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2023年3月10日 (金)

関ヶ原「布陣図」の謎

関ヶ原合戦といえば、有名な東西両軍の布陣図を思い浮かべる向きも多いだろう。しかし、あの図がどこまで正しいのか、充分な検討がなされたとはいえない。徳川家康の虚像と実像を分析する『家康徹底解読』(堀新、井上泰至・編、文学通信・発行)から、以下にメモする。

合戦が具体的にどのようなものであったのかは、ほとんどわからない。合戦の説明の際に必ずといってよいほど示される「布陣図」も要注意である。白峰旬が指摘したように、一般に知られている布陣図は明治期に参謀本部編『日本戦史関原役』が作成した歴史的根拠の乏しいものである。江戸時代に作られはじめる布陣図もやはり創作である。白峰は、布陣図による先入観を排し、それ以外の各種の史料の検討により関ヶ原エリア・山中エリアの二段階で戦闘が行われたと推定している。これについて小池絵千花は、当初は戦闘があったのは山中だと考えられていたが、のちに関ヶ原であると改められた、つまり地名の認識の変化によるものだと指摘している。そして、翌年には作成されはじめる太田牛一の『内府公軍記』の記載を重視すべきだとする。

・・・上記で言及されている小池氏の論文(「関ヶ原合戦の布陣地に関する考察」、『地方史研究』411号、2021年6月)を読んでみると、徳川家康は決戦日当日、吉川広家は二日後の書状で「山中」の地名を使っていたが、その後は使っていないと指摘。また、合戦から最も早い時期に成立した『内府公軍記』をベースに、後から情報が付加されていき、現在に至るまでの「関ヶ原合戦像」が形成されていったと述べている。

『内府公軍記』によれば、石田・小西・島津が関ヶ原に、宇喜多・大谷が山中に布陣したという。太田牛一は『信長公記』の作者でもあるから、信頼できる史料なのだろう。でもそうなると、「山中主戦場」説が依拠する島津家家臣史料の記述と、どう整合性を取ればいいのか。素人には分からない。困る。

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