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2018年3月31日 (土)

「最後の晩餐」何にする?

本日付日経新聞プラス1(土曜版)記事「食の履歴書」から、タレントの関根勤が希望する「最後の晩餐」をメモする。
 
アジの開きか塩ジャケにのりやみそ汁がついた、旅館で出てくるような朝食がいいかな。実家でよく出てきたわけではないけれど、幼かったころを思い出させてくれる、日本文化の原点のような気がする。青い静かな海が一望できる場所で食べてみたいですね。

・・・「最後の晩餐」は、有名人インタビュー質問のネタの一つという感じで、いろんな人のいろんな意見があるんだろうけど、自分と同じ意見の有名人を見たのは初めてかも知れない。
思うに「最後の晩餐」は、特別なものよりは当たり前のものの方がいい。となれば、やっぱりニッポンの朝ごはんでしょう。焼き魚に海苔、そして卵かけごはんだな。味噌汁は豆腐かな。とにかく、関根さんに同感です。

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2018年3月30日 (金)

『陰謀の日本中世史』

本能寺の変には黒幕がいた、関ヶ原合戦は徳川家康の策略だった――など、日本中世史において語られる陰謀論の数々。ベストセラー『応仁の乱』の著者が、最新の研究を援用しつつ、これらの陰謀論を批判的に検討し、その基本的パターンを明らかにする・・・『陰謀の日本中世史』(呉座勇一・著、角川新書)を読んで、学んだり考えたりのまとめ。

 

この本では源頼朝、執権北条家、足利尊氏、日野富子など、日本史上の名だたる人物に係わる陰謀論を取り上げて批判的検討を行っている。なかでも「本能寺の変・黒幕説」は、陰謀論の「真打ち」として扱われているようである。ただ本書でも言及されているように、鈴木眞哉氏と藤本正行氏の共著『信長は謀略で殺されたのか』(2006)の批判以降、黒幕説は下火になったという印象がある。現在では本能寺の変の原因として、織田信長の四国政策転換との関連を強調する説が有力になってきていることもあり、今ここで改めて、新たに登場した陰謀論も含めて本能寺の変・黒幕説を批判することに、正直それほど意義があるようには見えない。おそらくこの本の主眼は、個々の陰謀論を論破すること自体にあるのではなく、論破の過程を通して歴史の正しい見方を提示することにあるのだと思う。著者も「あとがき」でこう述べている。「本書を通じて歴史学の思考法について理解を深めていただければ、著者として望外の幸せである」。

 

歴史を正しく見るということは、もちろん歴史を分かりやすく見るということと同じではない。しかし人間はついつい分かりやすさを求めてしまう。そこに、陰謀論が人々の心を捉える素地がある。陰謀論は因果関係が単純明快だから分かりやすい。そしてなぜ因果関係が単純明快なのかといえば、陰謀論は「結果」から組み立てられるからである。我々は歴史の結果を知っている。源頼朝は弟の義経を滅ぼし、足利尊氏は鎌倉幕府を倒し、徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利した。すべては最終ゴールを目指す勝利者によりコントロールされていた、という前提から、陰謀論は歴史の出来事を見てしまう。その結果論的なストーリーは、確かに分かりやすいとは言える。しかし繰り返しになるが、分かりやすい=正しいではない。

 

歴史を正しく理解しようとする時、余りにも分かりやすい話は疑ってかからなければならない。歴史の結果を知っている我々自身の立場を離れて、当時の史料に虚心坦懐に向き合い、当時の人々の置かれた状況を想像する。いつの時代であろうと、誰もが先の見えない中で複雑な現実に向き合って生きていたことを念頭に置いて考える。歴史の出来事を理解する時には、そんなニュートラルでバイアスのかからない態度が肝心なんだろうと思う。

 

この本の「終章」では、陰謀論と疑似科学の類似性が指摘されている。疑似科学は、科学的な装いを備えつつ、実際には科学的根拠を有さない理論を指す。歴史学は史料の批判的検討を根拠にした科学であり、史料に基づかない、あるいは史料の恣意的解釈に基づく陰謀論は、疑似科学として退けられることになる。この本は陰謀論を扱いながら、歴史の正しい見方というか、歴史学的な考え方とはどういうものか、改めて教えてくれる本である。

