2018年8月17日 (金)

『大坂堂島米市場』

大坂堂島米市場』(高槻泰郎・著、講談社現代新書)を読んで、学んだことなどを以下に書いてみる。

17世紀の半ばに大坂で形成された米市は、ごく初期の段階から米そのものを売買する市場ではなくなり、手形を売買する市場になっていた。大名の蔵屋敷から米を落札した者は、代銀(=代金)を払って米の引換券である「米手形」を受け取る。落札者はこの手形を、米市で第三者に転売していた。一方で大名は実際の米の在庫量以上に米手形を発行して、米市で資金調達を行っていた。代銀の一部の支払いで発行される米手形の売買は、やがて代銀の全額支払い後に発行される「米切手」の売買に移行。この正米商い(しょうまいあきない)にほぼ並行して、一種の先物取引である帳合米商い(ちょうあいまいあきない)17世紀末頃に現われる。この取引では現金と米切手を遣り取りしない。まず自由に売りと買いの約束を取り交わす。同時に売り(買い)と反対の買い(売り)の約束も取り交わして、帳簿上だけで売りと買いを付き合わせる。満期日までに反対売買を行い、差金決済により取引は終了する。この取引は、現代の日経225先物やTOPIX先物のような株価指数先物取引に近いものだ。


堂島米市場のことをよく知らない人々から見ると、取引の様子は数百人が寄り集まって喧嘩をしているようであり、そこで飛び交う言葉も、訳が分からなかったと伝わる。この辺の感じは、立会場があった頃の証券取引所の様子の記憶がある者には、似たようなものなんだなと思われるところだ。堂島米市場の正米商いは約30の銘柄を売買した。これに対して、帳合米商いでは「立物米(たてものまい)」を取引の対象とした。立物米とは、年間を三期に区切った取引期間ごとに、大量に取引される銘柄の中から選び出される、名目上の銘柄である。帳合米商いでは、帳簿上だけで取引する(実体のない)銘柄である立物米を売買し、定められた満期日までに売りと買いの注文を相殺する。米切手は基本的に米との交換を約束する証券であるから、米の作柄がその価格に大きく影響した。江戸時代の人々も、米切手の価格変動をヘッジする手段として、先物取引を利用したということである。


大名は資金を調達するため、蔵にない米についても米切手を発行していた。このため米切手が過剰に発行されると、市場における信用不安を惹起し、米切手の価格下落を招く可能性があった。当時、米との交換が延期ないし拒否される米切手のことを「空米切手(からまいきって)」と呼んだ。18世紀中後期にかけて、江戸幕府は空米切手問題に対処するため、米切手の統制策を立て続けに打ち出す。宝暦11(1761)12月に発令された、空米切手停止令(ちょうじれい)により、「全ての米切手は、たとえ蔵米の裏付けなく発行されたものであっても、蔵米の裏付けのある米切手として処理されねばならない」という原則が確立したという。


「世界最初の先物市場」である堂島米市場の仕組みと、それを考え出した江戸時代の大坂商人、そして市場の信用秩序維持を図る江戸幕府、いずれについても驚き感心するばかりだ。

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2018年8月13日 (月)

『テンプル騎士団』

テンプル騎士団』(佐藤賢一・著、集英社新書)から、学んだこと考えたことを以下に書いてみる。

 12世紀初め、十字軍が奪還した聖地エルサレムで、ユーグ・ドゥ・パイヤンとゴドフロワ・ドゥ・サントメールという二人の騎士が始めた巡礼路の警備・巡礼者の保護活動は、やがてキリスト教世界の評判を呼び、1128114日フランスのトロワで開かれた教会会議において騎士修道会「キリストとソロモン神殿の貧しき戦士たち」、いわゆる「テンプル騎士団」が正式に発足する。中世ヨーロッパの三身分(祈る人:聖職者や修道士、戦う人:貴族や騎士、働く人:農民や町人)から見れば、祈る人と戦う人が合体した修道騎士は超の付く特別な身分であり、十字軍という特殊な時代背景抜きにはありえない存在だった。


 イスラム教徒との戦いにおいて、テンプル騎士団は勇猛な戦いぶりを見せつける。なぜ強いのか。神のために死を恐れず戦う「殉教」精神もあるだろうが、修道士は生活の中でまずエゴの克服を求められる。修道会は元々組織がしっかりしており、上意下達の命令系統も明確である。集団行動に適した人々が、よく整えられた組織で戦う。強いのも当然といえる。


