2021年3月24日 (水)

グローバル化で革新の楽観は消滅

冷戦後のグローバル化の進展に伴い、先進国の指導者層は左派右派問わず競争的な経済政策を導入。この結果、革新勢力も保守勢力も変質した。『日本の分断』(三浦瑠璃・著、文春新書)「第6章 保守と革新の分断を探る」からメモする。

冷戦が崩壊し、社会主義的な経済モデルが挫折すると、各国の左派政党は、それまでの左派勢力とは一線を画した競争政策を導入した。いわゆる改革派左派の登場である。しかし、瓦解した旧東側陣営が西側の経済と接続してグローバル化が加速すると、しだいに先進国内の格差は拡大していく。世代間の不公平や、既得権と新参者とのあいだの不平等が固定化する。もはやこれ以上グローバル化しても未来が明るく見えないように感じられ、(改革派の抱いていた)進歩そのものに対する楽観が損なわれてしまった。

他方で、保守の側もグローバリゼーションで問題を抱えこむことになった。80年代から経済競争に勝ち抜くためにとってきた競争政策が、彼らのよって立つ保守的な価値観と摩擦を起こし始めたからだ。彼らはグローバリズムとナショナリズムの相克に直面する。

革新はこう改革すれば進歩するという仮説に強い自信を持っている。保守が頼る歴史は、比較的安定した参照地点となっているのに比べ、理論の正しさがひとたび揺らいでしまった時の革新の動揺は激しい。合理主義的な進歩の思想を捨て、心情的な理想主義をとってシングル・イシューで激しい異議申し立てを繰り広げるようになる(絶望的世界観、「人間が自然を破壊してしまう」「強欲資本主義が世界を滅ぼす」など)。
(市場の選択と技術革新の可能性に期待を寄せる)保守の楽観主義は、革新が描く「暗い明日」よりも、進歩をさほど望まなくなった大衆の支持を得やすい。

成長を支持し合理主義的アプローチをとる革新勢力が悲観的で大衆動員型の勢力に道を譲るようになると、左派ポピュリズムが台頭する。将来の収入増と社会的上昇の期待を持てなくなった人びとが、反資本主義的感情を代弁してくれる政治勢力として支持するからだ。

・・・あえて単純化すれば、グローバル資本主義の「グローバル」に抵抗するのが保守のナショナリズム、「資本主義」に異議を唱えるのが革新の進歩主義又は理想主義ということだろう。現状、先進国では左派ポピュリズムも右派ポピュリズムも一定の支持を集めている。しかし日本はこの構図とは無縁だ。なぜなら三浦先生の分析によれば、日本の政治的な左右対立を規定しているのは日本独自の問題、すなわち護憲VS改憲と日米同盟(安保体制)の是非だからだ。つまり日本はいまだに「戦後」を引き摺っている、としか言いようがない。

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2021年3月11日 (木)

大河ドラマ、90年代に「商品化」

大河ドラマの黄金時代』(春日太一・著、NHK出版新書)は、1963年のNHK大河ドラマ第1作『花の生涯』から91年の『太平記』まで、制作の舞台裏を多くの関係者の証言により描き出す。同書のエピローグから以下にメモする。

NHKは1985年、新たに100パーセント出資による外郭の株式会社・NHKエンタープライズを設立、ここに制作を外注することで「番組の商品化」を図ろうとします。そして、89年にNHKの会長となった島桂次は『太平記』の放送途中に大河ドラマをNHKエンタープライズの制作にすることを決定しました。

大きな変化が訪れるのは93年です。「一年に一作」という放送形態の変更です。そして、結果的にこの変革は失敗に終わります。大河ドラマは95年の『八代将軍 吉宗』で再び本体制作に戻り、編成も「一年に一作」の従来どおりに回帰、以後それが現在まで続きます。
ただ、この時も島の敷いた路線が一つ残ることになります。それは「作品の商品化」です。NHKのドラマの代表は大河ドラマ。これをコンテンツとして利用し、もっと国際的に売ったり、メディアミックスを図る。「その利益の一部をNHK本体に還元し、受信料を節約する」――それが島の狙いでした。

島の敷いた基本方針以降、物語の舞台となる県や市、撮影が行われる自治体、そこに関連する企業と、大河ドラマ作品を結びつけたビジネスが本格化していきました。
つまり、大河ドラマは単なる「作品」としてだけではなく「商品」としての側面も意識されるようになったということです。そうなると、大河ドラマはNHKの組織や外郭企業も含めた全体の命運を握る、大プロジェクトになります。かつてのように個々のプロデューサーやディレクターの「これを題材に作りたい」という想いだけで企画が決まるという規模ではなくなってしまったのです。

