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2021年1月 5日 (火)

明智光秀は本能寺から離れて待機

織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変。1582年に起きた日本史上最大の謀反だが、映画やドラマでは光秀自身が本能寺襲撃を指揮する場面があったりする。しかしそれが史実というわけではなく、新たな史料研究によれば、光秀本隊は京都郊外で待機していたらしい。本日付日経新聞社会面記事からメモする。

金沢市に現存する古文書に、光秀は本能寺から8キロ離れた鳥羽(京都市南部)に控えていたとの家臣の証言があることが、富山市郷土博物館の萩原大輔主査学芸員(日本中世史)の調査で4日までに判明した。

萩原主査学芸員によると、古文書は金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵の「乙夜之書物」。加賀藩の兵学者関屋政春が、本能寺の変から87年後の江戸時代に記した。本能寺を襲った光秀軍を率いたとされる斎藤利三の三男で、自らも従軍した利宗が、加賀藩士のおいに語った証言として「光秀ハ鳥羽ニヒカエタリ」と記されていた。

古文書には光秀軍の兵士たちが京都市の桂川の河原で夜中に休憩を取っていた際に、本能寺へ向かうことを初めて告げられたことや、襲撃された信長が乱れ髪で白い帷子を着て光秀軍を迎え撃った様子の記述もあった。

萩原主査学芸員は「事件に参加し重要情報に触れる立場の人物の話で、後世の加筆の跡も見られないため、信頼性は高いと考えられる」と指摘。本能寺にいた信長側の家臣は数が少なく、光秀の本隊が出向く必要はなかったと分析した。研究をまとめた論文を近く発表する。

・・・これまでも、明智軍1万3000の全軍が京都の町中に展開できるはずもなく、本能寺を囲んだのは斎藤利三率いる兵力3000程度の攻撃実行部隊との合理的な推測はあった。ので、その推測を裏付ける可能性のある史料の記述が見いだされたことになる。

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