2015年12月29日 (火)

名選手は名監督ならず

野村克也氏の語る監督論はサラリーマンにも頷けるところが多い――週刊ポストのネット配信記事からメモ。

「名選手、必ずしも名監督にあらず」。これにもしっかりとした根拠がある。現役時代にスター選手だった監督は、攻撃野球を好む傾向が強い。素人が見てもわかりやすい、派手な野球が好みだ。
言い方を換えれば、ただ打って走るだけの才能と技術に頼った粗い野球である。これでは到底、常勝チームなど作れない。

また、スター選手はその才能からデータを必要とせず、細かいチームプレーとも関係なくやってきた者が多いため、いざ監督になったら緻密な野球ができない。有効な作戦が立てられないし、相手の作戦を読むこともできない。

そしてもう一つ。スター選手は自分ができたことは、皆もできると思い込んでしまっている。並の選手の気持ちや痛みがわからない。自分のレベルで選手を見るためにうまく指導ができず、言葉より感覚を重視してしまいがちなのだ。

スター選手の代表格といえる王貞治、長嶋茂雄のONは確かに天才的な選手だったが、その余りある才能ゆえに苦労を知らず、それぞれの哲学がなかった。だから監督としてはまったく怖くなかった。

ONに共通していたのは、目の前の試合に一喜一憂していたことだ。
監督というものは「ではこの先どう守ろうか、どう逃げ切ろうか」が気になるのが普通だ。子どものようにはしゃいでいるヒマはない。

現に、川上哲治(巨人)さんや西本幸雄(阪急など)さんが試合展開によって一喜一憂していただろうか。どんなに勝っても仏頂面だった落合博満(現中日GM)までいくともはや変人だが、まだONや原辰徳(巨人)よりはマシだ。

・・・名選手、必ずしも名監督ならず。サラリーマン社会の中でも大いに在りうる話で、仕事のできる人が、人を育てることのできる人かというと、そうでもないのだよな。

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2015年12月22日 (火)

監督に求められる「言葉」

選手の信頼や信用を得るためには言葉が大切――野村克也氏の語る監督論。週刊ポストのネット配信記事からメモする。

「信」は万物の元をなす。選手がいかに監督を信頼、信用しているか。これがなければチーム作りなどできるわけがない。

その「信頼」を得るのに重要なのが「言葉」である。リーダーは人の前できちんとモノが言える人物でないといけない。選手が聞いて感心し、納得するような言葉を持つ者こそが、選手から信頼・信用される良い監督なのだ。

球界も結局は、出身大学やその派閥がモノをいう学歴社会だ。田舎の高卒で、しかもテスト生で入った私が将来監督になれるなどとは思ってもいなかった。だから引退後は解説者としてなんとか球界に残りたいと思い、どの評論家にも負けないような解説をしようと思った。

そうして一生懸命頑張っていればわかってくれる人がいる。こんな私の姿をある人が見てくれていた。
あれは1989年のオフのこと。いきなりヤクルトの相馬和夫社長がやってきて「監督をやってほしい」といわれた。私はパ・リーグの人間だからセ・リーグの野球は知らない。何故私なのですかと聞くと、「野村さんの解説を聞き、新聞の評論を読んでこれが本当の野球だと感心した。うちのバカどもに本物の野球を教えてやってほしい。チームがうまく行かなければ私も責任を取る」といってくださったのだ。
これが就任の決め手となった。結局、優勝させるのには3年かかってしまったが、見事優勝した時には相馬社長が飛んできて私の両手を握って放さなかった。その感触は今でも忘れられない。私がヤクルトの監督になったのも、解説という「言葉」がきっかけだったのだ。

説得力、そして重みのある「言葉」を発し、選手から「信」を得られるかどうか。監督業とはそれに尽きるのだ。

・・・ノムさんは言う。巨人、阪神、横浜の新監督には、その「言葉」がない。だから心配だ、と。まあ言葉に重みのある人というか、ノムさんほどの努力家はそうそういないと思うけど。

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2007年7月22日 (日)

オシムの『日本人よ!』

サッカー日本代表を率いるオシム監督の著書『日本人よ!』から、組織論としても学べる言葉などをメモしてみる。

言うまでもないことだが、サッカーは団体競技である。数多くの選手たちがプレーするには、コレクティブ(集団的)に振る舞わなくてはならない。それは最も基本的なことである。
だが、個人技に優れた一人や二人の選手が常に脚光を浴びる「スター・システム」が、昔から現在に至るまで、日本に限らず世界中で蔓延している。その「スター・システム」を支持する人たちは、集団はあくまで集団であるからこそ機能し、スタープレーヤーも集団にフィットし、逆にスタープレーヤーたちが集団によって活かされていることを忘れてしまっている。
ある選手がいなくては駄目であるかのような風潮が、サッカーという団体スポーツで頻繁に見られるが、元来、団体競技とはそういうものではないのである。

サッカーでは、常にインディビジュアルとコレクティブが織り交ざる。常にお互いが行き来するのだ。だから、そこではノンストップで自分と集団のために責任を持つことになる。

サッカーでは、全員で問題を解決しなければならない。しかし、誰のサポートも受けられない状況下で、一人で責任を背負って解決しなければならない場面もある。
そこでミスするかしないかは重要ではない。サッカーはトライとミスなしで進歩することはできないのだ。
日本人選手に責任感がないとは言えない。しかし、問題はその責任感に自分で限界を作ってしまうことだ、というのが私の印象である。

サッカーは非常に複雑である。そこで大事なのは、頭脳である。どこに、何が、どうやって、なぜ、どこが危険か、どこが危険ではないかを一瞬にして見る空間的な頭脳である。それが戦略なのだ。

すべてをポジティブに考える必要はあるのだが、それは無理な話である。だから人間はできる限り客観的になる必要があるのだ。楽観主義や悲観主義、どんな方向であれ、一つの陶酔感が支配したときは危険なものなのだ。

・・・昨日のアジアカップで、日本はオーストラリアと延長戦も含め120分を闘い抜き、最後はPK戦でようやく勝利を手にした。試合の展開にはもどかしさを感じた部分もあったとはいえ、高原の執念のゴール、川口の超人的なセーブには目を瞠った。自分は特にサッカーファンという訳ではないが、オシム・ジャパンが自分たちのサッカーを作り上げながら、アジアカップ優勝を成し遂げる場面を見てみたい。

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