2016年7月10日 (日)

ウルトラマン放送開始50年

今から50年前の昭和41年(1966)7月10日、TBSで「ウルトラマン前夜祭」として、第1話の放送に先立ち杉並公会堂で行われた番組PRイベントの模様が放映された。ということで、50周年記念イベント「ウルトラマンの日 in 杉並公会堂」が昨日今日と二日間の開催。どんな感じになっているのかなあと、現地に足を運んでみた。

有料イベントに参加する程の熱意もないので(苦笑)、とりあえずグッズ販売のスペースを覗いてみたのだが、まあ盛況のひとこと。老いも若きも男も女も相集う状況を目のあたりにして、本当にウルトラマンは国民的ヒーローなのだなという認識を新たにした。

Photo_2会場には歴代ウルトラマンが勢ぞろい。しかしウルトラマンって、こんなにいたんだなあ。真ん中の空いたスペースに、希望者が入って記念写真を取るサービスをやっていたのだが、順番待ちの人たちの列が出来て、途切れることなく写真撮影が続いていた。

50年前の小学1年生である自分は、いわばウルトラの「第1期生」。そんな自分にとってのウルトラマンとは、マンとセブン、それと帰ってきたウルトラマンまでかなあ。という感じなので、こんなに大量のウルトラマンを見せられても途方に暮れるしかない。(苦笑)

それに正直言えば、俺はウルトラマンより怪獣が好きなんだ! そして怪獣と呼べるものは、成田亨デザイン、高山良策造形の怪獣だけだ! という思いに凝り固まってしまっている。(苦笑)

それにしても50年か・・・。一口に50年と言っても、長い長い年月であることは間違いない。何年か前にNHK「歴史秘話ヒストリア」で、ウルトラマンに深く関わった伝説的脚本家、金城哲夫が取り上げられた時も感じたが、ウルトラマンももはや「歴史的」な存在になりつつあるなと。そして自分も、その歴史を生きていたのだと思うと何とも不思議な心持ちになる。

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2016年3月26日 (土)

ホッパー「ナイトホークス」

今夜の「美の巨人たち」(テレビ東京)は、アメリカの画家エドワード・ホッパーの最高傑作とも言われる「ナイトホークス」(夜更かしをする人たち)を取り上げていた。

「新説」らしき話として、ゴッホの「夜のカフェ」をテーマとした作品に触発された可能性を紹介していたが、そう聞いても「ふ~ん」程度の反応しか出てこない感じ。

Photoあと、絵の中の「ダイナー」(軽食堂)で時間を潰す人たちの中の、一人でいる男性は、画家自身の後ろ姿の自画像ではないか、という指摘もあった。それはまあそうかな、と思えるけど、それ以上は特にどうこうないって感じ。

もうちょっと変わった話、感心する話が聞きたかったな。

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2015年4月12日 (日)

川瀬巴水展(駿府博物館)

知ってる人には「今さら」だろうけど、川瀬巴水(かわせはすい、1883-1957)の版画作品が人気らしい。この芸術家の名前を自分が知ったのはホントにごく最近のこと。先月3月初めの日曜日の午後、だらだらとテレビを眺めていて、「なんでも鑑定団」(再放送)の中で巴水が取り上げられていたのを見た。その作品はイラストみたいな版画という感じで、何とも印象的。実物を見たいと思ったが、日本橋・高島屋の展覧会(1月)はとっくに終わっていた。残念に感じていたら、その展覧会が4月4日から静岡で開催との情報を得て、とにかく行こうと決めた。この「生誕130年」回顧展は2013年11月から千葉~大阪~横浜~山口~川越~京都~東京と全国を巡回していたもので、静岡展は追加開催のようだ。何にせよラッキーという感じで昨日の土曜日、静岡に向かった。

Photo展覧会場である駿府博物館は、静岡駅からバスで10分位、静岡新聞社の近くにある。行ってみると、こじんまりした古いビルの中に入っていて、「え、ここ?」みたいな感じだった。自分が入館したのはお昼頃だったが、来場者は少ない。東京展は人様のブログで見ると凄い混雑だったようなので、ゆっくり見れるのは良いことだと思う。

