昨夜放映のNHKBS番組「決戦!関ヶ原Ⅱ」。当時の戦国武将の書状500通の調査分析から、関ヶ原の決戦(1600年9月15日)に至るまでの「情報戦」が勝敗を左右したことを描き出す。最近の「新説」に寄せている部分もあり、興味深かった。
西軍の総大将とされる毛利輝元は、通説では石田三成らによって祭り上げられた、ということになっているが、7月15日に三成挙兵の知らせを受け取るや否や広島を出発、海路を使って2日後の7月17日に大阪に到着するなど、やる気満々で「西軍」結成に参画した。輝元には、「西国全体を支配して(祖父の)元就を超えてやるんだという思い」(光成準治先生)があったのではないかという。
番組では、上杉と伊達が連合して、江戸攻撃に乗り出す可能性があったとしているが、これはとりあえず聞いておきますという話かな。(苦笑)
小山評定(7月25日)で、徳川家康は何とか「東軍」を立ち上げたが、評定4日後に届いた西軍の家康弾劾状「内府ちかひの条々」を見て、自分が豊臣政権に対する「謀反人」の扱いとなったことを知り愕然。「どうする家康」状態に。番組が分析した書状数西軍169通、東軍312通(うち家康171通)が示すように、小山評定後の8月の一ヵ月間、家康は手紙作戦に没頭。
番組では福島正則が、キーマンの一人とされていた。小山評定で「石田を討つ」と宣言しちゃったけど、家康が謀反人だとすれば、どうすればいいのかと悩む正則。結局「自分たちは戦って勝つしかない」と決意する。この扱いは結構目新しい感じ。見直されてほしいぞ福島正則。
ところでNHKは、2年前の「決戦!関ヶ原」に続くこの番組でも、関ヶ原西方にある山城「玉城」に、豊臣秀頼や毛利輝元を迎え入れるつもりだったと言ってるけど、これもとりあえず聞いておきますという話。
決戦の前日の9月14日、小早川秀秋が松尾山城に入り、同日に徳川家康も、西軍の籠る大垣城の北に到着した。西軍は同日夜に大垣城から関ヶ原に移動。これも通説的には、関ヶ原で東軍を迎え撃つためとされるが、別の理由が考えられるという。「石田三成たちが大垣から関ヶ原に転進したのは、松尾山にいる小早川を西軍に呼び戻す、あるいは壊滅させる」(光成先生)意図があったようだ。
この見方は、在野の研究者高橋陽介氏の説に近い。小早川と戦うために石田方は関ヶ原に向かったというのが、高橋先生の見方。
さて、南宮山にいる毛利軍。これが東軍の西進を抑えてくれると思っていたから、三成たちは大垣城を出て小早川攻撃のために関ヶ原に向かった。ところが、ここで「最後の情報戦」が行われる。9月14日の夜、毛利家の重臣吉川広家と東軍黒田長政が「不戦の密約」を交わしたのだ。毛利が動かなかったため、東軍は関ヶ原に進出できた。これを見た小早川も東軍として参戦し、西軍は敗れた。
この番組では、東軍の関ヶ原進出が、西軍の予想外の事態として描かれた。このポイントは大きい。通説では、東軍の動きを予想して西軍は動いたわけだから。今後の歴史番組が、白峰旬先生や高橋先生のリードする関ヶ原新説にさらに寄せていくならば、戦いの実態はおそらく、松尾山の麓に移動した直後の西軍の態勢がまだ整わないうちに、東と南の2方向から、東軍と小早川軍が急襲。西軍はグダグダになって短時間で敗北した、というところになるのではないかと思う。