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2020年6月14日 (日)

「関ヶ原大乱」の歴史的意味

関ヶ原大乱、本当の勝者』(朝日新書)は、武将研究家たちの一般向け論文集。同書を企画した白峰旬・別府大学教授は、関ヶ原合戦の見直しをリードしており、学問的用語として「慶長庚子の大乱」を提唱。その一般的な名称を「関ヶ原大乱」とした。その意味するところは、豊臣秀吉の死以来の徳川家康VS反家康の権力闘争が招いた長期的全国的な争乱、その帰結として関ヶ原合戦を考える、というものである。同書の「序章」の中で白峰先生は、関ヶ原合戦をマクロで見た場合、桐野作人氏が指摘した「私戦」の復活と「惣無事」体制の無効という視点は、洞察に富む卓見である、と評価する。そこでまず桐野先生の『謎解き関ヶ原合戦』(アスキー新書)からメモしてみる。

この合戦の全過程は、あくまで豊臣政権の主導権を誰が、どの勢力が握るかをめぐる政治的・軍事的な闘争として展開された。「惣無事」と呼ばれて豊臣政権の重要政策だった私戦禁止令が政権分裂による東西対立に伴って効力を失い、それまで抑圧されていた諸大名間の「私戦」が公然と復活した。このことが諸大名の領土拡張欲を刺激し、しかも、むき出しの「私戦」ではなく、東西両軍がそれぞれ標榜する「公儀」への「奉公」の手段として正当化されたのである。

・・・この桐野先生の考え方を基本的に認めながら、白峰先生は「惣無事体制の崩壊と公然たる私戦の復活」という、より混沌状況的な見方を示している。ここでもう一つ、本郷和人先生が『戦国武将の明暗』(新潮新書)で書いていることも、以下にメモしよう。

現代の我々には、「日本は一つ」であることが当たり前。でも、当時の人々には、豊臣秀吉が成し遂げた天下統一=「日本は一つ」は希有な事態であり、むしろ「群雄割拠」の方が普通である。
全国を挙げての争乱状態になってしまったら、「一つの日本」はご破算。「群雄割拠」の状態に戻ってしまう。だったら、少しでも領土を広げよう。そこで上杉軍は徳川の本拠である江戸を衝かず、北の最上を攻めた。
(九州の戦乱の主役である)黒田如水も「群雄割拠」への復帰を念頭に、領地の拡大を目指していたと考えるのが適当だと思います。

・・・本郷先生はさらに、当時の日本は「畿内・中国・四国・中部」と「関東・東北・九州」の二つの地域に区別されていた、という。いわば「中心」地域と「周縁」地域だ。この見方も組み合わせると、「中心」では「公儀のため」として正当化された「私戦」が、「周縁」ではむき出しの「私戦」が、起きていたと見てもよいだろう。いずれにせよ、長い戦乱の時代を経て日本に出現した織豊の天下統一政権が、秀吉の死により結局は一時的なものに終わるだろうと見る大名がいた、と想定するのはリアルな感じがする。おそらく当時は、天下統一が保たれるのか瓦解するのか、どっちに転んでもおかしくない状況だったのだろう。それでも「関ヶ原大乱」の結果、豊臣から徳川へとトップが入れ替わりながら統一政権の基盤がより強固になる方向へと進んでいくのだから、やっぱり、時代の必然に近い流れというのはあるのかなと思ったりするのです。

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