2019年7月 6日 (土)

福島正則はリアリストだ(推測)

福島正則の「暴れ者」イメージは正しいのか?と問うのは本郷和人先生。新刊『怪しい戦国史』(産経新聞出版)から以下にメモする。

正則は無類の暴れ者だったけれど、一方では誰よりも豊臣家に対して忠誠心をもっていた。そこで徳川家康は正則の「石田三成嫌い」の部分をこれでもか、と刺激し続けた。そのクライマックスが、三成挙兵の報を受けて開かれた「小山評定」。正則はいの一番に「徳川内府にお味方をし、にっくき三成めを成敗する」と獅子吼。ここに「東軍」が誕生した、というストーリーがしばしば描かれています。これは、正則は「三成憎し」の怨念にとらわれた、という見方ですね。家康は「正則の単細胞っぷり」につけ込み、結局、関ヶ原で勝利した、ということになります。

本当でしょうか? ぼくにはそうは思えません。正則は堂々たる一国一城の主、つまり多くの家臣たちの生活に責任をもつ大企業の経営者なのです。自分の感情だけで去就を決するとは思えない。それに彼は「弱肉強食」の戦国の様子、より具体的に言えば、羽柴秀吉が織田家の天下を奪い取るさまを現場で見ている。家康が勝利すれば、三成が滅ぶだけでなく、豊臣の天下が終わることも十分に分かっていた。それでも「福島家」が生き残り、より繁栄することを目指して、家康に味方したのではないでしょうか。

・・・福島正則はリアリストだった、と推測する。幾多の戦国大名の栄枯盛衰を見ていた正則は、ここでは家康に味方するのが福島家にとって最善と判断したのだろう。そして家康も、自軍の勝利のために正則を最も必要としていた。「小山評定」以降、関ヶ原合戦に至るまで、家康が最も多く書状を出した相手は正則だったことからも、そのことが窺える。要するに、正則と家康は利害が一致していた。こう考えると、「三成憎し」の理由は後付けの感が強くなる。

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2019年4月24日 (水)

『82年生まれ、キム・ジヨン』

韓国で100万部の大ベストセラーという『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ著、斎藤真理子訳、筑摩書房)が、日本でも多くの女性たちの共感を集めている模様。「フェミニズム小説」との評価もある作品だが、ストーリーが淡々と語られていくなかで、主人公であるキム・ジヨンが一人の小説的人物としてリアルに立ち現れてくるという感じは余りしない。全体の叙述は精神科医のカルテという体裁を取っており、文中には各種データの出典を示す注釈も付けられるなど、様々なエピソードが集められたノンフィクション、あるいは社会学的なレポートのような印象もある。キム・ジヨンという名前は、82年生まれの韓国女性に最も多い名前であるそうだが、主人公はまさに現代の韓国社会で生きる女性たちの様々な経験を最大公約数的にまとめたモデルとしての人物像であるように思われた。 

それにしても韓国社会において、儒教的伝統に由来する男尊女卑の価値観は非常に根深いものがある、と感じる。主人公は学校や会社の中で、あるいは主婦という立場になってからも、社会の中で女性に向けられる視線の冷たさ、女性がぞんざいに扱われることのストレスを感じ続け、ついには心身の不調に陥ってしまう。主人公に起きる「憑依現象」から、物語の「書き手」である精神科医が疑うのは解離性障害(多重人格障害)だが、これは、つらい体験から自分を切り離そうとするために起こる一種の防衛反応とされる。ただ諸々の「差別的」状況の過酷さが主人公の心の病につながる因果関係を、読者がリアルに感じられるかというと、そこまで充分に小説的に描かれているとは思えない。

小説としての評価はともかく、「キム・ジヨン」は韓国社会の今を考える材料としては興味深い作品だと思う。「キム・ジヨン」の話を読むと、韓国社会の置かれている状況はどういうものか気になってくる。試しに少し検索してみると、若者が恋愛、結婚、出産を諦める「三放」、加えて人間関係とマイホームを諦める「五放」、更に夢と就職を諦める「七放」とか、出生率1割れの0.98、あるいは「Me too」運動の盛り上がりなど、社会が大きな困難に直面していると思われる話ばかり目に付く。これら韓国の状況と課題は、多かれ少なかれ日本も共有していると見てよいだろう。つまり「キム・ジヨン」を読めば、自ずと日本の状況についても考えざるを得なくなる、ということだ。

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2018年12月23日 (日)

