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2020年1月 4日 (土)

明智光秀が示す「理性の狡知」

雑誌「現代思想」増刊号の特集は「明智光秀」。って、何で「現代思想」で明智光秀なの? 往年の三浦雅士編集長時代も遠い昔だが、それにしても明智光秀の特集とは、目が点になる(古い)ばかりだ。以下に、現代思想っぽいところで、大澤真幸の論考(理性の狡知――本能寺の変における)からメモする。

(桃崎有一郞の説によれば)武士は、結局、「王臣子孫」と「伝統的現地豪族」の合成によって(摂関時代の平安期に)生まれた。「武士は、地方社会に中央の貴姓の血が振りかけられた結果発生した創発の産物として、地方で生まれ、中央と地方の双方の拠点を行き来しながら成長した」。

さて、そうだとすると、武士は、天皇(朝廷)を原点にして遠心力と求心力との両方が作用しており、両者が独特の均衡をとったときに生まれる、ということがわかる。地方豪族の王臣子孫への関係の中には、天皇への従属を支える(天皇への)求心力と、天皇から離れようとする遠心力が、同時に作用していることになる。

武家政権は、天皇制を排除したり、皇室関係者を全員殺害したりすることは、できなかった。武士が武士たりうるための一つの要件が、天皇への求心力の中に入ることだったからである。

こう見てきたとき、信長が例外的な武士であったことに気づく。信長は、天皇への求心力に従わず、それを全面的に相対化した最初にして最後の武士である。信長を継いだ秀吉も家康も、旧に復し、それまでの武士と同様に、天皇の求心力の中で活動することになる。

武士を成り立たせている最初の前提は、朝廷からの独立性の方にある。その意味では、遠心力の方が基礎である。この基底的な遠心力が強くなり、ついに求心力との間の均衡を維持できなくなったとき、信長が出現したのである。

しかし、列島の歴史の理性は、こうした逸脱を許容しなかった。まるでヘーゲルの歴史哲学を例証するかのように、理性の狡知が鮮やかに作用し、光秀は信長を葬り去ったのである。

・・・信長の目指していたのは、それまでの武士を超えた存在、あるいは朝廷を完全に排除した純然たる武家政権だったのか。永遠の謎である。

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