2019年4月 9日 (火)

「トラスト」経営が重要に

本日付日経新聞オピニオン面コラム記事(「トラスト」欠いたゴーン氏)からメモする。

米人事コンサルティング会社のコーン・フェリーが最近、世界の経営者や管理職など約15万人を分析して選んだ「これからのグローバル経営者に求められる5つのキーワード」は、「アンティシペート(変化に俊敏に対応する)」「ドライブ(他者に活力を与えてものごとを進める)」「アクセラレート(アイデアを素早く実行する)」「パートナー(他者と協力し、アイデアを交換する)」「トラスト(多様な力を結合する)」だ。

トラストというと、一般的には「信用」「信頼」などの意味を思い浮かべがちだ。だが、欧米企業では最近、「多様性を認める」「人と人を結合する」などと発展的に解釈するようになっているという。より具体的に言い換えるなら、「国籍や性別、年齢に関係なく、励まし合いつつ、ものごとを成就する」「日本人、フランス人という単一的な集団ではなく、多様な層の間で信頼のネットワークを築く」状態だ。

「格差が広がり、破壊的技術が産業や社会を大きく変える時代だからこそ、あらゆる層の人々を結合する力がリーダーには求められる」(米投資ファンド、コールバーグ・クラビス・ロバーツ(KKR)の創業者、ヘンリー・クラビス氏)。

新結合とも訳されるイノベーションの現場を例に引けば、それが起きなくなった組織には、「とてつもないことを考える人材がいなくなった」のではない。組織をもり立て、様々な層の人材を結合できるリーダーが不足しているのだ。経営者に求められるのは必ずしも一人で引っ張るカリスマ性ではないだろう。むしろ、人にささげることに徹する「サーバントシップ(同伴者精神)」こそ、これから求められる経営者像ではないか。

・・・日産自動車の危機的状況において求められたのが、カリスマ経営者カルロス・ゴーンだった。ということは、日産の業績が急回復を果たしたとっくの昔に、ゴーン氏の役割は実質的に終わっていたと言えるだろう。その後は後継者が見出せないまま、ゴーン氏が惰性でトップを続けていたという印象がある。今後は特に日産に限らず、多様な人材を結合できる企業経営者の登場が期待される。このタイプのリーダーは企業だけでなく、昨今様々な「分断」が取り沙汰される状況にある国家のトップにも求められるものだろう。

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2019年2月23日 (土)

「文系」の危機

国公立大学を中心に、人文社会系の学部などで再編の動きが進んでいる。背景には「文系の学問は役に立たない」との見方があるようだ。危機に瀕する「文系」の在り方について、2月20日付日経新聞記事「文系学部存続の道」(社会学者・竹内洋氏へのインタビュー記事)から、以下にメモする。

「(文系が役に立たないというのは)本当にそうなのか。ぜんぜんはっきりしていない。だれに、どう役立っているのか、いないのか。客観的な根拠や証拠も示していない」
「理系では応用分野などですぐに役立つものが多いから、脚光を浴びやすい。文系の学問は、役に立たないのに批判ばかりしているといわれやすいところがあるんです」
「それに、あまりにも専門家のための学問になっている。悪い例ですが、タコつぼ的な研究が横行している」
「時代の変化、社会の要請を受けて、大学の教育は変わろうとしているが、学会の変化は鈍い」
「最近の研究者には、一般書など普通の人にも分かるものを書こうとする学者が増えている。学会が変わり、学問がより社会に開かれるきっかけになるのではと期待しています」

・・・思うに、理系でも技術工学系はともかく、理学系は「役に立たない」感が結構ある。一方、文系でも法学や経済学など実学系は、まあまあ必要性を認められているようではある。とはいえ、総じて文系の旗色が悪いのは否めない。その中でも特に人文系(文学、哲学、心理学、歴史学、社会学等々)は「要らない」感が強まっているようだ。このような大学教育における人文系の縮小、実学系重視の方向性は、当然ながら世の中のトレンド、経済効率一辺倒の動きを反映していると言ってよいのだろう。