『徳川家康の江戸プロジェクト』

直木賞作家、門井慶喜の小説『家康、江戸を建てる』がNHKでドラマ化、新年正月に放映される。門井氏の講演を元に纏められた『徳川家康の江戸プロジェクト』(祥伝社新書)を読んで、学んだこと考えたことなどを以下に記す。

そもそも徳川家康はなぜ江戸を関東の首都に定めたのか、そこからもう謎なのだ。豊臣秀吉の小田原征伐による北条氏滅亡の後、関東を新たな領地として与えられた家康は、小田原ではなく江戸を首都に選び、大規模な開発に取り組んだのである。小説家である著者は、家康の心中には「まっさらな新天地に理想の徳川ランドを作る」という思いがあったのではないか、と考える。この推察が正しいとしたら、当時50歳近い家康の、都市建設を一から始めようと決意したベンチャー精神そして旺盛なエネルギーには頭が下がる思いしかない。

さて、その江戸の都市開発において、家康がまず着手したのは大規模土木事業である。当時の江戸は、関東平野を流れる大小の河川が流れ込む湿地帯だったが、これを埋め立てる造成工事を行い、住居を建てられる土地を拡大した。江戸には入り江があり(現在の日比谷近辺)、この海も埋め立てて陸地を広げた。さらに当時、北から南に流れてきていた利根川の向きを、段階的に東に変える大工事が長期にわたり進められた。また、当時の物流の中心は水運であったことから、江戸では早い時期に運河を作り物流のルートを整備。さらに江戸の住民が増加すると、飲み水不足に対応するため、神田上水と玉川上水の二つの上水道を建設。このような土木事業の継続が、江戸の都市基盤を堅固なものとした。そして江戸城には巨大な天守が出現する。この天守は、新しい時代の到来を示す象徴として建てられたと著者は見る。こうして家光の頃までには、江戸は城下町としての姿を整えたのである。

江戸幕府が始まり50年が過ぎた1657年、明暦の大火が起きる。江戸城の天守も焼失したが、再建は断念された。この理由については費用対効果の面に加えて、著者は、天守は雷が落ちやすく火事の原因になる可能性があること、つまり防災の観点から天守は不要とされたと見ている。既に戦国の世は過去のものになっており、天守再建の放棄は、人々の意識が戦争から防災へシフトしたこと、すなわち平和な時代の定着を示しているという。

以後も江戸の町は拡大を続け、1700年前後には人口100万人という世界有数の大都市へと成長した。家康の「江戸プロジェクト」は、開始から100年後には大きな実を結んだのである。ここまで江戸が大発展するとは、さすがの家康も想像していなかっただろう。

かつて東洋史学者の内藤湖南は、「応仁の乱以後が、今につながる日本の歴史である」と喝破した。ということは、戦乱の中から最初に国の秩序を打ち立てた信長・秀吉・家康が、今につながる日本のファウンダーなのであり、歴史的に見れば400年後の今も、日本は三英傑の事業の影響下にあると言ってよいのだろう。特に三大都市について見れば、徳川が東京(江戸)と名古屋、豊臣が大阪を作り上げたわけだから、なおさらその感を深くする。

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2018年12月15日 (土)

「安土大阪」時代

たしかに安土桃山時代という呼び名は、自分も子供の頃から何かヘンだなと感じていた・・・以下に『大阪的』(井上章一・著、幻冬舎新書)からメモする。(なお井上先生は、近世以前は「大坂」表記が通例だが、近現代の「大阪」で表記して構わないとしている)

「安土桃山」時代という言い方がある。織田信長が足利義昭とともに入京してから、豊臣秀吉が亡くなるまでの時代をさす。
基本的には、信長が天下をめざし、秀吉が天下人となった時代を意味している。「安土桃山」の「安土」は、信長のきずいた安土城に由来するだろう。「桃山」は、秀吉の居城となった伏見城が桃山にあったことから、そう名ざされた。

信長の時代を「安土」時代とよぶことに、私も反対はしない。しかし、「桃山」時代には、どうしてもひっかかる。

秀吉が自らの拠点として、その造営に心血をそそいだのは大阪城であった。のちには天下の台所と言われる大阪という街を、ほとんど一からこしらえた。
信長の足跡を「安土」でしめすのなら、秀吉の業績は「大阪」であらわすべきだろう。信長秀吉時代、いわゆる織豊時代の呼び名には、「安土大阪」時代こそがふさわしい。かつて、歴史家の脇田修はそう喝破したが、私もそのとおりだと思う。

