の分からないワタクシとしては字幕を読み続けるのが結構疲れたのだった(苦笑)。

確かにゴアの強調するように、地球温暖化は政治の問題ではなくモラルの問題なのだろう。考えようによっては、温暖化の阻止というのは、核兵器の廃絶でも宇宙人襲来の防衛(?)でもなく、人類が初めて真剣に取り組む共通の目的になる可能性はある。

しかし一方で人間は、差し迫った危機が感じられないと、なかなか行動に出ないということもある。映画の中でも「ゆでガエル」のアニメが出てくる。熱いお湯の中に入れたカエルはすぐ逃げ出すが、最初は水の中にいてゆっくり熱していくとそのまま・・・という話。何か余程酷いカタストロフィが起きて大量の犠牲者でも出ないことには、人間は対策に向けて動き出さないということは温暖化に限らず、重大事故や災害などが起きる度に目にする光景ではある。

何にせよ、このまま温暖化のトレンドが続けば、自然界のバランスが崩れて、ウルトラQの世界が出現する、んじゃなくて、気候変動による生命大量絶滅の危機が生じても不思議ではない。急激な温暖化の原因は人間活動にある(人間の数が増えすぎたとも言える)としたら、温暖化を阻止する責任も人間にあるということになる。やはり、この地球の環境や生命を維持することは、もはや人類共通の目標と言えるのではないか。

余計な話だが、一瞬だけ大統領になった(と本人が言ってた)ゴアが、2000年の大領領選挙で勝っていたらどうだっただろう。アメリカはイラクを攻撃することはなく、京都議定書の批准にも取り組んでいたのではないか。世界はもう少しマシな方向に進んでいたかも知れないと思ったりする。

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2006年12月15日 (金)

映画「クリムト」

自分が若い頃好きだった画家はムンク、デ・キリコ、エゴン・シーレ。中年になった今では、正直見るのがややしんどい絵が多いけど、見ているこちらがノイローゼになりそうな絵を好きになるのも若さのなせる技かなと思う。

映画「クリムト」(新栄の名演小劇場で上映中)を見に行ったのも、クリムトその人に対して興味があるというより、クリムトの弟子であるエゴン・シーレがどんな感じで出てくるのかな、というのがその理由。

昔、「エゴン・シーレ」という映画(1983年公開)を見たことがあるのだが、主役である画家は、ニヒルな美青年という感じで描かれていた。それに対して「クリムト」に登場するシーレは、美青年と言えなくもないが、何かエキセントリックなものを内に秘めた、ちょっとストレンジな印象を与える人物。むしろこっちの方が「らしい」かも知れない。

ムンクはニーチェを絵の題材にしているし、デ・キリコもニーチェからインスピレーションを得ているが、シーレには哲学者の影響は無いようだ。けれども、同じウィーンで時代の空気を吸っていた哲学者にウィトゲンシュタイン(シーレの一つ年上)がいる。この映画でも、クリムトとシーレがデッサンを描いているカフェの中で、議論に熱くなった青年たちがつかみ合いになり、「やめろ、ウィットゲンシュタイン!」(字幕)という声が飛んでくる。登場人物というより背景の一部という扱いだけど、シーレとウィトゲンシュタインという二人の奇才がどこかですれ違っていたかも知れない、という想像はちょっと楽しい。そして世紀末ウィーンの有名人といえば、フロイトを忘れてはいけない。この映画全体も、クリムトの夢に現れた潜在意識を写し出したような、フロイト的な作品と言えるかも知れない。

主役のクリムトの話が後回しになってしまった。この映画のクリムト(ジョン・マルコヴィッチ)は外見こそオッサンだが、その行動は権威に反抗し、社会通念に挑戦し、多くの女たちと交わるという、それこそニヒルな若者のスタイルなので、何か妙にシブいオッサンに見える。その一方で、理想の女というか幻の女を追っかけるというのが、ストーリーの軸になっていて、男から見ると主人公にはかなり共感できるものがあると思った。少なくとも「ちょいワル」オヤジなんて軽々しいタイプよりは好ましい。

クリムトは1918年2月に55歳で死去。同じ年の10月、後を追うようにシーレも28歳の若さで亡くなる。シーレの命を奪ったスペイン風邪は、当時猛威を振るったインフルエンザ。全世界で死者数は2000万人とも4000万人とも言われ、画家の死んだ同じ年に終結した第1次世界大戦の戦死者数1000万人を遥かに上回るというから想像を絶する。

画家を扱った映画では、「ムンク 愛のレクイエム」(1991年公開)も見た覚えがあるが、いずれにせよ、19世紀終わりから20世紀初めの時代、要するに世紀末のヨーロッパを舞台にした画家の生涯は、映画の題材としては大いに魅力的なのだと思う。何しろ「愛と性と死」である。映画的主題としてこれに敵うものはないという気がする。

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2006年11月29日 (水)

映画「サクリファイス」

タルコフスキーは解らない。自分は4年前の秋、東京・渋谷のシアター・イメージフォーラムで行われた「生誕70周年記念 アンドレイ・タルコフスキー映画祭」において、作品をある程度まとめて観たのだが、いやもう正直どうにもうまく理解できなかった。

そのタルコフスキーの遺作である「サクリファイス」がウチの近所にある映画館でかかる(例のBOW映画祭)というので、タルコフスキー作品が自分には訳の解らないということを再確認しておくか、という自虐的な?気持ちで足を運んでみた。

で、やっぱり訳が解らなかった。とにかく自分には説明不足の映画。結局すべての登場人物は、タルコフスキー的想念の影法師として動いている感じがする(・・・冒頭でニーチェの言葉を語り、さらに後半でマリアという名の「魔女」の家に行けと主人公に告げる、郵便配達人のオットーさんって何者なんだろう)。あるいはこの作品は、西洋人には説明しないでも解る文脈が共有されているのかも知れない。だとしたら、仮に「この映画を見て西洋人を理解せよ」と言われたら、自分はお手上げ状態になるだろうな。

ということで雑談になりますが、「サクリファイス」は1986年、先日観た「ベルリン・天使の詩」が1987年の作品ということで、いずれも冷戦時代の終盤に作られた映画。「サクリファイス」には最終戦争の勃発が暗示され、「ベルリン~」にも戦争の記憶が現れる。冷戦はやはり第二次世界大戦の「延長戦」の性格を帯びていたのだろうし、それゆえに冷戦の終わりと共に、古い戦争の記憶も急速に過去の中に埋もれていく感覚があるのは仕方が無いことなのかも知れない。

タルコフスキーついでに、「惑星ソラリス」リメイク版(スティーブン・ソダーバーグ監督)の話もしておくと、こちらは主人公と死んだ妻の関係に焦点を合わせた、ハリウッド映画らしく?解りやすい物語になっていて、これはこれで悪くなかった。死んだはずの妻が目の前に現れたことで、主人公が最後に取った行動とは・・・ラストシーンから主人公の「後悔の深さ」が伝わってきて、親しい人を喪った経験のある人ならば思わず涙することだろう。本物そっくりの偽物は本物ということで良いじゃないか。何のこっちゃ。

