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2023年5月31日 (水)

議決権行使助言会社が波乱要因に

28日付日経新聞記事から以下にメモする。

トヨタは株主総会を6月14日に開く。公的年金を運用するオランダのAPGアセットマネジメントやデンマーク、ノルウェーに本拠を置く3社は、トヨタの気候変動関連の開示について「投資家の期待に照らして不十分」と評価した。トヨタの渉外活動が、温暖化ガスの排出削減にどう寄与しているかなどをまとめた報告書の作成を、定款に盛り込むよう求める株主提案を出していた。

米議決権行使助言会社のインスティテューショナル・シェアホルダー・サービシーズ(ISS)も、「トヨタは(気候変動関連の)ロビー活動の評価に十分な情報を株主に提供していない」と指摘し、欧州の運用会社の株主提案に同調した。トヨタは、「定款には、個別具体的な業務執行の事項は規定すべきではない」と反論している。

ISSと米同業のグラスルイスは、社外監査役である酒井竜児氏の再任に反対推奨をした。酒井氏はトヨタと取引関係にある弁護士事務所に所属しており、独立性が不十分と判断した。トヨタと取引がある三井住友銀行の副会長の大島真彦氏が、社外取締役候補になっていることも問題視。独立した社外取締役として認められないとする大島氏が任命されれば、取締役会の独立性が保たれず、その責任は取締役会議長の豊田章男会長にあるとして、豊田氏の再任に反対推奨をした。

トヨタは三井住友銀行との関係を、「取引規模に重要性はなく、一般株主と利益相反が生じるおそれがない」とする。

・・・ISSとグラスルイスは、先日終了したセブン&アイの株主総会でも、取締役選任の会社提案に反対推奨をする一方、ファンド株主の取締役選任案には賛成推奨していた。結果は会社提案の賛成多数となったが、議決権行使助言会社、何だかこれからも、株主総会の波乱要因になりそうな感じだ。

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2023年5月30日 (火)

ESG要素と企業ブランド

本日付日経新聞コラム記事「一目均衡」(「トヨタ提案」ESG原点問う)からメモする。

6月14日開催のトヨタ自動車の株主総会に出された株主提案に注目している。オランダAPGアセットマネジメントなど欧州の機関投資家3社が、気候変動問題に関する渉外活動(ロビイング)の情報開示を強めるよう定款の変更を求めた。
情報開示を求めるのは、例えばトヨタがロビイングで電気自動車(EV)の普及を遅らせようとしていると誤解され、同社の評判やブランドが毀損するリスクを懸念してのことらしい。
APGらの提案は、企業の評判に関するリスク管理に重点が置かれている。製品の売り上げに直結する評判の維持・向上は、経済的な利益にほかならない。これこそがESGの出発点である。

「ESG」が初めて世に出たのは2004年。環境破壊や貧困、飢餓などの問題を前に、当時のアナン国連事務総長らが世界の主要金融機関に手紙を書き、民間資金の活用を促した。公表された提言「Who Cares Wins」は、ESG要素が企業のリスク管理に役立ち「企業価値の重要な部分を占めるようになった、評判やブランドに強い影響を与える」と明記した。すなわち、ESGの原点は明確に経済的な利益の追求であり、世直しは主目的ではない。

1980年代から「小さな政府」を目指す改革が世界的に広がり、21世紀初頭まで民間企業は規制緩和の果実を享受してきた。政府が小さくなったことの引き換えとして、企業は環境・社会など外部化してきた問題への対処で、政府に従うだけでは不十分になった。問題の対処とリスク管理は自らの責任。04年に市場の視点で、企業にそう促す提言が出たのは時代の必然だ。

・・・「小さな政府」は「市場至上主義」を生み、それと共に企業も「株主第一主義」経営、株主価値の最大化を目指す動きとなった。しかしその影で、社会的課題の解決についても企業の担う部分が次第に大きくなってきていたようだ。社会的課題の解決に貢献しない企業は、ブランド価値を落としてしまう時代に入っているのだろう。

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2023年5月28日 (日)

『ニーチェのふんどし』

近未来の社会は、ますます弱者救済が大義となる社会。だからニーチェの思想を知っておく必要があるのです、と言うのは藤森かよこ先生。新著『ニーチェのふんどし』(秀和システム発行)から、以下にメモする。

歴史は、「弱者救済」と「ユートピア構築(この世に天国を作ること)」を大義にして進んできた。「弱者救済」と「ユートピア構築」が人類の大義となったのは、キリスト教組織が生まれたからだ。

キリスト教組織の大義である「弱者救済」と「ユートピア構築」は、キリスト教の分派のイスラム教は言うまでもなく、根本的にキリスト教の発想から離れられない西洋のさまざまな思想に浸透し、今日にいたっている。社会主義も共産主義も人権思想も、みんなキリスト教の亜流だ。

今の私たちが生きている世界が表層で謳う共通善は「弱者救済」であり、大義は「弱者を大事にするユートピア構築」である。それらの道徳や大義の底にあるのは、自己の力で生きることを引き受けることができる真の高貴な者や強者に対する弱者の嫉妬や恨みの気持ち(ルサンチマン)であると、ニーチェは示唆する。

ルサンチマンから生まれた道徳は、強い者への復讐心なのだ。ニーチェによると、この奴隷道徳こそが、近代精神の賤民主義、民主主義を生み出した。弱者救済とか、弱い者も生きて行けるこの世のユートピア構築という大義は、この奴隷道徳の産物だ。それが、ヨーロッパを席巻し、非ヨーロッパ世界に拡大されたのが近代以降の歴史だった。

