2024年8月18日 (日)

市民派市長VS議会

市民の支持だけを頼りに、市民派市長は議会と闘う。泉房穂元明石市長の『さらば!忖度社会』(宝島社)から、以下にメモする。

私が市民派の市長として改革しようとした時に、市役所の職員とともに私の手を抑え、足を引っ張っていたのは議会の方々でした。彼らの最大の関心事は、サイレントマジョリティの一般市民の生活ではなく、特定の集団への利益誘導や党派の拡大。各議員が特定の集団の利益代表として、〝選択と集中〟どころか、〝継続と拡大〟を主張し続けるわけですから、当然肥大化していくしかない。その意味では、官僚政治と完全に同じ方向に向かっている。前例主義を押し通しつつ財源をできるだけ多く確保しようと動くのが官僚の習性ですから、財務省は税金を増やし、厚労省は保険制度を増設しては保険料の上乗せを繰り返して肥大化し、国民負担を増やしてきたわけです。

議会、とくに地方議会は、それ自体がまさに既得権益化していますから、改革に対する最大の抵抗勢力となっている。一部の集団への利益誘導と自己保身に走り、市民全体にとっての合理的な判断を下そうとしません。ですから、私が明石市長に就任した時も、まさに明石市議会が改革に対する激しい抵抗勢力になっていったわけです。これが、多くの市民派首長が、各地で直面している現実です。

多くの市民派の首長が、役所の職員と仲良くしようとして副市長に相談し、あらゆる改革が先送りにされるのと同様に、議会と手打ちをした結果、改革が骨抜きにされがちなのは、なんとも残念なことです。

市民が味方についていることを信じて、議会には迎合せずに政策転換をしていくべきです。政策さえきちんとしていれば、議会と手打ちしなくても、役所と仲良くしなくても、改革は進めていける。私は自分の明石市長としての12年間でそれを示すことができたと思っています。

・・・国会ならば、議員は「国民の代表」とされているが、それはタテマエで、結局は諸々の集団の利害のために働く人の寄せ集め、というのが現実なのだろう。それでもかつてのように経済成長が自明の時代ならば、成長の果実を分配するために議会は充分機能していたと思われるが、成長の果実が限られてくると、分配を減らすべきところは減らすなど、優先順位を決めなければいけないのに、既得権益を主張されて、なかなか決まらない状態、すなわち議会の機能不全状態に陥りやすいのだろう。とにかく議会も役所も、自分たちの集団の利益を守ろうと動くわけだから、市民派市長には胆力がいるなあ!とつくづく思う。今はSNSはじめネットというツールもあるのだから、サイレントマジョリティの市民も、市長を応援する声を行政に届けないといかんな。

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2024年8月17日 (土)

ルソーの視点で議会を考える

泉房穂元明石市長は、政治学者ルソーを敬愛しているという。新刊『さらば!忖度社会』(宝島社)から、以下にメモする。

私の敬愛する政治学者ルソーは、はるか昔から議会の欺瞞性を鋭く見抜いていました。議会の議員たちは、「社会一般の普遍的正しさ」つまり「一般意志」の代弁者ではない、というのがルソーの考えです。彼らは、自分を選挙で選んでくれた業界や地域を代表しているに過ぎない、と。つまり、国民全体の代表者ではなくて、個別利益の集合体、個別の欲望である「特殊意志」の集合体としての「全体意志」が議会であって、これは社会全体の人々の「一般意志」とはまったく別のものであるとルソーは看破していました。

実際、労働組合、宗教団体、地域、企業の集合体など、それぞれのノイジーマイノリティから送り込まれた議員たちで構成された議会において、多数決によって物事を決めようとしたところで、自分を支持してくれた集団の利益を守る方向に進んでいくに決まっています。

そんな「特殊意志」の集合体に過ぎない「全体意志」に、社会全体のための合理的な判断など期待できるはずもないのです。

一方で、ルソーが理想としたのは議会制民主主義、つまり間接民主主義ではなく、直接民主主義でした。市民が直接首長を選び、首長が権限を行使することで、市民全体にとって共通の利益となること、つまり一般意志が政治に反映されやすくなると考えた。あるいは、大きな方針を決定するには住民投票・国民投票を行う。そうやって直接的に市民が決めていくことで、個別の既得権益に左右されない合理的な一般意志が確立されるのだというルソーの考えに、私は大きく影響を受けています。