ヨーロッパ初の「常備軍」と見ることができるテンプル騎士団。その活動を支える「軍資金」となっていたのは、キリスト教徒からの寄付寄進である。この寄付寄進、特に土地を管理運営するために、「支部」がフランスを中心にヨーロッパ全土に置かれる。十字軍運動がピークを過ぎて寄付寄進熱が冷めると、テンプル騎士団は積極的な支部経営に乗り出していく。農地の開発・運営、物資の運搬・販売、金貸し等々、支部を拠点に不動産業、物流業、金融業と、事業を次々に展開拡大していく姿は、まさに「企業体」というほかない。調達資金(寄付寄進)は返済不要である一方、出資者(一般信徒)への利益還元も求められない。テンプル騎士団は、いわば株主のいない株式会社として、組織の維持拡大のため、収益追求の道をひた走る。こうしてヨーロッパ中に事業活動のネットワークを張り巡らしたテンプル騎士団は、軍隊であり事業体であり銀行でもあるという超国家的組織へと変貌を遂げた。


無敵の存在感を示すテンプル騎士団。しかし謀略の動きが秘かに進行していた。当時のフランス王フィリップ4世は、自らの権勢伸張を目指して、まず教皇との権力闘争に勝利する(1303年、アナーニ事件)。王は次の標的として、テンプル騎士団に狙いを定めた。13071013日の金曜日、パリを始めフランス全土でテンプル騎士団の一斉逮捕が行われる。約700の支部で推計600人の騎士が拘束された。嫌疑は異端の罪。以降、財産は差し押さえられ、騎士50人以上が処刑。テンプル騎士団は消滅への道を辿ることになる。


12世紀に生まれ、やがて超国家的ネットワーク組織へと成長し、14世紀に入ると呆気なく消え去ったテンプル騎士団。それは中世ヨーロッパに咲いた巨大な徒花にも思われる。

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2018年8月12日 (日)

『世界史序説』

世界史序説 アジア史から一望する』(岡本隆司・著、ちくま新書)から学んだこと、考えたことなどを以下に書いてみる。

最古の文明であるオリエント文明は東西に拡大伝播。西ではギリシア・ローマ文明を、東ではインド文明、さらに黄河文明を生み出した。しかし4世紀から5世紀になると、地球規模の寒冷化を背景とした異種族・遊牧民の移動・攻撃により、西ローマ帝国、漢王朝が滅亡。この危機の時代に、オリエント・南アジアから、キリスト教・仏教・イスラームの「世界宗教」が生まれて東西に広まる。5世紀から6世紀、東ローマ帝国とササン朝ペルシアの両雄が並び立つ、その間隙を縫うように現われたイスラームは、やがて中東から北アフリカ、イベリア半島を支配するに至った。イスラームの地中海制覇とは、東西に分かれていたオリエントの、イスラームによる再統一であると見ることができる。


9世紀以降、アジアの東と西で、唐とイスラームによる統合が終焉。気候の温暖化により遊牧民の活動が活発化する。13世紀初めに生まれたモンゴル国は、その強大な軍事力により、ほぼユーラシア大陸全域に及ぶ大帝国へと成長。あわせて遊牧と農耕、移動と定住を有機的・安定的に結合させる仕組みを構築した。さらに13世紀後半には、広域の商業化、銀だての財政経済、流通過程からの徴税などを柱とした経済国家へと変貌した。


14世紀の後半、気候の寒冷化に伴い、ヨーロッパのペスト流行など天災疾病が世界的規模で発生、蔓延。ユーラシアではモンゴル政権が崩壊、瓦解した。次に台頭したトルコ系のオスマン帝国は、ローマとイスラームとモンゴルを一身に継承する存在として、アジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸にまたがる一大勢力となった。東アジアでも、満州人を中心にモンゴル人・漢人が結集した清朝が登場。ここにアジア的政治社会構造は、ほぼ完成する。軍事政治を担う遊牧起源の支配者と、経済文化を担う在地定住民の共同体を、双方の事情に通じたエリートがつなぐという統治スタイルの下に、多様な言語・宗教・慣習を持つ人々が共生共存する。これが、草原・遊牧と農耕・定住が交錯するアジアにおいて、平和な共存と円滑な政治を実現する合理的な方法だった。


