謎の武将「亀井茲矩」
最近、関ヶ原合戦の新説に関わる西軍布陣図の中に、「亀井茲矩」(かめいこれのり)という名前を見た時、まず、これ誰?って感じがした。しかも「途中で家康方に寝返る」との説明が付けられていて、そんな人いたのかとますます謎に思っていたところに、雑誌『歴史群像』4月号に記事(亀井琉球守茲矩)が掲載されたので、一部をメモする。
通説では亀井勢は池田輝政勢らとともに南宮山の毛利勢に備えたとされるが、実際に従軍した島津家臣・山田有栄の覚書によれば、開戦直前、島津豊久勢に亀井勢が鉄炮衆の加勢を求めてきたとあり、これを事実とすれば、亀井勢は石田方として関ヶ原の戦場にいたことになる。また、山田は「のちに聞いたところでは、亀井茲矩には野心があったらしい」とも証言しており、事前に家康方に内通したうえで寝返り行為を行ったということになろうか。
戦後の論功行賞で茲矩は高草郡2万4200石を加増され、所領を一気に3倍近くの3万8000石に拡大させている。前述の「寝返り」も含め、それなりの功績を挙げたとみるのが自然だが、合戦前後の茲矩の動きを伺わせる良質な史料はなく、現状では江戸期編纂の二次史料によるしかない。
・・・やっぱり史料が少ない戦国武将のようだな。とはいえ、できれば亀井茲矩の寝返りが西軍敗北にどれくらい影響したのか知りたいものだな。
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