ところがその一方では、ビジネス分野で「リベラル・アーツ」の復権が唱えられたりするものだから、どうも話はややこしい。例えば「仕事に効く世界史」「エリートが学ぶ美術史」という具合に提示されるとか。そんなこんなで、このところの文系を巡る評価は、妙にねじれた様相を呈している感がある。

どっちにしても、文系が仕事に(直接)役立つわけはないのは明らかなのだから、むしろ効率重視の世知辛い世の中でも、役に立たないものを学ぶという余裕や遊びは欲しいものだな、と思ったりする。

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2019年2月 1日 (金)

年金受給75歳選択のまやかし

厚生労働省は、年金受給開始年齢の大幅延長及び増額を選択肢として提示すれば、年金受給を繰り下げる人が増えると思っているらしい。が・・・本日付日経新聞市況面コラム「大機小機」(75歳年金選択は改革にあらず)からメモする。

厚生労働省は年金の受給開始年齢の75歳への繰り下げの検討を始めた。これで毎月の年金額は65歳開始時に比べて2倍程度となるという。しかし、これは年金財政の改善には何ら結びつかない。年金の繰り下げ受給は、加入者が平均寿命までにもらう年金総額には影響しないからだ。

高齢者就業を促進するという効果も疑わしい。現行の65歳以降の繰り下げ受給の利用者は1%にすぎない。保険料を長年支払った年金を受け取らずに死ねば大損というのが人情であり、70歳以上ではなおさらだ。さらにこの対象の高齢者は保険料免除であり、年金財政にも貢献しない。

日本の年金の給付水準が国際的に見て低いというが、給付期間の長さは極端に長い。厚生年金(男性)の支給は、2025年に65歳に引き上げられるが、平均寿命の80歳まで15年間も年金を受け取れる。他の先進国では、日本よりも平均寿命が短く、支給開始年齢が67~68歳のため、平均10年間である。
他の先進国並みの受給期間とするため、70歳支給の検討を速やかに始めるべきだ。

70歳まで年金がもらえなければ大変というが、諸外国でも法定の年金支給年齢まで働き続ける人は少ない。おのおのの事情に応じて、早期に減額された年金を受け取り、引退生活に入るのが普通である。年金はあくまでも「長生きのリスク」に対する保険である。収支の均衡を基準とした法定の支給開始年齢の下で、各自が自分の引退時期を決められる、弾力的な仕組みとするべきである。

・・・年金財政を持続可能にするためには、年金支給年齢の引き上げは必至。仮に年金支給開始を70歳と定めれば、70歳まで働き続ける人と、早めにリタイアして減額された年金の繰り上げ受給を望む人と、二極化すると思われる。とにかく、リタイア年齢は自分で決める時代に入っている、ということだ。

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2018年7月13日 (金)

「無断キャンセル」の罪深さ

昨今、飲食店の予約を無断でキャンセルする不埒な輩が多いらしい――日経新聞電子版11日発信の記事からメモする。

「無断キャンセルは経済的だけでなく、精神的なダメージも大きいんです」。東京・銀座の雑居ビルで小料理店を営む女将(40)はこう話し、「本当にやめてほしい」と訴える。カウンターとテーブルあわせて計30席。無断キャンセルがあれば空席が目立ってしまう。同店では早朝に市場で魚介類などの食材を仕入れ、昼から仕込みを始める。無断キャンセルはこうした作業や食材を無駄にする。予約を断った客への「申し訳なさもある」。

売り上げの減少、食材の廃棄、従業員の士気低下――。飲食店にとって深刻な問題の無断キャンセルは、姿を現さないとの意味から英語では「NO SHOW(ノーショー)」と呼ばれている。ある飲食店関係者は「近年、インターネットで予約するケースが増えたことが、ノーショー拡大の要因だ」と分析する。簡単に予約できる分、心理的抵抗が薄れているとの見方だ。

飲食店に予約台帳サービスを提供するトレタ(東京・品川)の調査が、実態を浮き彫りにしている。13年12月~17年8月の約2200万件の予約データを調べたところ、無断キャンセルは1%弱を占めた。100件のうち1件が「無断」にあたる計算だ。

