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2019年11月 8日 (金)

「関ヶ原」企画展 in 下関

文化の日の振替休日である11月4日、下関まで遠征して、「関ヶ原 天下分け目と毛利氏の戦い」展(下関市立歴史博物館)を見学した。

最近自分的にはなぜか「毛利シーズン」で、9月には毛利軍陣地である南宮山に上り、垂井・歴史民俗資料館のミニ展示「南宮山攻防戦!」も見学。さらに東海古城研究会の関ヶ原バスツアーで訪ねた関ケ原町歴史民俗資料館で、件の展覧会のポスターが目に付いて、「こりゃあ行かなきゃあ」となった次第。名古屋からだと、博多辺りまでは日帰り旅行の範囲内だし。

新幹線の新下関駅からバスに20分程乗り、「城下町長府」下車。町中を流れる小さな川沿いの道を10分程歩くと、博物館(の裏手)に着く。

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博物館内の割とこじんまりした企画展示室には画像、書状、屏風など多彩な史料が集められていた。当日は午後1時半から学芸員さんの解説が始まったが、お客さんは30人くらいと結構多くて、展示室内はちょっと混雑した感じに。学芸員さんの解説は画像と屏風中心。自分が聞きたかったのは書状の解説だけど、しかしそれは多人数向きじゃないなと納得。

書状で自分が興味を持ったのは、まず毛利の重臣である吉川広家が国元にあてた書状。日付は決戦三日前の9月12日。書状の中で広家は、味方(西軍)は大軍だが、まとまりがないことを伝えている。
関ヶ原合戦当時、加藤清正が黒田如水に送った書状も面白い。両者とも九州にいたわけだが、清正は、吉川広家と小早川秀秋に(離反の)噂があるが、本当にそうなるだろうと述べている。関ヶ原から遠く離れた九州にまで情報は伝わっていたし、書状の日付は9月16日で、既に前日の15日に清正の予想は現実になっていたわけだ。

関ヶ原合戦当時、毛利家は輝元と秀元(養子)、秀就(実子)を巡る後継者問題のゴタゴタを引きずっていたようだ。安国寺恵瓊と吉川広家の対立もあり、毛利軍は一枚岩ではなかった。決戦のかなり以前から東軍の黒田長政と連絡を取り合っていた広家はおそらく、徳川家康が戦場に到着した時は直ちに和睦する腹を決めていたのだと思う。

決戦の前日9月14日に東軍との和睦を成立させた広家は、これで毛利家は安泰とほくそ笑んだのではないか。しかし戦後処理の結果は、毛利領地の大幅削減。当てが外れた広家は、苦い思いを味わったことだろう。

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