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2019年9月 8日 (日)

南宮山(毛利秀元陣跡)に上る

先日、岐阜県垂井の南宮山に上った。関ヶ原合戦時、毛利秀元を大将とする毛利軍が陣を置いた山である。

垂井駅の南、タクシーで5分程度走ったところにある南宮大社の脇から、ハイキングコースとして整備された道を上っていく。スタート地点には安国寺恵瓊の陣地跡がある。自分が上り始めたのは朝9時半頃だったが、上から下りてくる人と何人かすれ違った。随分早い時間から上る人がいるのだな。

いちおう事前にネットで見たりして、頂上近くの毛利秀元陣跡まで1時間程度の道のりとは承知していたのだが、丸木の階段が延々と続く急な坂道を上るのは結構しんどかった。行けども行けども急な上りが続き、口からは「暑い」「ちくしょー」「もうだめだー」等々文句しか出てこない。

ゴールはまだかまだかと思いながらひたすら歩いていると、突如目の前にシカが現われた。山道の真ん中で行く手を遮るようにシカは横向きで立ち、顔はこちらに向けていた。自分も思わず足を止めて、普段は目にしない野生動物に見入るばかりだった。シカは特に慌てる様子もなく、道から外れて草木の中に分け入っていった。いやあ~びっくりした~というか、こんなことあるんだ。(クマじゃなくてよかった)

Photo_20190913211901 とにかくひいひいはあはあ言いながら、ついに展望台(毛利秀元陣跡)に到着。草むらに足を踏み入れるとバッタが何匹も飛び立った。いちおう事前の目処のとおり1時間余りのハイキングではあったが、ようやく辿り着いたというのが実感。

展望台の東屋に置かれたクリアケースには、ノートや資料コピーが入っていた。その資料コピーによると、毛利秀元の陣城は慶長5年(1600)9月7日より15日の決戦当日までの間に構築されたものである。陣跡は南宮山の東方、404mの峰に位置している。関ヶ原方面は見ることができない。逆に大垣方面は一望のもとに見渡せる。城郭の構造からも、大垣を正面として意識した築城であることがわかる。とのことで、コピー元は何の本か分からないが、執筆者と縄張図の作成者は「中井」とあり、おそらく中井均先生の手になるものと思われる。

Photo_20190913212501 慶長5年の9月14日時点では、大垣城とその西にある南宮山が、東軍と西軍の主戦場と想定されていたが、14日の夜に大垣城の西軍主力が関ヶ原に移動し、翌15日に戦いが起きた。南宮山の毛利軍は、重臣の吉川広家が東軍に内通したこともあり、結局その場を動くことなく終わった。

南宮山の毛利陣地は、大垣城の西軍主力と連携した陣地であることを納得して下山。所々でカエルやトカゲなどを目撃しながら、石のたくさん転がる急な坂道をゆっくりと下った。結局下りも1時間以上かかった。南宮山の上り下りはとにかくきつい。脚は痛くなったし、「疲れた」のほかに言うことなし。

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