2017年7月15日 (土)

名古屋は都会とはいえない

名古屋は都会とはいえない、ということを名古屋出身の作家、清水義範が『日本の異界 名古屋』(ベスト新書)の中で語っているので、以下にメモする。
 
名古屋市の人口は229万6千人で、日本で4番目の大都市だ。人口200万人以上なのだもの、文句のつけようがない大都市である。
なのに、どうしたわけか名古屋には都会性が感じられないことを、くやしいが私も認めるのである。
都会的であるということは、あらゆる価値観を受け入れられて、それを認めるということである。そういう間口の広さが、都会の特徴なのだ。
なのに、名古屋はほかに対して扉が閉ざされており、自分たちだけで世界を作って他者を受け入れようとしない。仲間だけで生きているのでは都会人だとは言えないわけである。
都会性はそこに住む人の意識の問題なのである。ツレが店を紹介してくれたで安く買えて得したわ、の世界にどっぷりとつかっている限り、名古屋は都会にはならない。
名古屋に対して、大いなる田舎、という悪口を投げかける人がいる。それは名古屋人の意識のあり方のことを言っているのである。そして、名古屋人は確かに大いなる田舎的な意識で生きているのだ。
私はもう、それでいいじゃないかと考えている。逆に、そのどこが悪いのだ、と言い返したくなるほどだ。
名古屋人は、洗練されていないのである。とにかく功利的で、得か損かを第一に考え、得しちゃうことを何より喜ぶという人たちが、洗練されているはずがないのである。
ただ、洗練はされていないが、名古屋には生きやすさがある。洗練されているということには、やせ我慢も必要なのである。実利には背を向けて、損なほうをさらりと取るといった、形の上の格好よさを選ぶことも洗練のうちである。
名古屋の人にそういう生き方はできない。できないと言うより、その反対の生き方が名古屋的なのだ。
そしてそれは、未来に向けても同じであろう。洗練よりも実利を取るのだ。そして、このほうが得だで嬉しいがね、と生きていくのである。
いいではないか。名古屋は大都市なのに、思想が都市化しないのだ。そのどこに不都合があろうか、というところである。
これから先も名古屋は田舎っぽいままで突き進んでいくのであり、それでいいのである。
人口200万人以上の田舎とは、他に類を見ないすごいことだとも言えるのである。
 
・・・都会の洗練には、名古屋は殆ど無縁である。最近は名駅周辺はお洒落になってるけど、これからも名古屋の街が全体としてお洒落になることはないだろう。というか、お洒落になったら名古屋じゃない、という感じもする。
 
ところで、「やせ我慢」とは、江戸っ子にとって最も肝心なエートスである。確かに何の得にもならないんだけどね。なので損得最優先の名古屋人の生き方は、ちょっとだけ羨ましいような。でもやっぱり抵抗感もあるというか、少々余裕のない感じもするかな。

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2017年6月27日 (火)

グローバリズムにリベラルは無力

現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』(北田暁大、栗原裕一郎、後藤和智の共著、イースト新書)は、「若者論」や「リベラル」などを切り口に、おおよそ90年代以降の人文社会分野の動きを踏まえながら、社会運動や社会批評の現状を語るという内容。グローバリズムに対するリベラル思考の破綻について、以下に栗原氏、北田氏の発言からメモする。
 
栗原:左派リベラルの論理では、グローバリズムというのは帝国による周辺国からの搾取にほかならないから、辺境国が耐えられなくなって破綻するというストーリーが描かれてきました。でもトランプ現象やブレグジットで明らかになったのは、グローバリズムに耐えられなくなったのは、途上国ではなくて、先進国の中間層だったということですよね。途上国はグローバリゼーションの恩恵を受けて潤っている。そこでも左派のロジックは破綻してしまっているんだけど、その辺に対する弁明も聞いたことがない。
 
北田:なんかグローバリズムの捉え方が、かつての帝国主義論と同じような枠組みのままで、どこかに搾取されているところがなきゃいけないことになっているけれど、実態は、かつての第三世界搾取論で搾取されていたといわれているようなところが、経済発展を遂げている。どこが疲れているかというと、実は先進国が疲れている。搾取を見出そうとすると、場合によっては搾取されているのはアメリカとか日本とかになってしまう。
 
・・・グローバリズムに対するリベラルのスタンスは無効、無力であるというほかない。グローバル経済への抵抗運動という意味では、おそらくリベラルに変わるものとして、というのも変な感じだが、ポピュリズムやナショナリズムの動きが目立つようになっている面もあるのかなと。

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2017年6月26日 (月)

