2018年7月13日 (金)

「無断キャンセル」の罪深さ

昨今、飲食店の予約を無断でキャンセルする不埒な輩が多いらしい――日経新聞電子版11日発信の記事からメモする。

「無断キャンセルは経済的だけでなく、精神的なダメージも大きいんです」。東京・銀座の雑居ビルで小料理店を営む女将(40)はこう話し、「本当にやめてほしい」と訴える。カウンターとテーブルあわせて計30席。無断キャンセルがあれば空席が目立ってしまう。同店では早朝に市場で魚介類などの食材を仕入れ、昼から仕込みを始める。無断キャンセルはこうした作業や食材を無駄にする。予約を断った客への「申し訳なさもある」。

売り上げの減少、食材の廃棄、従業員の士気低下――。飲食店にとって深刻な問題の無断キャンセルは、姿を現さないとの意味から英語では「NO SHOW(ノーショー)」と呼ばれている。ある飲食店関係者は「近年、インターネットで予約するケースが増えたことが、ノーショー拡大の要因だ」と分析する。簡単に予約できる分、心理的抵抗が薄れているとの見方だ。

飲食店に予約台帳サービスを提供するトレタ(東京・品川)の調査が、実態を浮き彫りにしている。13年12月~17年8月の約2200万件の予約データを調べたところ、無断キャンセルは1%弱を占めた。100件のうち1件が「無断」にあたる計算だ。

17年10月に約8万の飲食業者などが加盟する「全国飲食業生活衛生同業組合連合会」(東京・港)や大学教授、弁護士などが集まって無断キャンセルへの対応策を考える勉強会が設立され、キャンセル対応の自主ルールの検討に乗り出した。経済産業省もオブザーバーの位置づけで参加する。

経産省によると、国内の飲食店の無断キャンセルによる損失は総売上高の1%程度の年約2000億円と推計されている。担当者は「決して小さい金額ではない」(サービス政策課)とみる。多額の経済的ダメージ、店側の悲痛な思い――。損害賠償リスクを含めて、無断キャンセルが決して小さな問題でないことを客の側も心に留める必要がありそうだ。

・・・全くもって不道徳というか反社会的というか。経済的損失も小さくない「無断キャンセル」は、相当罪深い行いであるというほかない。

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2018年7月 6日 (金)

東芝の決算に監査意見が2つ

東芝の2つの決算書(2018年3月期)で異なる監査意見が開示されている。株主総会の招集通知に添付する計算書類では「無限定適正」であるのに対し、有価証券報告書では「限定付き適正」なのだ。どうしてこうなったのか。本日付日経新聞記事(東芝の監査意見、異なる開示)から以下にメモする。

東芝の監査では、2017年3月期にPwCあらた監査法人と米原発事業の損失を巡る意見が対立。最終的に、あらたが米原発事業の損失問題を除けば決算は適切という「限定付き適正」を東芝に出す異例の展開になった。一連の会計問題は前の期で一段落したはずなのに、18年3月期の有報でも「限定付き」が出たことで、株式市場でも戸惑いが広がった。

今回、有報の監査意見が限定付き適正だったのは、有報は2期分の決算を記載しており、前の期との比較可能性が重要になるためだ。18年3月期の決算に問題がなくても、「比較対象となる17年3月期が限定付きで全てが正しいとは言えないため、18年3月期の監査意見が限定付きとなる」(大手監査法人)。

一方、株主総会の招集通知に添付している計算書類(決算)には18年3月期は「すべての重要な点が適正に表示している(=無限定適正)」と記載し、限定付きとは書いていない。計算書類は1期分の決算だけ記載しているためで、ここでは有報のように17年3月期との比較可能性は問題にならないというわけだ。

どちらも大事な法定開示なのに形式が異なるのは、有報は金融庁所管の金融商品取引法、計算書類は法務省所管の会社法と、それぞれ別の法律に基づいているからだ。

大和総研の吉井一洋氏は「投資家にとって2つの法定開示が存在するメリットはない。混乱を招かないためにも、有報と計算書類をどう位置づけるのかは今後の大きな課題」と話している。

・・・確かに何で決算書は2種類あるんだろう。決算書はどっちかに、ていうか有報に一本化して欲しいね。

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2018年7月 5日 (木)