そして16世紀の大航海時代。世界史を動かす主役はヨーロッパへと移り、世界史は大きく転回する。ルネサンス華やかなイタリアの繁栄を最後に、地中海から大西洋に交易の舞台は移り、海軍国イギリスが産業革命も起こして「大英帝国」を築き上げる。以後は世界が一体化する近現代史、帝国主義の時代までほぼ一直線の道のりになる。


近代はまさしく西欧中心の時代だが、近代以前は西洋を中心に世界史を考える必要はないのだと了解する。日本とヨーロッパは、遊牧の要素を欠いた農業生産優位の一元的社会という共通性があるという指摘を始め、様々な観点を得られる、繰り返し読みたい一冊。

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2018年6月25日 (月)

『戦国日本と大航海時代』

戦国時代と大航海時代』(平川 新・著、中公新書)を読んで、学んだり考えたりしたことを以下に記す。


 豊臣秀吉の朝鮮出兵(159298)というと、天下人の晩年の誇大妄想的暴挙というような評価から、余り芳しい事績とは捉えられていないと思われる。しかしこの本によれば、15万人という兵力を朝鮮半島に送り込んだ大戦争以後、天下人秀吉そしてその後継者である徳川家康は、ヨーロッパ人から「エンペラー」つまり「皇帝」と見なされるようになり、日本が軍事大国であると認識したヨーロッパ人は、あわよくば日本を植民地化しようとしていた野望を断念したというのである。秀吉の朝鮮攻撃は明国征服の第一歩として実行されたものだが、最終的には遠く天竺(インド)や南蛮(東南アジア)の征服も視野に入れており、そもそもその征服構想自体がスペインに対抗するため打ち出されたものだという。


 なぜ秀吉がスペインへの対抗心を燃やしたのかといえば、スペインやポルトガルの世界征服の動きを認めたからだ。その先兵は宣教師たちであると見て、まず1587年にバテレン追放令を発布。同時期に朝鮮と琉球の服属に向けた交渉開始にも動き出す。1590年の小田原攻めで北条氏を滅亡させて全国平定をほぼ達成した翌年、秀吉は、スペイン支配下にあるマニラのフィリピン総督に服属要求の書簡を出す。朝鮮攻撃開始後の92年、93年にも秀吉は書簡を出しており、後者には「カステリヤの王」(スペイン王)に対して「予が言を軽視すべからず」という強い警告の文言が記されている。秀吉の威嚇を受けたフィリピンは、日本のマニラ攻撃の可能性に恐怖感を募らせた。そして実際に朝鮮が攻撃されたことにより、スペイン勢力は日本が軍事大国であることを認めて、武力による日本征服も諦めたという。


 朝鮮及び明国との断交状態、スペインに対する強硬姿勢という秀吉政権の残した外交課題を引き継いだ徳川家康は当初、アジア・ヨーロッパの国々との平和的な全方位外交を目指して貿易の振興を基本方針とした。その一方で、キリスト教の布教に対する態度決定を迫られることになり、秀吉と同様、スペインの脅威を感じていた家康は徐々に布教禁止の方向へと舵を切る。最終的に幕府は禁教令を出す(1616)のだが、その間際に企てられたのが、伊達政宗の遣欧使節(16131620)である。政宗はメキシコとの通商を認めてもらうため、支倉常長の使節をスペイン国王とローマ教皇の元に派遣した。だが結局、貿易交渉に失敗。同時に政宗はキリスト教禁制を領内に布告。1624年、幕府はスペインとの断交に踏み切った。従来から戦国大名は独自に外国との貿易を行っていたが、政宗の試みはその最後の事例となり、以後は徳川幕府が外交・貿易を一元的管理する体制となったのである。


 群雄割拠の戦国時代を経て天下統一された日本は世界史的に見ても軍事強国だったこと、我らが秀吉と家康が世界史的スケールの英雄であることを教えてくれる一冊。

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2018年4月30日 (月)

「ウ・パドリーノ」

「“伝説のマフィア”ラッキー・ルチアーノの末裔が日本にいた」という帯の言葉に惹かれて、『ゴッドファーザーの血』(マリオ・ルチアーノ著、双葉社)を書店で手に取った。
 