社会学は経済学に勝てない

現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』(北田暁大、栗原裕一郎、後藤和智の共著、イースト新書)は、「若者論」や「リベラル」などを切り口に、おおよそ90年代以降の人文社会分野の動きを踏まえながら、社会運動や社会批評の現状を語るという内容。北田氏は特に社会学に経済学的思考が欠けていることに危機感を覚えているようだ。以下に北田氏発言からメモ。
 
60年代以降(の社会学)は、制度の比較分析で公平性、公正性が担保されているかどうかを実証的に検討する学問になった。
それはそれでよいとして、その結果、不況がもたらす社会問題等の解決については、経済学に太刀打ちができなくなってしまった。

昔だったら社会問題をどうやったら解決できるのかという、社会統合とか社会秩序の維持を目指していく学問が社会学でした。それをヘタレ呼ばわりしてきたマルクス主義者との闘いがずっとあったわけです。
今はもう敵がいないので、自分自身が文化的な西欧マルクス主義的になってきてしまっている。

少なくとも制度批判だけでは制度はよくならない。これだけの規模を持つ社会をコントロールしていく時に、経済学的な思考というのを看過していいはずがない。
 
・・・自分がいつも実感として思うのは、80年代後半のバブル、90年代のバブル崩壊の時代以降、経済的なものの見方が世界認識の基本的な方法になった、ということだ。今や経済学に比べて社会学の劣勢は覆いがたい。とりあえず社会学者も日経新聞を読んでもらいたいなと。

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2017年6月20日 (火)

フェイクニュースの「思想」

世界に拡散するフェイク(偽)ニュース。その背景にあるのは、いかなる思想はたまた感情なのか。本日付日経新聞オピニオン面「偽ニュースどう戦う」から、神学者森本あんり氏のインタビュー記事を以下にメモする。
 
「ポスト真実(Post-truth)」は、客観的な事実よりも感情や個人の信条に訴える方が影響力を持つ社会状況を意味する。まさにフェイクニュースが作る世界、あるいはフェイクニュースを生み出す世界のことだ。
 
フェイクニュースの問題が猛威を振るっている背景には、「物事は見方によって変わる」という、現代社会に特有のリベラルな相対主義があるのだろう。最近の学生は「絶対」や「真理」を信じていない。ポストモダンの哲学もこうした考え方を裏打ちする。
 
フェイクニュース問題が特にアメリカで深刻なのは注目に値する。これにはアメリカに特有の精神的な土壌が絡んでいる。アメリカを貫くプラグマティズム(実用主義)は「何が真実か」という哲学的な議論より「それは実践でうまく機能するか」を重んじるからだ。
 
またアメリカは特殊なキリスト教原理主義が根強い。「神は6日間で天地を創造した」という聖書の言葉を字義通りに受け入れ、進化論を否定する人は国民の4割にも及ぶ。彼らはいったんそう信じれば、いかなる科学的な説明も受け入れない。例えば天地創造の時とされる6000年前よりも古い化石が発見されれば、神が創造の時に化石をそこに置いたと考える。これはポスト真実に共通する態度といえる。
 
フェイクニュースはこうした土壌に、誰もが情報を発信・拡散できるソーシャルメディアというツールを得て増殖した。
 
フェイクニュース問題の底には、自分たちは権力者にだまされているという陰謀論的な感情がある。疎外されていると感じる人にとり、体制側と見なす既存メディアの情報は受け入れられない。実際、大手メディアで活躍する人々は、アメリカでも日本でも一握りのエリートだ。反発には、権威ある人の言うことが正しいわけではないという平等意識がある。
 
・・・こうして見ると、一見アホらしいとも思えるフェイクニュースの「流行」には、意外と複雑な「思想的」背景があるようだ。ポピュリズムと合わせて、結構厄介な事象なのかも。それにしてもこのままいくと、見たいものだけ見る、信じたいものだけ信じる、そんな人ばっかりになるような。それも何だかなぁ~である。

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2017年6月12日 (月)

「貿易問題」=「円買い」ではない

米国トランプ政権が「貿易不均衡」を訴えるわりには、円高が進まない。なぜか・・・日経新聞電子版の本日付発信記事(「貿易摩擦=円高」の誤解)からメモする。
 
なぜ「貿易摩擦=円高」の構図が生じないのか。この解を導くには、この構図が顕在化した95年の円急騰局面を振り返ってみる必要がある。
 
94年6月、円相場が1ドル=100円の節目を突破。95年に入ると、当時の米クリントン政権が日米包括経済協議の自動車・同部品交渉で対日圧力を強め、歩調を合わせるように円高が加速する。95年4月にはブラウン米商務長官(当時)による「ドルが対円で下落しても米政府の日米自動車協議への強い姿勢は変わらない」との発言を受け、一気に当時の最高値79円75銭を記録した。
 
