2022年8月14日 (日)

アメリカ・サブカルチャーの歴史

最近、NHKBS番組『世界サブカルチャー史 欲望の系譜』アメリカ篇の1950年代から2010年代まで通して観た。70年代から90年代までの部分が本になって出ていた(祥伝社発行)ので、以下に90年代について語られる部分からメモする。

90年代のアメリカを表現する用語のほとんどには「ポスト」という接頭辞が使われていました。ポスト・産業(工業)社会、ポスト・フェミニズムの男女関係、ポスト・モダンの文化・・・すべてのことがポスト、ポスト、ポストだったわけです。ただし、それが何かの「あと」であることは分かっても、それが何であるのかを人々が分かっていたわけではありませんでした。(ブルース・シュルマン、歴史家)

90年代というのはまったく新しいものが生まれた最後の時代だったように思います。音楽も映画も文学も、すべてのカルチャーにおいて、世代を通して影響を与えうる大きなスケールと芸術性が同居するような作品は、どんどん少なくなってきているのが現実です。もはや、マイケル・ジャクソンは現れそうにない。90年代とは、みんなが同じものを見ていたと回顧できる最後の時代なのかもしれません。(カート・アンダーセン、作家)

・・・番組シリーズを通覧して了解したのは60年代末以降、カウンターカルチャーとして発展したサブカルチャー(番組では主に映画と音楽)は、やがてその熱気や勢いやエネルギーを失い、「産業化」「商品化」していくプロセスを辿ったということだ。おそらく、カウンターカルチャーとしてのサブカルチャーが終わりを迎え、多くの人々に影響を与えるようなパワーのある作品も出てこなくなったのが90年代、ということになるのではないか。

シュルマン教授は、1970年代のアメリカは多くの歴史学者から「空白」の時代と評価されているが、実はアメリカと世界が今日に至る種がまかれた、非常に重要な時期であると考えている。またサブカルチャーの観点から見れば、68年から84年までが「70年代」である、とも語っている。自分と同じ1959年生まれの教授の話は、どれもこれも腑に落ちる。

番組で紹介された70年代の映画、ゴッドファーザー、ジョーズ、未知との遭遇、ロッキー、ディアハンター、サタデーナイトフィーバー、クレイマークレイマー、タクシードライバー、地獄の黙示録、スターウォーズ等々は、いずれも時代を代表する作品と言えるし、娯楽作品といえども骨太な印象がある。今にして思えば、映画がとにかくパワフルだった時代に、自分は多感な(笑)ティーンエイジャーとして生きていたということだ。密かに感謝しよう。

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2022年7月31日 (日)

適応への意志

世界史好きの経営者として知られる出口治明氏。2018年から立命館アジア太平洋大学学長を務めていたが、2021年1月に脳卒中を発症。治療とリハビリ後も右半身麻痺や言語障害などが残り、電動車椅子利用者となるも、2022年3月に学長職に復帰。『復活への底力』(講談社現代新書)は、氏の復職に至るまでの記録だ。氏は、「自分の身体に障害が残った事実をありのままに見つめ、その変化に適応するだけ」と考えて、リハビリに前向きに取り組んだ。同書からメモする。

ダーウィンの自然淘汰説は、生物に関する最高の理論だと僕は考えています。要するに、何が起こるかは誰にもわからないし、賢い者や強い者だけが生き残るわけではない。ただその場所の環境に適応した者が生き残る。
将来何が起こるのかは誰にもわからないのなら、川の流れに身を任せるのが一番素晴らしい。人間にできるのは、川に流されてたどり着いたその場所で、自分のベストを尽くすことぐらいです。なにより明確なゴールに向かってただ真っすぐに進んでいく人生より、思いもよらない展開のなかで一所懸命生きていくほうが面白いに決まっています。人生は楽しまなければ損です。

人間は常に病気や老化、死と向き合って生きています。不幸と呼ぶべきか、宿命と呼ぶべきか、これらの避けられぬものと、いかに向き合って生きていくか。哲学や宗教は、人間が生きていくための知恵を探し出すことから出発したといえなくもありません。生きていくための知恵は、不幸といかに向き合っていくかの知恵ともいえます。