何が言いたいかというと、議会制民主主義と直接民主主義、どちらが正しいのか、ということではなく、両方にそれぞれのよさと限界があるのだということ。かつ、議会の果たすべき役割は時代とともに変化しているということです。

・・・民主主義の現状を認識するために、意外と「ルソー」というのは使えるんだなと思った。(苦笑)

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2024年8月15日 (木)

終戦という「ガラガラポン」

世間とズレちゃうのはしょうがない』(PHP文庫)は、養老孟司と伊集院静、親子ほど年の違う二人の対談本。「戦争経験」について語る部分をメモする。

養老:僕は小学生のときに、ガラガラポンをやらされたから。
伊集院:え? それはどういう・・・。
養老:終戦ですよ。それまでは「一億玉砕」「本土決戦」と言われていたのが、戦争が終わったらとたんに「ポン」となくなってしまって、「平和憲法」「マッカーサー万歳」の世の中になってしまった。
伊集院:僕、そのことを前から思っていたんです。自分の親たちの世代にちょっと敵わないなと思うのは、彼らが戦争を経験しているからなんです。親父に「戦争が終わったとき、うれしかったの?」と聞いたら「うれしくなかったことはないんだけど、うれしいとかいう感情じゃなくて、もっとすごいことなんだ」と言うんです。そのとき言われたのは、「おまえ、今まで習ってきた教科書が全部ウソだと言われたらどう思う?」。
養老:そうです。ウソだと言われる以上に、自分で墨をすって、教科書の戦争に関係あるところを全部黒く塗らされたわけだからね。みんなで声を揃えて何度も読んだところですよ。だから理屈じゃないんだよね。感覚ですよ。肉体感覚。
伊集院:そのガラガラポン体験が生きているから、先生には「何かしらそういうことは起こるよ」という覚悟があるんですね。

養老:僕の同世代でも、終戦を迎えた年度にちょっとしたズレがあるだけで感覚はかなり違いますけどね。
伊集院:戦争のガラガラポンの話、もっと聞きたいですね。なんだろう、すごく興味があって、戦争が悲惨だったことは分かるんです。でも「悲惨だった」だけだと、全然実感が湧かない。僕らは「みんなは反対だった戦争を一部の間違った人が始めて、罪のない人が死にました」とか「愚かな大人が起こした戦争が終わって、子どもたちは全員喜びました」とか聞かされるんです。それだと、正しいことが変わった戸惑いとか、微妙なニュアンスとかがよく分からないんですよ。
養老:当時は子どもだから、あまり言葉に出してはしゃべらないよ。でも大人の世界を見ていると、竹やり訓練をやったりバケツリレーをやったりしていた。いくらなんでも若干疑うよ、子ども心にも「これ本気かな」と。頭の上を飛ぶB29が落とした焼夷弾を見ていて、「あれをバケツで消せるのかよ」と思うよね。

・・・昭和ひと桁世代を親に持つ小生も、伊集院氏と同じ感覚を持っている。養老先生は昭和12年生まれなので、戦争の記憶がある世代としては、ほぼ下限という感じがするが、とにかく戦争の終わった後で、世の中の価値観ががらっと変わったという経験を持っている世代であるのは間違いない。自分は、親から戦争の話をあれこれされたという記憶はないが、その経験を前提とした価値観は自分に伝わっていたかも知れないと思う。とにかく20世紀前半を生きた人々に対しては、よくぞあの狂気の時代を生き延びましたという感じで、とても敵わないという思いがあるのは確かだ。

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2024年8月12日 (月)

幸福になるためには(山崎元)

経済評論家・山崎元氏の「遺作」である『がんになってわかったお金と人生の本質』(朝日新聞出版社)の第5章(お金より大事なものにどうやって気づくか)から、以下にメモする。

一般に、自分の行動を自分で決めることができる「自己決定性」は幸福を増進するとされる。

お金があれば自由の範囲が拡大する。例えば、個人でもお金があれば、宇宙旅行を体験できるような世の中になった。しかし、人は、宇宙旅行に行った自分を他人に感心して承認して貰いたい生き物でもある。端的に言って、人間は、自分に関して他人による承認を得たことを実感して「幸せ」を感じる。いくらお金があって自由の範囲が広くても、友達も恋人もいないような人生では面白くないし、幸せを実感することが難しい。