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2018年3月26日 (月)

『壬申の乱と関ヶ原の戦い』

天下分け目の戦いが行われた関ヶ原。実はこの地は、古代の「壬申の乱」、室町時代の「青野ヶ原の戦い」においても、戦略上重要なエリアとして意識されていた。3つの戦いにおいて、なぜ関ヶ原エリアが重要な舞台となったのか・・・『壬申の乱と関ヶ原の戦い』(本郷和人・著、祥伝社新書)を読んで、学んだり考えたりのまとめ。
 
古代、関所は三ヵ所あった。越前国の愛発関(あらちのせき、現・福井県敦賀市付近に推定)、伊勢国の鈴鹿関(すずかのせき、現・三重県亀山市付近に推定)、美濃国の不破関(ふわのせき、現・岐阜県不破郡関ケ原町)である。それぞれ北陸道、東海道、中山道を東から進んでくる敵を防ぐための関所である。京の都から見れば、敵は東から攻め上ってくるのであり、三つの関の東側を「関東」と呼んでいた。つまり関所は、日本の東と西を分ける場所であった。日本の歴史においては長い間、畿内を含む西国が日本の中央であり、貧しい辺境の地に住む東国の人たちが、西国の豊かさを奪い取ろうと都を目指すという構図が、8世紀から16世紀までの日本史の基本的なトレンドである、と著者は見る。そして関所のある地は、東から見れば畿内への入り口、西から見れば敵を食い止める防衛ラインであり、攻める東国と守る西国が衝突する場所、まさに攻防の重要ポイントとなるのである。
 
まず壬申の乱。672年に起きた古代史上最大の内戦である。この時、天智天皇の弟・大海人皇子は、現在の関ヶ原当たりに自軍の本拠地を置いた。そこで兵を集めて近江、大和で天智の息子・大友皇子と戦い勝利。天武天皇として即位すると、不破、鈴鹿、愛発の三ヵ所に関所を置いた。天武天皇は関ヶ原という場所の重要性を最初に認めた人物なのである。
 
次の青野ヶ原の戦いは1338年に、北畠顕家が率いる軍勢と室町幕府軍との間で行われた合戦。顕家は『神皇正統記』で知られる北畠親房の嫡男。1336年に足利尊氏は北朝の天皇を担いで幕府を開いたが、後醍醐天皇は吉野で南朝を旗揚げして抵抗。後醍醐天皇から京都奪還を命じられた北畠顕家は、奥州から軍勢を率いて京を目指した。幕府軍は美濃・青野ヶ原を防衛ラインとして、北畠軍を迎え撃つ。この防衛ラインを突破できずに、北畠軍は伊勢に転進。これにより北朝と将軍権力は、国の中央を占める権威・権力を確立したのである。
 
そして1600年に起きた関ヶ原の戦い。この戦いに勝った徳川家康は1603年江戸に幕府を開き、日本の中心が京都・大坂から江戸に移るという大変化がもたらされた。これにより、東の反乱分子が西の中央に戦いを挑むという構図は終焉を迎えたのである。
 
日本の歴史において長い間、西と東の発展の速度には差があった。西と東に社会的文化的格差がある時代において、「関ヶ原」は東西を分けるラインとして機能し、そこで起こる戦いの結果は、中央権力の転換または維持に大きな影響を及ぼした。関ヶ原の戦いと江戸幕府の開始以降、東が西に追いつく格好で、ようやく東と西はひとつの「日本」となるまでに発展を遂げたと言えるのだろう。この「ひとつの日本」の成立は、幕末から日本が急速に近代的国民国家へと変貌を遂げる際にも、相当なアドバンテージとなったのではないだろうか。

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2018年3月25日 (日)

自害峰(石田三成陣説)