ニーチェは、歴史は永劫回帰している、と考えました。歴史は直線的に進歩するのではなく、永劫に回帰する円環の時間なのである、という考え方です。時間も歴史も進歩しない、そのような運命を正面から受け止めてがんばっていく人間。この強い人間をニーチェは「超人」と呼びました。ニーチェは人間が強く生きていこうとしたとき、何を一番大切な理念としているのかといえば、それは力への意志であると考えました。強くありたい、立派でありたい、そのように生きたいと目指すことです。ニーチェの「超人思想」は、あくまでも、人間はこの大地で現実の生そのものに忠実となり、運命を受け入れて、強い意志を持ち生きていくことが重要だと説いているのです。

・・・おのれの身体条件も含む環境が大きく変化しても、それを受け入れ適応しようとする強い意志を持って生きること。出口氏の困難に対する適応への意志は、まさしく超人的だと思う。

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2022年5月31日 (火)

「決算書が読める」とは

今週の「週刊東洋経済」(6/4号)の特集は「決算書大解剖」。著書である『世界一楽しい決算書の読み方』は20万部のベストセラー、ツイッター「#会計クイズ」のフォロワーも10万人超という、「大手町のランダムウォーカー」氏(Funda代表、公認会計士)のインタビュー記事からメモする。

会計は英語で「accounting」だが、もともとの語源は「account=報告する」。つまり企業の財政状態を利害関係者に対して報告するのが、会計の本質的な役割だ。その報告の仕方を学ぶのが会計学。

一生懸命簿記の勉強をして公認会計士試験に合格し、監査法人に就職して初めて企業の決算書を見た。「会計の知識があれば決算書も読めるだろう」と高をくくっていたが、ふたを開けてみるとまったく読めない。これが決算書を勉強するきっかけとなった。

私の中での決算書が読めるということの定義は、決算数値から何らかのメッセージをつくれることだ。例えば、「トヨタの売上高30兆円」という決算数値を見ても、ビジネスの知識や経験が豊富な人ほどそこから多くの情報を得て、メッセージをつくることができる。

そのことを痛感してから、ビジネスの知識を猛勉強した。新聞や雑誌などからの情報収集に加え、「◯◯業界がよくわかる本」などを片っ端から読みあさった。だが、今振り返ると、だいぶ遠回りをしてしまったと思う(笑)。

情報収集の前に、まず自分の中に基準値を持つことが重要だ。例えば、「コメダ珈琲店の原価率は約60%」というニュースを見たときに、「上場企業の飲食業における原価率の平均値は40%前後」という基準値を持っていれば、「飲食業なのに原価率が高いな」という違和感が発動し、決算書から原因を探す行動につながる。そういう基準値を複数用意してニュースを読むことで、インプット効率は断然高まる。まずは情報にアクセスしやすい自社の業界から調べてみるのがよいだろう。

・・・会計の知識があることと決算書が読めることは異なる、というところが面白い。会計の知識があるとは、決算書の作り方を知っているということであり、決算書の読み方はまた別、なのだろう。とりあえず、決算書を読むということは企業分析(時系列)や業界分析(同業他社比較)とほぼイコールと考えてよい。

最近の「週刊経営財務」記事によると、「大手町のランダムウォーカー」氏は、高校卒業後は進学も就職もせず、「レールから外れた人生」を送っていたが、一念発起して公認会計士試験に合格。監査法人でコンサル業務を経験後、起業したという異色の経歴の持ち主。氏の人生の「履歴書」も読んでみたい気がする。

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2022年5月30日 (月)

『映画を早送りで観る人たち』

先日、映画会社や放送会社が、「ファスト映画」投稿者に損害賠償を求めるというニュースを聞いた時、ファスト映画を作る人が訴えられるということは、自分の予想以上に、ファスト映画を見る人は沢山いるのだなと、改めて了解した。ので、「ファスト映画・ネタバレーーコンテンツ消費の現在形」との副題を持つ『映画を早送りで観る人たち』(稲田豊史・著、光文社新書)を読んでみた。

昨今、画像配信される映画やドラマなどを「倍速」や「10秒飛ばし」で観る、あるいは先に結末を確かめてから観る(ネタバレ)という視聴方法が、若者を中心に広がっているという。この「鑑賞法」に対する違和感から、著者(1974年生まれ)は出発。データや取材を基に考察をまとめたのが、この本である。

早送りによる「鑑賞法」が広がっている背景だが、まず膨大な数の作品が供給されているという状況がある。いわゆるサブスクのサービスが浸透しており、あれ観たこれ観たという話題にも付いていきたい。が、とにかく膨大な数の作品を観る時間がない。その解決法が、倍速視聴による「時短」化である。