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2006年11月26日 (日)

映画「ベルリン・天使の詩」

ウチから歩いて5分程の所に「名古屋シネマテーク」という映画館がある。いわゆるミニシアター、といえば東京ではオシャレな映画館を想像するのだろうが、シネマテークは雑居ビルの2階にある、試写室みたいなところ。まあワタシもだんだん名古屋に慣れてきて、これはこれで味わいがあるかなと思えてきた(苦笑)。そのシネマテークでこの一週間、BOW30th映画祭と銘打って、フランス映画社配給作品9本が上映される。調べてみると、東京では既に夏場の1ヶ月間、シャンテシネでBOW作品40本を上映していたのだな。知らなかった。

で、そのBOW映画祭、昨日今日の上映作品の一つがヴィム・ヴェンダース監督の「ベルリン・天使の詩」。好きな映画ではあるし、映画館は近所だし、足を運ぶことにした。

「ベルリン・天使の詩」を見るといつも、日常の出来事がそのまま詩へ転化する場面に立ち会う感覚がする。この世に色があり音があり匂いがあり味があるということは、素晴らしいことなんだなと思える。それはまた、世界があるというそのこと自体が奇跡であると、素朴に感じられる瞬間でもある。この世で生きる人々は、しばしば「何で自分がこんな目に遭うのか」という思いを抱くこともあるだろう。しかし日常生活そのものの中に詩を見出すことができれば、「自分はいま(だに)ここに(生きて)ある」、そのことを一つの祝福として受け止め、自分が直面する物事を引き受ける力を再び取り戻すことができるのではないだろうか。

この映画の最初の方に出てくる場面、地下鉄に乗っている冴えない中年男の内面の声。「親には見はなされ、女房に裏切られ、友達はいないし、子供にはバカにされ・・・鏡の中の自分を殴りたい」。ブルーノ・ガンツ扮する天使のダミエルが側に座ると、彼の考え方は静かにポジティブな方向に変わる。「どうした?まだ大丈夫さ。望みさえ棄てなきゃ。やる気を起こせば、何とかなる。自分で落ち込んだんだ。這い出せるさ!お袋だって言ってた。くよくよするなって」。

自分も、時々は天使に寄り添ってもらいたものだと思う。

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2006年11月23日 (木)

映画「エンロン」

東京に行く機会があったので、公開中の映画「エンロン 巨大企業はいかにして崩壊したのか?」(渋谷・ライズエックス)を観てきた。

売上高約1,000億ドル、従業員2万人を超える巨大企業エンロンが破綻したのは2001年12月、ちょうど5年前のこと。映画は、1985年に設立されたエンロンの急成長から破綻までの経緯を、創業者のケン・レイ会長、ジェフ・スキリングCEOを初めとする、関係者の映像や証言で追っていく。

エネルギー商社のエンロンは会計を悪用して利益を過大に計上、さらに連結対象から外れるSPE(特別目的事業体)を利用して損失を隠すなど、モラルに欠けた経営を推し進め、破綻直前に経営者たちは保有する自社株を大量に売り抜けてしまう。

しかし、経営者の不誠実や強欲だけが事件を起こした原因であるとも思えない。エンロンの事業推進には、大手の銀行や会計事務所も積極的に加担していたという事実がある。とりあえず業界的には、「革新的な急成長企業」という存在が、融資や投資の対象として必要とされているのも確かだ。何しろ「ジャーナリスト、株のアナリスト、ビジネス・スクール教授、そしてアラン・グリーンスパン(FRB議長)を含む、ほとんどの人がエンロン物語を信じていた」(アレックス・ギブニー監督)のだから、今後も新たな「物語」を大多数の人々が信じた結果、裏切られるということは起こりうるのだろう。

ところで今日の日経新聞には、エンロン破綻を契機に作られた内部統制ルールに対して、アメリカ国内で批判が高まっているとの記事がある。企業改革法404条の下では、内部統制ルールの不備自体が罰せられるほか、監査基準も216項目に及ぶ膨大なものになるなど、正確な決算書作成のための社内体制整備と外部監査が厳格に義務付けられたため、上場企業が過剰な対応を強いられてコスト増を招いているという。

ある極端な事例を念頭に置いて不祥事の再発防止を目指すと、過剰な規制の網がかけられる事になり、それを実際に運用すると、今度は行きすぎではないかという話になってくる・・・ルール作りを過不足なく行うのは難しい。映画にも、エンロンの経営を疑問視した経済記者やアナリストが登場していたが、結局大事なのは、やはり「王様は裸だ」と声を上げることなんだろうと思う。

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2006年8月 7日 (月)

映画「太陽」

ロシア人監督が撮った昭和天皇の映画があるという話は知っていたが、外国人の天皇映画かと思うと、何となくキワモノっぽいよなあという感じが先立つもので、その映画「太陽」の日本公開が実現したと聞いても、通常ならばそれこそ「あっ、そう」とか呟いて見送るんだろうけど、今回見てみる気になったのは、やっぱり日経新聞のスクープ「天皇発言メモ」が自分の気持ちに影響しているとしか言いようがない(・・・自分はいつも駅の売店で日経新聞を買うんだけど、天皇記事が1面トップだった7月20日は、間違えて朝日新聞買っちゃったのかと思った)。しかも8月5日から東京で公開と聞けば、名古屋はひと月は後だろうと思っていたのに、意外にも東京と同時、8月5日から名駅・シネマスコーレで上映しているのだった。

ということで見に行ったのだが、小さな映画館(定員50名くらい)は満席で、結構一般人の関心の高いことを窺わせた。

で、内容なんだけど・・・う~ん。余りに淡々と話が進んでいくせいもあるのか、結局何を描きたいのかよく分からなかった。とりあえず、天皇の孤独ってやつを表してるんでしょうか。侍従長の佐野史郎は割と良い味出してましたが。もちろん昭和天皇に扮したイッセー尾形もうまかったんだけど、アレクサンドル・ソクーロフ監督の作り出す天皇の人物像そのものが微妙な感じ。映画のオフィシャル・ブックを立ち読みすると、あの「口パク」は天皇が高齢になってからの動作ということだし・・・あれじゃ何か「キモカワ」っぽいかも。昭和天皇が家族思いのマイホーム・パパ?であったり、オタクっぽい?生物学者であったとしても、それはそれでいいのだが、そのような自分自身のキャラと、自らが置かれた現人神という地位との間にあるギャップの大きさに対して、(心の内に殆ど押し殺してしまったであろう)様々な葛藤や苦悩があったことは推測されるし、その辺をもう少し掘り下げて描いて欲しい・・・と言っても難しい注文か。日本人の監督が誰かやれよって感じだな。

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2006年8月 1日 (火)