巴水は全国を旅して、各地の風景を次々に作品化していったのだが、個人的には東京の風景の作品をもっと数多く残して欲しかったなという感じがした。

静岡展は6月7日まで開催。前期(4/4~5/6)と後期(5/9~6/7)で展示替えあり。

近々日本橋丸善のギャラリーでも川瀬巴水の展示会がある(4/15~4/21)ので、会社帰りにちょいと覗いていこうと思う。

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2015年3月11日 (水)

ムーミンを愛するニッポン

フィンランドのムーミンキャラクターズ社、その経営トップであるクラクストロムさんの語るムーミン・ビジネスの変遷。本日付の「ダイヤモンド・オンライン」記事からメモ。

「ムーミンにとって日本は本当に大きな市場です。去年は日本の売り上げが世界の50%近くに上りました。北欧各国と並ぶ最大市場です」

「実はわれわれは2008年に、会社の戦略を大きく変えているのです。90年代から08年の約20年間はテレビアニメの著作権に頼りきっていたのですが、そうしたビジネスモデルを一切やめることにしたのです。われわれはアニメの乱発ではなく、ムーミンのアート性をコアにした戦略に転じることにしました」

「トーベ・ヤンソンは作家でもあり、画家でもあり、ムーミンはアート性を帯びた世界の数少ないキャラの一つです。これはサンリオやディズニーにはない強みだと気付いたのです」

「トーベ・ヤンソンのアートを前面に出すと、展示会や博物館のイベントで、多くのジャーナリストが来てくれます。そしてニュースを出してくれます。何か、新しいアニメを作らなくても、ムーミンのアート性だけでいろいろな動きが出るのです。全てはトーベ・ヤンソンのコア・バリューから生まれているのです」

「実際、これは、予想以上の成果を挙げました。2008年ごろまでは日本を中心に、売り上げの微減が続いていました。日本の占める割合も30%以下になったこともあります。ですが結果的に、昨年までの10年間で、売上高が6倍(5億ユーロ)に伸びるまでになったのです。これは本当にダイナミックな変革でした」

・・・トーベ・ヤンソン作品のアート性というコア・バリューへの「原点回帰」によって、飛躍を果たした「ムーミン」。日本のムーミンファンも、当初のアニメから入った世代に、アートとしてのムーミンを支持する層も加わって、厚みを増しているようだ。来年には日本にムーミンのテーマパークもできるらしいが、なぜ日本人はこれほどまでにムーミンを愛するのか。特にこれだという答えを持ち合わせてはいないけれど、ムーミン谷の住人たちの自由で平和な暮らしは、日本人の憧れに近い共感の対象となっているような気がする。日本人はムーミン谷に一つの理想郷を見ているのかもしれない。

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2014年12月28日 (日)

「鈴木書店」の栄枯盛衰

こんな本が出てたんだ。『鈴木書店の成長と衰退』(論創社)。発行は今年9月だからごく最近だ。鈴木書店は13年前に倒産した出版取次(一般的には問屋に当たる。大手はトーハン、日本出版販売)。人文社会科学書を専門に取り扱い、出版社では岩波書店との関係が深く、販売先では大学生協に強みを持っていた。

戦後、人々が本に「飢えていた」時代から、やがて社会の安定、高度成長期を経て、1970年前後の左翼系書物がよく売れた時期が、人文書=鈴木書店のピーク。その後専門書が売れなくなってくると、出版社を始めとする業界の収益構造は変化していく。

「重版やロングセラー商品の売れ行きが落ちてきて、それをカバーするために出版社は新刊点数を多く出すようになってきた。重版やロングセラーは客注や常備品に近いものだからほとんど返品にならなかったが、新刊は当たり外れが極端だから返品率がどうしても高くなってしまう。そういう新刊ラッシュ状況の中に鈴木書店も完全に巻き込まれてしまった」

