2009年10月26日 (月)

日本は「NDC」

今週の「日経ヴェリタス」(10/25号)からメモ。

最近、「NDC」という言葉がマーケット関係者の間で広がっている。Newly Declining Countryの略で、「新たに出てきた衰退国」を意味する。

海外のリサーチ会社が「日本はNDC」と指摘した。もともとは、ドイツのキール世界経済研究所の所長を務めたヘルベルト・ギアーシュ氏が2000年代はじめのドイツを形容する際に使った表現だった。

バークレイズ・キャピタル証券の森田京平チーフエコノミストは、「民主党の政策の中身と方向性が見えず、日本に対する投資家の不安が募っていることが背景にある」と話す。

・・・去年の「Japain」に続いて、日本に対するネガティブ目線の言葉が出てきたな。(ため息)

「政権交代」は実現したのに、何となくスッキリしない、モヤモヤ感が漂ってる。かつて小泉政権は改革イメージを明快に打ち出していた。それは「幻想」だったのかも知れないが、「小泉劇場」の頃が懐かしいという感覚もある。何よりあれくらい明快だと、外国人投資家が日本株を買ってくれるという効果もあった訳だし。

話は少し違うけど、先週末の「朝まで生テレビ」を録画して見たのだが、「若者に未来はあるか」というテーマのはずなのに、「民主党に改革はできるか」みたいな話に仕切られていて、何だこりゃあって感じだった。どうも「朝生」は人が多すぎる。とりあえずアズマさんとジョーさんの話をもっと聞きたかったけど。まあ何というのか、こんな番組を眺めても、日本は救い難い状態になってるような気がするよ。

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2009年9月25日 (金)

パラダイムは転換したか

昨年秋の金融危機の最中、「日経ヴェリタス」は「金融から実物」へのパラダイム転換という仮説を提示(連載記事「危機原論」)。ほぼ一年が経過して、今週号(9/20)ではその検証を行っている(執筆者は末村篤・特別編集委員)。以下にメモ。

仮説:中国経済の行方が世界の命運を握る。
現状:アジアの成長は目下、持続している。

仮説:デレバレッジ、リレギュレーションによる金融の収縮で、金融資本主義は終わりを迎える。
現状:危機を脱したとはいえない現状で、再発防止の金融規制は今後の課題だ。

仮説:米国の貿易赤字と日本・中国の貿易黒字が縮小すれば、表裏の関係にある黒字国の貯蓄が赤字国の米国に還流する国際資金移動も縮小する。
現状:確かなのは、米国がラストリゾートとなってモノとカネが循環する世界経済の構造が壊れたことだろう。米国はモノを輸入してカネ(国債や政府保証債)を輸出するかのような経済運営を続けられなくなりつつある。オバマ大統領や側近は「消費と金融と輸入」から「貯蓄と生産と輸出」へ、国家の経済モデルの転換を訴え始めた。

仮説:日本の禍期は日本の好機でもあり、日本再評価はあり得る。
現状:期待込みの「金融から実物」のパラダイム転換で、日本は重要な役割を担う資格があるが、兆しはあっても確かなトレンドとはいえない。

・・・アジアの成長が続くことに疑いはない。しかし、金融資本主義の終焉とグローバルインバランスの是正については、それこそ「兆しはあっても確かなトレンドとはいえない」感じがする。そして日本の再生も、まだまだ手探りの段階かなと思う。

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2009年9月13日 (日)

生産性向上と失業者の発生

高校生からわかる「資本論」』(集英社)は池上彰の力作。さすが「解説のプロ」。

何というのか、大体の印象としては「資本論」的な「資本家」と「労働者」の対立は既に主要な問題ではないよなって感じ。資本主義は進化したというか洗練されたというか。

とはいえ、「失業者」の発生は、資本主義において最後まで残る問題かも知れない。本書の第14講(失業者を作り出す)からメモしてみる。

資本主義経済においては次第に生産性が高まってくる。機械を導入することによって、働く労働者の数は少なくて済むようになる。相対的に少なくなる。

経済がどんどん発展し、資本それ自体が大きくなっているときには、労働者が必要な比率は減っていても、全体のパイが大きくなっていれば、労働者はどんどん雇える。
しかし、比率が減
ってくるっていうことは、資本があまり拡大しなくなると、働ける労働者の数は減ってしまうんだ。つまり景気が悪くなると失業者がすごく増えてくるということになるわけです。

労働者が一生懸命働いて資本を生み出し、この資本が大きくなったことによって、逆に労働者はあまり要らなくなってきてしまう。
つまり資本主義がどんどん発展していくと相対的な過剰人口、つまり失業者を必然的に生み出してしまうんだ。
景気がよくなれば失業者は減る、景気が悪くなれば失業者が増えるというのは当たり前なんだけど、長期的には相対的な余剰労働者が、増えてきてしまうということなんです。

ここで経済学者・飯田泰之の2%成長論を思い出した。『脱貧困の経済学』からメモ。

僕が推している説に「2%仮説」というのがあります。どうも人間って、ほうっておくと毎年平均2%ずつくらい、賢くなるらしいんです。たとえば工場で同じ作業をずっとくり返していると、年に2%くらい効率がよくなっていく。効率化の原因って機械だけじゃないんです。知識や思考法も生産性を向上させる。そうやって2%ずつ効率がよくなっていくのに対して、現実の成長が0%だとどうなるかというと、2%ずつ労働力が要らなくなってくるんですね。

だから2%の経済成長が必要だ、と飯田先生は主張する。まあ、失業者を生み出す資本主義を否定して社会主義革命が起きるというのは最早あり得ないので、失業者を減らすためにも、何とか経済成長の手立てを考えなければいかんのかな。

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2009年9月 5日 (土)

「再分配」政策の失敗

雨宮処凛という書き手は所詮イロモノだよな、と思う。でも、専門家が雨宮と対談すると、「格差社会」についてより分かりやすく語ってくれるような印象があって、それはそれで我々読者のためになる(例えば萱野稔人との対談『「生きづらさ」について』)。しかし「格差」問題と無縁の勝間和代との対談では、勝間の方が「お話伺います」という姿勢になっていて、苦笑モノであったが・・・。新刊の『脱貧困の経済学』(自由国民社)で雨宮の対談相手になっているのは、売り出し中の経済学者・飯田泰之。「再分配」政策についての飯田先生の発言をメモ。

裕福な人から貧乏な人へ「富」を移動して不平等度を下げるのが「再分配」なんですが、日本は「再分配する前」、つまり単純な収入の不平等度と、どこかからお金をとってどこかに渡した「再分配の後」の不平等度がほとんど変わらない、という変な国なんです。どこの国でも、ふつうは不平等度を改善するために再分配をやっているのに。
でも、日本の財政が動かす額は、GDP比でいうとアメリカよりも全然多いんですよ。イギリスよりやや低いくらい。この予算を振り替えるだけで、財源なんかなくたって、けっこうな問題が解決すると僕は思うんです。

(いまの再分配はどこに配っているかというと)実質的には「東京から地方へ」と「若者から高齢者へ」。つまり東京の貧乏人からとって田舎の金持ちに配り、若い貧乏人からとって金持ちのお年寄りに配っているんです。

実は日本はすごく減税をやっています。だけど、大幅な減税になっているのは事実上年収1000万円以上の人だけ。いま財政がものすごくやばい、破産する、とか言っていますけど、あれもバカな話で、たくさんお金を納めてくれるお金持ちだけを、これだけどんどん減税して、それで財政収支が悪くならないわけがない。

「なぜこんなに貧富の差が広がったんですか」と問われたら、僕はいつも「金持ちを減税して貧乏人に増税しているんだから当たり前です」と言います。なんだかね。

・・・確かに、「新自由主義的」政策ではお金持ちに減税してお金を使ってもらえば、やがて全体も潤う、みたいな話だったと思う。結局、お金を使ってないではないか、だったら取っちまえよ、って感じにはなるよな。

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2009年8月31日 (月)

「リーマン後」の10大ニュース

リーマン・ブラザーズの破綻からまもなく一年。「日経ヴェリタス」(8/30号)が選定した、「リーマン・ショック」以後、この1年の世界経済10大ニュースを以下にメモ。

米リーマン・ブラザーズ破綻(08年9月)
日経平均バブル後安値、1ドル87円台に急騰
トヨタ自動車、赤字に(2009年3月期決算)
GM、クライスラー破綻(09年4、6月)
欧米で金融国有化相次ぐ(シティ、AIG、RBSなど)
信用パニック、短期金融市場が一時マヒ(CDSが危機の火薬庫)
世界的な景気後退(日米欧で失業者870万人増)
日米欧で超金融緩和(米国は実質ゼロ金利、日銀も2度の利下げ)
中国、存在感強める(最大の米国債保有国、GDP世界2位も視野)
グリーン・ニューディール広がる(米オバマ新政権の旗印に)

・・・いやあ、実にいろんな事がありました。
これがたった一年の間に起きた事なんだなあ。
既に遠い過去の様にも思えるけど。
まあ何にせよ、よく分からないまま大騒ぎした「金融危機」は、よく分からないうちにほぼ終息した。
あとは実体経済がどういう道筋で回復していくかだろう。
で、やっぱりアメリカと中国頼みってことですか。
それから、グローバルインバランスの是正やら、「輸出立国」日本の見直しやら、今後の課題としてクローズアップされた経済問題への取り組みが行われるのかどうか。
こちらは喉元過ぎれば何とやらになるのかなあ・・・。

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2009年8月29日 (土)

資本主義とどう向き合うか

雑誌「大航海」の休刊と入れ替えの様に?「思想と活動」の雑誌として、「atプラス」(太田出版)が新たに創刊された。第1号の特集は「資本主義の限界と経済学の限界」。岩井克人(経済学者)、水野和夫(エコノミスト)、各氏のインタビュー記事からメモ。

水野:利子率革命とは、具体的には2%以下の超低金利が長期間続く状況を意味しますが、10年以上に渡ってそれが続くと現在の経済・社会システムが崩壊してしまうという点で、まさに「革命」なのです。
利子率革命のもとではどんなことが生じるかというと、投資家が満足するようなリターンを得られる投資機会がもはや存在しないということです。投資機会が消滅し、資本の行き先がなくなり、金余り現象が起きることになります。

岩井:金融市場がうまく働くためには投機家が必要です。でも、プロの投機家がおたがいに競走し始めると、不安定が生まれてくる。これは、「ケインズの美人投票」と呼ばれるプロセスです。結局、他人が値段が上がると予想していると予想すると、買いを入れるので、さらに値段が上がる。バブルです。他人が値段が下がると予想していると予想すると、売り浴びせるので、さらに値段が下がってしまう。バブルの崩壊です。投機家たちがしのぎを削り始めるとそういう人たちの行動が必然的に不安定を生み出し、資本主義の本質的な不安定性の一つとなるのです。

・・・金は余っているというのに、もはや世界に投資機会は乏しい。少ない投資対象にみんなが争うように資金を注ぎ込めば、当然のようにバブルが生まれる。そしてバブルが崩壊すれば、その後始末をするのは国家しかない。ただし国家に対する二人の見方のニュアンスはかなり異なる。

岩井:今回の金融危機で、大きな教訓が得られました。今までグローバル化とは、資本主義が国家の上位に立って国家を支配するプロセスというように言われてきたけれど、少なくともこういう危機に際しては、主権を持つ国家しか頼れる存在がないということが示されたということです。

水野:私は、国家が資本家の使用人に成り下がってしまったのではとさえ思えてなりません。金融資産が140兆ドルまで膨らみ、実体経済の2倍以上の規模になると、それに対して国家はマイナスなことはできないわけです。とにかくあの手この手を使って、金融資本を減らさないようにせざるを得ない。現在、ケインズ主義が復活していますが、やむを得ないとはいえ、資本の使用人に甘んじる政策に終始しているように思います。

・・・金余りの中で、資本主義の不安定性を克服するにはどうすればよいか。

水野:利子率が最低になったということは、資本が行き渡ったということですから、欲を出さなければいいんです。成長ではなく、定常になるという認識をみんなが持てればいいと思います。

岩井:国家がさまざまな規制をし、危なくなると介入していきながら、そして望ましくは市民社会的な動きからの助けを借りながら、資本主義をその都度修正してゆくという方法しかないと思います。

・・・水野氏の「禁欲論」に対し、岩井氏はプラグマティズムというべきか。

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2009年6月27日 (土)

ケインジアン対新古典派?

ニューケインジアンと新古典派は「対立」している、という訳ではない。『経済成長って何で必要なんだろう?』(光文社)の「序章」から、飯田泰之・駒澤大学准教授の発言をメモ。

ニューケインジアンというグループが生まれたのが80年代、そして90年代末には主流派のなかの主流派になります。ちなみにもう一つの主流派は新古典派、または新新古典派です。しかし、現在ではニューケインジアンと新古典派では分析手法はまったく同じなんです。

いずれのグループも景気変動はショックに対する経済システムのリアクションであると考えます。違いは景気を動かす最大のショックは何かという点ですね。新古典派は生産効率の変化が最大の源泉だと考える。生産技術が変わったり、労働者の能力が変化したことによって効率が変化し、その結果景気がよくなったり悪くなったりすると考えます。一方、ニューケインジアンは生産効率の変化は景気変動の「結果」だと考える傾向があります。むしろ景気変動を起こすショックは需要や政策によって生じていると考える。この両者は排他的なものではなくて、どちらが量的に重要かで意見が分かれているんです。

その結果、新古典派はあくまで生産側の効率やシステムなどが変動の原因だから、さらなる市場システムの純化によって経済問題は改善すると考える。一方のニューケインジアンは問題解決のためには市場システムがしっかり稼動することが重要で、そのためにはちょっと手を加えなければいけないと考える。あくまで市場システムが回ることが重要だという点については両者に違いはありません。

・・・どっちにしても、経済学は「市場が基本」ってこと。当たり前っちゃ当たり前ですが。

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2009年6月22日 (月)

バラバラ殺人と「責任能力」

2006年末に東京・渋谷区で起きた2つの「バラバラ」殺人事件の裁判では、いずれも被告人の「責任能力」が争点になった。『あなたが猟奇殺人犯を裁く日~裁判員なりきり傍聴記~』(扶桑社新書)からメモしてみる。まずは兄が妹を殺害した事件。

(被告人に対する精神鑑定結果では)殺害行為の精神状態と遺体解体時の精神状態は違うとし、解体のときまでは解離性障害、解体時は強迫性障害であると述べていました。素人には何がなんだかさっぱりです。結局、鑑定医の結論としては、遺体損壊時は責任のない状態(心神喪失)、殺害時はある程度の判断能力を有しており責任能力は限定的だけどあった(心神耗弱)とのことでした。

後日行われた論告求刑。ここで検察側は鑑定人が出した結果を完全否定し、被告人には犯行当時、全ての場面において完全責任能力があるとしたうえで懲役17年を求刑。対する弁護側は鑑定結果に乗っかって、責任能力はないとし、強気に無罪を主張して結審しました。

判決は懲役7年でした。裁判所は、殺害時の被告人は完全責任能力があったものの、遺体を損壊しているときには責任能力がなかったと結論付けました。
検察側も弁護側も控訴。09年4月28日現在、東京高裁にて言い渡された判決は一審破棄、懲役12年。死体損壊時も責任能力があると認定されました。

次に妻が夫を殺害した事件。

弁護側の鑑定人は「犯行時、死体遺棄時には短期精神病障害に罹患しており、責任能力が欠如していた、心神喪失状態と推認できる」と結論付け、同様に検察側の鑑定人も「責任能力を喪失していたことは十分想定できる」と結論付けました。弁護側の鑑定人がこのような結論を出すことは想定できますが、まさか検察側の鑑定人まで。驚きです。

そして論告求刑。やはり鑑定人がこのような結果を出しても、検察は「被告人には完全責任能力があった」として、懲役20年を求刑。対する弁論。改めて被告人に責任能力がないと主張し、結審しました。

判決は懲役15年でした。(裁判所は被告人に完全責任能力を認めた)
被告は控訴。09年4月現在、東京高裁は三度目の精神鑑定を行う方針です。

・・・事件が「猟奇的」な様相を呈しているからといって、犯行者が「異常な」精神状態の中で判断能力を失っていた、とはいえないだろうなあ。殺害後の遺体の分断・分解は、死体を運ぶとか捨てるとかしやすくするためにポータブルにするってことで相当「合理的な」行動であり、当人としては「証拠隠滅」という「目的」のために、なりふり構わず「意思的」に進めているはずだから、当然責任能力は認められるだろうなと思う。この本にはより最近のバラバラ殺人、08年4月東京・江東区で起きたOL殺害事件の裁判も取り上げられているけど、こちらは別に「精神鑑定」はしてないみたいなので、06年末の2つの事件で「責任能力」が問われたのは、「猟奇的」であるってことよりも、「家庭内殺人」というのか、兄と妹、夫と妻という当事者の関係性から見て「異常」ってことなのかも知れない。でも夫婦も元は他人だし、きょうだいは「他人の始まり」だったりするが(苦笑)。まあ何にせよ「責任能力」を問うというのは、裁判をややこしくするだけのような気がしてしまうのだ。

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2009年5月12日 (火)

時価会計の落とし穴

「サブプライム・ローン問題」とは、金融商品の「ミスプライシング」から起きた技術的問題にすぎない、と強調するのは「伝説のディーラー」藤巻健史。著書である『100年に1度のチャンスを掴め!』(PHPビジネス新書)からメモする。

もともとサブプライム・ローン証券とは、低所得者層に対するローンを基にした、リスクの高い債券です。それにAAAなど高い信用度がついたことにより、高すぎる値段で売ってしまったのです。本来流動性のないサブプライム・ローン商品に関して誤った値付け(ミスプライシング)が行われてしまったのです。高すぎる商品が値崩れするのは世の常です。この値崩れの過程で、「時価会計」の弊害が現れてしまったのです。

取引が極めて少なくなった市場では「時価会計」が機能しません。明日お金が必要な人は、理論値よりもずっと低い価格で債券を売ってしまう可能性があります。バナナの叩き売りが始まるわけです。「バナナの叩き売り」が唯一の市場での取引だとすると、その価格が時価になってしまいます。高すぎた商品が、今度は安すぎる評価になってしまったのです。金融機関は、理論価格よりも大幅に低い「バナナの叩き売り価格」で保有証券を評価せざるをえなくなりました。その結果、巨額の評価損を計上。さらに、問題が「デリバティブ」という「世になじみの薄い商品がらみ」だったので、危機感があおられました。その恐怖感が事態を悪化させたのです。

今回の危機の本質は、流動性リスクの高い商品に深入りしすぎたせいだ、と思うのです。「流動性リスク」と「信用リスク」の問題であって、「レバレッジをかけすぎた」かどうかというような「マーケットリスク」の問題ではないと思うのです。

サブプライム・ローン問題は、あくまでもテクニカルな問題であり、それを人々の恐怖感が深刻にしてしまっただけ、と思うのです。そうであれば、そのテクニカルな問題を解決し、恐怖感を除けばよいのです。そうすれば株価は再度上昇し、資産効果によって、実体経済は急速に回復すると信じています。

・・・サブプライム問題に始まる今回の金融危機は、流動性の低い証券化商品のミスプライシングが修正されて異常値が発生し、それが時価評価として金融機関の財務に反映されるとの予想から、信用不安が拡大して深刻化したということになる。藤巻氏の景気回復シナリオは、「米国金融機関の株価上昇→米国一般株の上昇→日本株の上昇→円安ドル高による日本株のさらなる上昇→資産効果による実体経済の好転→さらなる日本株の上昇」とのこと。ここにきて最初の段階は実現したと思われる。今後の展開がシナリオ通りとなりますかどうか。

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2009年5月 3日 (日)

経済の変化をどう見るか

金融危機を背景に「構造変化論」が活発化しているが、変えるべき部分とそうでない部分を冷静に考える必要がある。「週刊エコノミスト」(5/5・12)掲載の「日本経済の転換期を生き抜くための4つの視点」(小峰隆夫・法政大学大学院教授)から、要点をメモ。

①マクロ経済の変化
今回の世界不況の震源地である米国よりも、その影響を受けた日本の成長率の方が大きく落ち込んだ。なぜこうした現象が起きたのか。米国での消費の減少に対応して日本国内で在庫調整と設備投資の加速度原理が作用したためだ。
一方、構造的変化も起きた。グローバルインバランスの是正である。米国への資本流入が減少し(経常収支赤字の縮小)、日本では輸出が減少し、企業業績が減少するという形で、国内貯蓄の減少(経常収支黒字の減少)が生じている。

②市場原理主義者批判
市場原理主義者批判は、本来存在しないような人(市場は万能だとか、すべての規制を撤廃すべきだと主張する人)を批判している。市場原理が本来持っている利点を発揮して、経済をより効率的にしていく必要がある。

③金融資本主義
金融制度の枠組みの再整備、金融工学の使い方の制御が必要である。

④輸出主導型経済
本当の問題は、輸出の増大によって生まれた経済的利益が内需の拡大につながらなかったことにある。今後世界経済が落ち着きを取り戻した時、日本は国際競争に打ち勝って、輸出を伸ばしていく必要がある。要は「輸出か内需か」ではなく「輸出も内需も」増やすべきなのである。

・・・今回の危機が発生して以来、「新自由主義」や「金融資本主義」、「輸出立国モデル」は終わった、という風な人目を引きやすい言葉が飛び交っている。大きな変化をきっかけに、物事を根本的に変えるべきだという話が出てくるのは勢いの赴くところだろうけど、実際には従前の物事をいきなり全否定できるはずもないので、まずは問題の在りかを認識したうえで、物事を地道に修正していくのが現実的な動きになるのだろう。

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2009年5月 2日 (土)

「脱成長」という価値転換

「週刊エコノミスト」(5/5・12合併号)掲載、佐伯啓思・京都大学大学院教授のインタビュー記事(日本を真に豊かにするために「脱成長社会」の道を探れ)からメモ。

危機の原因は、短期・中期・長期の3つの局面で考えるべきだ。
第1の短期的な要因は、金融緩和と住宅バブルを作り出した米ブッシュ政権の経済政策の失敗がある。
第2の少し長期的な問題は、米国の新自由主義政策と金融グローバル経済の行き過ぎだ。金融市場は本質的に何が起きるかわからない不確実性を持っているにもかかわらず、リスク管理ができると思っていた。
そして、第3の長期的な視点は、先進国がほぼ「需要の飽和」の状態に陥ったことだ。

類の歴史を長い目で見れば、経済の基本は、食べて生活を安定させて家族と暮らす土台を作ることだった。これが「生の経済」といわれるもので、現在でも、農業、医療、教育、地域に根付いた中小企業などはこのような面がある。市場経済の利潤原理が、この「生の経済」の隅々にまで浸透すると、人々の生活を支えている「社会」の基盤を掘り崩してしまう。

長期停滞は避けられないし、それは悪いものでもない。それを前提に、産業主義経済を支えてきた「近代主義」の価値判断を転換し、成長から別のものに関心を向け、「脱成長」の経済を目指すべきだ。私は「成長中心の考え方を変えよう」と言っているので、ゼロ成長を目指しているわけではない。

・・・「市場経済の行き過ぎが社会的基盤を壊す」という批判を、佐伯先生はそれこそ日本のバブルの頃から、倦むことなく展開してきた。(中谷巌よりもずっと前からだ)

インタビュー記事の中ではまた、日本人は、自分たちが本来持っていた豊かな価値観、自然観、死生観、歴史観などを世界に発信すべきだ、とも主張している。

まあ正直、日本人の価値観が世界に理解されるとは思えない(こういう考え方が日本人的?)ので、発信とか言われてもねぇ・・・。

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2009年4月30日 (木)

批評の無力、希望の不在

雑誌「朝日ジャーナル」が「怒りの復活」だそうだ。17年ぶりの復刊号から、とりあえず浅田彰、東浩紀、宇野常寛の鼎談を読んでみる。浅田と東の発言をメモ。

浅田:ネットで誰でも発信できるようになったことで、大文字の批評家はいらなくなった。書評でも、本屋の店員がポップを立てる、さらにアマゾンで読者がコメントを書く、というふうになる。そこで批評が雲散霧消したのは、メディアの変化による必然でもあるわけよね。

:今は経済しか話題にならない。どうしてそうなったかといえば、それはやはりイデオロギーの時代の終焉、冷戦構造の崩壊まで遡るわけで、批評の衰退といっても、ここ20年くらいかけてどんどん衰退していったものが、末期にきているだけではないですかね。社会全体がカネの力しか信じていない社会で、嘆こうがなんだろうが、その社会は続くだろうし、こういう状況を批評で打ち破るのにどうすればいいかと言われても、すごく難しいことだと思いますね。

浅田:まったく希望がないのに戦い続ける大胆さ。

:今は希望がない世界をいかに生き抜いていくかを考えるべきで、大胆に希望を語っても摩耗するに決まっている。

・・・最近の「池田信夫blog」でも、「すべての対立軸が溶解したいま必要なのは、ニーチェが説いたように、希望が存在しないという根源的不安に向き合うことかもしれない」と記されていたのだが、しかし「希望」ってそんな大層なものか? 大文字の批評が要らなくなったように、大文字の希望も消えたのだと思って特に不都合は無い。
別に希望なんか無くても生きていける・・・というのは言いすぎだけど、現実には「ささやかな希望」を持って人は生活しているはずなので、希望のない世界で生きねばならぬ、という力を込めた言い方には、屈折したヒロイズムの匂いを感じてしまう。
もちろん、「ささやかな希望」ですら抱くのが難しいのだとしたら、そんな社会はおかしいと声を挙げなければならないのだが。

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2009年4月27日 (月)

マネーの生産性

今回の金融危機の原因と対処法を考える基本的な概念としては、マネーの生産性(資本の利潤率)が有効――今週の「日経ヴェリタス」(4/26号)掲載のインタビュー「危機原論」、中前忠・中前国際経済研究所代表の発言からメモ。

「実体経済のミラー(鏡)にすぎない金融が、付加価値(収益)の源泉の実体経済の成長率を上回るという、あり得ない収益を求めた間違い」が、金融危機を起こした。「今回の危機はスケールが大きいだけでなく、一瞬のうちにマネーが蒸発してしまい」、「カネ余りは劇的に解消されてしまった」。

「借金して消費する米国中心の経済成長が持続可能なはずは」なく、「米国の経常赤字の裏にあるアジアの経常黒字をバックに、成長通貨が供給される世界経済の成長メカニズムが壊れれば、対米輸出に依存し、過剰生産力を抱えた黒字国は需要不足から米国以上に深刻な不況に陥る」ことになる。

「基軸通貨国の米国のバブル崩壊は、日本と違って世界経済への影響が甚大」だが、「これは経済の正常化」だ。「米国の財政資金の調達は国内の貯蓄でかなりを賄える上、経常赤字が顕著に減るので、ドルの暴落はない」。

日本は「内需型経済への構造転換にほとんど手を着けず、銀行のバランスシートを縮小しなかったためにマネーの生産性が低下し続けた」。「超低金利政策を続けて、不振企業を延命させた上、内外金利差による円安と利子所得の減少による消費購買力の低下を招いて、輸出依存を高め」るなど、「財政・金融のポリシーミックスを誤った」。

「過去の金融危機では政府・中央銀行がマネーを大量供給してカネ余りを助長する繰り返し」だった。「資本の利潤率を引き上げなければ企業は投資せず、需要を増やすには家計所得の上昇が不可欠」であり、「その条件を満たすには」、「新たなマネーをつくらずに不良債権を処理」して、「経済を筋肉質につくり替える必要」がある。

・・・グローバルなカネ余りのなか、資本は実体経済から求められる収益に飽き足らず、複雑な金融商品を開発すると共に大きなレバレッジもかけて暴走した挙句、自己崩壊した。今は、将来の投資の採算性を高めるために、過剰流動性に頼ることは最低限に止めつつ、速やかに不良債権処理を進めていく時なのだろう。

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2009年4月19日 (日)

人間学と経済学

昨年のビジネス書ランキングでも評価の高かった『アダム・スミス』(中公新書)。その著者、堂目卓生・大阪大学大学院教授の論文(いま甦るアダム・スミスの思想、中央公論5月号)からメモ。本を読まずに雑誌論文で分かったつもりになろうという魂胆。(苦笑)

スミスは、市場経済が本格的に拡大する18世紀中頃のイギリスにおいて、いかにして人間の心に反しない市場が構築されうるかという問題に取り組み、「人間学」(人間本性に関する考察)にもとづく経済学の確立を構想したのであった。