映画「ゲド戦記」

想像上の怪物であるドラゴンがとても好きだ(・・・でも中日ドラゴンズは特に好きではない)。そんなワタシが大きなドラゴンの描かれた「ゲド戦記」のポスターを目にすれば、これは見に行かなきゃと思うのも自分的には道理である。宮崎駿の息子である宮崎吾郎の初監督作品、原作は同名のファンタジー小説、という以外に予備知識は無いまま、例によって入場料1000円の「映画サービスデー」である今日、見に行ってきました。(109シネマズ名古屋にて)

スタジオジブリ制作であるから、もちろん画は満足できるものだけど(しかし相変わらずドロドロ状のものが出てきますなあ)、全体的に物語が充分組織化されていなくて、何となく流れていく印象。アレンが父である王を刺して奪った「魔法で鍛えられた剣」がなぜ鞘から抜けないのか(なぜ最後には抜けるのか)。テルーの「正体」は結局ドラゴンであるのかどうか。謎だ。アレンやテルーの過去はもちろん、偉大な魔法使い「大賢人」ハイタカ、その昔なじみのテナー、そしてハイタカと対立する魔法使いのクモ、いずれの過去も劇中では充分に語られない(パンフレットには書いてあるけど)。主人公はハイタカなのか、アレンなのか、テルーなのか、それとも3人とも中心人物なのか。とはいえ、キャラクターの背景について説明不足であるのは、ワタシのように原作を読む気のない怠惰な者は甘受しなければならないこととしよう。より強く不満を感じるのは、「世界の均衡」「永遠の生命」「影」「真(まこと)の名」などなど、様々な言葉が登場人物の口から語られるものの、それらがこの物語の展開にどう連関しているのか、いまひとつ判然としないことだ。

死や不安など、世界の影の部分に怯える人間が永遠の生命を求めるのは、有限な生命がバトンを渡していくように命を引き継いでいくという現実に反する、という意味で非現実的な願望であり、影の部分を極端なまでに忌避して、永遠の生命を手に入れようと強く望むのは「世界の均衡を崩す」ことでもある、というようなことは言えるのかも知れないが。

クモの台詞に「たわけ者」とかあるんだけど、もしかしてナゴヤ出身?(そんなアホな)

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2006年7月 1日 (土)

映画「かもめ食堂」

ブログを眺めていて目に付いたのは、3月に公開された映画「かもめ食堂」の評判が良いこと。フィンランドの小さな食堂を舞台に3人の日本人女性の日常を描く作品で、小林聡美、片桐はいり、もたいまさこが出演、原作は群ようこ・・・というと、ホントに女性向けというか、ゆる~い気分になりたいOLを動員しているようなイメージがありまして、自分の見る映画では無いなあという気もしたのだが、今日は入場料1000円の「映画の日」、評判の良い映画がどんなもんか見ておくかということで、上映館を探して(春日井コロナワールド、1日1回上映)、観てきました。

で、やっぱり自分には分からない映画だったなあという感想。というか、こういう作品って「分かる」「分からない」じゃなくって、「感じる」「感じない」ということなのかな、と。ブログの感想を読んでも、3人の女優さんが好きとか、フィンランドがいいとか、食堂で出されるメニューがおいしそうとか、そんな感じのものが多いし。出演者や脚本や映像(監督は新進の荻上直子)や、そんな全体をひっくるめたセンスというか雰囲気というか、それをいいなあ、と感じられるかどうか、ってことのように思う。

自分も感覚的な感想を少々述べてみると、まず小林聡美が食堂で着ている服やエプロンの色や柄が、カラフルだけど落ち着いた感じでとてもいい。映像としては夕焼けのオレンジ、森の緑が非常に印象的だ。

登場人物たちが「明日世界が終わるとしたら何をするか」という話をして「やっぱり美味しいものを食べたい」という結論?になるのだが、まあこういのも女性らしいっていえば言える。正直言うと小生は、女性の考えることは食べること最優先なのか、と時々不安になったりするのだが。

人のいれてくれたコーヒーはおいしい、人の作ってくれたおにぎりはおいしい、なんてセリフも出てくるんだけど、ホントに何でおいしいのか、不思議ではあります。

「レストラン」ではなく、「食堂」にこだわる主人公。小さくても自分の世界をしっかり守って生活していく、主人公のそんな姿勢も世の女性の共感を集めるところかも知れない。

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2006年6月 1日 (木)

映画「間宮兄弟」

自分は小説は読まない。でも、本屋に行けば今何が出ているのかをチェックはする。で、「間宮兄弟」という小説があるのは知っていて、このたび映画化されたということで、入場料1000円の「映画の日」である今日、見に行ってまいりました。原作は江國香織、映画は森田芳光・監督です。

映画は、仲良く共同生活を続ける兄弟の日常を淡々と描いていく。ビール会社の研究員である兄を佐々木蔵之介、小学校に勤める校務員の弟は塚地武雅(ドランクドラゴン)が演じる(仕事中の塚地の作業服姿が妙に似合う)。見た目は兄弟とは思えない程違う二人だが、キャラは両者共かなりオタクが入ってる。兄弟の同居する部屋の壁は大量の本で埋め尽くされ、鉄道模型やフィギュアも所狭しと並ぶ。兄弟はテレビで横浜ベイスターズの試合を熱心に観戦し、ポップコーンを頬張りながらビデオを見続ける。時には行きつけのビデオ店員の女の子や、小学校の先生(常盤貴子がいい味出してる)を招いて自宅でカレーパーティや浴衣パーティを開き、ボード・ゲームに興じる。でも何かが大きく発展したりドラマチックな事が起こるという訳でもない。

いい年をした大人の男が二人、子供のような関係で暮らしているというのは、正直ちょっと引くかも。むしろ、中島みゆき演じる母親と兄弟が一緒の場面になると、仲良し親子という画になって、妙に安定感があったりする。こういう話は特に兄弟という設定でなくてもいいような気がしつつ、パンフレットを見ると、森田監督も「僕の意味するところでは“兄弟”じゃなくてもいい。赤の他人、女同士、男と女だっていいんです」と語っていた。まあとにかく今の世の中、誰かと何かを共有するというのは意外と難しくて、それが日常的にできれば幸せなことだ、という感想・・・でいいのかな。

以下は本筋から離れた雑感。新幹線に乗った兄弟が語る、新幹線についての薀蓄の中に、名古屋から東京に向けて走る新幹線の右側に富士山の見える地点がある、という話が出てくる。それは自分も見たことがある。静岡の手前です。ただ天気が晴でも、雲や霞で見えないことあり。

兄弟が夜の街を自転車で走りながら、東京のあれこれについて語る場面の中で、吾妻橋に関連する話をしながら実際に吾妻橋の上を走っていく。自分は子供の頃、吾妻橋の近くに住んでいた。今の吾妻橋は赤い橋だけど、昔は少し色褪せた感じの水色だった。隅田川の水は汚れていて、水上バスの発着所は寂れた感じだった・・・(昭和40年代の話です)。

映画の中の登場人物のセリフに、ハワイじゃなくて葛西臨海公園で撮った写真じゃない?というようなセリフがあって、あんまり客席から反応らしきものが感じられなくて、そうだ、ここは名古屋だったな、とあらためて思ったことであったよ。(臨海公園、東京でも知名度は高くないか?)

