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2023年9月25日 (月)

『関ヶ原合戦を復元する』

関ヶ原合戦を復元する』(星海新書、水野伍貴・著)の終章から、以下にメモする。

慶長5年(1600)9月14日の午後7~8時ごろ、大垣城およびその周辺に布陣していた西軍の石田三成、宇喜多秀家、小西行長、島津惟新は、関ヶ原へ移動を開始した。三成ら西軍主力が関ヶ原へ移動したのは、同日に徳川家康が赤坂に着陣した点が大きい。これにより、南宮山の毛利勢を殲滅して大垣城を孤立させる戦略や、抑えの部隊を残して上方を目指す戦略が可能となった。そのため三成らは、大垣城孤立の回避と、家康の西上阻止の二つの理由から関ヶ原へ移動を余儀なくされたのである。

石田三成は小関の笹尾に布陣した。島津惟新、小西行長も小関に、宇喜多秀家は天満山に布陣した。西軍諸隊は午前7時までには布陣を完了させた。山中・藤下の一帯に布陣していた大谷吉継、平塚為広、戸田勝成、脇坂安治、小川祐忠、朽木元綱、赤座直保も兵を進め、藤古川を越えて大関に布陣した。そして、城として整備された松尾山には、小早川秀秋が入っていた。西軍は、東山道と北国脇往還を塞ぐように布陣した。

東軍も、大垣城の西軍が関ヶ原へ移動したのを受けて15日未明に関ヶ原へ移動を開始。家康は桃配山に本陣を定めた。午前8時~9時頃、未だに霧が晴れぬ中、東軍の松平忠吉が井伊直政の補佐のもと宇喜多秀家隊に攻撃を仕掛けて戦端を開いた。福島正則も東山道を進んで宇喜多隊を攻撃した。黒田長政、細川忠興、加藤嘉明らは北国脇往還を進軍して石田隊を攻撃した。藤堂高虎、京極高知は、東山道の南を進軍し、不破の関跡周辺に布陣する大谷吉継らと交戦した。

午前10時頃には天候が好転し、霧も晴れてゆき視界が良くなっていった。ここから総力を挙げた衝突がおこなわれた。松尾山の小早川秀秋は、東軍としての参戦を決めているが、関ヶ原の状況をつかみかねていた。ところが、霧が晴れて山頂から関ヶ原が一望できるようになり、大谷吉継の陣を背後から攻撃することに決めて出撃命令を出した。小早川隊が大谷隊と交戦したのは、午前11時頃である。これと前後して脇坂、小川、朽木、赤座も大谷隊を攻撃した。この戦闘で大谷、平塚、戸田が戦死している。

大谷隊が壊滅したことで、大谷隊と戦っていた東軍諸隊は、二手に分かれて宇喜多隊と石田隊の攻撃に加わった。そして、正午頃に宇喜多隊と石田隊は敗走した。小西隊もこの頃に崩れたと推測する。さらに東軍諸隊は、島津勢を攻撃した。前衛の島津豊久隊が破られ、東軍は島津惟新隊に迫る。惟新は、敵中突破を命じた。一方、家康本隊は正午頃に関ヶ原に到着した。そして、敵中突破をおこなう惟新隊と家康本体が東山道で遭遇した。

惟新隊が関ヶ原を離脱したことで、関ヶ原から西軍は全ていなくなった。12時半~13時頃のことである。こうして約5時間に及んだ本戦は、徳川家康が率いる東軍の勝利で幕を下ろした。

・・・関ヶ原合戦に係る様々な「新説」登場を受けて、あらためて各種史料の手堅い検討により提示された本書の合戦復元ストーリーは、結果的に大枠で従来説に寄せた形となっているが、大谷隊の陣取りの動き(山中から関ヶ原に前進)や、小早川の参戦のタイミング(霧が晴れた後に西軍攻撃を決断)についての説明も明快で、関ヶ原合戦に関心のある向きは必読と言える。

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