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2019年2月23日 (土)

「文系」の危機

国公立大学を中心に、人文社会系の学部などで再編の動きが進んでいる。背景には「文系の学問は役に立たない」との見方があるようだ。危機に瀕する「文系」の在り方について、2月20日付日経新聞記事「文系学部存続の道」(社会学者・竹内洋氏へのインタビュー記事)から、以下にメモする。

「(文系が役に立たないというのは)本当にそうなのか。ぜんぜんはっきりしていない。だれに、どう役立っているのか、いないのか。客観的な根拠や証拠も示していない」
「理系では応用分野などですぐに役立つものが多いから、脚光を浴びやすい。文系の学問は、役に立たないのに批判ばかりしているといわれやすいところがあるんです」
「それに、あまりにも専門家のための学問になっている。悪い例ですが、タコつぼ的な研究が横行している」
「時代の変化、社会の要請を受けて、大学の教育は変わろうとしているが、学会の変化は鈍い」
「最近の研究者には、一般書など普通の人にも分かるものを書こうとする学者が増えている。学会が変わり、学問がより社会に開かれるきっかけになるのではと期待しています」

・・・思うに、理系でも技術工学系はともかく、理学系は「役に立たない」感が結構ある。一方、文系でも法学や経済学など実学系は、まあまあ必要性を認められているようではある。とはいえ、総じて文系の旗色が悪いのは否めない。その中でも特に人文系(文学、哲学、心理学、歴史学、社会学等々)は「要らない」感が強まっているようだ。このような大学教育における人文系の縮小、実学系重視の方向性は、当然ながら世の中のトレンド、経済効率一辺倒の動きを反映していると言ってよいのだろう。

ところがその一方では、ビジネス分野で「リベラル・アーツ」の復権が唱えられたりするものだから、どうも話はややこしい。例えば「仕事に効く世界史」「エリートが学ぶ美術史」という具合に提示されるとか。そんなこんなで、このところの文系を巡る評価は、妙にねじれた様相を呈している感がある。

どっちにしても、文系が仕事に(直接)役立つわけはないのは明らかなのだから、むしろ効率重視の世知辛い世の中でも、役に立たないものを学ぶという余裕や遊びは欲しいものだな、と思ったりする。

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2019年2月16日 (土)

歴史本の読者が求めるもの

本日付日経新聞コラム記事「日本史ひと模様」(執筆者は歴史学者の本郷和人)から以下にメモする。

いま中世史研究者の注目の的は、『応仁の乱』で大ヒットをとばされた呉座勇一さんに尽きる。47万部を売り上げたというその偉業に、みんなが瞠目した。
応仁の乱は、細川氏を中心とする70年来の勝ち組に、山名氏をリーダーとする負け組が再挑戦したもの。結果は再び細川グループの勝利。ぼくは以前からそう説明していたが見向きもされない。これに対して呉座さんは「この戦いはよく分からないものである」とされ、社会の支持を得た。
この戦いは何であるか。その意義は何か。そう問いかけること自体が賢しらな振る舞いで、否定されるべきなのだ。分からないものは分からないまま丁寧に描写する。その謙虚な姿勢こそが大切なのだ。

・・・と、本郷先生は言うのだが、自分は『応仁の乱』(中公新書2016年10月発行)成功の理由は、歴史好きの読者の関心を幅広いレベルで集めたことではないかと推測する。まず、応仁の乱の名前を知っていても、どういう戦いだったっけ?と思う素朴なレベルの人が、とりあえずこの本を手に取る。もう少し知っている人は、足利将軍家の後継争いを原因とする通説的なストーリーとは違う乱の姿に、興味を深めるだろう。さらに上級者には、分かりにくい乱の全体像を理解しようというチャレンジな気持ちを呼び起こすかもしれない。

