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2022年4月17日 (日)

映画「ゴッドファーザー」50周年

気が付けば、「ゴッドファーザー」というのは50年も前の映画なのだな。そして自分は50年前に映画館で観ている。そんなに長い時間が経ったのか。どうにも信じられない。
先月、特集が組まれていた雑誌「kotoba」(集英社)を買い、今月は名画の劇場上映企画「午前10時の映画祭」で、「ゴッドファーザー」「ゴッドファーザーPARTⅡ」「ゴッドファーザー〈最終章〉:マイケル・コルレオーネの最期」3作品を続けて観た。「最終章」は、「ゴッドファーザーPARTⅢ」の2020年再編集版で、今回初の全国上映。

「ゴッドファーザー」の日本公開は1972年。自分が観たのは翌年春、中学1年生の終わりの頃だ。「PARTⅡ」公開は1975年、高校1年生の時。そして「PARTⅢ」公開は1991年で(16年経って続編が出来た時はさすがに驚いた)、自分は31歳になっていた。こうして振り返ると、自分の人生は「ゴッドファーザー」と共にあったような気がしてくる。

自分は1959年生まれだが、「ゴッドファーザー」は、おそらく自分以降の世代はかなり影響を受けている映画だと思う。直近雑誌等で知った「ゴッドファーザー」好き有名人は、オバマ元大統領、落語家の立川志らく。オバマは61年生まれ、志らくは63年生まれなので、やっぱりモロに影響受けた世代という感じだ。自分も、人生で大事なことは全て「ゴッドファーザー」から学んだ、と言ってもいいくらいの思いがある。

自分は今回、「最終章」を初めて観た。そもそも「PARTⅢ」の評価は余り高くないのが通り相場ではあるが、それは前2作に比べてという話で、「ゴッドファーザー」ファンには十分心に響く作品だろう。少なくとも、歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」の楽曲をバックに進行する、お約束の敵方一掃抹殺シーンは「PARTⅡ」より上だろう(というかⅡがショボい)。さて、「最終章」の内容は「PARTⅢ」と大きくは変わらないが、いくつかのシーンの順序の入れ替えや削除等の変更があり、いきなり冒頭から「PARTⅢ」と異なる場面、マイケルとギルディ大司教の「商談」シーンが置かれる。意外感ありだが、変更の是非はよく分からない。さらにマイケル叙勲式のシーンもカット。その後のパーティ・シーン以降は概ね「PRATⅢ」と同じ進行だが、最後にまた少々意外な変化が。マイケルが愛する妻や娘、アポロニア、ケイ、メアリーとダンスする回想シーンが、マイケルとメアリーのダンスだけになり、最後の最後、老いたるマイケルの姿が映し出され、そしてシチリアの「幸福」観が紹介されて終わる。つまり、「PARTⅢ」の最後に置かれたマイケルの斃れるシーンがないのだ。サブタイトルに「最期」(原語でもThe Death of Miceal Corleone)とあるのにも関わらず、である。これも何だか妙な感じだった。

コッポラ監督の再編集の意図は正直良く分からないので、自分の印象だけ述べれば、「最終章」は前2作とのつながりをやや薄めて相対的に独立性を高めた(ちょっとだけど)作品という感じがした。冒頭の叙勲式シーンがカットされたことによりフレド殺しの回想場面もなくなったが、正直、冷徹な人物としてのマイケルのファンから見れば、彼が兄弟殺しの罪の意識に苛まれるような人物には思えない。「PARTⅢ」は、マイケルの「罪と罰」(兄弟殺しと娘の死)の色が濃い何だか気の滅入る話になっているが、少なくとも罪の意識の強調はやりすぎだと思える。悲劇的要素は全く要らないとまでは言わないが、できることなら「最終章」は、マイケルが自らのビジネスの合法化を目指す「最後の戦い」中心で、押し切って欲しかったような気もする。しかし「PARTⅢ」からも、30年経ってるのか。いやもうびっくりです。

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