2つめはコストパフォーマンス(コスパ)の追求。倍速視聴者は時間コスパ、言い換えるとタイムパフォーマンスを求める。これを若者は「タイパ」あるいは「タムパ」と呼ぶ。彼らはタイパ至上主義者であり、「タイパが悪い」ことを極度に嫌う。倍速やネタバレは、作品が面白いかどうか分からないストレスを軽減し、無駄な視聴に時間を使ってしまうリスクを避けるための手段なのだ。

加えて、最近は何でもセリフで説明する作品が多く、セリフのある部分だけでも内容は把握できると考えて、飛ばして観る視聴者も多くなっているようだ。

こうなると「作品鑑賞」ではなく、「コンテンツ消費」(あるいは「情報収集」)である、と著者は考える。何しろ今はSNS常時接続の時代だ。誰もがLINEから逃げられない。常にレスを求められる。この状況に対応するため、人はコンテンツを効率的に消費せざるをえないのである。

とりわけ、いわゆるZ世代と呼ばれる若者層中心に「コスパの悪さ」を恐れる傾向は強い。そのような効率性を求める価値観は、どのような環境で育まれたのか。ひとつめは、キャリア教育の圧力だ。今は、大学在学中から綿密なライフプランやキャリアプランを組み立てろ、と迫られる。昔のように、とにかくどこか会社に入ってからプランを考える、という時代ではない。もうひとつが、SNSによって同世代の活躍が否応なく目に入ること。直接知らない人の活躍でも、見てしまうと自分も早く何事かを為したいと、焦る気持ちになってしまう。らしい。

キャリア教育の圧力と、同世代活躍者の見える化を横目に、マイペースで行こうとしても、今の大学生生活は多忙であるようだ。大学は出席に厳しく、仕送りは減少傾向にある中バイトにも行くし、LINEのコミュニケーションにも勤しむ。ということでほぼ必然的に、若者は膨大なコンテンツを倍速処理で消費する、あるいはチェックすることに追われるのである。

自分も年配の人間なので、倍速視聴には違和感を持つ者であるが、この本の、倍速視聴という行動の直接的な分析から、倍速視聴という行動を生み出した社会的背景や若者の価値観にも展開していく説明には、充分納得させられた。

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2022年5月 8日 (日)

カント哲学とラカン理論

近代ドイツ哲学の巨人カントと、現代フランス思想の大家ラカン。一見、何の繋がりもないように見えるが、講談社現代新書『現代思想入門』(千葉雅也・著)によれば、二者の「認識論」には共通するものがあるという。以下に同書からメモする。

時代は18世紀末、カントは『純粋理性批判』において、哲学とは「世界がどういうものか」を解明するのではなく、「人間が世界をどう経験しているか」、「人間には世界がどう見えているか」を解明するものだ、と近代哲学の向きを定めました。

人間に認識されているものを「現象」と言います。現象を超えた、「世界がそれ自体としてどうであるか」はわからない。それ自体としての存在を、カントは「物自体」と呼びました。
人間はまず、いろんな刺激を「感性」で受け取って知覚し、それを「悟性」=概念を使って意味づける。この感性+悟性によって成り立っている現象の認識では、物自体は捉えていません。しかしそれでも物自体を目指そうとするのが「理性」である。感性、悟性、理性という三つが絡み合うのがカントOS(WindowsやMacOS) です。

ラカンは大きく三つの領域で精神を捉えています。第一の「想像界」はイメージの領域、第二の「象徴界」は言語(あるいは記号)の領域で、この二つが合わさって認識を成り立たせている。ものがイメージとして知覚され(視聴覚的に、また触覚的に)、それが言語によって区別されるわけです。このことを認識と呼びましょう。第三の「現実界」は、イメージでも言語でも捉えられない、つまり認識から逃れる領域です。この区別はカントの『純粋理性批判』に似ていないでしょうか。実はラカンの理論はカントOSの現代版と言えるものなのです(想像界→感性、象徴界→悟性、現実界→物自体という対応になっている)。

このようなX(捉えられない「本当のもの」)に牽引される構造について、日本の現代思想では「否定神学的」という言い方をします。否定神学とは、神を決して捉えられない絶対的なものとして、無限に遠いものとして否定的に定義するような神学です。我々は否定神学的なXを追い続けては失敗することを繰り返して生きているわけです。

