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2023年3月31日 (金)

ESG投資、波高し

本日付日経新聞の社説(ESG投資の健全な発展を世界で促そう)からメモする。

米議会で企業年金運用にESG(環境・社会・企業統治)要素を加えることを禁じる共和党主導の決議が成立し、民主党のバイデン大統領が政権発足後、初の拒否権を行使した。株式投資のリスクとリターンは必要に応じて、ESG要素も加えて分析すべきだという大統領の判断は支持できる。今回の拒否権行使がもつ意味をきちんと受けとめ、ESG投資の健全な発展を世界全体で促していきたい。

脱炭素や人権問題への取り組みを考慮するESG投資は、2006年の国連の責任投資原則で提唱された。企業を長期の視点で評価する重要な手立てであり、温暖化ガス排出の実質ゼロを目指すための推進力にもなる。米国ではESG投資を巡って賛否の議論が続く。野党の共和党が民主党を攻撃する材料にするなど、政治問題化も目立つ。

実際、企業の環境・社会面への評価が、株式投資のリターンに良い影響を与えるかどうかについては、様々な分析がある。運用成績の検証を重ねて実績を示すことが、ESG投資の普及に欠かせない。

全世界で35兆ドル(約4600兆円)に達するESG投資。一部にあると指摘される偽装を放置していれば信頼が下がり、ESGはブームに終わってしまう。運用会社に資金を託す年金基金も、本物のESG運用を見きわめる力をつけなければならない。

・・・ESG経営を進める企業への投資のリターンが高い場合があるとしても、ESGが主な要因というわけではないだろう。ESG経営を否定する気はないが、それが長期投資のリターンにどれだけ反映されるのか、明確に示すのは難しい感じがする。

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2023年3月30日 (木)

ESG対ROE

昨日29日付日経新聞連載記事「Next World フェアネスを問う」(テキサスは訴える)から、メモする。

米テキサス州の財政責任者、会計監査官のグレン・ヘガー氏。ESG(環境・社会・企業統治)マネーを批判する急先鋒だ。ヘガー氏に言わせると「ESGは庭先をきれいにするだけのウソ」。反ESGの波は、フロリダやルイジアナなど他州にも及ぶ。企業年金運用でESGを考慮した投資判断を禁じる決議案を米議会が可決し、全米的な広がりを見せる。

地球環境に配慮し、脱炭素社会をめざす。欧州から世界に広がる機運に待ったをかけたテキサス。では、ESGへと向かううねりは逆流できるようなものなのか。「企業は地球に対して、労働者に対して、自国の住民に対して、そして世界の住民に対して責任がある」。米著名投資家のハワード・マークス氏は、自己資本利益率(ROE)ばかりを追いかける株主第一主義との決別を強調する。

裏側にあるのは自己犠牲の精神というより、むしろ冷徹な打算だ。株主第一主義がもたらした富の偏在は、共産主義革命が吹き荒れた100年前と同水準。労働者への還元ぶりを示す労働分配率は過去最低に沈む。利益を社会や環境へ向かわせるESG主義は、もうけすぎにブレーキをかけつつ、世間にくすぶる不満を鎮める。つまり、マネーの持続性を高めることになる。そんな深謀遠慮がESGマネーというフェアネス(公正さ)を膨らませる。

マネーに迷いはある。米スターバックスは2022年春に自社株買い停止を表明し、労働者への分配にかじを切った。社会の視線を意識した発想と行動はESGに傾く投資家と重なり合う。しかし、株式市場の評価はやはり気にかかる。わずか半年後に「3年間で約200億ドル(約2兆6000億円)を株主に還元する」と自社株買い再開を宣言。従業員と株式市場の双方に目を配る試行錯誤は続く。

・・・ESGを掲げて脱ROE主義を唱えるのは、資本主義を長持ちさせるためでもある、ということになる。建て前としては、ESGの実践は企業価値を長期的に向上させる、ということになる。しかし、株式市場の参加者は長期投資家ばかりではない。ESGのアピールだけで、全ての投資家を納得させることはできないだろう。

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2023年3月22日 (水)