・・・昔、少しだけ読んだ『道徳の系譜学』で覚えているのは、強者の観点は「優良」(グート)対「劣悪」(シュレヒト)だが、弱者はそれを引っ繰り返して、劣悪が「善」(グート)で、優良が「悪」(ベーゼ)とする。端的に言って、弱者が善で強者が悪だとする。これが奴隷道徳、強者に対する弱者のルサンチマンの現れだ。

弱者救済やら平等実現やらが、もともとはキリスト教的価値観に根差すものであるならば、アンチクリストを標榜したニーチェの思想は、現代世界の「弱者のユートピア」を目指す動きが行き過ぎた時には、「解毒」作用をもたらすものになり得るだろう。

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2023年5月19日 (金)

りそな実質国有化から20年

2003年5月17日に、りそなグループへの公的資金注入決定。それから20年が過ぎた。当時の小泉政権の金融担当大臣だった竹中平蔵・慶大名誉教授のインタビュー記事(17日付日経新聞)から以下にメモする。

バブル崩壊後に日本経済が低迷したのは、当面の需要拡大のみを行ってバランスシート調整をしっかりやらなかったからだ。

私がやったのは大胆なことではなく普通のことだ。資産査定をしっかりやって不良債権がどれだけあるのかを明確にしたうえで、資本不足なら増強してもらう。それができない金融機関には、場合によっては公的資金の注入も選択肢だった。銀行の信用不安が連鎖すれば、預金をしている企業や個人が困る。金融システムを守るには、公的資金の注入が欠かせなかった。

不良債権処理を終えたのに低成長が続くのは、政府、企業、銀行の全員に責任がある。政府は成長産業を規制し、企業は長引くデフレで投資を避けた。銀行も融資の際にいまだに担保を求める。これでは起業したくてもできない。改革疲れというが、そもそも疲れるほど改革していない。

・・・1990年代の日本経済はバブル崩壊の後始末に追われた。公共投資中心の経済対策が繰り返し実施され、銀行は不良債権処理で毎年巨額の赤字を出した。「失われた10年」と呼ばれた90年代。しかし経済論議は活発に行われた。日本型経済システムあるいは日本型資本主義の修正、日本的経営の見直し等々がテーマだった。そして2001年、小泉構造改革が始まる。90年代の経済論議がようやく政策として実行される。経済学者の竹中先生が大臣になって、経済改革の司令塔になるというのは、その象徴的な出来事だった。2003年のりそな国有化は、90年代の「泥沼」にようやくケリを付けた政策的達成だった。

その後、失われた20年とか30年とか言う声も聞かれるが、余り簡単に「失われた」と言ってほしくないような気もする。90年代はともかく、21世紀に入ってからは、小泉構造改革やアベノミクスが実行された。結果は別にしても、少なくとも前向きにジタバタしてきた。おそらくこれからも、日本経済はジタバタし続けるしかない。

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2023年5月 7日 (日)

カミュ=サルトル論争と『転落』

書店で、カミュの『転落』の新訳が出ていたのを見つけた時は「へぇ~」って感じがした。例の、ドストエフスキー作品の新訳とか出してる、光文社古典新訳文庫だ。最近のコロナ禍で読まれたという『ペスト』の新訳が出るのは、まだ分かる気もするが・・・それでもそんなに長くない小説だし、読んでみる気になった。解説によると、『転落』には、サルトルとの論争を巡るカミュの経験が色濃く反映されているとのこと。以下に、訳者である前山悠氏の解説からメモする。

『転落』から遡ること5年前、1951年、カミュは哲学的エッセイ『反抗的人間』を発表した。この一冊は、サルトルとの間に、終生の絶交にまで至る大論争を巻き起こすことになる。

この通称カミュ=サルトル論争(あるいはサルトル=カミュ論争)は、ごく端的に言えば、冷戦時において、社会主義勢力なかんずくスターリン統治下のソ連に対して、どのような態度を取るかをめぐる決裂だった。スターリンを恐怖政治の独裁者として告発するカミュは、『反抗的人間』において、社会主義そのものを危険視し、理想社会の達成という歴史的大義を謳って、個人の生命と自由を犠牲にすることは許されないと訴えた。これに対し猛反発したのが、社会主義寄りのサルトルおよびその一派、いわゆる「実存主義者」たちだった。

カミュは手帖にこう書いている。「実存主義。彼らが自分の罪を告白するのは、常に他人をこきおろすためであると考えて間違いない。告解者にして裁判官ども」。

かくしてサルトルら実存主義一派との論争をめぐるカミュの実体験は、のちの『転落』に様々に反映されることになる。

・・・のではあるのだが訳者は、論争を背景とした理解が、この作品を読む唯一の手段ではない、とも断っている。この作品は、かつての実存主義一派に限らず、現代人の多くが「告解者にして裁判官」であることを描き出しているのであり、要するに論争と関係なく、優れた小説として読まれうる、と。

『カミュの手帖』(大久保敏彦訳、新潮社、1992年)を久々に開いてみた。「実存主義」の記述の日付は1954年12月14日。大久保訳は「改悛者たる判事」で、前山訳との違いは正直良く分からない。告白者とか懺悔者だと、日本人にはもっと分かりやすい気がするが、専門的な何かしらの理由はあるのだろう。

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