ラカンにおける、現実界が認識から逃れ続けるということが、否定神学システムの一番明らかな例なのです。
カントまで遡るなら、否定神学的なXは「物自体」に相当すると言えます。
否定神学システムとは、事物「それ自体」に到達したくてもできない、という近代的有限性の別名なのです。

・・・カントとラカン、その認識論の構図は相似形であり、「否定神学的」アプローチも共有している。とりあえずラカンの例であるが、近代批判の色濃い現代思想といえども、近代哲学を承継している部分を見出すことができるというのは、とても面白いと感じる。

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2022年5月 7日 (土)

ディオニュソス対アポロン

講談社現代新書『現代思想入門』(千葉雅也・著)から、以下にメモする。

哲学とは長らく、世界に秩序を見出そうとすることでした。混乱つまり非理性を言祝ぐ挙措を哲学史において最初にはっきりと打ち出したのは、やはりニーチェだと思います。

『悲劇の誕生』(1872)という著作において、ニーチェは、秩序の側とその外部、つまりヤバいもの、カオス的なもののダブルバインドを提示したと言えます。古代ギリシアにおいて秩序を志向するのは「アポロン的なもの」であり、他方、混乱=ヤバいものは「ディオニュソス的なもの」であるという二元論です。

ギリシアには酒の神であるディオニュソスを奉じる狂乱の祭があった。アポロン的なものというのは形式あるいはカタであって、そのなかにヤバい(ディオニュソス的)エネルギーが押し込められ、カタと溢れ出そうとするエネルギーとが拮抗し合うような状態になる。そのような拮抗の状態がギリシアの「悲劇」という芸術だ、というわけです。

この(アポロンとディオニュソスという対立の)図式は、哲学史的に遡ると、「形相」と「質料」という対立に行き着きます。要するにかたちと素材ですね。かたちは秩序を付与するものであり、素材はそれを受け入れる変化可能なものです。この形相と質料の区別がアリストテレスにおいてまず理論化されました。あくまでも質料は形相の支配下にあります。

ところが、ずっと時代を飛ばしますが、ニーチェあたりになると、秩序づけられる質料の側が、何か暴れ出すようなものになってきて、その暴発するエネルギーにこそ価値が置かれるようになります。つまり、形相と質料の主導権が逆転するのです。

・・・ニーチェの「アポロンとディオニュソス」が、アリストテレスの「形相と質料」以来の哲学的伝統に連なる概念として位置づけられると共に、ニーチェにおいて秩序優位から非秩序優位への逆転が行われたとする著者の見方は、とても興味深いものに思われる。

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2022年5月 5日 (木)

ドゥルーズの元気になる思想

ポストモダンと言えば、批判的思想としてはとても魅力的だったけど、結局は相対主義に陥り建設的な思考は打ち出せないまま消えていった、という印象が強いかもしれない。それだけに、今改めてポストモダン思想を考える時には、そのポジティブな面を取り出すことが肝要なのではないかと思う。以下に、講談社現代新書『現代思想入門』(千葉雅也・著)からメモする。

ポストモダン思想、ポストモダニズムは、「目指すべき正しいものなんてない」、「すべては相対的だ」、という「相対主義」だとよく言われます。
確かに現代思想には相対主義的な面があります。ですが、そこには、他者に向き合ってその他者性=固有性を尊重するという倫理があるし、また、共に生きるための秩序を仮に維持するということが裏テーマとして存在しています。いったん徹底的に既成の秩序を疑うからこそ、ラディカルに「共」の可能性を考え直すことができるのだ、というのが現代思想のスタンスなのです。

1980年代の日本では、べストセラーになった浅田彰『構造と力』の影響もあり、ドゥルーズ、およびドゥルーズ+ガタリが注目されました。
80年代、バブル期の日本におけるドゥルーズの紹介は、時代の雰囲気とマッチしていました。資本主義が可能にしていく新たな関係性を活用して、資本主義を内側から変えていくという可能性が言われた時代です。
有名な概念ですが、横につながっていく多方向的な関係性のことを、ドゥルーズ+ガタリは「リゾーム」と呼びました。

リゾームはあちこちに広がっていくと同時に、あちこちで途切れることもある。つまり、すべてがつながり合うと同時に、すべてが無関係でもありうる。
ドゥルーズおよびドゥルーズ+ガタリでは、ひとつの求心的な全体性から逃れる自由な関係を言う場面がいろいろあって、自由な関係が増殖するのがクリエイティブであると言うのと同時に、その関係は自由であるからこそ全体化されず、つねに断片的でつくり替え可能であることが強調されます。全体性から逃れていく動きは「逃走線」と呼ばれます。

