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2021年6月20日 (日)

「ポスト産業社会」の知

雑誌『現代思想』6月号の特集は「いまなぜポストモダンか」。檜垣立哉・大阪大学大学院教授の寄稿「リオタール『ポスト・モダンの条件』再読」から、以下にメモする。

この書物(『ポスト・モダンの条件』1979年)は、確かにポスト・インダストリー時代における大学制度論や教育論であり、さらに現代社会論でもあり、そこでは情報化社会やネオ・リベラル社会、あるいはグローバリゼーションという、広くいえば現在のわれわれにまで連続する「現状」が分析されている。

大学が「思弁的」機能を失い、大学における活動の中心が「学際的」なものへと移行していく事態、そこで「予算権」を奪われ「自治」の根拠を喪失した教授会、古典的エリート自由人(とりわけ人文学者の院生)が数に数えられない失業者になる時代、古典的教養の基盤をなくした場面では「教授」がただの機械や「記憶回路」と交換可能になってしまうという記述などは、ほぼそのまま40数年後の現在においても通用するとおもわれる。

ここで描かれていることは色あせているわけでないどころか、激化しているようにもおもわれる。
「おおきな物語」が崩れ、それを支えてきた教育システムと、経済システムや知の総体的近代システムが「不信」にさらされ、知識がもはや貨幣と同様に、ネットワークのなかでだけやりとりされる世界。「学際」や「イノベーション」がますますかけ声として重視され、基礎学問が軽視される現状。そうした教養的な後ろ盾を失った世界においては、誰もが「とるにたらぬもの」としての「自己」になるのだが、とはいえそうした「とるにたらない」自己は、「孤立」するという以上に、ネットワーク的なコミュニケーション回路の「結び目」としてくみこまれ、そこで自己を定位しなければならない。

・・・こうしたリオタールの記述から、現在と当時との明らかな連続性に驚かざるをえない、と檜垣先生は述べている。

確かに現代社会における学問というか知識の変容は著しい。とりわけ人文知の没落の度合いは甚だしくて、大学における関連部門の居場所も狭まる一方だ。むしろビジネス分野で「リベラル・アーツ」の復権が唱えられたりしているけど、こういう成り行きも喜んで良いのか悪いのか分からない。『ポスト・モダンの条件』発刊から既に40年以上が過ぎたが、ポスト産業社会における知の在り方を「ポスト・モダン」状況と呼ぶならば、この状況は基本的に今でも変わらないというか、インターネット環境の中で人間も知識もパーツ化していくような社会の有り様は、むしろ「ポスト・モダン」状況の全面展開と言えるだろう。

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