(スミスの構想では)経済学は、「理論」の領域と「政策」の領域に分けられる。政策の領域においては、諸事実に対して、また諸理論にもとづいて、何らかの「目標」が設定される。それら(目標)は「立法者の規範原理」(政策当局が採用する善悪の判断基準)があってはじめて設定されうるのである。

人間学の目的は、他人の行為や自分の心の観察を通じて、「規範」の領域、すなわち個人の規範原理および立法者の規範原理を解明することである。したがって、経済学は、政策の領域をカバーしようとするかぎり、人間学的考察から独立であることはできない。

スミスの『道徳感情論』(1759)と『国富論』(1776)は、それぞれ人間学と経済学を扱う書物である。『道徳感情論』は、市場経済を人間の心に反しない制度として存続させるための条件を示す書物であり、『国富論』の人間学的基礎をなす。

スミスの人間学の中核となる概念は「同感」である。
私たちは、自分の感情や行為と、他人の感情や行為を比較し、それらが一致する場合には是認し、著しく異なる場合には否認する。

私たちは、一方で世間の是認や否認にさらされ、他方で胸中の公平な観察者の是認や否認にさらされる。スミスは、「賢人」は胸中の公平な観察者の評価を重視するが、「弱い人」は世間の評価を気にすると考える。スミスは、弱さと賢明さの両方をもつ諸個人を束ね、社会の秩序と繁栄を司る立法者がもつべき原理は、「賢人の原理」であると考えた。

・・・経済学は人間学に基づかなければならない、というのは真っ当な主張かも知れないが、いまや人間学なるものも相当壊れつつあるような気もするので、そう簡単に「アダム・スミス」が甦るのかどうかは分からない。

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2009年4月18日 (土)

恐慌と労働力商品化

「中央公論」5月号掲載の西部邁と柄谷行人の対談「恐慌・国家・資本主義」からメモ。

柄谷:一般にマルクス主義者は、恐慌は資本主義の崩壊、社会主義の到来をもたらすと考えましたが、宇野弘蔵は違った。彼は、『資本論』に書かれているのは、恐慌の必然性である、しかし、それは革命の必然性ではない、というのです。

西部:ぼくが宇野弘蔵を読んで非常に強く印象に残っているのは、「労働力商品化の無理」という論点です。労働力というのは資本主義的機構では再生産ができない。次世代の労働力は家族で男女が生み出すわけですから、それは資本主義のシステムの外部にある。
労働力供給も恐慌論と密接な関係があって、好景気が始まっても、労働力は景気に合わせて増えてくれないから、労賃がどんどん上がる。資本家が好景気に乗って投資を進めていく。そうすると、それに伴って労賃が上がり、労賃上昇ゆえに、ある段階から利益から損失に転換する。その途端に、資本主義的な再生産が障碍を起こす。これが宇野のいう恐慌の必然性の要点で、そういう意味で、労働力商品化の無理が資本主義のアキレス腱だといった。

柄谷:ポランニーは、近代資本主義経済は、本来商品にならない三つのものをフィクションとして商品化したところに成立したといいました。第一に、宇野弘蔵が強調した労働力の商品化です。第二に、土地の商品化、第三に、貨幣の商品化です。現在の信用危機は、第三の虚構から生まれたものです。

同じ雑誌の佐藤優の連載でも宇野弘蔵が取り上げられていて(「新・帝国主義の時代」)、そこでは「宇野は、恐慌の原因を生産過剰や過少消費に求めない。資本主義はあらゆるモノやサービスを商品にする傾向がある。しかし、資本主義を成り立たせる根本である労働力商品だけは、任意に作り出すことができない。好況期に労働賃金が上昇し、資本にとってこれでは生産をしても利潤が得られないという状況が生じ、これにより恐慌が生じると考える。資本が過剰になっているのだ」、と解説されている。

過去の知的遺産から学ぶことの重要性は認めるとしても、今回の金融危機から発した「恐慌」を考えるためには、バブル、証券化商品、レバレッジ、投資理論、投資家心理等へのテクニカルな考察も相当必要であり、人文社会科学系の原理論だけでは現実を捉えるのに不十分だと思える。

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2009年4月16日 (木)

食糧危機のウソ

最近も穀物価格高騰を背景に、「食糧危機」の到来がまことしやかに語られていたのは記憶に新しい。しかしながら危機を語る人々は結局のところ「狼少年」のようだ。『「食糧危機」をあおってはいけない』(川島博之・著、文春ペーパーバックス)からメモ。

開発途上国の経済の発展、中でも莫大な人口を抱える中国、インドを中心とするBRICs諸国の成長によって、世界的に食糧生産が足りなくなるという見方があります。経済成長によって人々の所得が向上し生活水準が上がると、動物性タンパク質、肉の需要が増える。食肉の生産には飼料としてたくさんの穀物を必要とするので、当然のように中国の食肉生産が穀物需要の拡大につながると考えられたわけです。しかしそこに食糧危機説の見当違いがありました。中国で実際に増える家畜の飼料の中心となったのは、小麦でもトウモロコシでもありませんでした。大豆なのです。それも油を絞った後の大豆の絞りかす、いわゆる「大豆ミール」でした。

中国の大豆の需要増加をまかなったのがブラジルでした。そして、食糧危機説の第二の間違いは、このブラジルでの大豆生産の増加を予測できなかったことでした。

食糧危機説の第三の間違いは、経済発展によって中国の人々が欧米人と同じ食生活に近づくと考えたことです。しかしアジアには欧米ほど強く肉食に偏重する嗜好はありません。文化には多様性があって、食文化はもっとも保守的な価値観に根ざすところです。食糧需給を予測するのにはそうした観点も重要です。(第一章「爆食中国」の幻想)

このほか、世界人口は増加率鈍化から今後は減少も視野に入ることや、農産物生産はまだまだ伸ばす余地があることなどが論証されて、「食糧危機」が現実になる可能性は小さいことが説得的に示されている。

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2009年4月11日 (土)

医療崩壊と制度の歪み

日本の医療崩壊は制度の歪みがもたらしている。本日付日経新聞市況欄コラム「大機小機」からメモ。

全国各地で公的病院の廃業や、小児・産婦人科の閉鎖が相次いでいるうえ、勤務医も不足するなど、医療崩壊の危機が各方面で指摘されている。

最大の原因は日本の医療システムが旧態依然として時代の変化に対応していない点にある。あえて言えば、開業医偏重の医療制度と政策により、病院勤務医の実情を無視し過ぎた結果である。

日本の医師会が開業医の組合的存在であり、病院勤務医の立場を代表していないことは、今や周知の事実だ。一方、病院の経営主体が自治体や大学、企業など多岐にわたり、それぞれ立場も異なるため規制当局との交渉力が弱い。過重な責任を負わされている医療現場の悲痛な叫びも経営トップには届きにくい。

今や病院勤務医は日本医師会から独立した病院医療会を設立し、団体交渉権を持つべきである。そして勤務条件から先端医療機器の導入に至るまで基準を定め、厚生労働省や関係当局と強い交渉力を持つ必要がある。

日本経済の高度成長をもたらした品質とサービスの競争は医療分野では影を潜め、政府規制と既得権を守る勢力が進歩を妨害している。高度医療を支える最先端医療機器と創薬分野の規制緩和、レセプト(診療報酬明細書)の電子化、混合診療の解禁など、山積している懸案の解決なくして医療介護産業の生産性向上はない。

・・・構造改革とは社会のあらゆる分野における制度改革だとすれば、日本は相変わらず構造改革が必要な状況であり、改革の継続が求められていることも疑いない。

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2009年4月 8日 (水)

チャプター11

報道によれば、ゼネラル・モーターズ(GM)は、日本の民事再生法に当たる連邦破産法11条の適用申請の準備を「真剣に」進めている。期限の5月末までに再建計画を政府に提出できない場合、GMは破産法適用を申請する可能性が強まる、との観測。

ところで、いわゆる「チャプターイレブン」を「破産法」と呼んでしまうと、かなりニュアンスが違ってしまうらしい。今週の「ニューズウィーク日本版」(4/15号)の記事「破産法11条は破産、ではない」からメモ。

「破産法」という日本語訳には誤解がある。破産とは、経営が行き詰まって借金を返せなくなった企業を消滅させ、その財産を貸し手に分配すること。再建を前提としたチャプターイレブンの趣旨になじまない。

破産法11条がどれだけ再建志向かを示す良い例が「11条適用の常連」米航空大手だ。運賃値下げ競争や燃料高騰が影響し、この10年の間にユナイテッド航空やデルタ航空など大手4社が適用を受けたが、その後も何事もなかったかのように世界の空を飛び続け、今では軒並み再建を果たしている。

この法律の適用を受けることを英語でよく「保護下に入る」と言うが、それは借金の取り立てが直ちに禁じられることを意味する。経営陣が資金繰りに頭を悩まされず再建計画作りに専念できるのが利点だ。

・・・「破産法」じゃなくて「再建法」ってことですか。ま、いずれにせよ、ここまできたらGMもチャプター11を適用して、踏み込んだ形で再建を強力に進めるしかないだろうな。

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2009年4月 6日 (月)

ニューケインジアンとは

世界各国の財政出動に支持基盤を与えているのは、「ニューケインジアン」と呼ばれる経済学派。本日付日経新聞「経済教室」(土居丈郎・慶大教授の執筆)からメモする。

マクロ経済学で主流だった「伝統的ケインジアン」の需要管理政策は、石油ショックを経てその有効性に関して疑義が呈され、80年代には合理的期待学派を核とする「新しい古典派」が席巻するようになる。

新しい古典派が説くマクロ政策の合意は、合理的な個人が政策の効果を合理的に予想するので、しばしば政策は効果がないとするものだ。

ニューケインジアンは、合理的に行動する個人が合理的に期待を形成しながらも、賃金調整や物価調整の硬直性(調整に時間がかかる性質)や情報の非対称性(供給側が持つ情報と需要側の情報が異なる)や経済主体間で協調が失敗することなど、市場の失敗が起きる可能性を重視し、そこで起きている非効率性を分析したり、それを是正したりするマクロ政策のあり方を分析する。市場の失敗を重視する点で、新しい古典派のマクロ経済学とは異なる。

とはいえ、ニューケインジアンと新しい古典派は、理論的背景がほぼ同じで、認識を共有する点がある。①経済主体は将来を見据えて行動するので、政策効果は短期だけでなく長期に及ぶものまで考慮して議論すべきこと②理論に基づいた定量的分析が重要であること③期待の役割が重要であること④実物経済の撹乱要因が経済変動にとって重要であること⑤金融政策は、特に物価調整において、有効な政策手段であること。

ニューケインジアンは、市場の失敗が深刻になると不況が起きるとみて、不況克服に向け供給側に講じるマクロ政策の有効性をも強く訴える。

財政政策の有効性はニューケインジアンの分析でも限定的に示されているが、市場の失敗などにかかわる部分に限られた「脇役」にすぎない。もともと彼らの政策分析対象の大半は金融政策である。

・・・財政の役割は、市場の失敗の後始末に限られる。今回の失敗は度外れて大きいので、後始末も大変だけど。

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2009年3月29日 (日)

先進的大衆国家ニッポン

あらためて世界を見回してみれば、日本は特異な進化を遂げた社会なのかも知れない。『格差社会論はウソである』(増田悦佐・著、PHP研究所)からメモ。

世界中で約200の国や地域がある。そのうちで、人口が1億人を超えている国は、たった11ヵ国しかない。人口の多い順に列挙しておけば、以下の通りだ。中国、インド、アメリカ、インドネシア、ブラジル、パキスタン、ロシア、バングラデシュ、ナイジェリア、日本、メキシコ。この11ヵ国のうちで、日本とアメリカを除く9ヵ国は、国民一人当たりの国内総生産が日本よりはるかに低い。一億人クラブのメンバー諸国の中では、アメリカと日本だけがこれだけ大勢の国民が平和で豊かな暮らしをエンジョイし、ひとりひとりが持っている能力を目一杯発揮できるような社会を築いているのだ。

日本の大衆は、敗戦以降一貫して知的エリートの支配を脱却した真の大衆社会を構築してきた。日本人はすでに戦後60年あまりにわたってポストモダン社会を生きている。ポストモダン社会とは何か? 知的エリート支配という、あらゆる階級支配の中でもいちばん厄介な階級支配のくびきから大衆が解放された社会だ。

大衆が知的エリートから主導権を奪ったことによって欧米諸国が防げなかった排除型社会への転落を阻止した日本は、世界で唯一の包摂型社会を持つ先進国、つまり社会から、あれやこれやの少数派を切り捨てていくのではなく、みんな仲良く仲間に入れて、社会を形成していこうとする国だ。だからこそ、日本が直面する最も深刻な課題は、いじめ・自殺なのだ。包摂型社会の抱える「少数派」問題は、排除型社会の少数派問題より根が深い。知的エリートの支配を受けない本物の大衆社会に特有の問題を解決することは、世界でただ一国「現代史」に足を踏み入れてしまった日本だけが背負った課題でもある。

日本はまだ差別社会、偏見社会であって格差社会ではない。根拠のない差別、偏見であるうちに格差社会への芽を摘み取れば、一億人クラブの優等生日本はもっとすばらしい国になる。世界でただ一国すでに現代に突入している日本が、お手本のない課題を解決したあかつきには、前人未踏の豊かで共感に満ちた社会が待っている。

・・・かつての吉本隆明の「大衆」、飯田経夫の「ヒラの人たち」なんて言葉も頭の中をよぎるが、いすれにしても、意欲や能力の高いフツーの人がたくさんいる、ってことが日本の強さの基盤なんだろうから、それは何があっても維持していかないとまずいんじゃないかと思う。

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2009年3月28日 (土)

リスクヘッジという幻想

やっぱり、金融工学によるリスクヘッジは疑わしい。少なくとも過信は禁物。『リスクをヘッジできない本当の理由』(土方薫・著、日経プレミアシリーズ新書)からメモ。

金融工学では、価格変動も(サイコロの動きと)同じような規則性をもっていると考えている。すなわち、市場価格の変化率とその発生頻度をプロットすると、それが正規分布になるとしているのだ。

価格モデルはあくまでも理論上のモデルであるため、現実をそのまま反映するわけではない。つまり、価格モデルには限界がある。ひとつは、価格モデルによるシミュレーションによってできあがった価格分布が正規分布に従うと仮定していることである。

(実際の市場は)全体的には、それとなく正規分布に近似しているのだが、価格下落方向に正規分布から大きく外れた値が出現する。理論値には現れないような異常値が、もっとも用心しなければならない価格下落方向に多く発生している。しかし現実的には、私たちが日々経験するほとんどの価格変動が、正規分布の範囲内に収まってしまうため、市場が平常である限りにおいては、金融工学者が描いたとおりに価格は変動してしまう。しかし、市場が常に平常であるはずがない。

価格モデルに対する二つ目の問題は、過去のデータに基づき将来の価格のブレの大きさ(ボラティリティ)を見積もっていることである。過去の価格の値動きから、将来の値動きのブレを予想するのだ。

本当に、過去から将来が覗けるだろうか?
どう工夫しようが、熱しやすく冷めやすい非合理的な市場と、心理的バイアスに蹂躙されたトレーダーの行動と、そしてこれからの新たに発生する未体験の値動きを映し出すことなど、できやしないのである。

これまで市場から撤退を余儀なくされたトレーダーは口をそろえて、「予想外のことが起こった」といってきた。では、この予想外のこととは何なのか。それは「不確実性」のことだ。つまり、私たちが市場で相手にしているのは、リスクではなく不確実性であるということだ。リスクは将来の出来事に対してあらかじめ確率分布が与えられており、リスクはそのなかで収束する。一方、不確実性は確率分布の情報がないため、市場は常に不安定で、価格がどう動くかは約束されていない。もし市場にリスクしか存在しないのであれば、市場が崩壊することなどないだろう。

どうあがいても、私たちは市場のことを何もわかっていないようなものだし、市場のことを知る術もたいして持っていない。結局のところ、私たちは何ひとつわからないまま市場経済のなかに放り込まれている。

・・・結局、将来のことは分からない。ひとたび不確実性と異常値の支配する局面に巻き込まれてしまったら、いずれ物事は平常に戻ると腹を括るしかないんだろうな。

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2009年3月22日 (日)

「貧困」を生む社会

湯浅誠と堤未果の対談を中心にまとめられた『正社員が没落する』(角川ONEテーマ21新書)は、それぞれの著作である『反貧困』『ルポ 貧困大国アメリカ』のどちらも読んでないワタシにとっては、お得感のある一冊(苦笑)。以下に両者の発言からメモ。

湯浅:日本のすべり台社会はセーフティネットが崩壊しているので、いちど転落した人は、ホームレスのラインまで堕ちてしまう。
ヨーロッパの社会保障は公的セーフティネットがしっかりしている。アメリカの公的セーフティネットは日本以上にひどいですが、民間のセーフティネット(NPO、教会)がそれなりに頑張っている。
欧米では、失業してもセーフティネットがあるから、そのまま野宿に直結するなんてことはないんですね。でも日本では、失業=ホームレスになる。

:国が社会保障を削り、企業が労働者を人間ではなく低コスト労働力というモノ扱いして切り捨てる。それは国民を捨てていることと同じ。企業の生産性や国力を損なう大変なロスだということに、全ての人々が気づく必要がありますね。

湯浅:40代、50代になって賃金のピークに達する賃金体系は、子供が十代から十代後半にさしかかると家計負担がピークになる。日本の支出というのは、山型なんですね。それに対応してきたのが年功型賃金だと思うんです。年功型のカーブは下がってきている。しかも社会保険料は上がり続けていますから、支出の山型カーブはきつくなってきている。この異常な高コスト体質を、もうちょっと下げていかないと、「正規、非正規、どっちにしたって暮らせないよね」ということです。

:正規も非正規もバラバラに見てる場所をコストの高い部分に向けたら、支出の山型を減らすという同じ目標ができますね。

湯浅:「貧困」は、公的ネット、家族のネットと地域のネットの問題を考えるきっかけになります。また、日本の極端に低い政府の教育費負担の問題や、異様に高い公共事業費。この分配構造を見直す必要まで考えなければなりません。

:政治家には、何を芯にして国を作るのかというビジョンをまず示してほしい。日本という国が世界に向かって誇れるような価値観が、真ん中に一本通っているかどうか。それを見極めるために必要なものは、今起きていることについての正確な情報と、それを中立的な視点から報道するメディア、そして何よりも連携です。

・・・「人間に投資しない国は滅びる。人間への投資が社会の活力につながる」という見解で二人の認識は一致。また、アメリカの貧困問題について堤は、「最重要課題は医療改革」と指摘。「民営化/市場原理」の波に呑まれて日米両国の生み出した「貧困」は、それぞれの社会の構造問題の在りかを、グロテスクなまでに露にして解決を迫っているように見える。

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2009年3月17日 (火)

「貧困」を放置するな

今週の「週刊ダイヤモンド」(3/21号)の特集は「あなたの知らない貧困」。記事の中から識者のコメントをメモする。

経済学者の中谷巌は、貧困層切り捨ては日本企業の弱体化につながる、と指摘。

戦争を繰り返し、奴隷制度による階級社会を是としてきた欧米と違い、日本は歴史的に中流階級が国民の多くを占めてきた。企業でも一部のエリートが従業員をこき使うのではなく、社員は平等。だから、現場が強い。だが、「構造改革」「グローバルスタンダード」の名の下に貧困層を切り捨てれば、日本企業の強みである従業員の能力は大幅に低下していくことになる。

貧困を放置すれば日本経済を支える人材が劣化するという危機意識を、社会学者の萱野稔人も共有する。

貧困問題のなかで最も深刻なものの一つが、貧困の世代間連鎖だ。国民全体を底上げするような、平等な教育機会を整えることが、この問題の解決につながる。
日本経済の基礎にあるのは、ものづくりの技術とイノベーションを支える優秀な人材の層の厚さだ。日本の経済力を支えるためにも、教育格差を下から縮めるような貧困対策が必要だ。

作家の佐藤優も、貧困は労働者の質を低下させて資本主義を崩壊させると語る。

資本主義では、ある程度の格差が出るのは当然のこと。むしろ、それが活力の源泉になる。しかし、今の日本で問題になっているのは「絶対的貧困」だ。マルクスの『資本論』によると、①衣食住とレジャー費用、②家族を持って子ども(次世代の労働者となる)を産んで育てる費用、③技術革新に伴う自己教育費、の三つを賄えるだけの賃金がなければ、労働者の質が低下し、資本主義は崩壊してしまう。

・・・貧困の放置は人材を劣化させて経済社会基盤の毀損につながる。とすれば、貧困は当然のように政治が対処するべき社会的問題である。

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2009年3月16日 (月)

世界不況と日本の宿題

日本経済は、構造改革も株主資本主義もまだ足りない。「集中講義・金融危機と経済学」との副題が付いた『なぜ世界は不況に陥ったのか』(池尾和人、池田信夫の共著、日経BP社)から、まず「第6講 危機後の金融と経済の行く末」の池尾発言をメモ。

輸出型の製造業だけが生産性が高く、国内市場でのみ活動している産業については生産性の水準は高くないし、伸び率も低い。そうした構造は、80年代以降、何ら変わらない。われわれは何も問題を解決してこなかった、何の構造改革も実はやってこなかったということだと思います。

日本経済は深刻な体質改善を必要とするような疾患を抱えている。要するに投資機会不足病とでも言うべきものです。国内の貯蓄を国内での投資に使い切るだけの投資機会が不足しているために、貯蓄超過になって経常収支が黒字になっています。

それゆえ、今回の需要不足を解決するためにも、財政出動や金融緩和による需要喚起ではなくて、投資機会をいかにして増やすかを考えることの方が重要だと思っています。これは投資機会の拡大につながるような構造改革を進めるべきだというタイプの話になります。経済を実力通りの姿にもっていく(振れの縮小)のが、金融政策とかの役割です。しかし、経済の実力そのもの(水準)を向上させるのは、構造改革の課題です。

次に「エピローグ」(池田)からメモ。

現在の需要ショックには一時的な要因もあるでしょうが、基本的には円安バブルが突然終わったことによって日本企業の実力相応の水準に戻っただけでしょう。
こうした状況では、短期的な財政・金融政策に大した効果はありません。民間の経済主体が、自分のリスクでチャレンジするしかないでしょう。このようなチャレンジを可能にするためには、やはり資本市場の機能が重要です。

資本市場は撤退(イグジット)のメカニズムだと考えることができます。アメリカ経済を苦境から救ったのは、ジャンクボンドを使ったLBOによって企業を買収し、資本効率を高めて利益を上げる投資銀行や投資ファンドでした。LBOによってレバレッジを高めることは、資本効率を上げないと金利も払えなくなって倒産するという緊張感を作り出し、経営者を規律づけるメカニズムとして機能したのです。

客観的にみて、日本にはまだ株主資本主義が足りないと思います。産業間で物的・人的資本を移転するには、株主資本主義の原理で企業を売買する「企業コントロールの市場」が必要なのです。今回アメリカの投資銀行の教訓で、情報の非対称性などの欠陥を放置したまま市場が野放図に拡大すると深刻な問題が起こることが分かったので、そうしたルールを整備した上で資本市場を充実する必要があります。

・・・昨今「構造改革」批判の論調も見受けるが、改革修正を唱えるのはともかく、改革を否定するのは現実的とは思えない。「長期衰退をどう防ぐかという問題設定」(池田)を念頭に、構造改革で国内の投資機会を拡大し、株主資本主義で産業界の再編を進めるなど、やるべきことはやり続けなければならない、というほかない。

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2009年3月14日 (土)

レーニンの「帝国主義」

「中央公論」4月号「新・帝国主義の時代」(佐藤優)連載第2回からメモ。

レーニンは、〈もし帝国主義のできるだけ簡単な定義をあたえることが必要だとすれば、帝国主義とは資本主義の独占的段階であるというべきであろう。〉と述べた。独占によって市場が歪められ、純粋な資本主義が想定されなくなるということである。この独占資本が国家と結びつくところに帝国主義の特徴がある。帝国主義の本質を植民地主義と結びつけず、資本が集中・集積の結果生じることになる「資本の独占的段階」に着目したところに、レーニンの洞察力の優れた点がある。植民地化は、独占がもたらす現象面の一つなのである。

レーニンは、帝国主義について、もう少し詳細な定義を与えている。〈すなわち、(一)経済生活のなかで決定的役割を演じている独占を創りだしたほどに高度の発展段階に達した、生産と資本の集積、(二)銀行資本と産業資本との融合と、この「金融資本」を土台とする金融寡頭制の成立、(三)商品輸出と区別される資本輸出がとくに重要な意義を獲得すること、(四)国際的な資本家の独占団体が形成されて世界を分割していること、(五)最大の資本主義的諸強国による地球の領土的分割が完了していること。〉

レーニンの帝国主義に関する定義は、決してイデオロギー過剰なものではなく、国際関係の構造を分析する道具として、現在も有効性を失っていない。繰り返すが、植民地の有無が帝国主義の本質ではない。帝国主義の本質は、一国で処理できないほどの過剰な資本を集積、集中していることである。

・・・帝国主義の本質が「資本の集中」であるならば、現代は植民地なき新・帝国主義の時代である、ということになる。最近、論者は「週刊東洋経済」の連載で、帝国主義や社会主義を高校教科書を利用して解説しているが、ここでも「高校の政治・経済の教科書は国際関係の基本概念を理解するための良書だ」と記していて、出たあって感じ。「ビジネスパーソンが手っ取り早く質の高い教養を身につけるには、教科書を徹底的に読み込め」、と強調している。

・東洋経済連載記事のメモはこちら
(「世界史」で学ぶ帝国主義) (「政治・経済」で学ぶ帝国主義)

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2009年3月 1日 (日)

マルクスと「市民社会」

マルクスが論じたのは資本主義というよりも市民社会だった――「池田信夫blog」2/27付記事「資本主義と市民社会」からメモ。

『資本論』で圧倒的に多く使われる概念は、資本主義ではなく市民社会である。これはヘーゲル法哲学からマルクスが受け継いだ概念である。ヘーゲルにおいては「欲望の体系」としての市民社会の矛盾は国家によって止揚されるが、マルクスは国家は市民社会の疎外態だと考え、それを廃止することによって真の市民社会を実現する革命を構想した。

つまり資本家が私的所有によって資本を独占する生産様式は、市民社会に寄生して本源的な価値の源泉である労働を搾取するシステムで、それを転倒して自立した市民が生産手段を共有して自覚的に生産をコントロールする、というのがマルクスの構想した未来社会だった。これは「強い個人」がみずからの主人になるという思想で、リバタニアンに近い。つまりマルクスは(ハイエクと同じく)きわめて正統的なモダニズムなのである。

マルクスは、階級対立を生み出さない純粋な市民社会としてのコミュニズムが可能だと考えたが、それは間違いだった。欲望を解放する市民社会は、必然的に富の蓄積によって不平等な資本主義を生み出すのである。

つまりわれわれは「不自然で不平等な市民社会が、物質的な富を実現する上ではもっとも効率的だ」という居心地の悪いパラドックスに直面しているのだ。

・・・マルクスが近代主義者であるならば、その思考に含まれるであろう人間中心主義的あるいはロマン主義的要素は、既にその限界を示している。いまや強大なシステムとなった資本主義の中で、人間はカネ=欲望の奴隷に過ぎないとしたら、マルクス的思考を見直す余地はあるとしても、その有効性に多くは期待できないような気がする。

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2009年2月24日 (火)

人間と市場は「合理的」か

未曾有の金融危機の中で、「人間は合理的、市場は効率的」という学問的前提が改めて問われている。本日付日経産業新聞掲載「行動ファイナンス理論①」からメモ。

今、世界の金融市場は百年に一度といわれる大きな混乱に直面している。その背景には、金融工学の考え方が機能しなかったことがある。金融工学の出発点は「人間は合理的で市場は効率的なため、統計や確率によってリスクを管理できる」との前提条件だ。

実際の金融市場の動向を見ると、金融工学の考え方では説明できない現象が多い。一例が金融資産のバブル化だ。人間が合理的であれば、理屈に合わない高値で金融商品を買うことはない。金融工学の理論によればバブルは発生しない。現実には、性懲りもなくバブルは起きる。なぜか。それは人間が強欲だからだ。

金融市場の動きを見るには、人間の心理を考えることが最重要になる。伝統的な金融工学理論への批判もあり、注目され始めているのが「行動ファイナンス理論」だ。この理論は「人間はいつも合理的とは限らず、人間がつくる市場も常に合理的とはいえない」ことが出発点となる。

・・・金融工学も含めて、広い意味の経済学は「合理的な人間」を前提にしている。しかし人間は非合理的に行動する存在とは言わないまでも、人間の行動が完全に合理的だとは誰も思わないだろう。そういう意味で、経済学的前提は「非現実的」であることは否めない。

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2009年2月22日 (日)

「歴女」増加

戦国武将ファンの若い女性たちを、雑誌「SPA!」は「戦国ギャル」と呼んでいたが、「歴女」(歴史好きの女性)という言葉もあるらしい。本日付日経新聞「エコノ探偵団」(「歴女」じわり増加なぜ)から関係者のコメントなどをメモ。

「家庭用ゲーム『戦国BASARA』などに登場する格好いいキャラクターへのあこがれから、女性が歴史に興味を持つようになっています」(20-30代の女性が顧客の約4割、戦国武将グッズを扱う「時代屋」の女将、宮本みゆきさん)

「実感なき景気回復の中で、国民には閉塞感が残ってました。『ほっ』とできるような精神的な充足感を与えてくれる武将が人気です」(戦国武将の生き方に焦点を当てた特集がヒット、雑誌「歴史街道」編集長の辰本清隆さん)

「歴史ゲームは一部のマニアが支える市場でしたが、戦国無双はキャラの魅力を全面に出し、歴史に関心の薄かった消費者の取り込みに成功しました」(女性購入者が4割を占めるアクションゲーム「戦国無双」を発売、コーエー広報部の桂毅さん)

宮本さんに歴史好きの女性の平均像を聞いた。それによるとグッズや書籍などの購入に加え、歴史好きが集まる会合の参加に伴う食事代などに合計で月3万円ほど消費。さらに好きな武将のゆかりの地域や関連イベントへの旅行が年4回ほどという。

辰本さんによると国内の歴史ファンの数は約百万人。歴史街道の読者構成比から推測すると、20-30代の歴史好きの女性は14万人程度になる計算だ。

(一人年間約50万円を消費するとして)「20-30代の女性が形成している歴史関連市場は最大700億円と予測できます」(第一生命経済研究所の永浜利弘さん)

・・・というようなことで、「若い女性に人気の主な武将」として名前の挙がっているのは、真田幸村、石田三成、直江兼続、上杉謙信など。戦国乱世の中で、「利」に惑わされることなく「義」を貫いた清廉な感じの人物が好まれているようです。

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2009年2月18日 (水)

「過剰貯蓄」が犯人?