だが、歴史教育のあり方を東京で左右する人びとは、「大阪」時代をみとめない。

・・・以前の著作で井上先生は、新しい時代が関東から始まる(鎌倉時代、江戸時代)見方を批判していた。平家から、織田豊臣から、新しい時代が始まったと見るのが妥当ではないかと。「東大史観」対「京大史観」という言葉も使っていた覚えがある。『大阪的』では、古墳時代を「河内時代」と呼んでもいいのでは、とも述べている。歴史学においては、関西や大阪が不当な扱いを受けているという主張には、頷けるものがある。大体、日本という国は西から発展し、西が中心であった時代が長いわけだしね。

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2018年8月17日 (金)

『大坂堂島米市場』

大坂堂島米市場』(高槻泰郎・著、講談社現代新書)を読んで、学んだことなどを以下に書いてみる。

17世紀の半ばに大坂で形成された米市は、ごく初期の段階から米そのものを売買する市場ではなくなり、手形を売買する市場になっていた。大名の蔵屋敷から米を落札した者は、代銀(=代金)を払って米の引換券である「米手形」を受け取る。落札者はこの手形を、米市で第三者に転売していた。一方で大名は実際の米の在庫量以上に米手形を発行して、米市で資金調達を行っていた。代銀の一部の支払いで発行される米手形の売買は、やがて代銀の全額支払い後に発行される「米切手」の売買に移行。この正米商い(しょうまいあきない)にほぼ並行して、一種の先物取引である帳合米商い(ちょうあいまいあきない)17世紀末頃に現われる。この取引では現金と米切手を遣り取りしない。まず自由に売りと買いの約束を取り交わす。同時に売り(買い)と反対の買い(売り)の約束も取り交わして、帳簿上だけで売りと買いを付き合わせる。満期日までに反対売買を行い、差金決済により取引は終了する。この取引は、現代の日経225先物やTOPIX先物のような株価指数先物取引に近いものだ。


堂島米市場のことをよく知らない人々から見ると、取引の様子は数百人が寄り集まって喧嘩をしているようであり、そこで飛び交う言葉も、訳が分からなかったと伝わる。この辺の感じは、立会場があった頃の証券取引所の様子の記憶がある者には、似たようなものなんだなと思われるところだ。堂島米市場の正米商いは約30の銘柄を売買した。これに対して、帳合米商いでは「立物米(たてものまい)」を取引の対象とした。立物米とは、年間を三期に区切った取引期間ごとに、大量に取引される銘柄の中から選び出される、名目上の銘柄である。帳合米商いでは、帳簿上だけで取引する(実体のない)銘柄である立物米を売買し、定められた満期日までに売りと買いの注文を相殺する。米切手は基本的に米との交換を約束する証券であるから、米の作柄がその価格に大きく影響した。江戸時代の人々も、米切手の価格変動をヘッジする手段として、先物取引を利用したということである。


大名は資金を調達するため、蔵にない米についても米切手を発行していた。このため米切手が過剰に発行されると、市場における信用不安を惹起し、米切手の価格下落を招く可能性があった。当時、米との交換が延期ないし拒否される米切手のことを「空米切手(からまいきって)」と呼んだ。18世紀中後期にかけて、江戸幕府は空米切手問題に対処するため、米切手の統制策を立て続けに打ち出す。宝暦11(1761)12月に発令された、空米切手停止令(ちょうじれい)により、「全ての米切手は、たとえ蔵米の裏付けなく発行されたものであっても、蔵米の裏付けのある米切手として処理されねばならない」という原則が確立したという。


「世界最初の先物市場」である堂島米市場の仕組みと、それを考え出した江戸時代の大坂商人、そして市場の信用秩序維持を図る江戸幕府、いずれについても驚き感心するばかりだ。

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2018年8月13日 (月)

『テンプル騎士団』

テンプル騎士団』(佐藤賢一・著、集英社新書)から、学んだこと考えたことを以下に書いてみる。

 12世紀初め、十字軍が奪還した聖地エルサレムで、ユーグ・ドゥ・パイヤンとゴドフロワ・ドゥ・サントメールという二人の騎士が始めた巡礼路の警備・巡礼者の保護活動は、やがてキリスト教世界の評判を呼び、1128114日フランスのトロワで開かれた教会会議において騎士修道会「キリストとソロモン神殿の貧しき戦士たち」、いわゆる「テンプル騎士団」が正式に発足する。中世ヨーロッパの三身分(祈る人:聖職者や修道士、戦う人:貴族や騎士、働く人:農民や町人)から見れば、祈る人と戦う人が合体した修道騎士は超の付く特別な身分であり、十字軍という特殊な時代背景抜きにはありえない存在だった。


