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2023年2月28日 (火)

プーチンの欧米憎悪

27日付日経新聞オピニオン面掲載フィナンシャルタイムズのコラム記事(プーチン氏、「脱欧米」へ執念)から、以下にメモする。

ロシアのプーチン大統領は21日の年次教書演説で、ウクライナ侵攻の継続を強調しただけでなく、同時に自国の政治や経済、社会の目指すべき方向性も示した。それは、西側諸国との完全な決別の意志を改めて裏付けるものだ。

同氏は軍事作戦が、国内の反体制派を一掃し、「敵対的」あるいは「退廃的」な西側の影響力を遮断することと密接に結び付いていると力説した。
換言すると、ウクライナの領土の恒久的な支配だけを狙っているのではない。欧米の影響をこの先、一切排除する形でロシア社会を再構築することも意図しているのだ。

演説の眼目は自国が軍事、政治、経済、文化のあらゆる面で西側の攻撃にさらされており、欧米の手先として動いているのがウクライナの現政権だという主張に置かれた。
演説で目を引いたのは、西側に渡ってぜいたくな暮らしを続けようとする新興財閥(オリガルヒ)を何度も見下したことだ。対照的に、ロシア正教に古くから根差す民族的アイデンティティーは繰り返したたえた。
プーチン氏は、国家と社会を自身の理想に沿って造り替えた暁には、親欧米的な価値観の入り込む余地は一切ないと、経済界のエリートらに警告を発した。

・・・プーチンの欧米憎悪は、一体全体どこから来ているものなのか。そして、この思念はロシア国民にどこまで共有されているものなのか。わからんなあ。

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2023年2月27日 (月)

PBR1倍宣言!

本日付日経新聞ビジネス面コラム記事「経営の視点」(始まった「JTC」の逆襲)から、以下にメモする。

「ジャパニーズ・トラディショナル・カンパニー」を略したJTCはネットでよく使われる言葉だ。日本の伝統的な大企業に共通する、内向きで硬直的な組織運営や企業文化を皮肉る時に、使われることが多い。もうすぐ創業150年を迎えるコングロマリット企業の大日本印刷は、投資家が考えるJTCの代表格だ。経営トップが株主の前に出てくるのは、年に1回の株主総会の時だけ。決算説明会を初めて開いたのは2019年と、日経平均構成企業の中で最も遅かった。

そんな大日印が出してきた、「自己資本利益率(ROE)10%とPBR(株価純資産倍率)1倍超」をめざすという次期中期経営計画の基本方針。市場は、後者の方にひっくり返った。

株価を解散価値である1株純資産で割ったのがPBRだ。市場が決める株価が左右し、企業はほぼコントロールできない。実際、これまでPBRを経営目標に掲げた企業は皆無だろう。しかも、大日印のPBRが過去10年で1倍を超えたことは一度もない。

大日印の変身に、2つの「外圧」が強く影響したのは間違いない。世界最大のアクティビストである米エリオット・マネジメントの株取得と、PBR1倍割れの企業に「改善計画」の開示を強く求めるという東京証券取引所の新方針だ。

大日印のある幹部はいう。「非連続の変化が必要だという意味で、市場と我々の利害は一致する」
変化が必要と腹落ちした大企業の組織力は侮れない。JTC逆襲の「のろし」は上がった。

・・・東証の要請以来、バリュー株相場が展開中。ROE向上とPBR1倍回復を目指す計画表明が、単なる株買いの材料に止まらず、実際の経営改革から企業価値向上につながることを強く望む。

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2023年2月26日 (日)

二・二六事件

NHK・BS1スペシャル「全貌 二・二六事件」を観た。ちょうど3年前に放送した番組の再放送とのこと。

昭和11年(1936年)2月26日に起きた二・二六事件。陸軍「皇道派」の青年将校たちが天皇を中心とする軍事政権の樹立を目指し、政府要人数名を暗殺して国会議事堂などを占拠したクーデター事件である。当時、海軍軍令部が事件の推移を綿密に記録した極秘文書が見つかり、それを基に番組は事件の4日間を辿る。そして最後に、事件の一週間前に海軍は、陸軍皇道派の決起計画の概要を把握していたことが示される。

事件発生当時、決起部隊の動機や思想に、陸軍の一部が理解を示し、他の部隊がさらに合流する可能性もあったという。それだけでなく海軍にも同調する者がいたようだ。しかし天皇は早くから海軍に鎮圧を期待していた。海軍の陸上戦闘部隊である陸戦隊が出動する。さらに芝浦沖の海上から、国会議事堂に艦砲射撃を加える計画もあったという。