必ずしも異性関係の「モテる・モテない」ではなくもう少し広い人間関係を指すことにするが、「モテる」人は幸せだし、「モテない」人は不幸せだ。「お金」、「自由」の外に、「人間関係」の要素が幸福には影響するということだ。

人気(≒モテ)には、たぶん稼ぐ能力と同じかそれ以上に、元々の資質の個人差が大きいだろうが、「人柄を良くする」などの努力で改善ができない訳ではない。

「幸福」を構成するのが「自由」と「人気」だとして、「お金」は両者を手に入れるに当たってポジティブな影響力を持つ要素だ。加えて、お金を得る近道についても考えると、他人に好かれること(人気者になること)が、直接的な幸福感の獲得にも、お金を通じた間接的な幸福感の獲得にも有効であるようだ。

「幸せになるには、他人に好かれるような人になるのが近道だ」という平凡な結論が出た。

・・・承認願望が満たされる機会が多いという意味では、モテる人は「幸せだ」といえるのかもしれない。しかし、山崎氏も指摘するように、「モテ」は個人的資質の差が大きい。また、そうであればモテるための個人的努力にも、自ずと限界があるということになるだろう。

自分は最近、人と何か共有できたと感じられれば、それが幸福(感)というものではないだろうかと考えるようになった。だから、幸せとは、何か人生の目標とするような究極の状態ではなく、日々の生活の中で感じられれば、それでよいものなのだろうと思う。

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2024年8月11日 (日)

経済評論家という仕事(山崎元)

経済評論家・山崎元氏の「遺作」である『がんになってわかったお金と人生の本質』(朝日新聞出版社)の第5章(お金より大事なものにどうやって気づくか)から、以下にメモする。

「経済評論家」を自称し始めて約20年になる。金融機関のエコノミストやアナリスト職ではないし、学者でも、作家でもない。発言内容に幅を持たせることができるのでこれが無難だと思った。だが、大いに満足だったわけでもない。

世間的に、「評論家」という言葉はイメージが良くない。「あの人は評論家だ」という評は、言葉だけで行動しない人や発言に重みのない人に与えられる。その通りなのだ。評論家が提供するのは「論」だけだ。正しくて、他人が気づきにくかったり、言いにくかったりする「論」を、なるべくスピーディーに、できればチャーミングな辛辣さと共に伝えられたら、それでいいではないか。

ただ、正直に言って職業的なコンプレックスが全くないわけではない。評論家は、政治家、経営者、作家などが、世の中に変化をもたらしてくれないと論じる対象がない。職業的に、二次的、副次的存在であることが否めない。自分で世界を作れる作家は評論家より偉いのではないかと、何となく思う。

職業に貴賎はない!と力むのは正しいが、自分の職業に多少のコンプレックスを持つのも悪いことではない。コンプレックスは、その人の人格が持つ固有の影だ。多少の陰影がある方が人間は味わいがある。職業に対する誇りは、こっそり持てばいい。「経済評論家」は私にとってそんな仕事だ。

・・・確かに「評論家」というのは口先だけの職業、当事者でなく外野から文句を言うだけの職業みたいな感じもある。つまり、何となく存在価値の疑われるような職業ではある。とはいえ、じゃあ学者や専門家だけが世の中に向けて発言していればいいのかというと、そういうものでもないし。やはり世の中で次から次へと起こる出来事について、何かしらの意味付け、価値判断というものは必要なので、そういう意見が多くの人の参考になり役立つならば、評論家の存在価値はあると言える。要するに、存在価値のある評論家であればいいわけだ(そういう評論家になるのは、なかなか大変だと思うけど)。新NISAにおける「オルカン」投信人気に一役買っていることから見ても、山崎氏は存在価値のある評論家だったのは間違いない。

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2024年8月10日 (土)

山崎元の「私の行動原則」

今年初めに亡くなった経済評論家・山崎元氏。その遺稿集とも言える『がんになってわかったお金と人生の本質』(朝日新聞出版)の第5章(お金より大事なものにどうやって気づくか)から、以下にメモする。

人の幸福感の99%以上は「(自分が)承認されている」という感覚でできている。私の場合は、自分で正しいと思うことを面白く多くの人に伝えて、感心されたり、自己満足したりしたいのだろう。