・・・上記のような認識から、著者は『太平記』までを、大河ドラマが「作品」であった時代、すなわち「黄金時代」としているわけだ。

思うに、「作品」から「商品」への変化、あるいは「作品」における「商品」的側面の肥大化は、大河ドラマに限らず、資本主義社会における殆どの文化的活動に避けられない運命かもしれない。マンガでもアニメでも、特撮映画でも、ロック音楽でも、やっぱり勃興期から発展期における「作品」に面白いものが多いと思う。しかし、その後ジャンルとして確立し「商品化」されると、つまらないものが多くなってくるという感じだ。

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2021年2月 5日 (金)

四苦八苦

齋藤孝・明治大学教授の新著『60代ミッション』(西東社)から、仏教の「四苦八苦」について説明している部分をメモ。

仏教に「四苦八苦」という言葉がある。そもそも人間は生まれてきたこと自体が苦だし、老いること、病気になること、死ぬことも苦。その生老病死の「四苦」に加えて、「愛別離苦(あいべつりく、愛する人やモノと別れる苦しみ)」、「怨憎会苦(おんぞうえく、会いたくない人と会わねばならない苦しみ)」、「求不得苦(ぐふとくく、求めるものが得られない苦しみ)」、「五蘊盛苦(ごうんじょうく、肉体があるがゆえの苦しみ)」の四苦がある。合わせて「四苦八苦」――。
人間は等しく、これらの苦を避けて通れないという。だから「受け入れなさい」というのが仏教の考え方である。

・・・ということなんですが、「苦」とは根本的に、肉体的あるいは物理的な、つまりフィジカルな出来事を表わしているように思う。それら全くフィジカルな出来事は、自分の心でどうにかしようとしてもどうにもならないことであり、それゆえ自分の心が望んでいるとはいえない出来事、つまり「苦」として現象してくる。つまりこの世では、自分の心が望んでいないことばかり起こるのであり、結局のところ現実とは苦の世界であると認めるほかない。その認識から現実に向き合う覚悟を決める、それが「生きる」ということなのだろう。

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2021年1月28日 (木)

幸福とは調和の感覚

トマ・ピケティら優秀な教え子を持つ経済学者ダニエル・コーエン。有能な教師でもある彼の考える幸福とは。『新しい世界』(講談社現代新書)所収のインタビュー記事からメモする。

基本的には、人の幸せとは周りとの関係から生まれます。
単純化してしまうと、ヒトは社会で生きることを尋常でないほど切望する動物なのです。人にとっての成功とは、何か絶対的な基準があるわけではなく、つねにほかの人と比較してのことなのです。
私が資本主義の世界に関して残念に思うのは、お金が人間関係においてこれほど大きな意味を持つようになってしまったことです。

(幸福になるためには)人とともに生きること、信頼できる友人を持つこと、ほかの人との競争をできるだけ敵意のないものにすること。
いずれにせよ幸福を目標としてとらえるのはよくないですよね。「幸せになろう」と思ってもうまくはいきません。アリストテレスだったかと思いますが、幸福は報酬であり目標ではないと言っています。目標とすべきは、近しい人とともに時間を過ごし、その人たちを助けたり、会話をしたりすることです。家族や友人だけでなく、交流の範囲をもっと広げるのもいいかもしれません。私は教師なので、自分の教え子がそれぞれの進む道を見つけたときには大きな満足感を覚えます。

心掛けるべきなのは、自分の内の調和を保ち、周りの人とも調和を保つことです。

・・・成功は目標になるが、幸福は目標にはならない。それは目指すべき状態ではない。日々の暮らしの中で生まれる他者との交流、共感、調和の感覚を味わうこと、それが幸福であると考えてよいのだろう。

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2021年1月26日 (火)

「能力主義」称揚と米国政党の変質

新しい世界』(講談社現代新書)は、副題に「世界の賢人16人が語る未来」とあるように、「クーリエ・ジャポン」のインタビュー記事を集めて再構成したもの。賢人の一人、政治哲学者マイケル・サンデルは、革新派の政治家がグローバル化に対応するにあたってメリトクラシー(能力主義)の文化を持ち上げてしまったせいで、労働者階級の人びとが当然のごとく怒りを抱き、惨憺たる結果を招いてしまったという。サンデルの述べるところから以下にメモする。