2月28日、天皇は反乱鎮圧の意思を示す奉勅命令を出す。陸海軍の鎮圧部隊と決起部隊は一触即発、東京が戦場となる内戦寸前の状態に。翌29日(うるう年なのですね)午前中に決起部隊の投降が始まり、午後1時に反乱は平定された。

「昭和維新」を目指した青年将校たちは軍法会議の裁判で処刑されたものの、その後の日本は、天皇を頂点とする軍国主義に突き進んでいった。それは結局は青年将校たちが望んでいた国家の姿だったと言ってもいい。

二・二六事件から9年半後の昭和20年(1945年)8月、日本が降伏して戦争は終わった。時の首相は鈴木貫太郎。二・二六事件の際に重傷を負ったが一命は取り留めた鈴木侍従長その人が、天皇と共に終戦工作を何とかやり遂げたというのも、歴史の不思議な巡り合わせだと思える。

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2023年2月23日 (木)

独ソ戦の「記憶」

ロシアのウクライナ侵攻開始から、明日で一年が経つ。正直なところ、いまだになぜこんなことが起きているのか、よく理解できない。この戦争が世界の将来にどんな影響を与えるのかについても、既にいろいろ議論されてはいるが、今は何よりも早期の停戦を願うばかりだ。

さて、昭和世代の一部には独ソ戦の「記憶」がある、と言うと怪訝に思われるだろうか。第二次世界大戦後10年以上過ぎた昭和3040年代生まれの世代は、太平洋戦争はもちろん欧州戦線も、映画・マンガ・プラモデルで「学んだ」と言える。田宮模型のタイガー戦車やT34戦車を作り、ソ連映画『ヨーロッパの解放』から独ソ戦の決定的なイメージを受け取ったように思う。

ソ連終焉から約30年が経った2020年代初頭、日本の読書界で「独ソ戦」のテーマが注目され、『独ソ戦』『戦争は女の顔をしていない』『同志少女よ、敵を撃て』が読者を獲得。そして、なぜかその状況に「シンクロ」するように2022年2月24日、ロシアがウクライナへの全面侵攻を開始した。かつての独ソ戦の戦場で、旧ソ連の国同士が敵対し、キエフやハリコフの攻防戦が伝えられる事態に、独ソ戦の「記憶」を持つ者としては、深い困惑と奇妙な「既視感」を覚えるばかりだった。現在も戦闘の終わる兆しは見えず、欧米のウクライナ支援も、ロシアが継戦能力を失うまで続く気配が濃厚になってきている。

最近の独ソ戦の研究では、ヒトラーの「世界観戦争」との見方も強調されてはいるが、経済的資源の獲得を目指す収奪戦争であったことも疑いない。これに対して、「プーチンの戦争」とも呼ばれるウクライナ戦争には、純然たる「世界観戦争」の印象がある。独善的な思想を持つ指導者の指令で遂行される戦争が「世界観戦争」であるならば、この戦争が実行可能と見られる国家体制を敷く国々が、日本の近隣に存在している。この戦慄的な地政学的現実への対応として、日本が戦後の安全保障政策の大転換に踏み出したことは、基本的な方向性として是認できる。

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2023年2月19日 (日)

熊本城炎上

今日2月19日は、今から146年前の明治10年(1877)、熊本城天守が焼失した日。

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熊本市の西南戦争資料館では、「企画展 熊本籠城戦」の展示を行っている。その内容は、「デジタル展示」でも見ることができる(熊本市ホームページの「熊本市田原坂西南戦争資料館へ行こう!!」)。その中から「熊本城炎上の謎」の文章を、以下にメモする。

征討令が発せられた2月19日、熊本城天守・本丸御殿などが炎上する。
① 国家財産が焼失したにも関わらず、その正式報告が無い。
② 現場にいた参謀児玉源太郎が後に語った内容には虚偽が多く、 事実を隠蔽する意図があったと想像される。
③ 電信記録は、火災発生直後には「鎮台自焼セリ」と打電しているが、後になると「怪火」など原因が不明となっている。
④ 本丸御殿=鎮台本営の発掘出土品(被熱資料)の偏在性から、火元は司令部と考えられる。奥まった位置にあり、限られた者しか出入りできない場所である。
以上から、鎮台が自焼し、これを隠匿した可能性が高い。薩摩軍に怯える籠城兵を背水の陣に追い込み、また、近代戦においては砲撃目標となるだけの天守を焼却して籠城準備の仕上げとしたのであろう。

・・・熊本城天守は西南戦争の時に焼けてしまった、と聞いた時は最初、戦争だから仕方ないかと思っていたが、かなり後になって、戦闘が始まる前に焼け落ちたと知った時は「はあ?どおゆうこと??」と思った。

