2023年12月31日 (日)

家族の維持という「任務」

映画「SPY×FAMILY」を観た。テレビアニメ(マンガ原作・遠藤達哉)放映中作品の「劇場版」であり、ストーリーもスピンオフ的な映画用オリジナル。

このマンガの基本設定は、スパイのロイドと殺し屋のヨル、そして人の心が読める超能力者アーニャが自分の正体を隠すため、それぞれ「父」「母」「娘」として、世を忍ぶ仮初めの家族を作り生活するというもの。特にロイドにとってフォージャー家は、自分のミッションを達成するために必要不可欠な、何が何でも維持するべき「家族」。映画の前半はフォージャー家の「家族旅行」という感じで割と穏やかに進んでいくが、後半になると怒涛の急展開。アクションとスペクタクル満載、ロイドさんもヨルさんも超人的な能力を発揮する大活劇になっていて、さすがに映画だわーと感心した。しかし、こんな突拍子もない非日常的な経験をした夫婦なら、お互いただ者ではないと気づきそうなものだが。(笑)

この人気マンガについて評論家の宇野常寛は、「全力で家族を演じ、維持しなければいけない」という物語が支持されているのは、多くの人にとって、「戦後的な核家族の幸福のフォーマット」が、「渇望しているけれど手に入らない憧憬の対象になっているからではないか」(『2020年代の想像力』ハヤカワ新書)と評しているのだが、ちょっと考え過ぎかなという感じもする。

昔だったらこのマンガは、父であるロイドさんだけが自分の正体がバレないように、ジタバタする設定になるのではないか。それが父母娘の3人ともジタバタするのが、今風だなと思えるところだ。なので「核家族の幸福」にフォーカスしてるとは思えなくて、やはり家族全員が特殊な人物でありながら、普通の家族を結構一杯一杯で演じている、というのが共感を呼ぶポイントではないか。つまり今は誰もが、家族の一員を演じているという意識を、多かれ少なかれ持っているのだと思う。それは言い換えれば、個人の中に家族というものに対する距離感が多かれ少なかれあり、そこから家族を機能させるためには演じることが必要だという意識が生まれる、ということなのだろう。あるいは今の多くの人にとって、家族を維持するのは「任務」になっている、ということなのかもしれない。

さて、最終的にロイドさんのミッションが達成されて完了した時、フォージャー家はどうなるのだろうか。目標を達成したから「解散」となるのか、それとも仲良し家族として「継続」していくのか。まあミッション達成まで、まだまだ先は長いと思うけど。

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2023年11月26日 (日)

フリーレンとクラフトの対話

現在アニメ放映中のファンタジー『葬送のフリーレン』。その原作マンガ第3巻「第24話エルフの願望」から、主人公の魔法使いフリーレンと、武道僧(モンク)であるクラフトの対話。二人は、人間より遥かに長命なエルフという種族である。

フリーレン:クラフトはどうして女神様を信じているの?
クラフト:フリーレンは信じていないんだな。
フリーレン:天地創造の女神様は、神話の時代を除いて、この世界の長い歴史の中で実際に姿を現したことは一度もない。
クラフト:若いな。俺も昔はそうだった。だが今は心の底から女神様を信じている。いや、いてくれなきゃ困るんだよ。俺の成してきた偉業も正義も、知っている奴は皆死に絶えた。だから俺は死んだら天国で女神様に褒めて貰うんだ。よく頑張ったクラフト。お前の人生は素晴らしいものだったってな。わかるだろう。フリーレン。自分の生きてきた軌跡が誰にも覚えられちゃいないってのはあまりにも酷だ。俺達は長い人生を歩んでここにいるんだぜ。
フリーレン:クラフト。それはただのわたしたちエルフの願望だ。
クラフト:そうだな。

・・・確かに、自分だけ長生きしていると、自分を知っている人はどんどん死んでいなくなってしまう。だろうから、自分のやってきたことを知っている人がいないというのは、それはそれは寂しいものになるというのも想像できる。他者に自分の存在を認めてもらわずには生きていけない人間は、根本的に社会的存在であるのだろうが、エルフも基本的には人間と同じらしい。

クラフトの切実な思いについて、フリーレンは冷静に、それはただの願望だと告げる。つまり、いるかいないか分からない女神様に褒められることは期待していない。潔いと言うべきか。

