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2022年2月26日 (土)

危機のウクライナ、進撃のロシア

ウクライナ生まれの国際政治学者グレンコ・アンドリーは、ロシアはウクライナ支配を目論んでおり、ウクライナが自国の主権と独立を守る方法は、自由・民主主義陣営の国になることしかない、と言う。著作である『NATOの教訓』(PHP新書、2021年5月刊行)から、以下にメモする。

ウクライナは今、独裁国のロシアと自由・民主主義の欧米諸国の対立の最前線にある。
2014年に、ロシアはウクライナを侵略し、クリミア半島およびウクライナの東部2州で戦争が現在でも続いている。地理的にロシアとNATOの間にあるウクライナは事実上、NATOの「盾」となっている。NATO諸国は「盾」であるウクライナに陥落してほしくない。かといって、ウクライナと一緒にロシアと戦うつもりもない。

たしかにNATOはウクライナに経済支援や技術支援、軍事支援を行ってきた。それでもやはり、ウクライナを侵略したロシア軍を排除するために軍事行動を起こすようなことはない。NATO加盟国に対する侵略なら話は別だが、防衛義務のないウクライナのために自国の兵士を死なせるようなことは、国内の世論が容認しないからだ。

ロシアによるウクライナ侵略が終わり、平和が訪れるのは、おそらく何年も先のことだろう。ロシアはウクライナの支配に強い願望を持っているので、簡単には諦めない。独立国であり続けたいウクライナも当然、侵略への抵抗を続ける。一方が支配を求め、他方が独立を求める。この状況では妥協の余地がない。

現体制においてロシアがウクライナを諦めない以上、戦争が終結する可能性は二つしかない。ロシアにおいて革命的変化が起きるか、もしくはロシアの財政難によって戦争継続が不可能になるかである。

・・・ロシアがウクライナに対する全面侵攻に踏み切った現時点では、戦争が終結するもう一つの可能性が現われてきた。それはウクライナにとって望ましくない想定、すなわちロシアがウクライナの現政権を倒して傀儡政権を作る、というシナリオである。しかしこれが、プーチンのプーチンによるプーチンのための戦争の、最終目標であるのかは定かではない。いずれにしても、NATOに圧迫されているという、独裁的権力者の被害妄想に近い世界観から、戦争が引き起こされているという空恐ろしい現実を、我々は目の当たりにしている。

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2022年2月25日 (金)

哲学史で「思考の鋳型」を学ぶ

哲学思想史』(淡野安太郎・著、角川ソフィア文庫)は、西洋哲学史の本。親本は1949年刊行(新版62年)で、新しい本というわけではないが、作家の佐藤優が評価するなど「発掘」して、今回文庫本による復刊が実現したようだ。以下に、同文庫末尾の解説文(佐藤氏が執筆)からメモする。

中世の黄金時代とは、ヘブライズム(ユダヤ・キリスト教)、ヘレニズム(ギリシア古典哲学)、ラティズム(ローマ法体系)が融合した文化総合の時代である。「コルプス・クリスティアヌム」(キリスト教共同体)と呼ばれた文化総合が世俗化していく過程が近代なのだ。中世の文化総合が解体する過程で、学問、国家(政治)、宗教がそれぞれ分化してくるのである。

理性を用いて、学問は断片的な知識ではなく、知を総合化する方向に向かった。そこで、19世紀後半から20世紀初頭にかけて難問が生じた。実験が可能で法則を見出すことができる科学と、実験ができず、思考に依存することの多い人文・社会科学を同じ科学という範疇で括ることが妥当かという問題だ。

この二つの科学(自然科学と人文・社会科学)をどう統合するか。その際に重要になるのが共通の言語だ。
私は、その共通の言語になるのが哲学だと考える。特に、哲学史を学ぶことによって、過去にあった思考の鋳型を知ることができる。この思考の鋳型と類比しながら、現在、自分が行っている専門的研究について語ることは可能である。

・・・自然科学と人文・社会科学をつなげる云々はともかく、何となくだけど小生も、たまに西洋哲学史を通覧してみることは、思考の基礎トレーニングとして大事だなという気がしている。佐藤氏の「思考の鋳型を知る」というのは、思考の組み立てのパターンを学ぶということかと思うのだが、例えば哲学史では「プラトン・カント的」思考と「アリストテレス・ヘーゲル的」思考つまり、「普遍的理念重視」と「個別的現実重視」のパターンが交互に現われるとか、中世哲学がキリスト教哲学ならば、古代哲学は非キリスト教的、近代哲学は脱キリスト教的、現代哲学は反キリスト教的とか・・・デカルトの大陸合理論とイギリス経験論、その二つがカント哲学において総合される、という基本的な流れもしっかり押さえておきたい。(と、最近思うようになりました。)

