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2019年1月15日 (火)

福島正則の転封

1月12日付日経新聞コラム記事「日本史ひと模様」(執筆者は歴史学者の本郷和人)に、豊臣秀吉子飼いの武将・福島正則が江戸時代の初め、将軍・徳川秀忠に事実上改易された事件の顛末について書かれているので、以下にメモする。

元和5年(1619年)、安芸・備後の太守・福島家は台風で破壊された広島城を修繕したが、これが居城の作事は必ず公儀へ届け出よ、とする『武家諸法度』違反に問われた。藩主の正則は2ヵ月前に言上したつもりだったが、幕府はそれを公的な届けと認めず、正式な許可を出していなかった。

福島側の言い分としては、城の防御力を高める工事ではない。雨漏りする部分を修繕しただけ。江戸にいた正則が自ら謝罪し、修繕部分を破却するという条件で騒ぎは一旦は収まったのだが、幕府が要求した「本丸以外の修繕分も破却」という条件に対し、正則は本丸のみ破却をおこない、二の丸・三の丸の修繕分は放置した。

これを知った将軍・秀忠は「破却が不十分である」と厳しく咎め立てた。結果、安芸・備後50万石は没収、一時話が出ていた弘前ではなく、信濃・川中島の高井郡など4万5千石(高井野藩)に減転封の命が出された。

こうした経緯を見ると、幕府は豊臣子飼いである正則の左遷を、虎視眈々と狙っていたと見るべきだろう。
移封後、正則は嫡男・忠勝に家督を譲ったが、その忠勝は翌年、早世した。寛永元年(1624年)、正則は高井野(長野県高山村)で死去した。享年は64。すっかりやる気を無くしていたかと思えばさにあらず、領主であった5年間に、領内の総検地、用水の設置と新田開発、治水工事などの功績を残している。

・・・豊臣恩顧の大名ながら、関ヶ原の戦いでは徳川家康側に付いて奮戦した福島正則。大大名に出世し、豊臣氏滅亡も見届けた後の急転落だったが、めげることなく晩年も治世に励んでいたとは、男気を見せたというところか。戦国武将好きには、加藤清正や石田三成の方が人気があるようだが、福島正則ももっと関心を持たれても良い人物だと思う。

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