子を持つ=人生の意味?
子供を持たない人に、人生の意味はあるか。日経新聞電子版6/16発信、生命哲学を研究する森岡正博・早稲田大学教授のインタビュー記事からメモする。
人類は古代から世界中でそれ(人生の意味)を考えてきた。最近では20世紀中ごろにフランスのサルトルらが「実存主義」という観点から、社会の中で生きる意味を問いかけ、学生運動などに大きな影響を与えた。その後やや下火になっていたが、この10年ほどまた、「人生の意味の哲学」が活発になってきた。
人は大きな流れの中に位置づけられると意味を感じやすいというのは、共感する人も多いのではないか。祖父母、親、自分、子供、孫というような血筋の流れに組み込まれることは人生の意味になるという考えだ。ただ、それに反対する考えもたくさんある。
哲学というのは結構極端なことも含め、理詰めで考える学問だ。哲学の次元で話をすれば、本来は「なぜ少子化を解決しなくてはいけないのか」という問いがあってもいいはずだ。日本人が減っても、他の国が栄えれば人類としてはそれで構わないのではないか。また人類はそもそも存在すべきなのか。急な変化は困るかもしれないが、ゆっくりとなら人類は消滅してもいいのでは。そう考えることもできる。人類は消滅しても構わないという話に比べれば、個人の(産む産まないといった)実存的な悩みは目の前が真っ暗になるほどの話じゃないな、とも思える。
人生の意味の考え方は多種多様であり、哲学者たちも人生の意味の哲学という分野をいま作っているところだ。
・・・人間に、これだという本質は無い。人間は、自分で自分を作る実存だ。「実存主義」の流行は遥か昔のことだけど、たぶん現代人は自分で意識するしないに関わらず、「実存主義者」なのだと思う。最近は「自分らしく」生きる、などと割と簡単に言うのだが、要するに自分の人生の意味は自分で作るしかないと、今では誰もが了解しているのではないか。であれば、子供を持つことを自分の人生の意味とするのもしないのも、当人の考え方次第ということになる。
もちろん意味が無くても、生きていくことはできる。しかし、なぜかそれでは満足できない、つまらない、空しいと感じる自分がいる。けれども、空しいと思うことを前向きに理由付けすれば、人間はただ生きるのではなく、よく生きることを求めているからだ、と考えてもいい。よく生きる。何だか古代ギリシャ哲学に戻る感じだが、結局そういうことなのかな、と思う。
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