サブロク協定

本日付日経新聞の「くわしくわかる働き方改革法」特集記事から、「36協定」の用語解説を以下に引用する。

▶36協定
残業や休日労働に関する労使協定。労働基準法36条に基づくため「サブロクキョウテイ」と呼ぶ。企業が法定労働時間(1日8時間・週40時間)を超えて社員を働かせるには、協定で残業の上限を定め、労働基準監督署に届け出る必要がある。だが特別条項を付ければ、年に6ヵ月までは上限を自由に設定できる。
認知度の低さも指摘される。連合の調査によると、働く人の4割超は企業が残業を命じるのに協定が必要なことを知らない。働き手の側の意識の向上も必要だ。

・・・サブロク協定、確かに自分も40歳過ぎまで知らなかった。会社で今の部署(証券会社の引受審査部)に務めてからその言葉、その意味内容を知ったという案配。なので、この記事でサブロク協定の認知度が半分程度というのを見て、まあそうなんだろうねと思った次第。働く側の意識がどうのとか書いてるが、こういう言葉は学校でみんなに教えたらいいんじゃないのかなと、単純にそう思う。

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2018年1月14日 (日)

価格と価値の謎

資本主義社会の中で、日々当たり前のように行われる商品と貨幣の交換。しかし交換が成立する根拠はというと、実はそれほど自明なものではない。NHK-BS1「欲望の資本主義2018」(1月3日放送)、チェコの経済学者トマス・セドラチェクの語る場面では、マルクスの「商品が貨幣になる命がけの跳躍」という言葉が引用されていた。以下にセドラチェクの発言をメモ。
 
◇価格は分かりやすいが、価値というのは謎だ・・・。そもそも「取り引き」というのは不思議だよね。ペンをあなたに売るとする。当然金額の同意が必要だよね。私が10で売りたいのに、あなたが9しか出さないなら成立しない。価格には正確な同意が必要だ。だがこの時、お互いが商品に見いだす価値には差がないといけない。売り手は、ペンの価値が価格より低くないと売らないよね。一方、買い手にとっては、ペンの価値が価格より高いから買うわけだよね。
 
◇お金によって、価格を比べることができるようになる。それは、順序付けることができるということだ。でも価値は・・・例えばトマトよりリンゴが「どれぐらい」好きかを測ることはできない。リンゴの方がトマトより2倍好き?4倍好き?100倍好き?
価値は主観的、価格は客観的だ。人間は「価値と価格の関係」を理解しようと、ずっともがいてきた。このダイナミクスについて、明快に答えるのは・・・困難だ。
 
◇シュンペーターは言い当てていた。「資本主義は批判を受け入れられる唯一のシステムだ」とね。この世界はどうにか機能している。でもそれがなぜ機能しているのか、実はよく分からない。資本主義はある程度までは機能するが、完璧ではないということに、いつも注意を払うべきだ。
 
・・・マルクスは交換に神秘を発見した。現代資本主義社会では、消費と貨幣の交換という「命がけの跳躍」はもちろん、貨幣と貨幣(通貨同士、貨幣と金融商品など)の交換という「命がけの跳躍」も、いつでもどこでも大量に当たり前のように行われている。その中で、我々は儲かった損したと一喜一憂しているわけで、考えてみると不思議だな。

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2017年7月15日 (土)