ただ考えてみると、これは別に長命のエルフだけの思いではなく、短い生の人間でも同じような感覚はあるはずだ。自分の人生には、自分しか知らない、経験してない、味わっていない苦楽が、うんざりする程あって、それらはどう説明してみても、他人には共感できない、理解できないものであるだろう。自分の人生の行程の細部まで、誰かが認めて褒めてくれることは、現実には殆ど期待できない。仮に親だけが褒めてくれる人だとしても、通常は先に死んでしまうので、褒めてくれる人がいなくなった後も、生き続けていくしかない。それこそただの願望として言うなら、死んでからあの世で親に褒めてもらいたいと望むほかない。

これまで地球上に人類が何百億人生きていたのか知らないが、ほぼ100%に近い人々は忘れ去られているわけで、結局覚えている人はいない、いなくなるという前提で、誰もが自分の人生を生きなければならないのだろうと思う。

ところで、フリーレンの物語に出てくる、創造主が女神様であるというのは、当然キリスト教とは違うし、どっから来た話なのかなあと思う。それから、物語の中に結構ドイツ語が散りばめられているのだが、中世風ファンタジーというのは、やっぱりドイツっぽい雰囲気を纏うものなのかなあとも思ったりする。

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2023年10月29日 (日)

「関ヶ原」と「ドイツ三十年戦争」

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戦国マンガ『センゴク』で知られるマンガ家・宮下英樹の最近作の単行本『大乱関ヶ原』(第2巻)と『神聖ローマ帝国三十年戦争』(第1巻)が出た。

関ヶ原合戦は言うまでもなく、1600年に起きた「天下分け目の戦い」。三十年戦争は、1618年に当時の神聖ローマ帝国(ほぼドイツ)で始まり、ヨーロッパ各国を巻き込みながら1648年まで続いた大戦争。

関ヶ原合戦は最近急速に研究が進んでいる。徳川家康が天下を取った戦いというよりも、1598年に豊臣秀吉が死んだ後、豊臣政権内で2年余り続いた権力闘争の最終決着の戦いと考えられている。

三十年戦争の源は、戦争開始から更に100年前に遡る。1517年ルターの宗教改革に始まる、カトリックとプロテスタントの争いが背景になっている。1555年のアウクスブルクの和議でいったん小康状態となったが、1618年にボヘミアから戦火が広がり、ドイツ国内だけでなく、スウェーデンやフランスなども巻き込む大戦争に発展した。1648年にウェストファリア条約締結で戦争終結、これにより教科書的に言えば、主権国家体制が確立したとされる。

1517年に宗教改革が始まり、それが130年後の主権国家体制確立に帰結するプロセスには、まさに歴史のダイナミズムを感じる。日本でも、応仁の乱(1467年)から130年後の関ヶ原合戦が戦国時代の総決算になったのを見ると、歴史的な混乱から新しい秩序が作られるまでは100年以上かかるのだな、と思う。

「三十年戦争」単行本の帯には「ヨーロッパの戦国」の惹句があり、発行会社は別である「関ヶ原」単行本の帯にも「三十年戦争」が広告されている。関ヶ原はともかく、三十年戦争は馴染みのない人が多いだろうから、「関ヶ原」を買った人が「三十年戦争」にも興味を持ってくれるといいなと思う。いずれにしても、日本とヨーロッパの歴史的な時代の転換点を描く二つの宮下作品に、とても期待している。ただ「関ヶ原」は月刊誌連載、「三十年戦争」は隔月刊誌連載で、特に「三十年戦争」は完結までに何年もかかりそうだなあ・・・。

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2023年10月28日 (土)

西南戦争がマンガになる(予定)

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「交番女子」の警察マンガ『ハコヅメ』の作者・泰三子(やす・みこ)の歴史マンガ『だんドーン』単行本第1巻(講談社)が出た。扱う時代は幕末で主人公は川路利良(かわじ・としよし)。・・・って誰?という感じだが、日本警察の礎を築いた人だという。とりあえず「警察つながり」で、謳い文句は「本格幕末コメディ」の新作らしいのだが、「日経ビジネス電子版」のインタビュー記事を読んでみると、西郷隆盛の人物像を見直すとか、桜田門外の変や西南戦争を新たな視点で描く予定など、むしろ「本格幕末ドラマ」になりそうな感じもある。記事の泰発言から、西南戦争に係る部分をメモする。

私は「西南戦争をマンガで描きたい」気持ちをずっと持っていたんです。西南戦争は西郷(隆盛)と大久保(利通)の戦争、と見せかけて、あれは中村半次郎(桐野利秋)と川路利良の代理戦争だった、という声もあるじゃないですか。この2人を描いていくと、当時の人たちがどうして西南戦争に進んでいったかというのを、自分なりの解釈で分かりやすく描けるかなと。