何しろラッキー・ルチアーノといえば、マフィアのビッグネームである。1931年のニューヨークにおけるマッセリア一家とマランツァーノ一家の抗争の中から、最終的にボスの中のボスとしてのし上がり、マフィア組織の近代化を成し遂げたラッキー・ルチアーノ。その伝説のギャングの血筋をひく人物が日本の裏社会で生きていたというだけでも驚きなのに、現在は東京・茅場町にあるイタリアン・レストランの経営者であるという話を目にして、また驚いた。
 
レストランの名前は「ウ・パドリーノ」。実は名前を覚えていなかったのだが、何しろ自分の前の勤務地が茅場町を最寄り駅とする新川だったから、もしかしてあそこ?と思い出す店があったので、調べてみるとやはり一回だけランチで入った覚えのある店だった。地下鉄の駅から永代通りを東に歩いて霊岸橋を渡り、すぐ左に曲がったところにあるお店である。いや~あそこそういう店なんだ、何だかすごいとしか言い様がない。
 
マリオ・ルチアーノ氏は1964年シチリア生まれ。23歳の時に来日し、東京や神戸など、既に30年以上日本に住んでいる。かつてはいわゆる「経済ヤクザ」として長い間活動してきたが、今では裏社会関係の仕事からは足を洗い、レストラン経営に専念しているとのこと。
 
この本の前半では、ルチアーノ氏が日本に来るまでの若い頃に、ニューヨーク、パキスタンのカラチ、フィリピンのマニラで経験した出来事が語られる。日本に来てからは、山口組はじめ裏社会系の人々との交流の話が中心となっているが、時に生命の危険に晒されるなど、それこそドラマか映画のような、常人には想像もできない人生だという感想しか出てこない。

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2018年4月29日 (日)

会津征伐と直江状

天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(乃至政彦、高橋陽介の共著、河出書房新社)の「第5章 会津征伐と直江状」の要点などを以下にメモする。

 

(会津征伐に至る経緯の通説)

慶長5年(16004月、謀反の疑いをかけられた会津の上杉景勝は、徳川家康からの上洛の要請に対し、家臣の直江兼続に長文の返信をしたためさせた。それは「会津の政治に後ろめたいことは何もない。逆心など謂れのないことだ。無茶なことばかりを言い立てるのは、何か悪巧みがあるのではないか」と挑発する内容だった。世にいう「直江状」である。書状を手にした家康は怒り心頭に発し、諸大名に「会津征伐」の総動員をかけた。

 

(乃至氏の「直江状」検証の要点)

いわゆる「直江状」は、西笑承兌(さいしょうじょうたい)和尚の書状に対する返書である。写しのみが現存し、原本がないため、真贋論争が続いてきた。乃至氏は「直江状は承兌書状の内容に一々返答したが、どこも噛み合っていない」(渡邊大門氏)という説に同意する。そして、「実際に兼続が書き送った返書と、直江状を別物として考える」(水野伍貴氏)という提言に従うべきだとする。というのは、そもそも西笑和尚の書状は私的なものである。つまり承兌と兼続の私信往還と、家康側と上杉側との間の公使往還とはまったく別物なのだ。直江状は両者を混同した創作物だと考えられる。要するに兼続は景勝と家康の交渉に一切関与していないのだ、と乃至氏は結論づける。

 

(上杉景勝の本意とは)

さらに乃至氏は、景勝の「逆心」も真実だったと見ている。景勝は事前に誰とも共謀することなく、単独で開戦準備を進めていた。景勝は自ら動乱を呼ぶことによって、天下に公儀のありようを問おうとしたのである。もともと景勝は豊臣秀吉死去以来の上方の政争に消極的で、くだらない派閥争いで安定しない公儀に、不快感を募らせていたのだろう。行き詰まった上方の政情を打破することができれば、それで良かったのである。

以上から、会津征伐は通説のいうような家康の野望の現われではなく、景勝の逆心による関東の争乱勃発を防ぐため、公儀による征伐として動き始めた戦争なのである。

 

・・・自分は、まず高橋氏担当部分(関ヶ原合戦)を目当てに同書を買ったのだが、乃至氏担当部分(関ヶ原に至る政治プロセス)も読んでみると非常に面白い(特に直江状の解説)と思ったので、メモさせてもらった次第です。

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2018年4月28日 (土)

