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2021年12月 6日 (月)

毛利輝元、しくじる

関ケ原町では古戦場記念館の開館一周年を記念して、11月から特別講演会を毎月開催中。12月の講演会「毛利一族~不戦の代償~」(講師は光成準治先生)は昨日5日行われた。会場で配布されたレジュメを元に、以下にメモする。

関ヶ原合戦時の西軍総大将、毛利輝元には「天下三分」という野望があった。すなわち東は徳川家康、西は輝元、そして中央は豊臣政権という支配体制を思い描いていた。この野望を実現するためには、東軍と西軍の、美濃方面における戦いは長期化することが望ましい。戦いが長期化している間に、輝元は西国の東軍勢力を一掃し、その後で家康と石田三成らの講和を仲介する。さらに予め家康と不戦協定を締結しておけば、万が一、三成らが敗北した場合でも、家康との講和に持ち込み、家康と「天下二分」することができる。

吉川広家らの工作により、実際に不戦協定は締結された。ところが、小早川秀秋の西軍からの離反によって危機に陥った大谷吉継を救援するために、大垣城の西軍が関ヶ原に移動した結果、9月15日に突発的に戦いが勃発した。美濃方面における戦闘の長期化を予想していた輝元は、南宮山の毛利勢に対して、眼前で戦闘が始まった際の行動を指示していなかった。現地の毛利秀元には全軍の軍事指揮権は与えられておらず、全軍を指揮できる輝元が大坂城にいたため、毛利勢は行動を起こすことはなかった。

吉川広家らの事前交渉の通り、毛利氏分国は安堵されるとの認識から、西軍の敗北後に輝元は抵抗することなく大坂城から退去。しかし、これは家康のワナであり、所領安堵を約束して輝元を大坂城から退去させた後、減封するという作戦だった。

反徳川闘争決起から不戦の密約に至るまで、毛利輝元は祖父元就譲りの策略を駆使したが、自らは前線に赴かず、大阪城での抗戦も放棄するという、二代目ゆえのひ弱さに基づく自己保身行動が、減封という結果を招いたのである。

・・・毛利輝元が反徳川家康の側に立った目的は、自らの勢力拡大であり、打倒家康の覚悟については石田三成らと相当の温度差があったと考えられる。関ヶ原の戦いは、通説のような大会戦ではなく、突発的に起こり瞬時に決着した。これにより、輝元の戦争長期化予想は外れて西国支配も叶わず、さらに戦後は領国安堵も反故にされた。こうして、輝元の抱いた「天下三分」の野望は夢幻のように消えたのである。

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