本日付日経新聞「経済教室」(世界的不均衡どう是正・中)の執筆者は原田泰・大和総研チーフエコノミスト。米国のバブルの原因は中国の過剰貯蓄、との説を検証しているので、以下にメモ。

米国の巨額の経常収支赤字を、中国、中東産油国、ロシア、そして日本の黒字が埋めているのは事実である。だからといって、中国の経常収支黒字が、米国の実質金利を低下させたというのは、本当だろうか。

経常収支が赤字であるということは、資本が流入しているという面で長期金利を下げる要因になると同時に、高金利になる要因ともなる。資本が流入しすぎていれば借金が多すぎるということなので、過大な債務を負った企業はより高い金利でしか資金を調達できないのと同じ理由で、長期金利を引き上げないと海外から資本を取り入れることができないからだ。

もし、本当に、中国を中心とした途上国が米国に貯蓄を供給し、その結果、米国の実質金利が低くなっていたのだとしたら、米国にとって好ましいことである。
単純な成長
モデルで考えてみれば、海外からの貯蓄の増加によって、一人当たりの資本蓄積を進め、しばらくの間、高い成長率を享受できる。当然、賃金も上がるから、住宅を買う力も強まる。住宅の供給に制約があって、かつ住宅が上級財なら、住宅価格が上昇するのは当然のことである。これは実質金利の低下がもたらす均衡であって、バブルでもなんでもない。

住宅バブルがはじけたのは、中国の貯蓄が減少したからではない。米国の住宅価格が、中国の過剰貯蓄でも支えきれないほど上がりすぎたことが崩壊の主因である。中国の過剰貯蓄が原因なら、米国の住宅バブルが破裂したときには、中国の消費が急拡大していなければならないが、そんなことは起きていない。

・・・経済学的な現実認識においては、ある一つの出来事の原因を一つに特定するということは相当困難だという印象がある。結局すべては「兼ね合い」だということになるのだろう。過剰貯蓄、過剰消費、どちらか一方だけが問題だということでもなく、結局はそれぞれの国がそれぞれの課題に取り組むほかないようだ。

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2009年2月16日 (月)

「マル経」で学ぶ帝国主義

「週刊東洋経済」連載「知の技法・出世の作法」(佐藤優)、先週は高校世界史教科書で帝国主義を学んだが、今週(2/21号)は高校政治・経済教科書を利用。以下にメモ。

〈19世紀後半には、鉄鋼や内燃機関・電気などの分野で技術革新がおこり、重化学工業が進んだ。その結果、企業が大規模化し、多額の資本が必要となって株式会社制度が発達した。また、生産の集積・集中が進み、競争に勝ち残った少数の大企業が市場を支配(寡占)するようになった。このような新たな段階の資本主義を独占資本主義ということもある。さらに欧米資本主義諸国は強力な軍事力を背景に、アジア・アフリカを原材料の供給地や製品の輸出市場、あるいは資本の投資先とする植民地化政策をおし進め、たがいに対立するようになった(帝国主義)〉(『詳説政治・経済』山川出版社)。

帝国主義について、経済的側面からの簡潔な説明だ。この説明はレーニンの帝国主義規定を踏まえて行われている。高校政治・経済教科書にはマルクス経済学の成果が、イデオロギー過剰にならない形でバランスよく盛り込まれている。

マルクス主義には二つの魂がある。第一は、資本主義社会の内在的論理を解明しようとする観察者としての魂だ。第二は、資本主義体制を打破し、社会主義社会を建設しようとする革命家としての魂だ。

21世紀に生きるわれわれは、20世紀に現れた社会主義が、地獄絵を描いたことを知っている。したがって、マルクス主義の革命家としての魂は必要ない。他方、資本主義が必然的に格差を生み出し、そこから貧困問題が生じ、それを放置しておくと、社会が解体され弱体化する。これらの現象については、マルクス経済学の警鐘に耳を傾けるべきと思う。

・・・新自由主義の挫折と共に、各国は揃って財政出動に乗り出している。もはやハイエクは不要となり、ケインズが復活したということなのか。経済危機は資本主義的論理の行き着く先にあるものと見るならば、忘れ去られたはずのマルクスにも出番があるということなのか。(間違いないのは、我々は天才たちの理論の奴隷であるってこと)

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2009年2月11日 (水)

グローバル・インバランス

今週の「週刊東洋経済」(2/14号)の特集は「特別講義・世界経済危機」。今回の経済危機の根本原因は、国際的な経常収支の不均衡、つまりグローバル・インバランスの急拡大であり、そこから日本の課題も見えてくる。池尾和人と竹森俊平、二人の慶應義塾大学教授の論説からメモ。

そもそもアメリカの経常赤字は過剰消費によりGDP比で6%前後と過大になっているが、その裏側にはアメリカの経常赤字補填のファイナンスを行う資本輸出国がいる。ではこうした資本輸出国がどこかというと、アジアやラテンアメリカの新興国だ。97年を境に「貧しい国」から「豊かな国」に国際資本が流れるという不自然な変化が起きた。97年といえばアジア通貨危機である。この危機をきっかけに新興国は、資本輸入に依存した経済発展を嫌い、むしろ国内投資を抑制してまでも国内貯蓄の余剰を創出して、それを海外に輸出するようになった。こうした国際資本がアメリカに向かい、アメリカだけが突出して経常赤字を膨張させた。これが「グローバル・インバランス」のメカニズムだと考えられている。(竹森)

00年以降、急激にグローバル・インバランスが拡大していくプロセスで、米国には経常赤字を埋め合わせるための巨大な資金が流れ込んだ。この資本移動の動きをチャンスととらえてビジネスを拡大してきたのが米国の金融サービス業だ。したがって、グローバル・インバランスの急激な巻き戻しが始まると、米国では金融危機という形で問題が顕在化した。一方、日本は、米国の過剰消費に乗っかる形で輸出を伸ばしてきたから、輸出産業の失速という、米国とは別の形で問題が発生することになった。つまり、表面に現れた現象が違うだけで、問題の根っこは同じということだ。(池尾)

危機後の世界においては、アメリカが消費を減らした分だけ、ほかの国が需要を増やさなければならないことになる。そこでアジア経済の内需拡大型への転換が議論されている。歴史的に見ると内需拡大型に転換した唯一の成功例がアメリカだ。アメリカが成功した理由は、とりもなおさず金融市場を育成・拡大させたことにある。必要なのは、マーケットを育てて、その中で新しい投資対象を見つけ、試行錯誤で新しい産業を伸ばしていく戦略である。その際、いちばん有効なのが金融市場である。(竹森)

国際的なアンバランスの原因の一つとなった、日本の過剰貯蓄とは、いったいどのようなものか。実は、そのほとんどが法人貯蓄によって占められている。本来、企業が内部留保する資金というのは、成長のための投資に使うべきもので、きちんと企業が投資機会を見つけて振り向けていれば、このような過剰貯蓄は起こらなかったはずだ。これが意味することは、日本が自国内で新しい投資機会をまるで創り出せてこなかった、という事実である。(池尾)

池尾先生は、「日本は前川リポートなどで1980年代から内需拡大の必要性が唱えられてきたにもかかわらず、産業構造の転換をまるで進めてこなかった」とも指摘。グローバル・インバランスの認識で露になった日本の課題とは、かなり以前からやり残してきた宿題でもある。

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2009年2月 9日 (月)

いま帝国主義を学ぶ

「週刊東洋経済」連載「知の技法・出世の作法」。現在は「高校教科書で学ぶ国際政治」がテーマ。先週の「ウェストファリア条約」に続き、今週(2/14号)は「帝国主義」。筆者の佐藤優は「今の国際社会の構造は、古典的な帝国主義に類似している」という。以下にメモ。

帝国主義については、植民地侵攻を伴う歴史的負の遺産という印象が強い。ここで重要なことは、価値判断を離れて帝国主義という現象を等身大にとらえることだ。高校教科書の帝国主義に関する記述が、簡潔で本質をとらえている。実務家にとっても十分参考になる。

〈主要国の資本主義が発展し、相互の競争が激しくなると、将来の発展のための資源供給地や輸出市場として、植民地の重要性が見直された。長い不況が続いた1870年代以降には、本国と植民地の結びつきを緊密にし、まだ植民地となっていない地域を占有しようとする動きが高まった。この背後には、欧米諸国内に、ヨーロッパ近代文明の優越意識と非ヨーロッパ地域の文化への軽視がひろまり、非ヨーロッパ地域の制圧や支配を容易にする交通・情報手段が発達し、軍事力が圧倒的に優勢であるという事情があった。1880年代以降、諸列強はアジア・アフリカに殺到し、植民地や勢力圏をうちたてた。この動きが帝国主義である〉(『詳説世界史 改訂版』山川出版社)。

国家と資本が一体となって、国益の増進と資本の増殖を図ることが帝国主義時代の特徴だ。帝国主義を植民地支配と結びつけて理解する必要はない。アメリカやドイツは大きな植民地を持たなかったが、一級の帝国主義国になった。資本輸出によって、勢力圏を拡大することに成功したからだ。

今日、植民地を持たなくても、主要資本主義国は資本の輸出によって他国に影響を与えることができる。このような資本輸出が、個別企業の利益追求のためだけでなく、その企業が所在する国家の利益と一致した形で行われるときは、つねに帝国主義的性格を帯びるのである。

・・・20世紀に入ると、列強の対立から第1次世界大戦~大恐慌~第2次世界大戦と激動の時代が続く。歴史は繰り返す。もちろんそのまま再現されるとは言わないが、現下の状況が「100年に一度の経済危機」であるならば、歴史は学ぶべき必須科目だ。100年程度では人間の本性は変わらないとしたら尚更。

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2009年2月 7日 (土)

世界一冷たい格差社会

日本は「世界で一番冷たい」格差社会、という記事にネットで出会った(ダイヤモンド・オンライン2008年6月30日付)。日本は福祉機能で米国に劣り、雇用環境で欧州以下と、政治学者マルガリータ・エステベス・アベは指摘する。半年以上前の記事だが、「派遣切り」の嵐が吹き荒れる今読むと、ひしひしと実感される内容なのでメモ。

日本で格差問題が悪化したのはアメリカ型の市場原理を導入したからではないか、との批判が高まっているが、これにはいくつかの誤解がある。

アメリカは確かに国家の福祉機能が小さく、利潤追求と競争の市場原理を重視しているが、それがすべてというわけではない。市場原理にまったく従わない民間非営利セクターが大きな力をもち、福祉機能、すなわち社会を維持する役割を担っている。

日本はアメリカと似て国家の福祉機能が小さく、また、「自助努力が大切だ」と考える人が多い。しかし、企業や社会にはじき出された人を守るシステムが弱く、家族に頼らなければならない。問題は家庭内で解決できない時にどうするかである。

欧州先進国の多くは国家の福祉機能が大きく、「市場で失敗するのは個人だけの責任ではないので、国家が助けるのは当然だ」と考える人が多い。こうしてアメリカとヨーロッパ、日本を比べてみると、日本が一番冷たい社会のように思える。

正規・非正規社員の賃金格差の問題にしても、同じ仕事をしながら賃金に大きな差が出るということはアメリカではあり得ない(もしあれば明らかに組織的な差別)。日本企業ではインサイダー(内輪の人間、つまり正規社員)の雇用保護が強いので、アウトサイダーの非正規社員が不利益を被ることになる。本来は労働組合が何とかすべき問題だが、企業内組合なのでアウトサイダーのために本気で闘おうとはしない。

インサイダーの雇用保護はヨーロッパでも起こっており、日本特有の問題ではない。しかし、ヨーロッパでは労働組合(産業組合)が強いので、非正規社員に同じ仕事をさせて賃金を低くするという雇用形態は許さないだろう。

日本は非正規社員を守るシステムが事実上ほとんどないが、これは政治的に解決できる問題だ。政府がそれをしないのは、企業の反対が強いからだろう。

・・・家族の機能低下と共に、日本の福祉制度の貧弱が露になっているということ。かつて日本的経営の3種の神器は「終身雇用」「年功序列」「企業内労働組合」といわれたが、これらはある部分は崩れ、ある部分は残されて、歪みが生じているということ。「新自由主義的改革が格差を拡大させて社会を破壊した」という大雑把な批判は殆ど実効性をもたない。日本の福祉制度と雇用環境の欠陥を地道に修正していくしかない。

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2009年2月 5日 (木)

「一般職」志望の男子たち

雇用における男女平等の浸透か、それとも新しい価値観による行動なのか・・・総合商社「一般職」に応募する男子学生が現れた――「ダイヤモンド・オンライン」今日付の配信記事からメモ。

不況が深刻化した1990年代後半、各商社は正社員の一般職採用を凍結して派遣社員に切り替えてきた。しかし事務作業の高度化などによって有期で非正規雇用の従業員に任せにくい業務が増えたことから、大手商社はここ数年で相次ぎ一般職採用を復活させてきた。

ここでネックになったのが、2007年に施行された改正・男女雇用機会均等法である。従来の女性に対する差別を禁止する法律から、男女双方に対する差別を禁止する法律に変わったことで、女子学生に絞った一般職の採用はできなくなり、形式上は男子学生にも一般職への門戸が開かれた。

そこに目を付けたのが安定志向の男子学生たちだ。2007年に一般職の採用活動を再開した丸紅には、採用枠30人に約5000人もの応募があり、そのなかに「数%の割合で男子学生がいた」と同社人事部は明かす。他の総合商社も同様で、割合こそ多くないが、男子学生からの応募が一定数あるという。「今年になってさらに男子の応募が増えた」という商社もあった。

就職情報サイト「マイナビ」の栗田卓也編集長は「学生の会社選びは今まで以上に多様化してきており、昇進や昇格に興味を示さないタイプの学生が増えているからでは」と一般職志望の男子学生について分析する。

・・・確かに「総合商社の一般職」ならば、「ちょっと給料の良い公務員」ともイメージできるだろうから、「そこそこ」働くつもりの男子には、お仕事として魅力的なのは分かる感じがする。とはいえ今のところ、応募者はいても採用には至っていないということで、企業側としてもどう扱うものか苦慮している様子。近頃目にする「草食系」という言葉は、恋愛関係に対する若い男の姿勢を表現しているらしいが、「総合職」的出世をガツガツ目指すのではない、穏やかな「一般職」志向というのも、「草食系」男子の価値観と言えるんじゃないだろうか。

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2009年1月31日 (土)

天皇というお仕事

昨日30日付日経新聞で目に付いた一文。

「天皇という職務に定年はない」

言われてみれば、そっかー、天皇って結構大変だよなーと思った。

件の記事は、天皇陛下の公務等の負担軽減策発表(29日、宮内庁)を受けた解説で、引用した冒頭の文に続けて、「憲法で定められた国事行為や慣例となった重要行事などは、天皇が高齢になったからといって簡単に削減することはできない」、とある。

とりあえず『天皇陛下の全仕事』(山本雅人・著、講談社現代新書)を参考にメモ。
天皇の行為は「国事行為」「公的行為」「その他の行為」に分かれる。
国事行為は憲法6条、7条、4条第2項に規定される首相任命、法律などの公布、国会召集、大臣らの任免など。
公的行為は、外国訪問、地方訪問、拝謁、一般参賀、園遊会、賓客接待など。
平成16年の行事710件を、仕事の性質で分けると、「人と会う」53%、「事務処理」14%、「儀式・式典出席など」11%。
外国関係の仕事は24%を占める。また、行事の場所としては皇居内が8割以上と。

否応無く「生涯現役」状態なのだが、逆に言うと、極端な話、介助やら介護やらを必要とする状態になっても仕事しなきゃいけないのか、という感じで、事実上の引退の道もありにしないと、何だか非人間的な扱いじゃないかなと思ったり。

一時期、「女帝」問題で皇室典範改正の動きがあったけど、「天皇の退位」も皇室典範に拠るということなので、今度はそこんとこ改正とかどうでしょう。天皇にも自分から退位する自由がないとまずいんじゃないのかねえ。

ついでに一世一元の制も止めて、昔みたいに時々「人心一新」とか言って、元号を改めるとか。戦国ファンとしては「天正」みたいな語感のやつがいいな。(おいおい)

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2009年1月18日 (日)

一人当たりGDP、変動

本日付日経新聞コラム記事「けいざい解読」からメモ。

経済協力開発機構(OECD)が毎年まとめている各国の一人当たり名目国内総生産(GDP)は、各国の生活の豊かさを比べる一つの尺度である。2007年の日本の順位は19位に低迷。ただし、これは07年の為替レートを基にドル換算して並べたもの。例えば、同年の円相場の平均は1ドル=117円台だった。

昨年12月の円相場は1ドル=91円台と、07年の水準と比べて2割以上、円高・ドル安が進んだ。同月の為替レートで計算し直してみると、日本は米国に次ぐ9位と、10位ランクが上がる。1位ルクセンブルク、2位ノルウェーは同じだが、3位アイスランドは19位へ転落、イギリスも10位から18位へ順位が下がる。「金融立国」組が沈んだ格好だ。

・・・一年前に、日本の国力の衰退を示す指標として引き合いに出されていた「一人当たりGDP」。ドル換算のため円安の影響も指摘されてはいたが、実際に円相場上昇後の順位を示されると為替レートの影響は大きいなあと納得。もちろん「ランクアップ」に安心するのではなくて、このランキングは為替要因で上下することを心得ながらも、それはそれとして日本は自らの課題に引き続き取り組まなければならないということ。

(ブログ内関連記事)
2008年1月25日付日経新聞「大機小機」メモ
2008年2月8日付日経新聞「経済教室」メモ

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2009年1月17日 (土)

政府のやるべきことは

本日付日経新聞の市況欄コラム「大機小機」は、「政府と企業の責任分担を見失うな」と訴える。以下にメモ。

これまでも政府の要人は「内需拡大のために賃上げを」と、労働組合と同様の発言を繰り返してきた。しかし不況時において、非正規雇用の維持や内需拡大まで企業の責任とされるなら、政府は一体何に責任を持つのか。

政府は財政再建のため十分な景気対策ができないと言いがちだ。一方で、貴重な税財源が無意味な定額給付金に浪費され、それを閣僚が受け取るか否かという低次元の論争が続いている。無駄な農業や道路予算の削減など公共事業費の改革も進まない。非正規社員へのセーフティーネットの整備や教育・訓練、内需拡大のための投資を生み出す規制改革など政府がなすべき課題は放置されたままである。

世界同時不況のなかで、日本企業は生き残りをかけている。このまま政治の貧困が続けば、グローバル化が進む世界経済の下で、製造業が次々と日本を見捨てる日は遠くないであろう。

・・・景気対策が必要だと唱えて少額の給付金実施に執着する一方、経済回復の明確な見通しもなく3年後の消費税引き上げに拘る総理大臣の政権支持率が低いのは当たり前。政府は増減税のことは今は言わないで、ただただ行政改革を押し進めてもらいたいと思うんだけど。(小泉元首相が今度は「一院制実現」を看板に掲げるらしいが、行政改革の大きなシンボルとして持ち出すとしたら、その政治センスは相変わらず並みの政治家とは違うなあ、という気はする)

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2009年1月16日 (金)

「転換論」は劇的だけど

「パラダイム転換論」が流行る昨今の状況に対して、本日付日経新聞市況欄コラム「大機小機」は、「我々は大きな転機に直面している」からこそ、「バランス感覚が必要」として、以下のように説く。

第一に市場原理の考え方について。市場万能主義は間違いだったと言われるが、もともと「すべてを市場に任せるべきだ」という主張は存在しない。できるだけ資源配分を自由な市場に委ね、市場の失敗がある部分については効率的に政府が介入するという原則は不変であるべきだ。市場原理そのものを否定するのではなく、自由と介入の境界線をどう引き直すかということが問われている。

第二に金融の役割について。金融資本主義の時代は終わったと言われるが、効率的な金融部門は製造業・サービス業の発展に不可欠である。金融部門の役割についての評価を引き下げるのではなく、金融が経済全体に役立つような発展を遂げるために、制度的枠組みを再構築していくことが問われている。

第三に米国の位置付けについて。米国一極集中時代の終わりと言われるが、知の拠点としての米国は不変である。米国の過剰消費体質は是正されるべきとしても、その基礎力は依然として世界をリードするパワーを持っているのではないか。

・・・「パラダイム転換論」は劇的で人目を引きやすいけれど、市場原理優先経済も金融主導資本主義も米国(ドル)中心の世界秩序も、いきなりすべてが「終わる」訳ではないし、そもそも完全に否定するのも現実的ではない。低成長に喘ぐ先進国の経済運営は常に効率性を求められる状況は変わらないし、官民問わず経済主体の規律をいかに維持するのかという課題も重くのしかかる。危機を経た後の現実の制度的改革の進行は、手探りで方向性を見つけていく、多分に散文的で地道な変化の積み重ねだろう。

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2009年1月13日 (火)

新自由主義的改革、是か非か

新刊『資本主義はなぜ自壊したのか』を自らの「懺悔の書」とする中谷巌・三菱UFJリサーチ&コンサルティング理事長。今週の「週刊東洋経済」(1/17号)掲載のインタビュー記事「中谷巌氏に聞く」からメモ。

短絡した軽薄なものの考え方がまずかった。新自由主義的な、市場至上主義的な、あるいは改革派の急先鋒的な自分の行動に対して、それは浅はかであり、社会全体、あるいは人間の幸せとはと、考慮すべきだった。
小さい政府や自己責任をただ求めれば、日本社会がうまくいく、さらに経済成長がうまくでき、国際競争力もつく、そういう考え方は間違い。そう考えるようになった。一方的な新自由主義信奉者ではなくなったという意味だ。

新自由主義でいちばんまずいと思うのは、とにかく個人が分断されること。あるのは国家とマーケットだけの世界。しかし、人間にとって必要なのはその間にある社会、あるいはコミュニティではないか。そこで温かい人間的なつながりを確認しながら人は孤独に陥らず、喜んだり悲しんだりする。その中で幸せをつかむ。新自由主義的発想は社会的動物である人間を全然考慮していない。

自由市場信奉者の「転向」という意味ではそれなりにインパクトはある。しかし、経済が社会を破壊する、という批判は目新しいものではない。同じ「東洋経済」の巻頭コラム「経済を見る目」では、八代尚宏・国際基督教大学教授が市場中心の経済改革継続を唱えているのでメモ。

今回の危機を、小泉政権以降の構造改革を否定する根拠に結び付ける論調がある。
規制緩和で非正社員が増え、財政改革で地域格差が拡大したといわれるが、構造改革のせいではなく、経済活動の国際化や情報化、人口の高齢化等、経済社会の大きな変化に対応できない旧来型の社会システムの下で、経済停滞が長期化し、国内投資の不足で正社員や地域の雇用機会が削減されたと考えるべきだろう。

野口悠紀雄のいう「1940年体制」は、半世紀を経て、もはや維持できなくなっている。これが社会主義体制の崩壊と時期を一にしたことは偶然ではなく、それゆえに構造改革が求められたのである。
先進国のモデルを翻訳してまねるという過去の手法では、今後の日本の社会問題には対応できない。多様な主体の試行錯誤の過程で、優れた仕組みが発見される地域間の制度競争を生み
出す地方分権や、情報の宝庫である市場の活用を目指した改革を進めるべきである。

・・・改革が必要なことは誰もが分かっているだろうし、不都合が出てくればその中身を問い直すことも当然のこと。この段階で新自由主義的改革に否定的な最終評価を下せるものなのかどうか。おそらく当面は修正の積み重ねで現実は進んでいくのだろう。

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2009年1月11日 (日)

1974年という転機

日経新聞(1/10付)で、水野和夫・三菱UFJ証券チーフエコノミストは、「欧米は近代の成長メカニズムのピークを1974年に迎えている。ベトナム戦争の終結が近づき、国外に市場を求めて拡大することができなくなった。東インド会社ができた約400年前から続いた手法が変わったといえる」と語っていたが、この認識について雑誌「プレジデント」の最新号(2/2)の中でも述べているのでメモ。

サブプライム問題の出発点はどこだったのか。それは、アメリカがドル高政策を打ち出した1995年。資本が国境を超えて自由に動くことで金融経済が実体経済を、いわば「尾が犬を」振り回すようになったのはここからだった。

さらに遡ると、74年前後に行き着く。オイルショック後、先進国は長期金利の急騰とスタグフレーション(不況下のインフレ)に直面した。それまでの先進国の経済政策の柱は「ケインズ主義」。市場が正常に機能し経済成長率を維持するには政府の関与が必要だとする考え方だ。しかし、それではスタグフレーションを解決できなかった。

そこで先進国は、「新自由主義・マネタリズム」に拠る経済政策にシフトし、スタグフレーションを克服した。新自由主義は、ケインス主義とは逆に市場に信頼を置き、市場における政府の役割を極力小さくする考え方である。

しかし、先進国はもはや実体経済から儲けを得られず、オイルショック以前のような経済成長は見込めなかった。

そこで、欧米の投資資金は住宅市場やBRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)など新興国に流れた。95年以降、国際資本の移動が飛躍的に高まり、必然的に発生したバブルの終着地が、信用力のない人向けのサブプライムローンだった。

74年前後の重要性はそれだけではない。翌75年のベトナム戦争終結は、さらに長期の視点から見た資本主義の歴史の大きな区切りだった。

16世紀に起こった宗教改革は18世紀後半の産業革命に転じ、イギリス、オランダが台頭した。二国に代表される西欧型資本主義は、軍事力をバックに相手国の市場をこじ開ける対外膨張主義だった。その主役の座が、大西洋を渡ってアメリカに移った。新しい開拓地を求めるアメリカの膨張主義は、西海岸に行き着いた後、太平洋を越えてアジアへと向かい、日本を通り越してベトナムの地に達し、サイゴン陥落で止まった。ヨーロッパから西回りで地球をほぼ一周した欧米の膨張主義が、ここで一度終わった。