私のミッション・ステートメントは以下の通りだ。(1)正しくて、(2)できれば面白いことを、(3)たくさんの人に伝えたい。

私の場合、わざわざ他人に伝える価値があると思える正しいことは、主に資産運用の問題であり、時に経済・社会についてのあれこれだ。そして、自分の意見・発見・考案などを、できるなら論敵も苦笑いするような面白い形で伝えたい。皮肉なユーモアと共にズバリと正鵠を射ることができたら嬉しい。目標は「上機嫌なショーペンハウアー」である。

私がお金について言いたいことは非常にシンプルだ。それは、お金に感情を振り回されず、冷静に向かい合って欲しいということである。経済評論家をしながらも、お金の増やし方の細かなノウハウを提供していたわけではない。どちらかというと、金融商品の運用の仕組みを分析して落とし穴を分析したり、手数料が無料の証券会社のからくりを見破ったり、そういうことを面白がって評論家商売をしてきた。

「善意の愉快犯」でありたいというのが、私の経済評論家としての願いだ。その使命は、甘い言葉で個人にアドバイスをして、不要な商品を売りつけようとする輩の商売を邪魔することである。

・・・「善意の愉快犯」であろうとする「上機嫌なショーペンハウアー」。なかなかファニーな感じ。「上機嫌」という言葉は、山崎氏が母から、いつも機嫌よくせよとゲーテも言ってるよ、と示唆されたことに由来するらしい。その母は、山崎氏の亡くなる一週間前に急逝されたとのこと。山崎氏は、もちろん悲しいのだが、唯一ポジティブな側面は、親子の死の逆順が回避されたこと、と記している。何だか切ない。

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2024年8月 9日 (金)

なぜ人は本を読むのか

雑誌「プレジデント」(8/30号)の特集は、「どんどん本が読めるようになる」。巻頭対談(社会学者の古市憲寿×書評家の三宅香帆)からメモする。

古市:本は最初から最後まで読まなくちゃいけないと思い込んでいる人は多いですが、ぜんぶ読む必要はまったくない。本も検索と同じで、必要なところだけ目を通せば十分です。知りたいこと以外が書かれているページは飛ばしても構いません。どうしても本を読まなくちゃいけないとき、僕は本しか読めない環境に強制的に身を置くようにしています。最近は通信環境がよくなってネットのつながらない場所がほぼなくなってしまいましたが、今もどうしても本を読む必要があるときは、新幹線に乗るようにしています。

三宅:調べるだけならネット検索やChatGPTでもそれなりの情報が手に入ります。それでも古市さんが今、本を読む理由って何ですか。
古市:著者なりの見方に触れられることが今も本を読む最大の理由です。僕が読みたいのは、著者なりの解釈や切り口がある本です。例えば三宅さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』も、読書と労働の歴史を概観しているだけでなく、三宅さんなりの視点で貫かれています。
三宅:学術的な論文と批評の違いがあるのかもしれません。批評は自分の解釈であり、読み手に視点を与えることが目的。私は批評をやっているつもりなので、私の本を「著者の視点がある」と評価してもらえるのはうれしいです。

三宅:私の場合、ある情報を知りたいというより、「この人の意見を聞いてみたい」「この人は雰囲気が合いそうだ」と作家に注目して本を選ぶことが多い。本のほうが、書いた人の考えが入ってきやすい気がします。本を読むと、作者が別の価値観を提示してくれて、自分の価値観が影響を受けたりする。いい本は良くも悪くも自分の価値観を揺るがせる。そこに読書の一番の魅力があるのではないでしょうか。

・・・人は単に知識や情報を求めているのではない。人が本を読むということは、知識や情報を使いこなす解釈や視点や価値観を求めていることを示している、ように思われる。

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2024年7月15日 (月)

今もリアルな梅棹文明論

教養としての文明論』(ビジネス社)は、呉座勇一と與那覇潤、二人の歴史研究者が、「文明論」の古典と呼ぶべき書物について語り合う対談本。梅棹忠夫『文明の生態史観』(単行本の刊行は1967年)を取り上げた第1章からメモする。