(中道左派の政党は)労働者の高まりゆく怒りと不満の声が耳に入っていませんでした。グローバル化の唯一の問題点は、勝ち組から負け組への所得再分配が不充分なだけだとみなしていたところがありました。しかし、これは単に正義と再分配の問題ではないのです。これは社会から承認されたい、社会的に尊重されたい、という問題でもありました。
労働者階級の白人男性は、社会が自分たちを尊重しなくなったと感じているのです。

政党の支持基盤の変化は興味深いです。社会民主主義の政党は本来、労働者と中流階級のための政党であり、彼らに支持されていました。従来は、富裕層と高学歴層が共和党に投票し、労働者が民主党に投票する傾向があったのです。それが1970~80年代から変わりはじめ、90年代の時点で、ビル・クリントンとトニー・ブレアが新自由主義的なグローバル化や金融の規制緩和を推し進めるようになっていました。中道左派の政党は次第に、高学歴の官僚やビジネスエリートの価値観に自分たちを合わせていき、労働者階級の支持を失ったのです。いまでは大卒が民主党に投票し、低学歴者がトランプに投票しています。教育が米国政治を分断する最大の要因になっています。

・・・サンデルは、能力主義の闇の部分に気付くことなしには、民衆の怒りを利用するポピュリズムに対抗できる政治を用意できないことを、とりわけ革新政党に分かってほしい、と語っている。

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2021年1月16日 (土)

米共和党、無惨なり

ニューズウィーク日本版1/19号記事「トランプの乱とファシズム的未来」から以下にメモする。

共和党はこの60~80年ほどの間、右傾化し続けてきた。これは、圧倒的に白人中心だったアメリカ社会が多民族社会へ移行し、あらゆるグループに平等な権利を認めるようになり始めたことへの反発が生み出した結果だった。

共和党は白人の既得権、大企業の利益、一部の人への富の集中を擁護する政党に変貌している。今日の共和党的発想によれば、連邦政府の政策はほぼ全て、「昔ながらの生き方」と「自由」を否定し、白人に犠牲を強いてマイノリティーを「不公正」に(とこの勢力は考えている)優遇するものに見えている。

共和党は、異人種に対して被害者意識を抱く人々の政党と化していて、政府の機能を有用なものと考えず、自分たちの「リーダー」を祭り上げることにより、民主政治の「抑制と均衡」の仕組みを弱体化させようとしている。これは、もはやファシズム以外の何物でもない。問題は、そのような政党がアメリカの2大政党の一つであることだ。

トランプ支持派の議事堂乱入は、アメリカにとって19世紀半ばの南北戦争以降で最悪の危機と言っていい。しかし、アメリカの民主主義に対してそれ以上に大きな危険の種は、昨年11月の大統領選でトランプに投票した膨大な数の有権者の思考の中に潜んでいる。それにより、アメリカは、トランプが去った後も長期にわたり、社会的・政治的な分断と衝突に苦しめられるだろう。

・・・大統領選でトランプが獲得した票は7400万票という。無論その全ての投票者が、議事堂に突入した暴徒と同じ考え方を持っているわけではないにしても、議事堂占拠の様子を見せられると、かなりヤバイ感じがする。あれではトランプは「ヒトラー」だし、暴徒はまさに「突撃隊」か、と言いたくもなる。そうなると、トランプ色に染まりつつある共和党は「ナチス」ということになる。

一方で、アメリカでは社会主義に好意的な若者が多くなっているらしい。民主党では極左勢力の影響も無視できないという。思い起こされるのは100年前、1920年代のドイツだ。当時のワイマル共和国では、社民政権の下でナチスと共産党が勢力を伸ばした。ということで、アメリカは「ワイマル共和国」になりつつある・・・と言っていいのかどうか、でもそんな感じ。

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2021年1月11日 (月)

織田政権と本能寺の変

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」は来月の2月7日が最終回。だからだろう、雑誌『歴史街道』と『歴史道』の最新号は、いずれも「本能寺の変」を特集。本能寺の変を、天下統一の最終段階における織田政権内の重臣間の派閥抗争の帰結とみるのは藤田達生・三重大学教授。以下に『歴史道』掲載の論考からメモする。

天正十年の毛利氏や長宗我部氏との戦争の後、信長の領国を拡大するため、宿老層は最前線の遠国へと国替が命じられる可能性が高かった。これに対して、嫡男織田信忠以下の一門衆は畿内近国で城主となっていたが、さらに加増などを受けて政権運営上も重要な役割を期待されることになっていたとみられる。