17年10月に約8万の飲食業者などが加盟する「全国飲食業生活衛生同業組合連合会」(東京・港)や大学教授、弁護士などが集まって無断キャンセルへの対応策を考える勉強会が設立され、キャンセル対応の自主ルールの検討に乗り出した。経済産業省もオブザーバーの位置づけで参加する。

経産省によると、国内の飲食店の無断キャンセルによる損失は総売上高の1%程度の年約2000億円と推計されている。担当者は「決して小さい金額ではない」(サービス政策課)とみる。多額の経済的ダメージ、店側の悲痛な思い――。損害賠償リスクを含めて、無断キャンセルが決して小さな問題でないことを客の側も心に留める必要がありそうだ。

・・・全くもって不道徳というか反社会的というか。経済的損失も小さくない「無断キャンセル」は、相当罪深い行いであるというほかない。

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2018年7月 6日 (金)

東芝の決算に監査意見が2つ

東芝の2つの決算書(2018年3月期)で異なる監査意見が開示されている。株主総会の招集通知に添付する計算書類では「無限定適正」であるのに対し、有価証券報告書では「限定付き適正」なのだ。どうしてこうなったのか。本日付日経新聞記事(東芝の監査意見、異なる開示)から以下にメモする。

東芝の監査では、2017年3月期にPwCあらた監査法人と米原発事業の損失を巡る意見が対立。最終的に、あらたが米原発事業の損失問題を除けば決算は適切という「限定付き適正」を東芝に出す異例の展開になった。一連の会計問題は前の期で一段落したはずなのに、18年3月期の有報でも「限定付き」が出たことで、株式市場でも戸惑いが広がった。

今回、有報の監査意見が限定付き適正だったのは、有報は2期分の決算を記載しており、前の期との比較可能性が重要になるためだ。18年3月期の決算に問題がなくても、「比較対象となる17年3月期が限定付きで全てが正しいとは言えないため、18年3月期の監査意見が限定付きとなる」(大手監査法人)。

一方、株主総会の招集通知に添付している計算書類(決算)には18年3月期は「すべての重要な点が適正に表示している(=無限定適正)」と記載し、限定付きとは書いていない。計算書類は1期分の決算だけ記載しているためで、ここでは有報のように17年3月期との比較可能性は問題にならないというわけだ。

どちらも大事な法定開示なのに形式が異なるのは、有報は金融庁所管の金融商品取引法、計算書類は法務省所管の会社法と、それぞれ別の法律に基づいているからだ。

大和総研の吉井一洋氏は「投資家にとって2つの法定開示が存在するメリットはない。混乱を招かないためにも、有報と計算書類をどう位置づけるのかは今後の大きな課題」と話している。

・・・確かに何で決算書は2種類あるんだろう。決算書はどっちかに、ていうか有報に一本化して欲しいね。

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2018年7月 5日 (木)

サブロク協定

本日付日経新聞の「くわしくわかる働き方改革法」特集記事から、「36協定」の用語解説を以下に引用する。

▶36協定
残業や休日労働に関する労使協定。労働基準法36条に基づくため「サブロクキョウテイ」と呼ぶ。企業が法定労働時間(1日8時間・週40時間)を超えて社員を働かせるには、協定で残業の上限を定め、労働基準監督署に届け出る必要がある。だが特別条項を付ければ、年に6ヵ月までは上限を自由に設定できる。
認知度の低さも指摘される。連合の調査によると、働く人の4割超は企業が残業を命じるのに協定が必要なことを知らない。働き手の側の意識の向上も必要だ。

・・・サブロク協定、確かに自分も40歳過ぎまで知らなかった。会社で今の部署(証券会社の引受審査部)に務めてからその言葉、その意味内容を知ったという案配。なので、この記事でサブロク協定の認知度が半分程度というのを見て、まあそうなんだろうねと思った次第。働く側の意識がどうのとか書いてるが、こういう言葉は学校でみんなに教えたらいいんじゃないのかなと、単純にそう思う。

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2018年1月14日 (日)