映画そのものがどうこうと言うより、東京出身の人間が、東京を舞台にした映画を、東京以外の場所で観ると、ビミョーな気持ちになるのだなと思った。

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2006年5月 1日 (月)

映画「ブロークン・フラワーズ」

丁度2年前、「ロスト・イン・トランスレーション」を観た時、主演のビル・マーレイの枯れた味わいというかくたびれた哀愁というか、そんな雰囲気が妙に印象に残った。映画自体は東京を舞台にしたソフィア・コッポラ監督の「日記」みたいな感じで、何がどうということはなかったのだが。

そんなビル・マーレイが冴えない中年独身男に扮して、昔の恋人たちに会いに行く旅に出るという話、その相手役にはシャロン・ストーンやジェシカ・ラングが扮すると聞いて、「ブロークン・フラワーズ」を観に行った(今日は入場料1000円の「映画の日」だし)。監督はジム・ジャームッシュ。自分がジャームッシュ作品を観るのは「ナイト・オン・ザ・プラネット」以来14年ぶり。

主人公が旅に出るきっかけは、ピンク色の差出人不明の謎の手紙。そこには「20年前、あなたと別れてから生んだ息子があなたを探しに旅に出ました」と書かれていた。おせっかいな友人が、過去の5人の恋人のうち、死亡した1人を除く4人の住所を調べ上げ、飛行機や宿などの手配までしてくれて、主人公は昔の恋人たちに会いに行くことになる。途中で「自分はどこにいて、何をやっているんだろうか」と嫌気がさしながらも、主人公は4人と会い、1人の墓参りをして戻ってくる。手紙の差出人が誰なのか、はっきりした手がかりは得られないまま・・・。

まずは注目の女優陣だが、シャロン・ストーンは、えっ、これが?って感じで、昔の鋭いセクシービームは消えて、何かほんわかムードすら漂っていた。ジェシカ・ラングも動物とのコミュニケーターとかいうちょっと怪しい?役を生き生きと演じてはいたが、まあ皆様やはり年取ってるなとしか言いようがない。脇役で強烈なのはストーンの娘役で、もう鼻血ブー(超古い)である。

で、主演のビル・マーレイ。「ロスト・イン・トランスレーション」では異国の地という非日常の空間に置かれてとまどう男を演じた彼が、「ブロークン・フラワーズ」では過去と現在という時間の狭間でとまどう男を演じて、一段と味わい深くなった「くたびれキャラ」を見せてくれる。

この映画は、苦いおとぎ話とでも呼びたくなるような作品だ。大体、20年前の恋人の住所を調べて旅のお膳立てをしてくれる友人がいるなんて都合が良すぎるし、ピンクの謎の手紙も仕掛け以上の意味は無いようだし。要するにこの映画が描きたかったのは、過去の忘れ難い女性が今何をしているか知りたいという、男なら誰でも多かれ少なかれ抱く願望を実際に行動に移してみたらどんな気持ちを味わうのか、ということなんだろうと思う。たぶん現実にはビル・マーレイが演じたようにとまどうばかりになるだろうし、そこに巧まざるユーモアも生まれるということだろうか。

最後に主人公が自分の住んでいる町にやって来た若い男に語る。「過去は過ぎ去ってしまった。しかし未来はどうにでもなる。だから大事なのは現在だ」。結局、人間何歳になっても、よりよい未来のために現在を大事に生きるしかないってことかな。

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2006年3月19日 (日)

映画「白バラの祈り」

白バラ抵抗運動のことを自分が知ったのは20年ほど前。東京・神田神保町にある小さな出版社で販売事務の仕事をしていた時に、その会社からショル兄妹の遺稿集が出版されたことによる。当時の映画作品「白バラは死なず」も観た覚えはある(ただし、内容はほとんど忘れた。最後は処刑直前のショル兄妹ら3人がタバコを回しのみして、ギロチンの刃が落ちるシーンで終わる)。

さて、3月11日からようやく名古屋でも公開された映画「白バラの祈り」(東京は1月末からやってる)。ドイツ統一後に日の目を見た資料を基に脚本が作られたこの作品は、抵抗運動メンバーの中のただ一人の女性、ゾフィー・ショルの逮捕から処刑までの5日間(1943年2月18日~2月22日)に焦点を絞り、彼女の「最期の日々」を克明に描き出す。名古屋での上映劇場は名演小劇場。半年前に「ヒトラー最期の12日間」を観た場所で、再びナチズムの世界に入り込む。

映画の中心は逮捕されたゾフィーと、ゲシュタポの尋問官モーアの取り調べにおけるやり取り、そしてクライマックスは無茶苦茶高圧的なフライスラー裁判長が、ゾフィーら3人の学生に対して一方的に「大逆罪」で死刑を宣告する「人民法廷」の場面。午前中に始まった「裁判」は昼過ぎに「判決」が出され、夕方には死刑執行という、無慈悲で冷酷そのもののスケジュール。

たかが学生さんのビラまきに極刑というのは、平和な時代の人間には理解できない。それだけ当時のスターリングラードでの大敗北が、ナチス体制に危機感を与えていたのかも知れないが、結局は反対意見を絶対に許さないのが、全体主義の本質ということなんだろう。当たり前だけど。

ゾフィーに対する取り調べの中で、モーアは法律があるから秩序が保たれると語る。外部にいる人間には狂気の体制としか見えない社会でも、そこに法律による秩序があるならば、その法律を運用する権力側の人間が採用する法律的手続きに則って、その体制の下で生きる人びとの生き死にが決められてしまう、というどうしようもない現実がある。その狂った体制の中で、自由を求め自らの良心に従い勇気を持って行動したショル兄妹。時代の制約のある中で、どれだけ自らを偽ることなく生きることができるかが人々に問われるのは、戦争の時代だろうと平和の時代だろうと変わらない。と、とりあえず言うことはできる。

でも正直、自分ももう若くないせいなのか、理想や信念に殉じてしまった彼らの姿は、見ていてツライ。取り調べ室で交わされるゾフィーとモーアの言葉よりも、刑務所でゾフィーと同じ部屋に入っていた中年の女性囚人が語りかける、「あなたはまだ若い。理想のために生き延びて」という言葉に、じんわりと共感を覚えてしまうのだった。

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2006年2月24日 (金)

カーリング、盛り上がる

トリノ・冬季オリンピックでの日本女子チームの奮戦により、カーリングへの注目度が一挙に上昇。熱を帯びるカーリング人気を、たとえば本日付日経新聞は以下のように伝える。

日本代表がメダル獲得に苦しむトリノ冬季五輪で、女子チームの健闘が光ったカーリング。四強入りは逃したが強豪を連破する活躍が呼び水となり、人気が急上昇している。

各地のスケート場で開かれるカーリング教室には五輪の女子一次リーグが始まった13日以降、参加申し込みが急増。「明治神宮スケートセンター」(東京都新宿区)など2ヵ所で、それぞれ月1回の教室を開く東京都カーリング協会では、各回約30人の定員が9月まで予約で埋まった。

