« 苗木城に行く | トップページ | 映画「ゲッベルスと私」 »

2018年6月25日 (月)

『戦国日本と大航海時代』

戦国時代と大航海時代』(平川 新・著、中公新書)を読んで、学んだり考えたりしたことを以下に記す。


 豊臣秀吉の朝鮮出兵(159298)というと、天下人の晩年の誇大妄想的暴挙というような評価から、余り芳しい事績とは捉えられていないと思われる。しかしこの本によれば、15万人という兵力を朝鮮半島に送り込んだ大戦争以後、天下人秀吉そしてその後継者である徳川家康は、ヨーロッパ人から「エンペラー」つまり「皇帝」と見なされるようになり、日本が軍事大国であると認識したヨーロッパ人は、あわよくば日本を植民地化しようとしていた野望を断念したというのである。秀吉の朝鮮攻撃は明国征服の第一歩として実行されたものだが、最終的には遠く天竺(インド)や南蛮(東南アジア)の征服も視野に入れており、そもそもその征服構想自体がスペインに対抗するため打ち出されたものだという。


 なぜ秀吉がスペインへの対抗心を燃やしたのかといえば、スペインやポルトガルの世界征服の動きを認めたからだ。その先兵は宣教師たちであると見て、まず1587年にバテレン追放令を発布。同時期に朝鮮と琉球の服属に向けた交渉開始にも動き出す。1590年の小田原攻めで北条氏を滅亡させて全国平定をほぼ達成した翌年、秀吉は、スペイン支配下にあるマニラのフィリピン総督に服属要求の書簡を出す。朝鮮攻撃開始後の92年、93年にも秀吉は書簡を出しており、後者には「カステリヤの王」(スペイン王)に対して「予が言を軽視すべからず」という強い警告の文言が記されている。秀吉の威嚇を受けたフィリピンは、日本のマニラ攻撃の可能性に恐怖感を募らせた。そして実際に朝鮮が攻撃されたことにより、スペイン勢力は日本が軍事大国であることを認めて、武力による日本征服も諦めたという。


 朝鮮及び明国との断交状態、スペインに対する強硬姿勢という秀吉政権の残した外交課題を引き継いだ徳川家康は当初、アジア・ヨーロッパの国々との平和的な全方位外交を目指して貿易の振興を基本方針とした。その一方で、キリスト教の布教に対する態度決定を迫られることになり、秀吉と同様、スペインの脅威を感じていた家康は徐々に布教禁止の方向へと舵を切る。最終的に幕府は禁教令を出す(1616)のだが、その間際に企てられたのが、伊達政宗の遣欧使節(16131620)である。政宗はメキシコとの通商を認めてもらうため、支倉常長の使節をスペイン国王とローマ教皇の元に派遣した。だが結局、貿易交渉に失敗。同時に政宗はキリスト教禁制を領内に布告。1624年、幕府はスペインとの断交に踏み切った。従来から戦国大名は独自に外国との貿易を行っていたが、政宗の試みはその最後の事例となり、以後は徳川幕府が外交・貿易を一元的管理する体制となったのである。


 群雄割拠の戦国時代を経て天下統一された日本は世界史的に見ても軍事強国だったこと、我らが秀吉と家康が世界史的スケールの英雄であることを教えてくれる一冊。

|

« 苗木城に行く | トップページ | 映画「ゲッベルスと私」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/174032/73748335

この記事へのトラックバック一覧です: 『戦国日本と大航海時代』:

« 苗木城に行く | トップページ | 映画「ゲッベルスと私」 »