中間層の再生=少子化対策

本日付日経新聞経済面「やさしい経済学」(衰退する日本の中間層、執筆者は駒沢大学の田中聡一郎・准教授)から、以下にメモする。

日本の中間層の経済的安定性が揺らいでいます。実質賃金が伸び悩む一方で、社会保険料、住宅・教育コストの圧迫で、生活が苦しいと考える世帯が増えています。その生活防衛の帰結が、統計開始以来最少の出生数という少子化なのではないでしょうか。

現在、政府はリスキリング、日本型職務給の確立、成長分野への労働移動などを通じて、賃金の構造的引き上げを目指しています。加えて中間層の家計を支えるには、次のような社会政策が必要でしょう。

第一に、長時間労働の是正や子育て支援の充実です。男性の育休取得や柔軟な働き方の促進を通じ、生活時間の確保が必要です。第二に、高等教育支援策の充実です。近年、高等教育の授業料などの減免、給付型奨学金が実施されていますが、さらなる充実で子育て不安を解消する必要があります。第三に、住宅手当の導入です。職務給が広がるなら、賃金の住宅手当も廃止されるでしょう。諸外国で導入しているように、政策としての住宅手当がますます必要になります。

・・・「住宅」と「教育」が、子育て世代に大きくのしかかるコストであるということは、随分前から分かっていたことだが、結局有効な手立てが打たれてこなかった、ということなんだろう。誰かが言ってた「分厚い中間層」の復活は望み薄だが、それでも中間層再生を目指す政策イコール少子化対策であることは疑いない。

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2023年3月21日 (火)

瀬戸市に行く

今日は祝日、春分の日。藤井聡太六冠王誕生から二日後、天才棋士の地元である愛知県瀬戸市に出かけた。藤井君のタイトル戦の時に、いつもニュースに出てくる地元商店街を、一度は見学してみたいと思っていた。本日当地では、JR東海さわやかウォーキングも開催。愛知環状鉄道の瀬戸市駅でコースマップを貰って、商店街を目指して3キロ程歩いた。

写真は上から、地元信用金庫内にある藤井聡太応援コーナー。「銀座通り商店街」の垂れ幕と、シャッターの将棋盤面図。そして名鉄尾張瀬戸駅近くの「喫茶スマイル」。六冠王記念メニューの「六カップ盛り」というのは何だかよく分からないけど。「瀬戸焼そば」もちょっと気になったが、昼ごはんには早い時間だったので見送り。そのまま尾張瀬戸駅から、名古屋に引き揚げた。

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2023年3月19日 (日)

藤井聡太、20歳の将棋六冠王

渡辺明棋王に藤井聡太竜王が挑戦していた将棋棋王戦5番勝負第4局は、藤井竜王が勝利、3勝1敗でタイトルを奪取した。これで藤井竜王は、王位、叡王、王将、棋聖そして棋王の6つのタイトルを保持することになり、羽生善治九段が24歳で達成していた六冠王の座に、20歳で付くことになった。ただただ驚愕するしかないのだが、一方で当然の結果のようにも思えてしまう。

本日はNHK杯テレビ将棋トーナメントの決勝戦、藤井竜王対佐々木八段(収録時七段)戦も放映されたが、こちらも藤井が勝利して優勝達成という結果で、まさに藤井デー。

藤井竜王は来月4月、名人戦で渡辺名人に挑戦することが決まっている。現在、藤井竜王の強さは文字通り「無敵」と言うほかない。このまま名人も獲得して、七冠王になるのも既定路線としか思えない。えらいこっちゃー。でもやっぱり、当然そうなるという印象しかない。

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2023年3月14日 (火)

「帝国」と「帝国主義」

1990年頃から、世界戦争は不可避的であると柄谷行人は考えていたという。『文藝春秋』4月号掲載のインタビュー記事からメモする。

その時期、ソ連の崩壊によって冷戦が終結し、世界は民主化するという「歴史の終焉」という説が話題になりましたけど、私はそれに反対でした。終ったのは、先ず、二十世紀後半に成立したアメリカの覇権です。要するに、この時期に終ったのは、第二次世界大戦のあとの均衡状態であり、その後に生じるのは、世界大戦の反復です。

私は以前に、『帝国の構造』という本で、帝国主義とは異なる「帝国」について書きました。たとえば、ペルシア帝国、ローマ帝国、モンゴル帝国ほかの帝国では、異なる民族が、お互いのアイデンティティーを保ったまま、平和的に共存できた。