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先日、西南戦争資料館を見学し、合わせて熊本城内にある熊本博物館の企画展「熊本城と明治維新」にも足を運んだ。明治維新当時、熊本藩知事の細川護久は、熊本城の破却を決心していた。廃城予定として一般開放すると、大勢の人が見物に来たという。その一方で城の破却に反対する人も、もちろんいた(久冨才七郎意見書)。

当時はお城は前時代の遺物というか、無用の長物と見なされつつあったのだろう。そういう意識もあり、西南戦争の際には戦闘開始前に、あっさり天守は焼かれちゃったのかと思う。いやはや。天守焼失3日後、2月22日に薩摩軍の総攻撃が始まる。熊本城に籠る政府軍3300人は、最大1万人の薩摩軍に包囲される中、4月14日まで50日余りの籠城戦を戦い抜いた。西郷隆盛は「(加藤)清正公に負けた」と言ったとか。江戸時代の太平の世を過ごした熊本城が、明治維新後の戦争で難攻不落ぶりを発揮したというのも、何だか妙な巡り合わせではあるなあ。

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2023年2月18日 (土)

西南戦争資料館へ行く

先日、熊本市田原坂西南戦争資料館に行ってみた。西南戦争が始まったのは明治10年(1877)の2月、熊本城攻防戦から、3月は田原坂の戦いと、激戦が続いた。昨秋から、戦争の行われた季節に訪ねてみようと考えていて、実行した次第。

九州は、東京からだと飛行機使うけど、名古屋からだと新幹線に乗ってれば着く、という感じ。朝8時前に名古屋駅を出発。新幹線車中では、雑誌「歴史群像」2018年12月号掲載「作戦分析・田原坂の戦い」を読んで予習。「田原坂の戦い」とは、田原坂含む植木台地に陣取った薩軍に対して、政府軍は田原坂の西にある二俣台地から砲撃。最後は、田原坂の南にある横平山という重要拠点を抑えた政府軍の攻撃により、薩軍が撤退する、という戦いのおおよそのイメージをつかむ。お昼12時過ぎには熊本駅に着き、そこから折り返す格好で、今度は鹿児島本線を北上して田原坂駅(無人駅)で降りる。写真は田原坂駅の説明板。

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資料館のホームぺージには、資料館までの徒歩ルート、田原坂駅と隣の木葉(このは)駅からの二つを示した「てくてくマップ」が載っていて、田原坂駅からは2.2kmで30~40分、木葉駅からは3.8kmで50分とあったので、少しでも短い方を選択(ただし実際に田原坂を歩くのは、木葉駅ルートです。何か変だな~)。とにかくマップを頼りに歩くこと40分余りで、資料館に辿り着いた。館内に入ると、くまモンが目に付いて、ついつい写してしまう。

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小一時間ほど館内を見学した後、帰りは田原坂を通って木葉駅に至るルートを歩くことにした。坂道をゆっくり下って資料館から30分程で「一の坂」の入り口に到着。

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そこから程なく国道に出て歩き始めたが、やはり交通量が多い。大型トラックも結構走っている。歩くのはちょっと恐いなと思っていたら、バス停に出くわした。停留所名は産交バスの「境木」。15分程待てば来るタイミングだったので、バス待ちを選択。平日に休みを取って来ていたので、日中のバスの本数が多少多めだったのが幸いした。乗車時間3分程で、木葉駅前に到着して任務終了。下の写真は木葉駅の説明板。当日は熊本で一泊して、翌日名古屋に戻った。

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もし、西南戦争資料館にタクシーを使わないで行こうという人がいるなら、木葉駅からのルートが分かりやすいし、田原坂そのものを通るだけによろしいかと思う。とはいえ国道を歩くのは最小限にしたいものだなと、産交バスの時刻表を調べた結果、「木葉駅前」平日8時30分頃または9時過ぎ、土休日8時30分頃または9時30分頃のバスに乗り、「境木」で降りる。資料館まで往復の徒歩と見学の時間の合計2時間半~3時間と見て、「境木」11時台または12時台のバスに乗って「木葉駅前」まで戻る、という「午前中勝負」が一番無駄のない感じです。

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2023年2月13日 (月)

江戸時代の銅版画家、亜欧堂田善

昨日、「亜欧堂田善」展(千葉市美術館)を観た。Eテレ番組「日曜美術館」で紹介されていたのを見て、こんな人がいたんだーと感心して、とにかく名古屋から遠征した次第。(展覧会は今月26日まで)

