「狂女王」と「美男公」
日経新聞毎週土曜日掲載「王の綽名」、執筆者は作家の佐藤賢一。本日分(「狂女王」スペイン王フワナ1世)から以下にメモする。
フワナ1世は、「カトリック両王」と呼ばれたカスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェランド2世の娘である。1504年に母親の王位を、16年には父親の王位も継いで、今日と同じ国土に君臨した。記念すべき初の「スペイン王」だが、その綽名がスペイン語で「ラ・ロカ」、英語で「ザ・マッド」、つまりは「狂女王」である。フワナは内向的な性格で、静かに本ばかり読んでいる、いわば文学少女だった。王女だし、次女だし、それでよいと、16歳で嫁に出された。相手はハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアンの長子、18歳のブールゴーニュ公フィリップだった。
このフィリップにも綽名があって、フランス語で「ル・ボ―」、英語で「ザ・ハンサム」、つまりは「美男公」である。実際、フワナは結婚このかた、夫しかみえなくなった。
いくらかたつと、浮気が始まった。それも一度や二度でなく、ほぼ常に愛人がいた。それをフワナは許せなかった。フワナは夫に、あるいは夫の愛人に対しても、癇癪を起こすようになった。と思えば底なしに落ち込んで、すでに鬱病だったともされるが、本当だろうか。
(「美男公」の急死後、)フワナはフィリップの埋葬を許さなかった。ただ眠っているだけだと、棺を馬車に乗せたまま、8カ月もスペイン各地をさまよった。もはや完全に精神に異常を来したと、これで「狂女王」の綽名が確定した。
・・・精神を病んだフワナがカスティーリャ王に即位する時、夫のフィリップが王位を求めたが果たせず、父のフェランド2世が摂政に。フワナはアラゴン王位も得たが、長男のシャルルが16歳で「スペイン王カルロス1世」に即位。「共同統治者」フワナは、修道院に軟禁されたという。夫も父も息子も、フワナが「狂女王」である方が都合が良かったのかもしれない、と佐藤氏は示唆する。
自分は「スペイン王カルロス1世」すなわち「神聖ローマ皇帝カール5世」は、ハプスブルク家出身の、正々堂々の君主というイメージを持っている。なので少なくともカールは、そんな都合は毛頭考えなかったものと思いたい。
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