トリノでの活躍に合わせるように、日本代表の小野寺歩選手(27)らについて、4年前のソルトレークシティー大会の代表チームとして奮闘した足跡を追った映画「シムソンズ」も18日から全国で公開され話題だ。

ということで、とりあえず小生も「シムソンズ」観てみました。北海道の小さな町で退屈な青春を過ごす女子高生たちが、ちょっとしたきっかけからカーリングを始めることに。チームは危機を乗り越えながら結束を強め、北海道大会で決勝に進出するが・・・なかなかこれは見てる方が少し気恥ずかしくなるような真っ正面からの青春映画だったりする。ま、とりあえずカーリングのルールは大体解りましたね。音楽の使い方は、もう少し抑え目にしても良かったような気がするけど。

話はカーリングから離れるが、主人公の母親役の森下愛子、その昔、ATG映画「サード」など鬱屈した感じの青春映画で陰影のあるムードを醸し出していた女優さんが、今は単純明快な青春映画でお母さん役というのも、時代の移り変わりを感じさせられます。しかし死んだ父親(の遺影)役の宇梶剛士は、あれで「(友情)出演」になるのかいな。

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2006年2月 9日 (木)

伊福部昭、死去

8日夜、作曲家の伊福部昭氏が東京都内の病院で死去。91歳。

伊福部氏は独学で作曲を学び、数多くの映画音楽を手がけた現代音楽家である(というと、変な連想だけど、10年前に亡くなった武満徹が思い出される)。で、伊福部昭といえば、どうしてもゴジラ映画の音楽ということになる(申し訳ないけど、他の作品を知らない)。怪獣映画に魅せられた記憶のある元男の子なら、映画館の「音がガンガンと響きわたる場末の暗闇の中で、あの悪魔の様に独創的な音楽を耳にし続けた少年の感性は、無意識の内にも、どれ程強い影響を受けてしまったか」(井上誠・CD「ゴジラ伝説」解説から)、という思いは共有できることだろう。

映画「キングコング対ゴジラ」から、伊福部昭・作詩作曲「巨大なる魔神」の詩。

ア シ アナロイ アセケ サモアイ

ア シ アナロイ アセケ サモアイ

ケー ケレテナ ケー ケレテナ

イ ナ マン ファナドロ サーグーティーア

イ ナ マン ファナドロ サーグーティーア

ケー ケレテナ ケー ケレテナ

シクナ ファナドノ オナサー ヌナファ

シクナ ファナドノ オナサー ヌナファ

ア シ アナロイ アセケ サモアイ

ア シ アナロイ オナサー ヌナファ

マー グー ヌー ニトゥ マー グー ヌー ニトゥ

シクナー マリカン シクナー マリカン

マー グー ヌー ニトゥ マー グー ヌー ニトゥ

ラオー ラオー ラオーーー

何しろ全く意味不明なんだけど、聴いてるうちに頭の中で何度も何度も繰り返し流れてしまう、まさに呪術的な力を持つ音楽ではないかと。

「ゴジラ・ファイナルウォーズ」から1年余り、ゴジラが永い眠りについたのを見届けて、伊福部昭も世を去った。合掌。

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2005年11月13日 (日)

強いぞ、ガメラ~

講談社から出ている「ぼくらが大好きだった特撮ヒーローBESTマガジン」VOL.4の巻頭特集は、ガメラ。

傷つき虐げられながら戦う姿が痛々しいガメラ。ギャオスの超音波メスに切られて青い血を流し、バイラスの尖った頭に腹を突き刺され(よく生きてるな)、バルゴンの冷凍液に氷漬けとなり、ジャイガーには体内に産み付けられた卵から生まれた幼獣に血を吸われて半透明の姿に・・・等々、やたら悲惨な目に合いながら、最後には勝利を収めるガメラ。東宝怪獣映画がもたらすような一種の爽快感とは無縁だが、まあそれはそれで大映怪獣映画の個性ではあった。

「ガメラ対ギャオス」(昭和42年)は、ガメラ・シリーズのベストワンであるのはもちろん、怪獣映画というジャンル全体で見ても5本の指に入る傑作だろう。ギャオスというライバル怪獣の造形の素晴らしさ、本編と特撮のバランスも含めてストーリー全体の構成も巧みで申し分ない。また、ガメラは子供の味方であるという設定は、当時子供だった自分にはあんまり嬉しいものではなく、特に子供が主役級の活躍を見せたりする作品はどうも感心できなかったが、この映画におけるガメラと少年の交流の描き方は、抑え気味なのが好ましい。あくまで基本は、ガメラとギャオスの戦いの「記録」なのである。

巻頭特集のガメラの他、東宝怪獣バトルのページもある。「キングコング対ゴジラ」(昭和37年)と「モスラ対ゴジラ」(昭和39年)もまた、怪獣映画の傑作であることは疑いない。両ゴジラの造形は評価が高く、ストーリーや演出も娯楽大作の王道を歩むという仕上がりだ。

東京から東海道新幹線の下りに乗る時は、海側に席を取る気持ちになる。熱海を通過する際、キングコングとゴジラが壊した熱海城が見える。次に目に入るのは西熱海ホテル。ギャオスが飛来したのはこの屋上の展望台だったか。日本経済の高度成長時代、最もポピュラーな温泉歓楽街だった熱海、そして力強さに溢れていた怪獣映画・・・昭和は遠くなりにけり、と思ったりする。

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2005年10月29日 (土)

アル・パチーノとシェイクスピア

映画「ヴェニスの商人」が本日から全国ロードショー(名古屋はゴールド劇場で上映)。シャイロック役はアル・パチーノ。と聞いて、舞台役者としてのパチーノが、リチャード三世を十八番にしているシェイクスピア好きであることを思い出した。

もう9年も前のことになるが、パチーノの監督・主演映画である「リチャードを探して」を観た。「リチャード三世」の芝居を作り上げるため、パチーノを初めとする役者たちが様々な議論や解釈を重ねていく舞台裏と、実際に彼らが演じる「リチャード三世」の物語のハイライト場面が同時進行していく、いわば「本編の無いメイキング映画」。場面が次々切り替わるといった、駆け出しの映画青年みたいな作り方の部分もあるが、全体としてはパチーノ監督のシェイクスピアに対する思い入れの強さが伝わってくる。たぶん、実際に演じる俳優こそがシェイクスピアを一番よく理解できるのだ、という自負もあるのだろう。

1972年「ゴッドファーザー」の成功でスターになったパチーノは、演技派とはいわれるものの、若い頃の役柄のイメージはある程度限られていたように思う。80年代は映画から遠ざかっていたパチーノだが、90年代は再び映画出演を活発化させて、92年には「セント・オブ・ウーマン」でアカデミー賞受賞。演じる役柄も幅広いものになった。