ここで重要なのが、近習である。信長の薫陶を受けた若い俊英たちは、年齢に見合わないほどの重職を果たすようになった。
従来のように、光秀ら宿老層を使って重要政策を執行するのか、経験を積みつつあった若い一門・近習を中心とする専制的かつ集権的な国家を創出するのか、政権を分裂させかねない対立があった。天下統一を目前に控えた時期、信長は専制化と政権中枢の世代交代を進めるべく、後者に大きく舵を切ろうとしていた。
筆頭宿老的立場の光秀は、畿内近国支配をめぐり一門・近習たちとライバルの関係にあった。しかも、信長の専制化によって最も被害をこうむる立場にあり、将来に希望をもてなくなったしまったといってよい。

信長の中国・四国攻撃の後に光秀に国替が待っていたことも、本能寺の変の重要な前提だった。信用度の低い史料ではあるが、『明智軍記』には中国出兵に際して、光秀が信長から出雲・石見への国替を命ぜられたと記す。

・・・この織田権力論の中に本能寺の変を位置づける見方は非常に興味深い。光秀の謀反の動機は、政権の外部からは窺い知れないということ。だからこそ怨恨や野望など、分かりやすい理由が面白おかしく語られたのだと思われる。

ただ藤田先生は足利義昭の関与に固執している。四国を巡る主導権争いにおける羽柴秀吉・三好康長VS明智光秀・長宗我部元親の構図、そこに足利義昭が光秀に働きかけて、元親も含めた三者が奇跡的に結びつき、未曽有のクーデターが実現したという。しかし、光秀と義昭を無理に結びつける必要があるとは思えない。織田権力の内部闘争だけでも、光秀謀反の動機を充分説明できる印象だ。

強敵の武田氏を滅亡させた後、織田権力は新たな段階に移行する過渡期、不安定な時期にあった。信長が息子たちに権力を譲り、一門で畿内を押さえようと考えるのは自然だし、となれば光秀が領地召し上げの憂き目に遭う可能性は高かったといえる。変の数年前には、宿老の佐久間信盛らが追放されている。お役御免となれば、畿内から遠国に国替えになるかもしれないと、光秀の心中はモヤモヤしていただろう。そこに突如として訪れた絶好のチャンス。信長信忠親子が殆ど無防備で京都にいる。織田軍団の司令官たちは各方面の前線で敵と戦っている。まさに今、自分が信長の生殺与奪の権を握っている。こんな機会は二度とない。光秀は考える。この先信長がいるのといないのとでは、どっちが自身と明智家にとって得か。あるいはリスクが小さいか。答えを出した光秀の軍勢の向かう先は京都、本能寺だった。ということではないだろうか。

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2020年12月19日 (土)

欧米人の「マスク拒否症」

日本の新型コロナウイルス感染者数が比較的少ないのは結局、みんな大人しくマスクをしてるから、ということになるのかな。『世界のニュースを日本人は何も知らない2』(谷本真由美・著、ワニブックスPLUS新書)から以下にメモ。

日本人にはもともと「マスクをする」という習慣があり、インフルエンザが流行る時期や花粉症の季節にはマスクをする人が街中に溢れます。
ところが海外は違います。台湾や中国では、マスクはめずらしくありませんが、アメリカや欧州、オセアニアでは、マスクは真っ向から否定されていて、身につける習慣があるのは医療関係者だけでした。
彼らにはもともとマスクをつける習慣がありませんから、新型コロナで死者が大量に出ても、マスク着用を頑固に否定する国が多かったのです。

そもそも、彼らはマスクに対して大変な抵抗感があるのです。なぜかというと、「マスクをする人=異常な病気にかかった人」というイメージがあるからです。
さらに、マスクは弱者は病気の象徴であり、目にするだけで不気味だという考え方もあります。
英語圏の映画やドラマなどを観ると、口元を隠しているのは悪役や異常な行動をする人など、要するにヤバいキャラばかりです。
なぜ口元を隠すことがヤバい人の象徴なのか? それは他人と話すとき、英語圏の人々は相手の口元を見て、その人の感情や心を読みとっているからです。ですから口を隠すということは「自分の本心を隠す」ということ。

