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2020年4月19日 (日)

「縁起」という現実認識

宗教の現在地』(角川新書)は、池上彰と佐藤優の対談本。「縁起」について語っている部分からメモ。

池上:仏教においては「縁起」という言葉があります。「今、私たちはなぜここに生きて存在しているのだろうか」と問うとき、仏教はそれに対し「縁起」という言葉で答えます。「縁起というものがあるから、私たちは今ここに存在しているのだ。その縁起を大切にしなさい」と。「どうして私たちはこの世に生まれてくることができたのだろう」と考えたら、「それは縁起があってのことだから、その命をあっさり、たやすく消し去ることは決してできないだろう」と仏教では言うわけです。アッラーやヤーウェという神であろうと、同様のことがいえるはずです。アッラーやヤーウェの何らかの意志が働くことでこの世に生命が宿っているのであれば、その生命を私たち人間が勝手に処分することはできるのか、と考えなければいけませんから。そうした問題について考え、伝えていく力が、暴力に抗する宗教の力でもあるのではないでしょうか。

佐藤:今、池上さんがおっしゃった「縁起」は、原因と結果という意味の因果をよく見ていくことが実は希望の原理になる、という点がいっそう重要だろうと、私は思います。
宗教の強さはトートロジーにあるとも言えます。最も重要なことは同語反復になり、最後には「そうなっているから、そうなっているのだ」と言ってしまうわけです。でも、そこには人知を超えていることの力強さがあります。おそらく仏教でもキリスト教でもイスラム教でも、みな共通してそうなっているはずです。人間の限られた理性の範囲だけで、あるいは自己決定権、自己処理ができるという形で、生命を処理してはいけないのです。

・・・彼らは「神の思し召し」と言い、我々は「ご縁がある」と言う。表現が違うだけで、どちらも、現実に起きる出来事には人知を超えたところがある、そのことを「説明」しているのだと思う。

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