« 「コネ社会」に生きるイタリア人 | トップページ | 「ブラックマンデー」の記憶 »

2023年10月21日 (土)

「友だち」は学校時代の産物

まず『友だちリクエストの返事が来ない午後』(小田嶋隆・著、2015年)からメモする。

子どもが大人になるということは、そのまま友だちを失っていく過程であったりする。無論、かつて友だちだった人間が友だちでなくなるわけではない。そういう意味では友だちはいる。ただ、高校時代や大学生だった頃に親しく付き合っていた「親友」と呼べる人間と、現実に会う機会が持てるのかというと、それは別の話になる。
職場の同僚や、行きつけの飲み屋で顔を合わせる知り合いの中に、親しい人間がいないわけではない。が、彼らが「友だち」なのかというと、ちょっと違う。なにより利害関係や上下関係が介在している。
ということはつまり、社会に出た人間は、原則として新しい友だちを作れなくなるということだ。もしかすると、友だちは、学校という施設の副産物だったのかもしれない。

・・・橘玲も、友情は学校でしか生まれない、と言う。近著『人生は攻略できる』(ポプラ新書)からメモする。

日本では、友情は学校で平等体験を共有した仲間とのあいだでしか生まれない、ものすごく希少な人間関係だ。
日本では、たまたま入った学校で、たまたまクラスでいっしょになった子どもとしか友だちになれない。大学や就職で地方から都会に出て行ったり(あるいは都会から地方に行ったり)、留学や仕事で外国に住むようになったりすると、そのたびに友だちの数は減っていく。そうやってだんだん友だちが少なくなって、最後まで残った1人か2人が親友と呼ばれる。
それでもなかには、大人になってもずっと友だちに囲まれているひとたちがいる。地元(卒業した中学や高校のある地域)にずっと暮らしているからで、最近では「ジモティ」と呼ばれる。ジモティは、学校時代の友だち関係をいくつになってもつづけている。
ジモティは、生まれ育った街から出たがらない。故郷を離れてしまえば、友情が失われることを知っているからだ。国や民族、宗教や文化を問わず、世界の大半はジモティによってつくられている。それだけ「故郷」と「友だち」は強力なのだ。

・・・友だちというのは学校時代の同級生との間だけで、時間も空間も限定された中でしか成立しない人間関係ということになる。大人になっても友だちがいるジモティの生活環境は、ちょっと羨ましい感じもあるのだなあ。

|

« 「コネ社会」に生きるイタリア人 | トップページ | 「ブラックマンデー」の記憶 »