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2021年8月20日 (金)

「リベラル」あるいはライトな実存主義

新刊『無理ゲー社会』(橘玲・著、小学館新書)の中で、著者が「私はこれまで繰り返し、「日本も世界もリベラル化している」と述べてきた」というので、前著である『上級国民/下級国民』(小学館新書、2019年)も読んでみた。同書で著者は、「とてつもないゆたかさ」を手にした現代人は、誰もが自由に生きたいと願うようになった。つまり歴史的な価値観の大転換が起きて「自由な社会」が出現した、と説く。同書の第5章「リベラル化する世界」からメモする。

1960年代以降の「後期近代」の中核に位置する価値観は「自分の人生を自由に選択する」、すなわち「自己実現」です。
リベラルの理想は、「自己実現できる社会」こそが素晴らしいというものです。
リベラルな社会の負の側面は、自己実現と自己責任がコインの裏表であることと、自由が共同体を解体することです。
自由(自己実現)と自己責任が光と影の関係であることは、サルトルが『存在と無』ですでに指摘しています。
(人間は自由の刑を宣告されている。なぜなら、いったんこの世に放り込まれたら、人間は自分のやることなすことのいっさいに責任を負わされるからだ。[人生に]意味を与えるかどうかは、自分次第なのだ。)
こうした「自己実現=自己責任」の論理は1960年代になるとアメリカに移植され、「自己啓発」として花開くことになります。資本主義を肯定し、自由な社会で「自分らしく」生きることを称揚するこの新しい思想(ポジティブ心理学)では、人生は自らの責任において切り開くものであり、そこから得られる達成感こそが至高の価値とされたのです。

・・・いみじくもサルトルが引用されているのを見ても、「自分らしく生きる」とは、ライトな実存主義だと感じる。流行思想としての実存主義はとっくの昔に終わっているが、現実にはアメリカナイズされて?今では現代人の基本的な価値観になっているというわけだ。自分が何であるかは予め決められてはいない。自分が何であるかを決めるのは自分自身。これは、やはりサルトルのいう「実存は本質に先立つ」というやつである。結局、現代人は意識するとしないとに係わらず、(ライトな)実存主義者なのだ。

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