このところの日経新聞文化面にコラム記事「三島由紀夫50年後の問い」が連載されている。本日の紙面では、三島の「美しい星」を映画化した映画監督の吉田大八が寄稿。吉田氏が語る、三島の作品が「現在にびしびし刺さってくる」理由を以下にメモする。
「それは三島が、人間の生の無意味から目をそらさず、無意味に懸けるからでしょう」。
「意味を見いだせないから委縮するのではなく、無意味だからこそ行動する。その一瞬に美が立ち上がる。現代社会では意味のあるなしがまず問題になり、効率優先で切って捨てようとするが、それを突き詰めていけば人間を疎外することを、三島は分かっていた。無意味に懸けるしかないという姿勢は、今、改めて迫ってくる」
・・・無意味に懸けるという姿勢は、いくばくかヒロイズムの混じったある種のロマン主義に見える。そして現代社会においては、いかなるスタイルのロマン主義も成立しないと思われる。それこそ何の得にもならないと言われて、ポイ捨てされてしまうだろうから。そんな風に我々は余りにも計算高いのであるが、その一方で実のところ、無意味というものに慣れ切ってしまってもいる。もはや無意味に懸けようという姿勢に美を感じることなどありそうもない。
同じ連載記事からもう一つ、昨日21日付紙面掲載の宮台真司・東京都立大学教授の寄稿から以下にメモする。
〈このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう〉
三島由紀夫は1970年11月25日に自裁する約4カ月前、「果たし得ていない約束」と題する文章を新聞に寄せた。社会学者で東京都立大学教授の宮台真司氏(61)は作家の死に強い衝撃を受け、その意味を問い続けてきた一人だ。「三島が捉えた日本の本質と彼が主張する天皇主義を理解する上でこの文章はとても重要」と考えている。
日本人にとって天皇の存在は必要不可欠であると三島が考えたのは、さもなくば日本社会が空虚なものになるという危機感があったからだ。
日和見的な日本人の「空っぽ」を埋める存在が天皇であるという三島の思想に宮台氏は強く共感するという。「状況が変わろうとも一貫できるかどうかを考えたとき、よりどころとなる不動点が必要になる」
宮台氏は「50年前に三島が予言した通りの状況が今の日本にある」とみる。「(三島は)私たちが生きるための不動点を見いだせるように扉を開いてくれた。日本が『空っぽ』な限り、三島の問いは有効であり続ける」
・・・宮台先生と同い年の自分にも、三島の死の記憶はハッキリと残っている。しかし50年も前の出来事を難なく思い出すことができるのだから、年を取るというのも不思議な感覚がするものだな。
かつて三島が嘆いたのは、日本が独自の精神を失い、物質的な価値観しか持たない国になることだったのだと思う。その予感は十分に当たったと言える。しかしその一方で、今や物質的に豊かな生活に満足している日本あるいは日本人が、自らの精神が「空っぽ」であることに怯えているようにも見えない。日本人は精神的「よりどころ」を不要とするほど強くなった・・・というよりは単に鈍感になった、ということなのかも知れない。いずれにせよ、そういう状況の中では、三島の問いの有効性は既に失われているように見える。