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2024年3月16日 (土)

「人生の意味の哲学」

『現代思想』3月号の特集は「人生の意味の哲学」。森岡正博と古田徹也、二人の哲学者による対談からメモする。

森岡:人と話すと「生きる意味を考えるのが哲学ですよね」と言われることは多い。けれども哲学のアカデミーの中にいると、人生の意味が哲学の問題として正面から論じられることは実はあまりありません。

古田:村山達也(東北大学教授)さんが指摘されていたのは、「人生の意味」という言葉を用いた哲学的な問いは、18世紀末から19世紀にかけて生まれた比較的新しいものだということです。村山さんによれば、ある種の宗教的権威がどんどん崩れていき、それまで神によって問うまでもなく保障されていたはずの意味が不安定になり、また近代の産業社会が発達し、自分の仕事や労働、生活に意味付けすることが難しくなった。時代の変化により意味を支える土台が崩れていき、虚無的な感覚にとらわれる中で、自分の人生の意味に対して懐疑も含んだ問いがより表立って出てきた。

森岡:18世紀後期以降の近代化の一つの帰結として、人間が自分の生きる意味を考えないといけなくなったというのは大きなことです。それは西洋だけではなく、明治時代から西洋化・近代化した日本も同じ問いを抱えました。だから人生の意味の問いは洋の東西を問わず、近代的な原理で動く社会が必然的に抱えてしまうものだと言えます。

・・・共同体が壊れて社会が流動化して人間が個人になる、要するに「近代化」の帰結の一つの現れとして、「人生の意味の問い」が生まれてきたといえるのだろう。

けれども近現代哲学でも、「人生の意味」がストレートに問われてきたわけではない。哲学と聞くと、一般人は「人生を考える」というイメージを持つことが多いのではないか。しかし学問的に「哲学」というと、概ね「西洋哲学史」を学ぶことだったりする。一般人の哲学イメージに一番近いのは、実存哲学なのだろうが、その流行も遥か昔のことである。

それでも近年、分析系哲学が「人生の意味」を議論する動きがあるとのことなので、ちょっと注目してみたい感じもする。

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