私は、帝国と帝国主義を区別したい。帝国は古代と中世にあったものであり、帝国主義は、資本主義以後に生じたものにすぎないのです。そして、帝国主義は、帝国を否定するものです。

帝国は、遊牧社会にあった、国家や部族による差異・区分を超えて生きる思想を受け継ぎ、多数の民族・国家を統合する原理を持つにいたった。それに対して、近世以後の国民国家には、このような原理がない。したがって、自国中心主義、そして、民族紛争に傾きやすく、国家間の戦争が避けられないのです。

私は『世界史の構造』でも、旧帝国は近代以降の帝国主義とは異なると書いています。その意味で、今のアメリカやロシア、中国は帝国的ではないが、帝国主義的なのです。

・・・もうだいぶ前になるが、国家という枠組みを超えて運動するグローバル経済が生み出す秩序を「帝国」と呼ぶ議論があった。そして、その秩序の中心にあるのは、アメリカという国家であると言って良かった。しかしグローバル経済は、アメリカ国内にも格差と分断を生み出し、トランプ前政権は自国優先主義的な動きを強めた。その一方で、グローバル経済の恩恵を受けて世界第2位の経済大国となった中国も、自国中心主義的な振る舞いを拡大させている。アメリカと中国、そしてロシアの「帝国主義」的な動きが、グローバル経済=「帝国」秩序の危機を招いていると言ってよいだろう。

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2023年3月13日 (月)

「交換」を生み出す「謎の力」

先頃、「バーグルエン哲学・文化賞」を受賞した柄谷行人。何でも「哲学のノーベル賞」との触れ込みで、賞金も100万ドルという破格の金額。文芸評論家から出発し、80年代には現代思想ブームの一翼を担った柄谷氏は、今や大思想家になったのだなあ。近年、柄谷氏は「交換」という視点から社会システムの歴史を分析。以下は、『文藝春秋』4月号のインタビュー記事からのメモ。

現在の世界は、貨幣による市場経済(交換様式C)によって立つ資本主義、そして国家(交換様式B)の二つが巨大な力を持っています。そのため、互酬交換(交換様式A)の力が非常に弱くなってきている。

ただ、この資本主義と国民国家が大きな力を持つ近代以降の世界(「資本=ネーション(国民)=国家」)は、そろそろ限界に近づいているのではないかと私は思っています。

一方、私が未来の社会として考える交換様式Dというのは、A(贈与と返礼)が高次元で実現される、つまり共同体的拘束はないけれども、助け合いがあるような、自由で平等な社会です。

マルクスは〈交換は共同体と共同体の「間」で始まる〉と書いています。つまり交換とは共同体の内部ではなく、本来、見知らぬ不気味な他者との交換であり、それが成立するためには相手に交換を強制するような「力」が必要なのです。

最近になって気がついたのですが、私は、文芸評論や哲学的エッセイ『探究』を書いていた若い頃から、ずっと交換の問題を考えていたんですね。たとえば、言語の問題に取り組んでいたときも、言語によるコミュニケーションを、一種の「交換」としてとらえていた。

コミュニケーションとは、お互いを見通せない中でなされる不透明なもので、それが成立するにあたって、個人の意識を超えて「人間を突き動かす謎の力」が働いている。

・・・80年代に浅田彰や岸田秀が広めたポストモダン的人間観として、「ホモ・デメンス」(狂ったサル)という考え方がある。人間は狂っている(本能が壊れている)からこそ、秩序を求める生き物である。とすれば交換を成立させる力とは、秩序への意志なのではないか。ニーチェの言うアポロとディオニソスみたいだけど。

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2023年3月12日 (日)

映画『アンノウン・ソルジャー』

フィンランドの戦争映画『アンノウン・ソルジャー』。2019年の日本公開作品だが、昨年の夏、新宿の映画館で「戦争映画特集」の一本として、3時間のディレクターズ・カット版が公開された。ウクライナ戦争で、ロシアとフィンランドの関係にも注目が集まっていたこともあり、自分も新宿まで観に行った。先頃この3時間版がDVD化されていたことを知り、もう一度観てみたという次第。