「リチャードを探して」の中でも、リチャードを演じるパチーノは凄みのある演技を見せる。特に、自分が殺した男の夫人であるアン王女を口説く場面で、始めは切々と訴えるように、次第に自分のペースに巻き込むように迫る様は圧倒的。それからリチャードの最後、死体をひどくリアルに演じているのに、ちょっと驚いてしまった覚えがある。

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2005年8月27日 (土)

DVD「ヨーロッパの解放」Ⅲ

ソ連映画「ヨーロッパの解放」を観たのは、もう30年以上も前。その後もたまにビデオで見ていたが、今回DVD全三巻のうちⅢ「ベルリン大攻防戦」を見る気になったのは、例の「ヒトラー最期の12日間」を観たから。ヒトラー、ゲッベルスの最期を描いた映画というと、この「解放」しか観ていないので、自分の中では比較対象はこれしかない。

この映画は戦闘場面等はカラー、歴史上の人物が登場する場面はモノクロの画面という構成で話が進んでく。ゆえにヒトラー地下壕の場面は当然モノクロである。ヒトラーはエヴァ・ブラウンと結婚の手続きを行った後、幹部たちと握手を交わし、自室に入る。「12日間」では自殺場面は室外に銃声が響くだけだったが、「解放」ではさらにヒトラーの室内の行動を追っていく。まずエヴァの口に、自らの手で毒薬を押し込む。次の場面では、大きな執務机の上に横たわるエヴァの遺体を前に座るヒトラー。手に取った拳銃を自らのこめかみに押し当てようとするが・・・。「解放」では、ヒトラーが自決しきれず、側近が手を下したことを暗示させて、ヒトラー最期の場面は終わる。この辺はソ連映画だし、独裁者の末路を情けなく描いているのかも知れない。

ゲッベルス一家の最期。医者が「子供たちは国際赤十字に引き渡しなさい」というのを、ゲッベルス夫人は「ゲッベルスの子供ですよ」と拒否。注射器による毒殺を暗示(「12日間」では、夫人が眠っている6人の子供たちの口に毒を含ませて、次々に殺害していくのを延々と見せられて参りました)。夫妻の死に方は、地下壕の中で2人で並んで手を組み、傍らの兵士に「階段を上がっていくから後ろから撃ってくれ」と言い残すもの。実際の銃撃場面等はなし(「12日間」では、地下壕の外で2人が向き合い、自決場面は写さず銃声2発が響く)。

「解放」のゲッベルスは、本物そっくりと言っていいんじゃないでしょうか。合格。「12日間」のゲッベルスは、なぜか背は高いし、インテリっぽくないし、あんまり似てなくてがっかりする。

「解放」の中でゲッベルスは、「総統は毒薬でなく拳銃で自殺するべきだ」と語る。やはり拳銃で自決するのが「男らしい」のか。「12日間」の中では、拳銃自殺について、決行しやすい?方法として、毒薬のカプセルを噛むと同時に拳銃の引き金を引く、という話もされていた。しかし「ハラキリ」もそうだけど、拳銃で頭を打ち抜くというのも、そんなことよくやれるよなあ、と思うんだけど。

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2005年8月21日 (日)

DVD「恐竜100万年」

コンビニのサークルKで、映画「恐竜100万年」のDVDが999円で販売されていたものだから、ついつい手が出てしまった。

この映画を見たのは子供の頃、もう30年以上も昔のことだが、トリケラトプスとケラトサウルスの決闘シーンが印象深く心に残った。

特撮シーンは恐竜のフィギュアを少しずつ動かして、それを一コマずつ撮っていくという方法を採っている。それでもやはり、恐竜の動き自体は自然な滑らかさには欠けるのだが、恐竜と人間の闘いの場面で両者の動きが巧くかみ合うなど、むしろ合成技術の高さに驚く。

原題は「紀元前100万年」で、物語としては恐竜映画というより原始人映画?なのかも知れない。しかし、主演女優のラクエル・ウェルチがキレイなのはもちろん、主演男優もハンサムだし、そんなにリアルな原始人でもないよなあ。まあ、もともと恐竜と人間が同じ時代にいたわけじゃないし、フィクションと割り切るしかないってことですか。

大人になってから見ると、ラクエル・ウェルチの豊満な肢体についつい目が行ってしまう・・・のかな、とも思ったが、もともと野性的状況設定ですから半裸の美女といっても特にどうということもなく、そんなことよりもやっぱりトリケラトプスは強い!とあらためて感じたのだった。

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2005年8月13日 (土)

映画「ヒトラー最期の12日間」

この映画、ようやく先週末(8月6日)から公開。東京ではひと月前から上映しているのに、名古屋は遅いな~。

最初、ヒトラーをブルーノ・ガンツが演じると聞いて、意外感(正直あんまり似てないんじゃないかというレベルの話)があったのだが、見てみると死の直前の精神的に追い詰められたヒトラーを熱演していた。「ベルリン天使の詩」で天使を演じたガンツ、今度は歴史における悪魔のような男を演じて、さすがは名優という感じ。

「秘書が今明かす衝撃の真実」が謳い文句だが、それ程意外な話は出てこない。冒頭で秘書が所謂「狂言回し」の役割かと思わせるが、それも徹底されていない。だから最後に年老いた秘書本人の映像が出てきても、何か余計な付け足しの様に思えた。自らの過去について、白バラ抵抗運動を起こしたゾフィー・ショルの名前を挙げながら「若かったというのは言い訳にならない」と自己批判する秘書が、ドイツ人の気持を代弁しているということなのか。とすれば、ドイツ人がこういう映画を作ることに、まだ何かしら後ろめたさがあるのかどうか。

映画は、ヒトラーだけでなく彼を巡るナチ幹部の行動も含めて、第三帝国最後の日々を描き出しているが、強烈な印象を残すのはベルリンの市街戦の凄惨な様子。ソ連軍の攻撃に対して少年兵が対戦車火器を背負って立ち向かい、SS親衛隊が治安維持と称して名も無き市民をスパイ容疑などで殺害していく。病院は負傷者で一杯になり、医者は休む間もなく重傷兵士の手や足を切り取っていく。一方、ヒトラーの地下壕本部ではパーティが行われ、人々は酒やダンスに溺れて退廃ムードが充満・・・などなど、陥落間近のベルリンでは総統、ナチ幹部、軍人から市民まで狂気に包まれていく。

やはり戦争映画は敗者の側から描き出さないと、その悲惨さは伝わってこないと思った(・・・戦車がたくさん出てきてドンパチやる映画も好きなんですけどね)。といって、日本が負ける映画を見るのは、惨めさがいや増すばかりになる。ドイツが崩壊する映画だから、ちょっと距離を置いて見れたというのも正直なところ。

戦場の中で医師として活躍するシェンク博士(クリスチャン・ベルケル)という人が、なかなかシブい味出してます。

ゲッベルス夫人が、眠っている自分の子供たち6人の口に毒薬を含ませて次々に殺していくのは、何とも嫌なシーンだったな。

しかしゲッベルス、似てねーぞ。

(追記)ソ連映画「ヨーロッパの解放」のゲッベルスは良い。ブログ内記事

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2005年8月12日 (金)

