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2024年1月30日 (火)

従業員エンゲージメント、低水準

『日経ビジネス』1/29号特集は「エンゲージメント崩壊」。記事からメモする。

米ギャラップによる世界各国の従業員エンゲージメントの調査では、仕事への熱意や職場への愛着が強い「エンゲージしている従業員」の割合を算出。日本は22年度時点で5%と、4年連続で過去最低だった。データがある125カ国中ではイタリアと並ぶ最低の数値だ。反対に、「エンゲージしていない従業員」の割合が72%に上った。いわゆる「ぶら下がり社員」である。日本のエンゲージメントはもはや崩壊していると言っていい。

終身雇用・年功序列型賃金といった日本型雇用の環境下では、時間をかけて社員を育てる徒弟制度的な色合いが濃かった。転職を当たり前と捉え、成果を上げるまでのスピードを重視する今の若手社員と、会社との間で「成長する」ことに対する時間軸がずれてしまっていることが、日本のエンゲージメントの低さの根底にあるのだ。

企業のパーパス(存在意義)が明確になっているか、経営者がリーダーシップを発揮できているかなど、エンゲージメントの構成要素は多種多様だ。業種や職務などによって各要素の重要度も異なるが、権限委譲(任せる)とフィードバック(伝える)、心理的安全性(認め合う)の3つは、多くの企業に共通する重要な因子と言える。

崩壊状態の日本のエンゲージメントだが、この3つの要素がしっかり根付けば、徒弟的な❝やらされ仕事❞の風土が薄まり、ぶら下がり社員は減っていくだろう。今からでも遅くはない。エンゲージメントを立て直す時だ。

・・・若手社員は転職を当たり前と考えている、とのことだが、今どきは中高年にも転職したい社員は多いだろうから、転職したくても転職できない社員がいっぱいいるということが、エンゲージメントの低下につながっている、のかもしれないな。

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2024年1月28日 (日)

日本株、長期保有資産に

どうも90年代のバブル崩壊が染み付いた自分の頭では、株相場の上昇は長持ちしないものと思っていたのだが、この10年余りを振り返ると、いわゆるアベノミクス以降の株相場は大勢上昇基調が続いているのだなあ。昨日27日付日経新聞記事(日本株、長期保有が肝心)からメモする。

個人には日本株への根強い不信感がある。1989年末からの長期低迷、人口減による低成長、米国に比べ低い企業収益率などが背景だ。このため多くの個人は相場が下がれば買い、少し上がれば売る投資姿勢を続けている。

確かに日本株は89年末以降、高値を回復していない。しかしこの全期間を「失われた34年」とひとまとめにみると判断を誤る。日本株は十数年前から、長期保有で報われる資産に変わってきているからだ。

株価水準を判断する代表的な指標として、株価収益率(PER)がある。「株価÷予想1株利益(EPS)」で計算し、長期間でみた国際的なPERの妥当水準は14~16倍との見方が多い。式は「株価=PER×EPS」と変形できる。EPSに14~16倍をかけた範囲を株価の適正水準とみると、89年末は1万円前後。だが当時の日経平均は4万円弱で適正水準の約4倍に達していた。「この超割高な水準の修正に長い時間がかかったのが日本株低迷の主な要因で、適正水準に戻ったのは2010~12年前後」とニッセイ基礎研究所の井出真吾氏は話す。

過去十数年は利益増を反映して、株主の持ち分である1株純資産(BPS)の増加ピッチが高まっている。株価をBPSで割った指標が株価純資産倍率(PBR)で、PBRは「ROE×PER」という式に分解できる。日本企業のROEは足元では約9%だ。PERを15倍として9%を掛けると現在の妥当PBRは約1.35倍となる。PBRは「株価÷BPS」なので「株価=PBR×BPS」と変形できる。足元のBPSは約2万6000円なので、適正株価は約3万5000円となる。同じ計算でPERを16倍とすると妥当PBRは1.44倍、株価は3万7000円強だ。やはり現在の株価は計算上の上限に近いが、割高過ぎるとまでは言えない。