名古屋は都会とはいえない

名古屋は都会とはいえない、ということを名古屋出身の作家、清水義範が『日本の異界 名古屋』(ベスト新書)の中で語っているので、以下にメモする。
 
名古屋市の人口は229万6千人で、日本で4番目の大都市だ。人口200万人以上なのだもの、文句のつけようがない大都市である。
なのに、どうしたわけか名古屋には都会性が感じられないことを、くやしいが私も認めるのである。
都会的であるということは、あらゆる価値観を受け入れられて、それを認めるということである。そういう間口の広さが、都会の特徴なのだ。
なのに、名古屋はほかに対して扉が閉ざされており、自分たちだけで世界を作って他者を受け入れようとしない。仲間だけで生きているのでは都会人だとは言えないわけである。
都会性はそこに住む人の意識の問題なのである。ツレが店を紹介してくれたで安く買えて得したわ、の世界にどっぷりとつかっている限り、名古屋は都会にはならない。
名古屋に対して、大いなる田舎、という悪口を投げかける人がいる。それは名古屋人の意識のあり方のことを言っているのである。そして、名古屋人は確かに大いなる田舎的な意識で生きているのだ。
私はもう、それでいいじゃないかと考えている。逆に、そのどこが悪いのだ、と言い返したくなるほどだ。
名古屋人は、洗練されていないのである。とにかく功利的で、得か損かを第一に考え、得しちゃうことを何より喜ぶという人たちが、洗練されているはずがないのである。
ただ、洗練はされていないが、名古屋には生きやすさがある。洗練されているということには、やせ我慢も必要なのである。実利には背を向けて、損なほうをさらりと取るといった、形の上の格好よさを選ぶことも洗練のうちである。
名古屋の人にそういう生き方はできない。できないと言うより、その反対の生き方が名古屋的なのだ。
そしてそれは、未来に向けても同じであろう。洗練よりも実利を取るのだ。そして、このほうが得だで嬉しいがね、と生きていくのである。
いいではないか。名古屋は大都市なのに、思想が都市化しないのだ。そのどこに不都合があろうか、というところである。
これから先も名古屋は田舎っぽいままで突き進んでいくのであり、それでいいのである。
人口200万人以上の田舎とは、他に類を見ないすごいことだとも言えるのである。
 
・・・都会の洗練には、名古屋は殆ど無縁である。最近は名駅周辺はお洒落になってるけど、これからも名古屋の街が全体としてお洒落になることはないだろう。というか、お洒落になったら名古屋じゃない、という感じもする。
 
ところで、「やせ我慢」とは、江戸っ子にとって最も肝心なエートスである。確かに何の得にもならないんだけどね。なので損得最優先の名古屋人の生き方は、ちょっとだけ羨ましいような。でもやっぱり抵抗感もあるというか、少々余裕のない感じもするかな。

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2017年6月27日 (火)

グローバリズムにリベラルは無力

現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』(北田暁大、栗原裕一郎、後藤和智の共著、イースト新書)は、「若者論」や「リベラル」などを切り口に、おおよそ90年代以降の人文社会分野の動きを踏まえながら、社会運動や社会批評の現状を語るという内容。グローバリズムに対するリベラル思考の破綻について、以下に栗原氏、北田氏の発言からメモする。
 
栗原:左派リベラルの論理では、グローバリズムというのは帝国による周辺国からの搾取にほかならないから、辺境国が耐えられなくなって破綻するというストーリーが描かれてきました。でもトランプ現象やブレグジットで明らかになったのは、グローバリズムに耐えられなくなったのは、途上国ではなくて、先進国の中間層だったということですよね。途上国はグローバリゼーションの恩恵を受けて潤っている。そこでも左派のロジックは破綻してしまっているんだけど、その辺に対する弁明も聞いたことがない。
 
北田:なんかグローバリズムの捉え方が、かつての帝国主義論と同じような枠組みのままで、どこかに搾取されているところがなきゃいけないことになっているけれど、実態は、かつての第三世界搾取論で搾取されていたといわれているようなところが、経済発展を遂げている。どこが疲れているかというと、実は先進国が疲れている。搾取を見出そうとすると、場合によっては搾取されているのはアメリカとか日本とかになってしまう。
 
・・・グローバリズムに対するリベラルのスタンスは無効、無力であるというほかない。グローバル経済への抵抗運動という意味では、おそらくリベラルに変わるものとして、というのも変な感じだが、ポピュリズムやナショナリズムの動きが目立つようになっている面もあるのかなと。

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2017年6月26日 (月)

社会学は経済学に勝てない

現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』(北田暁大、栗原裕一郎、後藤和智の共著、イースト新書)は、「若者論」や「リベラル」などを切り口に、おおよそ90年代以降の人文社会分野の動きを踏まえながら、社会運動や社会批評の現状を語るという内容。北田氏は特に社会学に経済学的思考が欠けていることに危機感を覚えているようだ。以下に北田氏発言からメモ。
 
60年代以降(の社会学)は、制度の比較分析で公平性、公正性が担保されているかどうかを実証的に検討する学問になった。
それはそれでよいとして、その結果、不況がもたらす社会問題等の解決については、経済学に太刀打ちができなくなってしまった。

昔だったら社会問題をどうやったら解決できるのかという、社会統合とか社会秩序の維持を目指していく学問が社会学でした。それをヘタレ呼ばわりしてきたマルクス主義者との闘いがずっとあったわけです。
今はもう敵がいないので、自分自身が文化的な西欧マルクス主義的になってきてしまっている。