出版業界の収益構造の高リスク化は、鈴木書店にマイナスの影響を大きく与えた。事業は長期低落傾向となる。この本の中では触れられていないが、80年代にはニューアカ・ブームが人文書の追い風となり、仕入を担当する井狩春男氏の「まるすニュース」が業界内で注目されるも、収益悪化傾向を反転させるには至らなかった。

そして2001年末、鈴木書店倒産。危ないという噂は聞いていたので「とうとう・・・」とも感じたけど、やはりショックだった。

出版業界の人向けであろうこの本を、なぜ証券会社のサラリーマンである僕が読むのかといえば、もう30年も前のこと、ちょっとだけ出版社にいたからだ。新曜社という心理学・社会学の専門書出版社。僕の仕事は花形の編集・・・ではなく、販売・在庫管理事務で、鈴木書店にも新刊見本を持参していた。3年半程で辞めてしまったけど。学校出てプータローだった僕を採用していただいた堀江洪社長は2007年に亡くなった。志ある出版人がまた一人、世を去った。そんな思いを持った。

経済的な思考や実学が優勢な今の世の中で、人文知は見捨てられていた感が強かった。でも、最近どうやら「教養」が見直されている気配。人文知がかつての輝きを取り戻すとも思わないのだが、個人の教養そして社会の文化、その基盤を支えているのは人文知であることも再確認されて欲しいと思う。

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2014年12月18日 (木)

ハムレットという「時代精神」

今月のNHK・Eテレ「100分de名著」は、シェイクスピアの『ハムレット』。河合祥一郎・東京大学大学院教授は、『ハムレット』は哲学的にとても深い、と言う。ハムレットの行動、それは時代の「精神」を体現している。以下にテレビテキストからメモする。

『ハムレット』が書かれた1600年頃はルネサンスの時代であり、ちょうど中世と近代のはざまの時代です。 

中世における自我は、自分ひとりで存在することはできず、常に神とともに受動的に世界に在るというものでした。それに対して、ルネ・デカルトの「我思う故に我在り」になると、神よりも理性を信じる時代となり、自分ひとりで考え、それによって主体が自立的・能動的に世界に存在することができる。それが近代的自我のはじまりです。デカルトの『方法序説』(1637年)はちょうどシェイクスピアの一世代あとなのです。 

逆に言えば、シェイクスピアの『ハムレット』は、デカルトに先んじて、近代的自我の原型のような主体を提示しているとも言えます。ただ、神とともにある中世から近代へと移り変わってゆくなかで、作者であるシェイクスピア自身も揺れ動いていて、熱情のなかで生きるという中世的な生き方と、理性で考えて生きるという近代的な生き方のはざまで揺れているのです。結論から言ってしまうと、ハムレットは近代的自我に引き寄せられていくけれども、けっきょく近代的自我では解決せず、最後はやはり「神の摂理」に委ねる――俺がひとりで悩んでいてもしょうがないのだ、という大きな悟りに至ります。

・・・シェイクスピアと言えば思い出される福田恒存の、「人間は自由を求めてはいない、必然性を欲しているのだ」という考え方に通じるものがある。ような気がする。

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2014年11月30日 (日)

デ・キリコの謎

先週、パナソニック汐留ミュージアムで開催中の「ジョルジョ・デ・キリコ展」に行き、今日の夜もデ・キリコをテーマとしたNHK「日曜美術館」(再放送)を見た。

デ・キリコ絡みの文章では、澁澤龍彦の「ニーチェ雑感」(1976年の「現代思想」臨時増刊・総特集ニーチェに所収)が、自分には印象深い。以下に一部をメモする。

ニーチェのイタリア体験ということを考えるたびに、私がほとんど反射的に思い出すのは、あの形而上学的絵画の創始者たるジョルジオ・デ・キリコの名前である。 

「ニーチェが発見したのは、気分(ドイツ語のシュティンムンク)に基づいた不思議な深遠な詩情、神秘的で無限な孤独であった」とキリコは書いている、「それは空が澄みわたり、太陽が低く沈みかけるので、影が夏におけるよりも長くなる、秋の午後の気分に基づいている」と。 