重要なのは円急騰を招いた仕組みだ。当時の円買いを主導したのはヘッジファンドでなく、日本の輸出企業だった。90年代前半、日本の貿易黒字は10兆円を大きく上回り、企業は輸出で得た膨大なドルを円に替える必要に迫られていた。
為替対策が未成熟だった企業は90円や85円といった節目の水準に円買い注文を置く。それを見越してファンドが節目の水準を狙って円買いを仕掛けると、一気に膨大な円買い注文が成立し、円高が加速する仕組みだ。ファンドは円急騰の媒介で、主役は日本の輸出企業だったわけだ。
 
これを現在に当てはめると「貿易摩擦=円急騰」の構図が成り立たないことがよく分かる。
 
2011年3月の東日本大震災で日本のサプライチェーン(部品供給網)が寸断されて以降、日本は貿易赤字に転じた。急激な原油安が生じた16年こそ貿易黒字になったが、90年代前半とは比べものにならない規模にとどまる。トランプ政権が日米の貿易摩擦をあおってファンドが円買いを仕掛けても、主役である輸出企業の円買いは限られ、円高が加速しない。
しかも大震災を機に、生産体制は大きく変わった。日本企業が部品供給網を海外に求めた結果、製造業の海外生産比率は急上昇し、一気に20%を突破。10%にも満たなかった90年代前半と比べ、海外で得たドルを円に戻さず、海外での再投資に振り向けるケースが急増している。
 
過去の経験則を頼りに貿易摩擦が浮上すると、ヘッジファンドや機械取引による短期的な円買いは出てくる。だが中長期的な円相場は需給要因に依拠する面が大きい。「貿易摩擦=円急騰」の構図が現実にならないのは異変でなく、当然のことになりつつある。
 
・・・「貿易摩擦」は、もはや円買い材料にならない。そもそもグローバル経済の構造が出来上がっている現在、個別の国との貿易不均衡を問題視する意味があるとも思えない。トランプ政権はホントに不可解だ。

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2017年3月11日 (土)

野村證券と80年代バブル相場

野村證券 第2事業法人部』(講談社)の著者である横尾宣政氏は、野村證券の優秀な営業マンとして、80年代のバブルから90年代の損失補填問題、総会屋問題と、まさに野村の激動の時代を生きた人物。同氏が80年代バブル相場を語る部分からメモする。
(1985年9月22日の「プラザ合意」に始まる為替の急激な円高ドル安により、日本企業は危機的状況に陥った)
 
私は「日本の輸出産業もこれで終わりか」と、本気で考えた。
この窮地から日本企業を救ったのが株価の急騰、誤解を恐れずに言えば野村證券が描いた「トリプルメリット」「ウォーターフロント」のシナリオ相場である。 
円高、金利安、原油安を囃して86年から始まったトリプルメリット相場では、この3つの材料の好影響をもろに受ける東京電力、関西電力、中部電力などの電力会社、東京ガスや大阪ガスといったガス会社、それに関電工など電気設備・電力工事会社が買われた。トリプルメリット相場がある程度限界に達すると、ほぼ切れ目なく、再開発プロジェクトによって地価が高騰した東京湾岸に広大な土地を保有しているIHI、東京ガス、日本鋼管(88年6月にNKKに社名変更)を"御三家"とするウォーターフロント相場が始まる。
 
ところでこの当時、株式市場では「Qレシオ」(実質株価純資産倍率)と称する、株価を1株当たりの実質純資産で割って弾き出す指標が使われた。実質純資産とは純資産に、時価で計算した含み資産を加えたもの。「会社が保有する土地の含み益を考慮すると、その会社の株価は決して割高ではない」と主張するための材料だったが、事業の将来価値を軽んじる可能性があり、私はこの指標だけで株価を考えるのは間違っていると思った。
 
いずれにせよ、トリプルメリット相場やウォーターフロント相場に引っ張られて、日本の株価は暴騰していった。そこで起きたのがエクイティファイナンス(株式発行を伴う資金調達)の大流行だ。
80年代の後半の数年間は、エクイティファイナンスで調達した資金を使った生産設備の充実が図られ、技術開発が最も進んだ、日本の黄金時代だった。つまりプラザ合意後の産業界の危機的状況を救ったのは株式市場であり、野村證券が仕掛けたトリプルメリット・ウォーターフロント相場だったと、私は確信している。
 