 イスラム教徒との戦いにおいて、テンプル騎士団は勇猛な戦いぶりを見せつける。なぜ強いのか。神のために死を恐れず戦う「殉教」精神もあるだろうが、修道士は生活の中でまずエゴの克服を求められる。修道会は元々組織がしっかりしており、上意下達の命令系統も明確である。集団行動に適した人々が、よく整えられた組織で戦う。強いのも当然といえる。


ヨーロッパ初の「常備軍」と見ることができるテンプル騎士団。その活動を支える「軍資金」となっていたのは、キリスト教徒からの寄付寄進である。この寄付寄進、特に土地を管理運営するために、「支部」がフランスを中心にヨーロッパ全土に置かれる。十字軍運動がピークを過ぎて寄付寄進熱が冷めると、テンプル騎士団は積極的な支部経営に乗り出していく。農地の開発・運営、物資の運搬・販売、金貸し等々、支部を拠点に不動産業、物流業、金融業と、事業を次々に展開拡大していく姿は、まさに「企業体」というほかない。調達資金(寄付寄進)は返済不要である一方、出資者(一般信徒)への利益還元も求められない。テンプル騎士団は、いわば株主のいない株式会社として、組織の維持拡大のため、収益追求の道をひた走る。こうしてヨーロッパ中に事業活動のネットワークを張り巡らしたテンプル騎士団は、軍隊であり事業体であり銀行でもあるという超国家的組織へと変貌を遂げた。


無敵の存在感を示すテンプル騎士団。しかし謀略の動きが秘かに進行していた。当時のフランス王フィリップ4世は、自らの権勢伸張を目指して、まず教皇との権力闘争に勝利する(1303年、アナーニ事件)。王は次の標的として、テンプル騎士団に狙いを定めた。13071013日の金曜日、パリを始めフランス全土でテンプル騎士団の一斉逮捕が行われる。約700の支部で推計600人の騎士が拘束された。嫌疑は異端の罪。以降、財産は差し押さえられ、騎士50人以上が処刑。テンプル騎士団は消滅への道を辿ることになる。


12世紀に生まれ、やがて超国家的ネットワーク組織へと成長し、14世紀に入ると呆気なく消え去ったテンプル騎士団。それは中世ヨーロッパに咲いた巨大な徒花にも思われる。

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2018年8月12日 (日)

『世界史序説』

世界史序説 アジア史から一望する』(岡本隆司・著、ちくま新書)から学んだこと、考えたことなどを以下に書いてみる。

最古の文明であるオリエント文明は東西に拡大伝播。西ではギリシア・ローマ文明を、東ではインド文明、さらに黄河文明を生み出した。しかし4世紀から5世紀になると、地球規模の寒冷化を背景とした異種族・遊牧民の移動・攻撃により、西ローマ帝国、漢王朝が滅亡。この危機の時代に、オリエント・南アジアから、キリスト教・仏教・イスラームの「世界宗教」が生まれて東西に広まる。5世紀から6世紀、東ローマ帝国とササン朝ペルシアの両雄が並び立つ、その間隙を縫うように現われたイスラームは、やがて中東から北アフリカ、イベリア半島を支配するに至った。イスラームの地中海制覇とは、東西に分かれていたオリエントの、イスラームによる再統一であると見ることができる。


9世紀以降、アジアの東と西で、唐とイスラームによる統合が終焉。気候の温暖化により遊牧民の活動が活発化する。13世紀初めに生まれたモンゴル国は、その強大な軍事力により、ほぼユーラシア大陸全域に及ぶ大帝国へと成長。あわせて遊牧と農耕、移動と定住を有機的・安定的に結合させる仕組みを構築した。さらに13世紀後半には、広域の商業化、銀だての財政経済、流通過程からの徴税などを柱とした経済国家へと変貌した。