DVD「バルジ大作戦」

今までなぜかDVDになっていなかった戦争映画「バルジ大作戦」が、ようやくDVDになって登場した。よかったよかった。

ちなみに「バルジ」とは「突出部」を意味する言葉で、ドイツ軍が奇襲攻撃によってアメリカ軍陣内の奥深く入り込んだ戦線の形から来たもの。地名で言う場合は「アルデンヌの戦い」と言う。第二次世界大戦のヨーロッパ戦線、ナチス・ドイツ降伏半年前の1944年12月、米英軍に対して行われたドイツ軍最後の大反撃のことだ。

この映画では、アメリカ戦車M47パットンがドイツのキングタイガー戦車を、同じくアメリカ戦車M24チャーフィーがアメリカのM4シャーマン戦車を、「演じて」いる。この辺はちょっと無理があるのでは?などと、しばしば突っ込まれるところだが、それでもM47のキングタイガーって割と「適役」なんじゃないか、と自分は思っているのだ。特にまとめて数多くのM47が、鉄十字のマークを付けたキングタイガーとして進撃するところなんか、結構わくわくするぞ。

そして「バルジ大作戦」といえば、例の「パンツァーリート」、戦車隊の歌である。ロバート・ショー扮する鬼戦車隊長の前で、若い戦車兵たちが足でリズムを取りながら大合唱。決戦に向けて士気を高めていくのであった。・・・ドイツ軍って、なぜかカッコいいのだよな~。

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2005年7月13日 (水)

映画「オープン・ウォーター」

基本的に怖い映画は見ない。理由は怖いから・・・何だそりゃ。そんな私ですが、なぜかこの「オープン・ウォーター」には関心を持ってしまった。大海原に取り残されるダイバーの男女2人。それだけでも物凄~く心細いのに、周りにゃサメがうろうろ。これは怖いぞ。で、なんでそんな映画を見たくなったのかと考えたら、つまりリアルだから。実際に起きた出来事らしいのだが、そんな極限状況に置かれた人間がどうなるのか、これは結構リアルな恐怖です。いわゆるホラー映画と呼ばれるものは、ヘンな化け物が出てきたり、人間の体が壊されて夥しい血が流れるなど気色悪い。そうだ、怖い映画を見ないのは、怖いということもあるが、とにかく気色悪いからなのだ、と自分で納得。

で、その「オープン・ウォーター」。話は単純で、ダイビングツアーに参加した若い夫婦2人が、ちょっとした手違いからツアーのボートに置き去りにされてしまう。海の真ん中に漂う2人の運命を、映画はドキュメンタリータッチで描き出す。

周りはどこを見ても海、海、海。時折、はるか彼方を船が通るものの、見つけてはくれない。体温の低下、波による船酔い症状、おしっこもそのままするしかない。クラゲには刺されるし、サメも大小取り混ぜてやってくる。波に流されて離れ離れになり、必死で相手のもとに泳いでいく2人。励ましあう時もあれば、海の上で夫婦ゲンカが始まったりもする。やがて日は沈み、真っ暗闇の中で雷鳴が轟く。一夜明けて、ようやくツアーガイドやホテルが2人の不在に気づき、空からも海からも救助隊が出されるが・・・。

なるほど恐怖映画というよりは、絶望的な状況にある人間を淡々と描き出すという感じ。実際、恐怖のタネといえば、サメしか無いといってよい。あと、効果音で少し盛り上げるとか。登場人物の気持になってみれば、夜が一番怖いと思えるが、それは映画の観客にとっては何にも見えなくて退屈な訳で、夜のシーンはすぐ終わっちゃうのだな。

怖かった、というより、ちょっと驚いたのはその結末。まあ映画なんだから、最後は少しはホッとさせてくれるだろうな、という予断を持っていたこともあり、「えっ、そうなの」という感じ。き、気分が重くなる~。

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2005年3月14日 (月)

マフィア映画はお好き?

実録マフィア映画の世界』(山田吐論・著)という本が(昨年末に)出ていたのだなあ。開業したばかりの栄ラシック内にある旭屋書店で目についたので購入。という訳で全く私的なタイミングでマフィアネタ。

自分の世代(現在40代)だと、「ゴッドファーザー」が初めて見た大人の映画であり、影響の大きい映画でもあるということは、結構あるんじゃないかと思う。「PARTⅡ」は10代の自分にはちょっとつまらなく感じたりもしたが、当時のプログラムに評論家・品田雄吉氏が書いていた、「ゴッドファーザー」は、「じつはギャング映画でもなければマフィア映画でもなく、シチリア移民の年代記」であり、「シチリア人がアメリカ人になっていく過程を描いたスケールの大きい叙事映画」なのではないか、との映画評にはすごーく納得してしまったのだった。で、それからさらに16年も経ってから「PARTⅢ」が出来たのには驚いた。この作品から自分には印象的だったセリフをいくつか。

「俺は黒人やスペイン系もファミリーに入れる。なぜなら、それがアメリカだからだ」(新興ギャングのジョーイ・ザサ)
「この石はかなり長い間水に浸かっていましたが、水は石の内部に浸透していません。ヨーロッパ人も同様に、何世紀もの間キリスト教に囲まれていたのですが、キリストの精神は浸透していないのです」(ランベルト枢機卿)
「金融は銃だ。政治は、いつ引き金を引くか知ることだ」(マイケルに敵対する勢力の黒幕ドン・ルケージ)

ところで、「ゴッドファーザー」と同時期のマフィア映画に「バラキ」「コーザ・ノストラ」がある。こちらはまさしく実録もの。マッセリアとマランツァーノの2大ファミリーの抗争から、1931年春にまずマッセリアがレストランで射殺される。その半年後に今度はマランツァーノが自分の事務所でニセ警官に殺され、ルチアーノがボスの中のボスに収まる。この辺の経緯は「バラキ」にも「コーザ・ノストラ」にも描かれているが、こんな言い方もなんですけど、なかなかスリリングでドラマチックな展開なんですわ。「バラキ」はさらに戦後の、ジェノベーゼが大ボスになる時のアナスタシア殺害(床屋で射殺)も再現しているのだが、こんな言い方もなんですけど、何かゾクゾクするような場面なんですわ。「コーザ・ノストラ」はルチアーノの生涯を描いた社会派ドラマという按配で、中学生が見るにはちょっと難しかったな。

ベタな言い方だが、優れた映画からは人生や社会を学ぶことができる。「ゴッドファーザー」第1作は大人になってから見直すと、人間社会のいろんな場面に通じる「政治」の映画であると思えるし、「PARTⅢ」を見れば、人生とは愛する者を失っていくプロセスなのか、などとセンチメンタルになったりもする。それが映画ってもんだよな~。

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2005年3月 6日 (日)