與那覇:梅棹さんの文明論の内実を見てゆくと、日本とヨーロッパからなる「第一地域」が(ユーラシアの)東西の両端にあり、これは中世期に封建制が成立した点で共通すると。一方その両者に挟まる「第二地域」、つまりはユーラシア大陸ですが、こちらは分権的な封建制ではなく巨大帝国が成立する点が特徴である。そうした帝国ができる範囲として、「中国・インド・ロシア・地中海(イスラム)」の四区分に分かれるのだけど、しかしいずれも大陸の中心部から遊牧民の侵攻を受けることで、定期的に王朝が転覆され、すべてがリセットになる。

呉座:梅棹によれば、帝国が基本形態だった「第二地域」は、自由民主主義的な近代化には向いていない。執筆当時は冷戦下だったわけですが、東側で行われている社会主義は「資本主義の矛盾を解消した体制」ではなく、スターリンや毛沢東のような「皇帝的な指導者による専制体制」になっている。冷戦後には一瞬ロシアも民主化するかと思われたけど、やっぱりそれは無理で、これからプーチンは習近平と一体化すると。そうした中露(第二地域)の「反・民主主義陣営」がユーラシアを覆ってしまう事態を防ぐには、日本とヨーロッパ(第一地域)が「民主主義陣営」として結束することが大事で、第二地域のうちインドや中東諸国をどう味方に引き込むかが鍵を握ると。

與那覇:冷戦下では、中東のアラブ諸国はソ連に寄っていったので、梅棹さんとしては、イスラムの伝統はもう要らないよねと。これは予想が外れて、むしろ共産主義は冷戦の終焉とともに滅び、イスラムの方が残りました。

呉座:中東は第一地域的な「自由民主主義のコースには乗らない」という点では、梅棹は言い当てていたと思います。インドも、最近はかなり権威主義に近づいていますよね。サミュエル・ハンチントンが書いた『文明の衝突』って、日本では嫌われてきたわけです。そこには冷戦終焉後の、自ずと世界は自由民主主義に収斂してゆくとする期待があったのですが、しかしいまリアリティを持つのは、梅棹やハンチントンの方ですよね。

・・・呉座先生は、梅棹文明論は「アジアで日本だけが近代化できたのはなぜか」という議論として受けとられた、と指摘している。確かに、1970年代に始まった先進国会議(サミット)に、日本は非西欧国として参加したということもあり、当時は梅棹文明論含めて、日本論、日本人論が結構流行った覚えがある。

1980年代末の冷戦終焉時には、社会主義が敗北し、自由な民主主義の勝利で決着したという意味で「歴史の終わり」が語られた。しかし、その後30年が過ぎて、アラブもロシアも民主化することはなく、中国も共産党支配が続いている。結局、梅棹文明論は今も有効性を保ち続けている。

最近ではNHKのEテレ番組で、ユーラシア大陸を中心にした世界史の話(岡本隆司先生)をやっていたが、これも基本的に梅棹文明地図を下敷きにしていた。梅棹文明論は、全く古くなっていない。

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2024年7月14日 (日)

「だめ連」の反資本主義

元「日本一有名なニート」のphaさんは、大学時代に「だめ連」の影響を受けたという。その「だめ連」の本が、今年初めに出ていたことを知って、驚いた。『だめ連の資本主義よりたのしく生きる』(神長恒一、ペペ長谷川の共著、現代書館)が、その本。1992年に、神長とペペの両氏が結成した「だめ連」は、なるべく働かないで、様々な人たちと「交流」する生き方を実行する。しかし30年もよく続いてきたなあ。でも創始者の一人、ペペさんは一年前にお亡くなりになっている。本の内容は概ね、神長とペペ、両氏の対談で「だめ連」の活動を振り返るというもの。「勝ち組でも負け組でもない、抜け組になる」という神長氏の主張を、以下にメモする。

全部が経済的に生産性があるかどうかというところで測られちゃって、役に立たないやつはだめ人間だみたいになってきちゃって。とてもじゃないけど、やってらんない。

そもそもなんのために生きているのかね。忘我とか、自由とか、歓喜とか、遊びとか、そういうのが重要なんだよね。生産性ばっかりで生きていてもしょうがねえじゃねえかって。だったら、だめ人間でけっこう。

苦労して働いても金は入らないし、たいして幸せにもならないみたいな。格差が拡大してきて、資本主義をちゃんとやっていれば幸せになりますよ、というのも崩壊してきている。