少なくとも制度批判だけでは制度はよくならない。これだけの規模を持つ社会をコントロールしていく時に、経済学的な思考というのを看過していいはずがない。
 
・・・自分がいつも実感として思うのは、80年代後半のバブル、90年代のバブル崩壊の時代以降、経済的なものの見方が世界認識の基本的な方法になった、ということだ。今や経済学に比べて社会学の劣勢は覆いがたい。とりあえず社会学者も日経新聞を読んでもらいたいなと。

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2017年6月20日 (火)

フェイクニュースの「思想」

世界に拡散するフェイク(偽)ニュース。その背景にあるのは、いかなる思想はたまた感情なのか。本日付日経新聞オピニオン面「偽ニュースどう戦う」から、神学者森本あんり氏のインタビュー記事を以下にメモする。
 
「ポスト真実(post-truth)」は、客観的な事実よりも感情や個人の信条に訴える方が影響力を持つ社会状況を意味する。まさにフェイクニュースが作る世界、あるいはフェイクニュースを生み出す世界のことだ。
 
フェイクニュースの問題が猛威を振るっている背景には、「物事は見方によって変わる」という、現代社会に特有のリベラルな相対主義があるのだろう。最近の学生は「絶対」や「真理」を信じていない。ポストモダンの哲学もこうした考え方を裏打ちする。
 
フェイクニュース問題が特にアメリカで深刻なのは注目に値する。これにはアメリカに特有の精神的な土壌が絡んでいる。アメリカを貫くプラグマティズム(実用主義)は「何が真実か」という哲学的な議論より「それは実践でうまく機能するか」を重んじるからだ。
 
またアメリカは特殊なキリスト教原理主義が根強い。「神は6日間で天地を創造した」という聖書の言葉を字義通りに受け入れ、進化論を否定する人は国民の4割にも及ぶ。彼らはいったんそう信じれば、いかなる科学的な説明も受け入れない。例えば天地創造の時とされる6000年前よりも古い化石が発見されれば、神が創造の時に化石をそこに置いたと考える。これはポスト真実に共通する態度といえ、トランプ大統領の誕生以前から変わらず存在する。
 
フェイクニュースはこうした土壌に、誰もが情報を発信・拡散できるソーシャルメディアというツールを得て増殖した。
 
フェイクニュース問題の底には、自分たちは権力者にだまされているという陰謀論的な感情がある。疎外されていると感じる人にとり、体制側と見なす既存メディアの情報は受け入れられない。実際、大手メディアで活躍する人々は、アメリカでも日本でも一握りのエリートだ。反発には、権威ある人の言うことが正しいわけではないという平等意識がある。
 
・・・こうして見ると、一見アホらしいとも思えるフェイクニュースの「流行」には、意外と複雑な「思想的」背景があるようだ。ポピュリズムと合わせて、結構厄介な事象なのかも。それにしてもこのままいくと、見たいものだけ見る、信じたいものだけ信じる、そんな人ばっかりになるような。それも何だかなぁ~である。

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2017年6月12日 (月)

「貿易問題」=「円買い」ではない

米国トランプ政権が「貿易不均衡」を訴えるわりには、円高が進まない。なぜか・・・日経新聞電子版の本日付発信記事(「貿易摩擦=円高」の誤解)からメモする。
 
なぜ「貿易摩擦=円高」の構図が生じないのか。この解を導くには、この構図が顕在化した95年の円急騰局面を振り返ってみる必要がある。
 
94年6月、円相場が1ドル=100円の節目を突破。95年に入ると、当時の米クリントン政権が日米包括経済協議の自動車・同部品交渉で対日圧力を強め、歩調を合わせるように円高が加速する。95年4月にはブラウン米商務長官(当時)による「ドルが対円で下落しても米政府の日米自動車協議への強い姿勢は変わらない」との発言を受け、一気に当時の最高値79円75銭を記録した。
 
重要なのは円急騰を招いた仕組みだ。当時の円買いを主導したのはヘッジファンドでなく、日本の輸出企業だった。90年代前半、日本の貿易黒字は10兆円を大きく上回り、企業は輸出で得た膨大なドルを円に替える必要に迫られていた。
為替対策が未成熟だった企業は90円や85円といった節目の水準に円買い注文を置く。それを見越してファンドが節目の水準を狙って円買いを仕掛けると、一気に膨大な円買い注文が成立し、円高が加速する仕組みだ。ファンドは円急騰の媒介で、主役は日本の輸出企業だったわけだ。
 