あらかじめ「これが最も正しい関係性のあり方だ」という答えが決まっているわけではありません。すべての関係性は生成変化の途上にあるのです。
そういう意味で、接続と切断のバランスをケース・バイ・ケースで判断するという、一見とても当たり前で世俗的な問題が、ドゥルーズにおいては真剣に、世界とあるいは存在とどう向き合うかという根本問題として問われているのです。

ドゥルーズ+ガタリが考えているのは、ある種の芸術的、準芸術的な実践です。自分自身の生活のなかで独自の居場所となるような、自分独自の安定性を確保するための活動をいろいろ作り出していこう、と。いろんなことをやろうじゃないか、いろんなことをやっているうちにどうにかなるよ、というわけです。ドゥルーズ+ガタリの思想は、そのように楽観的で、人を行動へと後押ししてくれる思想なんです。

・・・1978年生まれの千葉先生は、難解な現代思想をきれいに整理していて、80年代に20代だった自分から見ても、当時訳の分からないまま丸飲みしていた言葉の意味するところについて、「そういうことだったのか」と教えられることが多い。本を読みながら、当時の浅田彰の「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」とかドゥルーズ的な「逃走」、ラカン的な「最初に過剰があった」、あるいは岸田秀の「人間は本能が壊れた動物」とか思い出しました。

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2022年4月 9日 (土)

独ソ戦、ウクライナの敵は?

先日、「本屋大賞」を受賞した『同志少女よ、敵を撃て』(逢坂冬馬・作)、物語の舞台は第二次世界大戦、独ソ戦。主人公は、ソ連軍の女性狙撃兵士セラフィマ。彼女は狙撃訓練学校に入り、元狙撃兵の冷徹な教官長イリーナの元で、志を同じくする女性兵士たちと共に訓練に励む。仲間の一人、オリガはウクライナ出身。セラフィマに向けて、オリガが投げかけてくる言葉がとても気になる。

「ウクライナがソヴィエト・ロシアにどんな扱いをされてきたか、知ってる? なんども飢饉に襲われたけれど、食糧を奪われ続け、何百万人も死んだ。たった20年前の話よ。その結果、ウクライナ民族主義が台頭すれば、今度はウクライナ語をロシア語に編入しようとする。ソ連にとってのウクライナってなに? 略奪すべき農地よ」
「ウクライナでは、みんな最初ドイツ人を歓迎していた。これでコルホーズが終わる。これで共産主義者がいなくなる。これで、ソ連からウクライナは解放されるんだって」
「コルホーズは解体されなかった。ドイツ人はスラブ民族を奴隷にするため、コルホーズを維持してウクライナの支配者になったの。・・・どういう意味だか分かる? セラフィマ。コルホーズはウクライナ人を奴隷にする手段なの。ドイツにとっても、ソ連にとっても」

「オリガ、あなたの話の中に、私はナチとソ連の決定的な違いがあったように思うの。ナチはウクライナを解放しようとはしなかった。ソ連を打倒してロシア人民を解放するとも言わない。それがドイツにとって合理的な勝利への近道であっても。それはナチ・ドイツが戦争を始めた理由が、そもそも私たち全部を奴隷にするためだったからよ」
「そう。奴隷化そのものが目的。ソ連がウクライナを目的のために奴隷化したのとは違う」

・・・オリガの言葉にぐっと詰まったセラフィマは、ナチ・ドイツは絶対に友達になれないが、ロシアとウクライナは朋友になれる、と言い返すのが精一杯だった。(実はオリガは秘密警察の一員であり、狙撃兵たちを監視するために送り込まれた人物だった。)

物語の終わりに、アレクシエーヴィチ作「戦争は女の顔をしていない」との「接点」が置かれているのを見た時は、「そうか。そうきたか」という感じがした。自分は「戦争は~」のマンガ(化作品)は読んだが、原作は読んでない。で、「同志少女よ~」についても、作者に申し訳ない気もするが、誰かこれマンガ化してくれないかな~とか思ってしまった。(苦笑)

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2022年2月26日 (土)

危機のウクライナ、進撃のロシア

ウクライナ生まれの国際政治学者グレンコ・アンドリーは、ロシアはウクライナ支配を目論んでおり、ウクライナが自国の主権と独立を守る方法は、自由・民主主義陣営の国になることしかない、と言う。著作である『NATOの教訓』(PHP新書、2021年5月刊行)から、以下にメモする。