新年に入っても、個人は日本株を大幅に売り越している。短期的な収益が目的なら、利益確定の売却は正しい選択肢。しかし井出氏は「目標が数十年後の資産形成で、利益増と経営効率改善を背景に日本株も上昇期待があると考えるなら、目先の割高感があっても売る必要はない」と助言する。

・・・バブル期のPER50~60倍については、企業の保有土地の含み益を勘定に入れるとか、持ち合い株式を除いた株数で計算する等、説明に四苦八苦していた覚えがある。当時は単体決算で株価も評価していたという要因もあるだろう。とにかく、過去10数年はEPSとBPSの増加、PERの低下によりバブルではない株価上昇が続いてきたということで、頭を切り替えないといけないのかなあと思えてきた。

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2024年1月27日 (土)

「シュルレアリスムと日本」展

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今日は京都に行き、「シュルレアリスムと日本」展を観てきた。まずは1月20日付日経新聞文化面記事(夢と幻想に戦争の足音)からメモする。

京都市の京都文化博物館で2月4日まで開催中の「シュルレアリスムと日本」展は、西欧生まれのシュルレアリスムが、昭和期の日本の芸術に与えた影響を、絵画を中心にたどっている。

西欧のシュルレアリスムが、第1次世界大戦の悲惨な現実を踏まえて、人間の自由と精神の解放を目指す運動だったとすれば、日本のシュルレアリスム絵画は、戦時体制へと向かう時代に最盛期を迎えた。画家たちに大きな影響を与えた「海外超現実主義作品展」が開催された37年は、日中戦争が勃発した年である。

「戦後、日本のシュルレアリスムの絵画は、西欧の模倣に過ぎないとして、批判された時代があった」。シュルレアリスムから影響を受けた日本の絵画の研究を主導してきた東京国立近代美術館副館長の大谷省吾氏は、そう語る。日本のシュルレアリスム美術の再評価は、ここ30~40年の研究の成果でもある。

彼らの作品に表れる幻想と憧憬は、内面の危機意識と不可分に結びついている。その切実な動機に基づく生々しい画面は、戦争と表現の統制がなおも終わらない今日の世界で、忘れられていいはずがない。

・・・日本のシュルレアリスムは再評価されている、のかも知れないが、展示作品をざっと観たところでは「シュルレアリスム風」というか、やはり「西欧の模倣に過ぎない」絵という印象で、「現実を超える」革新性と強度は、本家に数段劣る感じ。本家シュルレアリスムの絵は、見ればすぐに、例えばダリやマグリットやデルヴォーの絵だと分かるように、各人に著しい特徴があるのに対して、日本のシュルレアリスムは画家の個性に乏しい。見た時に誰の絵か見当がつくのは、古賀春江くらいか。

あとは、全体的に暗い印象の絵が多くて、それはやはり戦時体制という時代の暗さの反映ということなのだろう。時代の重さが、画家たちの個性や才能が存分に花開くことを許さなかったとしたら、とても残念なことだ。

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2024年1月16日 (火)

「アルバイト」の始まり

日経新聞電子版の昨日15日発信記事「アルバイト、なぜ和製ドイツ語? 戦前の学生の意識映す」からメモする。

アルバイト」は学生の小遣い稼ぎや、臨時の仕事の意味として生活に溶け込んでいる。もともとはドイツ語の「Arbeit」(常勤の労働・研究成果などの意)が語源だ。日本のアルバイトは「和製ドイツ語」で、ドイツでは日本と同じ意味では使わないという。ではなぜ、日本で語意が変化したのだろう。梅花女子大学名誉教授の米川明彦氏(日本語学)は、旧制高校で1920年代にもとの意味で用いられ始め、30年代には「家庭教師」に転義したとみている。米川氏は「旧制高校では外国語教育が重視、偏重され、中でもドイツ語が人気があった。中学までは英語教育が中心だったため、エリート意識もあったのでは」と指摘する。