付け加えると、乱の本質・意義についても、細川と山名二つの大名連合の激突であるとして、乱の結果、守護在京制は崩壊したと解説されている。この本では、細川と山名の勝ち負けの判定は分からないのかも知れないが、乱そのものが分からないものとして提示されているわけではない。

このほか歴史に関心の無い人の中にも、版元の広告に登場した呉座先生のルックスに注目して、本を買った人がいるかも知れない。(苦笑)

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2019年2月 8日 (金)

宗教と自由主義のせめぎ合い

日本人は、一神教の宗教観である法としての宗教、政治共同体の絆としての宗教という考え方を理解していないため、国際政治における宗教の影響をうまく捉えられていない――本日付日経新聞「経済教室」(宗教と国際政治、執筆者は池内 恵・東京大学教授)からメモ。

宗教信仰が個々人の内面に限定され、国家や政治への影響力を弱める世俗化と政教分離のプロセスこそが、近代化の主要で不可欠な要素という考え方は広く普及した。しかし現在、非西欧の諸地域が経済発展を成し遂げても、それが世俗化や政教分離に結びつかず、宗教が根強く人々の社会生活と政治を規定し続け、宗教原理主義の台頭を招く場合すらあることが目撃されている。

人間社会の規範は誰がどのように定めるのかという究極の問題に対し、人間を超越した絶対的な神が律法を啓示するのか、それとも個々の人間の理性が自由に思考・議論して規範を発見し合意するのか、すなわち「理性と啓示」の対立は、古代の中東と地中海世界で問題化され発展し、言語で理論化・体系化された。この対立の中でユダヤ教・キリスト教・イスラム教と連なる「セム的一神教」が生まれ、他方でギリシャ哲学を淵源とする科学が発展し、いずれも世界に広がった。

宗教と科学の対立は、中東と地中海世界の政治・社会・経済の発展の不可欠の要素と言ってよく、近代西欧文明もここに淵源を持つ。近代西欧の発展は、個々の人間が宗教規範の支配から脱し、自由に規範を選び作っていくという、人間主義と個人主義の優位に大きく振れた。

これは、近代国家の政治や経済の原則として広まったリベラリズムの根拠である。リベラリズムは、人間が自律した意志で自由に選択する能力を持つという人間観・世界観を前提にしており、宗教を時代遅れのものとみなす世俗主義を重要な要素とする。

米国でトランプ現象が、西欧諸国で移民への拒絶反応が起き、中東諸国で過激派組織「イスラム国」(IS)の台頭や宗派共同体間の紛争が生じるなど、様々な事象の根底には、リベラリズムへの信頼の低下あるいは明確な反発がある。これは宗教の政治への影響力の増大と軌を一にした、同根の現象と見るべきである。

・・・単なる世俗国家である日本は、一神教もリベラリズムも根本的には理解できないのかも知れない。とはいえ昨今の国際政治の様相は、日本人に一神教への理解を深めるよう求めているのは確かだろう。

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2019年2月 5日 (火)

「平成」と「中世」

平成の30年間とはどんな時代だったのか。『応仁の乱』の著者・呉座勇一先生から見れば、もちろん中世に似ている時代、である。本日付日経新聞のインタビュー記事「平成って」からメモ。

「日本の歴史を振り返ると、『平成』は『中世』と一番近いかもしれない」

武士が台頭し、鎌倉幕府を経て戦国時代へ向かう中世は、武士、朝廷、寺社勢力が入り乱れて覇権を争った。「先が見えず、つかみどころがない時代だった」という。
平成はバブル経済の絶頂期に幕開けし、その崩壊によるリストラの嵐、出口の見えない不況が続いた。自殺者は一時期3万人を超え、オウム真理教事件など無差別テロも起きた。「戦争こそなかったが、何が起きるかわからない混沌とした雰囲気があった」

中世で「応永の平和」と呼ばれる時期がある。戦乱が比較的少なく、社会が安定した。その応永(1394~1428年)は約35年間続き、明治以前では最も長い。「ほぼ平成と同じ期間だが、応永の平和は問題を先送りして、もめ事が起きないようにして保たれた。その矛盾が噴出したのが応仁の乱だとも言える」