(「戊辰戦争で幕末終了」感はあるのかもしれないが、)会津戦争(1868)からの西南戦争(1877)を描いてこそ、本当の幕末史じゃないですか。会津戦争で会津が薩摩らの新政府軍にどんな目に遭わされて、その9年後の西南戦争で、会津軍の将たちがどういう活躍をして、どういうふうにいわれてきたか。会津の人たちの魂について触れるには西南戦争まで描かないとだめで・・・。

熊本城を守り抜いた谷干城(たに・たてき、土佐藩出身)がいるじゃないですか。谷干城は会津の戦いの中で山川浩を知って、軍にスカウトするんですよ。その山川が自分を見込んでくれたかつての敵、谷の救援のために、一番乗りで熊本城に入城を果たすという。「めちゃくちゃ胸熱展開なのに、誰かマンガにしていないの」と。新撰組がお好きなら、斎藤一も出てくるのに・・・。彼は川路の下で警察官になって「抜刀隊」という、西南戦争の勝敗を分けた隊に入っているんです。いや本当に楽しみだな、西南戦争を描くのが。

・・・最近自分も、なぜか西南戦争への関心が軽く盛り上がっていて、今年の春に田原坂周辺を歩いてみたし、熊本城天守が戦闘直前に焼失した謎も気になっているので、いま西南戦争を描くというマンガ家さんが出てきたことに大変驚きかつ頼もしく思っているし、西南戦争のマンガを読むのが本当に楽しみです。

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2022年9月26日 (月)

『百億の昼と千億の夜』

先日、萩尾望都のマンガ『百億の昼と千億の夜』(原作は光瀬龍のSF小説)の完全版が、河出書房新社から発刊された。

略して「百億千億」は、1977年に「少年チャンピオン」に連載。何と45年前。自分は高校生だったが、まさに宇宙論的なスケールの物語で、阿修羅王、シッタータ、ナザレのイエスなどの宗教キャラが時空を超えて活躍するという、何だか難しそうなマンガだなあという感じがして、部分的にしか読んだことがなかった。ということもあり、今回の機会に初めて最初から最後まで読んでみた次第。

で、宇宙の中の人類というか生命の存在理由を考える物語というか、しかし結局いまひとつよく分からない話ではあった。でも、やっぱりこの話をマンガ化した萩尾望都は凄いなあと思う。なかでも阿修羅王の凛々しさと強さが放つ魅力は、このマンガのとりわけ後半部分を隅々まで支配していると言って良い。あっ、でも「敵役」に配されたナザレのイエスも、結構いい味出してるキャラだよな。

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「百億千億」もまあまあ有名作品とは思うが、萩尾望都の代表作といえば「ポーの一族」「11人いる!」だろう。でも、やっぱり難しそうな感じがして読んでない(苦笑)。萩尾望都マンガで、自分が好きなのは初期作品の「ケーキケーキケーキ」。分かりやすいし、とてもいい話なので繰り返し読んだ覚えがある。

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2022年9月19日 (月)

「センゴク」から「三十年戦争」へ

歴史マンガ『センゴク』を18年かけて完結させた作者の宮下英樹が、次は17世紀のドイツ三十年戦争のマンガを描くということを聞いて、自分的には「おお~」という感じがした。掲載誌である雑誌『歴史群像』10月号は、連載開始記念として宮下氏のインタビュー記事を掲載。以下に、なぜ「三十年戦争」なのかを語る部分をメモする。

直感的ですけど、日本史の場合は、戦国時代が軸になっている気がするんですね。戦国時代に興味を持てば、今度は戦国以前と戦国以後というように、日本史全体に興味を持つようになっていきます。それがヨーロッパ史だと、この「三十年戦争」の時代なのかなと思ったわけです。中世の騎士への憧れも残しながら、すでに鉄砲も大砲もある。近世・近代への大きな転換点ですよね。

グスタフ=アドルフとヴァレンシュタイン、彼らが激突したリュッツェンの戦いは描きたいところです。そこに向かってどう面白くしていくかというところで、その前の時代のフリードリヒから描きはじめたわけです。

最終的には、戦争が話し合いで終わるという時代を描きたいんです。戦争をしてどっちかに神の裁きが下るかと思いきや、下らないから、人間同士で話し合って解決しようと。神様がやってくれないなら、人間が自立してやるしかないよという。