関ヶ原(山中・藤下)合戦の経緯

天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(乃至政彦、高橋陽介の共著、河出書房新社)の「第15章 西軍降伏後に起きた合戦」を要約してみる。
 
慶長5年(1600)9月14日、徳川家康の軍勢が美濃赤坂に着陣。石田三成ら西軍の立て籠もる大柿(大垣)の城から北に一里(約4km)ほどの場所である。また同日、小早川秀秋勢が松尾山の西軍勢力を排除して当地を占拠(これは高橋氏によれば、事前に家康方と示し合わせての行動である)。松尾山は大柿から四里(約16km)西の関ヶ原にある。東軍に寝返った小早川を討つべく、14日の夜、大柿にいた石田三成、宇喜多秀家、小西行長、島津惟新(義弘)の4部隊は城を出て関ヶ原に向かった。
 
大柿から関ヶ原までの途中にある南宮山には、毛利勢が布陣していた。関ヶ原方面に移動する西軍の行動を撤退と捉えた毛利家の筆頭家老・吉川広家は、既に東西両軍の勝負がついたと判断。東軍と和談交渉を行うことを独断で決意し、使者を送った。そして、東軍の井伊直政・本多忠勝らと吉川広家らは起請文をとりかわし、広家側は人質を差し出した。高橋氏は、これにより東軍と西軍の総和談は成立、それは事実上の西軍の降参を意味する、という。
 
9月15日の未明、西軍は松尾山の北、山中村・藤下村付近に展開した。西から島津、宇喜多・小西・石田、一番東側に大谷吉継である。同日の早朝、東軍の先手である福島正則・黒田長政らの部隊が、西軍陣地に攻め掛かってきた。
西軍で最初に戦い、最初に崩壊したのは大谷吉継の部隊である。吉継は、西軍陣地のいちばん東側にやや離れて布陣していた。東軍先手衆の攻撃を六、七度撃退したが、松尾山からおりてきた秀秋の部隊に側面を攻撃され、崩壊した。さらに東軍先手衆は宇喜多勢、石田勢を潰走させ、島津の陣地への攻撃を開始した。島津勢はそれらの部隊の真ん中を切り開いて東へ向かって撤退した。
こうして関ヶ原合戦は終わった。
 
・・・関ヶ原合戦通説の見直しにおいては、西軍の移動(大垣城から関ヶ原)の理由が、一つの焦点だと思われる。通説では、西進する東軍を関ヶ原で迎え撃つためとされていた。これに対し高橋説は上記のように、小早川陣攻撃のためとする。また、白峰旬・別府大学教授の説によれば、家康軍到着により圧迫を受ける南宮山の毛利勢を、バックアップする体制に立て直すためである(『歴史群像』2017年10月号所収の論文)。しかしどちらにせよ、吉川広家の主導による和睦成立、すなわち毛利の事実上の降伏により、東軍が何の障害もなく西進し関ヶ原に進出できたのは、山中・藤下に布陣した西軍にとって想定外の事態であったということになる。これが短時間の戦闘で西軍が崩壊した一因のようだ。

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2018年4月 7日 (土)

『歴史と戦争』

 『歴史と戦争』(幻冬舎新書)の著者は半藤一利氏。昭和5年生まれ、いわゆる昭和ヒトケタ世代である。私事めいたことを記すと、自分の親と同年代の人である。なので自分にとっては、この本を読むことは親世代の言葉を聞くということに他ならない。昭和ヒトケタ世代は、戦時中の少年少女として空襲や疎開を経験し、戦後は価値観が全くひっくり返った社会を生きた人々である。自分たちの親世代の経験と考え方を理解すること、その価値観を時々思い起こして今の世の中を見てみることが、昭和ヒトケタの親を持つ自分たちの義務のような感覚がある。

 

 東京・向島生まれの著者は昭和20年3月10日の東京大空襲を経験している。空襲の後の焼死体がいくつも転がる焼け跡に立った著者は、これからは「絶対」という言葉を使うまい、と心に誓う。「絶対に正義は勝つ。絶対に日本は正しい。絶対に日本は負けない。絶対にわが家は焼けない。絶対に焼夷弾は消せる。絶対に俺は人を殺さない。絶対に・・・・・・と、どのくらいまわりに絶対があり、その絶対を信じていたことか。それが虚しい、自分勝手な信念であることかを、このあっけらかんとした焼け跡が思いしらせてくれた」。