・・・水野氏によれば74年以降、膨張主義の次に来たのが「経済のグローバル化」。新自由主義・マネタリズムを拠り所にしたグローバル化の「前半戦」は07年で終わり、現在は「ハーフタイム」の停滞期。「後半戦」は今から5年後以降に始まり、新興国の生活水準が先進国に追いつくまで約20~30年続く、としている。

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2009年1月10日 (土)

輸出立国モデルに限界

米国の過剰消費体質が変わると、輸出立国が成り立たなくなると指摘するのは水野和夫・三菱UFJ証券チーフエコノミスト。本日付日経新聞記事「世界この先・サバイバビリティ」のインタビューからメモ。

米国の国内総生産(GDP)に占める消費の割合は、日本や韓国、ドイツなどの輸出の対GDP比率と連動している。輸出立国では相手国の消費が減退すれば、国内の設備投資と輸出の落ち込みに直面する。ここ数年の日本の実質GDP成長率に対する寄与度を見ると、輸出と設備投資でほぼ2ポイント押し上げている。米国の消費が落ち込めば、日本は成長の源泉の多くを失ってしまう。

米経済の落ち込みが一時的なものなら、日本企業の収益もいずれは回復する。しかし米国には「世界の消費者」や「最後の買い手」を担うパワーがもはや残っていない。今の不況を乗り越えても、かつてのような勢いの個人消費は復元できない。

米国は住宅バブルで蓄積した過剰をこれからそぎ落とすことになる。その間はマイナス成長が続く。中国などの新興国がけん引役を担うにはまだ時間がかかるため、世界経済は停滞期を甘んじて受け入れざるを得ない。

米国が平時に戻っても、日本を待ち受けているのはゼロ成長だ。我々は景気が回復しても生活水準が改善しない時代を迎えている。

・・・かつて80年代、前川レポートがまとめられるなど国策として内需拡大が提唱されたのだが、結局は膨張したバブルに頼った消費ブームで終わり、輸出主導型から内需拡大型へと経済体制を本格転換することのないまま現在に至ったツケが、ここにきて噴出しているようにも思える。

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2009年1月 8日 (木)

おひとりさまVS婚活

ひと月前の毎日新聞(2008.12.8付夕刊)に、「おひとりさま」か「婚活」か、と題されたインタビュー記事があるのに気がついた。語るのはもちろん、それぞれのコンセプトの提唱者である、上野千鶴子と白河桃子。ということでメモ。(桃子は「とうこ」と読む)

(白河桃子)
早くに「おひとりさま」を決意して経済基盤や人間関係のネットワークを整えた人は問題ない。問題なのは「いずれ結婚するだろう」と思っている男女なんです。

婚活とは男女が結婚を目的とした出会いを探して積極的に活動すること。合コンに参加するとか、結婚情報サービス会社に登録することです。就職には就活が必要なように、結婚には婚活(結婚活動)が必要な時代です。なのに多くの日本人は「結婚は自然にできる」と思いこんでいる。実際は昔も自然な結婚は少なかった。昔は見合い結婚。60年代半ばを境に恋愛結婚のほうが多くなるが、それでも職縁結婚が多かった。会社にお嫁さん候補の若い女性が事務職としていたため、会社と家を往復していても結婚できたわけです。つまり社内集団見合い結婚。ところが80年代以降に恋愛市場が自由化され、誰かが世話をしてくれるというシステムが崩壊した。

日本人は元来、恋愛能力が高くない。男性はコミュニケーション能力が低く、うたれ弱い。女性には「王子様は待っていても永遠にこない。結婚したい人は受け身で待っていてもだめ。狩りに出よ」と言いたい。

(上野千鶴子)
結婚が永久就職である時代も、経済的依存を可能にする時代もとっくに終わっているのに、なんで今時、「婚活」なんていう古い話が出てくるんでしょうね。結婚というものにインセンティブ(意欲を引き出す刺激)がそれだけなくなったということですから、無理にすることはないんですよ。

結婚は生活していくための「生活保障財」から「ぜいたく品」に変わりました。だから求める条件が上がったのです。そうなれば、当然マーケットは縮小し、マッチメーキングが難しくなる。それで8割以上が結婚願望を持つにもかかわらず、結婚に踏み切らない人が増えたというわけです。

でも、どうってことはない。すべての男女が父や母になる人口爆発時代が終わったと思えばいいのです。明治時代を迎える前は、人口の2割程度が生涯非婚者でした。

人はどっちみちおひとりさまになります。遅いか早いかの違いだけ。一人でいることを基本にすればいいのです。おひとりさまはライフスタイルの一つ。家族として過ごす時間は人生のある一時期にすぎません。

・・・「おひとりさま」の覚悟ができていなければ「婚活」せよ、というのはもっともに思える。とはいえ「婚活」の具体的な形が、合コンや結婚情報サービスというのも正直サエない話ではある。しかし今時は、周囲に相手がいたという「幸運」か、相手を紹介してもらう「人脈」が無いと結婚はできないのが現実だろう。どっちも無いけど、どうしても結婚したい人は「婚活」するしかないし、そこまでして結婚する気のない人は「おひとりさま」の覚悟を決めるしかない、という感じ。あるいはある期間「婚活」してみて、願わしい成果が得られなければ「おひとりさま」コースを歩む、というのもある・・・だろう。とにかくいまや、「自然には結婚できない」のも、「おひとりさまはライフスタイルである」のも現実だと認識して、あとは個人の考え方で行動する、要はそういうこと。かな。

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2009年1月 7日 (水)

経済と信頼と希望と

日経新聞「経済教室」は今週、「危機を超えて」というテーマで連載しているが、昨日6日の執筆者として作家の村上龍が登場。要点をメモ。

サブプライムローン問題が発生する以前から、日本社会は、各層、各組織相互の信頼が失われつつあって、今回の経済危機でさらに鮮明に表面化した。与党と野党、与党内の各グループ、官僚と政治家、内閣と議会、経営と労働、正規社員と非正規社員、富裕層と中間層と貧困層、自治体と中央政府、老年層と若年層、そして国民と国家、さまざまな利害の対立が顕在化し、不信の連鎖が起こりやっかいな悪循環が始まっているように見える。

どうして日本社会は豊かになったのに希望を持つのが難しく、閉塞感に包まれているのだろうか。今日よりも明日が、明日よりも一年後が、さらに五年後のほうが、自分の人生はより良いものになっているはずだという思い、それが希望だ。経済的豊かさを実現した成熟した社会では、将来的には必ず人生はより良いものになるという思いを持つのが難しい。

経済活動を根本で支えるのは信頼であり、年金、医療、介護、福祉など社会保障の危機が国民の国家への信頼を失わせ、政治への無関心が常態化した。不信と無関心の次に来るのは社会不安・暴動かもしれない。信頼を生むためには、希望を持ちうる将来的なビジョンが不可欠である。

・・・そして作家は、希望を生み出すビジョンとして「環境」、そして「親密で小規模な共同体」の再構築の二つが有効である、という。その是非はともかく、現実にビジョンを示す役割が期待されるのはやはり政治。しかしながら、豊かさを実現した後の低成長経済の中で、富の再配分が一段と複雑な課題になっている背景に加えて、グローバル経済や新自由主義的思想により社会的基盤が疲弊しつつあるという現実に対して、昨今の政治は全くと言って良いほど機能不全の状態に陥っている、としか見えないな。

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2009年1月 6日 (火)

資本主義とグローバル化の行方

本日付日経新聞から、岩井克人・東大教授(「世界この先・サバイバビリティ」)、末村篤・特別編集委員(コラム「一目均衡」)、そしてコラム「大機小機」の言葉をパッチワーク的にメモ。まずは岩井先生の資本主義に対する基本認識から。

資本主義は効率性と安定性という二律背反の性格を持っている。市場の自主性に任せるほど経済は効率化するが、不安定さは増す。市場に委ねる部分を抑えれば経済は安定するが、効率は悪くなる。(岩井)

市場の自主性に任せれば任せるほど、強欲の生まれる可能性も大きくなる。

サブプライム問題は、強欲で結ばれた金融機関と投資家が引き起こした大惨事だった。投資銀行に代表される金融機関の問題はリスク管理の失敗という経営問題ではなく、自由化の弊害であり、国民経済を未曾有の危機に追いやった以上、規制強化は必至だ。投資家は一方的な被害者ではなく、金融機関と共生関係にあった。過大なリターンを求めた年金などの機関投資家が、実際にはあり得ない安全、有利な投資対象を求め、結果的に受益者でもある生活者の首を占めた。(末村)

今後規制強化は避けられないが、その在り方は理念的統制ではないだろう。

資本主義を守るためには、自由放任主義というイデオロギーから離れ、政府が中心的な役割を果たさざるを得ない。それが今回の危機の教訓ではないか。
あまり変な規制をかけると将来的に問題が起きる。国がすべてを統制することもできない。規制をかけたとしても、それを逃れた新たな金融商品が必ず生まれる。これがベストというものはないかもしれないが、継ぎはぎしながら規制を加えていくという現実主義しかない。(岩井)

資本主義、自由市場経済は否定しようもなく、自由化、規制緩和の行き過ぎの是正と共に問われるのは、これまでのグローバル化の在り方である。

世界の誰もが自由競争経済の持続を望んでいるのは、新興国も参加した昨年11月金融サミットでの20カ国・地域(G20)首脳合意でも明らかだ。問題はウォール街のやり方を単線的に広げた国際金融の強引さであり、世界は成長を続け、大不況に陥ることはないと拡大路線をひた走った国際企業の過信にあった。危機に立つのは資本主義ではなく、グローバリゼーションのあり様だ。(大機小機)

要は金融資本主義とグローバル化の問題である。
実体経済の規模や成長率を大幅に上回る金融資産の肥大や収益率が持続可能なはずがない。金融から実体への回帰は正常化の基本だ。(末村)

米国中心のメカニズムは修正が始まっている。互恵・補完関係にある国が集まり、ある程度の「自律的経済ゾーン」を形成しながら、世界不況の回避と成長維持でゾーン同士が連携する。保護主義ではなく単色のグローバリゼーションでもない「自立と共生」の道だ。マルチプル(多角的)グローバリゼーションが、見えてきた再起の芽だ。(大機小機)

アメリカ中心、金融資本主導のグローバル化の修正が今後の課題であります。以上。

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2009年1月 4日 (日)

「経済ナショナリズム」

正月休みの読書は、さっと読める対談本。『金融危機の資本論』(本山美彦と萱野稔人の共著、青土社)からメモ。

萱野:おそらく国家と資本主義の関係は根本的に見直されなくてはなりません。これこそ、世界金融危機によって要請されている理論的課題です。
資本主義が国家の徴税機能や戦略に依存してしか展開されえないのであれば、資本主義のあり方をデザインしていくために国家を動かそうとすることは当然の選択になります。そして、国家を動かすためのもっとも強力な回路となるのはナショナリズムです。
とりわけ、アメリカのヘゲモニーに支えられたいまの金融中心の資本主義を何とかするためには、経済ナショナリズムがそれなりに有効です。

本山:私も同感です。金融中心のグローバルな経済に人びとが押しつぶされるのをやめさせ、ローカルな生活の温もりを守るためには、経済ナショナリズムが必要です。

萱野:ナショナリズムをあっさりと否定できる人というのは、どうやら強制力のない世界というものが実現しうるとナイーブに想定しているフシがある。しかしそんな世界はありえません。

本山:私は、経済ナショナリズムの要は「地域の自立」だと思っています。
なぜ日本は貿易依存だと言われるのでしょうか。それは、輸出で稼いでいる40社ほどの大企業に圧倒的多数の中小企業がぶら下がっているからです。私はこれを、大企業ではなく地元に依存する経済体制へ変えていかなければならないと思う。

萱野:アメリカに物を買ってもらわなければやっていけないという意識のもと、日本はドルを買い支えている。いまの経済の実態をふまえるなら、日本はもっとアジアへシフトしていくべきなんですが。

本山:アメリカから自立していくためには、貿易相手に円をもってもらうシステムをつくっていかなくてはならない。これがアジア共通通貨圏ということの意味です。

萱野:そうしてアメリカから自立してアジアの製造業にきちんとファイナンスできるようなシステムを構築できれば、今後のアジアの世紀において、日本は持続的にアジアの発展を支える役割を担うことができるでしょう。

・・・いよいよ日本も「脱米入亜」を真剣に考える時が来た、のか。

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2008年12月27日 (土)

改革派経済学者の「懺悔」

最近、リチャード・クー、野口悠紀雄、中谷巌、紺谷典子など、90年代に活躍していたエコノミストの新刊が本屋で目に付く。なかでも中谷巌の『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社インターナショナル)は、構造改革派の「懺悔の書」との惹句が帯にあるものだから、何だか只事じゃないなあ、と思って読んでみた。

なぜ「懺悔の書」か。若い頃アメリカで経済学を学び、自由主義や市場原理の信奉者となった著者は、バブル崩壊後の日本において、改革派経済学者として規制緩和などの旗を振ることになったのだが、小泉改革以後の格差拡大などの事態に直面して、「構造改革やグローバル資本主義は日本人を幸福にしたのか」という疑問が生まれた。そこにアメリカ発の金融危機が起き、世界が不況へと突入する中で、自らの「転向」について書き上げたのがこの本ということだ。

グローバル資本主義が社会を破壊する、との問題意識から出発するこの本の内容は、経済学的というよりは多く文明評論的である。それは基本的なスタンスが、「グローバル資本主義が暗黙の前提としていたアメリカ的な価値観や思想のどこに問題があったかを検討する」、もっと言えば「そもそもアメリカ流資本主義、さらに近代西洋思想のどこが誤っていて、どのように修正をしていくべきかを、根本に遡って考える」、というものだからだ。

階級意識の残る欧米においては、新自由主義的経済学も結局はエリートが大衆を支配するための道具であった。今や、世界的な格差拡大や環境破壊をもたらしているグローバル資本主義、その根本にあるアメリカ流の近代西洋的、キリスト教的価値観の是正は急務である。そこで日本の価値観の出番となる。日本的な平等観や自然との共生感覚こそが、これからの世界に求められる・・・著者の危機意識は充分に伝わってくるものの、西欧的価値観が行き詰まったところに、日本的価値観を対置する著者の批判に特に目新しいものがある訳ではない。経済学者である著者には、やはり経済学の枠内で、グローバル資本主義を内在的に克服する道を示してもらうことを期待したい。

かつて、「世界で一番成功した社会主義国」と冗談交じりに語られた日本。だが冷戦終結で社会主義の敗北が明らかになると共に、バブル崩壊後の日本も自らの社会主義的部分の修正を迫られ、自由市場主導型の経済改革を進めた訳だが、今度はその大本であるアメリカ流の新自由主義が大きく躓いたために、次の改革の方向性を見失ってしまったように見える。振り返れば90年代は、日本経済システムあるいは日本的経営の建て直しが活発に議論された時期だった。その90年代に活躍したエコノミストたちが今、自らの意見を開陳しているのは偶然ではないと感じる。いずれにせよ、再び日本経済の在り方について幅広く議論を呼び起こす時が訪れたのは間違いない。

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2008年12月26日 (金)

VaRって有効なの?

本日付日経新聞、投資・財務面のコラム記事「株価 金融技術の限界・下」からメモ。

金融危機で投資家のリスク管理は根本から揺らいだ。金融機関はバリュー・アット・リスク(VaR)と呼ばれる統計的手法で株、債券などの損失可能性を予測し、資産配分している。1978-2007年の30年間の日経平均の値動きを前提に計算すれば、一日で5%以上動く可能性は一万分の一以下。これを「無視しうる頻度」と判断して、見合った資金を投じていく手法だ。

バリュー・アット・リスク(VaR):金融資産を運用する上でのリスク管理手法の一つ。株、債券などの過去の値動きを統計的に分析し、今後のある期間において、一定の確率で生じる最大の損失額を推計する。取り寄せるデータは数年程度の場合もあれば、数十年にわたることもある。投資家はVaRの大きさに合わせて、資金の投入量やポートフォリオの構成を決める。比較的計算しやすいことや応用が利くことなどから、多くの金融機関がリスク管理に利用している。

現実には、10月は取引があった二日に一回の頻度で5%以上の騰落を記録した。一番下げがきつかった16日の下落率(11.4%)について、発生確率を逆算すると224京年(京は兆の一万倍)に一回という天文学的数値となった。

農林中央金庫は積極運用が裏目に出て、9月末時点で有価証券の含み損が約1兆5000億円に拡大した。期待していたVaRなどによるリスク管理は機能しなかった。

経済環境が良好な時期のデータに基づいて行動すると、過大なリスクを負いがちだ。「定量モデルに依存するだけでなく、定性的な判断を重視する必要性が高まっている」との指摘もある。

・・・投資を行う前に、統計の確度を高めるため充分に長期間のデータを集めようとしたら、命がいくつあっても足りないな。(苦笑)

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2008年12月25日 (木)

「おひとりさま」の老後

上野千鶴子の『おひとりさまの老後』が75万部売れたという。驚異。その上野千鶴子「責任編集」と銘打たれた『おひとりさまマガジン』(文藝春秋12月臨時増刊号)の巻頭に、上野、香山リカ、酒井順子の鼎談がある。おひとりさまの損得、親の介護、男の「負け犬」など、様々な話題が語られるが、やはり老後については、上野先生に一日の長があるというのか、その言葉には経験と思考に裏打ちされた確信が込められていると感じられたので、ポイント的にメモ。

上野:ご自分の老後についてはどう思っておられますか?
酒井:それがこわいので、飛行機事故とかに遭わないかなあ、と思っているんですけど。
上野:突然死願望ですね。
香山:私は北海道に帰省しているときに、大地震が起きて、両親もろとも死ぬのが一番かな、と(笑)。そうすれば、介護問題も、自分の問題も一気に全部片づく。
上野:今のおふたりの反応で、ご自分の老後にまだリアリティがないということが、逆によく分かりますね(笑)。
私はこう思いますよ。国が滅びようが、焼け野原になろうが、人間というものはなかなか死ねないもんだ、と。高齢者施設へ行くと、生気を失った人がそれでも死なないで生きている。それを見ると、ああ、人間というのは死にきれんもんやなあ、と思います。脳梗塞で後遺症が残っても、生き延びる人もいます。人間は、そんなに簡単に死ねません。死ねない、っていうのをしみじみ味わうのが老化ってものです。だからこそ、死にきれない老後をどうやって過ごそうか、っていうのをマジメに考えるようになるんですよ。
おふたりとも、地震だの、事故死だの、そんなに突然死願望があるとは思わなかった。みんながみんな認知症になるわけでもないし、老化ってゆっくり進んでいくものなので、考える時間は十分にありますから大丈夫です(笑)。

・・・多分、当たり前だけど「老後」というのは全くの身体問題なので、現実に身体の不自由を少しでも感じるようになるまでは、リアルに考えられないと思う。身体の自由がきかなくなる状態になりつつも、簡単には死ねないのだなあと感じながら生きる時間が「老後」ってことですかね。それはそれで味わい深い・・・ような、そうでないような。

(自分も今年入院を経験したので、身体が思い通りに動かなくなるのはある程度までで食い止めないと、老後を味わう気分的な余裕も持てないのは想像できるようになった)

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2008年12月14日 (日)

グローバル経済と中小企業

エコノミストの水野和夫の新刊『金融大崩壊 「アメリカ金融帝国」の終焉』(NHK出版生活人新書)を読んだら、書名のイメージとは違うけど、中小企業について述べた部分が印象に残ったのでメモ(第6章 日本経済の生き残る道はどこか)。

これから日本が本当に成熟した形で輸出株式会社を続けようと思うなら、これまでの経済の常識は捨てて、知恵を絞る必要があります。
世界金融危機によって、日本の輸出数量は08年6月にマイナスに転じ、8、9月もマイナスになっているのは、輸出先の好景気が、金融資産バブルに依存した消費によるものだったからです。今度は実体経済の成長に基づいて、1人当たり実質GDP、すなわち生活水準が上がっていく新興国の中産階級を相手に据えるべきでしょう。新興国に暮らす人々の1人当たりGDPが1000ドルから1万ドルに成長することは、バブルではありません。そうした実質成長に基づいた地域と一体化すること。それが真のグローバル化です。世界はこれからが本当のグローバル時代、グローバル競争に入っていきます。

(国内の経済)格差あるいは二極化は、グローバル経済にリンクしているか、それとも遮断されているかの違いから現れます。
企業規模の大小を問わず、海外とどうやってつながっていくかが鍵となるのです。新興国の人たちが中産階級になっていくプロセスで、自分たちがどう手伝えるのかを考えない限り、経済格差はなくならないのです。

グローバル時代には、内に閉じこもっていることは停滞を意味します。中小企業が明日から単独で海外進出というのも非現実的です。そこで国の役割が必要となってきます。
中小企業向け金融を拡充し、海外での事業ノウハウを伝授する体制も必要でしょう。「中小企業海外進出庁」といった省庁をつくるのもアイデアの一つです。いずれにせよ、中小企業の海外進出を全面的に支援するシステムをつくることが重要です。

・・・冷戦終了後、金融資本主導でバブルを伴いつつ進行した「派手な」グローバル化はひとまず限界に達し、今後は新興国の人々が生活水準を切り上げていく「地道な」グローバル化が進んでいく。アメリカのバブル的消費を受けて、日本の大企業が輸出を拡大させた時代がいったん終わり、今後は新興国の中産階級をターゲットに、日本の中小企業が事業を海外にリンクさせることが求められる。そのことを踏まえたうえで企業は行動し、政策も実行されなければならない、ということ。耳を傾けるべき提言だと思う。

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2008年11月17日 (月)

基軸通貨国の特権(の乱用)

今週の「日経ヴェリタス」(11/16付)の「危機原論」(末村篤・特別編集委員)からメモ。

80年代以降の世界の経済史は、米国が債権国から債務国に転落してもなお世界経済の中心であり続けるために、基軸通貨国の特権を最大限活用した歴史といっても過言ではない。

米国は巨額の経常赤字で垂れ流したドルを、国債などへの債券投資の形で呼び戻し、直接投資や株式投資でBRICsなどへの海外投資を活発化した。

経常赤字国が無尽蔵に、しかも低金利で資金調達できたのは、アングロサクソン型金融文化をデファクト・スタンダードとして世界に広める国家戦略の下、外国に貿易と資本の自由化を迫って世界のモノ(生産力)とカネ(貯蓄)を利用できる環境を整え、デットとエクイティの収益格差を享受したからだろう。

基軸通貨国が最大の経常赤字国で最大の債務国でもあるという想定外の事態は、高成長と企業・金融部門の高収益で覆い隠されていたが、株式から住宅に引き継がれたバブルの崩壊で矛盾を露呈した。投資銀行のビジネスモデルと同時に、米国中心のモノとカネの世界循環(帝国循環)も終焉を迎える。

基軸通貨の交代はまだ先だとしても、米国が基軸通貨国の特権の乱用、「痛みのない赤字垂れ流し」をこれ以上続けられないとすれば、世界の経済循環は変わらざるを得ない。米国の経済運営はもちろんのこと、その裏側の貿易(対米輸出)と金融(対米投資)で帝国循環を支えたパートナー、日本と中国がこの変化にどう対応するのかが大問題になる。

・・・ドルが基軸通貨であることとアメリカが「金融帝国」であることは固く結びついている。時たま、日本も金融立国を目指そう、とかいう話が出てくるけど、円を基軸通貨にする気があるとは思えないのに、金融立国とか唱えてみても実効性は無いような気がする。それはそれとして、ドルに代わる基軸通貨はまだ見えてこないにしても、ドルの地位低下は徐々に進んでいくのだとしたら、アメリカにモノを売って受け取ったカネを、再びアメリカに投資するというアクションについては今後、中国にメインでやってもらう方が日本にとっても有難いんじゃないのかな~。

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2008年10月29日 (水)

ハイエク的自由と市場

本日付日経新聞市況欄コラム「大機小機」(新自由主義は市場万能主義にあらず)からメモ。

米国発の金融危機が世界的な株価の乱高下を引き起こす中で、その主犯と見られる市場万能主義と新自由主義を混同する議論も少なくない。だが二つの「主義」は似て非なることを忘れてはならない。

ハイエクは社会に広く分散している知識を効率よく利用するためには、少数の人間が権力を握る政府に知識を集中するよりも、「市場を通して人びとが自由に知識を交換できるほうが望ましい」と指摘した。市場に任せるのが最善だと主張したわけではない。ハイエクにとって市場における自由競争は、少数のエリートが権力を握る政府よりも相対的に望ましいという意味で、あくまで次善の選択だった。

ハイエクが新自由主義者と呼ばれたのは、「既得権を擁護しようとしたり伝統に固執したりするオールド・リベラリスト」に反旗を翻し、自らの信念「人は法の前で平等」に反する慣習や制度の改革を積極的に説いたからである。必ずしも市場が万能だと喧伝したからではない。

・・・おそらく、人間社会の知的な働きの在り方を示したハイエク的な自由主義は、投資主導経済のイデオロギーとなった「新自由主義」とは異なるものなんだろう。でも、ある言葉が実は何を意味するのか、よく分からないまま世の中に流通してしまうのは有り勝ちなこと。今年8月14日付日経新聞「経済教室」でも、経済学者の小宮隆太郎が、「新自由主義」と「市場原理主義」は、意味不明のおまじないのような言葉だと書いていて、確かに学問的厳密さを欠いている、どちらかといえばジャーナリスティックな用語だと思われるし、これが「ネオリベ」になると、格差社会の元凶、貧困を生み出す悪へのレッテル貼りという感じ。まあ、学者さんほど言葉を厳密に使うための勉強をする時間もないけれど、何とか「主義」というと、経済学よりは文学の方に足を突っ込む危うさもあるので、何となく雰囲気で言葉を使うことは戒めたいものだな。

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2008年10月28日 (火)

ドル帝国の終焉

水野和夫・三菱UFJ証券チーフエコノミストは、グローバル化は止まらないだろうが、混沌とした時代は続く、と見る(「週刊金融財政事情」10/27・11/3合併号)。以下にメモ。

新自由主義は、マネーが国境を自由に越えて動く世界を構築するのに最適なイデオロギーだった。95年以降のアメリカにおいて「強いドル」政策が、国際資本の完全移動性を実現させることによって「ドル帝国」を実現させた。95年からパリバ・ショックの07年8月まで「世界のすべてのおカネはウォール街に通じていた」のである。この間、世界の金融資産は102兆ドル増加したことになる。

ところが、サブプライムショックは収まるどころか、08年7月になると米住宅金融公社2社の経営危機が表面化した。外国人投資家はアメリカから256億ドルの資金を引き揚げてしまった。07年8月のパリバ・ショック時の引揚げ額は過去最大の377億ドルだったが、実は今回のほうが米「ドル帝国」にとっては深刻である。現在は米銀が外銀から資金調達できなくなり、米資本は外国から資本を回収せざるをえなくなったからである。

サブプライムショックは08年7月以降、ドル帝国の資金繰り難という新しい局面に入ったのである。経常赤字額を上回る外国資本の流入を図り、その差額を投資利回りの高いアジアなど新興国や日本の不動産に投資する米「ドル帝国」の根幹が崩れているのである。

米金融システムを安定化させるには、国有化も辞さない米銀への公的資本注入と同時にドル防衛が不可欠である。
不良債権買取りに公的資金7000億ドルを投入し、新たに必要となる米銀への公的資本注入
を加えれば1兆ドルを超える国債が新たに発行されることになる。現在、アメリカの財政赤字は年間4500億ドルであり、それに1兆ドル以上の国債発行が追加されれば、外国中央銀行のドル買い介入がないとドルが急落する懸念がある。米金融システムの安定化とは、外国中央銀行のドル買いがあって初めて成功するのである。

「ドル帝国」が凋落しても、グローバル化が止まるわけではない。新自由主義にかわる新たなイデオロギーが出てくるまでは、混沌とした時代のなかで、経済の中心が先進国から新興国へ移行することが予想される。

・・・今後の世界経済は、「ドル帝国」崩壊の悪影響を最小限に留めるための措置を講じながら、調整を続けた後に新興国が中心的な位置を占める、方向性としてはそんな感じ。経済データを踏まえつつ、ひとつの思想とも呼べるような現実認識を呈示する水野氏は証券業界の宝です。

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2008年10月25日 (土)