・・・応永の時代は、足利義満(3代将軍)、義持(4代)による相対的安定期。その後、義教(6代)は暗殺され、義政(8代)は応仁の乱を招き、戦国の世が到来する。

日経新聞紙上では今年の初め、五木寛之も平成について同様の認識を示していた。「平成とは、問題をなし崩しに先送りしている中での相対的な安定期だったのではないか。(次の時代は)改めて激しい対立や激動が起こると思う」。ポスト平成は波乱の時代となる予感?

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2019年2月 3日 (日)

恵方巻きを食べることにした。

今日は節分。といえば最近は恵方巻きが当たり前のように販売されるのだが、昨今は大量廃棄問題がクローズアップされていることもあり、スーパーなどに山積みされている恵方巻きを見ると、いささか嘆かわしい気分にもなる。そもそも、縁起の良い方角を向いて海苔巻き寿司を黙って食べるという、おまじないみたいなことを、みんな本当にやってるのかね。

何にしても食品ロス問題は深刻である。自分のような古い人間は、何とバチ当たりなことかと思う。ニュース番組で見たデータによれば、恵方巻きの販売額257億円、その4%に当る10億円が廃棄されているという。本当に4%に止まるのか感覚的には疑わしいけど、10億円という金額そのものはやはり大きい。

自分はスルーしてきた恵方巻きだが、少しでも廃棄処分を減らすつもりで、夕方のスーパーで半額になった海鮮恵方巻きを買った。おまじないみたいな食べ方はアホらしいので、普通に切って食べて満足した。明日は立春だ。

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2019年2月 1日 (金)

年金受給75歳選択のまやかし

厚生労働省は、年金受給開始年齢の大幅延長及び増額を選択肢として提示すれば、年金受給を繰り下げる人が増えると思っているらしい。が・・・本日付日経新聞市況面コラム「大機小機」(75歳年金選択は改革にあらず)からメモする。

厚生労働省は年金の受給開始年齢の75歳への繰り下げの検討を始めた。これで毎月の年金額は65歳開始時に比べて2倍程度となるという。しかし、これは年金財政の改善には何ら結びつかない。年金の繰り下げ受給は、加入者が平均寿命までにもらう年金総額には影響しないからだ。

高齢者就業を促進するという効果も疑わしい。現行の65歳以降の繰り下げ受給の利用者は1%にすぎない。保険料を長年支払った年金を受け取らずに死ねば大損というのが人情であり、70歳以上ではなおさらだ。さらにこの対象の高齢者は保険料免除であり、年金財政にも貢献しない。

日本の年金の給付水準が国際的に見て低いというが、給付期間の長さは極端に長い。厚生年金(男性)の支給は、2025年に65歳に引き上げられるが、平均寿命の80歳まで15年間も年金を受け取れる。他の先進国では、日本よりも平均寿命が短く、支給開始年齢が67~68歳のため、平均10年間である。
他の先進国並みの受給期間とするため、70歳支給の検討を速やかに始めるべきだ。

70歳まで年金がもらえなければ大変というが、諸外国でも法定の年金支給年齢まで働き続ける人は少ない。おのおのの事情に応じて、早期に減額された年金を受け取り、引退生活に入るのが普通である。年金はあくまでも「長生きのリスク」に対する保険である。収支の均衡を基準とした法定の支給開始年齢の下で、各自が自分の引退時期を決められる、弾力的な仕組みとするべきである。

・・・年金財政を持続可能にするためには、年金支給年齢の引き上げは必至。仮に年金支給開始を70歳と定めれば、70歳まで働き続ける人と、早めにリタイアして減額された年金の繰り上げ受給を望む人と、二極化すると思われる。とにかく、リタイア年齢は自分で決める時代に入っている、ということだ。

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