・・・トリプルメリット、ウォーターフロントそしてQレシオ―――まさにバブル相場の熱気を帯びた記憶が甦える。東京電力、石川島(現・IHI)、新日鉄(現・新日鉄住金)など、大型株中心に売買が空前の盛り上がりを見せた、流動性相場の全面的大展開。あの頃、野村證券の存在感は圧倒的で、証券業界すべての人間が野村の動向に関心を寄せていた、と言っても過言ではなかったのだ。

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2017年1月17日 (火)

競争戦略の目的とは

今や企業経営者の主要な仕事とも言える「事業戦略」や「競争戦略」の構築。その目指すところは高収益。では、高収益を実現する王道とは何か。本日付日経新聞市況面コラム「一目均衡」(「競争戦略」とは何か)からメモ。
 
戦略とは何だろう。私見ではその会社ならではの「価値ある独自性」の追求である。横並びから脱却し、他では提供できない価値を顧客に届けることだ。それが収益力の源泉にもなり、社会貢献にもなる。
 
例えばベビー用品大手のピジョンを見てみよう。同社の売上高は1千億円に満たないが、営業利益率は15%を超え、日本のメーカーとしては例外的な高収益体質を構築した。何が原動力になったのか。山下茂社長は「生後18ヵ月までの赤ちゃんに的を絞ったことだ」という。この年齢の赤ちゃんの哺乳に関わる事項は世界共通であり、「いい哺乳器」を開発できれば、国籍を問わず通用する。
現に母国市場の日本が少子化で赤ちゃんの数が減っているなかでも、海外事業を大きく伸ばし、過去5年で全社の売上高を1.5倍に増やした。
 
見逃せないのは、「何をするか」が明確になれば、「何をしないか」もはっきりすることだ。ベビー服は哺乳器よりはるかに市場規模が大きいが、技術による差別化が難しく、かつ市場ごとに消費者の好みが違うので、参入しない。もっとも山下社長は「最初から明確な戦略があったわけではない。様々な失敗を経て、今がある。今後も試行錯誤は続くだろう」という。
 
・・・独自性の確立こそが事業戦略の目的であり、高収益への道である。しかしその道を見い出すためには、試行錯誤は避けられない。やはり失敗を恐れてはいけない、ということだな。

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2017年1月13日 (金)

グローバル経済か国内優先か

アメリカの経済学者ダニ・ロドリックは、グローバル化、国家主権、民主主義のトリレンマ(3つ同時に成り立たない)を唱えている。昨日12日付日経新聞「ニュース複眼」面掲載のインタビュー記事からメモする。
 
いま欧米で起きているのは、明らかにグローバル主義やグローバル化への反発といえる。
メッセージは「自分たちの問題に注意を払うリーダーが欲しい」ということだ。グローバルな組織や経済勢力を最重視せず、自国の問題に自国の政策で対応する。グローバル経済が自分たちを苦しめるのではなく、役に立つものになってほしい。言い換えれば、政策の優先順位の再調整だ。

具体的にはグローバルな組織や経済統治を改善する努力と、国内経済や社会を改善する努力を再調整することだ。摩擦を生むならグローバル化の優先順位を下げなければならない。
開かれたグローバル経済を繁栄させる最善の道は、国内経済を繁栄させることだ。国内経済がうまく機能しないのなら、健全なグローバル経済など望めない。その状況で自由貿易協定を締結し、より良い国際経済の協調体制をつくっても国内経済の助けにはならない。

市場がトランプ氏の政策に対する期待に沸いたことは意外ではない。選挙でたくさんの約束をするポピュリストが経済刺激への期待を生むことはよくある。

トランプ氏は国内政策の余地をつくろうとしているが、国内優先がすべて正しいわけではない。彼は権威を攻撃し中間層に寄り添うとアピールしながら、政権中枢に金融専門家や大富豪を据え、富裕層の減税を口にしている。(米国で進む)脱工業化の問題も、単にメキシコや中国からの輸入品に高関税をかけても対処できない。彼の政策は目標を実現するようには設計されていない。

・・・経済政策においては、グローバル対応と国内対応のバランスが大事。と言葉では簡単に言えちゃうが、本質的かつ有効な政策を作って実行するのは難しいよなあ~と思う。「我が国に工場を作れ」と、次期大統領がツイッターで強権的に?つぶやくだけで上手くいくのかどうか。

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2017年1月12日 (木)

新たな保護主義の時代?