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2022年2月18日 (金)

「哲学」と「歴史」は大事

橋爪大三郎と佐藤優の対談本『世界史の分岐点』(SB新書)から、国や社会の正しい運営のためには、「哲学」や「歴史」が肝心だという話を、以下にメモする。

橋爪:(これがいい、これがよくないと)決める根拠は何か。さかのぼれば、これが正しいのだと考えぬいた、確信でしょう。その考え抜いた確信を、一人で思うだけじゃなく、みなで議論して、合意する。こういう活動を哲学とよべば、哲学は、誰にでも理解できるものでなければならない。そして、教えることもできなければならない。議論して変えることもできなければならない。そして、正しいということをいつも検証しなければならない。こういうことを社会全体として共有する仕組みが必要だ。

佐藤:要するに「反証主義とは何か」を理解していない人たちが、今の政治家の大多数なんだと思います。文明人として政治を執り行うのなら、反証可能性というものを常に意識し、議論し、いくつもの反証テストを経て最終的に生き残った選択肢をとっていくという姿勢でいなくてはいけない。胆力も必要です。何かを決めたり変えたりするには、議論を戦わせなくてはいけませんし、それには価値観も必要です。そして、その価値観とは突然降って湧いてくるものではなく、歴史的な検証を経て、みずから練り上げないといけません。

橋爪:哲学が必要なのですけれど、歴史も大事なのです。こういう比較的恵まれた状態になるために、先人がどれだけ苦労して、どういう犠牲を払って、何を諦めて、ここまでたどり着いたのかを覚えてなかったら、今を記述することさえできない。私のいう歴史は、その過去を自分の過去として生きているかどうか。

佐藤:そこで課題となるのが、知識人の不作為でしょう。歴史とは何か、価値とは何かという作業を、もっと熱心にやらなくてはいけないということだと思います。

橋爪:やはり、哲学が大事です、歴史を含めてね。哲学をつくり出して共有する努力が、国を救う最後の切り札になる。

・・・この本で佐藤氏は、日本の官僚は「哲学的な訓練や倫理学的な訓練を積んでいない」とも評している。特に外交や安全保障を担当する官僚に、歴史を背負った哲学が欠けているとしたら・・・果たして大丈夫なのかニッポン。

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2022年2月 5日 (土)

岩波ホール、終焉を迎える

先日、神田神保町の岩波ホールが7月に閉館することが伝えられた。日本のミニシアター文化の先駆けとなった映画館である。以下は、昨日4日付日経新聞文化面の記事内容の概略。

岩波ホールのある岩波神保町ビルは、1968年に建設された。ビルの所有者である岩波不動産の岩波力社長は、「ホール部門の過去のトレンド、コロナ禍、将来性を考えて判断した」と語った。ビルの賃貸収入は安定しているものの、ホール部門は「50年間で黒字になった年は数回しかない」という。
岩波ホールの総支配人は高野悦子氏(故人)。先代社長の縁者で、パリ高等映画学院に学んだ。74年から、名画上映運動「エキプ・ド・シネマ」を開始。以来岩波ホールでは、65ヵ国・地域の271作品を紹介してきた。
80年代にミニシアターは全盛期を迎える。岩波ホールに限らず、地味な良作や野心作がじわじわと浸透し、時に半年近くもロングランした。
2013年に高野氏が死去した後、岩波ホールは業務の見直しも徐々に進めていたが、コロナ禍の影響も大きく、今年1月11日に閉館発表。配給会社からは驚きや残念な思いが示される中、ホールの存続を願う声も上がっている。

・・・というようなことなのだが、ベタに言えば「一つの時代の終わり」的な感慨も、自分にはちょっとある。日経記事では、企業の文化事業支援の限界という指摘もされていたが、岩波社長の「将来性も考えた」という言葉からは、映画産業における娯楽性優先・文化性後退、映画作品に文学性を求める観客の減少、というような現状認識も、閉館決断を後押ししたのではないか、とも感じる。

約40年前の昔、自分が岩波ホールで観た映画は、ミニシアター的にはメジャーな監督作品であろう、ルキノ・ヴィスコンティの「家族の肖像」「ルードウィヒ」、アンジェイ・ワイダの「大理石の男」。同じ頃に、メインではないサブの上映で、ヴィスコンティの「異邦人」(原作は言わずと知れたカミュの小説)も観ていた。比較的最近では、ワイダの「カティンの森」を2009年末に観て、2013年初にはカミュの遺作「最初の人間」の映画化作品を観た。もう9年も前だな。おそらくこれが、岩波ホールで自分が観た最後の映画になるのだろう。

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