これを現在に当てはめると「貿易摩擦=円急騰」の構図が成り立たないことがよく分かる。
 
2011年3月の東日本大震災で日本のサプライチェーン(部品供給網)が寸断されて以降、日本は貿易赤字に転じた。急激な原油安が生じた16年こそ貿易黒字になったが、90年代前半とは比べものにならない規模にとどまる。トランプ政権が日米の貿易摩擦をあおってファンドが円買いを仕掛けても、主役である輸出企業の円買いは限られ、円高が加速しない。
しかも大震災を機に、生産体制は大きく変わった。日本企業が部品供給網を海外に求めた結果、製造業の海外生産比率は急上昇し、一気に20%を突破。10%にも満たなかった90年代前半と比べ、海外で得たドルを円に戻さず、海外での再投資に振り向けるケースが急増している。
 
過去の経験則を頼りに貿易摩擦が浮上すると、ヘッジファンドや機械取引による短期的な円買いは出てくる。だが中長期的な円相場は需給要因に依拠する面が大きい。「貿易摩擦=円急騰」の構図が現実にならないのは異変でなく、当然のことになりつつある。
 
・・・「貿易摩擦」は、もはや円買い材料にならない。そもそもグローバル経済の構造が出来上がっている現在、個別の国との貿易不均衡を問題視する意味があるとも思えない。トランプ政権はホントに不可解だ。

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2017年3月11日 (土)

野村證券と80年代バブル相場

野村證券 第2事業法人部』(講談社)の著者である横尾宣政氏は、野村證券の優秀な営業マンとして、80年代のバブルから90年代の損失補填問題、総会屋問題と、まさに野村の激動の時代を生きた人物。同氏が80年代バブル相場を語る部分からメモする。
(1985年9月22日の「プラザ合意」に始まる為替の急激な円高ドル安により、日本企業は危機的状況に陥った)
 
私は「日本の輸出産業もこれで終わりか」と、本気で考えた。
この窮地から日本企業を救ったのが株価の急騰、誤解を恐れずに言えば野村證券が描いた「トリプルメリット」「ウォーターフロント」のシナリオ相場である。 
円高、金利安、原油安を囃して86年から始まったトリプルメリット相場では、この3つの材料の好影響をもろに受ける東京電力、関西電力、中部電力などの電力会社、東京ガスや大阪ガスといったガス会社、それに関電工など電気設備・電力工事会社が買われた。トリプルメリット相場がある程度限界に達すると、ほぼ切れ目なく、再開発プロジェクトによって地価が高騰した東京湾岸に広大な土地を保有しているIHI、東京ガス、日本鋼管(88年6月にNKKに社名変更)を"御三家"とするウォーターフロント相場が始まる。
 
ところでこの当時、株式市場では「Qレシオ」(実質株価純資産倍率)と称する、株価を1株当たりの実質純資産で割って弾き出す指標が使われた。実質純資産とは純資産に、時価で計算した含み資産を加えたもの。「会社が保有する土地の含み益を考慮すると、その会社の株価は決して割高ではない」と主張するための材料だったが、事業の将来価値を軽んじる可能性があり、私はこの指標だけで株価を考えるのは間違っていると思った。
 
いずれにせよ、トリプルメリット相場やウォーターフロント相場に引っ張られて、日本の株価は暴騰していった。そこで起きたのがエクイティファイナンス(株式発行を伴う資金調達)の大流行だ。
80年代の後半の数年間は、エクイティファイナンスで調達した資金を使った生産設備の充実が図られ、技術開発が最も進んだ、日本の黄金時代だった。つまりプラザ合意後の産業界の危機的状況を救ったのは株式市場であり、野村證券が仕掛けたトリプルメリット・ウォーターフロント相場だったと、私は確信している。
 
・・・トリプルメリット、ウォーターフロントそしてQレシオ―――まさにバブル相場の熱気を帯びた記憶が甦える。東京電力、石川島(現・IHI)、新日鉄(現・新日鉄住金)など、大型株中心に売買が空前の盛り上がりを見せた、流動性相場の全面的大展開。あの頃、野村證券の存在感は圧倒的で、証券業界すべての人間が野村の動向に関心を寄せていた、と言っても過言ではなかったのだ。

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