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2021年6月 6日 (日)

「廃藩置県」という静かな「革命」

「廃藩置県」と聞けば、教科書に載ってたな~程度の感じ。言葉の意味内容も、江戸から明治になって藩を止めて県にしました、という文字通りの理解(苦笑)。しかしその歴史的意義は非常に重要であると、最近思うようになった。『最新の日本史』(河合敦・著、青春新書インテリジェンス)からメモする。

廃藩置県は明治4年(1871)7月に断行されるが、それより2年も前から、自ら藩の廃止を求める動きが出ていた。多くの藩が江戸後期から借金がかさみ、藩士たちへの禄をまともに払える状態ではなかったのである。

明治4年(1871)7月初め、野村靖と島尾小弥太、長州出身の中堅官僚二人が山県有朋の屋敷で「廃藩を断行するしかない」という意見を山県に説きはじめた。山県はこれに賛同し、「政府をになう木戸孝允と西郷隆盛を説得して実現させよう」「木戸については、彼の信頼のあつい井上馨から話してもらおう」ということになった。7月6日、井上は木戸の屋敷を訪れ、廃藩の件を打診した。木戸は即座に承諾したのだった(じつは木戸は3年前から人々に廃藩を説いていた)。

さて、最大の問題は、薩摩藩の改革に力を入れ、薩摩士族から絶大な支持を得ている西郷隆盛が廃藩に同意するかどうかだった。井上馨が木戸に廃藩を解いた7月6日、山県有朋も西郷の屋敷を訪ね、おそるおそる廃藩置県を切り出したのである。すると西郷は、「それは宜しかろう」と言った。あまりに簡単に同意したことに仰天した山県は、廃藩が必要な理由を詳しく語り、最後に「血をみる騒ぎになるだろうが、その覚悟がおありか」と尋ねた。しかし西郷はまた、「私のほうは宜しい」と告げただけであったという。

かくして廃藩置県は、7月14日に断行された。この瞬間、地上から藩が消滅したのである。当然、主家をつぶされた士族たちは激怒し、少なからず反乱が起こるだろう。そう、このクーデターを計画した者たちは覚悟していた。
ところが、想定されていた激しい反発は、全くといって良いくらい起こらなかった。というのは、廃藩にあたって藩の借財を新政府が請け負い、士族の禄(給与)も政府が支払うと確約したことが大きい。

いずれにせよ、唯一の政治権力となった新政府は、以後、税制改革(地租改正)、軍制改革(徴兵令)、教育改革(学制)など全国一律の大きな改革をおこない、殖産興業、富国強兵に邁進することができるようになった。まさに廃藩置県は、日本が近代国家に転身するための大きなターニングポイントだったのである。

・・・結果的に静かな「革命」となった廃藩置県により、明治新政府の権力基盤は確立されたわけだから、その歴史的意義は戊辰戦争を上回るかもしれない、と思ったりする。当の新政府は拍子抜けしたかも知れないが、時代の流れは一度決まってしまえば、あえて逆らう者もいなくなる、ということか。しかしその6年後に、廃藩置県を英断した西郷隆盛その人が、反乱軍を率いて西南戦争を戦うことになるとは、誠に皮肉な巡り合わせというほかはない。

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