価格と価値の謎

資本主義社会の中で、日々当たり前のように行われる商品と貨幣の交換。しかし交換が成立する根拠はというと、実はそれほど自明なものではない。NHK-BS1「欲望の資本主義2018」(1月3日放送)、チェコの経済学者トマス・セドラチェクの語る場面では、マルクスの「商品が貨幣になる命がけの跳躍」という言葉が引用されていた。以下にセドラチェクの発言をメモ。
 
◇価格は分かりやすいが、価値というのは謎だ・・・。そもそも「取り引き」というのは不思議だよね。ペンをあなたに売るとする。当然金額の同意が必要だよね。私が10で売りたいのに、あなたが9しか出さないなら成立しない。価格には正確な同意が必要だ。だがこの時、お互いが商品に見いだす価値には差がないといけない。売り手は、ペンの価値が価格より低くないと売らないよね。一方、買い手にとっては、ペンの価値が価格より高いから買うわけだよね。
 
◇お金によって、価格を比べることができるようになる。それは、順序付けることができるということだ。でも価値は・・・例えばトマトよりリンゴが「どれぐらい」好きかを測ることはできない。リンゴの方がトマトより2倍好き?4倍好き?100倍好き?
価値は主観的、価格は客観的だ。人間は「価値と価格の関係」を理解しようと、ずっともがいてきた。このダイナミクスについて、明快に答えるのは・・・困難だ。
 
◇シュンペーターは言い当てていた。「資本主義は批判を受け入れられる唯一のシステムだ」とね。この世界はどうにか機能している。でもそれがなぜ機能しているのか、実はよく分からない。資本主義はある程度までは機能するが、完璧ではないということに、いつも注意を払うべきだ。
 
・・・マルクスは交換に神秘を発見した。現代資本主義社会では、消費と貨幣の交換という「命がけの跳躍」はもちろん、貨幣と貨幣(通貨同士、貨幣と金融商品など)の交換という「命がけの跳躍」も、いつでもどこでも大量に当たり前のように行われている。その中で、我々は儲かった損したと一喜一憂しているわけで、考えてみると不思議だな。

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2017年7月15日 (土)

名古屋は都会とはいえない

名古屋は都会とはいえない、ということを名古屋出身の作家、清水義範が『日本の異界 名古屋』(ベスト新書)の中で語っているので、以下にメモする。
 
名古屋市の人口は229万6千人で、日本で4番目の大都市だ。人口200万人以上なのだもの、文句のつけようがない大都市である。
なのに、どうしたわけか名古屋には都会性が感じられないことを、くやしいが私も認めるのである。
都会的であるということは、あらゆる価値観を受け入れられて、それを認めるということである。そういう間口の広さが、都会の特徴なのだ。
なのに、名古屋はほかに対して扉が閉ざされており、自分たちだけで世界を作って他者を受け入れようとしない。仲間だけで生きているのでは都会人だとは言えないわけである。
都会性はそこに住む人の意識の問題なのである。ツレが店を紹介してくれたで安く買えて得したわ、の世界にどっぷりとつかっている限り、名古屋は都会にはならない。
名古屋に対して、大いなる田舎、という悪口を投げかける人がいる。それは名古屋人の意識のあり方のことを言っているのである。そして、名古屋人は確かに大いなる田舎的な意識で生きているのだ。
私はもう、それでいいじゃないかと考えている。逆に、そのどこが悪いのだ、と言い返したくなるほどだ。
名古屋人は、洗練されていないのである。とにかく功利的で、得か損かを第一に考え、得しちゃうことを何より喜ぶという人たちが、洗練されているはずがないのである。
ただ、洗練はされていないが、名古屋には生きやすさがある。洗練されているということには、やせ我慢も必要なのである。実利には背を向けて、損なほうをさらりと取るといった、形の上の格好よさを選ぶことも洗練のうちである。
名古屋の人にそういう生き方はできない。できないと言うより、その反対の生き方が名古屋的なのだ。
そしてそれは、未来に向けても同じであろう。洗練よりも実利を取るのだ。そして、このほうが得だで嬉しいがね、と生きていくのである。
いいではないか。名古屋は大都市なのに、思想が都市化しないのだ。そのどこに不都合があろうか、というところである。
これから先も名古屋は田舎っぽいままで突き進んでいくのであり、それでいいのである。
人口200万人以上の田舎とは、他に類を見ないすごいことだとも言えるのである。
 