14世紀の後半、気候の寒冷化に伴い、ヨーロッパのペスト流行など天災疾病が世界的規模で発生、蔓延。ユーラシアではモンゴル政権が崩壊、瓦解した。次に台頭したトルコ系のオスマン帝国は、ローマとイスラームとモンゴルを一身に継承する存在として、アジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸にまたがる一大勢力となった。東アジアでも、満州人を中心にモンゴル人・漢人が結集した清朝が登場。ここにアジア的政治社会構造は、ほぼ完成する。軍事政治を担う遊牧起源の支配者と、経済文化を担う在地定住民の共同体を、双方の事情に通じたエリートがつなぐという統治スタイルの下に、多様な言語・宗教・慣習を持つ人々が共生共存する。これが、草原・遊牧と農耕・定住が交錯するアジアにおいて、平和な共存と円滑な政治を実現する合理的な方法だった。


そして16世紀の大航海時代。世界史を動かす主役はヨーロッパへと移り、世界史は大きく転回する。ルネサンス華やかなイタリアの繁栄を最後に、地中海から大西洋に交易の舞台は移り、海軍国イギリスが産業革命も起こして「大英帝国」を築き上げる。以後は世界が一体化する近現代史、帝国主義の時代までほぼ一直線の道のりになる。


近代はまさしく西欧中心の時代だが、近代以前は西洋を中心に世界史を考える必要はないのだと了解する。日本とヨーロッパは、遊牧の要素を欠いた農業生産優位の一元的社会という共通性があるという指摘を始め、様々な観点を得られる、繰り返し読みたい一冊。

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2018年6月25日 (月)

『戦国日本と大航海時代』

戦国時代と大航海時代』(平川 新・著、中公新書)を読んで、学んだり考えたりしたことを以下に記す。


 豊臣秀吉の朝鮮出兵(159298)というと、天下人の晩年の誇大妄想的暴挙というような評価から、余り芳しい事績とは捉えられていないと思われる。しかしこの本によれば、15万人という兵力を朝鮮半島に送り込んだ大戦争以後、天下人秀吉そしてその後継者である徳川家康は、ヨーロッパ人から「エンペラー」つまり「皇帝」と見なされるようになり、日本が軍事大国であると認識したヨーロッパ人は、あわよくば日本を植民地化しようとしていた野望を断念したというのである。秀吉の朝鮮攻撃は明国征服の第一歩として実行されたものだが、最終的には遠く天竺(インド)や南蛮(東南アジア)の征服も視野に入れており、そもそもその征服構想自体がスペインに対抗するため打ち出されたものだという。


 なぜ秀吉がスペインへの対抗心を燃やしたのかといえば、スペインやポルトガルの世界征服の動きを認めたからだ。その先兵は宣教師たちであると見て、まず1587年にバテレン追放令を発布。同時期に朝鮮と琉球の服属に向けた交渉開始にも動き出す。1590年の小田原攻めで北条氏を滅亡させて全国平定をほぼ達成した翌年、秀吉は、スペイン支配下にあるマニラのフィリピン総督に服属要求の書簡を出す。朝鮮攻撃開始後の92年、93年にも秀吉は書簡を出しており、後者には「カステリヤの王」(スペイン王)に対して「予が言を軽視すべからず」という強い警告の文言が記されている。秀吉の威嚇を受けたフィリピンは、日本のマニラ攻撃の可能性に恐怖感を募らせた。そして実際に朝鮮が攻撃されたことにより、スペイン勢力は日本が軍事大国であることを認めて、武力による日本征服も諦めたという。


 朝鮮及び明国との断交状態、スペインに対する強硬姿勢という秀吉政権の残した外交課題を引き継いだ徳川家康は当初、アジア・ヨーロッパの国々との平和的な全方位外交を目指して貿易の振興を基本方針とした。その一方で、キリスト教の布教に対する態度決定を迫られることになり、秀吉と同様、スペインの脅威を感じていた家康は徐々に布教禁止の方向へと舵を切る。最終的に幕府は禁教令を出す(1616)のだが、その間際に企てられたのが、伊達政宗の遣欧使節(16131620)である。政宗はメキシコとの通商を認めてもらうため、支倉常長の使節をスペイン国王とローマ教皇の元に派遣した。だが結局、貿易交渉に失敗。同時に政宗はキリスト教禁制を領内に布告。1624年、幕府はスペインとの断交に踏み切った。従来から戦国大名は独自に外国との貿易を行っていたが、政宗の試みはその最後の事例となり、以後は徳川幕府が外交・貿易を一元的管理する体制となったのである。


 群雄割拠の戦国時代を経て天下統一された日本は世界史的に見ても軍事強国だったこと、我らが秀吉と家康が世界史的スケールの英雄であることを教えてくれる一冊。

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2018年4月30日 (月)