1939年11月末から1940年3月まで、フィンランドは侵攻してきたソ連と戦った。これが「冬戦争」。次に独ソ戦の開始と共に1941年7月、フィンランドは領土奪還のため再びソ連と戦争を始める。これが、映画で描かれる「継続戦争」で、1944年9月まで続く。当時フィンランドは、ナチスドイツと組むしかなかった。「敵の敵は味方」でやってきたのが、ヨーロッパ。地続きで多くの国が隣り合わせになっている国々の意識は、島国日本とは当然のように違う。

アンノウン・ソルジャー、つまり無名戦士の日常生活は戦闘が中心だ。戦闘準備、戦地に向けて行軍、戦闘、休息、そしてまた行軍。森の中を歩き、山を越え、川を渡り、原野を進む。たまに一時帰休はあるにしても、一度家を離れたら、簡単には戻れないハードな生活だ。

フィンランドは森の国。森の中の戦闘は、敵の居場所が見えにくいだけに、恐怖は倍増し、勇気も一層必要になる。主要人物は何人かいるが、主人公と言える古参兵ロッカ伍長は、上官から「勇敢だな」と称えられると、「俺たちはただ、死にたくないから敵を殺してるだけです」と答える。若い新兵にはこうも言う。「人でなく敵を撃つ。賢い連中は言ってる、❝敵は人間じゃない❞って。割り切って敵を殺せ」と。まさに人ではなく、敵を殺すのだと思わなければ、戦争などやれないだろう。ロッカは、自分の振る舞いを上官たちに咎められても、「お偉方のために戦ってない。家族のために戦ってる」と言い返し、最後の場面では銃弾の飛び交う中、負傷した相棒を背負って川を渡るなど、男気のある人物として描かれている。

映画の後半はフィンランド軍の撤退戦。戦果も無いまま負傷者が増えるばかりの撤退戦の行軍は悲惨だ。「体に悪いからタバコはやめろ」と人に言っていたロッカも、撤退戦の過酷さからなのか、たびたびタバコを口にする。上官が現場の状況を無視した「死守」命令を叫んでも、疲れ切って行軍する兵士たちからは「何言ってんだコイツ」的ムードが漂う。負け戦の軍隊が惨めで気違いじみているのは、洋の東西を問わないようだ。

映画の原作小説は、フィンランドでは知らない人はいない作品だという。どのような形であれ、戦争に係る国民的記憶は残しておかなければならないと、つくづく思う。

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2023年3月10日 (金)

関ヶ原「布陣図」の謎

関ヶ原合戦といえば、有名な東西両軍の布陣図を思い浮かべる向きも多いだろう。しかし、あの図がどこまで正しいのか、充分な検討がなされたとはいえない。徳川家康の虚像と実像を分析する『家康徹底解読』(堀新、井上泰至・編、文学通信・発行)から、以下にメモする。

合戦が具体的にどのようなものであったのかは、ほとんどわからない。合戦の説明の際に必ずといってよいほど示される「布陣図」も要注意である。白峰旬が指摘したように、一般に知られている布陣図は明治期に参謀本部編『日本戦史関原役』が作成した歴史的根拠の乏しいものである。江戸時代に作られはじめる布陣図もやはり創作である。白峰は、布陣図による先入観を排し、それ以外の各種の史料の検討により関ヶ原エリア・山中エリアの二段階で戦闘が行われたと推定している。これについて小池絵千花は、当初は戦闘があったのは山中だと考えられていたが、のちに関ヶ原であると改められた、つまり地名の認識の変化によるものだと指摘している。そして、翌年には作成されはじめる太田牛一の『内府公軍記』の記載を重視すべきだとする。

・・・上記で言及されている小池氏の論文(「関ヶ原合戦の布陣地に関する考察」、『地方史研究』411号、2021年6月)を読んでみると、徳川家康は決戦日当日、吉川広家は二日後の書状で「山中」の地名を使っていたが、その後は使っていないと指摘。また、合戦から最も早い時期に成立した『内府公軍記』をベースに、後から情報が付加されていき、現在に至るまでの「関ヶ原合戦像」が形成されていったと述べている。

『内府公軍記』によれば、石田・小西・島津が関ヶ原に、宇喜多・大谷が山中に布陣したという。太田牛一は『信長公記』の作者でもあるから、信頼できる史料なのだろう。でもそうなると、「山中主戦場」説が依拠する島津家家臣史料の記述と、どう整合性を取ればいいのか。素人には分からない。困る。

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