・・・日本の16世紀は戦国時代、これに負けず劣らず、ドイツの16~17世紀も面白い。1517年ルターの宗教改革が始まると、カトリックとプロテスタントの対立は激化する一方に。神聖ローマ皇帝カール5世はプロテスタント諸侯をいったんは制圧。しかしその後反撃に遭い、1555年アウクスブルク宗教和議に至る。16世紀の後半はフランスが宗教戦争の中心地に。17世紀に入り1618年、神聖ローマ帝国内のボヘミアで起きた争乱が、デンマーク、スウェーデン、フランス、スペインを巻き込む大戦争に発展。これが三十年戦争で、教科書的には最後の宗教戦争にして最初の国際戦争であり、1648年ウェストファリア条約締結で戦争が終了すると共に主権国家体制が確立した、とされる。宗教改革からウェストファリア条約までは、まさに歴史のダイナミズムが感じられる時代(ということはたくさんの血が流れた時代)なのである。

戦国時代が日本史の大きな転換点ということについても、かつて歴史学者の内藤湖南が「応仁の乱」以前と以後、という日本史の見方を示したことはよく知られている。日本もヨーロッパも、16世紀から17世紀が歴史の大きな転換点だったと言ってよいだろう。

三十年戦争のマンガというと「イサック」がある。これは、17世紀のヨーロッパで日本人が活躍するという意欲的な設定の物語。たぶん宮下氏の「神聖ローマ帝国 三十年戦争」は、より史実に密着したマンガになるのだろう。月刊誌の連載なので、完結まで何年かかるのか早くも心配になるわけですが(苦笑)、大いに期待したいマンガです。

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2022年5月 4日 (水)

アトムよりも鉄人28号

今月の日経新聞「私の履歴書」執筆者はマンガ家の里中満智子。本日第4回の内容から以下にメモ。

7歳になるころ、書店で、好きな雑誌を選んでよいと言われたので、何冊かパラパラめくっていたら、創刊されたばかりの「なかよし」に載っていた「とんから谷物語」が目に入った。手塚治虫先生の連載である。ダム建設で故郷を追われる生き物たちを描いた漫画で、環境問題を扱った先進的な作品だ。当時の私には、美しい絵と物語だけでも十分に魅力的だった。

小学2年になると、貸本屋に通い始めた。ほぼ毎日雑誌か単行本を借りていた。
「あしたのジョー」のちばてつや先生や、「仮面ライダー」「サイボーグ009」などの石森(後に石ノ森に改名)章太郎先生も、はじめは少女漫画を描いておられ、私はリアルタイムで読んでいる。

ことに熱中したのは「鉄腕アトム」だ。後年、アニメでも大ヒットする手塚作品だが、私の記憶では連載当時、同級生男子には横山光輝先生の「鉄人28号」の方が人気があった。少年の操縦で巨大ロボットが敵を倒す痛快な物語に比べて、アトムは、くよくよ悩む。敵がなぜ悪者になったかを考え、背景にある人間の黒い欲望に気づく。敵に負けたり、人間にいじめられたりすることもある。
そんな姿に感情移入して「今月のアトム、泣けたよね~」と同級生男子に言っては、けげんな顔をされていた。彼らには、アトムは暗すぎたのだ。けれど私は「こんなとき、アトムならどうするか」と考えて行動を決めるほど思い入れが強かった。

・・・当時の男の子の鉄人人気は、自分も大いに頷けるものがある。自分も、アトムより鉄人の方が好きだった。その理由を考えたことはなかったが、里中さんの文を読んで、確かにアトムは暗いというか、少々鬱陶しい印象はあったかもしれないと思う。確かアトムに「ロミオとジュリエット」を下敷きにした話があって、それを子供の頃読んだ時、結末部分で何とも得体の知れない気持ち悪さを感じたことを覚えている。その一方で、「地上最大のロボット」(プルートウ!)は、わくわくぞくぞくしながら読んでいた。実際、人気作品だったらしいので、たぶん男の子は、この話が大好きだったんじゃないだろうか。

里中さんが熱中したことを考えると、確かにアトムには少女漫画テイストが結構含まれていたのかも、と思ったりする。

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2021年9月26日 (日)

みなもと太郎「ホモホモ7」

去る8月7日に、マンガ家のみなもと太郎が死去。みなもと太郎の代表作といえば、歴史大河ギャグ「風雲児たち」なのかも知れないが、自分はやっぱり「ホモホモ7」。「風雲児たち」は何か普通のマンガという感じだが、「ホモホモ7」という実験的ギャグマンガのインパクトは大きかった。