戦後、経済状況が悪化し、生活費に加えて学資を稼ぐ必要に迫られた学生たちを中心にアルバイトという言葉が広まった。米川氏は「労働が学業に優先する中で、それまで使われていた『内職』という言葉の語感が実態に合わず、代わりの言葉として定着した」と推察する。最も人気なのは家庭教師だったが、その職を得たのは一部。中には血を売って対価を得る「売血」や、感染症のウイルス投与で経過観察をすることもあった。

その後のアルバイト事情の変遷は日本経済の歩みと軌を一にする。「もはや戦後ではない」が流行語となり、大衆消費社会が到来した50年代後半以降、小遣い稼ぎを目的としてアルバイトをする学生が増加した。71年にはマクドナルドが上陸。ファストフード店やコンビニエンスストアなどアルバイト雇用を前提とした業態が普及すると、店員は家庭教師に代わって代表的な職種となる。

エリート学生の意識から誕生し、終戦後の苦難をきっかけに広まった「アルバイト」。その歴史は日本経済の盛衰がどのように学生生活に影響したかを雄弁に語っている。

・・・日本語はやたらと外来語を取り入れるので、最近ますますカタカナ語が氾濫している印象だが、大部分は英語由来だ。その中で「アルバイト」というドイツ語は昔から一般的に使われていたので、何でかなと思っていた。ドイツ語を学ぶ旧制高校性が家庭教師のアルバイトをする、これが「アルバイト」の始まり。なるほど。

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2024年1月15日 (月)

自分に語れることは。

「琥珀色の戯言」(fujiponさんのブログ)を時々読んでいる。特に「映画感想」が好きで、自分が映画を観てブログに感想を書いた後、fujiponさんも同じ映画を観て感想を書いてないかな、と思って見たりしている。先週末、久しぶりに最近の「映画感想」をいくつか読んで、しみじみ感じ入る文章があった。2023年7月20日付の映画感想(君たちはどう生きるか)の中にある文章だ。

fujiponさんは、「世の中って、いくつになっても、矛盾していて、意地悪で、わからないことばかりなんですよ。真剣に考えれば考えるほど、『自分は、自分が置かれた環境、状況のなかで、どうあがいて、どんな失敗をしながら生きてきたか』だけが、自分に語れること、自分にしか語れないことだという結論に達してしまうのです。」と述べて、「結局、人というのは『自分が生きてきたようにしか生きられない』し、その人だけにしか語れないことって、『自分自身が生きて、体験し、考えてきたこと』しかないのかな」と、思うようになったという。

そのうえで、fujiponさんは「もう少し語ってみよう」と決意を示し、「誰も求めていないとしても、これは、僕にとっての『生きている証』みたいなものだから」と記している。

自分より10歳以上若いfujiponさんの言うことに、至極同感する。本当に、結局のところ自分に語れるのは、訳の分からない世の中で、自分が試行錯誤しながら悪戦苦闘して生きてきた、ということだけだし、それが他人に通じるものなのかどうかも分からないけれど、とにかく語っておきたい、記しておきたい。ということなんだよなあ。

ところで、fujiponさんの「君たちはどう生きるか」の感想を読んで、あの映画を観て、これだけいろいろ書けるのは凄いなとつくづく思った。自分も観たのだが、どうも宮崎アニメは自分にはよく分からないな、で終わってしまったので。(苦笑)

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2024年1月14日 (日)

映画「PERFECT DAYS」

カンヌ映画祭で、役所広司が男優賞を取った映画「PERFECT DAYS」、ヴィム・ヴェンダース監督作品を観た。

ヴェンダースの名作「ベルリン・天使の詩」のマジックをちょっと期待したけど、当てが外れた。

役所が演じる主人公の平山は、公衆トイレ掃除の仕事をしているシニアの独身男性。公衆トイレ掃除というのも、誰かがやんなきゃいけない仕事だけど、やりたがる人はあんまりいないよなあ。