・・・都会の洗練には、名古屋は殆ど無縁である。最近は名駅周辺はお洒落になってるけど、これからも名古屋の街が全体としてお洒落になることはないだろう。というか、お洒落になったら名古屋じゃない、という感じもする。
 
ところで、「やせ我慢」とは、江戸っ子にとって最も肝心なエートスである。確かに何の得にもならないんだけどね。なので損得最優先の名古屋人の生き方は、ちょっとだけ羨ましいような。でもやっぱり抵抗感もあるというか、少々余裕のない感じもするかな。

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2017年6月27日 (火)

グローバリズムにリベラルは無力

現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』(北田暁大、栗原裕一郎、後藤和智の共著、イースト新書)は、「若者論」や「リベラル」などを切り口に、おおよそ90年代以降の人文社会分野の動きを踏まえながら、社会運動や社会批評の現状を語るという内容。グローバリズムに対するリベラル思考の破綻について、以下に栗原氏、北田氏の発言からメモする。
 
栗原:左派リベラルの論理では、グローバリズムというのは帝国による周辺国からの搾取にほかならないから、辺境国が耐えられなくなって破綻するというストーリーが描かれてきました。でもトランプ現象やブレグジットで明らかになったのは、グローバリズムに耐えられなくなったのは、途上国ではなくて、先進国の中間層だったということですよね。途上国はグローバリゼーションの恩恵を受けて潤っている。そこでも左派のロジックは破綻してしまっているんだけど、その辺に対する弁明も聞いたことがない。
 
北田:なんかグローバリズムの捉え方が、かつての帝国主義論と同じような枠組みのままで、どこかに搾取されているところがなきゃいけないことになっているけれど、実態は、かつての第三世界搾取論で搾取されていたといわれているようなところが、経済発展を遂げている。どこが疲れているかというと、実は先進国が疲れている。搾取を見出そうとすると、場合によっては搾取されているのはアメリカとか日本とかになってしまう。
 
・・・グローバリズムに対するリベラルのスタンスは無効、無力であるというほかない。グローバル経済への抵抗運動という意味では、おそらくリベラルに変わるものとして、というのも変な感じだが、ポピュリズムやナショナリズムの動きが目立つようになっている面もあるのかなと。

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2017年6月26日 (月)

社会学は経済学に勝てない

現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』(北田暁大、栗原裕一郎、後藤和智の共著、イースト新書)は、「若者論」や「リベラル」などを切り口に、おおよそ90年代以降の人文社会分野の動きを踏まえながら、社会運動や社会批評の現状を語るという内容。北田氏は特に社会学に経済学的思考が欠けていることに危機感を覚えているようだ。以下に北田氏発言からメモ。
 
60年代以降(の社会学)は、制度の比較分析で公平性、公正性が担保されているかどうかを実証的に検討する学問になった。
それはそれでよいとして、その結果、不況がもたらす社会問題等の解決については、経済学に太刀打ちができなくなってしまった。

昔だったら社会問題をどうやったら解決できるのかという、社会統合とか社会秩序の維持を目指していく学問が社会学でした。それをヘタレ呼ばわりしてきたマルクス主義者との闘いがずっとあったわけです。
今はもう敵がいないので、自分自身が文化的な西欧マルクス主義的になってきてしまっている。

少なくとも制度批判だけでは制度はよくならない。これだけの規模を持つ社会をコントロールしていく時に、経済学的な思考というのを看過していいはずがない。
 
・・・自分がいつも実感として思うのは、80年代後半のバブル、90年代のバブル崩壊の時代以降、経済的なものの見方が世界認識の基本的な方法になった、ということだ。今や経済学に比べて社会学の劣勢は覆いがたい。とりあえず社会学者も日経新聞を読んでもらいたいなと。

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