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2018年10月24日 (水)

桃配山と笹尾山

先週末、垂井から関ヶ原まで歩くJR東海さわやかウォーキングに参加。コースのポイントとなっていた徳川家康陣(桃配山)と、石田三成陣(笹尾山)を久々に訪ねた。(写真上は桃配山、下が笹尾山。撮影日2018年10月20日)Photo

Photo_2 最近は関ヶ原の戦いを巡る新説があれこれ取り沙汰されている中で、それぞれの陣地に立つと、関ヶ原の決戦当日、おそらくここには家康も三成もいなかったんだろうな~と妙な感慨を覚えてしまう。

実際にはどこにいたかというと、高橋陽介氏の説に倣えば、家康は決戦の前日に到着した大垣の北、美濃赤坂の岡山という場所に決戦当日も留まっていたであろうし、三成は松尾山の麓にある藤下地区の自害峰に布陣していた、ということになる。

高橋氏や白峰旬氏の説を参照しながら、自分なりに関ヶ原の戦いの史実を思い描いてみると・・・慶長5年9月14日昼、西軍(宇喜多・石田・島津)の籠る大垣城の北、美濃赤坂の東軍陣地に徳川家康軍が到着。大垣城の西、南宮山にいた毛利勢は、家康が到来するやいなや、吉川広家主導で東軍と和睦(事実上の降伏)した。家康軍は引き続き赤坂に留まり、南宮山の毛利に睨みを利かす。やはり同日昼、関ヶ原を見下ろす松尾山に小早川秀秋軍が布陣。小早川の東軍合流を恐れた西軍は、毛利の降伏を知らないまま、夜間に大垣城を出て移動開始。西軍を追って、東軍の先手勢(福島、黒田)も関ヶ原に向かう。翌15日未明に西軍は松尾山の麓、山中・藤下地区に着陣、小早川の動きを牽制しようとした。しかし早朝、関ヶ原で警戒行動中の大谷吉継隊を、福島、黒田の軍勢が襲う。同時に小早川軍も松尾山を駆け下り戦闘に参加、大谷隊は全滅。東軍はさらに、山中・藤下の西軍目がけて猛攻を加え、これを崩壊させた。

・・・という感じでしょうか。BS番組で乃至政彦氏が「物語と史実の両立」を語っていたように、これからの関ヶ原は史実を追求しつつ物語も排除しない姿勢で楽しむのが良いかな。

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