これは画家であるキリコのニーチェ観であると同時に、そっくりそのまま、自作の絵の雰囲気をみずから説明したものでもあるだろう。 

あの胸苦しいような不安と混り合った、奇妙に甘美なキリコ的世界の情緒は、いわば画家の青年時代のニーチェ体験と重なり合って形成されたのだった。 

実際、キリコの絵を眺めていると、私は、発狂の前の多幸症のニーチェが眺めたトリノ風景も、こんなふうな澄み切った憂愁につつまれた、幾何学的な明るさのものではなかったろうかと思いなされてくるほどなのである。 

ちなみに、キリコは決して発狂したわけではないが、彼が二十歳代のころに確立した巨匠としての名声を保ちながら、その後の五十年間、倨傲な孤独のうちに閉じこもって、美術史の上では死んだも同然の存在となっていることを考え合わせると、やはり何か、そこにニーチェと一脈通じる運命を見ずにはいられない。キリコもまた、若いうちに一種の多幸症を経験して、急速に没落したのだろうか。

・・・ヨーロッパを戦火が覆った1910年代。その時、デ・キリコは20歳代。極度に研ぎ澄まされた、いわば発狂寸前の精神状態の中から形而上絵画を生み出した画家は、その後古典絵画の中に安住の地を見出した。これはニーチェの生きた道、すなわち古典文献学者から出発し、やがて哲学の歴史を全否定する思考の果てに発狂した人生を、逆に辿ったようなものだと言えるかも知れない。

若きデ・キリコの形而上絵画。それは美術史上の奇跡と見ていいんだろう。しかし日本の展覧会に来る絵は大部分、古典絵画と新・形而上絵画なので、本当の形而上絵画を見たいと思ったら、やはりニューヨーク近代美術館に行かなきゃならんのだよなあ。

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2014年8月 4日 (月)

『成田亨作品集』

夏休みは怪獣の記憶を呼び起こす。というわけで買いました、『成田亨作品集』(羽鳥書店)、定価税込5400円也。カバー表紙はピグモンです。「成田亨 美術/特撮/怪獣」展(富山県立近代美術館)の公式カタログとのこと。展覧会は来年、福岡市美術館、青森県立美術館を巡回予定。同書の中にある成田亨の文章からメモしてみる。

Photo_2

私は人間は進歩するものだと思っていません。人間は進歩はしないで、変容してゆくのだと思っています。
変容してゆく人間の本質って何だろうか? 私には判りませんが、人間の本質とか人間と自然が
滅ぼした動物のことなどを考えながら、私は怪獣デザインをします。 

ウルトラ怪獣のデザインをするに当たって、3つの規範を定めました。 

1 怪獣は怪獣であって妖怪(お化け)ではない。だから首が2つとか、手足が何本にもなるお化けは作らない。
2 地球上のある動物が、ただ巨大化したという発想はやめる。
3 身体がこわれたようなデザインをしない。脳がはみ出たり、内臓むき出しだったり、ダラダラ血を流すことをしない。
 

どんな困難に遭っても健全な子供番組を作るためには、この3原則だけは守ろうと思いました。

・・・上記の「原則」を自分も子供の頃、『怪獣の描き方教室』(ノーベル書房、1967)の中で読んだ覚えがある。ほかにもレッドキングやゴモラのデザインの考え方が分かりやすく述べられていたのが、とても印象的だった。

繰り返し思う。怪獣はアートだ。このアートに深く心を動かされた僕たちニッポンの子供は幸せだった!ってね。

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2013年2月17日 (日)

エル・グレコ展

先日、上野の東京都美術館でエル・グレコ展を見た。(4月7日まで開催)

一年前のスペイン旅行ではトレドにも行き、サント・トメ教会で「オルガス伯の埋葬」を見てきたということもあり、今回の展覧会に足を運んだわけだが、じゃあ素晴らしいとか好きだとか言える画家かというと、そこまではいかないかなぁと思う。