マスク騒動でわかるのが、一見合理的にみえる欧米の人々でも、実は日本人以上に科学を軽視し習慣や因習にとらわれる側面がある、ということです。

・・・自分も、マスク好きなど日本人の清潔感覚は度を過ぎていると思うこともあるのだが、その感覚が有利に働いたということであれば、今回のコロナ騒動では日本人でよかったという感じだ。

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2020年12月15日 (火)

「岸見哲学」の幸福論

大ベストセラー『嫌われる勇気』の著者、岸見一郎先生の新刊、『これからの哲学入門 未来を捨てて生きよ』(幻冬舎)から以下にメモする。

生きる目標は何か。それは端的にいえば、幸福であることです。

どんな時に仕事をしていて楽しく感じられるのかといえば、自分が仕事によって他者に貢献していると思える時です。

他者に貢献していると思えればこそ、生きがいを感じることができます。人は仕事をするために働いているのではなく、生きるために働くというのは、仕事をすることで生きがいを感じられるということであり、生きがいを感じられることができればこそ幸福に生きることができるのです。

どんな時に人は自分に価値があると思えるかといえば、自分が何らかの仕方で他者に貢献していると感じられる時です。ただし、仕事をすることによってしか貢献できないわけではありません。
子どもがただ生きているだけでまわりの人に幸福を与えられるように、私たちもまた生きていることで他者に貢献し、幸福を与えることができる。そう考えていけないわけはないのです。

人生の目標を成功ではなく幸福に据えなければなりません。人は未来に何かを達成するかどうかに関係なく、「今ここ」で幸福であることができます。このことに気づく人が増えれば、世界は大きく変わり始めるでしょう。

・・・人生の目標は成功ではなく幸福である。幸福とは他者に貢献できることである。そして貢献の仕方は仕事だけではない。生きているだけでも他者に貢献できる。すなわち生きているだけで幸福である。

ということらしいのだが、とりあえず「貢献」のレベル感は、どれくらいなのかなと思う。まあ子どもは生きているだけで人を幸福にするかもしれないが、大人はそうはいかないような。日々の生活の中で、人に貢献しているという実感を持てるかというと、自分的にはなかなか難しいという感じがします。

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2020年12月14日 (月)

「社会主義」の可能性

いまこそ「社会主義」』(朝日新書)は、池上彰と的場昭弘、ジャーナリストと哲学者の対談本。以下に的場先生の発言からメモする。

社会主義の挫折というときに、ついソ連のような共産党一党独裁タイプの社会主義、つまり国家主義的な社会主義の失敗を想起しがちですが、そうではない社会主義もあったということを忘れてはいけない。
別の社会主義、つまり、民主主義を前提にして、人々の自由な運営によって実現しようという社会主義もありました。プルードンはアナキスト(無政府主義者)と紹介されることが多いのですが、人々の自由な運営を重視した社会主義者でもありました。

19世紀に国家主義的な社会主義の思想が誕生した理由は、資本主義は無政府的で、貧富の格差を増大させ、貧困層はなくならない、という認識があったからです。国家が介入すれば、それをなくせる、と考えたわけです。

資本主義と比較して社会主義に大きな欠点があるとすれば、どうしてもドグマ(教義)というのがあって、そのドグマが権威を生み、それがさまざまな発展を止めてしまう傾向がある。
資本主義は、私たちの現実の暮らしのなかから出てきて、理論はあとから付けられたものです。社会主義は現実に存在しなかったので、頭の中で考え出されたがゆえに、極めて理論的な側面がある。原理・原則主義があって、それが破られないように政府が規制していく。そして、私たちの自由な発想が削がれていく。問題は、その部分です。
自由を担保した社会主義を、どうやってつくっていくかが課題となります。

・・・「極めて理論的」であるがゆえに、社会主義は「観念論」に陥りやすいのだと思われる。マルクスはヘーゲルの歴史哲学を観念論的倒錯である、つまり現実認識としておかしいと批判したのだが、マルクス主義もまた結局「観念論」だったというのは実に皮肉な感じがする。実際、社会主義国家や計画経済は失敗に終わった。簡単に言って人間は自由を求めるからだ。しかし自由な資本主義は格差を生む。その格差を是正するための再分配は国家が行う。ということで、平等を志向する社会主義は、国家主義に傾きやすい面もあると思われる。では、国家主義でない社会主義は現実に可能か。的場先生は、民主主義的な合意に基づく地方分権型社会主義を構想する。格差と分断が世界を覆う中で、社会主義の可能性を改めて追求する様々な試みが現われてくるのかも知れない。

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