ウクライナは今、独裁国のロシアと自由・民主主義の欧米諸国の対立の最前線にある。
2014年に、ロシアはウクライナを侵略し、クリミア半島およびウクライナの東部2州で戦争が現在でも続いている。地理的にロシアとNATOの間にあるウクライナは事実上、NATOの「盾」となっている。NATO諸国は「盾」であるウクライナに陥落してほしくない。かといって、ウクライナと一緒にロシアと戦うつもりもない。

たしかにNATOはウクライナに経済支援や技術支援、軍事支援を行ってきた。それでもやはり、ウクライナを侵略したロシア軍を排除するために軍事行動を起こすようなことはない。NATO加盟国に対する侵略なら話は別だが、防衛義務のないウクライナのために自国の兵士を死なせるようなことは、国内の世論が容認しないからだ。

ロシアによるウクライナ侵略が終わり、平和が訪れるのは、おそらく何年も先のことだろう。ロシアはウクライナの支配に強い願望を持っているので、簡単には諦めない。独立国であり続けたいウクライナも当然、侵略への抵抗を続ける。一方が支配を求め、他方が独立を求める。この状況では妥協の余地がない。

現体制においてロシアがウクライナを諦めない以上、戦争が終結する可能性は二つしかない。ロシアにおいて革命的変化が起きるか、もしくはロシアの財政難によって戦争継続が不可能になるかである。

・・・ロシアがウクライナに対する全面侵攻に踏み切った現時点では、戦争が終結するもう一つの可能性が現われてきた。それはウクライナにとって望ましくない想定、すなわちロシアがウクライナの現政権を倒して傀儡政権を作る、というシナリオである。しかしこれが、プーチンのプーチンによるプーチンのための戦争の、最終目標であるのかは定かではない。いずれにしても、NATOに圧迫されているという、独裁的権力者の被害妄想に近い世界観から、戦争が引き起こされているという空恐ろしい現実を、我々は目の当たりにしている。

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2022年2月25日 (金)

哲学史で「思考の鋳型」を学ぶ

哲学思想史』(淡野安太郎・著、角川ソフィア文庫)は、西洋哲学史の本。親本は1949年刊行(新版62年)で、新しい本というわけではないが、作家の佐藤優が評価するなど「発掘」して、今回文庫本による復刊が実現したようだ。以下に、同文庫末尾の解説文(佐藤氏が執筆)からメモする。

中世の黄金時代とは、ヘブライズム(ユダヤ・キリスト教)、ヘレニズム(ギリシア古典哲学)、ラティズム(ローマ法体系)が融合した文化総合の時代である。「コルプス・クリスティアヌム」(キリスト教共同体)と呼ばれた文化総合が世俗化していく過程が近代なのだ。中世の文化総合が解体する過程で、学問、国家(政治)、宗教がそれぞれ分化してくるのである。

理性を用いて、学問は断片的な知識ではなく、知を総合化する方向に向かった。そこで、19世紀後半から20世紀初頭にかけて難問が生じた。実験が可能で法則を見出すことができる科学と、実験ができず、思考に依存することの多い人文・社会科学を同じ科学という範疇で括ることが妥当かという問題だ。

この二つの科学(自然科学と人文・社会科学)をどう統合するか。その際に重要になるのが共通の言語だ。
私は、その共通の言語になるのが哲学だと考える。特に、哲学史を学ぶことによって、過去にあった思考の鋳型を知ることができる。この思考の鋳型と類比しながら、現在、自分が行っている専門的研究について語ることは可能である。

・・・自然科学と人文・社会科学をつなげる云々はともかく、何となくだけど小生も、たまに西洋哲学史を通覧してみることは、思考の基礎トレーニングとして大事だなという気がしている。佐藤氏の「思考の鋳型を知る」というのは、思考の組み立てのパターンを学ぶということかと思うのだが、例えば哲学史では「プラトン・カント的」思考と「アリストテレス・ヘーゲル的」思考つまり、「普遍的理念重視」と「個別的現実重視」のパターンが交互に現われるとか、中世哲学がキリスト教哲学ならば、古代哲学は非キリスト教的、近代哲学は脱キリスト教的、現代哲学は反キリスト教的とか・・・デカルトの大陸合理論とイギリス経験論、その二つがカント哲学において総合される、という基本的な流れもしっかり押さえておきたい。(と、最近思うようになりました。)

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