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2018年12月23日 (日)

『徳川家康の江戸プロジェクト』

直木賞作家、門井慶喜の小説『家康、江戸を建てる』がNHKでドラマ化、新年正月に放映される。門井氏の講演を元に纏められた『徳川家康の江戸プロジェクト』(祥伝社新書)を読んで、学んだこと考えたことなどを以下に記す。

そもそも徳川家康はなぜ江戸を関東の首都に定めたのか、そこからもう謎なのだ。豊臣秀吉の小田原征伐による北条氏滅亡の後、関東を新たな領地として与えられた家康は、小田原ではなく江戸を首都に選び、大規模な開発に取り組んだのである。小説家である著者は、家康の心中には「まっさらな新天地に理想の徳川ランドを作る」という思いがあったのではないか、と考える。この推察が正しいとしたら、当時50歳近い家康の、都市建設を一から始めようと決意したベンチャー精神そして旺盛なエネルギーには頭が下がる思いしかない。

さて、その江戸の都市開発において、家康がまず着手したのは大規模土木事業である。当時の江戸は、関東平野を流れる大小の河川が流れ込む湿地帯だったが、これを埋め立てる造成工事を行い、住居を建てられる土地を拡大した。江戸には入り江があり(現在の日比谷近辺)、この海も埋め立てて陸地を広げた。さらに当時、北から南に流れてきていた利根川の向きを、段階的に東に変える大工事が長期にわたり進められた。また、当時の物流の中心は水運であったことから、江戸では早い時期に運河を作り物流のルートを整備。さらに江戸の住民が増加すると、飲み水不足に対応するため、神田上水と玉川上水の二つの上水道を建設。このような土木事業の継続が、江戸の都市基盤を堅固なものとした。そして江戸城には巨大な天守が出現する。この天守は、新しい時代の到来を示す象徴として建てられたと著者は見る。こうして家光の頃までには、江戸は城下町としての姿を整えたのである。

江戸幕府が始まり50年が過ぎた1657年、明暦の大火が起きる。江戸城の天守も焼失したが、再建は断念された。この理由については費用対効果の面に加えて、著者は、天守は雷が落ちやすく火事の原因になる可能性があること、つまり防災の観点から天守は不要とされたと見ている。既に戦国の世は過去のものになっており、天守再建の放棄は、人々の意識が戦争から防災へシフトしたこと、すなわち平和な時代の定着を示しているという。

以後も江戸の町は拡大を続け、1700年前後には人口100万人という世界有数の大都市へと成長した。家康の「江戸プロジェクト」は、開始から100年後には大きな実を結んだのである。ここまで江戸が大発展するとは、さすがの家康も想像していなかっただろう。

かつて東洋史学者の内藤湖南は、「応仁の乱以後が、今につながる日本の歴史である」と喝破した。ということは、戦乱の中から最初に国の秩序を打ち立てた信長・秀吉・家康が、今につながる日本のファウンダーなのであり、歴史的に見れば400年後の今も、日本は三英傑の事業の影響下にあると言ってよいのだろう。特に三大都市について見れば、徳川が東京(江戸)と名古屋、豊臣が大阪を作り上げたわけだから、なおさらその感を深くする。

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