追悼の思いで改めて「ホモホモ7」を読もうかと思ったが、今は「復刊ドットコム」による「完全版」が2600円(税抜き)で出ているのみ。購入するのにちょっと決心が必要な値段だった。(電子版が安いけど、どうも年寄りは電子版に手が出ない 苦笑)

「ホモホモ7」は1970年~71年、講談社「少年マガジン」に掲載。もう50年も前のマンガだけど、各ストーリーの様々な場面の多くは自分の記憶に残っていた。基本的な設定はスパイもので、男の組織ホモホモ・ブロックと女の組織レスレス・ブロックの戦いを描くのだが、主人公の活躍の舞台は任侠風、宇宙SF風、古代ローマ風、ラブロマンス風と、作者の好き勝手に展開。当時を思い起こさせる「大阪万博」とか「谷岡ヤスジ」とか、「家畜人ヤプー」(沼正三の小説)とか「おとっつあん、おかゆができたわよ」(当時のバラエティ番組「シャボン玉ホリデー」の定番コントのセリフ)なんて言葉やセリフも出てくる。当時のマガジン連載マンガの女性登場人物も借用されていたりして、何とも楽しい。

この本では資料として、マガジン連載初回「ホモホモ7只今参上」の、試作版ともいえる「レスレス7喜々一発」も掲載されている。2作のストーリーは基本的に同じだが、なぜか「喜々一発」の登場人物の呼び名はホモホモイレブンとレスレスセブンで、後の設定と逆になっている。「ホモホモ7」といえば、ギャグタッチと劇画タッチの混在が特長だが、「喜々一発」と比べて「只今参上」は劇画タッチの部分が増えて、全体的により丁寧に描かれている。

実は「喜々一発」は1969年、小学館「ビッグコミック」に採用された作品。しかし掲載する機会がないまま一年ほど経過。作者がたまたま少年マガジンの副編集長に会う機会があり、作品コピーを見せたら、書き直しのうえ掲載することになった、という。この辺の経緯は、自分は知らなかったので、非常に興味深く感じた。当時の少年マガジンは内田勝編集長ー宮原照夫副編集長の布陣。まさに目利きの副編集長のおかげで、最初は青年向けマンガだったものが少年誌掲載に変わり、1970年当時小学5年生だった自分も読めることになったと思うと、感慨深い。

それにしても、自分の子供の頃に楽しみを与えてくれた人々が世を去っていくのは、しみじみ寂しい。

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2021年6月 9日 (水)

サスケ、お前を斬る!

現在NHKEテレの番組『趣味どきっ!』では、昨秋放送の「本の道しるべ」シリーズ全8回を再放送中。出演している文化人は知らない人ばかり(タレントの渡辺満里奈だけ知ってる 苦笑)なのだが、本と本屋さんをテーマにした番組ということで、先日とりあえず第2回(歌人の穂村弘が出演)を流し見していた・・・ら、穂村さんが突如TVアニメ「サスケ」冒頭ナレーションの部分を朗読したのに意表を突かれた。TVアニメの中にも「詩」がある、その事例として読み上げられたのは以下のナレーション。

光あるところに影がある。まこと栄光の影に数知れぬ忍者の姿があった。命をかけて歴史を作った影の男たち。だが人よ、名を問うなかれ。闇に生まれ、闇に消える。それが忍者の定めなのだ。――サスケ、お前を斬る!

何で?と思って穂村さんは何年生まれか見ると1962年。若く見えるけど自分の3つ下、概ね同年代。自分もなぜか「サスケ」が好きで、白土三平の原作コミックスは全15巻持ってたし、TVアニメ(昭和43年~44年放送、もう50年も前なのか)も毎週欠かさず見ていた。今も記憶に残る、哀愁感漂うBGMをバックに流れる名調子の語り。それを全く予期せぬ形で耳にしたものだから、滅茶滅茶意外感があった。正直自分は、短歌というジャンルには全く関心がないので、穂村さんのことも全く知らなかったけど、これで一方的に親近感がわいてしまった。

実は最近、たまたま思い立って、サスケの原作とTVアニメ両方の全巻を見直したところだった。昔、原作を読んだ時は、物語の後半3分の1は、子供心にも随分と暗い印象を受けたものだった。理由や都合は分からないが、TVアニメも原作の途中で終了し、物語の最後まではアニメ化されていない。原作は後半になると、サスケが敵と戦うよりも、人間同士の争いに巻き込まれるようになり、主人公としての印象もボヤける感がある。ので、少年忍者サスケの成長物語としては、TVアニメは程よいところで「完結」したと思う。