その東京大空襲を指揮したルメイ将軍は戦後、日本政府から勲章を授与されている。航空自衛隊の育成に功績あり、との理由だ。この不条理な事実を毎年3月になると思い出す著者は、「われながら執念深いことと思うが、こればかりはこの世をオサラバするまで永遠に思い起こすことになる」と語る。当然の感情だと思う。時に政治は戦争よりも不条理である。

 

 そして「あとがき」には「本書の結論」として、以下の言葉がある。

 「わたくしを含めて戦時下に生をうけた日本人はだれもが一生をフィクションのなかで生きてきたといえるのではなかろうか。万世一系の天皇は神であり、日本民族は世界一優秀であり、この国の使命は世界史を新しく書きかえることにあった。日本軍は無敵であり、天にまします神はかならず大日本帝国を救い給うのである。このゆるぎないフィクションの上に、いくつもの小さなフィクションを重ねてみたところで、それを虚構とは考えられないのではなかったか。そんな日本をもう一度つくってはいけない」。

 

 「国家総動員法」「大政翼賛会」「大本営発表」「戦陣訓」「国体護持」「一億総特攻」・・・この本に出てくる戦時中の言葉を拾っていくと、息苦しい時代がありありと感じられてくる。これらの言葉が重くのしかかってくる生活、その中で日々を送ることが自分の親世代の少年少女時代の現実だった。この戦時を支配したフィクションが将来、同じ姿で現われることはさすがに無いだろうが、国家が国民の生活と生命を危機に陥れるフィクションを、別の形で生み出す可能性が全く無いとは言い切れない。そのような可能性を考える時に、著者を始めとする昭和ヒトケタ世代の経験と思考を思い起こすことが、強く求められるのだと思う。

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2018年3月30日 (金)

『陰謀の日本中世史』

本能寺の変には黒幕がいた、関ヶ原合戦は徳川家康の策略だった――など、日本中世史において語られる陰謀論の数々。ベストセラー『応仁の乱』の著者が、最新の研究を援用しつつ、これらの陰謀論を批判的に検討し、その基本的パターンを明らかにする・・・『陰謀の日本中世史』(呉座勇一・著、角川新書)を読んで、学んだり考えたりのまとめ。

 

 この本では源頼朝、執権北条家、足利尊氏、日野富子など、日本史上の名だたる人物に係わる陰謀論を取り上げて批判的検討を行っている。なかでも「本能寺の変・黒幕説」は、陰謀論の「真打ち」として扱われているようである。ただ本書でも言及されているように、鈴木眞哉氏と藤本正行氏の共著『信長は謀略で殺されたのか』(2006)の批判以降、黒幕説は下火になったという印象がある。現在では本能寺の変の原因として、織田信長の四国政策転換との関連を強調する説が有力になってきていることもあり、今ここで改めて、新たに登場した陰謀論も含めて本能寺の変・黒幕説を批判することに、正直それほど意義があるようには見えない。おそらくこの本の主眼は、個々の陰謀論を論破すること自体にあるのではなく、論破の過程を通して歴史の正しい見方を提示することにあるのだと思う。著者も「あとがき」でこう述べている。「本書を通じて歴史学の思考法について理解を深めていただければ、著者として望外の幸せである」。

 

 歴史を正しく見るということは、もちろん歴史を分かりやすく見るということと同じではない。しかし人間はついつい分かりやすさを求めてしまう。そこに、陰謀論が人々の心を捉える素地がある。陰謀論は因果関係が単純明快だから分かりやすい。そしてなぜ因果関係が単純明快なのかといえば、陰謀論は「結果」から組み立てられるからである。我々は歴史の結果を知っている。源頼朝は弟の義経を滅ぼし、足利尊氏は鎌倉幕府を倒し、徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利した。すべては最終ゴールを目指す勝利者によりコントロールされていた、という前提から、陰謀論は歴史の出来事を見てしまう。その結果論的なストーリーは、確かに分かりやすいとは言える。しかし繰り返しになるが、分かりやすい=正しいではない。

 

 歴史を正しく理解しようとする時、余りにも分かりやすい話は疑ってかからなければならない。歴史の結果を知っている我々自身の立場を離れて、当時の史料に虚心坦懐に向き合い、当時の人々の置かれた状況を想像する。いつの時代であろうと、誰もが先の見えない中で複雑な現実に向き合って生きていたことを念頭に置いて考える。歴史の出来事を理解する時には、そんなニュートラルでバイアスのかからない態度が肝心なんだろうと思う。