亜欧堂田善(1748~1822)、本名・永田善吉は、現在の福岡県須賀川市に生まれた。絵を学びながらも長い間家業に携わっていて、画業に専念したのは47歳の時からというのが、まず驚き。当時の白川藩主、松平定信に才能を見出された田善は、定信から銅版画技術の習得を命じられて、数多くの西洋銅版画を製作。その作品は、アジアとヨーロッパを眼前に見るようであると、定信は賞賛し、田善に「亜欧堂」の号を与えた。西洋の書籍や版画から着想を得ながら、田善の画業は世界地図や人体解剖図、江戸の風物などのジャンルに展開。晩年には山水画、人物画なども描き、死ぬまで旺盛な創作活動を続けた。下の写真は、ミュージアムショップで購入したポストカード(浅草寺風景)。

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久々に、あーこんな人がいたんだー、知らなかったーという気分になった。同時代の似たような「洋風画」の人に司馬江漢がいるが、とにかくこの時代にこういうことをやってる人がいた、ということを知ると、驚きを通り越して、摩訶不思議な気分になる。

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2023年2月 5日 (日)

NHK「決戦!関ヶ原Ⅱ」

昨夜放映のNHKBS番組「決戦!関ヶ原Ⅱ」。当時の戦国武将の書状500通の調査分析から、関ヶ原の決戦(1600年9月15日)に至るまでの「情報戦」が勝敗を左右したことを描き出す。最近の「新説」に寄せている部分もあり、興味深かった。

西軍の総大将とされる毛利輝元は、通説では石田三成らによって祭り上げられた、ということになっているが、7月15日に三成挙兵の知らせを受け取るや否や広島を出発、海路を使って2日後の7月17日に大阪に到着するなど、やる気満々で「西軍」結成に参画した。輝元には、「西国全体を支配して(祖父の)元就を超えてやるんだという思い」(光成準治先生)があったのではないかという。

番組では、上杉と伊達が連合して、江戸攻撃に乗り出す可能性があったとしているが、これはとりあえず聞いておきますという話かな。(苦笑)

小山評定(7月25日)で、徳川家康は何とか「東軍」を立ち上げたが、評定4日後に届いた西軍の家康弾劾状「内府ちかひの条々」を見て、自分が豊臣政権に対する「謀反人」の扱いとなったことを知り愕然。「どうする家康」状態に。番組が分析した書状数西軍169通、東軍312通(うち家康171通)が示すように、小山評定後の8月の一ヵ月間、家康は手紙作戦に没頭。

番組では福島正則が、キーマンの一人とされていた。小山評定で「石田を討つ」と宣言しちゃったけど、家康が謀反人だとすれば、どうすればいいのかと悩む正則。結局「自分たちは戦って勝つしかない」と決意する。この扱いは結構目新しい感じ。見直されてほしいぞ福島正則。

ところでNHKは、2年前の「決戦!関ヶ原」に続くこの番組でも、関ヶ原西方にある山城「玉城」に、豊臣秀頼や毛利輝元を迎え入れるつもりだったと言ってるけど、これもとりあえず聞いておきますという話。

決戦の前日の9月14日、小早川秀秋が松尾山城に入り、同日に徳川家康も、西軍の籠る大垣城の北に到着した。西軍は同日夜に大垣城から関ヶ原に移動。これも通説的には、関ヶ原で東軍を迎え撃つためとされるが、別の理由が考えられるという。「石田三成たちが大垣から関ヶ原に転進したのは、松尾山にいる小早川を西軍に呼び戻す、あるいは壊滅させる」(光成先生)意図があったようだ。

この見方は、在野の研究者高橋陽介氏の説に近い。小早川と戦うために石田方は関ヶ原に向かったというのが、高橋先生の見方。

さて、南宮山にいる毛利軍。これが東軍の西進を抑えてくれると思っていたから、三成たちは大垣城を出て小早川攻撃のために関ヶ原に向かった。ところが、ここで「最後の情報戦」が行われる。9月14日の夜、毛利家の重臣吉川広家と東軍黒田長政が「不戦の密約」を交わしたのだ。毛利が動かなかったため、東軍は関ヶ原に進出できた。これを見た小早川も東軍として参戦し、西軍は敗れた。

この番組では、東軍の関ヶ原進出が、西軍の予想外の事態として描かれた。このポイントは大きい。通説では、東軍の動きを予想して西軍は動いたわけだから。今後の歴史番組が、白峰旬先生や高橋先生のリードする関ヶ原新説にさらに寄せていくならば、戦いの実態はおそらく、松尾山の麓に移動した直後の西軍の態勢がまだ整わないうちに、東と南の2方向から、東軍と小早川軍が急襲。西軍はグダグダになって短時間で敗北した、というところになるのではないかと思う。

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