フランスの歴史人口学者、エマニュエル・トッドは、「先進世界では保護主義と開国、つまり自由貿易が代わる代わるやってきた。」「今始まろうとしているのは一つの時代だ」と指摘する。本日付日経新聞「ニュース複眼」面掲載のインタビュー記事から以下にメモ。
 
(米大統領選のトランプ氏勝利、英国のEU離脱決定について)これはポピュリズムではなく民主主義が正常に機能した結果だ。ポピュリズムから民主主義を守ると言っていたエスタブリッシュメントの人々は、実際は少数の権力者の代表としてみられるようになった。

私は資本主義に反対しない。大衆の利益を考慮したエリートが管理する合理的な資本主義に賛成だ。
 
グローバル化は特に英米で途方もない格差を生み、日仏独にもある。この格差は資本の移動の自由と、低賃金の労働力を使うことで生まれた。

自由貿易は絶対的な自由貿易しかない。しかし保護主義にはいくつもの種類がある。ばからしいものも節度あるものもあるのだ。
自由貿易が利益になる段階はあるが、行き過ぎると格差が生まれ、最先進国での工員の給与を抑制し、最終的に世界的な需要不足につながる。
行き過ぎた自由貿易は経済を停滞させる。ドイツや日本、韓国の低い出生率は自由貿易と関連がある。経済的な生き残りに必死になると、子供をつくる時間がない。

自由貿易は忘れねばならない。我々の前にあるのは良い保護主義と悪い保護主義の議論だ。給与水準を守ったり、内需を刺激したりする合理的な保護主義は貿易を活発にする。保護主義が国家間紛争になるというのは嘘だ。保護主義は協力的で敵対を意味しない。

・・・保護主義があれこれ取り沙汰される昨今。しかしグローバル化が進み相互依存が深まる世界の中で、そもそも保護主義なるものが可能なのか。何となく疑わしいんだけど。

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2017年1月10日 (火)

「老後」と宗教の無力化

宗教学者の島田裕巳は、「老後」というものが現代日本人の死生観を大きく変えた、と見ている。雑誌「アエラ」(1/16号)のインタビュー記事からメモする。
 
「老後」という言葉が朝日新聞に登場したのは1984年。戦後、第1次産業から第3次産業へと産業がシフトして都市化とサラリーマン化が進むなかで、「定年」という制度が生まれました。それまでは、基本的に死ぬまで働いていたわけですから、「生」と「死」の二分法でした。
ところが、戦後のサラリーマン世代が最初に定年を迎える80年代中盤以降に「老後」が誕生したことで、人生が3段階になった。老後に「死ぬまでの心配」をしなければならなくなったことは、大きな変化です。
 
同時に、家制度の弱体化も「死の意味」を変えました。日本人の死生観は「西方浄土」「極楽」という仏教的観念と家制度が結びついて醸成されてきました。「死んだら極楽浄土に行ける」「ご先祖様になって家や子孫を守る」と考えることで、「死」は意味を持ちました。
 
日本人には、「世の全てのものは移り変わり、いつまでも同じものはない」という無常観が根底にある。死が身近でいつ死ぬかわからないから、無常の世の中ではない「極楽浄土」に生まれ変わることを期待してきたのです。
 
だが、平均寿命が70、80歳と延びるにつれて、家の"新陳代謝"は滞り、核家族化や病院死の増加によって、死はどんどん遠いところへと追いやられていった。「極楽浄土」や「ご先祖様」という意味は見いだせなくなり、生きることが最大の価値になった。これが今の日本人の死生観なのです。
 
・・・昔は人間は簡単に死んだ。戦争、災害、伝染病、飢饉等々。だから昔の人の気持ちになれば、来世を信じないでやってられっか!というわけで、今生は来世や天国に行くための準備の時間と意味づけられる。しかし今では、新生児はほぼ無事に成人できるし、リタイアしてからの時間も延びた。要するに人間は長生きできるようになった。科学的知見の普及もあり、来世や天国を信じる切迫感は昔よりも大きく低下。これに伴い、人生から宗教的な意味というか目的(あの世の救済)も失われた。今では人生の目的というと「長生き」、加えて「金持ち」というところだろう。これが文明進歩の果てに人間の抱く願望なのか。それは違うぞと思うなら、自分で自分の人生の意味を見つけるほかない。そういう意味では実存主義は今でもそれなりに有効なのかなと思う。
 
しかし有象無象の人生に大した意味があるとは思えない。それこそアメリカ大統領くらいにならないと、自分の人生に意味があるとか言えないなあと。この頃そんな気がしているのであった。

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