最近のBS番組「諸説あり!」で、関ヶ原合戦の一次史料による見直しをリードする高橋陽介氏が、石田三成陣は笹尾山ではなく自害峰にあったとの新説を披露していた。自害峰とは、関ヶ原の西、不破の関跡に近い場所にある小山である。番組の紹介によれば、高橋氏はまず一次史料の中から「石田三成は自害が岡に陣を置いた」との記述を発見。自害が岡は現在の自害峰に当たると推定し、現地を調査して土塁、削平、切岸など陣を造営した跡があることを認識したという。この辺はさすが「東海古城研究会」に属する歴史研究者という感じである。とにかく石田三成陣・自害峰説は非常に興味深いものだったので、気候が良くなったら行ってみようと思っていた。

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・・・ということで昨日行ってきました自害峰。最近の関ヶ原新説では、西軍は自害峰のある藤下(とうげ)及び隣接する山中(やまなか)地区に布陣したと考えられている。関ヶ原駅から西にてくてく歩いて30分、山中に到達する。現在は旧中山道沿いに住宅が並ぶ地区(上の写真)。山間の場所なので、大軍を展開するのは物理的に難しい印象。必然的に西軍は密集した感じで布陣したと思われる。BS番組では、やはり関ヶ原通説の見直しを進める白峰旬・別府大学教授が、山中について「地形的に守りやすいところ」とコメントしていた。

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自害峰は山中の東に隣接する。上の写真は山中方面(西)から見た自害峰の全景。その名の由来は、壬申の乱の敗者、大友皇子の首が埋められた場所との言い伝えによる。自害峰の西側にあるその場所は「自害峰の三本杉」(下の写真)として、町の天然記念物になっており、関ヶ原町のサイト(観光情報)にも載っている。なお件の一次史料によれば、自害が岡(自害峰)は不吉な場所とされていたが、三成は気にしなかったそうだ。

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自害峰の北側から山に入る道を見つけて上ってみる。するとBS番組で紹介されていた削平(人工的な平地)、切岸(人工的な崖)と覚しき地形が現われた(下の写真)。と言っても素人には、これが陣地の跡なのかどうかよく分からない(苦笑)。写真に撮っても、ただの林にしか見えない。(また苦笑)

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ところで、BS番組では切岸は南側に作られて、自害峰の南にある松尾山に陣取った小早川秀秋の軍勢に備えたものだとされていた。でも実際に見てみると、切岸は南ではなく東側だったので何か違うじゃんと思った。ちなみに現在、自害峰の南側は新幹線が走っている。(下の写真。右手は自害峰の森)

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まあそんなことでちょっと疑問な点もあったが、4月に高橋氏と乃至政彦氏の共著も出る予定だし、しばらく関ヶ原新説で楽しめると思う。

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2018年3月20日 (火)

謎の武将「亀井茲矩」

最近、関ヶ原合戦の新説に関わる西軍布陣図の中に、「亀井茲矩」(かめいこれのり)という名前を見た時、まず、これ誰?って感じがした。しかも「途中で家康方に寝返る」との説明が付けられていて、そんな人いたのかとますます謎に思っていたところに、雑誌『歴史群像』4月号に記事(亀井琉球守茲矩)が掲載されたので、一部をメモする。

 

通説では亀井勢は池田輝政勢らとともに南宮山の毛利勢に備えたとされるが、実際に従軍した島津家臣・山田有栄の覚書によれば、開戦直前、島津豊久勢に亀井勢が鉄炮衆の加勢を求めてきたとあり、これを事実とすれば、亀井勢は石田方として関ヶ原の戦場にいたことになる。また、山田は「のちに聞いたところでは、亀井茲矩には野心があったらしい」とも証言しており、事前に家康方に内通したうえで寝返り行為を行ったということになろうか。

 

戦後の論功行賞で茲矩は高草郡2万4200石を加増され、所領を一気に3倍近くの3万8000石に拡大させている。前述の「寝返り」も含め、それなりの功績を挙げたとみるのが自然だが、合戦前後の茲矩の動きを伺わせる良質な史料はなく、現状では江戸期編纂の二次史料によるしかない。

 

