ドゥルーズの元気になる思想
ポストモダンと言えば、批判的思想としてはとても魅力的だったけど、結局は相対主義に陥り建設的な思考は打ち出せないまま消えていった、という印象が強いかもしれない。それだけに、今改めてポストモダン思想を考える時には、そのポジティブな面を取り出すことが肝要なのではないかと思う。以下に、講談社現代新書『現代思想入門』(千葉雅也・著)からメモする。
ポストモダン思想、ポストモダニズムは、「目指すべき正しいものなんてない」、「すべては相対的だ」、という「相対主義」だとよく言われます。
確かに現代思想には相対主義的な面があります。ですが、そこには、他者に向き合ってその他者性=固有性を尊重するという倫理があるし、また、共に生きるための秩序を仮に維持するということが裏テーマとして存在しています。いったん徹底的に既成の秩序を疑うからこそ、ラディカルに「共」の可能性を考え直すことができるのだ、というのが現代思想のスタンスなのです。
1980年代の日本では、べストセラーになった浅田彰『構造と力』の影響もあり、ドゥルーズ、およびドゥルーズ+ガタリが注目されました。
80年代、バブル期の日本におけるドゥルーズの紹介は、時代の雰囲気とマッチしていました。資本主義が可能にしていく新たな関係性を活用して、資本主義を内側から変えていくという可能性が言われた時代です。
有名な概念ですが、横につながっていく多方向的な関係性のことを、ドゥルーズ+ガタリは「リゾーム」と呼びました。
リゾームはあちこちに広がっていくと同時に、あちこちで途切れることもある。つまり、すべてがつながり合うと同時に、すべてが無関係でもありうる。
ドゥルーズおよびドゥルーズ+ガタリでは、ひとつの求心的な全体性から逃れる自由な関係を言う場面がいろいろあって、自由な関係が増殖するのがクリエイティブであると言うのと同時に、その関係は自由であるからこそ全体化されず、つねに断片的でつくり替え可能であることが強調されます。全体性から逃れていく動きは「逃走線」と呼ばれます。
あらかじめ「これが最も正しい関係性のあり方だ」という答えが決まっているわけではありません。すべての関係性は生成変化の途上にあるのです。
そういう意味で、接続と切断のバランスをケース・バイ・ケースで判断するという、一見とても当たり前で世俗的な問題が、ドゥルーズにおいては真剣に、世界とあるいは存在とどう向き合うかという根本問題として問われているのです。
ドゥルーズ+ガタリが考えているのは、ある種の芸術的、準芸術的な実践です。自分自身の生活のなかで独自の居場所となるような、自分独自の安定性を確保するための活動をいろいろ作り出していこう、と。いろんなことをやろうじゃないか、いろんなことをやっているうちにどうにかなるよ、というわけです。ドゥルーズ+ガタリの思想は、そのように楽観的で、人を行動へと後押ししてくれる思想なんです。
・・・1978年生まれの千葉先生は、難解な現代思想をきれいに整理していて、80年代に20代だった自分から見ても、当時訳の分からないまま丸飲みしていた言葉の意味するところについて、「そういうことだったのか」と教えられることが多い。本を読みながら、当時の浅田彰の「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」とかドゥルーズ的な「逃走」、ラカン的な「最初に過剰があった」、あるいは岸田秀の「人間は本能が壊れた動物」とか思い出しました。
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