上弦の鬼「童磨」に関する雑感
大ヒット漫画『鬼滅の刃』、12月4日の単行本第23巻発売で全巻完結。当日は新聞5紙に登場キャラの全面広告が入り、まさに「鬼滅の日」の様相だった。
公開中のアニメ映画の興行収入も11月末で275億円となり、300億円超えも時間の問題に。しかし「ドラえもん」ならともかく、決して万人向けの内容とは思えない「鬼滅」を観るために、老若男女が映画館に押し寄せる事態を見聞きすると、自分のようなただのおじさんは、ただただ訝しい気持ちになる。しかし、その万人向けとは言えない「鬼滅」のストーリーやキャラについては、どういうところからこういうこと(大正時代の鬼とか鬼狩り剣士とか)が考え出せるのか、作者の頭の中は一体どうなっているのかと、ただただ驚き感心するほかない。
そんな奇想天外な「鬼滅」に登場するキャラの中でも、「上弦」と呼ばれる最強クラスの鬼のひとり、「童磨」の個性は際立っている。他の鬼の外見は当たり前のように化け物だが、童磨の見た目はほぼほぼ人間。しかもその言動は何ともチャラい鬼なのだ。人間界では新興宗教の教祖として振舞っているのも、風変りな有り様である。
他の鬼は、人間だった時の怨念や復讐心など超ネガティブな感情から鬼へと化したのに、童磨にはそういった過去は無いように見受けられる。童磨が20歳の時に鬼になることを決心した理由は作品には描かれていないが、それでも作中には童磨のこんなセリフがある。「俺は“万世極楽教”の教祖なんだ。信者の皆と幸せになるのが俺の務め。誰もが皆死ぬのを怖がるから。だから俺が喰べてあげてる。俺と共に生きていくんだ。永遠の時を。」
童磨は、鬼となった自分に食べられることによって信者は永遠に生きる、つまり救われることになる、という考え方を持っている。おそらくは、そんな歪んだ「使命感」から、童磨は鬼となる道を選んだと考えてよいのだろう。
教祖様である童磨の人間観は、ちょっと上から目線でもあるが、妙にリアルである。作中にこんなセリフがある。
「神も仏も存在しない。死んだら無になるだけ。何も感じなくなるだけ。心臓が止まり脳も止まり腐って土に還るだけ。生き物である以上須らくそうなる。(人間は)こんな単純なことも受け入れられないんだね。頭が悪いとつらいよね。」
「この世界には天国も地獄も存在しない。無いんだよそんなものは。人間による空想。作り話なんだよ。どうしてかわかる? 現実では真っ当に善良に生きてる人間でも理不尽な目に遭うし。悪人がのさばって面白おかしく生きていて甘い汁を啜っているからだよ。天罰はくだらない。だからせめて悪人は死後地獄に行くって。そうでも思わなきゃ精神の弱い人たちはやってられないでしょ? つくづく思う。人間って気の毒だよねえ。」
理不尽極まりない現実から目を背けて、しょうもない物語を作って自らを慰めるのは、弱者のルサンチマンの現われでしかない。鬼の多くはパワーやフィジカルの強さを追求するが、童磨は現実を直視できる精神の強さを体現する鬼であり、そこが他の鬼と一線を画する(というか童磨にとって肝心なのは「強い弱い」ではなく、頭の「良い悪い」らしい)ところだろう。また童磨は人間的な感情を実感していない。なるほど人間の感情とは様々な思い込みから発するものであり、それもまた現実を受け入れられない人間の愚かさの現われであるとすれば、現実を直視する強さを持つ童磨が、人間的感情と無縁であるのも道理なのである。
一方で童磨が、自分に立ち向かってくる鬼殺隊剣士・胡蝶しのぶの健闘を称えて放つ言葉には、やや意外感もある。「全部全部無駄だというのにやり抜く愚かさ! これが人間の儚さ人間の素晴らしさなんだよ!」
ここで童磨が肯定している人間の「愚かさ」とは、実は「強さ」と言い換えてもよい。しのぶの思い「できるできないじゃない。やらなきゃならないことがある。」は、できなければ全部無駄になるかもしれないという現実を超えて、人間には、やると決めたことをやる意思の強さがあることの表明である。感情という「愚かさ」から自由になれる人間などいないが、現実を超えようとする人間の意思の強さは尊いものだと言えるだろう。
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