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2024年8月11日 (日)

経済評論家という仕事(山崎元)

経済評論家・山崎元氏の「遺作」である『がんになってわかったお金と人生の本質』(朝日新聞出版社)の第5章(お金より大事なものにどうやって気づくか)から、以下にメモする。

「経済評論家」を自称し始めて約20年になる。金融機関のエコノミストやアナリスト職ではないし、学者でも、作家でもない。発言内容に幅を持たせることができるのでこれが無難だと思った。だが、大いに満足だったわけでもない。

世間的に、「評論家」という言葉はイメージが良くない。「あの人は評論家だ」という評は、言葉だけで行動しない人や発言に重みのない人に与えられる。その通りなのだ。評論家が提供するのは「論」だけだ。正しくて、他人が気づきにくかったり、言いにくかったりする「論」を、なるべくスピーディーに、できればチャーミングな辛辣さと共に伝えられたら、それでいいではないか。

ただ、正直に言って職業的なコンプレックスが全くないわけではない。評論家は、政治家、経営者、作家などが、世の中に変化をもたらしてくれないと論じる対象がない。職業的に、二次的、副次的存在であることが否めない。自分で世界を作れる作家は評論家より偉いのではないかと、何となく思う。

職業に貴賎はない!と力むのは正しいが、自分の職業に多少のコンプレックスを持つのも悪いことではない。コンプレックスは、その人の人格が持つ固有の影だ。多少の陰影がある方が人間は味わいがある。職業に対する誇りは、こっそり持てばいい。「経済評論家」は私にとってそんな仕事だ。

・・・確かに「評論家」というのは口先だけの職業、当事者でなく外野から文句を言うだけの職業みたいな感じもある。つまり、何となく存在価値の疑われるような職業ではある。とはいえ、じゃあ学者や専門家だけが世の中に向けて発言していればいいのかというと、そういうものでもないし。やはり世の中で次から次へと起こる出来事について、何かしらの意味付け、価値判断というものは必要なので、そういう意見が多くの人の参考になり役立つならば、評論家の存在価値はあると言える。要するに、存在価値のある評論家であればいいわけだ(そういう評論家になるのは、なかなか大変だと思うけど)。新NISAにおける「オルカン」投信人気に一役買っていることから見ても、山崎氏は存在価値のある評論家だったのは間違いない。

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