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2018年12月24日 (月)

メリークリスマスなのです。

先日、東京に出かけた際、日比谷公園で開催中の東京クリスマスマーケットに立ち寄りした。写真は「クリスマスピラミッド」と称する構築物。何というか、からくり人形タワーという感じ。

Photo_3

昔から個人的には、クリスマスとかキリスト教国でもないのにな、とネガティブに見ていたが、これはそもそも冬至のお祭りなのだと思うことにより、最近ようやくまあまあポジティブな気持ちになってきた。(苦笑)

「クリスマスマーケット」イベントについても自分は、日本が少しだけ「ドイツ化」する分には構わないかな、と思ったりしている。

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2018年12月23日 (日)

『徳川家康の江戸プロジェクト』

直木賞作家、門井慶喜の小説『家康、江戸を建てる』がNHKでドラマ化、新年正月に放映される。門井氏の講演を元に纏められた『徳川家康の江戸プロジェクト』(祥伝社新書)を読んで、学んだこと考えたことなどを以下に記す。

そもそも徳川家康はなぜ江戸を関東の首都に定めたのか、そこからもう謎なのだ。豊臣秀吉の小田原征伐による北条氏滅亡の後、関東を新たな領地として与えられた家康は、小田原ではなく江戸を首都に選び、大規模な開発に取り組んだのである。小説家である著者は、家康の心中には「まっさらな新天地に理想の徳川ランドを作る」という思いがあったのではないか、と考える。この推察が正しいとしたら、当時50歳近い家康の、都市建設を一から始めようと決意したベンチャー精神そして旺盛なエネルギーには頭が下がる思いしかない。

さて、その江戸の都市開発において、家康がまず着手したのは大規模土木事業である。当時の江戸は、関東平野を流れる大小の河川が流れ込む湿地帯だったが、これを埋め立てる造成工事を行い、住居を建てられる土地を拡大した。江戸には入り江があり(現在の日比谷近辺)、この海も埋め立てて陸地を広げた。さらに当時、北から南に流れてきていた利根川の向きを、段階的に東に変える大工事が長期にわたり進められた。また、当時の物流の中心は水運であったことから、江戸では早い時期に運河を作り物流のルートを整備。さらに江戸の住民が増加すると、飲み水不足に対応するため、神田上水と玉川上水の二つの上水道を建設。このような土木事業の継続が、江戸の都市基盤を堅固なものとした。そして江戸城には巨大な天守が出現する。この天守は、新しい時代の到来を示す象徴として建てられたと著者は見る。こうして家光の頃までには、江戸は城下町としての姿を整えたのである。

江戸幕府が始まり50年が過ぎた1657年、明暦の大火が起きる。江戸城の天守も焼失したが、再建は断念された。この理由については費用対効果の面に加えて、著者は、天守は雷が落ちやすく火事の原因になる可能性があること、つまり防災の観点から天守は不要とされたと見ている。既に戦国の世は過去のものになっており、天守再建の放棄は、人々の意識が戦争から防災へシフトしたこと、すなわち平和な時代の定着を示しているという。

以後も江戸の町は拡大を続け、1700年前後には人口100万人という世界有数の大都市へと成長した。家康の「江戸プロジェクト」は、開始から100年後には大きな実を結んだのである。ここまで江戸が大発展するとは、さすがの家康も想像していなかっただろう。

かつて東洋史学者の内藤湖南は、「応仁の乱以後が、今につながる日本の歴史である」と喝破した。ということは、戦乱の中から最初に国の秩序を打ち立てた信長・秀吉・家康が、今につながる日本のファウンダーなのであり、歴史的に見れば400年後の今も、日本は三英傑の事業の影響下にあると言ってよいのだろう。特に三大都市について見れば、徳川が東京(江戸)と名古屋、豊臣が大阪を作り上げたわけだから、なおさらその感を深くする。

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2018年12月15日 (土)

「安土大阪」時代

たしかに安土桃山時代という呼び名は、自分も子供の頃から何かヘンだなと感じていた・・・以下に『大阪的』(井上章一・著、幻冬舎新書)からメモする。(なお井上先生は、近世以前は「大坂」表記が通例だが、近現代の「大阪」で表記して構わないとしている)

「安土桃山」時代という言い方がある。織田信長が足利義昭とともに入京してから、豊臣秀吉が亡くなるまでの時代をさす。
基本的には、信長が天下をめざし、秀吉が天下人となった時代を意味している。「安土桃山」の「安土」は、信長のきずいた安土城に由来するだろう。「桃山」は、秀吉の居城となった伏見城が桃山にあったことから、そう名ざされた。

信長の時代を「安土」時代とよぶことに、私も反対はしない。しかし、「桃山」時代には、どうしてもひっかかる。

秀吉が自らの拠点として、その造営に心血をそそいだのは大阪城であった。のちには天下の台所と言われる大阪という街を、ほとんど一からこしらえた。
信長の足跡を「安土」でしめすのなら、秀吉の業績は「大阪」であらわすべきだろう。信長秀吉時代、いわゆる織豊時代の呼び名には、「安土大阪」時代こそがふさわしい。かつて、歴史家の脇田修はそう喝破したが、私もそのとおりだと思う。

だが、歴史教育のあり方を東京で左右する人びとは、「大阪」時代をみとめない。

・・・以前の著作で井上先生は、新しい時代が関東から始まる(鎌倉時代、江戸時代)見方を批判していた。平家から、織田豊臣から、新しい時代が始まったと見るのが妥当ではないかと。「東大史観」対「京大史観」という言葉も使っていた覚えがある。『大阪的』では、古墳時代を「河内時代」と呼んでもいいのでは、とも述べている。歴史学においては、関西や大阪が不当な扱いを受けているという主張には、頷けるものがある。大体、日本という国は西から発展し、西が中心であった時代が長いわけだしね。

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