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2020年12月 6日 (日)

上弦の鬼「童磨」に関する雑感

大ヒット漫画『鬼滅の刃』、12月4日の単行本第23巻発売で全巻完結。当日は新聞5紙に登場キャラの全面広告が入り、まさに「鬼滅の日」の様相だった。

公開中のアニメ映画の興行収入も11月末で275億円となり、300億円超えも時間の問題に。しかし「ドラえもん」ならともかく、決して万人向けの内容とは思えない「鬼滅」を観るために、老若男女が映画館に押し寄せる事態を見聞きすると、自分のようなただのおじさんは、ただただ訝しい気持ちになる。しかし、その万人向けとは言えない「鬼滅」のストーリーやキャラについては、どういうところからこういうこと(大正時代の鬼とか鬼狩り剣士とか)が考え出せるのか、作者の頭の中は一体どうなっているのかと、ただただ驚き感心するほかない。

そんな奇想天外な「鬼滅」に登場するキャラの中でも、「上弦」と呼ばれる最強クラスの鬼のひとり、「童磨」の個性は際立っている。他の鬼の外見は当たり前のように化け物だが、童磨の見た目はほぼほぼ人間。しかもその言動は何ともチャラい鬼なのだ。人間界では新興宗教の教祖として振舞っているのも、風変りな有り様である。

他の鬼は、人間だった時の怨念や復讐心など超ネガティブな感情から鬼へと化したのに、童磨にはそういった過去は無いように見受けられる。童磨が20歳の時に鬼になることを決心した理由は作品には描かれていないが、それでも作中には童磨のこんなセリフがある。「俺は“万世極楽教”の教祖なんだ。信者の皆と幸せになるのが俺の務め。誰もが皆死ぬのを怖がるから。だから俺が喰べてあげてる。俺と共に生きていくんだ。永遠の時を。」
童磨は、鬼となった自分に食べられることによって信者は永遠に生きる、つまり救われることになる、という考え方を持っている。おそらくは、そんな歪んだ「使命感」から、童磨は鬼となる道を選んだと考えてよいのだろう。

教祖様である童磨の人間観は、ちょっと上から目線でもあるが、妙にリアルである。作中にこんなセリフがある。
「神も仏も存在しない。死んだら無になるだけ。何も感じなくなるだけ。心臓が止まり脳も止まり腐って土に還るだけ。生き物である以上須らくそうなる。(人間は)こんな単純なことも受け入れられないんだね。頭が悪いとつらいよね。」
「この世界には天国も地獄も存在しない。無いんだよそんなものは。人間による空想。作り話なんだよ。どうしてかわかる? 現実では真っ当に善良に生きてる人間でも理不尽な目に遭うし。悪人がのさばって面白おかしく生きていて甘い汁を啜っているからだよ。天罰はくだらない。だからせめて悪人は死後地獄に行くって。そうでも思わなきゃ精神の弱い人たちはやってられないでしょ? つくづく思う。人間って気の毒だよねえ。」

理不尽極まりない現実から目を背けて、しょうもない物語を作って自らを慰めるのは、弱者のルサンチマンの現われでしかない。鬼の多くはパワーやフィジカルの強さを追求するが、童磨は現実を直視できる精神の強さを体現する鬼であり、そこが他の鬼と一線を画する(というか童磨にとって肝心なのは「強い弱い」ではなく、頭の「良い悪い」らしい)ところだろう。また童磨は人間的な感情を実感していない。なるほど人間の感情とは様々な思い込みから発するものであり、それもまた現実を受け入れられない人間の愚かさの現われであるとすれば、現実を直視する強さを持つ童磨が、人間的感情と無縁であるのも道理なのである。

一方で童磨が、自分に立ち向かってくる鬼殺隊剣士・胡蝶しのぶの健闘を称えて放つ言葉には、やや意外感もある。「全部全部無駄だというのにやり抜く愚かさ!  これが人間の儚さ人間の素晴らしさなんだよ!」
ここで童磨が肯定している人間の「愚かさ」とは、実は「強さ」と言い換えてもよい。しのぶの思い「できるできないじゃない。やらなきゃならないことがある。」は、できなければ全部無駄になるかもしれないという現実を超えて、人間には、やると決めたことをやる意思の強さがあることの表明である。感情という「愚かさ」から自由になれる人間などいないが、現実を超えようとする人間の意思の強さは尊いものだと言えるだろう。

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