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2019年3月26日 (火)

哲学は「転回」する

今週の『週刊東洋経済』(3/30号)の特集記事「世界のエリートはなぜ哲学を学ぶのか」から、現代哲学の議論の流れ(岡本裕一朗・玉川大学教授の解説)についてメモする。

近代哲学は17世紀後半から「認識論的転回」と呼ばれる議論が展開されてきた。それは「人間の人間たるゆえんは心や意識といった主観の中にある」とする考えだ。

しかし、19世紀末から20世紀に入る頃、哲学の議論は「言語論的転回」へと大きく舵を切った。
人間は物事の理解や世界の認識を、すべて言語を通して行っているという考えに基づく哲学。意識のあり方を規定しているのは言語であり「言語を分析することこそが人の真理や考え方に近づくことになる」という考え方だ。
20世紀後半に現れたジャック・デリダらのポストモダンも言語論的転回と結び付いたものだ。文化や歴史が異なれば、善悪や正義に関しても普遍的な真理はなく(異なる言語ゲームは共約不可能である)、多様な解釈があるだけになる。

21世紀に入る前後から、改めて他者同士の相互理解に取り組む哲学の潮流が現れた。互いの違いを認めつつ「共通の正しいことを誰しも相互理解できる領域があるのでは」と模索する、ポスト言語論的転回といえる3つの潮流だ。

1つは「自然主義的転回」だ。これは近年発達した脳科学や認知科学といった自然科学を積極的に取り入れながら「意識とは“脳”のメカニズムを分析することで解明できる」というアプローチだ。
2つ目が「メディア・技術論的転回」である。これは音声や映像、あるいは文字といったメディアによって「物事の伝わり方が変わる」ことに立脚した分析だ。
そして最後が「実在論的転回」。実際の物理的な対象に加え、それに関する思想や心、感情、空想まですべて存在している、と考える哲学的な分析だ。

・・・「真の相互理解」が成立可能な知的基盤を求める哲学者たちの模索は今も続いている、とのことだが、個人的には言語論的転回=ポストモダンの衝撃が強すぎて、もはや哲学にそんなに新たな展開は期待できないような気がしている。自分が思うのは、ヴィトゲンシュタインの言う「私の言語の限界が私の世界の限界」、「語り得ぬものについては沈黙」という認識論的かつ倫理的な命題を心得ておけばよい、ということだ。

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