カーチス・ルメイという男

今日のNHKスペシャルは東京大空襲を取り上げていた(「東京大空襲60年目の被災地図」)。空襲について具体的なイメージを持ったのは自分が小学生の頃、黒く炭化した親子の遺体写真を見た時だと思う。たしか「少年マガジン」の大伴昌司カラー大図解の特集だった。いまから思えば、あの頃のマガジンは小学生にとっての教養書だったな・・・。東京・墨田区の小学校、中学校を出ている自分には、関東大震災と並んで知っておかなければならない出来事でもある。NHKの番組は、存命中の被災者の言葉、絵を軸に構成されていたが、なかには大空襲の前の、大震災も経験されている方もいて、よくぞ生き延びましたね・・・と感嘆するほかなかった。

さて、この東京大空襲を指揮したのは、番組にも出てきたが、カーチス・ルメイという男であり、低空飛行する爆撃機B29から焼夷弾を大量に落とす絨毯爆撃作戦を採用、さらには原爆投下も指揮して、日本の主要都市を焼け野原にした人間である。戦後の1964年には、「航空自衛隊を育成した功績」として日本政府から勲章を与えられている、というのは知っている人は知っている話。

このルメイ将軍、DVDが発売されたばかりの映画「フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白」にも登場する。太平洋戦争中、マクナマラはルメイの部下の一人だった。マクナマラから見たルメイは、「誰よりも優秀な指揮官だったが、ケタ外れに好戦的」だった。現在80歳代のマクナマラは、戦争にも目的と手段の釣り合いが必要だ、と考える。「日本の67都市の50~90%の人々を殺し、原爆まで投下するのは、達成すべき目標に比べて釣り合いが取れている、とはいえないだろう」。「ルメイは『負けたら我々は戦争犯罪人だ』と言った。彼も私も戦争犯罪を行ったのだ」。そしてマクナマラは「勝てば許されるのか」と自問する。このルメイ、キューバ危機の時は「キューバを全面的に破壊しろ」と主張する。「核戦争は避けられない」とルメイは信じており、優位なうちにソ連を叩け、と考えていたからだ。また、映画「地獄の黙示録」にも、ジャングルに空からナパーム弾を打ち込むシーンで「石器時代に戻してやれ」という台詞が出てくるが、これもベトナム戦争時にルメイが実際に言った言葉であるという。日本、キューバ、ベトナム・・・彼の頭の中には、敵を殲滅せよ、という言葉しかなかったように思える。なんともおぞましい人間がこの世にいたことに慄然とするばかりだ。

自分の母方の家は馬喰横山町で空襲に遭った。犠牲者になっていたら、自分はいまここにはいない。

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2004年12月 7日 (火)

ラスト・ゴジラの出来栄えは

最後のゴジラ映画「ゴジラ・ファイナルウォーズ」を観た。これまでのゴジラ映画に登場したラドン、アンギラス、モスラ、エビラ、ガイガンなどの怪獣たち(アメリカ版ゴジラまでも)が多数出演するほか、X星人、妖星ゴラス、轟天号、インファント島など東宝特撮映画懐かしのアイテム、さらに宝田明、水野久美、佐原健二など怪獣映画ゆかりの俳優たちも勢ぞろいということで、まさに総決算を目指した作品にふさわしい陣容。 怪獣たちは概ねパワーアップされ(しかしモスラ強すぎ?ガイガン見かけの割りに弱い・・・ヘドラの出番短かっ!)、怪獣に襲われる世界の各地で逃げ惑う群集シーンもあるなど、力入ってるなーと思わせる。その一方で、格闘アクションや、CGを使ったUFOと地球防衛軍の空中戦などの比重も大きく、いわば「マトリックス」的な見せ場をかなり盛り込んだ仕上がりとなっている。

とはいえ、豪華な道具立ての割に観ていて興奮に欠けるのは、ひとつはゴジラがあまりに強すぎるせいか。加えて、お話そのものにどことなく無理があるという感じもつきまとう。実際、最近のゴジラ映画は常にストーリー作りの難しさに苦労しているように思われる。振り返れば、もともとゴジラのリアリティは核の脅威や冷戦構造に保証されていた。それゆえに、米ソ間の緊張が高まった1980年代前半に、ゴジラが復活したことも納得できるものがあった。しかし80年代末期から90年代初めに冷戦が終わると、核戦争の脅威も後退。このような世界の変化の中で、ゴジラという存在にどのようなリアリティを持たせるか。この非常に困難な課題に向き合ったのが、平成ゴジラシリーズということになる。以後、様々な試みを重ねつつゴジラ映画は新作が作られ続けたが、自衛隊や地球防衛軍のハイテク装備を映像化するなど一定の成果を収める一方で、文明の破壊者としてのゴジラの意味が希薄化していくという、どうにも克服できない限界も意識されていたように思う。

そういう意味では生誕50周年というのも、確かに区切りをつける潮時ではあろう。ゴジラ、御苦労様であった。ところで、この作品にはキングギドラは出ないのかと思っていたら、最後に仕掛けがありましたね。でも結局キングギドラはデビュー時の宇宙怪獣という設定とスタイルが一番だな。

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2004年12月 3日 (金)

訳解らんぞ「ハウルの動く城」

先日12月1日は「映画の日」、入場料1000円ということで、「ハウルの動く城」を観に行った。感想は一言でいうと、訳の解らない話だった。前作の「千と千尋の神隠し」も観たが、この作品のどこにあれだけの人々を惹きつけるものがあるのか、正直全然分からなかった(主題歌は良かったと思うけど)。新作でまず感じる素朴な疑問は、なぜヒロインが90歳の姿をしていなければならないのか、ということだった。今までの宮崎駿作品のように主人公は少女(のまま)で、何の問題もないような気がする。荒地の魔女も含めて、メインキャラクターはババァである。加えて、荒地の魔女の手下はドロドロ状態なものだから、前作に引き続き、ババァとドロドロが画面を動き回る。あまり気持ちよろしくない。さらに登場人物の性格や行動の理由というものがよく見えない。だから結局のところ、話全体もどこに重点が置かれているのか分からなくなる。

城そのものの動きは面白いのだから、タイトルにもなっているのだし、城が主役になって思いっきり活躍してくれたほうが、個人的には良かったかな。公開当初の観客の出足は好調のようだが、家族連れを動員した「千と千尋」に比べれば、「ハウル」は特に家族向けでもないだけに、最終的な動員数は前作に及ばないのではないか。

ところで、自分が子供の頃、町内会で集まって「太陽の王子ホルスの大冒険」というアニメ映画を浅草へ観に行ったことがある。ロシア風あるいは東欧風のキャラクター設定で、物語の細部は全く覚えていないものの、主題歌のフレーズ「ゆけ、はしれ、ホルス、ぼくら君と~」と共に、今も自分の心の中に、それこそ愛と勇気と冒険のドラマとして、良い印象を残している。最近、このアニメが宮崎作品であることを知った。この映画をDVDか何かで再見する機会があればいいな、と思う。
 

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