恐慌プライシングの是正

武者陵司・ドイツ証券副会長は、現在の恐慌価格ともいえる資産価格の下落は、合理的な妥当性があるというよりも、売りが売りを呼ぶ悪循環が生み出した心理による部分が大きいと見ている(「週刊金融財政事情」10月20日号)。つまり、この心理を反転させれば、恐慌価格も是正される、ということで以下にメモ。

ここで決定的に重要なのは恐慌プライシングの是正である。そのためには、恐慌の可能性を否定することである。現在、住宅ローン債権をはじめさまざまな資産価格が恐慌価格となっている。恐慌つまり大失業と大倒産が現実のものとなれば、平時から考えれば極端な売られすぎの資産価格も正当化される。

何が恐慌を食い止める力となるか。それはレバレッジの肯定、リスクテイクの肯定の心理を強めることである。ここでは徹底的なリレバレッジ政策、心機一転の総合的なデフレ対策が必要である。その焦点は金融機関への資本注入に加えて、より根源的な不安である住宅価格の底入れを確信させる財政政策となろう。減税や公的低利住宅融資スキームの創設は必至であろう。恐慌対策の専門家たるバーナンキFRB議長に率いられたアメリカにおいては、対デフレ政策は結局勝利するだろう。

そして首尾よく恐慌の可能性が否定されたときには、劇的な資産価格の暴騰が起こるはずだ。

・・・理屈っぽく書かれてはいますが、要するに適切な経済対策が打たれれば、株価は反転上昇するってことなんでしょう。当たり前っちゃ当たり前ですが。
(まあ現状は対策云々より、ファンドの売りが収まるのを待つしかない、って感じですが)

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2008年10月24日 (金)

資本主義純粋化の失敗

本日付日経新聞・経済教室「自由放任は第二の終焉」(岩井克人・東京大学教授)からメモ。

新古典派によれば、資本主義は純粋になればなるほど理想状態に近づく。非効率性や不安定性があるのは、市場の「見えざる手」を阻害する「不純物」があるからである。不純物さえ取り除けば、後は自由放任主義に徹すればよい。

これに対してケインズが示したのは、資本主義には理想状態などないということであった。効率性と安定性とは二律背反の関係にあり、資本主義が一定の安定性を保ってきたのは、労働慣行や資本規制など市場を阻害する数多くの「不純物」があったからにすぎない。確かに資本主義を純粋化すると、効率性は高まる。だがそれはマクロ的な不安定性を増幅し、恐慌やハイパーインフレを絶えず引き起こしてしまうという。資本主義の存続のためにも、自由放任主義というイデオロギーから資本主義を解放し、何らかの安定化政策を導入する必要があるというわけである。

ケインズの革命は、長続きしなかった。新古典派経済学の反革命が始まり、80年代には再び学界を制覇したからだ。それと軌を一にして、英米を中心に経済政策が自由放任主義に大きく転換し、効率化を旗印に規制緩和が進められた。あらゆるリスクを証券化していく金融革命を先頭に、市場は世界全体を覆い尽くすことになった。「グローバル資本主義」の成立である。

グローバル資本主義――それは、資本主義の純粋化は効率化も安定化も実現するという新古典派経済学の壮大なる実験でもあった。そして2008年米国のサブプライム問題に端を発した金融危機は、その実験の破綻を告げた。現実が立証したのは、資本主義の純粋化は効率性を増す代償に不安定性を増幅させるという「不都合な真実」であった。

・・・論述はさらに「自己循環論法」、「投機」の純粋形態である「貨幣」の本質的な不安定性、など岩井ファンにはお馴染みの概念(出た出たって感じ)を使いながら進められていくのだが、それはさておき、新古典派経済学の実験が破綻したのだとしても、その後に来るものは何かなと。いったんは貨幣の不安定性を抑える方向に行くのは間違いないんだろうけど。

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2008年10月23日 (木)

レーガン主義との訣別

今週の「ニューズウィーク日本版」(10/29号)掲載の「アメリカ株式会社の没落」(フランシス・フクヤマ)からメモ。

(レーガン主義において)とくに神聖視されたのが、減税を行っても財政赤字は拡大しないという考えと、金融市場には自主抑制メカニズムがそなわっているという考えだ。

実際には、レーガン主義者の考えは誤りだった。支出を減らさずに減税すれば、結局は赤字に苦しむ羽目になる。減税に関するレーガン主義の誤りを見えにくくした要因の一つは、経済のグローバル化だ。外国人がドルを買い続けたおかげで、米政府は赤字をかかえながらもかなりのペースで経済を成長させることができた。

レーガン主義者がめざした金融業界の規制緩和は、ウォール街の金融機関の賛同の下で推進された。
規制緩和は、確かに商品開発に役立った。しかし今回の金融危機の元凶は、債務担保証券など、規制緩和で生まれた商品だ。
規制緩和はシリコンバレーのような場所ではプラスに作用するが、ウォール街ではそう簡単にはいかない。金融機関にとって最も重要な信頼を守るには、政府の監督の下で経営の透明性を維持するとともに、リスクの高い取引には手を出さない堅実路線を取る必要がある。

今回の危機から立ち直るには、根本的な変化を起こす必要がある。われわれはまず、税金と規制に関するレーガン時代の考え方を捨てなければならない。減税は必ずしも成長を刺激するわけではないし、最終的に税収増をもたらすかはわからない。
今の金融危機を見てもわかるとおり、規制緩和が生む問題や市場のスピードに監督当局が対応できないと、大混乱を招くおそれがある。

レーガン革命は50年に及ぶ民主党支配を打破し、当時のアメリカがかかえていた問題に解決策を提示した。だが、時代は変わった。

・・・フクヤマといえば、冷戦終末期に「歴史の終わり」(自由な民主主義の勝利)という概念を呈示したことで印象の強い知識人。なので、冷戦終末期以降の新自由主義やグローバル資本主義の勢いに一区切りを付けるような昨今の情勢について、何を語っているのかと気になった。けど、金融危機によってアメリカのブランド力は損なわれている、とかそんな話で、あんまり感心しなかった。

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2008年10月20日 (月)

一つの時代の終わり

今週の「日経ヴェリタス」(10/19付)の「危機原論」(末村篤・特別編集委員)は、今起きていることは一つの時代の終わりを意味する、と説く。以下にメモ。

まず21世紀初頭に姿を現した、高成長・低インフレ・低金利という「ゴルディロックス経済」の終焉である。
ゴルディロックスは先進国の10億人に新興国(BRICs)の30億人が加わるグローバル化の過渡期の現象だった。米国の住宅バブルの資産効果による消費主導の成長と、BRICsの輸出産業中心の投資主導の成長が世界経済を牽引。低賃金労働力の市場参加が先進国の賃金も抑制して歴史的な価格(コスト)革命が起きた。

ゴルディロックス経済は1980年代以降ほぼ30年続いた先進国経済のトレンドの最終段階で咲いたあだ花でもあった。「80年代パラダイム」とは、米大統領と英首相の名前を冠して「レーガン・サッチャー革命」と呼ばれる新保守主義・新資本主義革命である。
旧ソ連の崩壊で拮抗力を失った新自由主義イデオロギーは世界を覆い尽くし、大恐慌の経験から生まれた修正資本主義(福祉国家)の解体、労働者の既得権剥奪と中産階級(ホワイトカラー)の没落が進行した。

この時代を特徴づけたのが金融文化革命で、実体経済の僕だった金融は経済の主役に躍り出る。金融産業は高収益を生む成長産業となり、金融立国として米英を空前の繁栄に導いたが、金融の暴走が招いた世界危機で米英型金融システムは80年代パラダイムとともに寿命を迎えた。

先進国にBRICsを加えた40億人の世界経済は、潜在的な有効需要(モノ需要)が本格的に顕在化することで、80年代以来のディスインフレ経済からインフレ経済に転換する。
物価の上昇だけではない。40億人の経済が直面する深刻な環境、資源、エネルギー、食料の制約を克服するために、膨大な研究開発や設備投資が必要となり、余剰資金が実需に吸収されて、金融主導経済は実物主導経済へシフトする。
金融肥大経済が爛熟し自壊を起こしたパニックは、金融に振れすぎた振り子が実物に回帰する正常化のプロセスの摩擦であり、生みの苦しみでもある。

・・・冷戦後の、あまねく市場化されていく世界を、投資資金が駆け巡るという時代は、大きな曲がり角を迎えたという思いを強くする。

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2008年10月19日 (日)

株主資本主義の欺瞞

強欲資本主義 ウォール街の自爆』(神谷秀樹・著、文春新書)の「第五章 資産運用ゲーム」からメモ。

損益計算書は、「トップ・ライン」とも呼ばれる「売上げ」から始まる。これはお客様に支払っていただいたお金だ。次は製品を生産するコストである「製造原価」で、仕入れ先に支払わなければいけない金額を表す。以下は、たくさんの経費項目が並ぶ。従業員に支払う賃金、銀行に支払う金利もこれらの項目にある。売上げからこれらの諸経費を差し引いたものが「税引き前利益」である。この利益から税金を支払うと、「ボトム・ライン」、すなわち株主に配当できる金額および役員報酬に充てる金額が出てくる。

この損益計算書は、企業活動のあるべき姿を実によく現している。
まずは「何よりもお客様(売上げ)」である。お客様があってこそ、仕入先や従業員にきちんと支払いをすることができる。借金をしていれば金利を支払い、元本も返済しなければならない。儲かっていれば税金を納める。こうした「社会的責任」を十分に果たして、初めて配当と役員賞与に充当するお金が出てくる。

しかし、ファンド・マネージャーは、そのようにはこれっぽっちも考えない。
近年では欧米流の会社は株主のもの、株主重視という考え方が広がっている。経営の教科書的にいえば、企業が将来
どれだけのキャッシュフローを生み出すかを評価したものを「企業価値」といい、そこから負債を差し引いたものを「株主価値」という。従って「株主価値」の最大化を目指すことが優れた経営の目標であり、ファンド・マネージャーの興味もここにある。もっとも、それは歪んだ発想である。

彼らに興味があるのは、「株主の利益」と「自分の収入」だけなのだ。会社は自分たちだけのものであり、自分たちの儲けを最大化するために「トップ・ライン」と「ボトム・ライン」の間にあるすべての支払い義務をいかに圧縮するかに熱心に取り組む。給料を減らす。社員を減らす。仕入先を泣かす。最大限に借り入れてレバレッジを効かし、支払い金利を膨らませ、税金は極力圧縮する。彼らにとっては、これが「株主価値」を高める行為なのだ。通常の人であれば、これは文字通り「本末転倒」と考えるのではないか。「株主資本主義」は欺瞞に満ちている。

・・・ヘッジファンド化した投資銀行の滅亡に伴い、ファンド資本主義的な原理である株主価値経営の在り方にも、強い批判の目が向けられるだろう。冷戦後のグローバリズムを主導してきた米国型資本主義に対する全面的な見直しは避けられない。

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2008年10月18日 (土)

リスクテイクバブル

昨年夏、日経新聞紙上で「リスクテイクバブル」なる概念を唱えていた小幡績・慶應大学大学院准教授が、『すべての経済はバブルに通じる』(光文社新書)で自説を詳細に展開。リスクテイクバブルは、構造的に市場に組み込まれている21世紀型のバブルであるという。その根本にある要素として考えなければならないのは、「証券化の本質」と「投資家と運用者の分離」。まずは「証券化」についての要点。

「証券化」の本質は、資産の「商品化」である。資産は証券化により、「市場価格」の付く投資商品となる。証券化により生み出された投資商品は、その資産の特性の全てが、リスクとリターンとして標準化されている。このため多くの投資家が買い手として現れるので、流動性が飛躍的に高まる。その結果、売りたいときに売れないという流動性リスクは減少する。

次に「投資家と運用者の分離」について。

現代金融市場において、投資家と運用者は別の存在である。これを株式会社の「資本と経営の分離」に倣って、「資本と頭脳の分離」と呼ぼう。頭脳たるプロの運用者は、顧客である投資家の資金引き揚げの可能性に制約され、取るべきでないリスクを取ってしまうという罠に陥る。一方、投資家も、資金を預けた運用者の能力について、結局はパフォーマンスの結果だけで判断して、過大なリスクを取りがちなファンド運用者に資金を預けてしまうこととなる。
この結果、ファンドマネージャーたちは、取るべきでないリスクを過大に取ってしまい、これにより金融市場全体で、リスクテイクが過多になってしまう。これが、リスクテイクバブルの第一の要素である。これに、証券化による投資家の拡大と流動性の増大が価格上昇につながるという連鎖が、第二の要素として加わることにより、リスクテイクバブルは膨張する。

さらに、バブルにおける運用者の行動について。

バブルが発生しているとき、ライバルに勝つためにも運用者はバブルに乗らざるを得ない。しかも目いっぱい乗らないと意味がない。ほとんどのヘッジファンドは、いわゆるレバレッジを効かせている。借金をして投資額を膨らませているのだ。運用の利回りがプラスのときは良いのだが、バブルが崩壊した瞬間に地獄となる。マイナス幅が倍増するだけでなく、借金の担保に提供した証券も値下がりして、即座に借金返済を迫られるためだ。こうして、投資した証券の投売りが始まる。流動性がない資産は売ろうとしても売れないので、流動性のある証券など他の資産まで投売りされることになる。
この負のスパイラルにより、世界の金融市場全体が同時多発的に暴落に見舞われる。現代の金融市場は、「金融恐慌の日常化」という可能性を孕んでいる。

・・・激しい運用競争に打ち勝つために、リターンの極大化を目指す運用者たちは、バブルの中でレバレッジを目一杯効かせてリスクテイクに踏み込んでいく。そしてバブルが崩壊するや否や逆回転の動きが広がり、あらゆる資産の投売りが加速する。現在の極端に異常とも思える世界の株安も、まさにその現れと見るのが妥当なのかも知れない。

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2008年10月 7日 (火)

「現在価値」は万能ではない

本日付日経新聞のコラム「一目均衡」(筆者は末村篤・特別編集委員)からメモ。

投資銀行が担った金融文化の特徴は、あらゆる資産を市場取引の対象とするために、価格を時価で評価する会計思想である。市場価格がないものにまで「時価」を付ける「現在価値革命」の暴走と挫折が、投資銀行を葬り去った。

現在価値革命は、資産価値を過去の費用や利益の積み上げではなく、将来収益の割引現在価値で認識し、すべての金融取引に適用する金融文化を指す。会計上の資本概念は、払込資本に内部留保を加えたものから、時価評価後の資産から負債を引いたものにコペルニクス的転換を遂げた。

計測できないものも計測し、時価を利用し尽くす欲求は、80年代以降の金融資本主義に由来する。株の交換価値は時価、企業の予想収益の割引現在価値であり、高いほど歓迎された。「市場の要請」の名の下で、進行したのが現在価値革命といえる。

IT(情報技術)株バブル崩壊で、2000年代は証券化商品の時代となる。住宅ローンなどを原資産とする資産担保証券を分解・合成した金融商品の価格(時価)は金融工学がはじき出した理論値にすぎない。計算の前提が狂い、価格に疑問が生じれば、市場は消滅し価格も消える。

米金融安定化法は「時価会計凍結」を盛り込んだ。批判は簡単だが、そもそもの価格(評価)に問題があったのだ。行き過ぎた市場主義の問題の根は深い。

投資銀行の消滅で始まる金融文化の見直しでは、高レバレッジ経営とともに現在価値革命の修正が課題になる。

・・・資本主義とは「とらぬ狸の皮算用」なのかと思う。「将来収益」といい「割引現在価値」といい、計算の前提がどこまで合理的あるいは現実的なのか、疑いを挟む余地が大きければ大きい程、資産価値の妥当性も曖昧になっていく。時価評価の規律維持を担保する仕組み作りは必要と思われる。(具体的な事柄は正直思いつかないけど)

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2008年10月 6日 (月)

「承認」という「問題」

例の秋葉原事件をきっかけに、ブログ界では「承認」を巡る論議が湧き上がった。『ブログ論壇の誕生』(佐々木俊尚・著、文春新書)第10章「承認という問題」からメモ。

(秋葉原連続殺傷事件の容疑者の)「彼女がいない」という叫びは、言ってみれば「自分は承認されていない」という容疑者の悩みを象徴するものだったのだ。恋人との関係というのは、無条件での全人格的承認である。

リアル社会で承認されない、接続できない人であっても、インターネットの世界であれば簡単に接続され、簡単に承認される。しかしそこで得られる承認は、限定的でしかない。

でも人は、どこかで無条件に承認されることを本能的に求めている。いまは農村も終身雇用制もなくなってしまって、承認される安息の場所としては、家族や恋人ぐらいしか残っていない。だったら家族や恋人のいない人は、どうやって自分が承認される安心感を抱くことができるのか?

人間は「承認」を求める動物である。そんな話は最近、別の本でも目に付いた。

もともと人間って、自分の存在価値を自分では証明できないから、他者にそれを認めてもらうしかないんです。どうしても他者からの承認を求めてしまうんですよ。(萱野稔人、『「生きづらさ」について』)

自我を保持していくためには、やはり他者とのつながりが必要なのです。相互承認の中でしか、人は生きられません。相互承認によってしか、自我はありえないのです。(姜尚中、『悩む力』)

全く、岸田秀的には「幻想」である自我は脆い。おそらく、無条件の承認は基本的には母子関係においてしかあり得ない。それでも人は自我という虚構を支えるため、無条件の承認を与えてくれる(擬似)共同体的な場所を求める。それは端的に言って、幸福を求めることでもある。梅田望夫が『ウェブ人間論』の中で述べているように、「心地よく生きられるコミュニティを発見して、そこで長い時間を過ごすことって、幸福という観点からとても大切」で、「自分の居場所を見つけていく人だけが幸せに生きることが出来る」のだと思われるから。

若い世代を中心に、自分の居場所を探し続ける人は増大しているという印象が強い。それは承認を求める欲求が切実なものであると同時に、今の社会の中で自分の居場所を見つけるのはそう簡単ではないことも示しているようだ。いずれにせよ、「無条件の承認」あるいは「幸福」とは、求めても得られないのではないかという恐れを抱きつつ、それでもなお求め続けるものだ。と、言うほかない気がする。

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2008年10月 5日 (日)

バブルには効用もある、のか

資本主義は嫌いですか』(竹森俊平・著)の第Ⅰ部「ゴーン・ウィズ・ア・バブル」からメモ。

アメリカの住宅バブルの発生に重要な役割を果たした「低金利」をもたらした要因としては、FRBの政策のほかに「構造要因」も考えられる。グローバル化の進展により、新興国は高い成長率を実現し所得も拡大、それに伴い貯蓄が顕著に増加する。そのことが、グローバル金融市場に潤沢な資金の状態をもたらしたのである。

1997年のアジア通貨危機以降、アジアの新興国は資本輸入に依存した経済発展を嫌い、国内投資を抑制してまでも国内貯蓄の余剰を創出して、それを海外に輸出するようになった。これにより世界経済は「貯蓄過剰」の状態となり、世界金利が下落し、世界各地における住宅バブルを生んだ。

アジア新興国が投資を抑制すると、世界経済には「需要不足」による不況圧力が生まれる。世界各地の住宅バブルによる消費の拡大は、不況圧力を打ち消した点においては世界経済にプラスだった。

ジャン・ティロールの「合理的バブル」の研究によれば、「動学的効率性の条件」(その経済における投資収益率が成長率を上回るという条件)が満たされない時(投資がすでに過剰で、投資収益率が経済成長率以下に低下している状態)には、バブルが経済効率の改善につながりうる。すなわち、バブルは真正な投資に対する代替的な選択肢になることを通じて、資本設備を適正な水準まで縮小させる。これにより真正な投資の収益率も改善されて、「動学的効率性の条件」が満たされる状態を回復することになる。バブルは経済効率を改善させ、「動学的効率性の条件」を回復させるための「必要悪」、あるいは自己調整能力といえるかもしれない。

リカルド・カバレロによれば、新興国における投資対象の不足という根本問題が、「金融資産」市場における「超過需要」(「投資対象への需要」に比べて「投資対象の供給」が不足する)の状態を生み出す。世界各地におけるバブルの頻発は、その傾向を解消する(真正な投資対象が不足するために、代替的な投資対象となるバブル資産を次々につくり出す)ための経済の自然な反応である。

・・・実物投資の対象が見当たらない時に、不況を回避するためにもバブル投資が必要になるということなのかも知れないが、かつて実物投資からバブル、バブルから実物投資へと上手くリレーされたという覚えは無いし、バブルもやがては崩壊して経済に悪影響をもたらすというのは世界経済が何度も経験したところ。それでも金融資本市場における「超過需要」の状態が続くならば、バブルは死なず、ということになるのだろうか。

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2008年9月29日 (月)

「格差」と「日本的雇用慣行」

先日の池田信夫ブログに、格差の原因は「長期不況と、若者を犠牲にして中高年の雇用を守る日本的雇用慣行」であると書かれていた。後者の要因に関連して、『この国の経済常識はウソばかり』(トラスト立木・著、洋泉社新書y)の「第4講」からメモする。

高度成長期以来、大企業の従業員や公務員の場合、中年社員が新入社員の2~3倍程度の給与をもらう日本独特の年功序列型賃金が定着しました。この賃金制度は高度成長、人口ボーナスと言った好条件がそろっていればよいのですが、低成長で人口減の時代になり、社員も高齢化が進むと、中高年社員が給与原資の大半を独占してしまい、企業は儲からなくなるという状況に陥りました。

定年に近い先輩社員から我先に給与をもっていくことになりますから、若者の給与を上げる原資も、新入社員を雇う余裕もなくなってしまいます。つまり、年長者優先の賃金制度があまりにも硬直的になり、合理的に賃金を配分する調整機能が働かなくなってしまったのです。バブル経済がはじけた90年代以降、大半の企業は年功序列により麻痺した賃金の調整機能には手を付けず、新規参入(若者)の市場を「雇用の調整弁」としてフルに活用し、これを目いっぱい活用する方向に動きだしたのです。

「年功序列型の正社員の賃金」を調整するには、企業も大変な時間と労力を要しますので、何もいわない若者という新規参入者の賃金を「激安」にすることで、トータルの労務費を圧縮する道を選んだといえます。

その結果、企業は雇用において「派遣社員制度」に目をつけました。労働者派遣制度の自由化は、過剰な設備、雇用、借金で四苦八苦していた企業側からの要請で生まれたのです。その後、日雇い派遣や二重派遣など派遣社員がどんどん酷使される状況に進んでいきました。

こうして若者が、使い捨ての労働力として必要以上に「商品化」されてしまったのです。若者だけが「調整弁」として、賃金を下げるための「調整力」を「発揮」させられている状況はあまりにも不公平なのです。

この本の「第3講」では、経済成長が望めない状況の中で、政策の合理的な優先順位をつけることが最重要課題になっているにも係らず、マスコミや政治家の関心領域は、既得権を持つ年長者の利害が絡む問題に偏っているため、若者の貧困や結婚難などの「新しい問題」に対応できていないことが指摘されている。

指導者層の世代交代、または発想の転換が無いと、日本は滅びるよ、ホントに。

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2008年9月28日 (日)

グリーンスパンが見た金融危機

グリーンスパン米FRB前議長は、著作『波乱の時代』ペーパーバックス版に追加したエピローグの中で、金融危機に対する考え方を語っている。「日経ヴェリタス」先週と今週(9/21、28付)の2回に分けて掲載された、前議長の言葉とその解説記事(金融危機 グリーンスパン氏のエピローグ)からメモ。

「誰もがリスクを異常に取り過ぎていることを知っていた」
これまで米住宅ローン会社は信用力の低い人にも平気で住宅ローンを供与してきた。リスクを自ら抱えることなく、すべての債権を市場で売却できたからだ。複雑な金融錬金術のおかげでローン債権を束ねた証券化商品には米国債と同じ最上級の格付けがつく。金融機関は収益と資産の拡大につながる証券化商品を買いあさった。
金融業界では住宅の値上がりが止まれば、証券化商品が焦げ付くのは暗黙の了解。だが値上がりピッチに陰りが見えても、収益性の高い住宅ローンや証券化商品の組成ビジネスから手を引
こうとしなかった。収益や資産規模の拡大競争でライバルに後れを取りたくなかったからだ。

「我々が使うリスクモデルや経済モデルは高度かつ複雑になってきたが、それでも世界経済の動きをとらえるには単純すぎる」
モデルに頼りすぎる危うさを当局や金融危機が思い知ったのはわずか10年前(のLTCM破綻)。奉加帳方式でLTCMを救ったのは、今回苦境に陥っているウォール街の金融大手だ。にもかかわらず、教訓はわずか数年で忘れ去られた。

「陶酔感の蓄積を抑えるのは極めて難しい。私は強くそう感じる。この見方が正しければ、行き過ぎた投機熱が自らの力で崩壊するまでバブルは続くことになるだろう」
「金融市場の急変をすべて予測することはできない」
「市場はほぼ一夜にして陶酔感から恐怖心に振れた」

中央銀行はそもそもバブルの生成、膨張、崩壊を制御できるのか。グリーンスパン氏の回答は否定的だ。人間の本性がもたらすバブルは予測や管理が困難で、当局の意思では進路を大きく変えられない。従ってバブルをいかにつぶすかではなく、つぶれた後にどう対処するかを重視する。

「どの危機や調整過程も予想通りの形では起こらない。だからこそ私は適切な資本と流動性の余裕を持つよう金融機関に求める方法を好む」
「保護
主義や硬直的な規制に縛られず、柔軟性と弾力性のある市場を維持し、危機の衝撃を吸収できるようにしておくのが最善の方法だ」

グリーンスパン氏の危機管理にはいくつかの哲学があった。1つは「リスクマネジメント・アプローチ」。最悪の事態に備えて厚めに保険をかけておく手法で、大胆な利下げで金融危機の深刻化や景気の悪化を未然に防ぐのが一般的だった。

「景気循環や金融を扱うモデルでは、今でも人間本来の反応を十分にとらえることができない」
もう1つは「ルールより裁量」だ。グリーンスパン氏は経済の理論やモデルに縛られるのを嫌がり、自由で柔軟な金融政策運営を好んだ。

・・・グリーンスパンが「予言」するように、「今回の危機の先に待つ経済は、これまで慣れ親しんだ世界とは大きく違っている」のだとしても、中央銀行とバブルの闘いは将来も繰り返されるのではないかと思える。

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2008年9月24日 (水)

投資銀行の「バブル」経営

今週の「週刊エコノミスト」(9/30号)の特集記事は「米国金融崩壊」。倉都康行氏(『投資銀行バブルの終焉』著者)執筆コラムからメモ。

レバレッジへの寛容さや利益への飽くなき追求、格付けという偶像崇拝への傾斜、流動性への盲信などによって醸成されたバブルが、サブプライム問題で破裂した。
(同時に)投資銀行の経営に内在するバブル性が引きずり出され、そのビジネスモデルが問われている。

誤解を恐れずに言えば、バブルは金融ビジネスにとっての「怪しい友」である。収益面で楽しませてくれる一方、つきあい方を間違えるととんでもない目に遭う。投資銀行はこの友人とともに発展してきたと言えるのではないか。(その時々の市況環境に応じた金融商品、ジャンク債や資産担保証券などを販売して収益を挙げてきた)
ところが、その過程において、投資銀行の商品開発は、次第にニーズに対応するものから、ニーズを作り出すものへと怪しく変質し、サブプライム問題ではバブルを演出する側に立ってしまった。

バブルを作り出しながら生き延びる戦略は、永続しないビジネスモデルである。
当局によって金融支援を受ける投資銀行に、レバレッジ規制やディスクロージャー強化などが要請されるのは確実だ。実体経済から遊離したビジネスで利益を生み出せる環境の復活は期待できない。今後、投資銀行はM&Aのアレンジャーなど特定部門に特化する企業を除いて、商業銀行の1部門として内在する形に収斂していくのではないか。

・・・まさに投資銀行というビジネスモデルは自壊作用を起こして破綻し、投資銀行バブルは終焉を迎えることとなった。資本取引の自由化を進めて投資銀行にビジネスチャンスの拡大をもたらした、英米主導の「新自由主義」も曲がり角を迎えているとしたら、投資銀行の蹉跌は「冷戦後」という時代の終わりすら示しているような気がする。

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2008年9月23日 (火)

「アラフォー」関連銘柄

今週の「日経ヴェリタス」(9/21付)に「アラフォー」が取り上げられている。まあいちおう経済と投資の専門誌ですから、40歳前後の独身女性「シングル・アラフォー」向け市場と関連銘柄、という感じですけど。