 

 この本の「終章」では、陰謀論と疑似科学の類似性が指摘されている。疑似科学は、科学的な装いを備えつつ、実際には科学的根拠を有さない理論を指す。歴史学は史料の批判的検討を根拠にした科学であり、史料に基づかない、あるいは史料の恣意的解釈に基づく陰謀論は、疑似科学として退けられることになる。この本は陰謀論を扱いながら、歴史の正しい見方というか、歴史学的な考え方とはどういうものか、改めて教えてくれる本である。

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2018年3月26日 (月)

『壬申の乱と関ヶ原の戦い』

天下分け目の戦いが行われた関ヶ原。実はこの地は、古代の「壬申の乱」、室町時代の「青野ヶ原の戦い」においても、戦略上重要なエリアとして意識されていた。3つの戦いにおいて、なぜ関ヶ原エリアが重要な舞台となったのか・・・『壬申の乱と関ヶ原の戦い』(本郷和人・著、祥伝社新書)を読んで、学んだり考えたりのまとめ。
 
 古代、関所は三ヵ所あった。越前国の愛発関(あらちのせき、現・福井県敦賀市付近に推定)、伊勢国の鈴鹿関(すずかのせき、現・三重県亀山市付近に推定)、美濃国の不破関(ふわのせき、現・岐阜県不破郡関ケ原町)である。それぞれ北陸道、東海道、中山道を東から進んでくる敵を防ぐための関所である。京の都から見れば、敵は東から攻め上ってくるのであり、三つの関の東側を「関東」と呼んでいた。つまり関所は、日本の東と西を分ける場所であった。日本の歴史においては長い間、畿内を含む西国が日本の中央であり、貧しい辺境の地に住む東国の人たちが、西国の豊かさを奪い取ろうと都を目指すという構図が、8世紀から16世紀までの日本史の基本的なトレンドである、と著者は見る。そして関所のある地は、東から見れば畿内への入り口、西から見れば敵を食い止める防衛ラインであり、攻める東国と守る西国が衝突する場所、まさに攻防の重要ポイントとなるのである。
 
 まず壬申の乱。672年に起きた古代史上最大の内戦である。この時、天智天皇の弟・大海人皇子は、現在の関ヶ原当たりに自軍の本拠地を置いた。そこで兵を集めて近江、大和で天智の息子・大友皇子と戦い勝利。天武天皇として即位すると、不破、鈴鹿、愛発の三ヵ所に関所を置いた。天武天皇は関ヶ原という場所の重要性を最初に認めた人物なのである。
 
 次の青野ヶ原の戦いは1338年に、北畠顕家が率いる軍勢と室町幕府軍との間で行われた合戦。顕家は『神皇正統記』で知られる北畠親房の嫡男。1336年に足利尊氏は北朝の天皇を担いで幕府を開いたが、後醍醐天皇は吉野で南朝を旗揚げして抵抗。後醍醐天皇から京都奪還を命じられた北畠顕家は、奥州から軍勢を率いて京を目指した。幕府軍は美濃・青野ヶ原を防衛ラインとして、北畠軍を迎え撃つ。この防衛ラインを突破できずに、北畠軍は伊勢に転進。これにより北朝と将軍権力は、国の中央を占める権威・権力を確立したのである。
 
 そして1600年に起きた関ヶ原の戦い。この戦いに勝った徳川家康は1603年江戸に幕府を開き、日本の中心が京都・大坂から江戸に移るという大変化がもたらされた。これにより、東の反乱分子が西の中央に戦いを挑むという構図は終焉を迎えたのである。
 
 日本の歴史において長い間、西と東の発展の速度には差があった。西と東に社会的文化的格差がある時代において、「関ヶ原」は東西を分けるラインとして機能し、そこで起こる戦いの結果は、中央権力の転換または維持に大きな影響を及ぼした。関ヶ原の戦いと江戸幕府の開始以降、東が西に追いつく格好で、ようやく東と西はひとつの「日本」となるまでに発展を遂げたと言えるのだろう。この「ひとつの日本」の成立は、幕末から日本が急速に近代的国民国家へと変貌を遂げる際にも、相当なアドバンテージとなったのではないだろうか。

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