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2021年10月 3日 (日)

ヒコロヒー『きれはし』

女芸人ヒコロヒーのエッセイ『きれはし』を読んでみた。なぜかしら先月の日経新聞の読書欄で取り上げられていて、ヒコロヒーその人については、「独特の世界観のコント」や「クールな言動」で注目を集めるニヒルな女芸人、みたいな感じで紹介されていたものだから、どんなもんなのかなーと興味を持った次第。

読んでみると、作者の他人及び自分自身に対する冷静な観察眼に感心する。しかし「ニヒル」というよりは、そこはかとなく切ないなー、という読後感。「コリドー」という悲恋物語?の中では、作者はネタとしてついたウソを相手にマジに受け取られて、ホントのことを言い出す勇気がなかなか出ないまま「破局」に至る。「ほれたはれた枠の勇気は一般的な数値の500000分の1しかたぶん持ち合わせて」いないと語る作者が、何だか「カワイイ」(・・・しかしこういう場合は、友だちが早めにホントのことを相手にバラしてあげなきゃいかんのじゃないのかなー)。「コリドー」以外の話で、そこはかとなく切ないなーと思った部分を以下にメモしてみる。

芸人と呼ばれている人たちが、いつ芸人と呼ばれなくなるかなど、誰にも分からない。それは芸人なんていうものに限らない事で、あなたの上司がいつ上司でなくなるとも、同僚が同僚でなくなるとも、恋人が恋人でなくなる、友人が友人でなくなるとか、そんなものはやっぱり分からないのだ。だからお客たちはいっぱいライブに来てくださいなどと言うつもりはなくて、なんというか、そういうものなのだと思う。どれだけお客たちが通い詰めてくれてそれが真から私たちの活力になろうとも、芸人たちがいくら辞めないでと切に説得しようとも、恋人に行かないでと言おうとも、友人に仲直りしようよと言おうとも、時には抗いきれない、どうにもできない、ひとつひとつの考えがあって、ひとつひとつの決断があって、ひとりひとりの人生がある。交錯できている瞬間というのは、非常に儚く、尊いものだ。私にとっては、彼女たちが芸人と呼ばれる人生を歩んでいた時間と、私が芸人と呼ばれている時間が交錯できた事は、とんでもない幸運だった。(「彼女たちについて」)

数年前から応援しだしてくれたある女の子がいる。彼女は私のネタがとても好きなのだと、たくさん言葉や、あるいは文字にして伝えてくれた。そんな彼女が最近の私の舞台を見にきてくれた際に「客席の感じが変わっていましたね」と、少しさみしそうに打ち明けてくれたことがあった。私自身が変化せずとも、渦巻く環境や、取り巻く人々というのは否が応でも変化していくのかもしれず、その変化が好みではなかった場合、ずっと応援してくれていた人たちに淋しい思いをさせてしまうこともあるのかもしれない。

もちろん私自身はずっと見たいと思って頂ける芸をやり続けようと努めているつもりだが、それとは全く関係のないところで抗えない変化は生まれる。悲観的な意味では全くなくて、いつかみんな死ぬ、くらい当然のことのように、きっとみんなおらんなる、自分も含めて、と、どこかで思い込んでいる節はある。

だからこそ一回一回の舞台や、そこに来てくれている事を、応援してくれる事を、大変有難く尊く感じているし、全部がとことん脆弱で意味不明の儚いものだという思いから、森田童子の『みんな夢でありました』をよく聴くはめになっている。現実が幻に見えてくる一曲である。(「お客」)

・・・すべては儚い。だからこそ尊い。

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