「シングル・アラフォー」はバブル期に20代を過ごし、モノやサービスに対する感度が磨かれ、「自分なりの価値観」を大切にする世代。結婚に関しても「必ずしもしなくていい」と割り切れる。一般論だが可処分所得もかなり高い、とのこと。

彼女たちの消費対象として、まず挙げられるのは美と健康。資生堂(4911)は10月21日に新ブランド「リバイタル グラナス」を発売予定。富士フイルムホールディングス(4901)グループも、化粧品「アスタリフト」を発売している。小林製薬(4967)の肥満改善漢方薬「ナイシトール85」は54億円の売上。購入者の半分は女性という。

住宅購入にも前向きなアラフォー女性。三井不動産(8801)は、独身者らを対象にした「パークリュクス」シリーズを投入。全戸が単身もしくは小世帯向けでセキュリティーに優れている。スルガ銀行(8358)は、女性向けローンの草分け的存在。

少子高齢化や景気減速に伴う消費減退を補う手段として、今後ますます独身アラフォー女性の需要喚起は重要になる、とのこと。

・・・記事によれば、30代後半から40代半ばの女性の独身比率は2~3割に達する、ということらしいのだが、何だか凄い世の中になりました、という感じ。

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2008年9月22日 (月)

「上げ潮」政策の幻

財政出動でも増税でもない成長重視、いわゆる「上げ潮」の経済政策は、現状では空念仏に過ぎないようだ。『この国の経済常識はウソばかり』(トラスト立木・著、洋泉新書y)からメモ。

上げ潮政策は、もともと具体的な成長政策の提示に乏しく、世界経済の成長と軌道を合わせて日本経済も成長を果たそうという面がありました。しかし、上げ潮の前提条件になる生産性の急速な向上や国際競争力のある経済構造へ移行できる制度的な保証は何もなかったわけです。

振り返れば、この数年間の景気回復は、円安と米国市場、BRICs市場の成長に支えられて「外需依存型」でやってきました。それがサブプライム問題を発端とした原油高、資源高、食糧高による世界不況により、今や「上げ潮」の前提は総崩れに近い状況になりました。

齢化、人口減少、財政赤字など日本の成長を妨げている要因に本格的なメスを入れることを避け、自分自身の改革という自助努力を抜きにした成長策は、初めから失速することが目に見えていました。

株式ストラテジストの北野一も、「上げ潮」について意見している。雑誌「論座」10月号(この号で休刊)の鼎談「マネーは国家を超えるのか」における発言。

自民党の上げ潮派の人たちは、「成長率を上げましょう」と言っているわけですね。でも、簡単にできっこない。「生産性を上げるなんてあなた、具体的な方法を教えてください」という感じですよ(笑い)。方法論にリアリティーがないから政権内で説得力を持てないんですよ。

・・・「上げ潮」が実現できれば理想的なんだろうけど、それを具体的に政策化するのが一番難しいワケで。結局、麻生総裁もすんなりと誕生しちゃったし、「上げ潮」派も何となく消えるのかな。ていうか、経済対策か財政再建か、はたまた成長かというような従来型の経済政策の選択よりも、今の日本がやるべきことは、思い切った人口減少対策か、さもなくば道州制も含めた国家的制度改革か、って感じだけどね。

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2008年9月21日 (日)

投資銀行と新自由主義

リーマン・ブラザーズ消滅で『投資銀行バブルの終焉』(倉都康行・著、日経BP社)を読む気になった。巻末近くにある「後退する新自由主義」の章からメモ。

1970年代後半から1980年代の英米において、レーガン、サッチャーの両首脳が主導した「新自由主義時代」が生まれた。投資銀行が勢いを増した背景には、規制を排除して自由市場を中心とする経済システムを構築しようとした米国流の政治的意識も、強く働いていたと見るべきだろう。誤解を恐れずに言えば、投資銀行の隆盛やサブプライム問題はこの新自由主義の申し子である。

この米国が主導してきた新自由主義的なイデオロギーに基づく投資銀行スタイルの金融は、結果的に、その「自由」を拡大解釈し、大きく躓くことになった。住宅価格の上昇を前提としつつ証券化市場でのリスク・テイクを見込んで、信用力の低い借入れ人に対して無造作に住宅ローンを提供していった行為は、当局の視野の外側で急激に増加し、当局の監督外で急速にそのレバレッジ行為が進んだのである。
住宅ローンをアレンジするモーゲージ会社は、リスクは投資銀行が引き取るものと考えた。投資銀行は、そのリスクは投資家である保険会社やヘッジファンド、商業銀行などが引き取ると考えた。だが、投資家は、数多くのローンがパッケージされて切り分けられた証券化商品に、個別リスクを感じることはできなかった。リスクが分解され、分散される中で、責任感は雲散霧消してしまったのである。

民主社会と同じように金融市場においても「自由」は必要である。だが、それは同様に一定の社会責任能力を備えて初めて主張できるものだ。自由を武器にするなら、成熟した倫理感を持つ企業でなければならないが、利益優先哲学に溺れた投資銀行は、自らモラルを粉砕してしまったのである。

新自由主義は、強い批判を受け始めている。一時的にせよ、新自由主義が後退するのは世界の潮流であり、その中で一度破裂した「投資銀行バブル」が再び蘇るとは考えにくい。

・・・金融市場の主要プレイヤーが、過度の利益追求に走り、モラルを低下させるところにバブルが生まれる。経済主体が自律性を保てれば、規制の少ない環境でも構わないのだろうが、一方で競争も激しくなるため、どうしても利益追求への誘引が強まるのは避けられない。「規制」と「モラル」と「利益追求」のバランスを保つことは容易ではない。

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2008年9月18日 (木)

裁定型金融の「破綻」

リーマン・ブラザーズの破綻は、投資銀行に解体的出直しを迫っている、と指摘するのは池尾和人・慶応義塾大学教授。本日付日経新聞「経済教室」からメモ。

世界的に金融資本市場の自由化が開始された1980年代以降、しばらくは資産価格に関して多くの歪みが存在し、裁定型金融(流通過程での価格の差異に利益の源泉を求める、要するに「安く買って、高く売る」)で利益を上げる余地は大きかった。
同時に、従来は適切な取引手段がなかった種々のリスクに関し、それらを取引対象化するような、デリバティブに代表される金融技術革新が実現した。こうした革新の当初、米国の投資銀行は、まさに先駆者として各種のデリバティブ市場の開拓を主導し、価格体系の歪みの鞘を抜くことで多額の「創業者利得」を稼いできた。

しかし裁定が成功して、価格体系の歪みが解消されていけば、裁定取引でそれ以上の利益は上げられなくなる。裁定型金融のビジネスモデルは成功したがゆえに、世界的な金融資本市場の効率化をもたらすとともに、自らの収益機会を枯渇させることになっていった。

だが収益機会が乏しくなる中でも、米国の金融サービス産業には依然、高収益を求める圧力がかかり続けた。こうした状況の中で、高収益を維持するため、(金融商品のリスク特性を隠蔽する、あるいは金融商品や取引の内容をいたずらに複雑化することでリスクの過小評価をもたらす等の)「不公正取引」が増殖していったと考えられる。それが顕在化したのが、今般の信用市場危機であるということができる。

裁定型金融のビジネスモデルに基づく米国の金融サービス産業が、今後もこれまでと同様の高収益性を維持できるとは考えがたい。裁定型の金融活動は、その本来的な存在意義に見合う規模と範囲に縮小せざるを得ないだろう。

・・・このような高い見識を持つ先生が、日銀審議委員の候補者で終わったことを改めて残念に思う。日銀人事を政争の具にした民主党の愚に呆れる。

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2008年9月14日 (日)

グリーンスパンの見立て

グリーンスパン・FRB前議長は、『波乱の時代』ペーパーバック版に書き加えたエピローグの中で、サブプライムローン問題に端を発する今回の金融危機が収束する時期はまだ先であるとの見方を示している、とのこと。今週の「日経ヴェリタス」(9/14付)記事から、グリーンスパン氏の言葉をいくつかメモする。

「歴史を見ると、リスクの過小評価が長引いた時期はいくらでもある。問題はそれがいつ、毎度のように突然の終わりを迎えるのかであった」
「(バブル崩壊の)恐怖心は(バブル膨張の)陶酔感よりもずっと強い力を持っているのである」

「(今回の金融危機は)私が過去に見たどの危機とも違う。銀行業界と証券業界の主要部分を同時にマヒさせてしまったからだ」
「計上した評価損が銀行の実際の損失を正確に反映したものかどうかは今後何ヵ月も分からないだろうし、おそらくは何年も分からないだろう。この不確実性だけでも、今回の危機が完全に収束するまでにはまだ時間がかかることを意味する」
「米国の住宅が実際にどの程度の価値を持つのかは今後1年かそれ以上にわたって分からないだろう。従って不確実な状況はしばらく続く」

「冷戦後のディスインフレの圧力が徐々に消え、インフレ圧力が幅広い分野にあらわれてきている。これが手に負えなくなるのを防ぐことが今後、世界各国の中央銀行にとって主要な課題になるだろう」

・・・金融危機後の世界はインフレが復活する。その予測が意味するのは、世界のほぼ全域に市場経済が広がり、競争激化や労働コストの低下で物価が安定し、新興国で膨らんだ余剰資金が市場に流れ込んで金利が低下し、バブルの膨張と破裂が繰り返された「冷戦後」の時代の終わりでもある。

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2008年9月 1日 (月)

流動性と自己循環論法

今週の「週刊エコノミスト」(9/9号)の特集は「危機の経済学」。岩井克人・東京大学経済学部教授の評論からメモ。

貨幣というのは、効率性と同時に、必然的に経済に不安定性を生み出す。なぜならば、人が貨幣を手に入れる時、誰かほかの人が受け取ってくれることを予想して手に入れるのである。すなわち、貨幣を持つことは、純粋な「投機」活動なのである。投機はもちろん不安定性をもたらす。貨幣は経済に効率性をもたらすが、その裏側で不安定性の可能性を生み出し、この2つを切り離すことはできない。

こうした意味で、サブプライム問題には貨幣の問題のエッセンスが入っている。1つはサブプライム自身が持っている不安定性だ。貨幣でも他の金融商品でも、流動性とは本質的に自己循環論法によって支えられている。多くの人が流動性があると思っている限り、いつでもどこでも簡単に手放せる流動性を持つのである。それは同時に、もし多くの人が流動性がないと思い始めたら、その流動性が消えてしまうことも意味する。そして、サブプライムローンが安全ではないことが分かり始めたとたん、関連する金融商品の流動性は一気に低下して信用収縮が生じ、世界の金融市場がパニックに陥ってしまった。

しかも、それが米国の金融市場を中心に起きたことで、さらに次の流動性の問題に発展した。ドルに対する信認が揺らぎ始めたことだ。これが2つ目の問題だ。基軸通貨としてのドルを支えているのは、もちろん貨幣をめぐる自己循環論法であり、世界の人々が基軸通貨であると思っているから、基軸通貨の地位を保っているだけにすぎない。人々のドルに対する信認が失われると、ドルの基軸通貨としての地位は低下する。

貨幣の本質的な不安定性、自己循環論法・・・。岩井節、全開!

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2008年8月29日 (金)

最長景気、終了

好景気は終わったそうだ。えっ、景気って良かったの?って感じだが、本日付日経新聞「戦後最長景気 実感なく幕」からメモ。

エコノミストの間では、昨年末から今年初めに後退局面に入ったとの見方が大勢。仮に07年12月まで回復局面だったとすると、景気の拡大期間は71ヵ月。これまで戦後最長だった「いざなぎ景気」(1965年11月―70年7月、57ヵ月)を上回り、「バブル景気」(86年12月―91年2月、51ヵ月)もはるかにしのぐ。

回復期間も記録なら、成長の伸びが小さかったことも記録的だ。戦後の景気拡大局面の期間中の平均成長率(実質年率)を試算したところ、今回(02年1-3月期から07年10-12月期まで)は2.1%。いざなぎ景気の11.5%、バブル(平成)景気の5.4%に比べはるかに低く、GDP統計が整った55年以降で最低となった。これでは成長を実感するのは難しい。

輸出頼みの鮮明さも記録的といえる。08年度の経済財政白書の分析では、実質GDPの伸びに対する輸出の寄与度は61%と、過去の景気回復局面で最大。個人消費の37%、設備投資の31%を大きく上回った。中国やロシアといった新興国向けに輸出が急拡大したことが背景にあるが、こうした輸出依存の体質が、逆に世界経済の減速の影響をもろにかぶる脆弱さを招いた。

この景気を何と呼ぶかをエコノミストに尋ねたところ、外需主導の「新興国特需景気」「グローバル化景気」、家計への波及力が弱い「所得増なき景気」「賃金停滞景気」、好況感に乏しい「無実感景気」「もやもや景気」「惰性景気」などのネーミングが返ってきたという。何か全体的にサエない。

まあ確かに「惰性景気」というか、何となく続いた「だらだら景気」って感じ。景気拡大の理由としては「新興国特需」なんだろうけど、あんまり説明的なのもネーミングとしては決まらないので、やはり「グローバル景気」(化を付けると噛みそうだ)が無難かな。

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2008年8月 4日 (月)

コミュニティの意義

「生きづらさ」について』(光文社新書)の中で、萱野稔人がニューアカ的思想の影響を受けた世代を批判している箇所がある。いわく、この世代はベタなものが嫌いで何でもネタにして戯れる。共同体的なものを否定して、脱アイデンティティでいくという発想がとても強い、と。

思い当たるフシもある。その当時、共同体を拒否して社会の中で交通せよ、みたいな言い方を自分もカッコイイと感じていた。しかしポストモダンの流行から20年以上が過ぎ去り、なかなか現実はそういうもんじゃない、共同体は簡単には否定できないし、ベタに認識してベタに取り組むべき問題もある、ということも感じている。ていうか単に自分が年を取ったということなんだろうけど。

確かに、他者となんじゃかんじゃコミュニケーションして自分のことを認めさせる社会はそれなりにシンドくて、単にそこに所属しているだけで自分のことを認めてもらえる共同体の方がラクな訳だし、だからこそ、高いコミュニケーション能力を求められる今の社会の中で、自分の居場所になる共同体を見つけたり作ったりする意義は大きいということはよく分かる。

おそらく、単にコミュニケーション能力が求められるだけなら、そのことが「生きづらさ」に直結するというものでもない。それは「競争的な」コミュニケーションであるから、人を疲れさせるのであり、つまるところは常に企業にコスト意識を強いるグローバリゼーションの反映なのだよ、という話になるのだろう。激しい競争の中にある企業にも、膨大な借金を抱える国にも、余裕はない。日本は豊かだけど余裕のない社会になっている。その中で人々も「普通の生活」を維持するのに多かれ少かれ疲れている。だからこそ余計にラクになれる共同体やコミュニティが必要なのかな、とも思う。

この本の中で萱野が「だめ連」の名前を出していた。あったよなあ、「だめ連」。テレビに出たりして「脚光」を浴びていたのは、もう10年位前か。彼らも毎日働くという「普通の生活」を放棄して、いろんな人と「交流」して生きる、みたいなことをやっていたっけ。

少し話は変わるが、「隣人祭り」という活動がある。パリで始まったもので、要するに、たまにはご近所さんで集まって飲んだり食べたり話をしましょうよ、という活動。たまたまNHK「クローズアップ現代」で見たのだが、本も出ていた(『隣人祭り』ソトコト新書)。あの個人主義的なイメージの強いパリの人たちが始めたコミュニティ作りの運動は、国境を越えた広がりを見せているとのこと。

ベタに言えば「友愛」の情を持って、人と人が繋がるという事は可能なのだと思いたい。

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2008年8月 3日 (日)

『「生きづらさ」について』

今どきの若い世代が直面している困難とはいかなるものか。
雨宮処凛と萱野稔人の対談本『「生きづらさ」について』(光文社新書)を読んでみる。以下の引用はすべて萱野の発言。

萱野は今の「生きづらさ」の根元には、「コミュニケーションのあり方」の問題があると見る。それは「アイデンティティ」のレベルにおける「生きづらさ」と深く関わっている。

出発点は、人は他者からの承認を必要とするということ。
「やっぱり、人から認められることが、自分の存在価値を証明する一番の回路だと思いますよ。もともと人間って、自分の存在価値を自分では証明できないから、他者にそれを認めてもらうしかないんです。どうしても他者からの承認を求めてしまうんですよ」。

他者からの承認を得るために人は仕事をする。そして、居場所を得る。即ち所属する。
「ひとりの人間が社会のなかで認められるための、もっとも大きなファクターはやはり『仕事』です。仕事をつうじて、ひとは社会のなかで居場所を獲得し、所属をあたえられ、認められる」。「『所属』というのは、一方で、いざというときに頼りになって生活を保障してくれるものであると同時に、他方で、『私はここに所属している』というかたちでアイデンティティを保障するものでもあると思うんですよ」。

この「所属」または「承認」概念を巡って、共同体と「高いコミュニケーション能力が要求される」今の社会とが対比される。
「何らかの共同体に所属し、そのなかで認められたり必要とされたりするというのは、いまのコミュニケーション重視型の社会のなかでは一種のアジール(避難所)としての役割をもっていますよね。共同体というのは、『無条件に認めてくれる居場所』を、所属によって与えてくれるものなんです。これと対極にあるのが、いまのコミュニケーション重視型の社会です。そこでは、流動化した人間関係のなかでそのつど他人から認められるよう努力しなくてはいけない。こうしたコミュニケーション重視型の社会と、共同体的な承認のあり方を比べたとき、どっちがいいのかというのはたしかに難しい問題です。ただ、確実にいえるのは、まったく共同体的な承認なしにコミュニケーション重視型の社会を生きていくのは相当キツイということです」。

「社会が流動化すると、人はそのつどのコミュニケーションのなかで競争的に承認を獲得しなければならなくなる。過酷な承認のゲームが社会全体に広がっているんですね」。「いまの流動化した社会のなかで、無条件に存在が承認されるような居場所をどのようにつくっていくか、というのはとても難しい課題です」。

・・・承認または所属を得るために、競争的なコミュニケーションを強いられることで「生きづらさ」を感じる社会。それは若者だけの問題ではない。

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2008年7月17日 (木)

アイルランド躍進の理由

本日付日経新聞1面の連載記事「都市と地方」で、地方が採用可能な成長政策の実例として引合いに出されていたのが「アイルランドの奇跡」。かつての貧国アイルランドは、いまや一人当たりGDP世界第4位の豊かな国。日本の3分の1という法人税で外資企業を呼び込み急成長を遂げた。日本でも地方分権を進めれば、地方が特色ある政策を打ち出して、都市に負けない豊かさを実現できる可能性がある――と日経記事は指摘する。で、なぜか今週の「R25」誌にもアイルランドの記事があるのでメモ。

「アイルランドは現在、アメリカ企業のEU向けの輸出・製造の拠点が置かれ、両者の架け橋となっています。なぜ外資企業が集まるかというと、国民のほぼ全員が英語をしゃべれること、教育水準が高いこと、そして法人税をEU諸国内で最も安くするといった外資優遇政策をとっているからです。アイルランドは貧国だったため、国内産業が育たず、外資を受け入れることが成長の近道でした。内資企業との利害調整などの障壁もないため、このような政策がとれたのです」(中央大学・田中素香教授)

アイルランドの人口は福岡県くらい。小国ゆえ、小回りが利き、大胆な政策もとれ、まとまりやすいそう。勤勉で優秀な人材が多く、賃金が安いことも成長の一因だ。

「役人も優秀です。EUからの援助金をインフラ整備や外資誘致のために効率的に使っている。大学を含めて教育費も無料です。今は住宅市場に陰りが出始め、やや苦しいですが、政府・労組・資本家の協調体制で切り抜けられるでしょう」(同)

現在はDELLやIBMなどIT産業を中心に1000以上の企業が進出。世界に散らばったアイルランド移民も、豊かになった母国に戻りつつあるという。

・・・人口減少や産業衰退に悩む地方には、アイルランド的政策も選択肢の一つとは思う。しかし、英語力が必要になりそうなのは自分的にはメンドくさい感じ。(苦笑)

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2008年7月 7日 (月)

高齢化するアジア

世界経済にとって重大な問題は「オイル」よりも「老いる」ことだ・・・すべったか。

今週の「週刊エコノミスト」(7/15号)の特集は「老いる世界」。人口減少や少子高齢化は日本や先進国だけの問題ではない。新興国も急速に高齢化への道を歩み、世界は確実に老いる。「高齢化がもたらす『アジアの時代』の終焉」(小峰隆夫)からメモ。

今後50年間のアジアの人口の変化は、一言で言えば「雁行形態型の人口変動」が起きるということである。アジアでは日本→NIES→ASEAN→中国という順番で産業構造の高付加価値が進展してきた。これが「雁行形態型の経済発展」で、これからはその人口バージョンが発生するのである。

先頭はここでも日本である。日本ではアジア諸国に先駆け、少子化の進展→65歳以上の高齢者の比率が人口の14%以上となる高齢社会への移行→労働力人口の減少→総人口の減少――という順序で人口が変化してきた。今後は後続のアジアの国々でも同じことが、ほとんど同じ順番で起きる。
日本に続く第2グループは韓国、シンガポール、タイ、中国など。これにやや遅れて、第3グループといえるタイ以外のASEAN諸国、インドが続く。

人口の変化は、2つのルートを通じて成長に影響する。1つは労働力人口の減少だ。もう1つは、貯蓄率の低下による資本蓄積の鈍化だ。
こうした要素を考慮して長期的な成長率を展望してみると、まず日本は、40年代にはほぼゼロ成長となる。これに続く第2グループの国々は、20年頃までは3~5%台の成長を続けるものの、韓国の成長率は30年以降1%を割り込み、中国も40年代には1%程度の成長まで鈍化する。第3グループの国々も、成長率が鈍化するが、第2グループよりは高水準を維持する。例えば、インドは40年代に入っても3%弱の成長率を維持する。

ということで、今後は日本が高齢化の中で経済社会の活力を維持することができれば、それが21世紀におけるアジアの新たな成長モデルとなる、と指摘している・・・んだけど、そんなに簡単に解決できる課題とも思えないな。

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2008年7月 6日 (日)

日本株を上げるには

「日経ヴェリタス」今週号は、4人の外国人運用担当者に取材した特集記事(世界株安 砦はどこに)を掲載。結論的には「世界経済の先行き懸念は強く、原油高が最大のリスク要因。そのなかで、アジア、資源、インフラ(社会基盤)整備をキーワードに投資先を厳しく選別する」とのこと。日本株について、もっともストレートに語っているレイモンド・チャン氏(RCMアジア・パシフィック最高投資責任者)の発言をメモ。

世界の市場のなかで、今年は日本株がアウトパフォームしている。株価水準も極めて低く、もっと高くなるべきだと思う。しかし、私たちの運用では日本株は中立だ。第1に小泉純一郎首相の退陣後、政府に強い指導力を持った人がいない。第2に日銀総裁の存在感が乏しい。第3に外国から有能な人材を集める移民政策がない。第4に企業が改革に消極的だし、政府も企業に改革を迫っていない。

日本は世界で2番目の経済大国なのに、1990年以来18年間もこれといった成長がないのは信じられない。どうして日本人はもっと変革を求めないのか。もし、日本国民がこのままではダメになると本当に気づいたときには、たぶんもう遅すぎる。少しでも早く気が付いて改革に取り組んだ方がいい。

・・・振り返れば1990年代、バブル崩壊後の経済が長期低迷する中で、日本経済や日本経営の見直しについて議論は活発に行われたが、現実の政策は財政出動による経済対策が繰り返されるばかりだった。21世紀に入ってから小泉政権において、ようやく改革らしい改革、すなわち従来のやり方を変える形の政策が実行され始めたのだが、小泉退陣後は改革継続機運も薄れつつあるのは否定しようも無い。「改革」を巡る現状がお寒い限りとあれば、日本株の先行きにも余り期待は持てないことになるが・・・。

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2008年6月26日 (木)

「不確実性の分析」(経済教室)

本日付日経新聞「経済教室」(執筆者は奥村洋彦・学習院大学教授)は、「不確実性」の問題を取り上げている。以下にメモ。

今日見られる金融不安の高まりや金融危機は今回特有ではない。むしろ、市場経済が常時生み出す事象といってもよい。

金融の不安定性と不確実性とは不即不離の関係にあるが、これらを重視するモデルの原型は、1920年代―30年代の、F・ナイトとJ・M・ケインズに見られる。両者とも、①現在の経済行動は人々が将来をどう予想するかにかかっている②将来の「場」は現在や過去の「場」と異なるので、何が起きるかを客観確率で予想できず主観確率に頼らざるを得ない③人々の情報や計算能力は完全なものではありえない、などを理由に、経済システムには不確実性が内在していると考えた。
(客観確率:確率分布の情報あり、主観確率:確率分布の情報がないか不完全)

ナイトは、将来何が起きるか客観確率のある場合をリスクとし、ない場合を不確実性と峻別、一方ケインズは、金融が実物経済に影響を与えるメカニズムや金融危機が内生的に発生するメカニズムを明らかにした。

第二次大戦後、米国でH・ミンスキーが、ケインズモデルを拡張・深化させ、発達した金融市場とその下で不安定な動きをする実物経済を関連づけるモデルを構築した。これが「金融不安定性」モデルである。(市場経済自体に金融不安定性が内在している、つまり安定や均衡が達成されたとしてもそれは一時的で、人々の行動は次第に中から変化し再び不安定になる、ととらえるモデル)

(バブルや金融危機の発生を完全に防ぐことはできないにしても、政策運営や企業活動をより有効なものにするためには、)経済の現場、つまりは、生身の人間行動から出発し、不確実性下の人々の意思決定がどのようなメカニズムで行われるか、特に、人々が主観確率で将来をどう予想するかという期待形成プロセスの観察・分析とそれを取り入れた経済理論の構築が欠かせないということだ。

・・・金融の肥大化と共に経済の不確実性も拡大していく状況の中で、経済合理的に行動する人間を前提としていた従来の経済学も変貌を余儀なくされていくのかどうか。

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2008年6月 7日 (土)

「社会的実体」と「共同幻想」

日経新聞「やさしい経済学」、ただ今、岩井克人・東京大学教授が連載中(言語・法・貨幣と「人文科学」)。5月30日掲載の第1回に、言語・法・貨幣は「社会的実体」であると述べられている。社会的実体・・・うーん。どうしても吉本隆明または岸田秀用語の「共同幻想」の方が馴染みがあるので、ちと違和感。ということで2年前に出ていた『資本主義から市民主義へ』(岩井先生への三浦雅士によるインタビュー、新書館)を読むことに。本の中で、「共同幻想」という言葉について岩井先生が語っている箇所がある。

ただ、ぼくは幻想という言葉は使いたくないんです。幻想じゃないんです、これは。実体なんです。真理なんです。根拠がないということと、幻想であるというのは違うと思うんですよ。だから吉本さんの共同幻想という言葉も、あれは誤解を招きます。やっぱり国家は実体です。権利も実体です。社会的実体。ただその社会的実体は社会との相関関係のうちにしかないということです。そういう意味では、物理的な実体ほどの確実さはありませんけれども、しかしあくまでも実体です。

・・・確かに自分も、「幻想」という言葉に少し語弊があるとは感じるのだが、「共同幻想」でも「社会的実体」でも、それ程違った事態を指しているとは思わない。だって「社会的実体は社会との相関関係のうちにしかない」んだから。つまり相対的な「実体」であり、絶対的あるいは普遍的な根拠であると認められるような根拠がある訳じゃないよ、という話。なので、別に三浦の言う「(建設的)虚構」でも構わないし、とにかく約束事の膨大な集積が社会の秩序を形成している、それが人間的な「現実」なのだと思う。つまり人間は日常的に強く意識していなくても、実は相当観念的な世界に生きている。

人間社会の秩序を形成している約束事は約束事でしかないとも言えるのだが、それらがいったんルールとして社会に共有されると、人間の心理や意識に「物理的」に作用して、人間の行動を決定していく摩訶不思議な事態が起きる。このように共有されたルールに則って、例えば商品や為替のデリバティブで毎日儲かったとか損したとか騒いでいる訳だから、それらのルールにもともと大した根拠は無いのだと考えると、何だか空恐ろしいことをやっているのだなと思えてくる。

実際、人間の生活においては、他人に言葉が通じるだとか、他人がお金を受け取ってくれるだとか、実は不思議なことが毎日当たり前のように起き続けている。たぶん、これらの約束事が社会の中でなぜか機能していくという、その事態の根底に倫理の兆しを認めても良いのかなとは思う。もっとも、それこそポストモダンの人間観に従えば、それは倫理というよりも「ホモ・デメンス(狂ったサル)」の持つ秩序への欲求、社会的生存に必要な最低限の合理性とでも見るべきかも知れないが。

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2008年3月16日 (日)

「JAGAiN」(日経ヴェリタス)

本日創刊の「日経ヴェリタス」紙。特集のテーマは「ニッポンの価値」。英エコノミスト誌のいうJAPAiN(苦痛に満ちた日本)など日本に対する悲観論が優勢な中で、東京の不動産や割安な日本株への投資を進める投資家やファンドへの取材を通して、JAPAiN論者には見えないニッポンの価値がある、つまりJAGAiN(収益が得られる日本)なのだ、ということを示そうとしている。

・・・のだが、JAGAiN、ねえ・・・語呂合わせとしてはすべり気味かなぁ。とりあえず株価については、記事の中で何人かのファンドマネージャーが語るように、歴史的割安水準であり、優良株等に投資を行えば長期的視点で収益が見込めるのだろうけど。

思うに、バリュー(割安)投資は基本的に、資金も投資期間も比較的余裕のある投資家向けの手法なんだろう。相場はトレンドとサイクルから成り立っている訳だから、あるトレンドは一定のサイクルが過ぎれば反転し、価格も戻っていくというのは自明の理。しかし多くの投資家にとって肝心なのはタイミング。知りたいのは、いつトレンドが変わるのか、ということなので、結局は将来の見通しが投資行動に大きく影響するのもまた自明の理。現在のようにマクロ経済が大きく悪化しない見通しの立たないところで、ただ過去に比較して割安だからといって投資に踏み込んでいくような心理的余裕を、普通の投資家はまず持てないでしょうね。

まあ先のことを見通すのって難しい。てか殆ど不可能。(ため息)

(ヴェリタスって一部500円もするんだな。週刊でカラーとはいえ何と高い新聞だろう)

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2008年3月12日 (水)

経営努力が足りない!