「ウ・パドリーノ」

「“伝説のマフィア”ラッキー・ルチアーノの末裔が日本にいた」という帯の言葉に惹かれて、『ゴッドファーザーの血』(マリオ・ルチアーノ著、双葉社)を書店で手に取った。
 
何しろラッキー・ルチアーノといえば、マフィアのビッグネームである。1931年のニューヨークにおけるマッセリア一家とマランツァーノ一家の抗争の中から、最終的にボスの中のボスとしてのし上がり、マフィア組織の近代化を成し遂げたラッキー・ルチアーノ。その伝説のギャングの血筋をひく人物が日本の裏社会で生きていたというだけでも驚きなのに、現在は東京・茅場町にあるイタリアン・レストランの経営者であるという話を目にして、また驚いた。
 
レストランの名前は「ウ・パドリーノ」。実は名前を覚えていなかったのだが、何しろ自分の前の勤務地が茅場町を最寄り駅とする新川だったから、もしかしてあそこ?と思い出す店があったので、調べてみるとやはり一回だけランチで入った覚えのある店だった。地下鉄の駅から永代通りを東に歩いて霊岸橋を渡り、すぐ左に曲がったところにあるお店である。いや~あそこそういう店なんだ、何だかすごいとしか言い様がない。
 
マリオ・ルチアーノ氏は1964年シチリア生まれ。23歳の時に来日し、東京や神戸など、既に30年以上日本に住んでいる。かつてはいわゆる「経済ヤクザ」として長い間活動してきたが、今では裏社会関係の仕事からは足を洗い、レストラン経営に専念しているとのこと。
 
この本の前半では、ルチアーノ氏が日本に来るまでの若い頃に、ニューヨーク、パキスタンのカラチ、フィリピンのマニラで経験した出来事が語られる。日本に来てからは、山口組はじめ裏社会系の人々との交流の話が中心となっているが、時に生命の危険に晒されるなど、それこそドラマか映画のような、常人には想像もできない人生だという感想しか出てこない。

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2018年4月29日 (日)

会津征伐と直江状

天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(乃至政彦、高橋陽介の共著、河出書房新社)の「第5章 会津征伐と直江状」の要点などを以下にメモする。

 

(会津征伐に至る経緯の通説)

慶長5年(16004月、謀反の疑いをかけられた会津の上杉景勝は、徳川家康からの上洛の要請に対し、家臣の直江兼続に長文の返信をしたためさせた。それは「会津の政治に後ろめたいことは何もない。逆心など謂れのないことだ。無茶なことばかりを言い立てるのは、何か悪巧みがあるのではないか」と挑発する内容だった。世にいう「直江状」である。書状を手にした家康は怒り心頭に発し、諸大名に「会津征伐」の総動員をかけた。

 

(乃至氏の「直江状」検証の要点)

いわゆる「直江状」は、西笑承兌(さいしょうじょうたい)和尚の書状に対する返書である。写しのみが現存し、原本がないため、真贋論争が続いてきた。乃至氏は「直江状は承兌書状の内容に一々返答したが、どこも噛み合っていない」(渡邊大門氏)という説に同意する。そして、「実際に兼続が書き送った返書と、直江状を別物として考える」(水野伍貴氏)という提言に従うべきだとする。というのは、そもそも西笑和尚の書状は私的なものである。つまり承兌と兼続の私信往還と、家康側と上杉側との間の公使往還とはまったく別物なのだ。直江状は両者を混同した創作物だと考えられる。要するに兼続は景勝と家康の交渉に一切関与していないのだ、と乃至氏は結論づける。

 

(上杉景勝の本意とは)

さらに乃至氏は、景勝の「逆心」も真実だったと見ている。景勝は事前に誰とも共謀することなく、単独で開戦準備を進めていた。景勝は自ら動乱を呼ぶことによって、天下に公儀のありようを問おうとしたのである。もともと景勝は豊臣秀吉死去以来の上方の政争に消極的で、くだらない派閥争いで安定しない公儀に、不快感を募らせていたのだろう。行き詰まった上方の政情を打破することができれば、それで良かったのである。

以上から、会津征伐は通説のいうような家康の野望の現われではなく、景勝の逆心による関東の争乱勃発を防ぐため、公儀による征伐として動き始めた戦争なのである。

 

・・・自分は、まず高橋氏担当部分(関ヶ原合戦)を目当てに同書を買ったのだが、乃至氏担当部分(関ヶ原に至る政治プロセス)も読んでみると非常に面白い(特に直江状の解説)と思ったので、メモさせてもらった次第です。

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