平山の住んでる古いアパートは、東京スカイツリーの立つ押上近辺にあるようだ。朝起きると、平山はたくさんの小さな鉢植えに水をやる。仕事に向かう時に、車の中でカセットで聴く曲は、ボーカル主体の古めかしいロック。仕事はひたすら丁寧にやる。お昼は公園に行き、サンドイッチを食べ、フィルムカメラを木の枝葉に向けて木漏れ日を撮る。仕事が終わった後は町の銭湯へ。富士山のペンキ絵の掛かるニッポンの伝統的な銭湯で、一日の汗を流す。それから自転車に乗って、隅田川に架かる桜橋を渡り、浅草の松屋デパート付近の地下にある一杯飲み屋に顔を出す。地下鉄の駅にもつながるその場所は、地下街と言うより地下通路に店が出ている感じで、「昭和」のままだ。平山の一日は、古本屋で買った文庫本を夜、寝る前に読んで終わる。

平山は小さなバーの常連客でもある。そこのママさん役を演じるのは石川さゆり。着物姿で、演歌ではなく「朝日のあたる家」(日本語詞)を歌う。 何か妙な感じ。

平山は無口な男という設定。喋らなさ過ぎて、ちょっと気持ち悪い(苦笑)。平山の若い同僚を演じるのが柄本時生という役者さん。いかにも今風の、おっさんから見るとイラっとする感じの若者(苦笑)。まるで素でやってるみたいで、これを演じているのならば凄い。

まあ「完全な日々」というより「静かな生活」という感じで、基本的に、物静かな主人公のルーティーン的な日常を淡々と映し出していく。そういう作品だというのは分かるとしても、正直もう少し主人公の過去を説明してもらわないと、感情移入しづらい。ラストシーンの役所さんの表情だけで、主人公が背負ってきたものが伝わってくるかというと、そこまではいかないなあという感想。

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2024年1月 6日 (土)

今は「デフレ頭」を切り替える時

昨日5日付日経新聞コラム記事「エコノミスト360°視点」(「デフレの亡霊」との決別、執筆者は門間一夫氏)から、以下にメモする。

2023年11月2日に閣議決定された「デフレ完全脱却のための総合経済対策」。名前には基本哲学が反映されるので、政府はデフレの克服を今も最重要課題と考えていることになる。しかし、本当にそうならいくつかの問題がある。

第一に、客観的な事実として、もはやデフレの問題を強調する局面ではない。政府は01年3月の月例経済報告の中で、「持続的な物価下落」のことをデフレと定義した。

そして現在は、その正反対の「持続的な物価上昇」が起きている。消費者物価(除く生鮮食品)は27カ月連続で上昇し、20カ月連続で前年同月比2%超伸びている。日銀の物価見通しにおいて、今後2年以上デフレは見込まれていない。

状況に適さない名称で政策を打ち出せば、真の課題が何なのか国民に伝わりにくくなる。この局面で日本経済が向き合うべき最重要課題のひとつは、社会の高齢化から来る人手不足であろう。

第二に「デフレ」という言葉は「需要不足」という意味でもある。したがって、デフレという認識がある限り、財政政策はメリハリを欠いたばらまき型になりやすい。

日本経済の成長を制約する要因は、需要不足から人手不足へと切り替わりつつある。あれもこれもとお金をつけたところで、人的資源の制約から予算を消化できない。デフレ時代とは違う姿勢で財政政策の中身を詰めなければならない。

第三に「デフレからまだ脱却していない」という政府の認識は、日銀の金融政策にも影響を与えかねない。むろん日銀は独立した存在だが、政府の経済政策との整合性も問われる。政府と日銀は認識をそろえた方がよい。

23年12月の日銀短観では人出不足が記録的な深刻さだ。日本経済はもうデフレではない。あとは政府が、デフレという「亡霊」から自由になるだけだ。

・・・どうもデフレの時代が長すぎて、その記憶に捉われたまま、現実の変化に意識が付いていけてないようだ。まずは「デフレの亡霊」に取りつかれた頭を切り替えて、人出不足の克服など政策対応していかなければならない。

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