本日付日経新聞市況欄コラム「大機小機」(企業魅力度の減退)からメモ。

日本の株価の下落は、企業業績のピークアウトに大きな要因がある。米国経済に変調の兆しが見えたため、多くの日本企業の経営無策ぶりが露呈したともいえる。

では昨年度まで日本企業の業績が二ケタ増益を記録してきた事実とは何だったのか。

まず、資産の効率性はどうか。資産当たりの売上高は増加してはいるが、遅々たるものである。
その売り上げが十分な利益を生み出しているかといえば否である。売り上げに対する総付加価値(人件費、営業利益、減価償却費)の割合が低下を続けている。
資産の効率性が高まらず、総付加価値率が低下すれば、企業利益は圧迫される。にもかかわらず増益を記録できたのは、総付加価値に占める人件費の割合、いわゆる労働分配率が低下したからだ。

つまり、大企業の多くは、海外景気の好調と、その好調な海外景気に起因した円安と、(高賃金の)団塊の世代の退職効果に支えられ、二ケタ増益を謳歌しただけだ。経営努力の積み重ねがもたらしたものではない。

今後の企業経営は、資産のスリム化と、総付加価値率の向上に重点が置かれるべきだ。さもなければ、日本企業の魅力度が一段と減退し、株価も低迷を続けよう。

・・・日本企業の収益拡大は結局、世界的好景気と賃金抑制の賜物だったのだろうか。とすればやはり、日本株の脆さは企業経営の脆さの反映ということになるのか。何にせよ、企業活動においては資産効率を高め、より多くの付加価値を生み出す、要するに企業価値向上を目指す経営努力が不断に求められるってこと。

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2008年3月10日 (月)

「未婚化」克服は「婚活」で

今週の「週刊東洋経済」(3/15号)に掲載されている山田昌弘・東京学芸大学教授のコラム記事(少子化を防ぐには「婚活」支援が必要)からメモ。

日本で少子化が進んだ要因は、結婚する人が少なくなったことにある。
私は未婚化の主因は、若者の経済状況の悪化にあると判断している。

ただ、今の若者を観察していると、結婚に至るプロセスが20年前とまったく変わったことも、大きな要因として挙げられる。80年ごろまでは、就職と同じように「流れに乗っていれば」、ほぼ全員が自動的に結婚に至るシステムが用意されていた。

しかし、男女交際が活発化し、自由になる。そして、結婚後のライフスタイルの選択肢が増える。すると、かえって、結婚がしにくくなってきたのだ。
それは、①出会いに格差が生じ、②未婚男女が出会っても、お互いが好きになる確率は低下する。相手に対する選択肢が多くなればなるほど、自分が選択されない機会が増えるからだ。
また、たとえ恋人になったからといって、結婚するとは限らなくなった。結婚後の生活の選択肢が
増えただけ、2人のすり合わせが必要になってくる。そうしている間に、破綻して別れることも多くなる。

つまり、黙っていたら、①結婚にふさわしい異性に自動的に出会えない、②異性と出会っても、相手から選ばれない、③恋人になっても結婚に至らない――。かくして、日本社会では未婚化が進行することになる。

つまり、「就活」しなければよい就職ができないように、主体的に努力しなければ結婚ができない時代に突入したのだ。①を防ぐためには、積極的に異性と出会う場に行く。②を防ぐためには、自分の魅力を高める。③を防ぐためには、将来の結婚生活に関するすり合わせを積極的に行う。

これらの活動を山田先生は「婚活」(結婚活動の略)と呼び、「婚活」を公的私的にサポートすることが少子化対策になると説く。

・・・「自然な出会い」を待つだけでは、おそらく何事も起こらないまま時が過ぎていく。結婚したいのならば、常に意識的に努力することが必要。シビアな時代だと思う。

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2008年3月 9日 (日)

合コンのリアル

まずは本日付日経新聞コラム「春秋」から引用。

もてる男の条件は「三高」だと言われたのはバブルのころだったろうか。収入、学歴、身長がそろって高い男性を意味する造語だった。いま若い女性が結婚相手に求めるものは「三低」だという。低姿勢、低依存、低リスクを指す。

女性に威張らず、家事は自分でこなし、安定した職業や資格を持つ。そんな三低男を見分ける格好の場が男女混合の飲み会、すなわち合コン(合同コンパ)だと若手社会学者らの共著「合コンの社会学」は解説する。場の女性に等しく気配りできるか。料理を上手に取り分けるか。仲間の評判は。笑顔の裏でしっかり観察しているそうだ。

・・・最初からこの「三低」条件をすべてクリアして「勝利者」となる男は現実には皆無に等しいだろうから、これが今の合コンだとすれば、例えば内田樹先生の言う「合コンは勝者総取りシステム」というのは、やや観念的な了解かな、という感じがする。実のところ、合コンは出会いの場としては「難易度が高い」と見るのは、ジャーナリストの白河桃子。著書である『「キャリモテ」の時代』から以下にメモ。

なぜ合コンは難易度が高い出会いの場かというと、「集まっている人の目的がバラバラだから」。恋人がほしい人もいれば、真剣に結婚相手を探す人もいる。下手すると「既婚者」までが合コンにいそいそとやってくる。結婚に向かう出会いの場としては確率悪し。瞬時に相手のニーズを見極める能力やプレゼン能力を有する、コミュニケーション力が高い人向け。

・・・結局合コンで示されるのは主として社交能力だから、それだけで彼または彼女がどういう人物か分かる訳も無い。合コンというのも、付き合う相手を見つけるきっかけになるかも知れないけど、ならないことの方が多いというのが現実なのだろうと思う。

(でも低姿勢はともかく、今どきは男の方も低依存、低リスクの女性を求めているかも)

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2008年2月29日 (金)

鮎川・吉本対談、再読

容疑者が再逮捕された、いわゆる「ロス疑惑」。激しい報道合戦が繰り広げられたのはもう20年以上も昔のことだが、この事件を巡るお互いの意見の対立が、鮎川信夫と吉本隆明という二人の文学者の「訣別」につながった(らしい)ことを思い出してしまうワタシは、やっぱりオールドな文学青年なのだな。事件を巡る両者の意見が読める「全否定の原理と倫理」という対談が収められた同名書籍(1985年)を図書館から借り出して、あらためて目を通してみた。(この対談本が出てから一年後に鮎川信夫は死去)

この対談のメインの話題は、当時の「埴谷-吉本論争」や「反核運動」だったりする訳だが(ありましたねえ、そういうの)、とりあえず事件についての部分では、まず吉本が鮎川の著述に対する異論を示す形で語る。

「それこそぼくが戦争体験から原則的に学んだところではね、つまり、本当に鮎川さんが目で確かめ、手触りで確かめ、書類で確かめた上で、これは確実だということがない限りは、人は人を犯罪者として否定してはいけないんだというのがぼくの原則の中にあるんですよ。仮りにその人が非常に確からしく犯罪者であったとしても、犯罪者であることはその人の死命を制することですから、これはもう本当に確かめてでなければそれを断定してもいけないし、また疑念を持ってもいけないと思うのですよ」

これに対して鮎川は、

「変な言い方かもしれないけれど、確証よりは、ぼくは人ってものを見なけりゃいけないと思うの」。「ぼくはつまらない事件だったら問題にしないよ。しかしちゃんと二人の人間が殺されて死んでいるわけだしね」。「彼がおかしいってことを追及することはまったく、ぼくは自由だと思う」。

と述べるのだが、吉本も、

「この人は限りなく黒に近い人だなあと思いましたが、そのこととそれを犯罪者と決めてそれを追及することが正当かどうかということとは別のような気がするんですね」。

と基本線は譲らない。その後も水掛け論のようなやり取りが続き、最後は鮎川が「まあ、でも答えというのはいずれ出るからね。五年かかるか十年かかるか知らないけれども、答えは必ず出るからね。二人がいくら議論したって片付くわけじゃないしね」と引き取っている。

吉本は原理原則から、鮎川はごく常識的な見地から互いの意見を述べていて、これだけだと「対立」というよりは単に話が噛み合っていない、という感じではあるけれど。事件の話題の後で、鮎川の以下のような発言もある。

「話を聞いていて、やっぱりきみは原理主義者なんだよ。ぼくはあんまり原理的な見方はしなくて、それこそケース・バイ・ケースなんだよ。ただその場合の唯一の見分け方は一種の人間性の判断だね」

こういう認識を持ちながらも、なぜこの「対立」が二人の「訣別」にまで至ったのか、第三者にはよく理解できない。あるいはもっと別の要因があったのかも知れないが、結局それは当人たちにしか分からないことだな、と至極当たり前の感想を持つしかなかった。

ま、事件については、とにかくいずれあらためて「答えは出る」のだろう。

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2008年2月27日 (水)

「JAPAiN」

何となく冴えない日本。その原因は、外から見てもやはり政治家なのか。本日付日経新聞は国際面で、英エコノミスト誌最新号の特集記事「なぜ日本は失敗し続けるのか」を紹介。表紙に「JAPAiN」、すなわちジャパン(日本)とペイン(痛み)の合成語を掲げ、日本経済が回復できないのは、改革の歩みを止めた自民党、党内の意思統一ができない民主党など「政治家」が“元凶”だと指摘したそうな。とりあえず日本の政治家に対する辛辣な論評を、紹介記事からメモ。

安倍晋三前首相については「経済を放置し愛国心教育などお気に入りのテーマだけ追求した」と批判。福田康夫政権については「旧来自民党が復活し、官僚は怖くて改革案を提示できない」と解説した。民主党の小沢一郎代表が目指した大連立構想についても「かつての一党支配に逆戻り」と批判した。

で、この「ジャペイン」状況?を打破する手段として、エコノミスト誌は早期の選挙を主張。たとえ政局の一層の混迷を招いても、それが軌道修正の第一歩だとしている。
・・・
しかし早期の選挙って言われても、今のところ総選挙は7月のサミット以降だっていう話だし、何より政界に次世代のリーダーが育ってないのがもどかしいよなあ。

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2008年2月21日 (木)

「グローバル経済」を復習

本日付日経新聞「経済教室」執筆者は水野和夫・三菱UFJ証券チーフエコノミスト。以下にメモ。

かつての資本主義を貫く原理は資本と国家の一体化だったが、95年を境に資本が国家を超越するというグローバル資本主義に質的変貌を遂げた。

旧来型が行き詰まった主因は、先進国経済の成長につれ資本が積み上がり、投資の限界収益が逓減したからだろう。

95年に米国は「強いドル政策」に転換した。これは米経常赤字増大は米国の過剰消費ではなく、高い収益を求めて米ドルを欲する外国人が原因と断じ、赤字とドルの因果関係を逆転させて、古典的資本主義が陥った超低利潤化を脱却する意図があったと見るべきだろう。これを機に、金融のグローバル化が加速した。

グローバル化で先進各国は低コストと割安な新興国通貨をにらみ生産工場をBRICsなどに移転して実物投資の収益を稼ぎ、先進国内においてはキャピタルゲインからの収益を求めた。

株式時価総額、債券発行額、預金を合計した152兆ドルの世界の金融資産のうち、およそ80兆ドルは実質GDPを生み出すことなく、金融資産にとどまり、資産価格を大幅上昇させた。金融資産化した資源価格も同様である。

グローバル資本主義下では、先進国のBRICsへの投資ブームは先進国の消費ブームと表裏一体化しながら、世界経済の成長をもたらし、日本も景気回復の恩恵を被った。しかし、先進国経済は資産価格の上昇をてこにすることでしか景気が回復しない「資産価格依存症候群」に陥り、IT関連、住宅、資源と対象を変えながら、バブルが頻発することになる。

・・・投資のフロンティアがある限り、資本主義の運動は続いていく。フロンティアが消滅した時に資本主義も終わるのだろうが、それがどのような世界なのか想像できない。投資主導のグローバル経済においてバブルの発生は避けられないのだが、バブルはまた将来への過剰な期待を現在に繰り込んだ価値でもある。それが「幻想の未来」であるとしても、人類に未来がある限り、バブルは生まれ、その崩壊も繰り返されるのだろう。

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2008年2月13日 (水)

経済「政策」は二流以下

「もはや日本経済は一流ではない」という大田弘子・経済財政担当大臣の言葉をどう考えるか。「経済の一流国の定義とは何か」という村上龍の質問に対する専門家の回答(JMMのホームページ掲載)から、まず山崎元氏の意見をメモ。

経済一流国の定義として一番はじめに頭に浮かぶのは、国民一人あたりGDPですが、この比較方法には、為替レートの影響があまりに大きいこと、「平均」でデータを見るのが適当なのかどうかの疑問、そもそもGDPが大きいことは立派か、ということの三点の疑問を覚えます。

一方、財政金融政策だけでなく規制や法制も含めて、経済政策には適否があり、経済政策の主体は国なので、国ごとに一流、二流があってもいいでしょう。例えば、今の日本の状態で、金融引き締めと消費税の増税を目指すことは不適切でしょうし、こうした状況を指して、「日本は二流以下だ」と呼ぶのは構いません。しかし、この場合、真にいけないのは政治であり、「日本の経済政策は二流以下だ」と言うのが適切でしょう。「日本の経済は一流ではない」と言うと、批判の対象が曖昧になるように思えます。

次に、津田栄氏の意見からメモ。

一人当たりの名目GDPだけで経済が一流だとか、あるいは二流、三流というのは、どこかおかしいと感じます。そもそも、このデータは米ドルで換算したもので、直近の円高では順位も自動的に上がる可能性があります。

名目GDPだけで見れば、依然としてアメリカに次いで2位であり、3位のドイツをはるかに上回っています。まだまだ日本は世界経済においては、大きな地位を占めているといえ、その点では「経済は一流ではない」と卑下する必要はありません。

大田大臣が言うように、日本がもはや経済の一流国ではないとするならば、それは民間の問題ではなく、政府そのものの問題であると捉えるべきではないかと思います。つまり、これまでの金融経済財政を含めた政策がうまくいかなかった結果であるということです。

・・・日本は経済活動の質・量は高水準ではあるが、経済政策はダメダメってことだな。

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2008年2月 8日 (金)

「日本経済は一流ではない」

1月18日、通常国会での演説で「もはや日本の経済は一流ではない」と述べた大田弘子・経済財政担当大臣。人口減少下の成長実現という難題解決を訴えるため問題提起を行ったという大臣自ら、本日付日経新聞「経済教室」に寄稿しているので要点をメモ。

経済演説では、世界の国内総生産(GDP)に占める日本の地位の低下を例として挙げた。しかし、問題は、単にGDPという経済の規模だけではない。今後、GDPが伸びる力をもっているか、将来への成長力こそが問われる。この観点から、日本経済は三つの大きな問題を抱えている。

第一は、サービス産業の生産性が低いことだ。
第二は、金融資本市場や航空、港湾など経済インフラの国際競争力が低いことだ。
第三は、人材を生かしきれていないことだ。
これら三つの問題は、人口が減る日本で成長エネルギーが細っていくことを示している。

成長力をつけるために必要なのは、①弱みを克服すること②強みを伸ばすこと③世界のパワーを取り込むことの三点である。
日本経済の「弱み」は、前述のようにサービス産業の生産性の低さに加え、労働力人口が減ることである。「強み」は技術力、なかでも省エネなどの環境技術だろう。「世界のパワー」を取り込むには、日本への投資を増やすとともに海外との経済連携を強化し、金融資本市場など
世界への窓口になる分野を改革することが必要である。

日本経済の最大の「強み」は、柔軟に自己変革する力だと私は思う。ところが過去の成功体験に引きずられ、日本経済の柔軟さが失われている気がしてならない。

・・・改革の内容は明快ではあるが、この10年以上言われ続けてきたようなことでもある。なので、そういう改革が実行されない、できないというのは、日本経済がもはや一流ではないという以上に、日本人の質が低下しているのではないかと何だか心配になる。

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2008年2月 4日 (月)

お見合いか合コンか

本日付日経新聞に、お見合い復権を唱える内田樹・神戸女学院大学教授のインタビュー記事(お見合いで弱者救済を 結婚こそ「安全ネット」)がある。「結婚は生きるためのコストやリスクを減らすから本来、弱者のための生存戦略」であるとして、内田先生は自らお見合いをセットしてまで、若者に結婚を勧めている。とりあえず結論的部分のメモ。

「皆、自分の強さを過大評価しすぎです。一人で生きられるのは強者だけ。人間の大多数は弱者なんです。弱者でも幸せに生きることができるのが社会のはず。人間として信頼できると周りの人間が判断し、引き合わせる見合いはいい仕組み。ベストパートナーを夢見て一人でいるより、縁があった人と結婚する中で『他人と一緒にうまくやっていく』知恵や技術も見につく。共同体で生きるためのマナーにもつながると思うんです」

先生は合コンには批判的だ。

「合コンは恋愛市場における勝者総取りシステム。勝つ人間が勝ち続けるから見合いの代わりにはなりません。生涯のパートナーに出会えないのは自由競争に負けた自己責任だから仕方ない、などと納得してほしくないんです」

ところで、今週の「読売ウイークリー」(2/17号)特集記事は、そのタイトルも「合コンは日本を救う」(笑)。記事は経験談やアンケート結果などで構成されているが、とりあえず国立社会保障・人口問題研究所の調査(夫婦が出会ったきっかけ)によると、2005年に「職場や仕事で」(30%)を僅かの差で抜いてトップになった「友人・兄弟姉妹を通じて」(31%)の中に一定数、合コンが含まれていると推測されるとのこと。

お見合いにせよ合コンにせよ、広い意味での「紹介」が、結婚への入口として重要度を増しつつあるのは確かなようだ。非婚化・晩婚化に歯止めをかけるには、「紹介の輪」を広げる国民的運動を起こす必要があるかも知れない・・・(おいおい)。

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2008年1月26日 (土)

日銀の判断ミス

一年前に日銀が行った利上げは結果的に判断ミスだった――。昨日1月25日付日経金融新聞コラム記事「ポジション」〈太田康夫編集委員)からメモ。

日銀は1月の金融経済月報で「2007年度の成長率は潜在成長率をやや下回る水準になるとみられる」と表明した。07年2月の利上げが失敗だったことを意味している。

金融政策を評価するポイントは物価と成長率である。物価ははじめから危うかった。07年2月の消費者物価指数は06年2月に比べ0.1%下落。
利上げ派は先行きを見るフォワード・ルッキングを強調。「消費者物価の一時的なマイナスの先を展望すべきだ」としていた。
経済学では同方向の指標が2四半期続くと一時的ではなくトレンドと見なす。実際に消費者物価マイナスは8ヵ月続き、2月利上げの物価面での論理は崩れた。

成長率は潜在成長率を上回っているかどうかが焦点だ。福井総裁らは先行きに強気で、利上げしても2%程度の成長は持続すると見ていた。
結果的に物価に目をつむり景気回復に賭けた利上げは正当化されなかった。それどころか成長率が潜在成長率を下回るなかでの利上げは、脱デフレに向けては逆噴射となった。

軌道修正が必要な局面に差し掛かっている。
一つは利下げだ。世界的な
金融不安をぬぐうため緩和的な姿勢が求められている。米金利が急低下しており、日本も緩和姿勢を示さないと円相場が急騰しかねない。

もう一つは保有株式売却の見直しだ。日銀はゼロ金利解除の失敗の後始末として金融機関の保有株を購入。保有額は3兆2000億円(07年9月末)にのぼる。
サブプライム問題の真っ最中の07年10月からその売却開始を宣言。それが株式市場の重しになっている。

いまの景気減速、物価下落はサブプライムのせいだけではない。金利正常化にこだわりすぎた昨年の判断ミスも一因だ。新しい日銀総裁は中央銀行のドグマにとらわれず、曇りなき目で経済が見通せる人が望ましい。

・・・「小泉改革バブル」の崩壊とも思える日本株の大幅下落には、日銀の判断ミスも手を貸していたということだろうか。何にせよ、改革続行が求められる日本において政治経済のリーダーは、従来型の思考に捉われる普通のエリートでは勤まらないのだと思う。

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2008年1月25日 (金)

「国力」の低下?

ドル換算のGDPで「国力」を計るのは妥当か。本日付日経新聞市況面コラム「大機小機」(バブルと国力の混同を憂う)からメモ。

日本の国力低下を嘆く議論が盛んだ。例えば一人当たり名目GDP(国内総生産)。日本は1995年前後にOECD加盟30ヵ国中3位だったのが、2006年に18位に後退した。

他方、順位を上げて国力を高めたといわれるのは北欧の小国と、米国(10位→7位)、英国(18位→11位)など英語圏の国である。

日本経済は、株価と地価と賃金に代表される価格破壊を徹底し、購買力平価を切り上げて内外価格差をほぼ解消した。加えて、円高ピークの95年当時のドル表示の購買力平価で約5割過大評価されていた円が、2割前後の過小評価になった結果の順位変動なのだ。80年代前半の日本の定位置は11-17位だった。

不況知らずの優等生と持ち上げられる英国の躍進は、北海油田の石油収入とシティーの金融力を背景にしたポンド高だった。
革新性を称賛された金融機関のビジネスモデルが揺らぐ米国と同様、英国も中堅銀行が国有化寸前に追い込まれ、ポンド安が始まっている。日本の土地本位制バブルに次いで、アングロサクソンが得手とする市場型金融バブルが弾けたのだ。

国力論は難しい。バブルの過去や他国との安易な比較に大した意味はなく、金メッキの他国をなぞる議論に説得力はない。財政・金融の経済政策を含め、社会の健全なバランスに配慮し、社会保障など持続可能な制度設計で国民生活を安定させることこそ大切だ。

・・・現実を正確に認識するのは難しい。しかし正確な現実認識が無ければ、正しい政策を立てることもできないのだ。

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2008年1月19日 (土)

ニッポンへの失望

本日付日経新聞に、海外メディアの日本分析記事が紹介されている(「ニッポン」失望のワケ)。以下にメモ。

「外国人投資家は日本市場をあきらめている」。17日付のウォールストリート・ジャーナル紙は日本株急落を取り上げた。「日本の経営者は欧米に比べ株主に対し鈍感だ。株主の利益となる政策をとらない限り、株価は上がらない」と指摘した。

16日付の英紙デーリー・テレグラフは「現状では日本株に積極的に投資したい人はいない。日本は投資家の視野から外れた」と述べた。外国人投資家も日本の個人投資家も新興国に資金を向けていると説明。

ニューズウィーク誌は昨年末の記事で「企業」に焦点を当てた。「技術革新で世界をリードする企業はソニーから米アップル社に代わった」と打ち出し、日本企業がアップルやグーグルのように飛躍的な成長を遂げられないのは①年功序列のため、IT(情報技術)の知識の薄い層が管理職となっている②大学との技術交流がない――と分析した。

いずれの記事からも日本への強い失望が読み取れる。ブルームバーグ・ニュースは9日「安倍晋三政権の一年で旧態依然のジャパン・インク(日本株式会社)に戻った。福田康夫政権は自民党の地盤沈下を防ぐのに手いっぱいで経済に構っている余裕がない」と断言した。

・・・これらの分析に共通するのは、「小泉純一郎元首相が進めた改革が頓挫し、日本が逆戻りしているとの懸念」だという。昨年夏以来の日本株暴落も、2005年「郵政解散」以降の相場急上昇の反動、「小泉改革バブル」の崩壊ということになるのだろうか。

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2008年1月12日 (土)

川崎大師は初詣のパイオニア

年初から「はてな」方面で「初詣」のテーマがかなり盛り上がったようで、当方の2007年1月2日のエントリ(内容は2006年12月30日付日経新聞記事の要点)も、かなり参照された模様。しかし何しろ一年前にメモした話題なので、あらためてどうこう言うこともないなあ、と感じていた。が、日経記事に登場する研究者、新谷尚紀さんの新しい本『日本人の春夏秋冬』(小学館)が出ていたことを知り、早速購入。ところが、その中の「意外と新しい初詣の歴史」の章では、初詣と鉄道会社の関係について、やはり日経記事で紹介されていた平山昇さんの研究に依拠している按配であった。ので、行きがかり上、典拠として示されていた平山論文(明治期東京における「初詣」の形成過程、雑誌「日本歴史」2005年12月号掲載)を読むことに。以下は論文の要旨。

明治期を通じて東京の市街地における正月参詣は、初縁日参詣と元日の恵方詣が中心だった。ところが、東京南郊にある川崎大師平間寺では、縁日・恵方にこだわらない元日参詣、後に「初詣」と呼ばれる新しい参詣が盛んになる。

明治5年6月、我が国最初の鉄道路線(品川―横浜間)の途中に川崎停車場が設けられてから、川崎大師も次第に東京の人々の恵方詣の対象となっていった。しかし、川崎大師が東京市内の諸寺社と異なっていたのは、恵方に当たっている年もそうでない年も(要するに毎年)、元日に大勢の参詣客で賑わうようになった事である。

ここで重要な社会的背景は、明治の中頃から縁起を重視して参詣する「信心参り」が漸減し、行楽を主目的としてそのついでに参詣を行う者が増えていったという変化である。

川崎大師はいちはやく鉄道によるアクセスを得たことによって、汽車に乗って手軽に郊外散策ができるという、東京市内の諸寺社にはない行楽的な魅力を持つ仏閣となった。そして、特に明治20年代に、縁起よりも行楽を重視する参詣客が増えるなかで、この行楽的魅力に惹かれて川崎大師に参詣する者が増え、毎年恵方に関わらず元日に参詣客で賑わうという「初詣」が定着したと考えられる。

そして明治30年代になると、郊外へ伸びる鉄道網の発達に伴い、鉄道会社は沿線の寺社への参詣客誘致を積極的に行うようになる。競争が激化するなかで鉄道会社は、郊外行楽の性格を持つ「初詣」という言葉を前面に押し出して、縁日や恵方に関係なく、毎年の正月参詣を広告宣伝するようになった。いわば鉄道と郊外という2つの要素が、行楽本位の参詣客が毎年寺社に群集するという「初詣」の姿を形づくったのである。

・・・ということで、初詣はやはり近代化が生み出した習慣または行事と言ってよいのでしょうね。

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2007年12月14日 (金)