・・・やっぱり史料が少ない戦国武将のようだな。とはいえ、できれば亀井茲矩の寝返りが西軍敗北にどれくらい影響したのか知りたいものだな。

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2018年3月19日 (月)

「関ヶ原」、伊藤盛正の災難

天下分け目の関ヶ原の戦い。華々しい決戦の影で、2度も城から追い出されるという理不尽な目に合った武将がいる。大垣城主の伊藤盛正である。雑誌『歴史群像』4月号記事から以下にメモする。
 
慶長5年(1600)、石田三成が上方で、家康打倒を掲げて挙兵する。三成は西軍を率いて東進し、美濃垂井まで至ると、大垣の盛正へ使者を送った。
「西軍の本営として大垣城を借り受けたい。ついては、貴殿はただちに城を立ち退き、我らに明け渡されよ」
盛正は困惑しただろう。本営云々はともかく、立ち退けとはどういうことか。当然、彼は断った。
「かような形で城を開けば、天下の嘲りを招き、先祖を辱めることになり申す。この件、とてもお受けしかねる」
しかし、三成は頑として要求を曲げず、力づくで城を奪う姿勢さえ見せたため、ついには屈せざるを得なかった。

城を追い出された盛正は、領内に陣屋を築いて在していたが、しばらくすると、松尾山城へ移るよう命じられた。この城は関ヶ原の南西、平原を見下ろす小高い山の上に築かれており、上方へと通じる近江街道を抑える後方の重要拠点だ。
 
ところが、およそ一月後の9月14日。松尾山城の番を続ける盛正へ、ある西軍大名がいきなり、こう要求したのだ。
「この城を我が陣営とする。すぐに明け渡し、立ち退かれよ」
相手は秀吉の甥で、小早川秀秋といった。盛正は問答無用で追い出され、再び城を失った。
そして翌日、東軍と西軍が関ヶ原の地で激突した。盛正は、三成の部隊に属して戦ったが、その松尾山城の小早川秀秋が東軍に寝返ったことにより、西軍はあっけなく敗れた。
 
・・・敗戦の中で、かろうじて命を拾った盛正はその後、福島正則の家臣を経て、金沢の前田家で禄を食んだということだ。歴史の大きな波に翻弄された小大名の大いなる悲哀を感じるなあ。

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2018年3月18日 (日)

ブロントサウルス、「復活」困難か

昔からの恐竜ファンには馴染み深い「ブロントサウルス」。しかし、先に発見された「アパトサウルス」と同種であるという認識が次第に浸透して、今では「ブロントサウルス」の名前は使われなくなってしまった。ということは自分も承知していた。でも、最近この2種は別種だという説が登場した。ということを自分は去年の夏頃に知って、ブロントサウルス「復活」を期待していた・・・わけだが、『大人の恐竜図鑑』(北村雄一・著、ちくま新書)の解説によると、どうもそれも難しいらしい。同書から以下にメモする。
 
2015年になってブロントサウルスはアパトサウルスと違う!という論文が出た。これが正しいのならブロントサウルスの名は有効となり、復活する。

自分がこの論文を読んでみた限り、ブロントサウルスが有効という根拠はどうにも弱い。論文によればブロントサウルスが有効である根拠は、胴体を支える背骨にある。その突起の先端がそり返っていること。この違いに基づけば、たしかにブロントサウルスはアパトサウルスとは違う。ブロントサウルスは有効となり、名前も復活する。
だが生物の特徴はしばしば相矛盾した結論を指し示す。例えば論文が併記するように、これに反する証拠があるのだ。彼らの胴体を支える背骨には、骨を強化する板のような構造がある。この特徴に基づいて考えれば、ブロントサウルスはやはりアパトサウルスとなってしまうのだ。

私が思うに、取りあえず現状維持で良いのではないだろうか。つまりブロントサウルスはアパトサウルスのままで良い。少なくとも証拠がもっと増えない限り、二つを区別する必要はないだろう。
 
・・・という、結構冷静な結論となっているが、個人的には少々落胆するなあ。ブロントサウルス、何とか復活してほしいんだけどなあ。

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