大体エル・グレコって、絵画というより劇画みたいだな。タッチや色使いの感じとか。何で宗教画に赤や青、黄色といった原色系が使われているんだろう。感覚的に何か落ち着かない。過去には下品な絵と見なされた時期もあったらしいが、そんな評価も分からなくもない。

今回の展覧会の目玉は、「無原罪のお宿り」をテーマにした高さ3メートルを超える大作。要するに聖母マリアと天使たちの図像だが、画家晩年の作というから、やはり芸術家の創作エネルギーの大きさ強さは桁違いだなと。

個人的に興味深く感じたのは「受胎告知」。会場では1576年頃と1600年頃、制作時の異なる2つの作品が並べて展示されている。同じテーマなのに、同じ画家が描いたとは思えない程、両者の印象は違う。ギリシャに生まれ、イタリアで修業した35歳の画家は、スペインに移り住んだ後、急激な変貌を遂げて60歳に達する頃には、「エル・グレコ」という独自の個性を完成させていたのだと実感する。(2作品のポストカードを並べてみました。左が1576年の、右が1600年の「受胎告知」)

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ある作品の説明文中には「対抗宗教改革期」という言葉も目に付いて、1600年前後のスペイン・カトリックで活動した画家の時代背景を改めて感じるし、主題的にはキリスト教の聖人や聖書に関わるものが多いわけだから、もともと日本人には簡単に馴染めない類の画家だとは思う・・・んだけど、来場者多数の状況を見ると、分かっても分からなくても(自分のことです)、とにかく西洋絵画を見に来る日本人って凄いよな、と感心する。

とりあえず自分は、去年の旅行でトレドの町は気に入ったので、トレドに縁の深いエル・グレコにも、ちょっとは関心持っておくかという感じです。

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2013年2月16日 (土)

二人の「ロバート・キャパ」

今月初めの日曜日の夜、7時のニュースからNHKをだらだらと眺めていたら、9時にロバート・キャパの特集番組が始まり、そのまま見ていたら、これは驚き、そうなのか、という思いに包まれた。

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番組の内容は、あの有名なスペイン内戦時の写真「崩れ落ちる兵士」の真実について、作家・写真家の沢木耕太郎が推理するというもの。結論的には、あの写真はキャパが撮ったものではなくて、その場に同行していた恋人のゲルダ・タローが撮ったものだという。

キャパの本名はアンドレ・フリードマンだが、何でも当初は、公私ともにパートナーだったタロー(本名ゲルタ・ポホリレ)と二人で撮った写真を一緒に、「ロバート・キャパ」の写真として売り込んでいたという。藤子不二雄みたいなもんか。違うだろ。

あの写真を、キャパじゃなくて別の人が撮ったというのは驚くばかりだが、当時の二人の事情を知れば、まあそれはそれでもいいか、と思える。

ところが、もっと驚いたのは、あの写真は戦闘中のものではなくて、訓練中のものであり、あの兵士は撃たれたんじゃなくて、転んだところだったのだという話。何それ。

番組では、問題の写真と共に残されていた、キャパとタローの撮影した一連の写真からの推理、及びCGによる再現検討が示されて、もう説得力が余りにも強いというか、そうとしか思えなくなってしまった。

1936年9月の「崩れ落ちる兵士」撮影から一年も経たないうちに、タローは戦場で亡くなる。パートナーの死がキャパに与えた衝撃は計り知れない。

この番組を見たのがきっかけで先日、「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家」と題された展覧会(横浜美術館、3月24日まで)も見学してきた。今年はキャパ生誕100年という機会に、横浜美術館が所蔵するキャパの写真193点すべてを展示。合わせてタローの写真83点も、日本初公開されている。

タローの展示写真の説明文に、「1936年のタローの写真のほとんどは、ローライフレックスで撮影されている。このカメラ特有の正方形のフレームの特性を生かし、空を画面にたっぷりと写し込んだショットが多く見られる」とか書いてあったので、ますます「崩れ落ちる兵士」はタローが撮ったのだという思いが強まった。

しかし最近は「戦場カメラマン」というと、あの渡部陽一さんのイメージが頭の中に出てきてしまうので、ちょっと困る。(苦笑)

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