刑法犯10年ぶり低水準

殺人・強盗など重要犯罪を含む刑法犯は減少傾向。以下は本日付日経新聞より。

今年1-11月に全国の警察が把握した刑法犯の数(認知件数)は176万1993件で、昨年同期より7.0%減ったことが13日、警察庁のまとめで分かった。
戦後最悪だった2002年をピークに5年連続の減少。通年でも191万件程度と予測され、1997年以来、10年ぶりに200万件を割る見通しとなった。

認知件数を罪種別にみると、重要犯罪は8.7%減の1万5760件で4年連続減少した。
内訳は、殺人が6.8%減の1119件、強盗が10.4%減の4207件など、連れ去りなどの略取・誘拐を除き、軒並み減少した。
詐欺は昨年同期を8.6%下回る6万2284件。街頭犯罪と侵入犯罪もほとんどの罪種で減った。

という具合に犯罪の数は減ったのだが、こと殺人事件の記憶では、衝動的、自己中心的、動機不明の事件が多かったように思う。

未解決事件では京都精華大学生刺殺事件(1月)。マンガ学部でプロを目指していた青年の夢は無残にも打ち砕かれた。市川市で起きた英国人女性殺害事件(3月)では容疑者は今も逃走中。加古川市の女子児童刺殺事件(10月)も動機など謎のままだ。

金を目当てに弱い者を襲う犯行も目立った。「闇の職安」サイトで知り合った男3人組がOLを拉致して殺害した名古屋の事件(8月)。犯人たちの冷血には慄然とするばかりだ。川口市のアパートでOLが殺されてキャッシュカードを奪われる事件(10月)も発生した。弱い者が偶然に暴力の犠牲になる、その救いの無さには言葉を失う。

2つのバラバラ殺人事件が明るみに出て始まった2007年も終わろうとしている。罪を犯した人間がはやく裁きを受けることになるよう願うのみだ。

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2007年12月 7日 (金)

「ほどほど」に働く

本日付日経新聞連載記事「働くニホン・現場発」によれば、米コンサルティング大手タワーズペリンが世界19ヵ国・地域で8万8千人に聞いたところ、日本では仕事に「意欲的でない」「どちらかというと意欲的でない」という人が計72%に達したという。記事は、働く日本人の意識が、意欲にあふれた「バリバリ族」と、そうでない「ほどほど族」に二極化、日本ではほどほど族がじわじわ勢力を増しているように見える、と記す。「魅力的な職場」の条件を尋ねたタワーズペリン調査のポイントをメモ。

日本の従業員には仕事と生活のバランスを重視する傾向がみえる。「充実した休暇」「適正な仕事量」「福利厚生の充実」がそれぞれ3、4、6位と上位に来た。ところが19ヵ国・地域の平均値だと、この三項目は7、9位、「圏外」と優先度が低い。
世界平均では2位が「キャリア向上の機会」(日本は圏外)、6位が「教育・研修の機会」(日本は10位)。
日本でも仕事への潜在的な意欲は決して低くない。国際平均で3位の「やりがいのある仕事」が日本は首位。タワーズペリンは「日本人は怠惰になったのではなく、目先の仕事に疲れ、合理的なワークライフバランス(仕事と生活の調和)を求める意識が強まったのではないか」とみる。

何だか「魅力的な職場」というより、「夢の職場」「ありえない職場」みたいな感じもするが・・・。つまり日本人は現実には、やりがいのない膨大な量の仕事を休みも取らずにこなしているってことなんだろうか。何か悲惨。

でも、「ほどほど族」の増加は、「勝ち組」「負け組」とはまた違った現実の意識があるということを示しているのだと思う。

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2007年12月 3日 (月)

親子上場の是非

本日付日経金融新聞の記事「市場が問う親子上場(下)」に、こんなことが書いてあった。

親子上場は日本固有の事例のように思われがちだが、実は世界を見渡しても親子上場に否定的なのは英米のみ。ドイツやイタリアでは親会社や支配株主が存在する上場会社がむしろ一般的だ。

えっ、そうなのか。親子上場は「子会社の経営権を握る親会社と少数株主との間で、利益相反が起こる恐れがあることが問題点」、とされるらしいのだが、今度から親子上場にネガティブな意見に対しては、とりあえず「英米か!」ってツッコミを入れなきゃ。
もう少し引用。

国内でも「成長性があれば親会社より、割安な子会社を買う」との声もある。むしろ厳しく問われるべきは親子関係の「質」だろう。

「真に独立した事業体であってほしい」。NECエレクトロニクスに親会社のNECとの資本関係見直しを迫るペリー・キャピタルのアジア投資責任者、アルプ・アーシル氏はこう主張する。親子上場自体が悪いのではなく、親と子の間に少数株主を意識した「規律」が働いているかどうかが問題だと話す。
少数株主を無視した「もたれ合いの親子関係」では資本市場の納得は得られない。

・・・まあ親会社が支配権を維持したままで子会社を「公開会社」とすることに、経営的な必然性があるかどうかは疑わしいのだが、その一方で、投資対象が増えるのは投資家にとって悪い話じゃないし、親会社との関係は割り切って子会社の少数株主になるというのも、いわゆる「自己責任」という感じがするので、何か明確に判断がつかないっす。

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2007年11月18日 (日)

「ナイトの不確実性」

ビジネス街にある書店で売れているらしい『1997年―世界を変えた金融危機』(竹森俊平・著、朝日新書)。経済学者フランク・ナイトの「不確実性」について説明している第2章からメモ。

不確実性には二つのタイプがあり、二つのタイプのうち第一のタイプは、それが起こる可能性についての「確率分布」を思い描けるものだ。ナイトはこれを「リスク」と呼ぶ。他方で第二のタイプは、それが起こる「確率分布」を思い描けないものである。ナイトはこれを「真の不確実性」もしくは「不確実性」という。

「サイコロの目」、「自動車事故」は、確率分布を想定できる事象である。そのようなタイプの不確実性が「リスク」である。不確実性が「リスク」であるためには、「確率分布」について理論的な推測が可能か、類似した現象が過去に数多く発生しており、データからの統計的推測が可能でなければならない。

「企業家」という特別なタイプの人種のもっとも本質的な行動は何かといえば、「新しいこと」への挑戦である。「新しいこと」、過去に類例がないことに企業家は挑戦する。「不確実性」と真正面から対決するのである。そして「不確実性」に対決する報酬として、企業家は「利潤」を手に入れる。

しかし、「不確実性」の領域で企業家が取る行動は、必ず成功の当てがあるものではない。そもそも必ず成功の当てがあるようなものは、「不確実性」とは言わない。したがって企業家は成功することもあれば、失敗することもある。
考えてみれば、もともとビジネスの成果を過大に見積もる楽観的な性格の者が、企業家という商売を選ぶのだ。

「真の不確実性」を前にして自分の幸運を信じ込み、あえて挑戦するという心理傾向は、「バブル」という経済現象にも見出せる。ここでも過剰な楽観主義が働いている。

ナイトは、経済行動の「合理性」を基本的には認める。人間は「合理的」な計算が成り立つような状況では、「合理的」に振る舞うと考えるのである。しかし他方で、「合理性」がもともと成り立ちえない領域、すなわち客観的な確率の計算のできない「不確実性」の領域の存在を彼は重視する。われわれの世界は「不確実性」によって包囲されており、その「合理性」の成り立たない領域における人間の行動は「合理的」でありえない。そこでは、「強気」または「弱気」の心理が人間の行動を支配する。

・・・本当に、人間の活動における合理的部分は限定的で、経済学はその限られた部分だけを相手にしているような気がする。証券会社に勤めていながら、「リスク」を中心に組み立てられる「ポートフォリオ理論」に対して、ますます懐疑的になりそうだな。

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2007年11月14日 (水)

職場でみじめになる理由

フィナンシャル・タイムズのコラムニストであるルーシー・ケラウェイの「どうして職場でみじめになるのか」(gooニュース)から、ちょっとメモしてみる。

(経営コンサルタントのパトリック・レンシオーニ氏の書いた本によると)私たちが職場でみじめな気分になる理由は3つ。第1に、自分は何者でもないから。つまり、自分がそこにいてもいなくても、誰も気にかけていないと感じるから。第2に、自分の仕事ぶりがいいのか悪いのか、測れないから。第3に、無意味だと感じるから。つまり自分が何をどう働いても、結局は大差ないんじゃないかと感じるから。

という3つの理由を紹介した後で、ケラウェイ女史はこう述べる。

働く人間がみじめになる3つの理由は、もっと基本的な事柄だと私は思う。それはつまり、仕事と、周りの人たちと、職場環境全般だ。みじめになる原因が仕事なら、それはあなたにとって仕事が多過ぎるか少な過ぎるか、つまらなさすぎるか難し過ぎるか、あるいは簡単すぎるのだ。

周りの人たちのせいだという場合もいくつかある。周りの人たちが怠け者だったり、意地悪だったり、横暴だったり、その人たち自身がみじめすぎて鬱に陥ってるせいで周りが楽しくなれるはずもなかったり。職場環境も、やる気を失わせる環境だったり、不健康だったり、社内政治が激しすぎたりと、色々な問題があり得る。

レンシオーニ氏によると、管理職が部下の気持ちを盛り上げるのが下手なのは、自分が新人だった頃の気持ちを忘れてしまったからだという。

本当の理由はほかにあると私は思う。管理職ほど本質的にみじめな仕事はあまりない、というのがそれだ。人がやりたくもないことをやるように仕向ける。これが管理職の全てだ。ゆえに管理職というのは、不可能とは言わないまでも、困難きわまりない仕事なのだ。

・・・う~ん、やっぱり人を動かさなきゃいけない管理職の仕事ってやだな。こういう他所の国の人が書いたものを読んで思うのは、人間のやること考えることは何処でも余り変わらないらしいってこと。みじめなのはワタシだけじゃない・・・のかどうか分からんが。

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2007年11月 5日 (月)

ケインズと「流動性」

本日付日経金融新聞に、ピムコ社のポール・マカリーという人が、現在の金融市場の混乱に絡めて、「流動性」についてのケインズの考察を紹介している記事があるのでメモ。

流動性を決めるのは市場の集団心理である。ケインズは1936年に出版した「一般理論」の中でこの真実を説いていた。

ケインズによれば、金融市場は「慣習」に依存しており、投資家は「現状に変化をもたらす特定の理由がない限り、現状が無限に続く」と仮定する。

その上で「自分が負う唯一のリスクは近い将来に起こりうる何らかの事象の変化であり、それが実際に起こる可能性については自分自身で判断でき、起こったとしても大きなものである可能性は低いだろうと考えようとする」と主張する。

続いてケインズは、流動性について述べている。現状が続くと投資家が予想するならば、短期間の投資は「安全」となり、よって短期間の連続が無限に繰り返され、延長されていく。これは何かが起こるとしてもその前に自分の見方を修正し、投資方針を変更する機会があるからだ。このように本質的に「長期継続すると思われている」投資は「流動的」となる。

・・・ケインズという経済学の巨人は、時にマクロ経済理論の枠を超えた思考を展開する。それがまた天才の証でもあろう。おそらく投資家が最初の仮定における留保を忘却して、「現状が無限に続く」と確信した時、バブルが生まれるのだろう。もちろん、最初に希望的楽観の全く無いところで、投資という決断が可能であるとも思えないが。

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2007年10月28日 (日)

肥満と飢餓の共存

先日、世界には肥満の人が10億人、飢えている人が10億人という話を、テレビで見て唖然としていたところに、「肥満と食糧危機」を特集した「日経サイエンス」12月号が出たもので、ついつい購入。2つの記事からメモしてみる。

「途上国を襲うメタボリックシンドローム」
発展途上国に暮らす数億人の食と健康をめぐる状況は、この20年で激変した。ほとんどの途上国では、飢餓に代わって肥満が健康への脅威になりつつある。
メキシコやエジプト、南アフリカ共和国などでは、成人の半数以上が「太り気味(体重過多)」または「肥満」だ。中南米のほぼすべての国と中東および北アフリカの多くの国では、少なくとも成人の4人に1人が体重過多になっている。

世界規模でみると、13億人以上が体重過多であるのに対して、低体重者は約8億人にとどまる。そして、2つの数値は急速に差を広げつつある。

身体を動かすことの少ないライフスタイルへと変化したことに加え、カロリーの高い甘味料や植物油、動物性食品(肉類、魚、卵、乳製品)を摂るようになっている。生活習慣と食事の変化が相まって、人々の健康を破局に導く下地ができあがった。その結果、肥満が糖尿病や心臓病などの爆発的な急増を引き起こしている。

「それでも8億人は飢えている」
国連食糧農業機関(FAO)は、2001~2003年の栄養不良人口を年間平均8億5400万人と
推定している。うち8億2000万人が開発途上国、2500万人が旧ソ連地域など過渡期にある国々、そして900万人が先進国の人々だ。

飢餓には多くの原因がある。世界全体で見れば、飢餓に苦しむ人すべてに十分行きわたって余りある食糧が生産されている。国家間、あるいは国内における食糧の不均等な配分こそが世界の飢餓を引き起こしているのだ。
食糧の不均等は、貧困に深く根ざしている。食糧不足が生じたとき、貧しい国は世界の市場から十分な量の食糧を買うことができないし、国内に十分な量の食糧が出回っているときでさえ、貧困層の人々にはそれを手に入れるお金がない。

一時的な飢餓を引き起こす洪水や嵐、干ばつといった自然災害がこの10年ほどで増え、貧困国に深刻な結果をもたらしている。
人為的要因によると考えられる食糧危機も増えている。アジアやアフリカ、南米では戦禍で何百万人もの人
が家を追われ、世界的に見てもその飢餓は緊急を要する状況にある。

・・・飢餓が解消されない一方、肥満がグローバル化するという、いかにも「不条理」な現実。肥満人口と飢餓人口合わせて20億人以上、世界の3分の1近くの人が、健康を悪化させ生命の危険にも晒されていることになる。飢えた子供と太りすぎの人々を前にして、そうでない人々に何ができるのか。この問題に限らず、今の世の中で何かを変えようとしたら、まずは「仕組み」づくりということになるのだろうが、さて具体的な話となると、普通の生活者は何をどうすればいいのやら見当も付かないのがもどかしい。

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2007年10月27日 (土)

介護と生活苦の悲劇

「私の手は母を殺めるためにあったのか」と男は泣いた』(山藤章一郎・著、小学館)は、週刊誌連載のニュース記事から19のエピソードを集めたもの。取り上げられる人物は、みのもんた、斎藤佑樹、松岡利勝、瀬戸内寂聴、畠山鈴香、城山三郎など、多彩というのか雑多というのか。しかしなかでも強い印象を残すのが、この本の表題にもなっている、昨年2月に京都で起きた事件。生活費の尽きた54歳の男が、自分で介護していた86歳の母を絞め殺し、自らも死のうとしたが果たせなかった事件である。

認知症の母の介護に追われ、仕事を続けられなくなった男は、生活保護も受けられない。生活費が尽きる最後の日に、男は車椅子の母と共に京都市街を巡り歩き、その夜、川原で男は詫びながら母に手をかける。翌朝、死にきれずにいるところを通行人に発見される。

「ぼくが台所で食事の用意をしていると、母は私を呼び、赤ん坊のようにハイハイをし、私のところに寄って来るのです。それがかわいくてかわいくてなりませんでした。そして抱きあげると、にこっと喜ぶのです。で、抱いてやると、強く抱き返してくれるのです」
公判の陳述には、法廷がすすり泣いた。

「母が子供に戻って行くのです。私は母を『見守る』ただそれだけのことしか出来なかった。私の手は何の為の手で、母を殺めるための手であったのか、みじめでかなしすぎる。じっと我が両の手を見る。何の為の手で有るのかと」

担当弁護士の目に男の姿は「武士」に映った。
「母親との心中は、彼にとっては切腹だった。法廷で私も涙を抑えきれませんでした」

懲役2年6月、執行猶予3年。
裁判長は「決して自分が死ぬことを考えず、お母さんの冥福を祈ってください」と諭した。

・・・この社会ではこんなことが起きているのだと考え込んでしまう前に、母と子の強い絆に自分もただ涙するばかりになってしまう。ほぼ不可避的に破滅へと追い込まれていく男の姿は、文字通りの悲劇というほかない。

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2007年10月23日 (火)

新しい現実か矛盾の拡大か

本日付日経新聞コラム記事「一目均衡」(執筆者は末村篤氏)からメモ。

今年10月は「ブラックマンデー」(暗黒の月曜日)から20年の節目に当たる。

87年と今を比べると、金利の低位安定や国際的な政策協調体制は違うが、米国経済の不均衡拡大、インフレの足音、ドル不安など共通点は少なくない。顕著な変化は、米国の経常赤字の規模が約5倍に膨らみ、米・欧・日先進国間の問題だった不均衡が中国、ロシア、中東などを含む世界規模に拡大した点だろう。

余剰資金(過剰貯蓄)を米国が吸い上げて使うシステムが、世界大に広がる過程で世界は空前の好景気に沸いた。新興経済国(BRICs)の供給力と有効需要の掘り起こし、証券化に代表される金融の技術革新がそれを支えた両輪だ。

自由化、市場化の源流をたどれば、71年のニクソンショックで金の裏付けを無くしたドル紙幣本位制に行き着く。市場経済とは、価値基準と尺度の無い世界と同義である。節度を欠く米国の経済運営とそれに便乗する世界への「市場の警告」がブラックマンデーだったとすれば、その構図は拡大再生産され眼前にある。

問題の本質は変わったのか。真に新しい現実の出現なのか、矛盾の規模が大きくなり問題が深刻になっただけなのか。

・・・市場経済が「価値基準の無い世界」ならば、我々はニーチェ的世界を生きているとも言えるのだが、それはともかく、ブラックマンデー以来20年このかた、時に市場経済のリスクから噴出する「暴力」に晒されてきた我々は、少しは賢明になってもよいはずなのに、現状を見れば飽きもせず同じことが繰り返されているのだと思える。リスクはコントロール可能なのか、あるいはコントロール可能と考えることでむしろリスクの本質から目を逸らされているのではないか、と問うことは許されよう。

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2007年10月19日 (金)

ブラックマンデーの教訓

1987年10月19日に起きた「ブラックマンデー」(米国株の大暴落とそれに伴う世界連鎖株安)から20年。本日付日経新聞の関連記事から当事者の証言をメモ。

ジェラルド・コリガン氏(元ニューヨーク連銀総裁)
流動性の潤沢な供給というFRBの政策対応は正しかったと思っている。20年前の行動がその後の危機管理のモデルになったといってもいい。
FRBは当時、金融機関に公定歩合で資金を貸し出すのではなく、公開市場操作を通じて短期金融市場に資金を供給した。過去とは違う革新的な手法だ。公開市場操作は効率的で、いったん供給した資金を吸収しやすい。資金を取り入れるかどうかの判断を、金融機関の自主性に委ねることもできる。
米大手ヘッジファンドのロングターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)が破綻した1998年、米同時テロが発生した2001年、そして現在の金融不安に至るまで、どの中央銀行もおおむね同様の手法を踏襲してきた。

ナイジェル・ローソン氏(元英蔵相)
当時、主要国は株式市場そのものには介入せず、流動性供給で不安心理を抑える手段を選び、これはその後のグローバル市場における混乱対策のひな型となった。
「市場混乱時に流動性を供給するため安易に金融緩和すれば金融機関のモラルハザードを招き、結局は次の金融危機の種になる」という理論は正しい。だが、市場を決定付けるのは理論ではなく参加者の期待心理だ。恐怖心が支配した時、市場参加者は「群集心理」に走り、その安定を取り戻すには流動性供給以外に方策はない。一定周期で市場が振れるのはある意味防ぎようがない。

・・・ブラックマンデーという事件こそは、世界規模の金融市場の混乱に巻き込まれるという出来事を人々が初めて共有した、現在にまで至るグローバル経済の出発点だったとすれば、我々は繰り返しその経験を反芻しなければならないのだと思える。とはいえ当時の記録やデータだけで、市場参加者の「恐怖心」や「群集心理」を理解するのもなかなか難しいだろう。現在の金融市場の混乱に触れながらローソン氏が述べている、「結局のところ人は自らの経験からは学ぶが、先人の経験からは学べない」という言葉が警句のように響く。

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2007年10月14日 (日)

講座「決算書がスラスラわかる」

時々、「決算書がわかる」類の本を買う。しかし自慢じゃないが、まともに読んだためしがない。タイトルに「図解」と付けられた本ですら、ちょっと眺めておしまい。これは本を読もうとするより、誰かの話を無理矢理聞かないとダメかなと思って、先日「決算書がスラスラわかる」という講座(朝日カルチャーセンター)を受けてみた。

講師は経営コンサルタントの国貞克則氏。今年の春に出した著書『財務3表一体理解法』(朝日新書)がよく売れているとのこと。講義では、その本から主要部分を抜粋したレジュメが配られ、事業活動のシンプルなシミュレーションを想定して、会社設立(資本金)から、借り入れ、商品仕入れ、販売・・・税金、配当金の支払いまで、順を追って実際に数字を記入しながら、貸借対照表(BS)、損益計算書(PL)、キャッシュフロー計算書(CS)の連関を見ていくという進行。

重要なことは、まず財務3表の連関ということでいえば、①PLの「当期純利益」が、BSの「純資産の部」の「利益剰余金」とつながっている、②CSの「現金及び現金同等物の期末残高」と、BSの「現金及び預金」は基本的に一致する、③PLの「税引前当期純利益」がCS間接法の出発点になる、ということ。さらに会社の事業活動に伴う財務3表の変動においては、会計上の収益を表すPLと、現金の動きを表すCSの数字の動きにはズレがあることも押さえる必要がある。PLに売上が計上されても、掛売りであれば売掛金が回収されるまでは営業キャッシュフローの数字は動かないし、会計上の費用としてPLに計上される減価償却費もやはり営業キャッシュフローの数字を動かさない等々、実際にドリル形式で数字の動きを追っていくと、財務3表のつながりというやつが、おぼろげながら分かったような気になった。

しかし何というのか、会計や財務、証券分析の類の勉強は、実際に手を動かして問題を解くというやり方をしないとなかなか理解できないのだな。これに対して本を読んで考えりゃいい、というのが人文系の勉強。自分はどっちかというと、人文系の方に馴染んでしまっているので、問題を解く勉強は何だかメンドくさい。年を取って体力、集中力が落ちてるのでなおさらそう感じるよなあ・・・。

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2007年9月29日 (土)

「バブルは防げない」

本日付日経新聞掲載の、グリーンスパン前FRB議長のインタビューからメモ。

(今回の危機を過去の金融危機と比べると)
1987年の株価暴落(ブラックマンデー)とは、恐怖が価格を決める支配力になったという点のみで似ている。極端な形で流動性不安が起きた点では、98年の米ヘッジファンド、LTCMの破綻に伴う危機やロシア危機の方が近い。

(証券化市場が舞台になった初の危機だ)
問題は証券化市場そのものにはない。(証券化された)サブプライムローンの値付けが適切でなかったということだ。例えば、格付け会社がサブプライムについてもっと低い格付けをしていて、実際にはそれよりちょっと良かったという形になっていれば今回の危機は起きなかった。

(危機がグローバルに広がる時代に金融当局はどう対処すべきか)
危機は予測できない。バブルの発生を予想したり、それを正常な状況で取り除くのも不可能。重要なのはバブルが崩壊した時に、(その悪影響が)生産や雇用を大きく減らすことなくうまく吸収されるように、柔軟な経済システムをつくっておくことだ。

(技術革新やグローバル化に伴う貧富の差の拡大を懸念する声も増えている)
新しい発明と歩調を合わせて人々の技術的能力が高まるわけではない。低い技能しかない人は賃金が低下し、高技能の人は給与が大幅に上がっている。民主社会にとっては危険な傾向だ。富が公平に分配されていると人々が思わなければ、資本主義への支持も得られない。教育によって人々の技能を高め、それによって所得水準を上げていくことが重要だ。

・・・バブルの膨張と崩壊など金融危機は予測できない。やっぱり先のことは分からないってことです。証券会社に勤めていながらこんなこと言うのもナンですが。

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2007年9月24日 (月)

『下流社会 第2章』

ベストセラー『下流社会』の続編、『下流社会 第2章』(三浦展・著、光文社新書)が出た。前著に対して調査サンプル数が少ないと批判されたことに応えて、より大規模な調査によるデータ収集を行っている。もっとも、「あとがき」の中で著者は、「サンプル数が少なくても、さほど間違った分析はしない」と自信を示してはいるけど。実際データ量が多くなったからといって、前著より精緻な印象があるかといえば、そうでもないしね。

本書の中でも「下流ナショナリズム」やら「下流女」、あるいは雑誌の読者別階層意識の分析といった部分は、まあ相変わらず半分与太話みたいなものである。むしろこの本では、若い男たちの下流意識の底に流れる労働観、すなわち正社員に対する懐疑的な意識を、あらためて炙り出してみせたことに意義がありそうだ。以下は第3章「上流なニート、下流な正社員」から引用。

非正社員は、将来的には正社員になることを希望している人が多い。しかし、すぐに正社員になりたいわけではない。なぜなら、正社員になると束縛が多いからだ。だから、もし非正社員のまま待遇が改善されるなら、非正社員のままでもいいと思っている。あるいは、正社員でも束縛の少ない働き方ができる会社があるなら、正社員になってみようかと思っている。

フリーター大量発生の当初、豊かな社会はまともに働かなくてもすむ若者を大量に生み出したとの見方があった。それが、たとえば玄田有史教授の実証的研究などから、長期不況を背景にした新卒採用抑制という構造的要因が指摘された。そしてまた今回、やっぱり若者は働きたくない、少なくともこれまでのようなスタイルでは働きたくないという意識がある、という見方が示されたことになる。若者が正社員に抱くイメージはかなり酷いらしい。以下は「新しい正社員像を描くべき時代」と題された結語的部分から引用。

つまりこういうことだ。これまでの制度では、正社員と非正社員の格差が非常に大きい。しかし、正社員は残業が多く、過労であり、ストレスに悩んでいる。だから非正社員は正社員になることに躊躇する。
だとすれば、正社員と非正社員の間に現在ある大きな溝を、もっと埋めていく必要があるのではないか。
個人のその時どきのライフスタイルに応じた働き方が可能になるならば、多くの人は不安定な非正社員ではなく、正社員という立場を選ぶであろう。
今の時代に即した夢と希望のある新しい正社員像が描かれるべきだ。

という著者は、現実の試みとして、ユニクロの「地域限定正社員」を高く評価している。いま柔軟な雇用形態や労働スタイルが、求められていることは間違いないのだろうが、具体的な提案や施策は、著者ではなくまた別の専門家が考えることなんでしょうね。

何にせよ非正社員の置かれている状況が問題化している今、実は正社員の在り方もあらためて問われているのだ。

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2007年9月11日 (火)

サブプライムとLTCM

サブプライム問題の潜在的脅威は1998年のLTCM危機をはるかに上回る可能性がある、との見方を示すのは、9月7日付日経金融新聞の一面コラム「複眼独眼」。以下にほぼ全文を引用。

まず問題の規模について見ると、LTCM危機における損失額は当時の米国GDPの0.4%に過ぎなかったのに対し、今回のサブプライム問題の潜在損失は、その数倍・数十倍となる可能性がある。さらにLTCM危機では、問題の所在が比較的少数のヘッジファンドなどに特定できたのに対し、サブプライムは証券化商品を通じてリスクが世界中の金融機関や投資家にばら撒かれた結果、白と黒の区別が判然としない、いわば「全ての牛が灰色」の状況となり、問題を複雑化している。

一方、良い材料は1998年当時と較べると、世界的に企業部門のバランスシートが健全であること、新興国の財政状態が良いことなど、問題が他のセクターに拡散するリスクは限定的であることだ。またリスクが広く投資家に分散された結果、サブプライムに特化した一部のファンドを除けば、サブプライム問題の直接的損失だけで破綻する金融機関・投資家も比較的少ないと見られる。

危機の克服と市場のコンフィデンス回復のための必要条件は、リスク保有者の大半が適正に損失を認識し、膿を出し切ることだ。問題は潜在損失の規模とリスクの所在の複雑性からみて「膿を出し切る」プロセスに相当の時間がかかると見られることである。

・・・リスクが分散された結果、問題の全貌がなかなか見えない一方、いきなり破綻する金融機関やファンドも多くはないというのが、これまでの金融危機とは違うサブプライム問題の独特なところだろう。とりあえずは、サブプライムに関連した各投資主体の「損切り」がスムーズに行われるかどうかが、事態の収束に向けた一つの鍵になりそうだ。

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