「させていただく」の違和感
『日本をダサくした「空気」』(徳間書店)で、著者の中川淳一郎は、日本はダサい国である、それは情報発信における東京至上主義や、過剰なコロナ対策に現れている、と強調している。ダサい言葉づかいとして槍玉に挙げられているのは、「させていただく話法」だ。以下にメモする。
日本語の丁寧過ぎる喋り方というのも、日本をダサくする。何しろ、上下関係を明確に作るほか、「お客様は神様です」思想を強化してしまうのだ。
丁寧に言いさえすれば、裏にある怒りやら失望、さらには儲けたい気持ちは許されると考えるのが日本語の「させていただく話法」である。
日本という国は「丁寧であればあるほどいいだろう」という前提があったうえで、「クレームは回避したい」ということが行動原理になっている。これがダサさの根源にある。
・・・「させていただく」という言い方は、一種の丁寧語として今や当たり前のように使われているが、へりくだり感を出して自分のやってることを正当化するようなイヤらしさがある。
丁寧ということで言うと、日本の得意とする「おもてなし」とやらにも、「丁寧にしておけばよい」という感じがあって、それはむしろ安易な姿勢に見えるし嘘くさい感じがする。
中川氏の本の中に、謎のビジネスマナーの一つとして、「エレベーターホールでドアが閉まるまで互いに頭を下げ続ける」が挙げられていて、強く同意する。エレベーターの内と外でお互いにお辞儀している姿は、ひどくバカバカしい。というか、要するにカッコ悪い。自分は、自分がリードできる場合は、そのフロアの会社の出入口のところで「ではこちらで失礼します」と言って、エレベータホールまでの同行は辞退させていただく(笑)ことにしている。
いろいろと形式的で上っ面な嘘くさい部分のある日本社会は、「ダサい」と言われても仕方がないかもなあ。
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