普通に働くっていったって、すごくハードル高い。普通に社会に適応するにはいろんなことを我慢して統合しまくって、なんのために生きてるのかわかんないくらい。そもそも金銭的にだけじゃなく、生きるよろこびそのものが搾取されているわけですよね。そうやって生きている。

文句を言って闘っていくというのがすごく重要でしょ。ふざけんな、と。それと同時に降りるということだよね。資本主義的な生き方を降りる。どっちも重要。日本の場合とくに、文句を言って闘うというのが少ない。

だめ連も基本的にはオルタナティブ・ライフというか、「降りる系」というのが1990年代には珍しくて注目されたわけだけど、2000年頃からは降りる系の人たちも各所で増えてきている。降りて新しい生き方を作ってきている。でも、それと同時に闘うという路線が重要だよね。

・・・もう40年も前の話ですが、自分も学校を出てから就職しないまま2年近く過ごして、結局、行き詰って会社員になりました。その約10年後に出現した「だめ連」を興味深く見ていたわけです。その時は、とにかく働かない生き方を追求しているのだと思ってました。でも、この本を読むと、資本主義を否定するみたいな話が意外と多くて、そこはむしろ観念的な印象がありました。

既に会社員引退間近の歳になっている自分から見ると、いきなり働かない生き方を追求するよりも、とりあえず働きつつ、何とかやっていけそうな働き方を目指ざすのが現実的かなという感じがしています。

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2024年7月13日 (土)

「ウェブ2.0」のまぼろし

パーティーが終わって、中年が始まる』(幻冬舎)の著者であるphaさんは、京大卒の元「日本一有名なニート」。1978年生まれのphaさんが本書の中で語る、「ウェブ2.0と青春」からメモする。

ウェブの空気感の変化というか時代の変化というか、自分の中でひとつの時代が終わったのだ、という感慨がある。一体何が終わったのだろうか。それは、二十年近く前に「ウェブ2.0」という概念がもてはやされた頃に自分に刻み込まれた、「ウェブを利用してよりよい自分やよりよい世界を目指していくべきだ」という思想だ。

(ウェブ2.0が流行した頃、)とにかく、ここから新しいものが始まっていく、これからどんどん人類の社会は進化していく、という希望に満ちた雰囲気があったのだ。僕自身も、その雰囲気に大きく影響を受けた一人だった。会社を辞めて上京したのも、インターネットでいろんな人とつながって、インターネットにすべてを発信していればなんとかなる、と思っていたからだった。

ネット以前の人間は、会社や家庭などの限られた数の人間としか交流を持てなかった。でも今のわれわれは違う。ネットを使うことで、数千、数万の人間とつながることができる。ネットにつながり続けることで、どんどん自分が拡張していって、どこまでも行けるような気がしていた。

その後、ゼロ年代の後半にツイッターとスマホが普及し、情報の発信はますます誰でもできる手軽なものになっていく。一部の新しいもの好きだけが使うインターネットから、誰もが使うインターネットへ。

それから十数年が経った。当時よりさらにテクノロジーは進んで、ネットは便利になった。しかし、今のネットはいつも争いや炎上があふれていて、とても疲れる場所になってしまった。

結局、ウェブ2.0が描いていた理想というのは、性善説に基づいていたということなのだろう。ネットが一般化して、ユーザーが大衆化した結果、現実世界と同じように、善意だけでは秩序を守れなくなった。

・・・phaさんは、人と深い関係を結ぶことが苦手で、大切なのは一人で気ままに生きていくことだと言う。この気分は小生と同じだ。でも、phaさんはシェアハウスを経営して、インターネットで知り合った仲間と30代まで楽しくやってきた。これは小生とは全く違うところだ。小生は、ゆるい関係の仲間を作るのすら、ダルいという感じがする(苦笑)。phaさんはウェブ2.0と自らの青春を重ね合わせて、そこに無限の可能性を見ていたようだ。ここは世代の違いを強く感じるところだ。インターネットの可能性を現実化する手段の一つが、シェアハウスだったのかもしれない。

40代半ばになったphaさんは、30代後半が人生のピークだったと感じており、今は自分の衰退をじっくり味わってみたい気分のようである。確かに、衰退を味わうのも人生であるとは思う。

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